老子:道経:異俗第二十(その2)
絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。
衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。乘乘兮若無所歸。衆人皆有餘。
而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。俗人昭昭。我獨若昬。俗人察察。我獨悶悶。忽兮若海、漂兮若無所止。
衆人皆有以。而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。
学(がく)を絶(た)てば憂いなし。唯(い)と阿(あ)とは、相(あい)去ることいくばくぞ。
善と悪とは、相去ることいかん。人の畏(おそ)るるところは、畏れざるべからず。
荒(こう)としてそれいまだ央(つ)きざるかな。
衆人煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるがごとく、春台に登るがごとし。
われひとり怕(はく)としてそれいまだ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)のいまだ孩(わら)わざるがごとし。
乗乗(じょうじょう)として帰(き)する所なきがごとし。
衆人はみな余りあり。而(しこ)うしてわれはひとり遺(わす)るるがごとし。われは愚人(ぐじん)の心なるかな。
沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たり。われはひとり昏(くら)きがごとし。
俗人は察察(さっさつ)たり。われはひとり悶悶(もんもん)たり。
忽(こつ)として海のごとく、漂(ひょう)として止まるところなきがごとし。衆人はみな以(もち)うるところあり。
而(しこ)うしてわれはひとり頑(かたくな)にして鄙(ひ)に似る。われはひとり人に異なりて、
母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。
ゆったりと,のんびりと、さらさらと生きる
わたしは、まったく、馬鹿者だなあ。
老子は、いわゆる、無学文盲(もんもう)の人ではない、先賢のの学理を学び、深く知識を究明した
大賢人である。その老子にして「わたしは、まったく、馬鹿者だ」といわしめているのは、
いかなる理由によりよるものか?、 それって、賢者のよるものなのか、ちがいます、そこらに居る
凡人がまさしく、馬鹿者なのである、同じく、第20章に、俗人は察察(さっさつ)たり。われはひとり
悶悶(もんもん)たり。とある、俗人たちは、善悪の考えを賢くふりまわし、神経をとがらして抜け目ない
生活をしようとするが、わたしは、抜け目のない緊張した生活はしたくない、と・・・・・・
続けて、忽(こつ)として海のごとく、漂(ひょう)として止まるところなきがごとし。
わたしは、ゆったりと、春の海の様に生きたい。あてどなくのんびりと吹く風のように、
さらさらと生きたい。明敏に善悪の概念を鋭くふりまわして生きることを、老子は好まなかった。
・今日の耶馬の里は、早朝に大雨が降ったが、すぐに上がり、晴れ間が・・・
午後から、農水路の補修作業を行いました、水路をふさぐ多くのがれき
砂や土で、水路がつぶされています、そこには、水路の姿はありません。
まるで、砂の道の様であります、あと4,5日はかかるでしょう。
・イガ爺宅の川向の、多くの人が復旧作業に携わっていました。
ボランティアの人たちか?
・昨日、イガ爺も、川向のG/H の復旧作業の手伝いに行って来ました。
高圧洗浄機でたまった泥を洗い流したり、泥紛れとなった、各部屋の、床板を
はがし、洗うという作業です。
夕方に、国の福祉関係者が、いらっしゃいました、高圧洗浄機には、驚いていました
今、イガ爺に出来ること、ゴタクなしに喜んで進んで、お役に立たせていただくこと
思わせて頂きます。
われは愚人(ぐじん)の心なるかな。の心境 18:40分投稿
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