そう、そして僕は時空を超えた旅人になる。

皆さんに優しさと癒やしをお届けできますように。By柊つむぎ

第4章~静かに聴いて、僕の声を聴いて~

2011-11-03 11:19:16 | 癒しの物語
 あの月夜から、何日がたっただろう。僕たちは、いつものとおり、普段の生活を送っていた。
 まりさんは怒りを隠し、待さんは、釈然としないままの安定感のある暮らし、カナコさんは相変わらず疲れた暮らしを送っていた。
そして、僕はカナコさんに養ってもらいながら、カナコさんの愚痴や独り言を聴く毎日を送っていた。
 
 夜は、月の光を浴びながら、僕達は音楽をよく聴いた。
彼女がクリスタルビーズにテグスを通し、一つずつ透明な世界を作っていった。
その間に、彼女達の世界は変わっていった。
まりさんは派遣の契約終了を言い渡され、本格的に仕事を探し始めた。カナコさんは、ついに体調を崩し、寝込みがちになった。待さんだけ、相変わらず頑張っていた。
まりさんから、職探しの話を聞きながら、カナコさんは未来への決意を固めていっているようだった。横たわって僕を撫でる指先に、着実に変化を感じ始めた。迷い、悩みが深まり、ここで契約終了したら、吹っ切れると言った。どうしようが彼女の勝手だけど、体の調子が気がかりだった。
秋の風が僕達を包み込む時、僕は皆の体に残った濁りを持っていってもらえないか願った。あまりにも、やりきれなかったから。
体の中からの綻びが、出てきている。長い間、隠していた痛み。三人三様の辛さ。
この痛み苦しみを新しい始まりに向けて、これらを新しい力に変えていけますように。
願う僕に、風は微笑んだ。大丈夫。あの人達は、立ち直るから。いや、今いる場所より高いところにいるわ…と。

第3章~タバコとティーセット~

2011-09-07 22:52:13 | 癒しの物語
 待さんが訪ねてから、一週間たった。思うことがあって、タバコを止めているそうだ。だからといって、イラつかない根性のある人である。
 待さんが来る日は、カナコさんは僕と一緒にいる時より楽しそうである。女性にとって、そんなに会話は楽しいものだろうか。どうとはない会話にしか聞こえない会話から疲れをとっていくのだろうか。取り敢えず痛い思いをしたくない、構われず、何もすることのない僕は、隣室に避難する。
 待さんは、ある有名な会社-海外でも知られるあの会社-で働いている。事務系の仕事をしている。つい最近まで煙草の匂いが染み付いた服を着て、今もって不注意に、僕にキックやパンチを浴びせる彼女が、である。
 あの頃持ち合わせた強運で、会社に入ったそうだ。会社という組織の中で歯車として自分が機能できていないと言った。おまけに遠方へ転勤した恋人と疎遠になりがちになってしまった。誰が横にいても常に抱える孤独感。独りで生きていく上でありがちなスパイラル。
 「つまり、誰といても一人で生きている感じなんだね」
ティーセットを出しながら、カナコさんは優しく言った。待さんはうなづいた。
 「どこにいても。誰といても。さみしい。私はどうしたらいいんだろう」
 そう言うと、彼女は涙をこぼした。わきでる涙は透明だった。こぼれる涙は、頬に一筋の流れができた様子を、廊下から見えても僕は見て見ぬふりをした。
 ああ、僕は今、待さんにシンクロしている。反発した勢いで、親兄弟から離れた僕。
 そう、それは、お母さんが死んで、暫くして新しいお母さんが来た時。
 皆が皆、気を遣い合っている様子を見た時、
 新しいお母さんが死んだお母さんによく似た目で、皆を眺める様子を見た時、
 死んだお母さんの席に、新しいお母さんが座った時。
 僕の中のいたたまれなさが、はじけた。


 僕はあの家を脱走した。

 白くて、大きな和洋折衷の家。シンガポールにありそうな。


 やけになって、ドアが開いたままのクルマに乗り込んだ。地道を走っている間、僕は転寝した。小刻みによく揺れて、気持ちが良かった。クルマの調子が悪くなったので、オーナーはクルマを停めた。そして、そこらにあったトラックに乗り込んだ。


