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私の原点

2007-03-16 | ともを愛す...友愛
機関紙「友愛」416号/1996.5.10

平成8年を友愛元年に!
時代の指針を考えよう 友愛は何をすべきか?

 時代が泣いている。どこへ向かうべきなのか、あるいは向かわないべきなのか。しかし、何かをやらなければ、何も変わらない。この気分の悪さも、閉塞感も…

社会が何かを求めている
 こんな時代だからこそ、青年団体は、しっかりとした『理念』を持ち、それを社会に訴えかけ、活動していくことが必要であろう。
 ここに『友愛』という言葉がある。それは普遍的な言葉である。そして、いつの時代にも通用し、語感からは誰もが共通したイメージを感じ取れる言葉である。だが、言葉であるがゆえに、それをどのように解釈し、今の時代に生かしていくか?が要求されている。
 友愛青年連盟という団体が40年の歴史を刻み、時代とともに歩んできたが、改めてここで『友愛』とは何か、そして友愛という言葉を掲げる団体は何をやるべきか?を考えるべきときにきている。活動目的に「友愛社会の実現」という目標を持つ団体である以上、常に「友愛とは何か」という問いかけをしながら進んでいくことによって、その先に友愛社会というものが見えてくるのだろう。
 この新聞を手にしている皆さんは、「今の時代こそが『友愛』というものが必要とされている!」という共通の思いを持っていると考えたい。だから…
 以下に、皆さんと考えていきたいこと、今後も「友愛とは何か?」を考えながら、社会の中において、友愛はどんな働きかけをしていくことが必要なのかを記述したい。
みんなが『幸せ』を感じられる「より良い社会」作りを目指して
 友愛はメンバーシップ団体である。活動においては、基本的には会員がやりたいことをやりたいようにやる、やることが出来るのが、原則である。営利団体のように売り上げを伸ばすというような明確な目的を持っていない。逆にいうと、色々な人間が参加し、目的や方法(やること・やり方など)が種々雑多であればあるほど、お互いが賛同し、共通に持っている根本的な考え方、『理念』を持って、活動していかなければならない。
今、日本中が色々な面で、時代の閉塞感で満たされている。何か、出口を求めて長い長いトンネルを歩いている感がある。それは何故か?
 第二次世界後、失われた価値観と大きな傷を負った社会のシステムの中で、『進歩』ということへの追及、「昨日よりも今日、今日より明日が常に新しく、良い状況でありたい」ということが、社会全体の第一義的な目標となった。そして、常に『変わらなきゃ』という強迫感に囚われ、昨日と今日の違いが分かり易い、数字で表現できる経済的な充足感を満たすことを目標とした。

「進歩がすべて」の時代の終焉
 社会全体では、世界の中での経済力のアップ、個人的な生活レベルでは、ほぼ10年周期で変わる「三種の神器(例えば、3つのC「カー・カラーテレビ、クーラー」など)を持つことが個人的な満足と考え、新しい三種の神器を再生産しながら、常に前進することを図ってきた。しかし、進歩した状況の理想とした、そのお手本だった欧米諸国に追いついたと思った時、次の目標を見失い、路頭に迷ってしまったのである。
この「常に、進歩することを求めること」の原動力となったのは、裏を返すと、今の自分を否定することと言えないだろうか。「今に不満があるから、良くしたいんでしょ?」とお互いに無意識のうちに、今の自分や状況を否定しながら、しゃにむに突き進んできた。だから、いつの間にか、否定する自分があっても、肯定できる自分を持てないように、自分で自分にマインドコントロールをかけてしまった。また一方では、他人はいつも自分と比較するための存在でしかなく、今の自分で良いだろうか?という不安感を持ちながら進んできたのではないだろうか。常に自分を不満な状態に置き、焦燥感と焦りの中で「肯定できる自己」を見失ってしまったのではないだろうか。
 それが、今の「閉塞感」とつながっているのではなかろうか。

自己肯定から始めよう
 今、何を始めなければならないか、とすれば、社会のシステムを含めて身の回りには多くの問題があることは無視できないが、まず「ありのままの自分を信じ、次に、それをより良くするためには?」という発想からのリスタートではないだろうか?
 それが友愛の理念の「自己の尊厳」という考え方ではないだろうか?それは「ヒトは誰も自分が一番可愛いんでしょう?だから。自分の幸せは自分のもの」という他人との比較の中での発想ではなく、他者との関係は『唯我独尊』である独立した人間同士が、「社会」を作っているという発想からの再出発である。
 そして、自分を信じられないのであれば、他人も信じることは出来ない。確固とした自己を意識して、何者にも置き換えることの出来ないものだから、そして、自分を大切に思う心は誰もが持っており、それの連鎖が「社会」だからと考えれば、ヒトの輪が広がって行く…
 それが『相互理解』という考え方に結びついていくのではないだろうか?

