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「皇室問題INDEX」設立準備室

マスメディアによる皇室の偏向報道、ネットに流れる東宮家への誹謗中傷を検証しています。

■一般庶民の目で綴る「平成皇室実録」(1):平成の始まりから愛子さまご誕生まで

2016-08-23 05:32:53 | 皇室問題
平成皇室の出来事を時系列でまとめた年表を作成し、送ってくださった方がいます。それをベースに、さらに詳細な情報を付け加え、一般庶民の目から見た「平成皇室実録」を作成できないでしょうか。まずは、平成の始まりから愛子さまご誕生までを書き出してみました。
文末につけた(★)印は、ソース(情報の出所を示す資料詳細)を調査して付け加えたいという印です。そのソース調査も含め、この年表への追加情報をお寄せいただければ助かります。学者ではなく、一般庶民の目に映った「平成皇室実録」作成を目指しましょう。

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■1985年(昭和60年)
 04月  紀子さん学習院大学に入学
 実父の川嶋辰彦同大教授の企みにより、紀子さんは同大2年だった礼宮と学内の書店で出会う。礼宮は自然文化研究会というサークルを作り、紀子さんを招く。礼宮が紀子さんと交際するために作ったサークルで、旅先では2人が同じ部屋に泊まることが黙認されていた。【関連資料:コメント欄参照】(朝日新聞単独スクープの謎(2) 礼宮と紀子さんの出会いの真相 2016-09-13 02:44:55)

 12月  東宮ご夫妻(当時)に初めて紀子さんを紹介
 東宮ご一家が葉山の御用邸に滞在していた時、御用邸近くのホテルに紀子さんが家族と宿泊。礼宮がホテルに紀子さんを迎えに行き、御用邸近くの海岸を散歩をしていた東宮夫妻に引き合わせる形で、紀子さんを紹介した。(出所:秘められた5年の愛『女性自身』1989年0906号)

 礼宮は当時、他の女性たちとも同時進行で交際していた(出所:『噂の真相』1996年7月号)。サークルでの宿泊を伴う旅行、両親への紹介ということ等を考えると、紀子さんが学習院大学在学中に受けたとされる2回の堕胎のうちの第1回がこの年に行われた可能性がある。【関連資料:コメント欄参照】(平成の始まりの序章となる1985年の出来事 2016-09-16 15:35:26 )

■1986年(昭和61年)
 09月  本命は学習院大学教授の娘!?(『週刊現代』09月13日号)
 2人の交際が雑誌で取り上げられる。サークル活動での旅行には、紀子さんのそばに必ず礼宮がいた。

 ※川嶋家が朝日新聞の皇室取材班と接触。以後、同取材班は2人の交際内容を把握していた。【関連資料:コメント欄参照】(朝日新聞単独スクープの謎(2) 礼宮と紀子さんの出会いの真相 2016-09-13 02:44:55)

■1987年(昭和62年) 
03月  斑尾高原でのスキー旅行 報道のカメラの前では紀子さんに近づかず。
     「ボクには7人の恋人がいる」と級友たちに宣言。
 04月  礼宮さまがナイトコールされる美人女子大生の家(『週刊現代』4月25日号)

 礼宮は学習院大学時代、「手の早いやつ」というあだ名をつけられており、情事を持った女性は複数存在した。紀子さんはそのうちの一人で、川嶋家は娘への責任を取るように要求していた。【関連資料:コメント欄参照】(礼宮文仁と川島紀子の結婚前後 2016-08-24 14:20:39)

■1988年(昭和63年)
 礼宮の卒業が近づく1988年になると、東宮御所に紀子さんを呼び、東宮内デートを楽しむようになる。
 東宮御所を紀子さんが一人で訪ねて来て礼宮の部屋に2人きりで数時間もこもり、側近が慌てたという話が『週刊現代』1989年0305号に書かれている。

 紀子さんは1987年後半くらいから頻繁に訪ねてくるようになり、最初は微笑ましく見られていたが、近頃は「間違いがないといいが」と心配されているという。「間違い」は起こるべくして起こり、繰り返されたとみられる。【関連資料:コメント欄参照】(紀子さんと礼宮の交際 2016-09-03 05:05:50)

 03月    礼宮、学習院大学を卒業
 08月   礼宮、2年間の予定でオックスフォード大学に留学


■1989年(昭和64年)
01月07日 昭和天皇崩御。
02月24日 大喪の礼。


 04月   礼宮が皇籍離脱発言(『週刊ポスト』4月7日号)
 04月   渦中の女 「浩宮妃」より先に「礼宮の恋人」(『FOCUS』5月5・12日号)

 『週刊ポスト』によると、兄の皇太子即位が秒読みとなった時点で、礼宮は自分との差を改めて実感。同じ兄弟でありながら、皇太子として崇められる兄と比べ、自分は多くの点で差別されている。これは「憲法違反ではないか」と陛下にくってかかり、皇籍離脱を口にしたという。『FOCUS』は、この皇籍離脱発言は兄と比べての待遇不満だけではなく、紀子さんとの結婚に反対する周囲への反発から出たと解説。さらに後の報道では、天皇が紀子さんとの結婚に反対していたことを明かしている。【関連資料:コメント欄参照】(平成の始まりと終わりに噴出した礼宮(秋篠宮)の不満 2016-09-11 04:17:53)

 05月   スクープ 礼宮さまが学習院大教授令嬢と婚約へ(『FLASH』5月9・16日号)
 08月   反対だらけだった礼宮の結婚(『女性自身』09月06日号) 
 08月   礼宮「ご婚約発表」のあと 平民化に拍車がかかる「新皇室像」
               皇籍「離脱」で抵抗した成果(『週刊新潮』09月07日号)
 09月   礼宮婚約スクープの裏!決め手は両親の赤坂御所訪問だった(『週刊宝石』9月14日号)
 09月   ご婚約“突如内定”なぜ急がれたのか(『週刊現代』09月16日号)
 09月   プリンセスを生んだ川嶋家の「血族と財産」(『週刊ポスト』09月15日号)

09月12日 文仁親王(礼宮)と川嶋紀子さんの婚約内定、記者会見が行われた。

 昭和天皇の喪が明けないうちに婚約が発表される事態となったのはなぜか? 礼宮との交際中に紀子さんは堕胎手術を受けること2回に及び、これに抗議して実父の川嶋辰彦氏が東宮御所に乗り込んだ。川嶋氏と親交があった朝日新聞(岩井克己記者)と解放同盟の力を背景に、結婚の約束を取り付けたとする見方がある(★)。

■1990年(平成2年)
06月29日 文仁親王(25歳)と川嶋紀子さん(23歳)結婚の儀。秋篠宮家創設。
 09月     礼宮結婚フィーバー 日本はこれでいいのか!「奉祝押しつけ」の大騒ぎ報道を排す
         沸騰皇室核心論議 右と左と知識人のミカドの肖像(『週刊ポスト』1990年09月13日号)

 「秋篠宮家に万が一にも皇位が継承されることがあってはならない」という暗黙の了解が宮内庁内部で共有され受け継がれていたと(後に)報道される(★)。秋篠宮には出生の問題、紀子妃には出自の問題があり、結婚に至る経緯にも上述のような問題があり、これが一般に明らかになれば、皇位継承者としては認められないためとする見方がある(★)。

■1991年(平成3年)
02月23日 立太子の礼。徳仁親王が正式に皇太子となられる(31歳)。
10月23日 秋篠宮家に長女・眞子内親王誕生。


■1992年(平成4年)

08月16日 JICA総裁の柳谷謙介氏宅にて、皇太子殿下と雅子さんが5年ぶりに再会。
10月03日 宮内庁新浜鴨場(千葉県市川市)で殿下が雅子さんにプロポーズ。
10月中旬 悩んだ末に雅子さんがお断りになり、柳谷氏が説得にあたる。
12月12日 雅子さんが東宮御所を訪問、受諾のお返事。
12月25日 天皇皇后両陛下におひきあわせ。


 皇太子殿下と小和田雅子さんは1986年10月、スペインのエレナ王女の来日歓迎レセプションで初めて出会う。翌87年に高円宮邸のホームパーティや東宮御所への招待があり、お妃候補としてマスコミに騒がれる事態となる。翌88年から90年まで、雅子さんは英国オックスフォード大学へ留学。将来を嘱望される外交官としての道を歩み始め、お妃候補からは完全に外れたとみられた。だが殿下の思いは一途で、92年8月、5年ぶりの再会を実現、10月にはプロポーズに至る。雅子さんがそれを受諾されるまでの紆余曲折については、コメント欄の詳細資料を参照されたい。小和田家が皇太子妃の座を狙っていたなどという作り話がネットに書き立てられているが、まったくの捏造であることは明らかだ。【コメント欄】(出会いからご結婚まで 2016-08-31 13:55:17)(関連記事 2016-08-31 14:06:33)(記事・その2 2016-08-31 16:17:45)(入江為年氏の証言 2016-08-31 16:49:40)(野心について 2016-08-31 17:22:32)

■1993年(平成5年)
01月06日 ワシントンポストが皇太子殿下の婚約をスクープ
 皇太子さまと小和田雅子さんの婚約について海外メディアが最初に報じた。宮内庁から正式発表まで統制がかけられていたが、宮内庁記者クラブに所属しない海外メディアは報道協定に縛られないためスクープ可能だった。これを受けて国内外のメディアが一斉に記事を掲載する。【関連資料:コメント欄参照】(1993年 2016-08-24 23:16:32)(1993年・その2 2016-08-25 10:30:06)(1993年・その3 2016-08-25 10:41:11)

01月19日 皇室会議
8時30分から19分間行われ、小和田雅子さんを皇太子妃と内定し、記者会見が行われた。

04月12日 納采の儀
06月09日 皇太子徳仁親王(33歳)と小和田雅子さん(29歳)結婚の儀。

 ご結婚当日、雅子さまを紀子妃が鬼の形相で睨みつけていたという目撃証言多数。ご結婚前には「私の十二単をお貸しする」という発言もあり、国民を仰天させた(★)。
 「宮中に慣れるため3年は懐妊を控えるように」と、美智子皇后のアドバイスがあったと報じられる。ご結婚からしばらくの間、すさまじいまでのご公務のスケジュールに、「こんな忙しくて子作りが出来るのか」という記事も書かれた。【関連資料:コメント欄参照】(ブラック企業? 新婚当時の雅子さまのご公務 2016-09-04 17:15:53)

 04月   吹上新御所建設ではらした美智子皇后『積年の思い』(『週刊文春』04月15日号)
 06月   宮内庁に敢えて問う 皇太子御成婚『君が代』は何故消えたのか(『週刊文春』06月10日号)
 06月   宮内庁記者が絶対書けない平成皇室『女の闘い』(『週刊文春』06月17日号)
 07月   皇室の危機『菊のカーテン』の内側からの証言(『宝島30』08月号)
 07月   『宝島30』の問題手記『皇室の危機』で宮内庁職員が初めて明かした皇室の『嘆かわしい状況』
        (『週刊文春』07月22日号)
 09月   天皇訪欧費用『2億円』の中身(『週刊新潮』1993年09月09日号)
 09月   美智子皇后が訪欧直前の記者会見で『ムッ』としたある質問(『週刊文春』09月16日号)
 09月   美智子皇后のご希望で昭和天皇の愛した皇居自然林が丸坊主(『週刊文春』09月23日号)
 09月   宮内庁VS防衛庁に発展か 天皇・皇后両陛下は『自衛官の制服』お嫌い
        (『週刊文春』09月30日号)
 10月   美智子皇后 私はこう考える(『週刊文春』10月07日号)

■1994年(平成6年)
02月~  雅子さまのご懐妊報道が過熱。

 この年2月に雅子さまの風邪が長引き、その後のお召し物がゆったりしたものであったため、ご懐妊報道が過熱し始める。これを受けて、ご成婚1年目の会見で、皇太子さまは「あまり波風がたつとコウノトリのご機嫌を損ねる」と過熱報道を窘められる。

05月   秋篠宮妃ご懐妊発表。12月に次女・佳子内親王誕生。

■1995年(平成7年)~1999年(平成11年)
海外で雅子さまをめぐる報道が増え始める。
 外交官出身として親善外交での活躍が期待されたが、皇位継承者出産のプレッシャーに押しつぶされているという論調。イタリア紙「沈黙する悲しみの妃」、ニューズウィーク「姿を消したプリンセス」など(★)。

不妊治療を始められたことも報じられる。
 雅子さまは毎月天皇と皇后の前に呼び出され、その月に生理があったかどうかを尋ねられた。そのたび恥ずかしさに頭をたれ、まだ妊娠していないことを告白しなくてはならなかった。【関連資料:コメント欄参照】(生理の周期など 2016-08-24 14:22:08)
 皇太子さまの留守を見計らい、宮内庁幹部が雅子さまを訪問し、生理の周期などご体調に付き詰問することもあったという(★)。

不妊治療を理由に雅子さまの海外訪問が禁じられる。
 男子誕生を優先事項とするため、宮内庁長官により皇太子ご夫妻の海外訪問が禁じられたとの報道があった。故三笠宮寬仁親王と旧皇族子孫の竹田氏は、雅子さまの能力が活かせるご公務をして頂いたほうが精神的充足感もあり、体調も良くなるのではないか。懐妊を理由とした訪問取りやめは外交上失礼ではないので、海外訪問禁足は不要との説を(後に)語っておられる(★)。しかし、千代田側の意向として(すなわち天皇皇后の意向として)、長期にわたり皇太子ご夫妻の海外訪問は禁じられた。1997年(平成9年)にはシラク大統領から皇太子ご夫妻へ訪仏の招待があったが、宮内庁(天皇皇后)がこれを許さず、紀宮さまがフランスを訪問している。1999年(平成11年)にはドイツにおける日本年の名誉総裁が皇太子さまであり、皇太子ご夫妻が招待されたが、宮内庁(天皇皇后)がこれを許さず、秋篠宮夫妻がドイツを訪問した。
【関連資料:コメント欄参照】(雅子様に対する「海外禁足」のソース記事 2016-08-28 21:53:37)

※資料:「ご成婚から20年間での外遊回数」
 昭和の皇太子ご夫妻  50回以上(正式記録が平成以降のため不正確ながら)
 平成の皇太子ご夫妻   6回 10か国(慶弔訪問含む)
 秋篠宮ご夫妻       25回 29か国(私的海外訪問の多くは含まず)

【関連資料:コメント欄参照】両陛下の海外訪問について(資料として 2016-08-29 15:13:18)
 
■1999年(平成11年)
12月   雅子さま妊娠5週目と朝日新聞がスクープ。30日に宮内庁病院にて流産処置。
 胎児の心音が確認できていない5週目という時期のスクープに世間は驚き、憤慨した。ごく限られた人しか知るはずがない内々のことが漏れたことに雅子さまは非常なショックを受けられたという。スクープした記者は紀子妃と特別に親しい関係にある朝日新聞社の岩井克己氏であり、リーク元は紀子妃だった可能性は否定できない。(★)

■2000年(平成12年)
02月   流産処置から2か月で公務に復帰される。
06月16日 香淳皇后崩御。
07月   1か月の殯を経て25日、香淳皇后の斂葬の儀が行われる。


 この間、雅子さまも昼夜交代で棺に付き添われるなどされたが、斂葬の儀当日は体調が悪く欠席されたことが波紋を呼ぶ。しかし、この時実際にはご懐妊の兆候があったため、大事をとる必要があったと後に報じられる。2度に及ぶ流産にくわえ、当時なされた千代田(天皇皇后の側近)からの厳しい叱責が雅子さまを深く傷つけ、八方塞がりの状態に追い詰めていた。
【関連資料:コメント欄参照】(斂葬の儀欠席の真相記事 2016-08-28 22:19:01)(「斂葬の儀欠席」について、もう少し 2016-08-29 14:19:47)

※天皇の「眞子が女帝に」発言の衝撃
 「このまま東宮家に子が生まれなければ眞子が天皇になるしかない」と天皇が嘆いたという記事が週刊誌に掲載された(★)。皇位継承について、天皇ともあろう方がこのような軽々しい発言をなさったことに驚く。帝王学を学ばれた方の発言とは思えず。おそらくこの失言(非常に重い失言というべき)が紀子妃とそのご実家を舞い上がらせたことは想像に難くない。家長として、不妊に苦しみ苦境に立つご長男夫妻を思いやり、弟夫婦の野望を諫めるのが筋であるのに、お家騒動の火をあおるとは。なんと頼りなく浅慮な家長だろう。
 この失言はまた、天皇が女帝容認であった証拠でもある。天皇は「男でも女でも私の血筋であることに変わりはない」という発言もしておられ(★)、男系男子派から強い批判を受けた。その後こうした発言は控えられたようで、漏れ聞こえることは無くなった。


■2001年(平成13年)
03月   雅子さまに対し海外禁足を敷いた宮内庁長官退官。
     不妊治療のスペシャリストである堤教授が東宮御用掛に就任。
05月   雅子さま(37歳)ご懐妊正式発表。


 小泉首相が、ご誕生までに女性天皇を認める皇室典範改正を提案。与党幹事長も賛意を示し世論調査も歓迎するが、保守系議員と神社界の反発があり、お体に障ってはならないと、議論が鎮静化する(★)。

※ネットに「流産祈願スレ」乱立の怪
 東宮家の慶事をわがことのように喜ぶ国民をよそに、某巨大掲示板には「流産祈願スレ」が乱立。「雅子の腹に蹴りをぶっこいてくるのよ」といった信じがたい暴言の数々が日夜書き込まれた。御子の性別も不明なときであり、男系男子派の仕業ではありえない。「東宮家による皇位継承」という当然のことを阻止しようとする勢力の仕業であり、それによって誰が利を得るかを考えれば、紀子妃とそのご実家という見立ては成り立ち得る。ネットで東宮家をバッシングする「アンチ東宮」と呼ばれる人々の毒々しいデビューであるが、彼らは紀子妃とそのお子さまたちを「お美しい」「ご優秀」と盛大に持ち上げる特徴をもつ。秋篠宮についてはさほど称賛するわけでもない。
【関連資料:コメント欄参照】(「流産祈願スレ」乱立の証拠 2016-08-26 22:43:27)

12月01日 皇太子ご夫妻の第一子、敬宮愛子内親王殿下ご誕生。

 皇室最高齢の高松宮喜久子妃殿下が『婦人公論』1月22号に寄稿される。「女性が第127代天皇さまとして御即位あそばすことは日本の長い歴史に鑑みて決して不自然なことではない」--多くの国民も同じ思いだった。

※愛子さまご誕生を祝う記帳に77万人
 12月2日夕刻にもかかわらず、「新宮さまのご誕生をお祝いする国民の集い」には2万5千人以上が集まる。皇居および宮内庁が管理する施設での記帳12万人。宮内庁は記帳に訪れる人が多いため、記帳所を増やし、記帳時間を延長して対応。全国自治体、神社、大使館関係は65万人。

※第2子(男子)懐妊の至上命令
 こうした一般国民の大歓迎をよそに、ご出産間もない雅子さまのベッドサイドを訪れた宮内庁幹部は、「これで、お子さまが授かれることは証明できたので、次こそは男子を」と詰め寄ったと報じられている(★)。天皇皇后の意向を伝えたものであることは自明である。長い不妊治療の末にようやく御子を授かったばかりの雅子さまの心身は、「男子限定懐妊の強要」に耐えうる状態ではなかったはず。なぜ、そのような心無い仕打ちができるのか。皇后さまの代名詞のような”慈愛”はどこに?
 このとき「もし男子懐妊治療を拒むなら秋篠宮夫妻に依頼する」「秋篠宮家に男子が誕生すれば皇統は秋篠宮家に移るがそれでよいか」と迫られたであろうことは、状況証拠とともに前トピックで述べた。女帝容認であったはずの天皇が、なぜここまで東宮ご夫妻に男児懐妊を強要されたのか? 国民の圧倒的多数は、愛子さま誕生を「女帝誕生」として大喜びしていたのにもかかわらず。


