昨日の投稿で告白した通り、3つの忌まわしいキーワードで、その後60余年の人生に暗い影を落としたというトラウマ的存在デス。。
「ニーチェ」
「ツァラトゥストラかく語りき」
「神々は死んだ」
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以来、仏文の世界、仏文科の学生には、条件反射的に畏敬と尊敬の意識が全開になり、3年時には、淡い恋心をもった仏文科生には、ようやく漕ぎ着けた喫茶店のデートで、今度は「サルトル」「実存主義」「カミュ」「5月革命」「カルチェラタン」のキーワードでまくし立てられ、結果、不肖kazanにの深層には消し難い「バリア」が形成されたという不幸な原体験があります。
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それ故に、昨日の切り抜きのような画像は、おそらく術後の意識不透明なkazanの心のヒダが勘違いしてか、あるあいは、トラウマ的劣等感が、思わずスマホにスクショを残させたものに違いありません。
このキーワードをサラリと挿入して、文章を構成できる人には、近づきがたい重圧を感じ、たとい、それが文章でも、所謂「位負け」を感じるのが常です。。
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林房雄を、プロレタリア作家から転向した作家で文芸評論家・林房雄として昨日は取り上げたのですが、位負けした保守系サンピンには、「大東亜戦争肯定論」という響きは、あまりに心地良いし、心地よすぎます。
この数年の間、ヴェノナ文書 の存在を日本に紹介した江崎道朗氏は、精力的に、大東亜戦争の仕組まれた背景と事実を自身の著作や、ネット空間で発信されています。
それだけに、転向作家が、まだ三島由紀夫が健在の時代(おそらく1960年代中期前)に「大東亜戦争肯定論」を発信されたことには、三島由紀夫氏同様、今の時代の先駆者のような存在感すらを意識させられます。