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記録・雑感

熊野詣

2011年04月19日 | 宗教
  「信仰」なんて!と、なんでも疑ってしまう自分を振り返ってみる。よくはわからない。
  でも、素直に信仰できたらどんなにいいだろう。

  無心に阿弥陀如来の本願を信じたい。
  親鸞聖人は、何の疑いもなく、信じることで、自分は救われたと仰る。
  自分は、ただただ、弥陀の本願を恃むことで、この辛い人生をいきる力を与えられたのだと。

  弥陀の本願をありがたく頂いた時、つまり、信仰があって、はじめて、この世を、命ある限り、
  楽しく過ごすことができると仰るのだ。

  聖人は、「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」と教行信証冒頭
  で高らかに謳われ、阿弥陀如来の本願に帰依された。こころからの喜びの気持ちと感謝の念を伝えておられる。

  阿弥陀如来とは、親鸞聖人によれば、無量寿如来であり、無碍光如来であり、不可思議光である。
  すなわち、この大宇宙そのものである。
 
  「如来」とは「ありのままの真実からきたもの」つまり、「真実の姿」ということである。
         「ありのままの真実に到達した人」のことであり、仏の尊称である。

  大自然の法。大自然の真理。
  自然法爾。「あるがままの姿」、すなわち、「真理」をそのまま受け入れる喜び。このなごやかな気持ち。
  大自然、この不可思議な力に、すべてを任せて生きるあの喜び。 これが信じるということ。

  「信仰」についていろいろ考える。もっと、もっと、勉強しなければいけない。

  子供や若者がお寺に来ることを楽しみにする。前住職はそんな日を夢見ていたのだろうか。

                                      2011年4月20日 水曜日 0時50分記す



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