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お手数おかけして申し訳ありません。 (anima mea)
2016-10-10 22:02:16
speranza様、「川島某(K)なる者」の件について、お調べいただきありがとうございます。お忙しい中、大変恐縮です。昭和帝に関する書物の量が膨大でどこから調べていいか正直途方にくれておりました。

川島紀子さんが実際にこうして皇族との結婚に成功(?)してしまい皇族の一員となってしまったので、紀子妃は今ではアンタッチャブルな存在になってしまいました。そのため仮に昭和帝の側近が日記などに昭和帝の正直なお気持ち(川島某~)を書きしるして残していたとしても、日記等を書籍化するにあたって紀子妃に不都合な部分は全て削除されてしまっているか、イニシャルや仮名等でごまかして誰か特定できないようにされているだろうということが想像できます。
しかし、私を含めて少なくない人々の記憶の中に「川島某なる者に注意されたし」と昭和帝が警戒心を持たれていた、ということが残っているということもまた事実なんですよね。

膨大な資料の中から該当部分を見つけることはかなりの労力を伴うと思いますが、私も出来る限りのことはしようと思っています。お手数おかけして大変申し訳ありません。
返信する
経過報告 (speranza)
2016-10-05 16:50:50
「Kなる者」を探していますが、下記のものにはありませんでした。

同じ書物で探されている方がおられましたら、下記以外のものをお探しください。

≪ハードカバー≫

小倉庫次侍従日記 その疑惑と真相 佐々木敬佑 佐々木敬佑(敬作)
卜部亮吾侍従日記 第3巻 昭和62~63年 卜部亮吾 朝日新聞社
入江相政日記 第6巻 入江相政 朝日新聞社
昭和天皇の思い出 側近通訳25年 真崎秀樹 読売新聞社
吹上の季節 最後の侍従が見た昭和天皇 中村賢二郎 文芸春秋
陛下のお仮縫い    奥山孝夫

≪文庫≫
天皇さま お脈拝見  杉村昌雄 新潮社
昭和天皇伝説     松本健一 朝日新聞社
恐るべき昭和天皇   松本健一 新潮社
陛下のご質問     岩見隆夫 文藝春秋
昭和天皇のお食事   渡辺誠 文藝春秋
昭和天皇伝      伊藤之雄 文藝春秋


≪これから調べるもの≫
卜部亮吾侍従日記 第2巻 昭和60~62年 卜部亮吾 朝日新聞社
側近日誌 木下道雄 文芸春秋

返信する
入江為年氏の証言について (にゃーこ)
2016-10-03 14:32:14
以前にINDEXさまからコメントをいただいていたのに、そのままになっていました。

入江為年氏の証言の全文、まだ見つけられていません。『月刊現代』2001年6月号とわかっているのですが、図書館に行けないままです。

私は掲載時に読んだのですが、当時の印象は「怒り」でした。
外務省に手を回して無理強いして婚約させた、という噂がありましたが、それが実証されたからです。
雅子様にはアメリカ人のボーイフレンドがいたのに、CIAがらみで暗殺された、それで仕方なく受諾したという噂(記事?)もあったと思います。
皇太子殿下の熱望はあったとしても、雅子様にどれほど自由意志があったのか、小和田氏に強要があったのかは、わからないと思います。
それが結果オーライならばいいのですが、現実は厳しいものですから。

ここまでして息子のために動いたのなら、そのあと、どうしてフォローしないのかとも思います。

陛下は、むしろよき父であるというイメージです。戦後の家族の理想像のひとつを演じてきたと思います。
父であることが、天皇であることより優先されてしまう方なのでしょう。
だからこそ、秋篠宮殿下のご結婚を許諾されたのだと思います。

天皇の権力は行使するけれど、責務についてはそれほどではない方という印象を、持っています。日本国家より、個人としての気持ちの方が大事なのです。

秋篠宮殿下のご結婚について、このような記事がありました。

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『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』ブレーン出版


朝日新聞平成1年8月26日、土曜日の一面トップに載った大見出しを見て、各社の皇室担当記者は仰天した。

 もちろん、各マスコミは、一般読者より早く朝日の記事をキャッチしたが、それも午前3時頃。全国紙は、お互いの特落ちを警戒するため、大阪で朝刊遅版の交換をする習慣があるが、まさにそのとき。朝日のスクープは最終版に載り、もう他社は手が出せない状況だった。

 なぜか、朝日新聞の単独スクープとなった礼宮さまの婚約。ほとんどすべての皇室関係ジャーナリストが、お2人の交際を知っていただけに、「まさか」と言ったきり開いた口がふさがらない、とはこのことだった。

 当然、すべての皇室関係記者はたたき起こされ、深夜の情報確認作業が開始された。まずは、宮内庁。ところが、この日は土曜日とあって職員は登庁せず、さらに宮尾磐、宮内庁次長と中野公義秘書課長も金曜日(25日) から休暇をとっていた。当然、宮内庁長官藤森昭一氏のところへ、各社から問い合わせが殺到した。しかし、返ってきた答えは「ノーコメント」。とりあえず、 長官と山本悟侍従長は、この朝、天皇、皇后両陛下が那須へご静養に行かれるのを見送るため、御所に上がる予定で、それを待つこととなった。

 とはいえ、待っているだけではすまないのがテレビ。NHKは午前7時のニュースから、朝日と同じトーンで“礼宮さまご婚約”を伝えたのだった。

 いま、あのときの騒ぎをふりかえってみると、まったくもって、どうしてああなってしまったのかと改めて思う。

 情報が入った朝日新聞をのぞいては、各マスコミとも、こんな時期にそんなことは起こりえないと信じていたからだ。

その理由は、整理してみると、およそ次の4ポイントだった。

1、昭和天皇の喪中期間中であり、そんなときに慶事の発表はありえない。

2、礼宮さまはまだお若い。23才。結婚を急ぐ年齢でもない。

3、しかも、礼宮さまはまだイギリス留学中の身。お相手の川嶋紀子さんも、まだ大学院生になったばかり。

4、兄・浩宮さまをさしおいて、弟君が先に結婚なさるとは、皇室の伝統から考えてありえない。

――以上、すべて、これが常識といえる範囲の考えだが、この常識がいとも簡単に破られてしまったのである。

 思 えば礼宮さまという方は、皇室の常識が通用しない“自由気まま”なところがあった。そのせいで、各社とも『いずれは川嶋紀子さんと』と思って記事は用意し ていたが、少なくとも『今年はない』と考えていた。正直いって、兄君・浩宮さまのお妃選びの方がマークすべき大問題であり、特に、天皇家においてはご兄弟 が順序を逆にして結婚された例がないので、マーク外でもあったのだ。

(中略)

 朝日のスクープは、岸田英夫編集委員をキャップとする4、5人の社会部皇室取材班によってなされた。昭和62年 の新聞協会賞をとった『天皇陛下、腸のご病気』という記事も、このチームによる努力の成果。いま最も皇室記事に強いというこのチームが、「礼宮さまが ちょっと変だな」と感じはじめたのは、筑波学園都市で開かれたナマズの研究発表のときだったという。このとき英国から帰国されていた礼宮さまは、いつも以 上に報道陣をさけているように見えたというのだ。

 そんなおりの8月25日、“川嶋家の両親が赤坂御所に招かれた”という情報が朝日にもたらされた。情報といっても当日張り込みをしていたわけではないから、だれかしらのニュースソースがある。しかし、これは朝日の秘密。

 ともあれ、礼宮さまのこと以外で川嶋家が御所にあがるはずがない。しかも、御所に招かれること自体が、異例中の異例のことだった。朝日はことここにおよんで、お2人の婚約の確定を打ったのである。

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ここに書かれているように、「まさか」という感情をほとんどの方がもたれたと思います。
慶事というよりは、驚きや衝撃という感じだったと思います。

それが報道されるにつれて、不信感や懸念にかわっていった人も多かったのではないでしょうか。
川嶋教授のあまりの品のなさに驚き、紀子さんの庶民というにも足りない素養にも驚きました。
いくら庶民とはいえ、華道や茶道の免状も持たない女性が皇族になるというのは、驚愕というべきものです。
あまりにも上流階級からはほど遠いけれど、「どうしてもこの人」と思わせるものがまったく本人にもない、「何故、この時期に」と納得できるものもない、あまりにも不自然で不審な印象を与えるものだったと思います。

ご結婚後も、皇族にふさわしい教養を学ばれて成長されるわけでもなく、エレガントさも身につけず、ただ贅沢だけをしている姿は、見苦しいとも言えます。
内親王のおふたかたも、皇族らしさがないお育ちになりつつある現在、やはり、このご結婚は失敗だったと断言できると思います。

この婚約会見が、常識の堤を切った、それが平成の皇室とその報道になったと言えるでしょう。


入江為年氏は、雅子様が最初に皇太子殿下をお会いになったのはハーバード時代とも語っているはずです。
詳細は確認できないままですが、その頃、お妃候補のおひとりになられたということだと思います。

『FLASH』1989年9月19日号には、雅子様を「お妃候補としてピックアップしたのは美智子さま」という記事もあったようです。
“皇太子妃は民間から迎える”ということを絶対の条件とする宮中改革派と、それを阻止する保守派がいたらしいと、当時の記事には書かれていますが、こういう対立構造をつくるのはマスコミの常套手段ですから。

宮家や常磐会が旧華族から妃を迎えるべきだという意見が強く、雅子様に反対していたということはないと、当事者は否定しています。
皇后陛下は、自分と同じ民間からというご意志だったといわれていますが、ただ、皇太子殿下のご希望だったからという理由だったのかもしれません。
天皇陛下が友人(郁沃会:学習院初等科時代以来のご学友グループ)を動かしたのは、強行突破ということだったとも言えます。


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中絶の事実を証明しても (すみません匿名で)
2016-09-23 09:20:18
日本ではある程度条件を満たせば、法的に中絶は認められています。条件もかなり拡大解釈され、実際にはほとんど自由意志で可能です。
仮に紀子さまが中絶をしたことが証明されたにせよ、「だから何?」と言われれば、「お嬢様としては下半身が緩すぎる」くらいしか言えません。法律を犯したわけではないのです。

でも受精卵の性選別は、技術的にも最近のことだし立法化されてないにしろ、産婦人科学会では禁止。
伴性遺伝病がある場合のみ認められますが、この場合は女児を選ぶ。
これは医者が自分の保身のためにも、口が裂けても「やりました」とは言わないでしょう。

女性作家のどなたかが、言葉は忘れましたが、「国民が誰しも妊娠の経緯に疑惑を持った。そんな疑惑を持たれたお子さんが天皇になるのは問題」と書いた。
でもその声が大きくなることはなかった。
「気づいているけど知らないふりをしよう」という態度をマスコミは取った。

でも悠仁さまを見るたびに「あの時、不自然な方法で作られたお子さん」という思いが付きまとう。
国民の象徴として曇りない心で尊敬を抱くことは出来ないでしょう。
男系男子にこだわるあまり、結局は皇室離れを起こしてしまうでしょう。

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岩井克己が書いた記事 (Unknown)
2016-09-21 22:49:16
文藝春秋だったか記憶が定かではないのですが。


岩井克己は,
「昭和天皇が崩御された日の夜,当時の宮内庁職員らが“これで皇室はお終いだ。”と泣きながら酒を飲んでいた。
“どうして泣くのですか? これから若く新しい天皇の時代になるのに。”と宮内庁職員に聞いた・・・・」
というような記事を書きました。

昭和天皇は突然に崩御されたのではありません。長患いの末に崩御されたのですから,宮内庁職員らは覚悟できていたはずです。しかも昭和天皇は高齢でもありましたので,東宮明仁親王は若いとは言いつつ,それなりの年齢でした。

それなのに何故“昭和天皇が崩御されてしまった。これで皇室はお終いだ。”と,宮内庁職員らが嘆き悲しんだのでしょうか。
その言葉から想像できるのは、(次の新しい天皇は昭和天皇のように立派な方ではない。新しい天皇は立派ではないから,これで皇室はお終いだ。)ということになるのではないでしょうか。

宮内庁職員らは(酒の勢いを借りて),新しい天皇の愚かぶりやスキャンダルを吐露した。そしてそれを聞いた岩井克己は新しい天皇と新しい天皇一家に関する弱みを握り,食いこむことができたと考えてよいのではないでしょうか。


これはあくまでも自分の妄想ですが,妄想で片付けられるものでもないと思います。
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正田家・川島家双方と関わる左翼朝日新聞 (anima mea)
2016-09-21 20:04:52
speranza様、INDEX様、「川島某なる者に注意されたし」の件についてコメントをありがとうございました。お返事が遅くなってしまい大変申し訳ございませんでした。

卜部亮吾氏の日記につき、よりによってあの朝日の岩井による完全独占状態の編纂と知り、驚愕しました。これは明らかに川島家や紀子妃とって不都合なことは消されてしまったのではないでしょうか。speranza様がおっしゃるように「Kなる者に~」という感じでイニシャルで形跡が残されているのであればまだ望みはあるのですが、あの岩井ですから…。

そして別トピックで、上記日記が生前の卜部氏本人から朝日新聞社に託されたとINDEX様のコメントにありましたが、そのいきさつは本当に怪しいと思います。そもそも朝日は元々が左翼新聞社であるから皇室の存在自体には反対のはず。それなのに岩井を筆頭に何でもかんでも皇室関連の情報が朝日に流れてしまうのは何とも不気味です。何のための「情報収集」なのか?
そして紀子妃だけでなく、美智子皇后まで朝日好きだったとは…色々調べてみると、朝日の佐伯晋という記者が正田家と懇意にし、入内前の美智子さんのマリアヴェールの写真(この写真は物議を醸したらしいですが)を撮ったこともあるとか。

「皇太子妃きまる 正田美智子さん」という内容の当時の朝日新聞の号外画像(マリアヴェール)
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140105000642_commL.jpg

(こうして見ると、紀子妃だけでなく、美智子皇后の入内の経緯も十分怪しいと感じてしまいます。なぜ、双方ともよりによって左翼新聞社の“朝日”なのでしょうか?)

川島一家が礼宮との結婚をごり押しするために手段を講じたことは確かなようですが、これから即位の礼を控える両陛下に突き付けた「脅しネタ」は、本当に何だったのでしょうね。今上陛下は昭和帝が廃止したとされる側○制度を事実上復活させてしまったという噂もありますし、美智子皇后の方は実家の正田家や、正田家と姻戚関係を結んだ安西家の方で何か問題を起こしたのでは?という推測が成り立ちますが、あくまで噂・推測です。ただ安西家の昭和電工が新潟水俣病を起こしたのは事実ですし、現在問題となっている豊洲新市場も元々は、安西家が長年君臨してきた東京ガスの工場跡地という事実もあります。美智子皇后のお陰で、正田家や安西家が色々と恩恵を受けてきた事実は否定できないのではないでしょうか。隠したい問題も山ほどあるはずです。

そして、両陛下に関する「脅しネタ」を掴むことのできた朝日とタッグを組んだ川島家が普通の家庭とはとても思えません。ただの教授一家にここまでできるとは思えないので、川島家のバックには相当の組織がついていると見ることができます。
ちなみに川島辰彦氏も娘を皇室に入れた後、様々な組織の役職を色々歴任しているようですね。その一覧が見つかり次第、またこちらに挙げられたらと思います。
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今の川島家 (同い年)
2016-09-18 21:47:05
紀子の弟は、東日本大震災に遭遇したような事を言って、募金詐欺まがいの事をしていたとか、従兄弟らしい親類は、資格も無いのに、建築士と言って商売をしているとか、色々怪しげな話がありますね。
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間違い修正 (INDEX)
2016-09-18 16:21:29
同い年様宛てに書いたコメントで、間違いがありました。

誤り:その時点で、辰彦氏の長男・敬一氏はすでに故人と記載。
修正:その時点で、孝彦氏の長男・敬一氏はすでに故人と記載。

紀子さんの父は辰彦氏、祖父は孝彦氏、曽祖父が庄一郎氏、ですね。失礼しました。
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コメント御礼 (INDEX)
2016-09-18 14:20:32
★塩化ナトリウム様

>当時パソコン通信はありましたが極一部で、現在ほどネットが一般家庭に普及していなかった時代に一気に広まったというのは特筆すべきこと。デマというのは時間が経つにつれて、どんどん変化して原型が無くなってゆくものですが、この話に関しては全く変化していない。デマであれば、2回ではない10回だ、2は生んだ子供の人数だ、になってもおかしくはない。それが噂によるデマというものです。しかし、これほど全く変わらないというのは、デマではなく事実だと断定することに疑問をはさむ余地はないのです。

デマかそうではないかを見極める考え方を示していただき、ありがとうございます。
こうした考察を補強する一般の人々の声(ネットに書かれた信憑性のあるコメント)を、できるだけ多く、集めていきたいと思っています。

★塩化ナトリウム様、キキョウ様

池内さんの発言のご紹介、ありがとうございます。こうした評論家やコンサルタント、精神科医などという肩書の人たちから、手前勝手な思い込みで批判される雅子さまが本当に痛ましいです。

>事実を知っている人は大勢、現実にいるわけです。ネットの場合は、活字メディアには決して載らない話を拾い集め、残していくことができます。公的な記録では抹消されてしまう事実を、後世に残していくということで、大切な役割なのではないでしょうか。

その役割は、大勢の人が担うことで、可能になると思います。可能な範囲で、コツコツ続けていきたいですね。

★匿名さま

貴重な情報、ありがとうございます。堕胎や受精卵選別懐妊は担当医師や看護師に守秘義務がありますから、たとえ事実であってもそれを証明することは不可能。傍証を固めていく以外にないのだと思います。葬られた命、生まれてきた命を思うと、なんとも気が重いことですが。

>結局はそれを良いことに、「あれは根も葉もない噂」で有耶無耶にされる。

有耶無耶にすることで、野望のために命を犠牲にする人、生命倫理をふみにじる人、それを許す人たちが、もっとも清らかであるべき皇室を牛耳ることになってしまうわけですね。実際、秋篠宮家が皇統を乗っ取り、皇室すべてがその子孫で占められてしまう可能性は、少しも減っていないのが現状と思います。

いわゆるデキコンを悪いとは思いませんし、堕胎そのものを批判したいとも思いません。やむにやまれずということも多々あるはずで。最大の問題は、皇室が、平成の天皇皇后が、マスメディアを利用して都合のいい嘘で固めたキャンペーンを張り、国民を騙したことです。

そのマスメディアを使った騙しの手口が、雅子さまや愛子さまバッシングに使われ、佳子さま売り出しキャンペーン、天皇生前退位の正当化キャンペーンにも使われています。これは、ほんとうに恐ろしいことだと思うのです。

戦前・戦中でさえ、皇室自らが国民を騙すために、こんな手口は使わなかったはず。それを、国民統合の象徴となった時代に、ここまでやるのですから。マスメディアは国民を騙す道具として使われるばかりで、告発や追及など願うべくもなく。このままでは恐ろしすぎます。

★anima mea様、speranza様

 「川嶋某に注意されたし」について、私もずっと長いこと気になっていました。たしか「皇居の落書き」ブログで、過去に話題になったことがあったような?

