TEAM HAYASAKA

昭和の日 広島陸軍被服支廠

2020.4.29(水)昭和の日
外出自粛が続いている。先週の土日は家で過ごしたが、さすがに今日はたまらなくなり、三密を避けて少し散歩をする。
人との接触は避け、ソーシャルディスタンスは当然キープする。

現存する被爆建物のひとつである広島陸軍被服支廠へ行ってみる。

出汐倉庫と呼ばれている広島市南区出汐にある旧陸軍の被服廠の施設。
軍服や軍靴、マント・帽子・手袋・背嚢(リュック)・飯盒などを作っていたそうだ。
現存する建物だけの大きさを見ても、軍都広島ならではのスケールである。

1945年の原爆投下で広島市内が壊滅状態に陥ったが、ここは爆心地から2.7㎞離れており、建物が頑丈であったこともあり焼失や倒壊を逃れ、救護所として使用された。
そして多くの被爆者の方がここで亡くなった。
戦後は校舎や庁舎などに転用され、現在は4棟のみその姿を残している。1棟は中国財務局(財務省)に、残る3棟は広島県に所有権がある。


レンガ壁で大正ノスタルジーを感じさせ、とても魅力ある建物である。建築史上も日本最古級のRC造であるらしく、重要な建物である。
しかし建築後100年以上経過した建物であり老朽化が激しい。地震で倒壊する可能性が高く、現在は立入禁止になっている。
日本最古級のRC造から始まり、軍都広島の被服廠として日本を支え、戦後も校舎や庁舎・倉庫など様々な形で転用されてきた。

このような歴史を辿ってきた建物であるが、その歴史的価値が忘れ去られたかのように、今はただ立入禁止エリアの中で原爆の痛みを内包したまま、静かに佇んでいる。

そして、4棟のうち1棟を残して解体するか全棟保存するかという議論は、いまだ平行線である。

このあと、近くにある広島大学医学資料館へ
このあたりも、兵器支廠が多くあった。
ここは復元されたもの。

最後は平和記念公園を歩いて帰る。

時代は平成から令和へ
そして忘れてはならないのは昭和である。

昭和という時代に蔓延った自虐史観を捨て、
一部のマスコミに操作されることなく、

令和という新時代に、

自らほんとうの正しい日本の歴史を勉強して、
日本人としての誇りを取り戻さなければならない。

昭和の終わりという時代は、日本人の誇り高きアイデンティティーのひとつである<慎ましさ>が、世界基準では逆に仇になるということを教えられた時代でもあった。

広島陸軍被服支廠もその慎ましさゆえに「もの言わぬ被爆者」と言われている.。
そして、今は行き場を失っている。

1棟残すか全棟残すかという議論ではなく、戦争や原爆の痛み、軍都広島が果たした役割など歴史の大切さや教訓を後世に伝えることを目的とするならば、まずは人が来るような場所にすること。
ノスタルジックなオシャレ建築物の中に、例えばレストランやカフェ、マーケットプレースなどを併設し、実際は建物から感じるエッセンスを吸収してもらうことで歴史を認識する、というような新たなパブリックスペースを生み出すこともひとつの手法として考えられる。

当然、建物の耐震改修費用が莫大にかかること、隣接地が学校や住宅であるということ、駐車場の確保など山積する課題はあるにしても、仮に2棟を壊して駐車場を確保するなど、創意工夫を持った議論で被爆支廠が「語りかける被爆者」として生まれ変わることを期待する。

2020.4.29(水) 昭
和の日

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