 待さんは毎日のようにカナコさんの家にやってきた。ぼやいたり、愚痴ったり-あ、どれも同じか-、涙ぐんだり、笑ったりして、ひと時を過ごし、帰って行った。毎日、職場から持って帰ったごみをここで捨てているようだ。捨てて、落ち着いた顔をして、中庭を斜めに横切り、帰っていく。
 彼女は年上そうな女性を連れてきたこともあった。二人とは違うタイプだった。どこで知り合ったのか、わからない。その人は、まりさんと呼ばれていた。二人と違って、落ち着いた感じのひとで、より正確に言うと肝が据わっていた。やや色黒で黒目がちの大きな瞳の持ち主だった。この人も、カナコさん同様、派遣だという。理由はわからないが、自分を一生シングルのつもりらしい。契約から契約へと渡り歩く人生。肝が据わっているのは、都合の良い時だけ呼ばれる為なのか。
そんな寂しそうなプロフィールが冗談に思えるほど、彼女の言葉一つひとつが僕にとって、納得がいって、元気が出てくる。彼女に言わせれば、ストレスと涙の日々で、慢性的な睡眠不足に悩まされているという。
そんな人から、威勢が良くて、逞しくて雄々しいアンソロジーが生まれる不思議を思う。カラ元気がそうさせるのか。待さんもカナコさんも置き場のないやり過ごしようがない愚痴をこぼし、彼女は相槌をうつ。
そして、言葉の波が来る。うねってくる。


ひとは思想だ。気持ちだ。


今日の僕は、ゆっくりマボガニーの縁側に座り、月に照らされていよう、そう思う。
 僕は月に思いをはせる。遠い場所。遠い家族。

 
 僕はシングル女性の家に住んでいます。
 嬉しいこと楽しいこと面倒なこと。なんのかんのありますが、大事にされています。丸めこまれているだけかもしれませんが。
 僕はお義母さん、貴女を決して嫌ったわけではないのです。亡くなったお母さんとオーバーラップして、パニックになってしまったんです。僕はそれが恥ずかしかった。いたたまれなかった。辛くて家を飛び出してしまった。お母さんと同じとがった爪をして、丸くて少しつり気味の目の貴女をむしろ好きだったのかもしれません。
 大らかで優しいお父さん、新しい家族をどうにかまとめようとした兄さん、幼い僕を抱きしめてくれた姉さん。貴方達が僕に示し続けてくれた愛情は、今でも僕の宝物です。僕はこれがあるから、生きていけるのです。
 どうか、安心してください。僕は元気です。

 彼女たちは、ずっと話し続けていた。
 これからの人生。それにまつわる仕事、恋愛、友人や家族との関係。
 にっちもさっちもいかない人生。
 TVや趣味ではごまかしきれなかった、辛さ。
 どんなコメディより笑える話。作られた笑いより、突然沸き起こるおかしみというものもが、確実にあると知った。
 

 まりさんの力強い言葉に励まされ、癒された僕達は眠りについていた。いろんな食べ物や飲み物、アルコールのすえた匂いが満ちた中で、いつも以上に心地よい眠り。自分の根幹を探し当てた安心感。
 晴れた朝は、いつも埃っぽい。長屋の庭から、道路から、遠慮なく埃や塵が入ってくる為だった。
 まりさんは中庭の向こうに、帰ってしまっていた。中庭を越えずに、二人だけが残っていた。
まりさんがいない朝。
 はれぼったい目をして、二人は起きてきた。ちゃんとパジャマ(と思えるもの)を来ているので、こころもち安心する。
 そして、二人は、朝食を用意し始める。鬱々とした空気は消えていた。

 僕はそっと中庭を越えて、中庭の住人たちに声をかける。
 僕がここに住みだしてからの知り合いだ。
 「まりさん、ちゃんと帰った?」
 
 彼らは食事中だった。戦後に切り倒した大木の切り株をテーブルがわりにしていた。
 僕もテーブルの前に座る。
 「帰ったよ。というか、今、家を出たばかり。今頃、出勤中かな、もう、着いたかな。」
 休日出勤だと言う。気の利かない会社だとか、不平等とか、理不尽な目に遭わせるとか、あれほど、悪口を言っていた会社なのに。辛くて、病気になりそうなくらいなのに-実際、そうだった-、なぜ休日に出勤するんだろう。
 「嫌とは言えないんだよ。ああ見えて、はっきり断れないから。ほかの人がいないところでひっそり働いているよ。」
 彼らは、皿を置いて、空を見上げる。僕もつられて、空を見上げる。青くて、気の弱そうな空。
 まるで、まりさんそのものだ。一瞬にして、雲が覆い、雷が吠え狂う。いろんなひとがいろんなことを言ったりしても、泰然としているように見える。