 「注意されたし」の言葉が拾えるとしたら、昭和天皇に長年仕えた侍従、卜部亮吾(うらべ りょうご)氏の日記だろうと。しかし、2007年に発見され話題になったその貴重な日記はなぜか朝日新聞社の手に渡り、あの岩井克己氏の編纂担当で刊行された。岩井編纂では、もし日記にあったとしても残るはずがないということで、暗いオチになった記憶が(うろ覚えです)。

 改めて調べてみたところ、『昭和天皇最後の側近 卜部亮吾侍従日記』は全5巻で刊行。第1巻(昭和45~昭和59年)、第2巻(昭和60~61年)、第3巻(昭和62~63年)、第4巻(昭和64~平成2年)、第5巻(平成3~14年)。いずれも「卜部亮吾 (著)、 御厨 貴:岩井克己 (監修)」となっています。関連書籍に『卜部日記、富田メモで読む人間・昭和天皇』(朝日新聞出版、2008年3月)があり、これは半藤一利・御厨貴・原武史の鼎談での解説ということです。

 ご参加の皆様のご協力で、いつか「Kに注意されたし」の出所が確認されるといいですね。及ばずながら私も、これらの本をあたってみようと思います。

★同い年様

 紀子さんと礼宮の婚約が正式に皇室会議で認められた1989年9月12日の朝日新聞に、川嶋家の家系が掲載されています。その時点で、辰彦氏の長男・敬一氏はすでに故人と記載。次男が紀子さん実父の辰彦氏(学習院大学教授)、三男が行彦氏(東京国際大学教授)とあります。たしかに故人とはいえご長男の情報はもう少しあってよさそうです。

 同記事によると、紀子さんの曽祖父にあたる川嶋庄一郎氏は明治3年4月、和歌山県有田郡清水町に松浦平吉氏の次男として誕生。寺子屋でも抜きん出て利発な子で、明治27年、東京高等師範学校卒業の年に、川嶋家の婿養子に迎えられます。川嶋家は和歌山市ではよく知られた元庄屋の旧家で、婿となった庄一郎氏は、京都、富山、滋賀の各師範学校の教諭を経て明治34年に学習院教授となります。川嶋家の菩提寺は和歌山市北ノ新地1丁目にある専念寺で、紀子さんの祖父の孝彦氏まで代々が眠っているとのこと。

 紀子妃・雅子妃とも、ネットでは出自論争が繰り広げられています。紀子妃の場合、父方家系ではもともとの松浦家が被差別だったという指摘が繰り返されているようです。また、母方家系は朝鮮半島の出自ではないかという指摘もなされているようです。しかし、問題、朝鮮問題とも根が深い問題で、よほどの覚悟と準備がなければ手を付けられない問題ですよね。

ネットの匿名性に守られているからこそ可能な出自論なのだと思います。こうしたことについて、マスメディアはネットより遥かに不自由ですから、紀子妃については菊タブーも合わさって弐重参重のタブーが張りめぐらされ、アンタッチャブルな存在になっているのかもしれません。

 しかし、匿名が許されるネットでも、結果として差別を助長するような言論は、やはり批判されて当然と思います。いかに重大な事実を検証するためと言っても、自戒してかかるべきかと。同い年様はじめ、この問題に関心を持つ方々で資料調査などを進め、相当の準備ができたところで、検証を開始するというのが妥当なのではないでしょうか。もし、検証を進めていく方法についてアイデアがあれば、ご教示ください。
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川島孝彦氏、庄一郎氏との関係 (同い年)
2016-09-17 13:30:37
Wikipediaを見ると川島辰彦の父親とされる孝彦氏は、戦前戦後、官僚として活躍し、叙勲も受けている。しかし、辰彦は孝彦氏の次男と記載されているが、長男の名前がない。昔の事だから、長男は夭折したとも考えられなくはないが、曲がりなりにも、時の首相に政策提案が出来た人物なら、長男の名前の記載はあって当然だし、戸籍を調べればわかる事。記載がないのが不思議だ。祖父とされる庄一郎氏は一時、学習院教授を勤めており、それが、後に辰彦が学習院教授となった理由とも取れるが、紀子の皇室入りが決まって、突然親戚面して墓参りに来て、写真だけ撮影して公表と言う経過がおかしい。普通先祖を遡る程、情報は薄くなるが、川島一家の場合は、時代が下がる程、怪しくなる。戸籍の売買は今現在も横行しており、紀子の父方、母方の出自が事実がどうか検証の必要がある。
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「注意されたし」はありました (speranza)
2016-09-17 09:47:18
anima mea様。

「川島某なる者に注意せよ(注意されたし)」ですが、ここ6~7年で読んだ書籍の中に「Kなるものに注意されたし」と昭和天皇がおっしゃったと書いてあるものがありました。

イニシャルになっていたので「川島某」はまずいということなんだろう、と思ったことを記憶しております。

手持ちのもの(昭和天皇関係でも数十冊あります)だけではなく図書館の蔵書も呼んでいますので、なかなか現物にたどり着けないかと思いますが、たしかに文字になったものがあるはずです。
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事実です (すみません匿名で)
2016-09-17 09:44:17
2回の中絶は事実です。
でもはっきりとそれを知っている人が話すことは、職務上守秘義務違反になります。
「絶対秘密だけど」と、広がっていったのでしょう。
関係者の実名を口外すれば、その人の立場を苦しくします。
ここでも証明することは無理だと思います。

結局はそれを良いことに、「あれは根も葉もない噂」で有耶無耶にされるのでしょう。

今でこそタレントの婚約発表ニュースで「妊娠はしていないそうです」と付け加えるくらい、出来婚が当たり前みたいになっています。
でも当時は、少なくとも女性には結婚まで貞潔が求められました。
恋人であっても二人きりになってはいけない。部屋のドアを開けておきなさいと教えられたものです。
結婚式後に月足らずで赤ん坊が生まれたら、皆の揶揄の対象になりました。

「結局は責任を取ったのだから良いではないか」という意見には、当時の時代背景を考えるべきです。
良家のお嬢さんなら、きっぱりとそういう関係を拒むものでした。
1回失敗すれば二度とこういうことはすまいと思うはずが、また繰り返してしまった反省の無さ。
命を葬ることへの罪悪感の無さが、今度は命を選別する行為の抵抗の無さを証明しています。

学生時代の写真を見ても、「ああ、そういう関係だったな」と思わせるしどけないものがたくさんあります。
あのサークルの合宿は当時の学習院ではピンクツァーと呼ばれて、まともな学生は近づきませんでした。
確かに生き方の要領は良いけど、モラルの低い女性を皇族にしてしまったことが残念でなりません。

池内ひろ美氏がそんなことを言っていたのですか。
それでよく結婚コンサルタントなどやってるもんです。

皇太子妃と宮妃の重圧の差。仮にお子さんができないのが宮妃なら、そんなに責められなかった。華子様や他の宮妃方は責められてませんね。

それが皮肉に宮妃には難なく子供が生まれ、皇太子妃は中々できなかった。それも多分男性側の理由で。
でも女が責められ人格否定までされ追い詰められた。
庶民でも田舎ではまだあることでしょう。
たくさんそんな例を見ているはずの職業の人が、この程度の理解力。
そのタイトルを返上しろと言いたくなります。
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「2回の…」を「いわれのないバッシング」と切り捨てた評論家 (キキョウ)
2016-09-17 00:09:00
池内さんの発言、検索したら出てきました。

>エリートか、叩き上げか国民を二分する「雅子妃派」と「紀子妃派」あなたはどちらの生き方に共感しますか? 「週刊現代」2013年6月22日号より
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36140?page=1

(引用はじめ)
「紀子妃を推したい」と明言するのは、夫婦や家族問題のコンサルタント・池内ひろ美氏だ。
「紀子妃は、ご成婚の際、さまざまないわれのないバッシングをお受けになった。たとえば、学習院の職員宿舎育ちの世間知らずとか、在学中に秋篠宮殿下に近づいて意図的に妊娠したというとんでもないものもありました。それでも、紀子妃は笑顔を絶やさなかった。それは男性に守ってもらうためではなく、女性がみずからを守るために必要な笑顔だったと思います。

あのたくましさ、あの覚悟はもっと高く評価されるべきです。幼い頃や学生時代は少々頼りなく見えた秋篠宮殿下が、あれほどご立派にご公務を果たしているのは、紀子妃の支えあってのことだと思います」

「皇室の女性」という観点から、雅子妃については次のように指摘する。「天皇家には戸籍がありません。我々一般国民とは違う。であれば、その役割を果たすべきだと考えます。

皇太子夫妻の問題は、時に公より私が優先されているように国民が感じるところです。一般人なら仕事と家庭の両立は大切ですが、皇室においては、まずは皇太子と皇太子妃としてのお務めを果たすべきです」
(引用終わり)

心の病について無知のまま、ずいぶん的外れなことを言っていますね。よくこれで「夫婦や家族問題のコンサルタント」が務まるものだと呆れます。

一般女性が堕胎をテコにして皇族と結婚し、宮妃さまになったということは、活字メディアではぜったに取り上げられない話。根も葉もない誹謗中傷ということで片付けられてしまうのは、いわばお約束です。今後も、活字メディアに掲載されることは、絶対にないでしょう。

しかし、事実を知っている人は大勢、現実にいるわけです。ネットの場合は、活字メディアには決して載らない話を拾い集め、残していくことができます。公的な記録では抹消されてしまう事実を、後世に残していくということで、大切な役割なのではないでしょうか。
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2回の・・・を記事に書いた人がいます。 (塩化ナトリウム)
2016-09-16 23:19:31
「2回の・・・」という噂についてですが、池内ひろ美という人が皇室記事において「紀子さまは、そういう噂を立てられて」と発言して文字になっています。

数年前の記事だったと記憶しています。
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川島辰彦 (同い年)
2016-09-16 22:33:29
礼宮と紀子の交際の始まりを考えると、父親の川島辰彦がどういう経緯で、学習院の教授になったのかが知りたいですね。礼宮との交際前から、学習院馬術部長の立場で明仁、美智子と知り合いになる。紀子を売り込む本命は浩宮殿下だったのでしょう。川島辰彦のオーストリア行きは、単なる研究の為と言うより、川島一家を浩宮殿下に近づけない為かと疑います。海外で研究して箔がついたのなら、学習院以外の大学教授になっても不思議ではないはずが、なんとしても学習院に戻り、紀子を皇室に入れたい。相手が皇族とは言え、女癖の悪い礼宮に、わざわざ自分の娘を売り込む様は、まともな父親のする事ではありませんね。
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「川島某なる者に注意せよ(されたし)」 (anima mea)
2016-09-16 22:27:31
川島紀子さんが礼宮に何としてでも近づこうとするエピソードがたくさん出てきていますが、昭和帝もこの件については当然ご存じで、「川島某なる者に注意せよ(注意されたし?)」というお言葉を残した、というお話を聞いたことがあります。
INDEX様のコメントにも
>この後、5月には早々と婚約発表が朝日新聞によってスクープされるのですが、そのときの報道でも、天皇が紀子さんとの結婚には反対していたことが書かれています。
とあります。
この昭和帝の「川島某~」というお言葉の出所についてですが、自分で調べてもよくわかりませんでした。昭和帝について記した著書の中に出てきたものなのでしょうか?それとも、当時の新聞記事や雑誌記事で書かれたことなのでしょうか?

もし川島紀子さん(あるいは川島親子揃って)が昭和帝からも明確に疎まれていたのだとしたら、紀子さんと礼宮が昭和帝の喪中にわざわざ婚約会見を行ったのも、ある意味昭和帝への嫌がらせというか意趣返しのように感じてしまうのです。

どなたか「川島某なる者に注意せよ(注意されたし)」という、昭和帝のお言葉のソースをご存じの方がいましたら、挙げていただけると有り難いです。よろしくお願い申し上げます。
※東宮アンチは必死に「昭和帝は礼宮と川島紀子さんの交際を喜んでいた」という嘘を言っているようです。そして一方で「昭和帝は皇太子殿下と雅子様の交際や結婚に反対していた」という嘘も言いふらしています。
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礼宮と紀子の婚約発表後 (塩化ナトリウム)
2016-09-16 16:57:30
礼宮と紀子は同窓であり、しかも同じサークルメンバーだったということもあったのでしょう。
婚約発表後には学習院生による証言がワイドショーを賑わせました。

その中に、
「礼宮と紀子さんは以前から仲が良くてね。
どこへ旅行した時でしたか?
二人が姿を消してしまいましたね。
二時間ほど行方不明でしたか。
みんなで探しに行くと海岸で二人いましてね。
その時、紀子さんの顔が赤かったよね。」
というようなことを、複数の学生が証言しました。

この話は全国ネットで放送されていますので、聞いたことのある人間は私だけではないはず。

当時は警護などはどうなっているのだろうと不思議でしたが、同じサークルメンバーが探したということは、警護はさほど多くはなかったのでしょう。

(敬宮愛子内親王も登下校時は警護がつくけれど校内には入らないと、某ルートから実際に聞きましたので、よからぬ男児たちからイジメを受けてしまわれたのは事実と断定できるでしょう。)

2回の・・・というのは噂であり確認する事はできません。
しかし、当時パソコン通信はありましたが極一部で、現在ほどネットが一般家庭に普及していなかった時代に一気に広まったというのは特筆すべきことです。

デマというのは時間が経つにつれて、どんどん変化して原型が無くなってゆくものですが、この話に関しては全く変化していない。
デマであれば、2回ではない10回だ、2は生んだ子供の人数だ、になってもおかしくはない。それが噂によるデマというものです。
しかし、これほど全く変わらないというのは、デマではなく事実だと断定することに疑問をはさむ余地はないのです。




私も「ことは生命に関する話である。」と考えるのでコメントしました。



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平成の始まりの序章となる1985年の出来事 (INDEX)
2016-09-16 15:35:26
 最初の年表は、1989年(昭和64年)からにしていましたが、平成の始まりを明らかにするには、さらにさかのぼる必要があることがわかり、1985年(昭和60年)からに修正しました。

 紀子さんが学習院大学に入学し、実父の川嶋辰彦教授の企みにより、同大2年だった礼宮と学内の書店で出会うところから始めないと、平成の始まりは書けないはずでした。メディアを使って国民に大嘘をつき、この2人の結婚を許したことが、平成という偽りに満ちた時代の幕開け、序章だったのです。

 書店で紀子さんと出会った礼宮は、自然文化研究会というサークルを作り、紀子さんを入会させます。このサークルは名所旧跡を訪ね自然のなかを旅するのが目的と説明され、婚約発表時には二人が出会うきっかけとなったサークルとして紹介されました。しかし実際は、二人が出会った後に作られたサークルであり、事情を知る人たちからは”ピンクサークル”と呼ばれていたようです。前述のように、旅先では2人が同じ部屋に泊まることが黙認されていたわけです。

 しかし、礼宮が紀子さんにぞっこんだったかというとそうではなく、色好みの礼宮はこのほかにも女性をひっかけるためのサークルを作り、同時進行で複数の女性と交際していたというのですから驚くほかありません。以下、『噂の真相』1996年7月号からの引用です。

(引用開始)▼根強く囁かれる秋篠宮の女性関係の噂

 実際、秋篠宮の「女性好き」「プレイボーイぶり」を物語るエピソードはそれこそ枚挙に暇がない。「居酒屋で隣り合わせた女性客をナンパした」 「独身時代、学友に『恋人は7人いる』と豪語した」などなど、だ。中でも象徴的なのが、学習院大学時代のエピソードだろう。

 当時、秋篠宮は「パレスヒルズテニスクラブ」というサークルを主宰しており、キャンパスで気に入った女子学生を見付けたら、必ず学友に命じてこのサークルに勧誘させていたのだ。そして、その勧誘された女性の一人が紀子妃だった。当時の同級生がこう話す。

 「この『パレスヒルズテニスクラブ』というのは、殿下の恋人選びのために作られたクラブだったんですよ。紀子様以前にも、複数の女性を勧誘してアプローチしていましたし、紀子様が入ってからも、同時進行していた女性がいたんじゃないかな。お二人が婚約した際、宮内庁は『自然文化研究会』というサークルで顔を合わせているうちに親しくなったと発表していましたけど、おそらく体裁が悪いので嘘をついたんでしょう。『自然文化研究会』なんて、お二人が付き合いはじめた後に作ったサークルですからね」。

 秋篠宮のこうした女性関係の噂は紀子妃と結婚した後も、なくなることはなかった。「もうひとりの学習院出身の女性がいて密かに付き合っていた」「一時期タカラジェンヌに夢中になり、深夜まで戻ってこず、警護官が大慌てした」などだ。実は3年前、ある週刊誌が秋篠宮のこうした浮気問題を記事化しようと動いたことがある。その週刊誌とは他でもない、当時、美智子皇后バッシングの中心的役割を果たしていた『週刊文春』だ。

「編集部は、当時、美智子皇后批判キャンペーンをやっていたんですが、それが一段落したら次は秋篠宮の浮気の噂を追い掛けるつもりだったんですよ。ところが、宮内庁からの抗議、さらには社長宅に銃弾が撃ち込まれるという事件があって、皇室批判そのものができなくなって頓挫してしまったんです」(元『週刊文春』関係者)。(引用ここまで)

 上記の内容を加味し、年表に1985年分を追加記載しました。紀子さんは学習院大学に入学したその年に礼宮と会い、自然文化研究会に入り、サークルの旅先では礼宮と同宿していたわけです。そしてこの年の冬休み、紀子さんは東宮ご夫妻(当時)に紹介されます。

 『女性自身』1989年0906号によると、東宮ご一家が葉山の御用邸に滞在していた時、御用邸近くのホテルに紀子さんとその家族が宿泊。フォルクスワーゲンに乗った礼宮がホテルに紀子さんを迎えに来て御用邸近くの海岸へ戻り、二人で散歩。そこで同じく散歩をしていた東宮夫妻に引き合わせたと書かれています。

 紀子さんは学習院大学在学中、2回の堕胎をしたとされていますが、その第1回目はこの1989年の秋頃までに実施された可能性があるのではないでしょうか。複数の女性と同時進行で交際をしていたうちの一人を両親に紹介するということは、そういう出来事がなければ考えにくいと思われるからです。1回目の堕胎で両親に紹介させ、2回目の堕胎で婚約を取り付ける…という段階が踏まれたのではないかと推論します。

 これは一人の女性の機微にわたる話であって、こうした公開の場で書かれていいものではないことは重々承知しています。しかし、胎内の子の命を道具にして手に入れた結婚=宮妃の座が、次には生命倫理をおかした男子受精卵選別につながり、現在の皇室の混迷を招いていることを考えると、決して不問に付してしてよい話とは思えないのです。現在の皇室問題のもっとも核になる話として、今後も重きを置いてリサーチし考察していくことを、ご了承ください。
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コメント御礼 (INDEX)
2016-09-14 06:15:41
★にゃーこ様

ご懐妊報道のくわしい資料をご紹介いただき、ありがとうございます。
1999年の朝日新聞・岩井は、許しがたい暴挙でしたね。
結局リークの出所は不明ということで、岩井氏と特別の関係にある紀子妃への疑いは晴れません。新聞協会賞をとった紀宮の婚約内定スクープも紀子妃リークでしょう。
岩井氏と紀子妃は、まさに「手に手を取って」平成皇室に入り込み、そこで協力し合い、ともにモンスターに育っていった印象です。

■記録:都議会のセクハラ発言(ヤジ)事件で甦る、雅子さまへの過酷なセクハラの数々
http://blog.goo.ne.jp/index2013/e/8c44ee5b791af4192acce27e964e1a59

上記トピックで、シロキジさまが岩井氏の鉄面皮に鉄槌を下しています。
>「岩井克己よ」 (シロキジ)2014-06-29 21:11:54

このトピックには貴重な関連コメントが多く、「庶民版平成皇室実録」の最終編集版(構想中)に組み入れたいと思っています。

★がたみん様

ご了承いただき、ありがとうございます。
雅子さまがブラック企業の勤め人のように酷使されていたこと、胸が痛みます。
とくに、愛子さまご出産後、育児休暇を願い出たのを無慈悲に却下された事実には。
美智子さまと違い高齢出産だった雅子さまは、切実に休養が必要だったはず。
御所で、愛子さまとゆったり過ごしていただきたかった。

