シュタイナーが重視する「死者との交流」が、存在論と関連するというのは予測出来る話である
死者とは何か?
この世に存在として現れるものを支えるもの
と仮定すると
たとえば言葉は、その橋渡しをするもの
霊視、霊聴、霊的合一の意味もイメージ出来る気がする
存在論を深く考えている人が、死者との交流について話し始めるのはなぜなのだろう?
物語という場がある
そこで存在の想いに出会う
死者と出会う
以下
若松英輔氏著
「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」より
文学とは、不可視な実在に、肉体の言葉を与えることである。
……
池田(晶子)は、こうも書いている。
死者の思い為しを生者は生きている
死者に思われて生者は生きている
したがって、生存とはそのような物語なのである
「リマーク 1997-2007」
死者のために生者が生きるのではない。
むしろ、生者を支えているのが死者なのである。
死者は、生者の沈黙のうちに顕れる。
死者との対話は沈黙の「言語」によって行われる。
沈黙の言葉、この矛盾する表現が現実になるような空間を、私たちは誰もみな内に秘めている。
それは昔から、多くの文明を通じて魂と呼ばれ、不死であることが繰り返し論じられてきた。
死者とは何か?
この世に存在として現れるものを支えるもの
と仮定すると
たとえば言葉は、その橋渡しをするもの
霊視、霊聴、霊的合一の意味もイメージ出来る気がする
存在論を深く考えている人が、死者との交流について話し始めるのはなぜなのだろう?
物語という場がある
そこで存在の想いに出会う
死者と出会う
以下
若松英輔氏著
「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」より
文学とは、不可視な実在に、肉体の言葉を与えることである。
……
池田(晶子)は、こうも書いている。
死者の思い為しを生者は生きている
死者に思われて生者は生きている
したがって、生存とはそのような物語なのである
「リマーク 1997-2007」
死者のために生者が生きるのではない。
むしろ、生者を支えているのが死者なのである。
死者は、生者の沈黙のうちに顕れる。
死者との対話は沈黙の「言語」によって行われる。
沈黙の言葉、この矛盾する表現が現実になるような空間を、私たちは誰もみな内に秘めている。
それは昔から、多くの文明を通じて魂と呼ばれ、不死であることが繰り返し論じられてきた。