通常は、自分の心の奥が自分で理解することができるものです。
水を飲みたいから水を飲む。
水を飲んでいるのだけども、自分が水を飲みたいのかどうかわからない。
水を飲んでいるが意識をしていない。
通常は、そんなことはありえないのです。
行動には必ず、心が伴います。
心を伴わない行動があるとするならば、
何も考えずに義務として行う場合。
考えると、自分自身が嫌になるから考えないように自分の心を塞いでいる場合。
何が起きても、タンタンと行動ができることは、
ある意味素晴らしいことでしょうが、
それでは、神様は動かないのです。
そこに「感動(神動)がないからです。
感謝がない人は、「神者」になることはできないと話していますよね。
歓喜のない人は、「神喜」、神様が喜ばないのです。
人には、感情があるのです。
感情は「神情」、神様の情けです。
感情のない人は、ロボットや蝋人形。
魂や心を奪われてしまっている状態です。
だから、どんな艱難辛苦にも耐えられます。
心の痛みや悲しみ、苦しみを抑えていると、病気になります。
話さないと、離れることはありません。
ずっと、なぜ心の奥が見えないのだろうかと考え続けてきました。
心も魂も捨てる決意をした人には、心の奥を見る必要がないのです。
そういう人の存在が、取り巻いているということです。
氷川神社でしたお詫びと報告は、
新しい道を開いてくれました。
12月4日のセミナーで解説を行おうと考えています。
今日は、心も魂も捨てる決意をした人の
心がほんの少しだけですが、わかって泣きました。
全ては人の責任です。
人類って残酷です。
潜在意識さん、教えてくれてありがとうございます。