>今の天皇陛下は公務を減らしたくないとわがままをいっていますが、次代においては、宮内庁にはぜひ必要ない公務はどんどん減らしていってほしいと思います。

昭和時代にまで戻してほしいですね。無駄な予算を費やし、SPを大勢動員させ、ご自分の趣味のようなことに精を出される。それを大層なご公務としてアピールする平成流は、時代に合わない大型恐竜のようなもの。
新しい両陛下は、無駄なお金を使わず、ゆったりと優雅に過ごされるスタイルを、新しい時代に合った公務を、創っていかれると思います。
上皇を名乗るご夫妻が、それを邪魔しないよう願いたい。

★ホロスケホー様

生殖医療の凄まじい進歩は、皇室が大きな牽引力になったとか。
紀子妃の男子選別懐妊は、皇室が生命倫理違反について逡巡した形跡がないことに驚かされます。

>秋篠宮夫婦は、子供を望む全てのカップルを陵辱しています。
そのことをマスコミは黙殺し、称賛一色にそまった事実に戦慄をおぼえます。
平成皇室の最大の罪は、マスコミ操作で国民を騙したこと、騙せない人たちも圧力によって沈黙させたことだと思います。
憲法を守るなどと言っておられますが、巧妙な言論弾圧で日本を百年前に戻してしまった。

★村人さま

「成婚25年目の文書」のご紹介、ありがとうございます。
「私が本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき」などと言っておられたとは。
祝福された2006年に、思わぬ暴露がなされたことに、慌てたのでしょうか。
海外留学を考えていたという嘘にしても、紀子妃が何を気にして糊塗しようとしているか丸わかりですね。
公式の記録には見栄発言が載るでしょうが、庶民版には載りません。
学者たちが採用できない週刊誌やワイドショー、ネットの書き込みなどから抽出された事実を、記録していきましょう。

>喪中だったことについて秋篠宮は「順宮(池田厚子)様のほうが(酷かった)」「両陛下から急かされて式を急いだ」と説明しています。しかし婚約発表会見の時は「川嶋家へのマスコミの報道が過熱した」「皇太子の結婚がまだまだ遅いから」という理由で婚約を急いだと述べています。

 1989年当時の資料を読むと、両陛下は反対していたという証言がかなり出てきます。どう考えても、留学中の身で、祖父の喪中で、即位の礼の前という大変な時期に、学生どうしが結婚する理由などまったくなかった。それが急転直下で許され、称賛一色の報道になっていく。兄の浩宮さまも、立派な人格者の浜尾さんも、その称賛に利用されてしまいます。残念ですが、平成皇室は欺瞞とともに始まり、欺瞞で終わるようです。
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成婚25年目の文書 (村人)
2016-09-13 17:41:27
秋篠宮の銀婚式は宮家だからか会見でなく二人の対談形式にして文書で発表したので
注目もされなかった。ただ嫌なことを記者から質問されず、言いたいことだけ喋れる対談形式となった理由がいくつかの発言から判ります。
出会いについては紀子妃が「私が本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき」と述べています。本屋に行ったのを「本を探しに」とわざわざ。決して礼宮狙いで本屋でバイトしていたのではないと言いたいのかな。でも女子高等科時代は浩宮さまを連想する登山部ですね(笑)
プロポーズされたときのことを紀子妃は「外国の大学院に留学したかったので迷った」と述べています。もし紀子さんが留学していたら礼宮はもっと若い彼女をみつけていたんじゃないかな。それを紀子さんは恐れていたはず。
喪中だったことについて秋篠宮は「順宮(池田厚子)様のほうが(酷かった)」「両陛下から急かされて式を急いだ」と説明しています。しかし婚約発表会見の時は「川嶋家へのマスコミの報道が過熱した」「皇太子の結婚がまだまだ遅いから」という理由で婚約を急いだと述べています。
銀婚式を使って紀子妃が自分のイメージを良くしたいための対談だったのではないでしょうか。
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朝日新聞単独スクープの謎(2) 礼宮と紀子さんの出会いの真相 (INDEX)
2016-09-13 02:44:55
 朝日新聞1989年8月26日(土)の朝刊一面トップは、「礼宮さま ご婚約固まる 同窓・川嶋紀子さん 両陛下、両親とお会い」--他の新聞社を悔しがらせた単独スクープだった。なぜ、単独スクープが可能だったのか? 『週刊新潮』(1989年9月 日号)は、礼宮婚約発表の特集記事の冒頭で、その謎に迫っている。

(引用開始)
 (冒頭部分省略)では一体、朝日新聞はどのような隠密作戦によってスクープをものにしたのか。朝日の広報担当者によると、「礼宮様と川嶋紀子さんとのお付合いは各社みんな知っていたことです。ところが25日午後遅く、川嶋夫妻を両陛下が赤坂御所に招かれたことを、その2時間後にキャッチしたのがウチだったのです」。

 社会部皇室取材班は岸田英夫編集委員をキャップとした4、5人の編成。昭和62年に新聞協会賞を受賞した<天皇陛下、腸のご病気>という記事も、このチームがものにしたスクープだった。「この取材班が、お二人の付合いを約3年前からキャッチ、川嶋家との間に信頼関係を作ってきたわけです。今回のニュースソースがどこかということは別にしても、川嶋家とは信頼関係があって食い込んでいたのは事実ですね」。情報は宮内庁側からのリークではなかったという。

 「いずれにせよ、親御さんだけが御所に招かれたというのは初めてのケース。こりゃ本物だということになります。そこで川嶋家サイドや宮内庁幹部にも確認をとりまして、その過程の中で陛下が皇室会議を開くことを藤森長官に要請したということもウラを取り、最終版指定で出稿したわけです。川嶋夫妻の御所入りという事実を知ったのが午後の5、6時。8時か9時ごろには確認をとって記事ができる状態になっていたようです」。
(引用ここまで)

 上記引用文の中に、朝日新聞の皇室取材班は「お二人の付合いを約3年前からキャッチ、川嶋家との間に信頼関係を作ってきた」とある。つまり、二人が出会って交際を始めたごく初期の頃から、川嶋家は朝日新聞に、礼宮との交際関係を打ち明け、連絡をとりあってきたということだ。なんとも理解に苦しむ話だ。しかも、礼宮と紀子さんの出会いは、父親の学習院大学教授・川嶋辰彦氏が仕組んだものだった。

 1989年前後に二人の交際を取り上げたメディアのほとんどは、礼宮が主宰する「自然文化研究会」で2人が出会い、交際をはぐくんだとされているが、実際は違う。二人は川嶋教授の意向を受けて大学構内の書店で出会っている。旅行を活動主体とする「自然文化研究会」は、礼宮が紀子さんとの交際を目的に作ったサークルで、2人が同じ部屋に泊まることは暗黙の了解だったという。

 以下は2007年のネットの書き込み情報だが、2006年9月、悠仁親王誕生時に二人のなれそめを振り返ったTV番組(ワイドショー)で報じられた内容を記している。(注:記載されているURLはすでにリンク切れ)

(転載開始)
39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 01:31:01
>>33
>入学したばかりの紀子さんが姿を見せ、
>その際、書店主が「川嶋教授のお嬢さんです」と紀子さんを紹介した。

実際は教授が店主に紀子さんを紹介→店主が紀子さんを書店に呼んで礼宮に紹介
http://www.ytv.co.jp/blog/ura_news/2006/09/post_77.html

阿部さん(店主の話)
>阿部さんの話によると、秋篠宮さま(礼宮文仁親王)は、かつての私
>と同じように、暇があると『成文堂』に顔を出し、阿部さんとだべる
>ことを楽しみにしていたそうです。
>そんなおしゃべりの中で、「誰かいい人いませんか」と相談を受け、ひ
>らめいたのが,川嶋辰彦教授のお嬢さん・紀子さんだったのだそうで
>す。その直前、川嶋教授から「娘もいよいよ大学なので宜しく」と紹
>介されたばかりだったのです。
>宮様と紀子さんが初めてのデートは、『成文堂』の奥にある控え室。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 21:39:59
>>39
ある日フラッと川嶋教授が書店に来て
「宮様(現・秋篠宮)がこちらによくいらっしゃるそうですね」と
店主に尋ねたから「はい」と答えると「うちの娘(紀子)を宮様に是非
引き合わせて頂けませんかね」と頼んできて書店での紀子のバイトがスタート
or 客として書店通いがスタート、でしたよ。
川嶋親子の思惑通り2人が出合ってズブズブの仲に・・・
悠仁誕生のときWSで繰り返しこのエピソードを店主が話していたよ。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 09:56:21
>40 しかも直接引き合わせる前に のぞき窓で品定めしたらしいよ。
秋篠宮持ち上げマンセーが のぞき窓で品定めして
変なのにひっかからなくてよかったね・・・と嬉々として書き込んでた。
のぞき窓で品定めする奴も??だが それを持ち上げネタにしてるマンセーも
相当のバカ。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 15:23:49
>>49
書店でアルバイト
(秋篠宮と同学年、紀子さんと一緒にアルバイトした人のブログ)
ttp://kiribako.blogzine.jp/go/2006/09/post_80c0.html
>僕にとって、秋篠宮さま&紀子さまは皇族のなかで特別な存在。
>大学時代、僕は秋篠宮さま(当時、礼宮さま)と同級生。
>ことさらに気どっていえば、ご学友ってことになります。
>紀子さまのほうは、お父君である川島教授の授業を受けてたし、
>なんといっても学内の本屋さん(成文堂)でいっしょにバイトしてた。
>当時の紀子さまは、ヤブ蚊みたいな(失礼!)ラガーシャツを着て、
>いつも構内を元気にジョギングしてた。
>スポーツ好きでアクティヴな女の子って印象。
>秋篠宮さまとはあんまりおつき合いはなかったけど、
>春休み、前述の本屋さんの仮設店舗で新学期の教科書整理をしてるとき、
>いつも遊びにこられてた。
>いま思えば、紀子さま目当てだったんですね。
(転載ここまで)

 川嶋教授は、娘と礼宮の出会いを仕組み、交際が始まると早々に朝日新聞に垂れ込み、虎視眈々と「婚約に持ち込む」時機を狙っていたとみられる。

 上掲の新潮記事で、「(川嶋夫妻が御所に招かれたという)情報は、宮内庁側からのリークではなかったという」とある。つまり、川嶋家サイドからもたらされた情報であったということ。川嶋氏は懇意の朝日新聞記者に、御所に招かれたことをリークしていたと考えて初めて辻褄が合う。それが何を意味するかは、機会を改めて考察したい。

 なお、朝日新聞の社会部皇室取材班は、「岸田英夫編集委員をキャップとした4、5人の編成」とあるが、のちのち紀子妃の忠実な広報マンとなり、雅子さまバッシングで名を馳せる岩井克己氏がその編成に含まれていたことは言うまでもない。
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朝日新聞単独スクープの謎(1) (INDEX)
2016-09-13 02:35:51
 朝日新聞が1989年8月に礼宮と紀子さんの婚約をスクープすると、メディア各社はいっせいに後追い記事を出した。どの社も二人の交際についてはキャッチしていたが、まさか昭和天皇の喪中に婚約発表があるとは夢にも思わず、油断していたという。

 なぜ朝日の単独スクープという事態になったのかを追いかけた記事の中で、もっとも詳しいと思われる『週刊宝石』の記事を紹介したい。同誌は二人の交際を先駆けて記事にしてきたこともあり、朝日に抜かれたことが納得できなかったようで、追及の手はなかなか厳しい。

 記事のさわり部分だけ引用するつもりが、大事な情報を含む文章が多くあって省略が惜しまれ、長文引用になってしまった。朝日単独スクープの事情を詳しく知ることが必要な理由は、当該トピック年表に記した次の「仮説」を固めるためということで、ご了承ください。

>09月12日 文仁親王(礼宮)と川嶋紀子さんの婚約内定、記者会見が行われた。
 昭和天皇の喪が明けないうちに婚約が発表される事態となったのはなぜか? 礼宮との交際中に紀子さんは堕胎手術を受けること2回に及び、これに抗議して実父の川嶋辰彦氏が東宮御所に乗り込んだ。川嶋氏と親交があった朝日新聞(岩井克己記者)と解放同盟の力を背景に、結婚の約束を取り付けたとする見方がある(★)。

 さて、『週刊宝石』1989年9月 日号の当該記事のタイトルは「礼宮婚約報道が朝日単独スクープになった”決め手”」、リードは「朝日が礼宮婚約を”抜いた”のは26日朝刊。夕刊でいっせいに”後追い”した他紙も、2人の結婚について予想はしていたのだが。その裏には」。ということで、記事本文は次の通りです。

(引用開始)
 (冒頭部分省略)そんなサークル活動を通じて親交が深まり、礼宮殿下が紀子さんを赤坂御所に招いたり、葉山御用邸に招いたことも。昭和天皇の危篤が報じられるたびに礼宮殿下は留学先のイギリス(オックスフォード大学で動物学専攻)から一時帰国を繰り返された。そのつど、紀子さんの姿が赤坂御所で見かけられたという。

 こうした関係を、宮内記者たちが知らないわけがない。各社とも記事を書くタイミングを見計らっていたという。ただ、皇太子殿下のご婚約相手がまだ決まらないうえに、現在は服喪期間中。礼宮殿下のご婚約はまだ先のこと、早くても今秋の礼宮殿下のお誕生日ごろ、との”油断”があったようだ。

 「しかし今思えば、こうなる伏線はありましたね。礼宮が皇籍離脱をほのめかしたときです。皇太子より6つも下の若さで、しかも留学中の身。まだ結婚は早すぎると周囲から反対された”新人類皇族”の礼宮さまが、”民間人になれば問題ないでしょう”と天皇陛下にくってかかられた。皇太子のお妃選びに時間がかかっていることもあって、両陛下も仕方なくお許しになったのでしょう」ある宮内記者はそう語っている。

 去る25日、両陛下が紀子さんの両親を赤坂御所に招いたことが記者にキャッチされ、26日の朝日新聞朝刊トップに”礼宮さまご婚約固まる”の大見出しが躍ったのだった。

■両親が御所に入っただけでは(記事の中見出し)

 この記事、あれだけ各紙とも狙っていたのに、朝日の単独スクープとなった。ある宮内庁関係者は、「あの記事は、女性誌の域を出ていませんね。ご婚約が”ほぼ固まった”という書き方だし、肝心の皇室会議がいつ開かれるかも書いていない。ウラを取ることができなくて、こわごわ書いた記事だと思いますね」。そう語るのだが、別の皇室関係者は「それは甘すぎます」と一笑に付して、次のように言う。

 「宮内庁内部、それも上からのリークでしょう。あまり断定的に書くと、リークがバレちゃう。その辺はさすが朝日、巧妙なんです。わざとらしく、25日夕方川嶋夫妻が赤坂御所に招かれたことを書いて、それが根拠だみたいに強調して。なかなかのテクニシャンですよねえ。しかし、各社ともアタマにきてるんです。みんな、アーヤ(礼宮さま)とキコちゃんの仲を壊すまい、キチッとしたところで書こうと考えていたのに、宮内庁が一方的えこひいきで朝日だけにリークしたのは納得できないというんです」。

 朝日と言えば、一昨年の昭和天皇のご病気、手術へ、というスクープでその年の新聞協会賞を手にしている。またしても皇室報道で”してやったり”の単独スクープ。それだけにライバル紙のやっかみも強いわけだ。そのライバル紙、皇室担当の社会部記者が語る。

「朝日が朝刊で抜いたと知ったのは、締め切りを過ぎた午前3時半ごろだった。いっせいに呼び出しがかかり、ウラを取りに走った。しかし宮尾盤・宮内次長と、中野公義秘書課長は金曜日(25日)から休暇をとっていて不在。おまけに土曜閉庁で、26日には職員が誰も登庁してこない。まいりましたよ」。

 藤森昭一宮内庁長官と、山本悟侍従長は、天皇・皇后両陛下が那須へご静養にお出かけになるのを見送るため、26日朝、赤坂御所に姿を見せた。しかし、礼宮殿下のご結婚問題については、山本侍従長は口に指をあてて、「ノーコメント」と、ひとこと。ほかの侍従たちも記者たちを避けるように足早に通り過ぎるだけだったそうだ。

 藤森長官は、赤坂御所に向かうまえ、千代田区内の公邸を記者たちに襲われたが、やはり「ノーコメント」を繰り返すばかりだったという。しかし、両陛下を見送った後は態度を一変させて、「両陛下に会ってお話しした。報道の方たちにキチッとした話をしないといけないでしょうね」。ようやく午前11時から、公邸での記者懇談に応じた長官は、一気にこう話した。「けさ9時ごろ赤坂御所にうかがって、天皇・皇后両陛下から礼宮さまと川島紀子さんの結婚について、公式な手続きをとってもらいたい、という話を承った」。 =略=

 「記者連中はシラケちゃって、”よくいうよ”という雰囲気だったようです。大事なところは朝日に抜かせておいて、ということでしょう」。前出の皇室関係者はそう語っている。あるテレビ局の報道関係者は、「川嶋夫妻が25日に御所に入った情報は、東京新聞もキャッチしていたということだ。そのため朝日が、先に抜かれては困るというので、先手を打ったと聞いている」と言っている。

 しかし、ライバル紙記者は、「天皇が(注:「両親が」の校正見落としと思われる)御所に入っただけでは記事は書けない。おそらく朝日は、御所の中での話の内容までもキャッチしたとしか思えないね。そういうここ一番の情報が同時に入手できたのだろう。強いコネクションがあって、ポンと電話ひとつで…」。朝日の”決め手”は、あのスクープ記事に書かれていないところにあった、というわけだ。別のライバル紙記者は、こう言う。「皇后さまが朝日をお好きらしいんです。今年の春には、朝日の大幹部の一人を赤坂御所に招いていますしね」。そのことが宮内庁長官のリーク(?)につながったとしたら、うがちすぎだろうか。

■「それだけは言えません」(記事の中見出し)

 うがちすぎとも思える観測はほかにもある。ある宮内庁関係者が語るには、「左寄りだと言われる朝日が、なぜか皇室と蜜月関係にあるんだな。どこかに強い仲間意識があるんじゃないのかな。宮内庁、朝日とも東大出身者が多いでしょう。東大閥ですよ。古くは義宮さま(現常陸宮殿下)と華子さまのお見合いをスッパ抜いたのも朝日だったしね」。

 東大閥で蜜月関係が生まれるなら、他の官庁でも、ということになり、説得力に、?符がつく。しかし、朝日が宮内庁周辺に強い”決め手”を持ち合わせているのは否定できないようだ。朝日新聞東京本社、神塚明弘社会部長に今回のスクープについて聞いてみると--。
 「ラッキーだったこともあるが、社会部の番記者たちの努力が報われたということです。この件ではどの社も横一線で、怠りない取材態勢をしいていたが”きっかけ”がなかった。そこに川嶋夫妻の御所入りという事実が飛び込んできたのです」。
 --根拠はそれだけですか?
 「いいえ、それだけではまだ書けなかった。そのほかにいくつかの判断材料があって、自信をもって書いた。判断材料? それだけは言えません。しかし、いいかげんな情報ではない」。
 --宮内庁内部に強力な情報源があるのでは?
 「なかには”皇族からリークされてるだろ”という非とまでいますが、まさかそんなこと(笑)」
 --各社ともひかえていたのに、これでは報道合戦がメチャクチャになるとの声もあるが?
 「事前の協定はなかった。うちが書かなくてもいずれどこかが書いたでしょう」

 リーク説の真相はともかくとして、このニュース、最近にない明るい話題を振りまいてくれた。皇室関係者によれば、宮内庁の内部には、「あと半年もすれば喪が明けるのに、天皇は礼宮のわがままを抑えることができなかった」と慨嘆するむきもあるのだとか。=以下略=
(引用ここまで)

 この記事で、引っかかるところがいくつかある。まず、「両親が御所に入っただけでは記事は書けない。朝日は、御所の中での話の内容までもキャッチしたとしか思えない。ここ一番の情報が同時に入手できたのだろう。強いコネクションがあって、ポンと電話ひとつで…」という部分。「御所の中での話の内容」を朝日に「ポンと電話で」伝えられるのは誰か? この後で紹介する『週刊新潮』の取材では、「情報は、宮内庁側からのリークではなかった」ことが明らかになっている。

 もう1つ気になるのは、「皇后さまが今年の春、朝日の大幹部の一人を赤坂御所に招いていた」という情報だ。上掲「仮説」のコンテキストに従えば、「紀子さんの中絶という極秘事項」を握る朝日新聞の大幹部が皇后と面談し、川嶋教授の意向を伝えたという見方も可能だろう。
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当時の妊娠検査薬 (ホロスケホー)
2016-09-12 19:59:46
当時の妊娠検査薬は現在のものほど正確には判定できませんでした。

直ぐには判定できないので、ある程度の時間を要した(置いておいた)のでは?

