雨の記号(rain symbol)

急成長する生活文、衰弱する小説

 同人誌仲間の小説を読む。この一冊は友人から寄贈されたものである。
 難病に冒された主婦を主人公にした家族小説である。彼女は障害を持った幼子を持つ男性と結婚し、子供を生む。しかし、彼女自身も筋無力症という病に冒されている。
 こういう身体で子育てをしていけるのか。絶望的な境遇に置かれながら、家族四人で必死で生きていこうとする物語である。
 じつにていねいに描かれていて、ここから得られるものは多い。いや、教えられることばかりである。
 病気に冒され、障害を持った者の話は、大きな現実問題であるから、批評はじつに難しい。それが創作というようなものでなく、実際の話として描かれたとなればいかなる批判も有効とはならないからである。
 したがってこの種の作品は小説としての出来栄え云々は前面に出てきづらい。
 よって読むという行為で大半は役割を終えるということになる。
 この種の作品を読む時、それを主題としてすえてある時、僕は批評の気持ちを持っては読まない。そういう読み方は悪いような気がするからである。
 今、この小説を半ばまで読んだ。ずっと読み進めてくるうち、小説というより体験日記のように感じられてきた。
 細部をじつにていねいに追いかけて描いているからである。そのていねいさが逆に小説性を奪っているとさえ感じた。
 今日、書くためのツール(パソコンやワープロ)が充実してきた。気軽に書けるということが、小説と生活文の境界をなくしてきつつあるように思える。
 いや、小説の衰弱が生活文の台頭を許しているのかもしれない。
 どのように小説の世界に踏みとどまるか。小説を書きながら常にそれを念頭に置いておかなければならない時代のようである。
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