 まりさんも疲れているのかな、僕はつぶやいた。疲れているよ、君の家の主だって、待さんだって、疲れている。理不尽な流れに流されまいとして、一生懸命だったんだ。今、態勢を立て直すつもりなんだろうね。僕はうなづく。

 コーヒーカップの音がここちよく聞こえる朝だった。おなかいっぱいになった僕達は、またねと家に戻った。
 
 
 

第2章~現在と未来~

2011-09-01 07:21:37 | 癒しの物語
 カナコさんがどんな人生を歩んできたか、どんな生活を送ってきたか、僕はよく知らない。もしかすると、聞いたものの忘れてしまったのかもしれない。
 僕が確実に知っているのは、現在形の彼女だった。ご飯を作る後ろ姿、毎朝見せる通勤姿。泣きはらした待さんの話を聞きながら、一緒に涙ぐむ顔。ニュースを見ながら、理不尽さに小さく怒りながら独り言を展開する魚を思わせる顔。
どれも彼女だ。今を生きている彼女の姿。

 僕達は出会ってから、夢を語り、現実のピースをつなげていった。

 彼女は派遣社員で、休日には写真を撮ることが好きだった。本気で写真集を自費出版するつもりらしい。休日になれば外出し、世界から彼女の世界を切り抜いた。平日には夜空と僕の写真を撮った。
 カナコさんに言わせると、夜行性(らしい)僕と星空の組み合わせはとても良いと語った。僕のまるくて少し切れ長の目は、夜の妖精が持つ遠い世界の羅針盤だとも。だから、僕の画像は昼間に見るより夜が良い、いつ眺めても良い昼から夕方の街並みが良いと。
 押収品に見えなくもない床に並べられた彼女の写真。その間を気をつけながら歩く。写真は僕の知らなかった世界をたくさん教えてくれる。この写真以上に僕達は近寄りたい。知り合いたい。理解しあいたいと思いながら。
 そして、僕達の間に物語が横たわっている。地球という惑星の前に、太陽や月が現れて、僕達を照らす。


スワロフスキーと丸小ビーズで作った指輪。

 そんなスケールで考えると、僕とカナコさんが出会えたことは、まさに奇跡だと思う。彼女は僕の目を羅針盤と言ったけれど、その羅針盤は出会うために機能したのかもしれない。しぶきをあげる時間の波に、運命という大きな帆船に乗った僕達。
 そう、僕達は永遠に旅をし続けていく。時間を超えて、ひたすらに。


 太陽の光が強いほど、影が濃いのと同じで、カナコさんは笑顔の鮮やかさとともに、心の影を持っていた。
派遣として、カナコさんは存在感を消していた。本来は発注された商品をフォーマットに入力したり、電話やファックスで在庫照会について回答していた。コネもなく、取り立てて能力がない彼女は地道に仕事をしていくことを特技として、日々の収入を得てきた。美味しい仕事をした後は雑談に興ずる同僚の横で、一部の人から地道に働くよう、仕分けされた。そして、それはいくら働いても、上の人には決して認められない意味を示す。人の役に立ちたいと思いながら、なかなか叶わない思いと共に。うまく立ち回れない自分への苛立ち。
根腐れしそう、と呟いた。今、辞めたら、契約途中になる。それは私の性分に合わない。このまま、こらえるべきかな。彼女に、辛い気持ちはよくわかるよ。湿気の多い暗くて、埃っぽい部屋に閉じ込められた感じ。二度と日を見られない焦り。彼女は頷いた。
今はしんどい。辛い。だけど、頑張る自分を信じて。一発逆転がくるかもしれない、その時に備えて、力をためておこう。僕は、そう言った。
「あなたもそうだったの?」カナコさんは僕に腕を伸ばしながら、尋ねた。
そう、僕は頷いた。そして、部屋から飛び出した。それから、冒険の連続だった。橋を飛び越えて、ビルからビルに移った。暗くて、湿っぽい優しさの欠けた日常から逃れる為に、もっと良い明日を探す為に。
彼女が僕の冒険に耳を傾け、情景を心に浮かべようとしていた。
長い冒険の最後は、ブドウ畑がある街だった。その街で今まで乗っているトラックは止まると感づいたので、別のトラックに乗り移った。その瞬間、見上げた空に緑の絨毯が舞った。
そのトラックは、今、僕とカナコさんが住む街まで夜を超え朝を超えて走った。