判定できても正確ではなく、医師による診断を要しました。

生殖医療は凄まじいスピードで進んでいますが、それでも紀子さんのように妊娠6週で心音まで確認できるとリークできたのは、男が生まれるように短期間ではない時間を費やしていたからでしょう。

秋篠宮夫婦は、子供を望む全てのカップルを陵辱しています。
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Unknown (がたみん)
2016-09-12 18:50:36
INDEXさま。

私が書いたものは、実録2にまわすということで、承知しました。遠慮なくよいようにしてください。


さて、倒られる前の雅子様のご公務は過密で大変だったようですが、気になっていたことがあります。
調べていてわかったことなのですが、雅子様はけっこう何回も風邪をひかれて公務を休まれたと宮内庁から発表があるのです。

体が弱いわけでもないのになぜだろうなと思ったのですが、公務でお疲れなら納得がいきますし、にゃーこさまのコメント記事にあるように、妊娠の可能性をまだそうと発表できないために風邪としたこともあったのかもしれないと思いました。
いずれにせよ御大変だったろうと思います。

今の天皇陛下は公務を減らしたくないとわがままをいっていますが、次代においては、宮内庁にはぜひ必要ない公務はどんどん減らしていってほしいと思います。

返信する
2001年 (にゃーこ)
2016-09-12 17:11:25
敬宮さまの時には、さすがに各社は自粛したようです。

朝日新聞は記事があります。
http://www.asahi.com/national/birth/history/010513c.html

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読売新聞
4月16日

宮内庁、異例の「中間発表」 ご公務欠席が相次いで
 雅子さまのご懐妊は、医師団による正式発表ができる時まで、できれば公表は控えたい、というのが宮内庁の本音だった。にもかかわらず、なぜ「可能性」の段階で、「中間発表」に踏み切ることになったのか。
 雅子さまは先月二十六日、国賓として来日したノルウェーのハラルド五世国王夫妻を迎えた宮中晩さん会や翌二十七日の答礼レセプションに出席された。しかし、今月一日、雅子さまの妹夫妻宅で行われた小和田家の内輪の夕食会は欠席された。直前にご懐妊の兆しが見られたためだ。四日から六日までは、太平洋小児外科学会議の開会式出席のため、ご夫妻で京都に滞在される予定だった。しかし、旅行はお体への負担が重いため、宮内庁は、出発二時間前、「妃殿下は、かぜにより、37度台の熱がある」として、雅子さまの京都行きのとりやめを発表した。

 八日に都内で行われた太平洋経済委員会東京国際総会の開会式には、皇太子さまとともに無理をして出席されたが、その後、お体の不調を訴えられていたという。このため、十日のリトアニア大統領夫妻を歓迎する皇居での昼食会は、また欠席された。この時も、宮内庁は「かぜがぶりかえしたため」との説明を繰り返した。

 しかし、今週も十七日の天皇、皇后両陛下主催の園遊会、十八日のウルグアイ大統領夫妻を歓迎する昼食会、二十一日からは沖縄訪問と、連日のようなご公務が控えている。さらに大きな問題は、英国で五月中旬に行われる日本紹介事業「Japan2001」に、名誉総裁の皇太子さまがご夫妻で出席される予定があったことだ。

 英国訪問は近く閣議にかけられる。この時には、日英両国で、皇太子さまお一人の訪問となることを発表しなくてはならない。英国側に事情を説明する必要もある。

 いつまでも「かぜ」で押し通すわけにはいかない。宮内庁側と医師団との協議が続き、雅子さまご自身の意向も打診された。その結果、医師団からは、経過は順調で、一昨年十二月の時と違い、かなり安定した状態に至っていることが報告された。雅子さまも、お気持ちの上での準備を徐々に整えられたという。

 こうしたさまざまな情勢を総合判断して、天皇、皇后両陛下が十六日に静養先の葉山御用邸から帰京された直後に、古川清・東宮大夫が経過を説明。「ご懐妊の可能性」を発表することが最終的に決まった。
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他紙、また敬宮さまがご誕生になった時のものは、また探して掲載できるようにします。
返信する
1999年のご懐妊報道 (にゃーこ)
2016-09-12 16:58:53
1999年末のご懐妊をめぐる問題は、いまに至るまでの皇室報道の問題点が顕著ではないかと思います。

この時、結局リークの出所については明らかにされていませんでした。
一説によると、廃棄物をすべてチェックする皇宮警察が、捨てられている妊娠検査薬を見つけたことだともいわれていますが、はっきりしません。

非常に腹立たしいのは、この時の流産は妃殿下に非があるとデマゴーグを流す輩が居ることです。
せっかくの海外公務をストップさせられるのがイヤで強行したことが原因だとか、ワインを飲んだことが原因だとか。
残念ながら、安静にしていても流産は起こるのです。
この時ベルギーへ行かれていなくても、もしかしたら流産されていたかもしれません。

ましてや、この時のベルギー行きは、フィリップ王太子の結婚式への参列です。
はっきりと妊娠が判明していたのであれば、あるいは、取りやめることは出来たかもしれませんが、皇室外交のもっとも重要といってもいいご公務を、発熱が見られる程度の段階で取りやめることは難しいと思います。
相手国に理由を言うわけにはいかないですし、嘘の診断でご病気を理由にもできません。

4週や5週では、妊娠そのものを確定することは難しく、再検査になる段階です。一般女性でも、まだ誰にも言わないことも普通にあるでしょう。
このベルギー行きには医師が同行していますから、妃殿下は皇太子殿下にも東宮関係者にもお話になって、そのうえで関係者の判断で行われたものだと思います。
医師が「流産防止の黄体ホルモンを投与すればベルギー行きは問題ないと判断した」という記事もありました。

ざっくりスケジュールを書き出ししてみます。

12月1日
ヨルダンのアブドゥラ国王夫妻の晩餐会、歓迎式典

12月2日
両陛下にご挨拶

12月3日~7日
ベルギー公式訪問(フィリップ王太子結婚式)

12月7日
ご帰国・両陛下にご挨拶

12月8日
賢所への帰国後報告および両陛下との夕食会を、「お風邪のため」ご欠席

12月9日
お誕生日のため両陛下にご挨拶
誕生日諸行事、夕食会はご欠席

12月10日
朝日新聞が一面トップに「雅子さま、懐妊の兆候・近く詳細な検査」と掲載(号外も出される)
この記事を書いたのは皇室担当の岩井克己記者(*1)
これをうけてNHKが朝のニュースで報道
さらに民放はヘリコプターから皇居を写したり、小和田家やご家族、ご友人にコメントを迫ったり、大騒動を繰り広げる
朝一番で鎌倉宮内庁長官が取材に「報告はうけていない」「確認していない」
古川東宮大夫が緊急記者会見「ご懐妊と判断できるような段階ではない」つわりや尿検査・血液検査について否定

12月13日
夕方、皇太子殿下とともに東宮御所を出発されて宮内庁病院にて超音波検査など2時間、妃殿下のご希望により検査は安達知子東京女子医大助教授が担当
陛下にご報告のため御所に立ち寄って、ご帰宅
宮内庁総務課報道室と東宮職が連名でコメントを発表
「皇太子妃殿下におかせられましては、本日の拝診及び検査の結果、現在点において、ご懐妊なさっていらっしゃると発表できる段階にありません。
なお、医学的見地からの発表も待たず、先週末来、妃殿下のプライバシーにも触れるような過熱した報道がなされたことは極めて遺憾であります。
今後は、プライバシーなど両殿下の人権を十分尊重し、節度ある報道がなされることを強く求めます。」
夜、古川東宮大夫の会見「両殿下は(ご懐妊の兆候との記事に)大変ショックを受けておられる」

12月14日
新年用映像撮影、夕食会にご出席

12月15日
賢所お神楽の儀をご欠席

12月23日
天皇誕生日、一般参賀ご出席

12月24日
年末の午餐会にご出席

12月30日
夕方、皇太子殿下とともに宮内庁病院で再検査
当初は19時から会見が予定されていたが、22時すぎに行われた。古川東宮大夫、川口東宮侍医長、主治医・岡井崇産婦人科部長(愛育病院)
「繋留流産と診断し、手術をした。術後の経過は問題なく体調は良好」
「7週くらいと推定されるが心拍動が検出されなかったのが決定的」
「雅子さまはおそらく今晩は宮内庁病院でお過ごしになると思う。皇太子さまは付き添っておられる」
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白衣姿のまま会見に同席した検査担当の岡井部長は、「だれでも起こりうる流産」と強調した。しかし、記者たちが「心拍は」「胎のうは」と質問すると、「どこまで話していいのか」と言葉に詰まり、「きょうの時点で、心拍動が検出されないことが決定的だった」と小声で、ショックを隠しきれない様子。
この間、ご夫妻の医療問題の責任者である川口侍医長は、無言で背中を丸め、憔悴し切った表情だった。
また、「最初から心拍がなかったのか」との問いが続くと、古川大夫は「細かいことを追及するのはお控え下さい。ある新聞が(ご懐妊の)兆候ありと流し、どれだけ妃殿下に負担を与えたか」と突然、語気を強め、記者たちをにらんだ。
(読売新聞)
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12月31日
退院される

『毎日新聞』
▽服部孝章・立教大教授(メディア法)の話 新聞もテレビも懐妊の兆しの時点から大きく報道してきたことで、皇太子妃を精神的に追い詰める状況が作られてきた。国民の関心が高く、明るいニュースが求められているのは理解できるが、皇族としてのプライバシーと、一人の女性としてのプライバシーが違うことをもっと考慮すべきではないか。「開かれた皇室」をどう位置付けるのか、メディアの側も考えてほしい。皇位継承もからむ重要なニュースなのは分かるが、まず一人の女性への配慮があってもいいのではないか。

2000年1月1日、朝日新聞に『『雅子さまの懐妊の兆候』の記事について」』という釈明記事が、東京本社編集局長の署名で掲載される
また、社会面には「本社に抗議・意見390件」という記事


*1
私は、「雅子さま 懐妊の兆候」という四十行だけの、新聞の一面トップとしては非常に短い記事を出稿しました。
翌朝、世間は大騒ぎになりました。
宮内庁が朝日を名指しで攻撃(略)。私自身も、激しい批判や攻撃にさらされるようになりました。
平成十二年(2000)十二月には、雅子妃は記者会見に臨み、関係者への感謝の気持ちを表しました。この後、私の名を呼んで、笑顔で話しかけてくれました。痛手から立ち直りつつあることがうかがえ、「許します」というサインのように感じてうれしく思ったことを覚えています。
『天皇家の宿題 』(朝日新書)/岩井 克己

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『週刊現代』
2000年1月特大号

再検査は暮れも押し詰まった十二月三十日だった。午後三時半から始まった雅子妃の再検査は五時過ぎには結果が判明すると報道関係者はみていた。会見は正式懐妊が確認された段階で宮内庁三階の講堂で行われることになっていた。

五時過ぎには大勢の記者団が集まったが会見はいっこうに開かれない。宮内庁幹部も「何も聞いてない」というばかり。

会見が始まったのは午後十時十分。古川・東宮大夫は川口政行・東宮侍医長、岡井崇・愛育病院産婦人科部長と共に会見場に現れ、沈痛な面持ちで、
「皇太子妃殿下におかせられましては、本日、拝診および超音波検査の結果、稽留流産と診断され、流産手術が行われました」と発表した。

報道陣からは「ホーッ」というため息が漏れた。その後、岡井・愛育病院産婦人科部長が稽留流産など医学的な質問に答えていた。古川・東宮大夫は朝日新聞の記者を睨み付け、
「ある新聞が検査結果がでる前に懐妊の兆候という報道をしたことが、妃殿下にどれだけプレッシャーを与えたか改めて申し上げたいと思う」と怒りにふるえていた。

朝日新聞では、会見直後に経営幹部も加えて緊急会議が開かれた。

朝日新聞には雅子妃流産報道の後の三十一日夕刻までに全国から抗議電話や抗議のEメールが390件も殺到し、右翼から抗議の街頭宣伝車が来るという話まで飛び出した。

「社会部長は更迭覚悟だった。しかし、この問題は、社会部長の更迭だけで済むのか。編集局長や経営トップの責任はどうなるのか。議論は激しいものになったと聞いています。結局、朝日新聞らしい決着の仕方を選択した。元日の釈明記事の掲載と、宮内庁への謝罪、そして当面は処分人事は行わないということです。はやい話が、下手な処分をしたら、かえって大事になる。世論の流れを見守るということです。そしてできたのが、あの釈明記事です」(朝日新聞幹部)

釈明記事の内容は、「皇太子ご夫婦が公人の中の公人であること」「国民の重大な関心事であること」「慶事の兆しであること」からあえて報道したとし、「母性の保護という観点からみれば落ち度があったことは、素直に認める」という苦しいものだった。

しかし、東京医大のある産婦人科医によれば「一〇〇%朝日新聞の勇み足」だという。

「宮内庁の発表通りに七週目での稽留流産だとすれば、朝日新聞の報道の時点では妊娠四週目ということになります。そんな時期に妊娠だとはっきりいえる産婦人科医は誰もいません」
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平成の始まりと終わりに噴出した礼宮(秋篠宮)の不満 (INDEX)
2016-09-11 04:17:53
 昭和天皇が崩御して間もない時期に書かれた「新天皇夫妻を悩ます礼宮の反抗」(『週刊ポスト』1989年4月7日号)いう記事を読んでいて、27年前ながら、いま現在、平成が終わろうとしている時期の秋篠宮その人だと驚かされました。最初の部分(見開きの冒頭~3ページ目の半分)を書き出してみます。

■皇太子になる兄に対する礼宮の不満

(引用開始)「いま天皇、皇后両陛下が一番頭を悩ましておられる問題は、世間で思われているように皇太子殿下のお妃選びではなく、じつは英国留学中の礼宮殿下の”反抗”なんです」。ある宮内庁関係者がこう語りだした。

 「1年半ほど前から犯行の度は激しさを増すんですが、これはちょうど昭和天皇が腸のバイパス手術を受けられたころ。兄殿下(浩宮)の皇太子即位が秒読みとなったことで、兄と自分の差を改めて実感するようになったわけです。今後は同じ兄弟でありながら、兄は皇太子として崇められるが、自分の方は万一の場合に備える立場です。

 新天皇陛下の弟である常陸宮殿下を見てもわかるように、皇位継承の可能性がほとんど無くなっても(皇位継承順位三位)、自由を束縛されつづけ、しかも与えられる仕事といえば、地方式典での挨拶やテープカットが主といったところ。こういう、いわばレールにのった人生を強いられたくないというのが、礼宮殿下を反抗に導いているんです」

 皇室典範によると、現在、礼宮の皇位継承順位は皇太子に次いで第二位。だが、今後、皇太子が結婚して男子が誕生すれば、継承順位が一つ下がることになる。二人、三人と男の子が生まれれば、そのたびごとに第四位、第五位と下がっていく。待遇面でも差が開くばかりか、皇室内における存在感じたいが薄くなる。天皇とその弟宮の常陸宮を比べるとよくわかる。=中略=

 「礼宮様は、こういった待遇の差を憲法違反じゃないかと、天皇陛下に詰め寄ったこともあるんです」と前置きして、天皇家に近いある霞会会員(旧皇族、華族で構成する社団法人。正式には『霞会館』会員)は、礼宮の不満をこう代弁する。

 「憲法では、すべての国民は、法の下に平等であると謳われている(第十四条)。しかも、戦後の天皇家は、この憲法を遵守することを誓ってきた。なのに現実は、ご自分は兄殿下に比べ多くの点で差別されることになる。天皇家には人間としての権利が認められないのか、と食ってかかられたんです」。そしてこの時、礼宮は皇籍離脱さえ口にしたというのだ。

 「礼宮様は、皇太子殿下が天皇になられるのはいい。しかしご自分は、皇位継承順位が下がり、その可能性がなくなった時には皇籍を離脱したいとおっしゃった。第一、皇位を継承しないものが国民の税金で養われることはおかしいのではないか。それが駄目なら、皇太子殿下と同じ待遇にしてもらいたい。脇役のような生活を一生強いられるのはいやだと不満を述べられた。しかし、なにも本気で待遇改善を求めているわけではなく、言外に自由が欲しいといっているんですね。これには、天皇陛下は一言も反論しなかったそうです」。
 この霞会会員の証言がもし事実だとすれば、第二次世界大戦後、日本国憲法の下で初めて世代交代した天皇家の内部で、皇族の在り方をめぐる重大な論争がかわされていることになる。(引用ここまで)

 「憲法違反」てアナタ、兄上と同じ待遇にしろというほうが憲法違反なんですがと突っ込みたくなりますね。それに対して反論しない父君というのも不可解。「天皇を支えるのが皇族の役目」と常日頃おっしゃっているらしい天皇陛下、なぜ、「皇太子となる兄を支えるのが弟の役目」と、厳しく一喝しなかったのでしょうか。

 平成が終わろうというとき、即位する兄を妬んで、自分も天皇にさせろ、皇太子にさせろというワガママが皇太弟の身分要求になって現れているのでしょうか。紀子さんも「私は皇后になる人です」と公言して憚らない。東宮家をないがしろにする厚顔なふるまいは、平成の始まりのときに、その種がすでに播かれていたようです。

 後の報道で、兄と比較しての待遇不満というだけでなく、紀子さんとの結婚を許してもらえないことへの苛立ちも相当含まれていたことがわかってきます。

■「渦中の女」記事で、「結婚反対への不満」と断じられる

 上記記事の約1か月後、『FOCUS』に「渦中の女」として、紀子さんの写真が大きく掲載されます。「平成の御世をいろどる”渦中”の女たち」として14人が登場、その一番目に取り上げられています。<礼宮さま「皇籍離脱発言」の陰の「恋人」>という紹介で、皇室ジャーナリストの河原敏明氏が次のように述べています。

(引用開始)「礼宮さまの反抗の原因は、兄との待遇の違いといわれているが、それは当然のこととして育ってきたはず。真相は結婚問題です。川嶋さんは父親が教授とはいえ、教職員宿舎住いであまりに身分が違う。周囲の反対に、”それなら平民になればいいんだろう”とでも仰言ったんでしょう。ロンドンに留学に出されたのも、彼女から離すためと聞いています」。=中略=

 昨秋、昭和天皇のお見舞いのために礼宮さまがイギリスから帰国した折も、紀子さんは東宮を訪れたようだ。またこの3月、彼女は大学の卒業式にも出席せず、イギリスに渡ったとの報道もある。(引用ここまで)