お互いが助け合う社会の実現
 そのヒトの輪としての社会を「調和」が取れ『より良い社会』にするためには。何をすべきか?ということになってくる。
 まず「信じられる自分」があれば、より良い自分を作るために他者との比較はするであろうが、その比較によって優劣を付けて「俺のほうが偉い」と思うことはないだろう。大人物ほど謙虚なものである。
 相手も自分と同じように、大切な自分を持っていると考えれば、その一人一人の存在の意味において「優劣」はない。しかし、人間はそれぞれ違うのだから「向き不向き」ということがあるのは否めない。その適性において、社会の中での役割は違わざるを得ない。
 この、どうしても避けることの出来ない、お互い間にある「役割分担におけるミゾ」を埋めていくためには、ここで初めて「相互理解」と「相互扶助」という考え方を根本とした考え方が必要となってくるのであろう。
 しかし、それは、ただ単に「あなたの存在を認めてやる」というようなことではない。時として「物わかりの良い父親」を絵で描いたような人物の子供が、非行に走ってしまうことがある。「お父さんの。その優しさがウザったいんだよ」と…

国際化も「相互理解」から…
 また、昨今は声高に言われなくなった「国際化」ということについても、まだまだ日本人には身に付いていない。どこかオヨビ腰で、優しいお父さんを演じているに過ぎないところがある。
 そして優劣という尺度を持ち込んだ接し方をする人もまだまだ多い。「国際理解」とは、個人レベルも含めて、まずお互いの違いを理解することから始まり、その違いを受け止めることである。その違いを解ろうとする作業をせず、受け止めようとするから「薄ら笑い」を浮かべなければならなくなるのである。
 つまり、このお互いを理解しようとする作業を怠ったとき、相手の痛みや苦しみも理解できなくなってしまうのである。見えない相手には、何でもできちゃうのである。
 そして、相手を解ろうとする行動が「本当の優しさ」であり、ひところ流行った「誠意」ということであろう。もう一歩踏み込み、その相手の状況を共有しようとする行動が、「相互扶助」といえるだろう。併せて、自分に何が出来るかを考えること。それが社会の調和の潤滑油となるのである。

「友愛社会」の実現に向けて
 いつか、それらの事柄が「友愛」という言葉で表され、それを冠した「友愛社会」というものが出現すれば、もっと分かりやすい社会になるのではなかろうか。
 そこまでの道のりを、友愛運動とするならば、その道は、誰でも歩ける道にしなければならない。一人の取りこぼしもなくである。「友愛」とは、アプリケーション・ソフトや機能拡張ソフトではなく、システム・ソフトであるべきだから。

数値化できないものだから…
 また「友愛」という概念は、どうみても数値化は出来ない。「君は今、友愛指数レベル7だね」というようなものではない。けれど、私たちは経済発展という尺度を重視しすぎたために、「数字」という呪縛から逃れられないでもいる。ヒトを理解するときも、どこかで「学歴」というものに頼ってしまう。学歴も言うなれば、テストという「数値」の尺度の上での価値判断であり、その尺度では測れないものがあると解っていても、どこかで頼ってしまう。
 そのうえ、今の自分の状況に変えようとしても、ヒトは一人では生きてきた訳ではなく、色々な人間関係の中で生きてきて、今日に至ったわけであるから、「今日から、私は変わります」といってガラッと変わることが出来ないことも事実であろう。

 そんな潜在意識の中の呪縛や、人間関係のシガラミのある中でどうするかは、自分だけの問題ではない。
だから、何から、どのように手をつけるかである…



この「つづき」はいま、美幌で始まろうとしています…



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