あれが、ブドウ畑だと知ったのは、カナコさんの部屋にあるテレビの画像を見た時だった。


力をためておくわ、彼女は僕の目を見ながら言った。偶然か、彼女の好きな曲がかかっていた。 「この曲好きよ。愛らしくて。」そう言った時に、僕の上に、あついものが落ち、瞬時に胸元を冷やした。君は今、灼熱に満ちた船の上にいるのか。それとも、順々に体を冷やす雨に打たれているのか。僕は彼女の胸に耳を当てた。
愛らしい旋律は二人が共有する時間、空間の中を可愛らしく跳ねる。
彼女は泣きはらした目元をこちらに見せた。僕の目が羅針盤に見えただろうか?
僕の目が自分が羅針盤になり、同時に彼女の災難の避雷針になりたいと思った。
僕に落とした涙は、彼女の頬を熱く、瞬時に冷やしているに違いない。僕は涙と共に、君の気持ちを掬い取りたい。でも傷は、なめない。傷をなめあう関係はさみしいだけで、何もならない。君自身で癒していくんだ。
 言葉以上の言葉を投げかけながら、彼女の頬に近寄っていった。

どれだけ眠っただろう。いつもと同じドアの音がした。トーストの香り。ハンガーの音。
「夕べはありがとう」 確かな、そして僕を安心させてくれる声。ドアの隙間から。うん、と頷いて、僕は再び眠りに就いた。

第1章~月が見える頃~

2011-08-01 12:56:23 | 癒しの物語
 久しぶりに月を見た。まるい形の月。
 僕がこの家の人に拾われて、初めて見る…いや、正確に言うと、居着いてから初めて見る月である。随分久しいように思う。
澄んだ夜に浮かぶ月は、輪郭がはっきりしていて、美しさを放っていた。
 「ご飯ですよ」
カナコさんがわざわざ縁側まで、ご飯を運んでくれた。ご飯は、いつも美味しい。彼女は、いつも一工夫をこらしている。そして、美味しい。
 カナコさんは優しい人だ。いつもあたふたして、よく転びそうになっているけど、周囲にはとても優しい。決して美人じゃないけど、笑顔はわるくない。 彼女が笑って口角を上げる時、雨上がりの空気を照らす日の光を思わせた。すべての色彩が濃く輝く。
今日は縁側で食べるの?カナコさんは訊いてきた。うん、今日は涼しいから、そうする。僕は答えた。
彼女は、めったに見ないほどの不器用なひとだった。危なっかしい手先。目を覆いたくなるような世渡り下手。こんなに痛い人は、生まれて初めて見る。以前、一緒に住んでいた人は、本当に器用な人だった。目の前にいない人と比べてはいけないことは、承知しているけれど。
 そんなことを考えながら、古びた縁側で、並んでご飯を食べる。時折、月を見上げる。プラチナ色のまるいお月さま。僕達をどう見ているんだろう。


 「まだ帰らなくていいの?」
 ご飯をほぐしながら-彼女は僕以上に猫舌で-訊ねた。
 「まだ帰らないよ、一度決めたことだから。悪いけど、当面ここにお世話になるよ。ごめんね。」
 構わないよ、彼女はそう言って、縁石の上のサンダルに足をかけた。
 「星が綺麗」彼女は、独り言を呟いた。僕は頷いた。
 突然やって来た僕という存在。彼女は今まで、それ以上に疲れているかもしれない。多分、邪魔な存在。にも関わらず、優しくしてくれる気の弱さ。僕はそこに甘えている。


 初めて彼女に出会った日も、月が美しい夜だった。
 彼女が洗濯していて、一瞬ガラス戸が開いた時、僕は入り込んだ。一人暮らしの洗濯物の小山をすり抜けて。洗濯機のモーター音が微かに響く中、彼女は座り込んでいた。月の光と街灯は、混じり合って彼女の顔を照らしていた。
疲れてくたびれてしまった弱い気持ちと優しい気持ちに甘えて、彼女の腕の中に入っていった。
あれから僕達は、言葉以上の言葉を交わしてきた。将来の夢、不安。今の立ち位置。言葉にできない言葉は思いに変えて、思いにできない思いは言葉に変えた。
でも。時々、僕は思う。
 親子でもない、姉弟でもない、僕達の感情は、このままピンで留められる訳でもなく、砂塵に流されてしまうのだろうか?
思いも言葉もいずれは忘れ、すたれていく。僕達が紡いだ思いはどこへ行くんだろう?どこへ消えゆくんだろう?
 僕達は、そのまま冬の夜空は見つめていた。月と星が美しく光を放ち、何かの工芸品に思えてくるほどだった。
 きっと、僕は不安を強気に変えて、生きていく。今の辛い気持ちをどこかに追いやって、取り敢えず楽しく生きていく。それも悪くない。きっと、その方が胸の痛みもなく生きていける。でも、その前に誰かに大丈夫だ、心配ないと誰かに言ってほしかった。背中に手を当ててくれる、誰かがいてほしいと思った。
 その誰かはただ一人。彼女しかいなかった。

