2年目の長尾です。前回に引き続き三国志についての解説です。
今回は演義で大人気の趙雲の史実での活躍について解説しようと思います。
三国志で趙雲といえば、関羽、張飛、馬超、黄忠と並んで五虎大将軍とされ、非常に勇猛かつ義に篤く、冷静沈着な槍の達人として描かれていて、長坂の戦いで阿斗(劉禅)を救出したり、劉備が縁談のために呉に向かう際に同行してその窮地を救ったりと見せ場が数多くあり、中国でも趙雲を主人公にした『三国志~趙雲伝~』というドラマがあるくらい人気なわけですが、そんな趙雲の正史における記述は以下の通り。
趙雲、字子龍、常山真定人也。本、屬公孫瓚。瓚遣先主爲田楷拒袁紹、雲遂隨從、爲先主主騎。及先主爲曹公所追於當陽長阪、棄妻子南走。雲、身抱弱子、卽後主也。保護甘夫人、卽後主母也。皆得免難。遷爲牙門將軍。先主入蜀、雲留荊州。
先主、自葭萌還攻劉璋、召諸葛亮。亮、率雲與張飛等、俱泝江西上、平定郡縣。至江州、分遣雲、從外水、上江陽、與亮會于成都。成都既定、以雲爲翊軍將軍。建興元年、爲中護軍、征南將軍、封永昌亭侯、遷鎭東將軍。五年隨諸葛亮、駐漢中。明年、亮出軍、揚聲由斜谷道。曹真遣大衆當之。亮、令雲與鄧芝、往拒、而身攻祁山。雲芝兵弱敵彊、失利於箕谷。然、斂衆固守、不至大敗。軍退、貶爲鎭軍將軍。
七年卒、追諡順平侯。
こんだけです。これが多いのか少ないのかというと、めっちゃ少ないです。魏の毌丘倹(多分誰やねんって思うとと思いますが)と比べると三分の一、麋竺と同じくらいしかないです。諸葛亮と比べると十分の一以下です。上のを大雑把に意訳すると、”趙雲字は子龍といい、常山真定の人である。~中略~長坂で後の劉禅を助け、甘夫人を保護した。牙門将軍に任命された。劉備が入蜀すると荊州にとどまった。諸葛亮に率いられて張飛と共に成都へ向かった。~中略~鎮東将軍に昇格した~中略~諸葛亮の第一次北伐の陽動として鄧芝を副将として斜谷道を進んで曹真と戦った。箕谷において敗北したが大敗はしなかった。鎮軍将軍に降格させられた。”となります。
長坂の戦いで夏侯恩から青紅の剣を奪って危機を脱する話や、漢中争奪戦で黄忠を空城の計で助ける話もありません。これらは『三国志』ではない歴史書、『資治通鑑』(高校の世界史の教科書に出てくるあれ、著者の司馬光は司馬懿の弟の司馬孚の子孫だとか)、『漢晋春秋』などに記述があります。ただこれらの歴史書が引用しているのが、『趙雲別伝』という趙家の家伝を改編した疑惑のある書物のためどこまでほんとなのかはわかりません。
では史実での趙雲は何をしたのかというと、まず上にあるように長坂の戦いで幼い頃の劉禅を救出し、甘夫人を保護しています。この記述の前に、”先主(劉備)は長坂で曹操に追いつかれて、妻子を捨てて逃げた”とあるので置き去りにされた甘夫人と劉禅を趙雲が助けたっぽいです。楚漢戦争の時の夏侯嬰にも似たような話がありますね。もっともあっちは劉邦が逃げる馬車から子供を何度も放り出していましたが。第一次北伐で曹真に負けたのも史実ですがこれは仕方がないでしょう。もともと陽動が目的で進むのは高低差2000メートル弱、距離400キロの秦嶺山脈、さらに相手は魏の大将軍曹真、むしろ大敗せずに無事に漢中まで戻れたことが趙雲の優秀さを示しているといえるでしょう。他には諸葛亮や張飛と一緒に入蜀中の劉備の援軍にも言っているのですが詳しい記述がないのでここら辺の活躍はわかりません。仕方ないね。
趙雲の活躍を正史からみると以上になってしまうのですが、別の角度からもう一つ、『三国志』における趙雲の伝は関羽、張飛、馬超、黄忠と同じ巻に入れられています。えっ、それの何がおかしいのと思うかもしれませんが、紀伝体の歴史書では臣下のなかで同じような役割を持った人物の伝記を同じ巻にまとめることが多いのです。例えば魏では荀彧、荀攸、賈詡の伝が同じ巻にまとめられていますし、呉では周瑜、魯粛、呂蒙の伝が同じ巻にまとめられています。つまり趙雲が他の四人と同じ巻に入れられているのは、趙雲が他の四人と同格の武将として評価されたという根拠のひとつになるでしょう。ちなみにですが魏の五将軍の張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃(おまけで朱霊さん)も同じ伝にまとめられています。
以上史実における趙雲について長々と語ったわけですが、はっきり言って疲れました。資料を読んでるとレポート書いてる気分になるので今後は複数人を簡単に紹介するようにしたいなと思っています。