 この後、5月には早々と婚約発表が朝日新聞によってスクープされるのですが、そのときの報道でも、天皇が紀子さんとの結婚には反対していたことが書かれています。
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際限がない (村人)
2016-09-08 21:46:54
週刊文春の記事を読んで嫌な気がしました。
秋篠宮が悠仁親王の「(中学受験)の準備もしておくように」と言ってるそうです。記事によるとお茶附小の男子は他の難関中学を受験する子が多く、お茶附中学は女子が男子の数をはるかに上回るとか。ですが世の父親が言うのならともかく、あの御方が言うと無理を命じているように聞こえます。叶わない願いなど無いんだろうと思います。
また直接読んでいないのですがAERAでは陛下の退位後の尊称とお住まいについて。驚いたのは「生前退位の議論の最中に陛下自らが上皇という言葉を使っていた。そして住まいは今まで通り皇居で、皇太子ご夫妻は即位後も東宮御所のままでは」という識者の意見が載っているそうです。数年前に御陵のことであれこれ注文を付けていたので最期まで天皇の座にいるのかと思っていました。
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ブラック企業? 新婚当時の雅子さまのご公務 (INDEX)
2016-09-04 17:15:53
 当ブログの右下にある「ブックマーク」に、「婆嘘検証(カテゴリー別目次)」のリンクがありますが、これが大変に優れていて、婆=アンチ東宮のとんでもない嘘を嘘と暴く検証がソース付きでなされています。暴くというより、「いつもの呆れた嘘」を嘆息しつつ証拠を挙げて窘めるというスタンスで、なんだかカコイイです。

 久々に読み返したところ、「庶民版平成皇室実録(1)」で必要なソースに該当する検証がいくつかありました。

【1】「宮中に慣れるため3年は懐妊を控えるように」と、美智子皇后のアドバイスがあったと報じられる(★)。

 皇室評論家(?)の渡辺みどり氏が女性誌かワイドショーで適当に言っていたんじゃなかったっけという書き込みに、次のレスが入っています。

>「みどり婆」が「公務に慣れるまでは大変だから三年は・・・と皇后がおっしゃった」と記事に書いたが正解。

 残念ながら、いつ・どこの媒体に書いたのかは言及されていません。今後、女性誌(みどり氏の書きそうな媒体)を調べていくときに、注意してみておきたいと思います。気長にやりましょう。

・婆嘘「三年子どもは作らない」
http://zonho.web.fc2.com/03_7/babauso3nen080622.html

【2】ご結婚からしばらくの間、すさまじいまでのご公務のスケジュールに、「こんな忙しくて子作りが出来るのか」という記事も書かれた(★)。

 たしか、故高円宮様が、新婚当時の多忙すぎる皇太子ご夫妻をいたわって話された言葉だったと思いますが、いつ・どの媒体で読んだかは覚えていません。
 しかし、婆嘘サイトは、それに代わる立派な「証拠」を挙げてくれていました。ご結婚直後の1993年から1998年までの皇太子ご夫妻のご公務表です。(93/6/9から98/4/22までのデータ)

・発病前の公務表(画像)---1
http://zonho.web.fc2.com/04/up10593.jpg
・発病前の公務表(画像)---2
http://zonho.web.fc2.com/04/up10594.jpg

 資料出所:「皇太子さま 雅子さま ご結婚5周年記念 素顔のプリンセス 」(女性セブン1998年6月28日別冊)

 この公務表を見ると、「新婚早々働かされすぎた。宮内庁のスケジュール立てた奴が悪い」というヲチャ様の言葉に納得です。「地方公務の連続で疲労、発熱、1994年1/18以降は発熱でダウン。2/9の結婚後初の会見では顔色が悪く目も充血していた(記者談)」とのこと。責
任感の強い、勉強家の雅子さまが、どれだけ過酷なスケジュールで頑張り続けたか容易に想像できます。日中は地方で秒刻みの移動と人々とのふれあいやイベントに疲労困憊し、夜は寝る間もなく公務に関する下調べや勉強をなさっていたでしょう。いたましいことです。

・婆嘘:結婚していきなり、公務を1ヶ月休んでる
http://zonho.web.fc2.com/04/babauso_rest.html

 もう1つ、「雅子妃が病気になる以前の公務比較表」も作成されています。これは、2001年までを扱う「庶民版平成皇室実録(1)」の期間を超えますが、「実録(2)」で使うよう、備忘録的意味で記載しておきます。

・資料2002年11月/東宮、秋篠宮、高円宮
http://zonho.web.fc2.com/05/koumu200211.html
・資料2002年12月/東宮、秋篠宮
http://zonho.web.fc2.com/05/koumu200212.html
・病中の祭祀に関する資料/2002-2003年
http://zonho.web.fc2.com/05/saishi2002-2003.html

 このほか、雅子さまの「流産に関する検証」もしっかりなされていますので、順次「実録(1)」に追加していきたいと思います。
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「紀宮女帝即位シミュレーション」の謎 (anima mea)
2016-09-04 00:04:39
平成皇室史の情報のソースが必要な★印の付いた部分を補おうと、時間を見つけてソース探しをしてみてはいるのですが、なかなか見つからないケースが少なくないですね。特に今上陛下が「このまま東宮家に子が生まれなければ眞子が天皇になるしかない」と嘆いたとされるソースは、今上陛下が元々は男系男子承継に必ずしもこだわっていないという証拠にもなりうるので押さえたいものですが、まだ見つかっておりません。

しかし、それに関連して少し興味深い過去のニュースを見つけました。

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皇室典範、97年から内閣・宮内庁OBらによる極秘検討会…紀宮さま即位も?

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20051125k0000m010172000c.html
(毎日新聞ですがリンク切れです)

内閣や宮内庁のOBらによって皇室典範の改正を念頭にした極秘の検討会が、97年から開かれていたことが、政府関係者の証言などで24日明らかになった。メンバーは、内閣法制局や宮内庁、総理府(当時)の元幹部らで、天皇家の長女、紀宮さま(黒田清子さん)の即位のシミュレーションも行われた。政府関係者が皇位継承の危機的状態を背景に少なくとも8年も前から検討を始めていた実態が浮かんだ。

会合は特別研究会や懇話会などの名前で、OBを集めて行われ、当時、宮内庁の鎌倉節長官や古川貞二郎官房副長官、大森政輔内閣法制局長官ら現役の政府関係者も参加したこともあったという。97年4月から始まり、皇位継承制度を重要な課題と位置づけ、法律・政治・歴史などの研究者を集めて月1回程度の割合で開いていた。

大学教授らが資料を作成して持ち寄っての勉強会形式で、結果は、今回の有識者会議の資料としても活用された。有識者会議で座長代理を務めた元最高裁判事の園部逸夫氏も当時の研究者のメンバーの一人で、主に法律上の課題や法改正の方向をまとめる中心になっていたという。

皇太子妃雅子さまの懐妊などがあり、研究会は3年近く開かれなかった時期もあったが、03年春から内閣の官房・法制局、宮内庁が公式検討に向けて準備を始め、女性天皇の配偶者に関する項目など具体的検討に入った。関係者の一人は「皇室制度の改正は、天皇家に直接かかわる話で、性質上、細心の注意を払って対応した」と極秘検討の理由を説明している。

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上記ニュースは2005年11月25日のものと思われますが、私が「え?」と思ったのは

>天皇家の長女、紀宮さま(黒田清子さん)の即位のシミュレーションも行われた

という部分です。

そもそも黒田清子さんにはお兄様が二人いらっしゃるので、いくら女帝容認に向けて検討をしていた時期といえども、清子さんが女帝に即位する可能性などほとんどゼロに近かったはずです。それなのにわざわざ敢えて清子さん(当時の紀宮)女帝即位のシミュレーションまで行っていたとは、一体どういう理由があってのことだったのでしょうか。

97年頃といえば東宮ご夫妻になかなかご懐妊の兆しが出ず、海外行きなども阻止されていた時期ですね。まだ東宮ご夫妻にお子様ができていなかったにも関わらず、当時の紀宮の女帝即位シミュレーションを行っていたというのはあまりにも東宮ご夫妻に失礼すぎるし、奇怪に思えてしまうのです。誰かが酒の席などで冗談で「サーヤが女帝になったらどうなるんだろうな?」と話を振るだけならまだわからなくはないですが、元判事や宮内庁長官、政治家などの有識者が集まる政治的な会合で「サーヤ女帝即位」が大真面目にシミュレーションされていたというのは違和感があります。
どういう意図でこんなことが検討されたのでしょうね?

また紀宮は2005年11月に黒田慶樹氏と結婚し皇室から離れて民間人となりましたが、この2人の結婚を取り持った「キューピッド役」として妙に持ち上げられていたのが秋篠宮夫妻、特に紀子妃でした。当時も今も「紀子妃が黒田夫妻の仲を取り持つために尽力した」と美談調に報道されていましたが、私はもしかしたら紀子妃は上記「サーヤ女帝即位シミュレーション」に危機感を抱き、このまま紀宮に皇室に残られて「天皇候補」の一人として扱われてはたまらないという思いがあり、紀宮の降嫁を急がせるために黒田氏を紹介したのではないかという疑いを抱いてしまうのです。天皇候補となる者を一人でも多く除外しておきたいという考えがあったとしても不思議はありません。

ちなみに清子さんが皇族としての身分を失ったという登録が皇統譜にされたのが2005年11月16日であり、上記「サーヤ女帝シミュレーション記事」が出たのはそのすぐ後の2005年11月25日。清子さんが完全に降嫁したことを見計らうようなタイミングでのニュース、何となくきな臭いですね。

このように、当時は「サーヤ女帝即位シミュレーション」まで大真面目に行われていたくらいある意味大らかな空気があり、「何が何でも男系男子承継で」という感じではなかったのではないかと思います。
それが紀子妃が男児(悠仁様)を妊娠する前後くらいから、男系男子カルトとも言うべき気持ち悪い組織が台頭してきましたね。
まあ、こういう連中の正体や真の意図もだんだん明らかになりつつありますが。
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マスコミの扱い (同い年)
2016-09-03 06:53:11
礼宮紀子については、マスコミ側もスキャンダルネタを掴みながら、見て見ぬ振りをして、積極的に紀子入内に力を貸す形。皇太子様雅子様については、どんなに報道自粛を頼んでも、ストーカーのように雅子様に付きまとい、お二人の交際の邪魔ばかり。結婚の話題が下火になり、マスコミの監視が緩んだ瞬間に、なんとか雅子様入内に漕ぎ付けた。強い意志を持って、皇太子様の結婚、雅子様の妊娠出産、愛子様の成長、立太子を妨害する勢力があると言う事ですね。男系とか女系とかの問題ではなく、天皇家乗っ取りが目的。乗っ取りに成功したら、次は天皇家消滅に以降するつもりでしょう。
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紀子さんと礼宮の交際 (INDEX)
2016-09-03 05:05:50
auxiliaさまが挙げてくださり、年表にも記していた「週刊現代」1988年3月5日号「礼宮さま教授令嬢とのデートの親密度 2人っきりで3時間!」という記事の内容が確認できましたので、エッセンス部分を抜粋して紹介します。●印は中見出しです。

(引用開始)●あれっ、今日も来てるの?
 ある皇室関係者が「おめでたいことなのだが、ちょっぴり気懸りなことがあるんです」と次のようにいう。

「東宮御所の礼宮さまを若い女性が一人で訪ねて来て、2人だけでお過ごしになることが多くなった。昨年の後半くらいからなのですが、最初は関係者も、しょっちゅう礼宮さまを訪ねてくるその女性の姿を見て、ほほえましく感じていたようです。ところが、そのうち『あれっ、今日も来てるの』と驚くようになって、近頃は『間違いがないといいが』と心配しているんですよ」

 皇太子殿下の次男坊、礼宮さまも、すでに22歳。この3月20日には、学習院大学法学部政治学科をご卒業になり、名実ともに青年皇族となられる。加えて178cm、62kgのスマートな容姿、そしてすっかり定着したクラーク・ゲーブルのような男らしい口ヒゲ。その”新ヒゲの殿下”に、ちょっとした”事件”が起こった。

 「昨年のことなんですが、礼宮さまがお嬢さんを、ご自分の部屋にお連れしたことがあるんです。東宮職員がそのことをうっかり忘れてしまって、皇宮警察の職員に、『お部屋に入られてから、およそ3時間も経過しております』といわれて、あわててご注意申し上げたことがあった」(皇室関係者)

 なんとも関心のもたれる話だが、複数の証言を総合すると、礼宮さまとその女性の「東宮御所内デート」は、こんなふうらしい。一般には馴染みのない御所だが、その敷地は広く、一周すると、10㎞ぐらいになる曲がりくねった道が通っている。それに池、馬場、テニスコート、プールなどが点在し、デートコースとしての環境は抜群である。その御所内で、おふたりは礼宮さまの愛車であるオレンジ色のワーゲンでドライブしたり、車から降りて池の周りを散歩したり、あずまやで休まれたり、テニスをしたりして楽しまれているのだ。

 また東宮の礼宮さまの部屋は約20畳の広さで、ここに机、書棚、タンスなどの他にベッドが置いてある。音楽鑑賞が趣味という礼宮さまだから、彼女と好きな音楽を楽しむこともあるらしい。礼宮さまとしては、大学生らしい青春をエンジョイされているつもりなのだろうが、周囲の人たちは、ハラハラ、ドキドキの「御所内デート」なのだ。
 =略=

 さて頻繁に東宮御所に足を運ぶ女性というのは、学習院大学で礼宮さまの1年後輩にあたるK子さん、21歳。父親が学習院大学経済学部の教授という名門のお嬢さんで、髪の長い、清楚な感じの日本的美人。本誌が昨年春、「礼宮さまがナイトコールする美人女子大生」と報じて、一躍、礼宮さまとの親密ぶりがクローズアップされたが、おふたりの仲は夜ごとの電話から、東宮御所を訪ねてのデートへと進展していったようだ。
 =略=

●ワン・オブ・ゼムですよ

 この点について、皇太子ご一家と極めて親しい関係者が、K子さんの名前を挙げて、直接、礼宮さまにお尋ねになったことがあった。

「その時の答えは、『自分は深いつきあいをしないように注意している。ひとりに決めず、いまは何人も友人がいたほうがいい。K子さんは、そのワン・オブ・ゼムです。意識されるとかえってお互いぎこちなくなって、自然のつきあいができなくなるから損だと思うのです。K子さんと同程度で会う女性は5~6人いますし、その中には他の大学のコもいます』というものでした。いつもぴったり寄り添っている兄妹のような関係というのが、適切だと思いますよ」

 ともあれ、礼宮さまとK子さんが、「親しい関係」にあることだけは確かなようだ。(引用ここまで)

 この記事は1988年、まだ婚約発表前で、美談記事にする必要は無い時期なので、皇室のことゆえオブラートに包んではいますが、かなり赤裸々に、礼宮と紀子さんの交際内容を伝えています。

 auxiliaさまご紹介の『プリンセス・マサコ』には、当時の礼宮について次のように書いているわけですが、

> エドワード・クライン記者によれば、秋篠宮は「手の早いやつ」というあだ名をつけられていたのだという。同志社大学のジャーナリズムの教授で、長年天皇制を批判してきた浅野健一は、親王が情事を持った女性のうち二人を知っているという。そのうちの一人は個人的な友人の娘だというのだ。川嶋家も娘への責任を取るように要求していた。

 礼宮の遊び人ぶりを伝えるこの記事内容と、週刊現代の記事内容は、しっかり一致していますね。礼宮は「深いつきあいをしないように注意している。ひとりに決めず、いまは何人も友人がいたほうがいい。」と言い、それを聞いたという関係者も「(礼宮とK子さんは)兄妹のような関係」などと述べていますが、皇室関係の記事であり、芸能記事のように男女関係をストレートに書くわけにはゆかず、オブラートにつつんだ物言いになっているのでしょう。

 この時期、礼宮にとって紀子さんは、何人もいる情事相手の一人、ワン・オブ・ゼムにすぎなかったようです。しかし、日本一気楽な次男坊は隙だらけ。2回の中絶の責任を問われ、逃げられなくなってしまい。翌89年、昭和天皇の喪中の婚約発表という異例の事態に至るわけです。

礼宮と紀子さんの出会いから結婚までの経緯について、さらに詳しく調べていきたいと思います。平成皇室の奇怪さを解く重要ポイントが、そこ隠されていると思われますため。

調査はまず、 auxiliaさまご紹介の次の記事について、順次確認することを第一に、当時の新聞記事などもチェックしていきたいと思います。。

・礼宮が皇籍離脱発言(『週刊ポスト』4月7日号)
・渦中の女 「浩宮妃」より先に「礼宮の恋人」(『FOCUS』5月5・12日号)
・スクープ 礼宮さまが学習院大教授令嬢と婚約へ(『FLASH』5月9・16日号)
・反対だらけだった礼宮の結婚(『女性自身』09月06日号) 
・礼宮「ご婚約発表」のあと 平民化に拍車がかかる「新皇室像」
・皇籍「離脱」で抵抗した成果(『週刊新潮』09月07日号)
・礼宮婚約スクープの裏!決め手は両親の赤坂御所訪問だった(『週刊宝石』9月14日号)
・ご婚約“突如内定”なぜ急がれたのか(『週刊現代』09月16日号)
・プリンセスを生んだ川嶋家の「血族と財産」(『週刊ポスト』09月15日号)

ほかに関連する情報や資料があれば、ご教示くださいまし。
 
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天皇皇后不信 (同い年)
2016-09-02 12:38:39
果たして、天皇皇后が入江氏に皇太子様の結婚について、応援を要請したと言う話を信じてよいものか?皇太子様雅子様の結婚が決定する時、何か、妨害を避けるように、一気加勢に話がまとまった印象があります。宮内庁の中は親皇太子派と、反皇太子派に分裂しているのでしょう。
返信する
Unknown (speranza)
2016-09-02 07:53:27
お送りした資料はINDEX様の判断でいかようにもお使いください。

多少なりともお役に立てれば幸いです。
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ソース御礼 (INDEX)
2016-09-02 04:04:00
★speranzaさま

修正版を挙げていただき、また「ご成婚から20年間での外遊回数」までもカウントしていただいて、ありがとうございます。細かい根気が要る作業、大変だったことと思います。さっそく年表へ反映させていただきました。

speranzaさまが作成し送ってくださった、より詳しい外遊に関する資料を、後日掲載させていただきたいですが、よろしいでしょうか?

