Free-Diary

記録・雑感

宗教について

2011年04月11日 | 宗教
40歳になった時、ひとまわり年上の先輩教員に聞いたことがある。「40代と50代では考え方や感じかたにどんな違いがあるのか?」答えは「50になると、死を考える。」であった。

 当時、身近な死に関する体験といえば、先ず、家族の死である。弟の病死は小学校にあがる前である。
 つぎは小学校5年の時、1945年、昭和20年のことである。その前年、1944年、母は出産したが、産後の肥立ちが悪く、腎炎を発症した。母乳は出なかった。飲ませるミルクも入手できず、赤ん坊には「おもゆ」をのませざるを得なかった。生後6ヶ月、妹は栄養失調で死亡。それから2週間後、父が疎開先、父の実家の納屋で亡くなった。

 父は、当時、下関駅の一つ手前の幡生駅に勤務していた。若い男性駅員は、戦争で、全員招集されて不在だった。駅員は勤労動員された女子学生だけだった。幡生駅の助役だった父は、すぐ近くの官舎住まいなのに、帰宅する事が出来なかった。幡生駅は旅客列車、貨物列車が途切れることなく発着する、山陽線、山陰線の分岐点である。貨物を行く先ごとに振り分ける大操車場があった。駅長は操車場におかれた執務室で全体を統括し、父は不眠不休で、幡生の本駅で陣頭指揮をとった。やがて過労のため、洗面器いっぱいに吐血した。結核による喀血だった。2年後、40歳で死亡。が、その時、私は泣く事はなかった。

 父との別れで、寂しさ、苦しさを味わうことはなかった。幼かったせいであろうか。20年前、56歳の時、母との別れがやってきた。母の死は、受け入れ難く、半年ばかり、涙が枯れることはなかった。人がいないところでは、声をあげて泣きじゃくった。

 そして、死がすべての人に、必ず、おとずれることを、体が思い知った。知識としてではなく、感t覚が死をとらえた。以来、死を自分のことして、真剣に考えるようになった。ごまかすことなく、正面から、死と向き合おうと思った。
 思えば青年のころ、真剣に、死を見つめることはなく、真剣に、考える事はなかtた。
 
 小学校以来の長い付き合いの友人がいた。親しい友人だった。寺の子供だった彼は寺を継いで住職となった。友人だからよく遊んだ。よく話した。ただ、彼の話で理解できないことがあった。かれは言った。「親鸞聖人、阿弥陀如来への信仰なくしては、自分は生きていけない」
 小さい時から、寺で遊び、お説教もいっしょに聞く事もあった。が、私自身は親鸞聖人も阿弥陀如来も無縁だった。
 大学生になってから、京都や奈良のお寺によく行った。仏像を見たり、枯山水の庭園を好んで見て廻った。龍安寺、苔寺(西芳寺)は特にお気に入りだった。龍安寺の手洗い、つくばいをくりぬいた言葉、「吾唯足知」 について、彼と熱い議論を戦わしたこともあった。しかし、私にとって、京都、奈良の寺院は、心の癒しにはなっても、所詮、観光の対象でしかなかった。
 最近になって、寺がふところの奥深く秘めている不可思議な力に気がつき始めた。これから、その力について考えていきたい。
 2011年3月11日、14時46分。未曾有の天災、地震、津波が、東日本を襲った。その上更に、人災、福島原発第1号機が、炉心部溶融(メルトダウン)を起こした。1ヶ月経った今なお、治まる気配の無い大災害である。東日本大地震、津波、福島原発爆発による放射能漏洩、垂れ流しにより、大気、土壌、海用汚染がひろがりつつある。この大事故を乗り越える力を、寺は国民に与えることができるか。今、仏教の正念場が問われる。
 今日はもう疲れた。またこの続きを考えよう。今夜はもうお休みだ。
                                               2011年4月12日深夜記す

最新の画像もっと見る

コメントを投稿