長屋を改造したカナコさんのお家-正しく言えば、改装した小さな借家-に、呼び鈴が鳴ったのは、それから暫くたってからだった。隣の待さんだった。
 待さんは、カナコさんより幾分若い女性である。明るい茶色の髪。やや切れ長の瞳、そして瞳をふちどる黒いまつげとアイライン。珊瑚色の薄い唇。今時の女の子、という感じがする。そして、少し疲れ気味。
 入っていい?と待さんは、カナコさんに尋ねた。双子の姉に言うように。いいわよ、と双子の姉は答えた。 
 まだ、あの居候いるの?そう言いながら、僕の前に座った。居候とは僕のことだ。いつも失礼な人だ、と僕は思う。
 煙草吸うね、ライターの音を小さく響かせて、白い輪を小さな輪を小さな部屋に放った。
 今日で煙草を吸うのをやめるんだ。軽めの宣言をした。そして、細くて長い脚を僕のほうへ投げ出した。この人が来た時には、最新の注意を払わないといけない。顔面にドアを当てたり、縁側で花火を楽しむ最中、その火花をいきなり浴びそうになって、死ぬ思いをした。
 悪い子じゃないのよ。カナコさんは僕が痛い思いをするたび、優しく手当てをしながら、慰めた。なめらかな手先は、いつも尖らせている神経をなだめてくれて、僕は怒る気になれなかった。
 いろいろあって、大変なのよ。あなたもわかるでしょう?大人だから。勿論、自分が辛いからといって、他の誰かに嫌な思いをさせるのは筋違いだってことくらい、彼女だってわかっている。ただね、所作とかそんなものが雑なだけ。
 シスターを思わせる目元に丸めこまれてしまう僕だった。清冽な大きな瞳に引き寄せられ、たたみこまれて、うなづくしかなかった。
 ああ、やっぱり、僕はカナコさんが好きなんだ、いつもそう思う。だからと言って、痛い思いはいやだけど。

 それから、何時間彼女たちは語り合っただろう。その間に丸い月に煙が傾き、広がり、散っていった。夏にしては涼しい夜で、僕は共有の庭にある庭石を飛び越えては、遊んでいた。

 
 遅くまでごめんなさい、どこかで聴いた声がした。待さんの声だった。いつもと違って、張りがある大きな声なので、別人かと思った。
 カナコさんの声はよく聞こえなかったが、何か言って返す温かい優しい口調は間違いなく彼女のものだった。
 「アンタ、じゃましてごめんね。予想よりカナコさんと喋ってしまった」
 いつどうなってもおかしくないほど古い木製のサンダルの底を鳴らしながら、待さんは言った。
 「話して何が解決するわけじゃないけど、何だか気持ちが落ち着いてきたよ。八方塞の状態に風穴が開いたというか。じゃましたね」彼女は疲れを話をする途中で、どこに置いてきたのだろう。それとも、通りゆく風に任せたのか。
 ぐらつかせながら、彼女はすぐそばの自宅まで帰っていった。
 「じゃましたね」不遜な彼女が呟いた言葉を、僕はもう1度呟いてみた。

 彼女が帰ってから、減った人数より空いた部屋に戻った。月がマボガニー色の部屋を暗く照らしていた。
 僕とカナコさんは、窓際から夜空を眺めた。その深い闇は、終わりゆく夏のものだった。
 夜空は漆黒だった。
 銀の刺繍を施された黒いベルベットだった。

 なんてうつくしいんだろう。
 なんてしあわせなんだろう。
 今、僕は美しさと幸せと両方味わっている。ゆっくりと眼を閉じた。
 彼女の柔らかさを背中に感じながら、僕は至福を感じた。

 薄い朝の霧に包まれて、いそぐ足音で眼が覚めた。いつもよく聞く朝の音の一つ。
 カナコさん、出勤するんだな。遠く小さくなっていく足音。微かに残るトーストの香り。いつもと同じはずなのに、毎朝が新鮮にいとおしいものたち。僕達の間にあるパーツ。このパーツが幸せと幸せをつないでいくんだ。
 僕は再び眠りについた。彼女が平和で過ごせますように。願いながら。