★にゃーこさま

詳しい資料のご紹介、ありがとうございます。おかげさまで、空白だった1992年の項目を設け、皇太子殿下と雅子様の再会からプロポーズ受諾のところまで書き込むことができました。

しかし、お二人の出会いから結婚まで、こんなにしっかり順序だって頭に入っていなくても、小和田家が、雅子さまが、野心をもって皇室入りを狙っていたなどという作り話は、あの時代を生きていた日本人なら、すぐに大嘘だとわかります。アンチ東宮と言われる人たちは、なんとも無茶な捏造をするものですね。

でも、当時を知らない若い人たちは、ネットの捏造話をころりと信じてしまう恐れがあるようです。歴史の歪曲を許さないためには、こうした資料を挙げ続け、示し続けていくことが大事と思います。

これだけの資料にあたり、抜き書きして示すことは、大変な労力だったでしょう。本当にありがとうございます。

挙げていただいた資料の中で、「入江為年氏の証言」はとくに印象的でした。私は天皇皇后について、まったく良い印象というものが無いのです。最初に持っていた好印象は、弟嫁に男子を選別出産させたあたりから崩落し、立派なはずの象徴天皇は、旧弊で暗愚な農家脳オヤジに転落。その後もずっと転落したままです。

それが、入江氏の証言からは、長男を心から案じ、できることは何でもしてあげたいと思っている父親の情が感じられました。意外や意外、少しホロリとしてしまいました。

また、為年氏の父である入江相政氏が「自分の死後に宮内庁には近寄るな」「善意が善意で通じる役所ではない」と言っておられたということも印象的です。菅官房長官も「(宮内庁は)いったん解体したほうがいい」と言っていたようで、よほど人デナシが跋扈する伏魔殿なのでしょうね。彼らがやってきた東宮ご一家への悪辣な仕打ちを、少しずつでも明らかにしていきたいです。
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香淳皇后の斂葬の儀 (あぶらちゃん)
2016-08-31 18:23:58
ご懐妊の徴候があったのが事実かどうかは確かめようがありませんが、それがなくても、前年末に流産されて6ヶ月余りの雅子さまの体調がまだ通常に戻っていなかったとしても何の不思議もないと思います。
しかも、流産から2ヶ月ほどで公務に復帰されています。
昭和の時代に第二子を流産された美智子さまの扱いと比べてみると、平成の皇室側にどれだけ思いやりがなかったかよくわかると思います。
返信する
野心について (にゃーこ)
2016-08-31 17:22:32
たくさんコメントしてしまって申し訳ございません。
時間のある時に、と思ったものですから。

記事中に、小和田恒氏が野心的と書かれています。
これはアンチがいうような皇室乗っ取りとかそういうことではまったくなく、外交官としての野心だということです。
記事は見つけられませんが、この当時、小和田恒氏は次期アメリカ大使に内定しているという話があったと記憶しています。
事務次官というのは外務省での最高位ですが(もちろん大臣は別です)、外交官としての最高位はアメリカ大使。事務次官のあがりのポストとして、流れからはおかしくありません。

雅子さまが嫁がれることで、政治的なことからは遠ざからなければならなくなります。
アメリカ大使はとんでもありませんし、事務次官もやめなくてはなりません。やはり、小和田恒氏ご本人としても、承伏しがたいことだったと推測します。
結局は国連大使になられるわけですが、やりがいとしては、やはりアメリカ大使とは異なるでしょう。
そして、雅子さまは女性初の外交官誕生かと言われていた人です。
そういう意味でも、恒氏は、雅子さまへの期待もあったことと思います。
親子ともどもキャリアを捨てなくてはいけなかったわけです。

INDEXさまがコメントいただきましたように、ご婚約からご結婚されてしばらくは、キラキラと輝くばかりです。見ているこちらも薔薇色の未来を期待していました。
多くの国民は、国際的にご活躍いただくことを期待していたのではないかと思います。
もし、ロイヤル外交がうまくいっていたら、国際社会での日本の地位も、いまとは違っていたのかもしれないと、そういう意味でもとても残念に思います。

雅子さまが国際外交を期待したのが間違いという論調がありますが、お輿入れにあたってどのような話し合いがもたれたのか詳細はわかっていません。
外務省のキャリアを活かして国際外交にも活躍して欲しい、そう言われていた可能性はあると思うのです。
少なくとも皇太子殿下は、そのようなお話をされていたと思います。そしてイギリス王家のような開かれたロイヤルにしたいとおっしゃっていましたから、その気持ちに答えて入内された雅子さまにとっては、裏切られたお気持ちになることも、あったと想像します。

ロイヤル外交と、お世継ぎを産むことは対立しているわけでも、二者択一するものでもありません。

今回、あらためて思いましたのは、ご結婚直後の過密日程です。
もちろん宮内庁へのご公務の依頼が殺到していたことが理由ではあると思いますが、それほど男子出産が最重要課題なのであれば、ご結婚直後の2年ほどはご公務より、そちらを優先するべきだったのではないかと思うのです。
なにより年齢が若い方が身体へのご負担はマシです。

ご結婚直後はご公務をばんばんいれておきながら、その後に出産のためにご公務をさせないとか・・・常識的に、おかしなことが行われたと思います。

あと、これは妄想に近いものなのですが。
宮内庁には外務省から出向してきている人がいらっしゃいます。
外務省のエリート中のエリートである事務次官に対して、出向してきた人はどういう思いだったでしょうか。
もちろん、専門知識を買われてのことですから外郭団体への出向とは訳が違いますが、それでも、妬みのような気持ちを持つことはあったかもしれないと推測します。
宮内庁が出所かと思われるゴシップは、そういうことなのかもしれません。
恒氏が野心的だという評価が、そのあたりから出ていたとしても、驚きません。
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入江為年氏の証言 (にゃーこ)
2016-08-31 16:49:40
記事を見つけられていません。
内容抜粋から、とりあえず抜き出します。


昭和天皇の侍従および侍従長を務めた入江相政氏の長男、入江為年氏が、腎臓を患って入院中の日大駿河台病院において岩瀬達哉氏に語った録音テープの内容が、「月刊現代」2001年6月号に掲載されました。

入江為年氏は今上陛下と学習院の同級、いわゆるご学友です。
『入江相政日記』の監修者でもあります。
父である入江相政氏から、自分の死後に宮内庁には近寄るなと言いつつ、今上陛下については幼稚園からのご縁があるのだから、頼むといわれたら尽力するようにと言われていたそうです。

1992年10月21日夜、入江為年氏に天皇陛下から電話があった。
「いま、妃の候補者が三人います。三人いるのだけれど、浩宮としては、どうしても、小和田雅子さんといって譲らないのです。 私としても、本人の意思を一番に尊重しなければと思っているし、美智子皇后もその点についてはまったく同意見だから、 "浩宮が望んでいることを考えた場合、小和田雅子さんが皇籍、皇族の籍に入ってくれることが一番の願いです。 " 問題なのは、小和田さんに承知させるだけのものが、どうも手元にないことです。 また、反対する者も少なくありません。 だから、何か小和田さんに承知させる手立てを考えてはくれませんか」

翌22日、入江氏は、やはりご学友であるH氏と会い、事情を説明。H氏は当時の国連大使や学習院院長と親しく、外務省筋に強い人物だったので、外務省筋の意見をまとめて小和田家を説得するよう、 各方面に働きかけ、11月16日にはOBも含めて外務省の意思がまとまった。務省の意思がまとまった11月中旬の時点で、大勢は、ほぼ決まったという。
また小和田雅子側も、外務省という組織の中では、女性はうまくいっても 課長よくいって局長どまりかもしれないと思い始めたのではないかと軟化の理由を為年氏は推測している。

為年氏は入院中の病室から国際電話を入れ、旧知の間柄であるワシントン・ポスト本社トップマネージメントに婚約内定を記事にするよう勧めたという。
その理由のひとつは、日本は外圧に弱いからそれを利用しようと思ったこと。
もうひとつは私怨。週刊誌で元東宮侍従が為年氏のことを「陛下の信頼がない」「御所に一度も呼ばれていない」と語っており、父がいうように「善意が善意で通じる役所ではない」宮内庁に対する鬱憤をはらしたかったからだそうです。

電話での陛下のお話には「親としての両陛下のお気持ちがこもっている」と感じて、残しておきたかったため、録音したということです。



入江元侍従長の子息が遺した「雅子妃誕生秘話」
月刊現代
2001年6月号
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岩瀬達哉氏<天皇と皇后が15年前から予見していた「雅子妃問題」>
週刊現代
2008年4月19日号
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記事・その2 (にゃーこ)
2016-08-31 16:17:45
ホントに消えたのか? 小和田雅子説
週刊文春
1990年1月11日号

かつてはお妃候補最有力にあげられた小和田雅子さん(26)が、さる九月下旬、ロンドンで「私、その件については全く関係ございません」と発言したのはまだ記憶に新しい。これによって、皇太子殿下のお妃選ぶは焦眉の急となった。プロ野球のドラフトではないが、一位指名に逃げられてあたふたしているようにも見えて・・・・・・。
殿下にとって唯一人、「意中の女性」として伝えられた雅子さんは、昨年七月末、外務省研修生としてロンドンのオックスフォード大学ベリオールカレッジに留学中。殿下がベルギーを公式訪問した折、二人はパリで密かに接触するのではないか、と海を渡って殺到したマスコミに追いかけ回され、仕方なくインタビューに応じた結果がこの否定発言だった。
母親の優美子さん(51)も、「何をお話ししても差し障りのあることばかりですが・・・・・・」と言いながらダメを押す。
「雅子がテレビでお答えしたように、宮内庁から打診があったことはございません。いまはロンドンで勉学に励んでおります。クリスマス休暇も、正月も、研修中は日本に帰ってまいりません。帰国したあとは外交官の道を進むつもりです」
六十二年の夏、マスコミにその存在をキャッチされてからというもの、小和田家にとって、心の安まるときはなかったらしい。
「とても迷惑いたしました。優美子は倒れて入院したこともあったんです」
と祖母の江頭寿々子さん(72)は言う。本当に縁談の打診がなかったとしたら、それも無理からぬところではある。しかしながら、もし打診があったとしても、コトの性質からいって「あった」と認めるわけにはいかないはず。ある消息通もこんな証言をする。
「小和田家では、ある宮家を通じて『断った』とも、宮内庁のある人に『噂を否定してくれ』と頼んだともいわれています。元に今年の十月、東宮大夫が会見で、『雅子さんには消極的である』と初めて言及していますからね」
別の関係者によれば、その際東宮大夫は「九九パーセントない」と断言したともいうが、なぜか、この会見に関する新聞記事は一行も見あたらない。ともあれ、最近聞こえてくるのは、雅子さんの見込みはなくなった、との観測がほとんどである。
「ロンドンの日本大使館では、もう消えた話、といった雰囲気です。まだ可能性があれば、やがて皇太子妃になるかもしれない彼女にはもっと気を使ったり、ガードしたりすると思うんです。それがないばかりか、取材には自分できちんと対応しろと言っているようなんです」(在ロンドン特派員)

(中略)

そんなことから、来年一月、喪が明けるとともに事態が急展開することもあり得るという。
「皇室のタイムテーブルを考えますと、来年五月には結婚しなければなりません。十一月に即位の大礼が行われるようですから、そこがギリギリ。でないと、弟君が夫人同伴なのに、皇太子殿下は独りという羽目になる。それが駄目なら、平成三年以降になってしまいます」(皇室評論家・河原敏明氏)
事態はかなり切迫しているのだ。仮に三年以降にズレ込むことがあれば、宮内庁幹部の責任問題になるのは必至。
「だって、皇太子妃が問題にされてもう十年ですよ。本来なら昭和天皇がご存命のうちに決めておかなければいけなかったのです」
さきの宮内記者が嘆けば、別のベテラン宮内記者は怒りを露わにして、
「今は命がけで浩宮にお妃をと考えている幹部は一人もいない。陛下が皇太子の時は、故黒木侍従なんか、固辞しつづける正田家に出向いて、とうとうまとめ上げたもの。
小和田さんだって、いい線までいってたのに、あと一押し二押しをやらなかった。幹部は忙しがってばかりですからねえ」
現在、お妃選ぶは「旧皇族や華族にこだわらず、殿下ご自信の気持ちを尊重」しながら、両陛下の意向に沿って進められている。
いいかえれば、以前の小泉信三氏のような人物は存在せず、「宮内庁の役人は両陛下と殿下の望むこと以外は積極的にやっていない」(宮内記者)のだ。

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FLASH
1993年1月26日号

”長かった道のり”・・・小和田雅子さんに決まるまで

「長い道のりでした」・12月31日、皇太子殿下は電話で友人にそう語られたという。”意中の人”小和田雅子さんとの話が一時消えてからも、有力候補といわれる女性は何人も浮上した。だが、ついに殿下の心を動かすまでには至らなかったわけだが、その間の知られざる舞台裏を徹底検証してみよう。
(中略)
以後、お妃選びは暗礁に乗り上げた形になった。が、殿下のお心が雅子さんにあることを改めて知った宮内庁の藤森昭一長官は、一昨年秋、交渉復活を決めたのだった。愛のキューピッド役を務めたのは元外務事務次官の柳谷謙介氏である。「昨年の春ごろ、藤森長官から頼まれたようだ」とは皇室記者の話だ。柳谷邸での再会デートは8月16日。その後の経過は別表のとおりだが、殿下のプロポーズがあった鴨場のデートは極秘裏に行われ、殿下が東宮仮御所におられるかのような”アリバイ工作”までなされたという。
小和田家からお断りの返事があったのは10月20日ごろ。前出皇室記者が説明する。「殿下は諦めかけられたのだが、周囲が”諦めないで”とバックアップしたんだ。断りの理由が”自信がない”というもので、殿下には尊敬の念をもっていたからね」。その後、数十回の電話やファックスのやり取りを経て、11月28日、雅子さんは東宮仮御所を訪れるのだが、この間多忙なお二人はポケベルを使って連絡を取り合っていたようだ。そして12月12日、雅子さんがついに承諾。25日に両陛下をまじえた4人で歓談され、ご婚約が内定したのである。

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週刊ポスト
1993年1月22日号

郁沃会(天皇の学習院初等科時代以来のご学友グループ)の関係者がこう語る。
「小和田雅子さんは、昨年初めの段階で、既に天皇家内では内定していた。 まず天皇が、皇太子に、小和田さんで気持ちは変わらない、という意志を確認された上で、 郁沃会のメンバーのひとりに、”小和田さんに決めたい”と打ち明けられた。 これを受けて、日程、警備の問題が検討され始めた。
しかし、皇室内では、小和田さんには反対という意見も多かった。 宮内庁が候補の女性を説得する仲介を依頼した人物に対し、侍従や女官といった ”オク”とよばれる宮中の特別職の人間から”小和田さんには絶対させないので、 よろしく”と横ヤリが入ったこともあったそうです」
また、ある宮内庁関係者はこう語る。
「しかし、本命・小和田さんの説得は昨年夏を過ぎても難航した。それで、“皇太子妃は民間から迎える”ということを絶対の条件とする宮中改革派が、かつて候補に挙がった女性にもう一度打診して断わられた末、“最後の切り札”としてある候補を挙げた。これまでマスコミに名前が出たことのない人物で、容姿・条件とも申し分ない候補だった。昨年五月ごろ、別の候補で“内定”との情報が流れ、マスコミが水面下でかなり追いかけたが、あれはこの“切り札”の存在から目をそらすための意図的なリークだったおいう説もある。だが、せっかくのこの候補も、皇太子本人があくまで小和田さんにこだわったためギリギリで消え、“民間派”は、この時点でまだ固辞し続けていた小和田さんを除いて、カードが尽きた状態となった。一方、旧華族から妃を迎えるべきだという意見が強かった常磐会は、年末の会合で皇太后の親戚筋に当たる候補を立てようとしたが、それより先に、皇太子の熱烈なアタックが、彼女を翻意させるに至った。つまり、二代続けての民間からの妃誕生は、実は紙一重だったわけです」

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週刊文春
1993年4月29日号

旧華族でマナー評論家の酒井美意子さんは、こう語る。「先日、知人の作家の方が、“日本人というのはいじわるで、いじめ好きな国民。だから、雅子さんのような人を見ると、すぐあら探しをするんです”と、おっしゃっていましたが、本当にそうなのかもしれませんね。美智子さまのときは、たしかに常盤会に強い反発があったのは事実です。当時は、戦前のことをよくご存じの会員も多かったから、民間の方をいうことに抵抗があったんです。でも。今は、ほとんどが戦後の会員で、特に皇室とのつながりなんて意識してる方は少ないです位。旧皇族だって、今はもう普通の市民。みなさんと同じように、雅子さんに決まったことを喜んでいると思いますよ。事実、常磐会のあるメンバーは、こう語る。
「女性週刊誌などに“宮家をはじめ常磐会が反発”なんて書かれて大変心外です。まあ、そんなふうに書けば面白いんでしょうけど。ご婚約の記者会見での雅子さんの言葉遣いにしても、あれこれ言いふらしていたのは、実際は皇室周辺の女性だと聞いています」今回の皇太子選びについても、女性週刊誌で報じられたような常磐会が特定の女性を推薦したり、応援した事実はないのだという。実際、皇太子妃の選考については、終始、美智子皇后の主導下で勧められ、旧華族や常磐会から選ばれる可能性はほとんどなかったと、ある宮内庁関係者も証言する。「小和田さんがチッソ問題などで候補の圏外に去った時期、もっとも有力だったのがHさん。小和田さんと同じ外交官令嬢で、彼女には天皇も賛成されていた。しかし、この話は結局まとまらなかった。Hさんの方で辞退したんですが、母方が島津家につながるという点で皇后が難色を示されたのも一因と言われています。皇太后の血筋も島津家ですからね。あのとき、もし、皇后もHさんに賛成されていたら、あるいは皇太子の六年越しの恋は実らなかったかもしれません。
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関連記事 (にゃーこ)
2016-08-31 14:06:33
「皇太子妃内定」7年の大逆転
FOCUS
1993年1月22日号 

(前略)

「私が確認したところでは、10月以降皇后の同級生だった人が、雅子さんの母親と親しかったので、その人を通じて、おかあさんに翻意を促した、ということがありました」(皇室ジャーナリスト)さらに、外務省、官邸も乗り気だった。「皇室外交の政治的役割は大きくなり、今や、天皇は最大の外交カードといえる。渡辺外務大臣も“前から殿下に、あなたの気持をアレするには押しの一手ですよとアドバイスしてきた”といっている」(外務省関係者)いわば、宮内庁、外務省、官邸が行った一種に“政治決断”だったともいえるが、最後の大逆転を可能にした最大の要因はやはり、皇太子の脳裡から、雅子さんの姿が消えることがなかったことだ、といえる。小和田家は最後の最後まで固辞したが、皇太子、美智子皇后が諄々と説く説得を断り切れるものでもなかった。

(後略)

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ご結婚直前に“菊のカーテン”の向こうから漏れてきた雅子さんへのブーイング
サンデー毎日
1993年6月13日号

今年1月、皇太子妃内定の報道協定が解除された際、最も驚いたのは、他の宮家だった。宮内庁は解除が決まった時点で、次々に宮家に連絡を入れたが、一部の宮家には間に合わなかった。宮家が知る前に、テレビのニュースが流れてしまった。これに激怒したのが三笠宮寛仁さまだったという。「私が言わなければ、誰がいう」というお気持ちからかなり激しい口調で宮内庁に抗議されたと、宮内庁関係者が明かす。

そうした皇族の不満が如実に表れたエピソードもある。2月8日夜、赤坂御所で開かれた
天皇、皇后両陛下主催の晩餐会は、雅子さんを親類一同に紹介するお披露目だった。
天皇陛下の一番上の姉の故東久邇成子さんの子供、三番目の姉の池田厚子さん、妹の島津貴子さん、皇后さまの兄妹、川嶋家、小和田家、天皇ご一家の方々が出席した。この時、天皇、皇后両陛下は全皇族と民間妃の親族を招待しようとしたが、秋篠宮さまを除き、皇族方は欠席された。これも、お妃内定時のしこりが尾を引いていたのだろうか。そして皇族方の反発にさらに拍車をかけたのが、「納采の儀は3月17日」というNHKの報道だった。宮内庁は一旦は、この日を内定していたのだが、その時も皇族方が、「われわれへの連絡がないうちに」と反発。それが元で、「納采の儀」は4月12日に延期されたという。

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マスコミが絶対書けない皇太子妃・小和田雅子逆転決定に見る“現代の生贄”の検証
噂の真相
1993年3月号

(前略)


しかし、もっと決定的だったのは、天皇訪中とのカラミではないかといわれる。宮内庁から小和田家に働きかけがあった昨年6~8月といえば、まさに天皇訪中をめぐって自民党内部でも賛否両論が真っ二つにわれていた時期でもある。そして訪中を最も積極的に進めていたのが外務省だったことはいうまでもない。
「外務省としては中国政府に約束手形を切っている以上、どうしても訪中を実現させる必要があった。ところが、“お言葉”問題などをめぐって右派の抵抗が思いのほか強くかなり難航していたんです。そんな状況で外務省が頼みの綱にしていたのは、天皇自身の意向だったんですね。もちろん決定権が天皇にあるわけではありませんが、宮内庁に“天皇も行きたがっている”というムードをちらつかせてもらえば、少なくとも右派を黙らす材料にはなりますから」(外務省詰記者)
そして、この訪中問題の外務省側の責任者として天皇や宮内庁との折衝にあたっていたのが、他ならぬ小和田次官だった。
「小和田さんは去年の七~八月にかけて訪中問題で宮内庁の藤森昭一長官、そして天皇陛下にも十回近く会っている。これはちょうど小和田さんがデートを応諾した時期とピッタリ重なるんですね」(外務省関係者)
つまり、この時天皇及び長官から小和田次官になにがしかの要請があったのではないか、と推測されるのだ。
「小和田さんも政治的野心の強い人ですからね。当初は娘のことを考えてかなり抵抗していたらしいですが、途中から方針転換したんじゃないですか。
断った時の政治的リアクションを考えれば、最後はやはり受けざるをえないでしょう」(宮内庁関係者)

