「信仰」なんて!と、なんでも疑ってしまう自分を振り返ってみる。よくはわからない。
でも、素直に信仰できたらどんなにいいだろう。
無心に阿弥陀如来の本願を信じたい。
親鸞聖人は、何の疑いもなく、信じることで、自分は救われたと仰る。
自分は、ただただ、弥陀の本願を恃むことで、この辛い人生をいきる力を与えられたのだと。
弥陀の本願をありがたく頂いた時、つまり、信仰があって、はじめて、この世を、命ある限り、
楽しく過ごすことができると仰るのだ。
聖人は、「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」と教行信証冒頭
で高らかに謳われ、阿弥陀如来の本願に帰依された。こころからの喜びの気持ちと感謝の念を伝えておられる。
阿弥陀如来とは、親鸞聖人によれば、無量寿如来であり、無碍光如来であり、不可思議光である。
すなわち、この大宇宙そのものである。
「如来」とは「ありのままの真実からきたもの」つまり、「真実の姿」ということである。
「ありのままの真実に到達した人」のことであり、仏の尊称である。
大自然の法。大自然の真理。
自然法爾。「あるがままの姿」、すなわち、「真理」をそのまま受け入れる喜び。このなごやかな気持ち。
大自然、この不可思議な力に、すべてを任せて生きるあの喜び。 これが信じるということ。
「信仰」についていろいろ考える。もっと、もっと、勉強しなければいけない。
子供や若者がお寺に来ることを楽しみにする。前住職はそんな日を夢見ていたのだろうか。
2011年4月20日 水曜日 0時50分記す
でも、素直に信仰できたらどんなにいいだろう。
無心に阿弥陀如来の本願を信じたい。
親鸞聖人は、何の疑いもなく、信じることで、自分は救われたと仰る。
自分は、ただただ、弥陀の本願を恃むことで、この辛い人生をいきる力を与えられたのだと。
弥陀の本願をありがたく頂いた時、つまり、信仰があって、はじめて、この世を、命ある限り、
楽しく過ごすことができると仰るのだ。
聖人は、「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」と教行信証冒頭
で高らかに謳われ、阿弥陀如来の本願に帰依された。こころからの喜びの気持ちと感謝の念を伝えておられる。
阿弥陀如来とは、親鸞聖人によれば、無量寿如来であり、無碍光如来であり、不可思議光である。
すなわち、この大宇宙そのものである。
「如来」とは「ありのままの真実からきたもの」つまり、「真実の姿」ということである。
「ありのままの真実に到達した人」のことであり、仏の尊称である。
大自然の法。大自然の真理。
自然法爾。「あるがままの姿」、すなわち、「真理」をそのまま受け入れる喜び。このなごやかな気持ち。
大自然、この不可思議な力に、すべてを任せて生きるあの喜び。 これが信じるということ。
「信仰」についていろいろ考える。もっと、もっと、勉強しなければいけない。
子供や若者がお寺に来ることを楽しみにする。前住職はそんな日を夢見ていたのだろうか。
2011年4月20日 水曜日 0時50分記す
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます