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露土戦争

2015-02-04 09:02:36 | 日記
1875年にバルカン半島のキリスト教徒のスラブ民族に対して残虐行為を行うオスマン=トルコ帝国の支配に対してスラブ民族が蜂起した。1877年には汎スラブ主義を高揚させたロシア帝国がバルカン半島支配権をめぐってトルコに戦争を挑み、露土戦争が発生した。ディズレーリ首相は親トルコの立場を取ったが、トルコのキリスト教徒への残虐行為から議会・国民世論から強い反発を受けた。ディズレーリを寵愛するヴィクトリアさえもがディズレーリに「なぜトルコのキリスト教徒虐殺に抗議しないのか」と詰め寄っている。
だがディズレーリはバルカン半島をスラブ人小国家郡の割拠状態にしてしまうとロシアの食い物にされるだけと考えていた。ヴィクトリアもこれについては同じ考えであり、彼女はトルコ批判者が主張するようなトルコを処罰してその国土を分割せよというような案はロシアを利するだけとして批判した。また「トルコの野蛮性」を盛んに主張する英国世論が「ロシアの野蛮性」を主張しないことも不可思議に思っていた。
露土戦争は終始ロシア軍の優位で進み、ヴィクトリアはロシアに対する危機感を強めた。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵はスエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルを奪ってイギリスの権益を侵すような真似はしないので中立を保ってほしいとイギリス政府に依頼していたが、ヴィクトリアはロシアの約束など全く信じていなかった。対ロシア開戦に消極的な外相ダービー伯爵(かつての首相ダービー伯爵の息子)を批判し、ディズレーリ首相に軍を出動させるよう発破をかけ続けた。しまいには退位をちらつかせて首相を脅迫した。ソールズベリー侯爵夫人はこの頃のヴィクトリアの状態を「自制心を失っており、閣僚たちをこづきまわしては戦争へ持っていこうとした」と評している。1878年1月にはディズレーリに宛てた書状の中で「私が男だったら自ら出ていって、あの憎たらしいロシア人どもをぶちのめしてやるのに」と激昂している。
結局ディズレーリ首相は軍に臨戦態勢に入らせながらも参戦しないまま、3月にはトルコとロシアの間にサン・ステファノ条約が締結された。この条約によりトルコはヨーロッパにおける領土をほぼ喪失し、ロシアはトルコから90キロに及ぶ黒海沿岸地域の割譲を受け、さらにエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア衛星国大ブルガリア公国が置かれ、地中海におけるイギリスの覇権が危機に晒された。またアルメニア地方のカルスやバトゥミをロシアが領有し、イギリスの「インドへの道」も危険に晒された。イギリスの権益など形だけしか守られていないこの条約に英国世論もヴィクトリアも激高した。ディズレーリもロシアに対して大ブルガリア公国建国の中止、アルメニア地域のロシア領土の放棄を要求し、ロシアが拒否するならイギリスもキプロスとアレクサンドリアを占領すべきと主張するなど強硬姿勢を示すようになった。
ロシアはドイツの支持を当て込んで(またすでにイギリスを半ば敵に回しているのにドイツまで敵に回すわけにはいかないので)ビスマルクが提唱する露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議の開催に賛同した。ディズレーリは自らがベルリン会議に出席する決意を固めたが、ヴィクトリアは「ディズレーリは健康を害している。流出エルメス 彼の命は私と我が国にとって重要な価値があり、危険に晒されることは許されない」として反対した。だがディズレーリは「鉄血宰相」と対決できる者は自分しかいないと主張して女王を説得した。
ベルリン会議でディズレーリはアジアに通じる大英帝国通商路を守るために全力を尽くした。ベルリン会議の結果、大ブルガリア公国は分割され、ロシアのエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリスはキプロス領有が認められ、東地中海の覇権を確固たるものとした。ビスマルクも「あのユダヤ人の老人はまさに硬骨漢だ」と驚嘆したという。


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