(後略)

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日延べ「納采の儀」から6月9日「結婚の儀」までの宮内庁
週刊新潮
1993年3月25日

一般の結納にあたる納采の儀が3月17日に行われると最初に報じたのはNHKである。
2月18日午後7時のニュースで、「皇太子さまと小和田雅子さんのご結婚に先立って結納をとりかわす納采の儀が3月17日に執り行われることが今日までに固まりました」と報じたのだ。翌朝の新聞各紙も一斉にこのニュースをフォロー。3月17日の納采の儀は、いわばマスコミが先行する形で一般に周知された。
取材に当った宮内庁担当記者によると、
「NHKのニュースが流れて各社ウラをとるべく
宮内庁長官、次長、東宮職幹部、侍従職幹部らに即座に取材に走りました。すると当ったところがどこも“3月17日”を否定しない。明らかに違っていると、さすが口が堅い宮内庁でも幹部らが否定してくる。ああ、これは決まりだナということで、各紙翌日の一斉報道になったんです」
が、3月2日になってこの“決定事項”が突如覆される。
「この日、ご成婚についてのすべてが話しあわれる宮内庁長官を委員長とする“皇太子御婚儀委員会”の第二回会議が開かれたんですが、宮尾盤・宮内庁次長と山下和夫・東宮侍従長が会議のあと会見に現れて、いきなり“納采の儀は4月12日に行います”と切り出したんです。記者の間からは“えっ、なぜだ”“延期になったのか”という驚きの声が上がりましたよ」
記者たちの矢継ぎ早の質問に対して、「3月17日は皇太后さまが葉山にご静養中ですので…」と次長は答えたが、記者たちがさらに食い下がると、「まあ、他にもいろいろ理由がありまして…」と、口を濁したのである。
別のベテラン宮内庁記者が言う。
「ああ、これはウラで何かあったナとすぐ思いました。というのも3月17日に皇太后さまが葉山でご静養中なのは以前からわかっていたことだし、そんなのは理由にならない。
こりゃ小和田さんに何かスキャンダルが発覚して日取りを繰り延べざるを得なかったんじゃないかとか、よほど大きな圧力がかかったんじゃないかとか、記者クラブの中でも一気に憶測が広がったんですよ」

皇室ジャーナリストの河原敏明氏もこの突然の延期に首を傾げた一人だ。
「日程を繰り上げるならともかく延期するなどというのは許されるものではありません」と、こう言うのだ。
「実は昭和天皇の納采の儀も、大正11年7月2日に予定されていたんですが、直前の6月下旬に皇族最長老だった東伏見宮依仁親王が亡くなり、延期されています。そして翌年11月に予定されていた結婚の儀は関東大震災によって延期され、結局大正13年1月26日までズレ込んでしまった。先例を俟つまでもなく、こういうおめでたいことが延期されてプラスになることはないんです。まして雅子さんはこの納采の儀を経て初めて正式な婚約者となり、準皇族となられる。
一刻も早くそのお立場になっていただくのが当然なのに、あとに延ばすなどというのは考えられません」
いったい、“変更”のウラに何があったのか。
ある宮内庁関係者が明かす。
「実は3月17日という情報がマスコミで報道された時、まだ皇族方に宮内庁が報告する前段階だったのです。天皇家もそうですが、自分に関わることが知らないうちに報道されることを皇族は極端に嫌がる。納采の儀は告期の儀や結婚の儀といった国事行為とは違い、いわば天皇家の私事。その日取りが身内でもある宮家になんの報告もなされていない段階でマスコミに一斉報道されてしまった。きちんと報告されてさえいれば問題もなかったんですが、ここのところあまりに宮家がないがしろにされているということで宮家が激怒したんです」
皇族を代表する形で不快感を示したのは皇族として唯一“雅子妃決定”の皇室会議に出席した三笠宮だと伝えられるが、
「実は先日美智子妃が赤坂御所に正田家や川嶋家の人々を呼んで雅子さんを紹介する宴を開きましたが、今回のことはこれとも無関係ではない」と言うのは別の事情通。
「あれはいかに雅子さんを大切にしているかを世間に知らしめる美智子皇后のパフォーマンスだった。が、その席に主な宮家は全く呼ばれなかった。一応、1月19日の皇室会議当日、皇太子と雅子さんが各宮家に挨拶されたからいいという思いだったんでしょうが、宮家にとっては自分たちをないがしろにしたという思いがつのった。これは長年にわたる美智子皇后と他の皇族との確執が根底にあるのですが、“納采の儀”でも無視されたことで怒りが一気に噴き出したんでしょう」
明らかなのは“根回し”を怠った宮内庁だが、「かつてはいわゆる“奥”のことをすべて牛耳った入江侍従長のような重鎮がいて、皇族への“根回し”も完璧でした。それがいまの宮内庁ときたら、かつての重鎮がいなくなり、単なる官僚ばかり。今回のように基本的なことさえできないんです」(同)
「そればかりか」と、先のベテラン記者氏もこう言う。
「ご成婚は文字通り30年に一度のビッグイベント。言いかえれば30年に一度宮内庁が大きな顔ができる時なんです。結婚の儀の日取りをめぐっても多くの関係者がイライラしているのを宮内庁はむしろ楽しんでいるフシさえあった。今回、その日取りが“6月9日”と日刊スポーツにスクープされましたが、これはオフレコで宮内庁が記者クラブにしゃべっていたこと。それが結局こんな形で漏れてしまった。宮内庁の失態は大きいですよ」
平成最大の慶事を前に、“迷走しているのは宮内庁ということらしい。
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出会いからご結婚まで (にゃーこ)
2016-08-31 13:55:17
ざっくりと出会われてから納采の儀までの日付けを書いてみます。
あまり自信がありませんし、途中も抜けていますので、補足してくださる方をお待ちしています。



1986年
10月18日
スペインのエレナ王女の来日歓迎レセプションが東宮御所で開かれ、皇太子殿下に雅子さまが紹介された。
当時の雅子さまは東京大学在学中で、来年から外務省に入る優秀な人材として興味を持たれた高円宮憲仁殿下が招待された。

1987年
4月25日
高円宮邸においてホームパーティが開かれ、殿下妃殿下、皇太子殿下と雅子さま4名で会食

10月24日
皇太子殿下が学友の賀陽正憲氏と雅子さまを東宮御所に招かれた。
この件がマスコミに漏洩したことで、12月20日頃に雅子さまのご自宅前をマスコミが2、30名もとりかこむ事態に。

(1988年6月 宮内庁長官に藤森昭一氏が就任)

1988年7月〜1990年6月
雅子さまオクスフォード大学へ留学

1992年
8月16日
東京・五番町にあるJICA総裁の柳谷謙介氏宅において、皇太子殿下と雅子さまが5年ぶりに再会される
柳谷謙介氏は、この時の宮内庁長官である藤森昭一氏が官房副長官時代に外務次官を務めていた。

10月2日
天皇陛下へ外務省事務次官である小和田恒氏がご進講。
これは形式で、実際は雅子さまについて話し合いがもたれたのではないかと推測されている。
訪中をめぐって、外務省事務次官としてこの年は天皇陛下、宮内庁長官と何度も話し合いをしている。

10月3日
柳谷謙介氏が同席で、千葉県市川市にある宮内庁新浜鴨場で皇太子殿下と雅子さまがお会いになる
ここでプロポーズされたといわれている

しかし10月中旬にお断りになり、柳谷氏が説得

11月28日
東宮御所を訪問

12月12日
東宮御所を訪問し、受諾のお返事

12月19日
おふたりでお会いになる

12月25日
天皇陛下、皇后陛下におひきあわせ

1993年
1月6日
マスコミにリーク記事が掲載される

雅子さまは風邪ということもあり、外務省をお休みに

1月18日
外務省に辞職願を提出

1月19日
午前中に辞職願が受理され、午後から皇室会議

2月8日
赤坂御所にて両陛下主催の晩餐会が開催され、雅子さまがお披露目される。
ご出席は東久邇成子氏のお子様、池田厚子氏、島津貴子氏、皇后陛下のご兄弟、川嶋家、小和田家。秋篠宮を除き、皇族方は欠席。

※この会については、両陛下は皇族と民間妃殿下とご親戚のすべてを招待されるつもりだったのがどなたも欠席されたという説と、そもそも皇族にお声がかかっていなかったという説と、まったく異なる二通りの説があるようです。

2月18日
午後7時のNHKニュースにおいて、「納采の儀は3月17日に行われる」と報じられた。
このニュースを受けて各社が動き、翌朝の新聞に掲載された。

3月2日
皇太子御婚儀委員会の第2回会議が開催され、宮内庁より「納采の儀は4月12日に行われる」と発表された。
NHKニュースで流れた時点では宮内庁から皇族方に報告がされていなかったため、宮家がないがしろにされていると、ご出席の三笠宮殿下がご不快を示されたともいわれている。



実は、お相手決定がスクープだっただけではなく、納采の儀の日付け決定もNHKニュース、ご結婚の日付けもスポーツ新聞のスクープと、宮内庁からの正式発表より前にリークされたものばかりなんですね。
これが平成流なのか、宮内庁のリスク管理の杜撰さなのか、わかりませんけれど。

いずれにして平成がマスコミなしでは語れないものであることは間違いがないでしょう。
返信する
修正版です。 (speranza)
2016-08-31 12:41:31
始めに書いたものは「訪問国」と「立ち寄り」を一緒にカウントしたものでした。わかりにくい書き方をしてしまい申し訳ありません。

またカウントミスもありましたので、訂正させていただきます。


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結婚後20年(昭和34年4月10日~昭和54年)について

15回の渡航
「海外訪問」 15回
延べ訪問国数 25か国(名代 19ヵ国)
お立ち寄り国数 14カ国



■海外訪問の総数44回(うち旅行3回)

(1)「海外訪問」41回
  昭和:23回。
  平成:18回。

 (1)-(A)延べ訪問国数74か国
  昭和:42か国。
  平成:32か国。(旅行含まず)

 (1)-(B)活動付きの立ち寄り先(38か国)
  昭和:27か国。
  平成:11か国。

(2)「旅行」3回:王族の葬儀参列2回、IBBY出席1回

※但し昭和時代のお立ち寄りが何らかの活動を含むものか、トランジットか不明のため数には入れていません。入れると延べ訪問数は112か国となります。

延べ訪問国数(旅行含まず)
(A)+(B)
昭和:69ヵ国
平成:42ヵ国
合計:112ヵ国


なぜかタイに5回、アメリカ4回、ベルギー5回と「お立ち寄り」しています。
アメリカは南米訪問の際に「お立ち寄り」しているのでトランジットの意味もあると推測されます。
ベルギーはお友達の故ファビオラもと王妃がいらっしゃるからでしょうか?
タイは不明ですが、そのまま秋篠宮家に交友が引き継がれたのかもしれません。


色々とミスをしてご迷惑をおかけしました。
返信する
持病をお持ちだったのに (multicaule)
2016-08-31 09:19:13
皆様のようにきちんとしたソースではありませんが。
ある場所をそこのジモティと旅行したとき、大きな病院があり、そのジモティが「ここはバセドー氏病が専門で、美智子様がこっそり通われていた」と話しました。

入内以来、美智子様は風船がしぼむように急激に痩せられて、民草は「虐められてご苦労されているんだ」と胸を痛めました。
私の友人がすごい食欲なのに痩せていき、医者に行ったら甲状腺異常でした。
あの痩せ方は、そのせいもあったのではないでしょうか。
消化器官出血の"痕"とか、加齢現象に過ぎない病名はいちいち発表されるのに、バセドー氏病というはっきりした病名は発表されなかった。

病気で痩せていくのを「虐められてご苦労されているから」にすり替えたかったのではと、今になると邪推してしまいます。
誕生日に失声症で倒れるとか、病気もご自分の都合良く宣伝に利用されている気がします。

それなのに我慢しすぎて悪化した嫁の病気は、仮病、怠け病と叩かせて、それを否定することもしなかった。

マスコミを操作して雅子さまバッシングさせることで、ご自身の絶賛記事も結局やらせに過ぎなかったと認めることになるのに。
浜尾氏が美智子様のことを「クレバーだがワイズではない」と言われたことの、意味が今は分かります。
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ソース御礼 (INDEX)
2016-08-31 01:41:26
★シロキジ様

「斂葬の儀欠席」についての追加情報、ありがとうございます。

 香淳皇后のお葬式欠席の件は、その後も長く雅子さまバッシングのネタにされていましたが、事実はまったく違うものだったのですね。

「殯宮祗候」は6月29日から始まり、(7月)20日までは毎日出席されていた。最後の最後になって倒れられ、「斂葬の儀」は欠席された。マスコミはそこだけを取り上げて祭祀に不熱心な妃殿下と叩いたわけですね。ご懐妊・流産という非常にセンシティブな問題もあったのにそれは無視して。

 どんどん明らかになってきますが、朝日新聞・岩井記者を筆頭に、マスコミは雅子様バッシングを狙って仕事にしているかのような10年でした。それが通ってしまっていた(いる)という事実が、なんとも不気味です。たとえば昭和時代なら、もし皇太子妃・美智子さまが同じ状況に陥ったなら、大層な美談になったに違いない。酷暑の中ぎりぎりまで頑張られた美智子さま、ついに力尽きて倒れられた美智子さま、流産という深い悲しみにくれる美智子さま…などなど、筆の限りを尽くして健気な努力と悲しみを書き立てたでしょう。また、教えていただいた「千代田側からの厳しい叱責」については、「美智子さまへの過酷ないじめ発覚!」と騒ぎ立て、首謀者は香淳皇后であると書き立てたに違いありません。

 それが、平成になると、まったく反転してしまう。美智子皇后・千代田サイドはどれだけ雅子さまを虐めても隠蔽され、虐められている雅子さまが逆に叩かれる。雅子さまのご病気が悪化して虐めが覆い隠せなくなり、追及されそうになると、「雅子さまのせいで天皇皇后が悪者にされてしまう」という記事が繰り出される。これはいったいどういうことなのか?

 ふつうに考えれば「美智子さまのマスコミ操作」という疑惑が浮上します。香淳皇后が美智子さまを虐めていたということもマスコミ操作の結果だったのでは?(香淳皇后の美智子さま虐めは無かった?)というところまで疑惑はさかのぼります。だとすると、なぜ美智子さまはそうしたマスコミ操作が可能だったのか、その力の淵源はどこにあったのかを考える必要が出てきます。

 雅子さまを心の病に追い詰めた理由の1つにマスコミによるバッシングがあったとするなら、そのバッシングを可能にしたものは何だったのか。それを明らかにしないと、皇室報道の奇怪さは解明されず、また繰り返すことになるでしょう。

 たしかに美智子皇后へのバッシングもありました。この年表のもう1つの重要テーマに、1993年に勃発する皇后バッシングと出版社銃撃事件があります。この事件後、皇后バッシングは一切姿を消し、翼賛記事だけになっていく。その流れで、天皇皇后宮内庁による『プリンセス・マサコ』出版差し止め事件も起きてきます。

 紀子妃をめぐる報道も、同根の問題かもしれません。婚約前までは「渦中の女」として忌憚のない取り上げられかたをしていたものが、婚約後は一転し、大絶賛記事に変わります。報道サイドも皆知っていたという中絶についても一切触れられることなく、「深窓のお嬢さま」として美談が書き立てられます。その変わり身の速いこと。天皇皇后になる直前の皇太子夫妻=宮内庁による報道統制があったことは間違いないでしょう。

 それらも含めて、皇室をめぐる報道の自由の問題、報道操作の問題を、取り上げていけたらと思います。先の長い話になりますが、どうぞお付き合いくださいまし。よろしくお願いいたします。

★speranzaさま

両陛下の海外訪問についての資料、ありがとうございます。
昨晩、下記の記事中の表に取り込もうと試みたのですが、うまくいきませんでした。

※資料:「ご成婚から20年間での外遊回数」
 昭和の皇太子ご夫妻  50回以上(正式記録が平成以降のため不正確ながら)
 平成の皇太子ご夫妻   6回 10か国(慶弔訪問含む)
 秋篠宮ご夫妻      25回 29か国(私的海外訪問の多くは含まず)

speranzaさまが調べてくださった回数は、表にあるような「ご成婚から20年間での外遊回数」という切り口ではなく、天皇皇后の、皇太子時代から現在までの海外訪問の回数ということですよね。

数が苦手なもので、よく理解するため次のように書き出してみましたが、これで合っているでしょうか?

-------------------
■海外訪問の総数44回(うち旅行4回)

(1)「海外訪問」40回
  昭和:22回。
  平成:18回。

 (1)-(A)延べ訪問国数73か国
  昭和:41か国。
  平成:32か国。

 (1)-(B)活動付きの立ち寄り先(69か国)
  昭和:26か国。
  平成:43か国。

(2)「旅行」4回:王族の葬儀参列3回、IBBY出席1回

※但し昭和時代のお立ち寄りが何らかの活動を含むものか、トランジットか不明のため数には入れていません。入れると延べ訪問数は114か国となります。
---------------------

「活動付きの立ち寄り先」は昭和時代に26回とありますが、これはトランジットかどうか不明ということでしょうか? それも含めて数えると、「延べ訪問国数」は142か国(73+69)となりますが、誤読でしょうか?

呑み込みが悪くて申し訳ありません!
お時間があるときにでも、教えていただけるとありがたいです。
数字にはまるで弱いので、ほんとうに、スミマセン。(冷汗)
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資料として (speranza)
2016-08-29 15:13:18
両陛下の海外訪問を数えてみました。

資料として投稿させていただきます。



総数44回 うち旅行4…昭和22回、平成18回
(旅行の内訳・・・王族の葬儀参列3回、IBBY出席1回)

のべ訪問国数 73か国 旅行先含まず…昭和41カ国、平成32カ国

活動付きの立ち寄り先を含むと 84か国 旅行含まず…平成43カ国

昭和時代のお立ち寄りの延べ訪問国数26カ国

但し昭和時代のお立ち寄りが何らかの活動を含むものか、トランジットか不明のため数には入れていません。

入れると延べ訪問数は114か国となります。
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「斂葬の儀欠席」について、もう少し (シロキジ)
2016-08-29 14:19:47
及ばずながらお手伝いさせてくださいまし。
雅子さまの「斂葬の儀」ご欠席について、ちょっと補足をさせてください。
今上もビデオレターでこぼしてらっしゃいましたが皇族のお葬式とは非常に大変なもののようですね。三笠宮家の彬子女王も寛仁親王が亡くなったときの葬儀についてのご苦労を語っておられたのを最近雑誌で読んだことがあります。やはり長期に及んだとか。そしてもちろん香淳皇后は更に位が高いのでその葬儀も大変だったようです。以下の文章を読むと雅子さまが香淳皇后のお葬式を欠席したと単純にはとても言えない事がわかります。

友納尚子著の「ザ・プリンセス 雅子妃物語」(2015年刊)より

(引用開始)
二〇〇〇年(平成12年)の夏、六月十六日、皇太后陛下(香淳皇后)が九十七歳で崩御された。
この当時の経緯を詳しく振り返っておきたい。(中略)
香淳皇后の棺は皇居内の仮の御殿である殯(ひん)宮に移され、本葬にあたる七月二十五日の「斂葬の儀」までの約一ヶ月間にわたり二十四時間、皇族や関係者が交代で寄り添う。これを「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」といい、一般でいう通夜のようなものだ。
六月二十九日からはじまった殯宮祗候に、雅子妃も毎日出席されていた。
[雅子妃もお悲しみが深く、また皇太子妃としてできるだけ棺のおそばに付かれようとなさっておられました。」(元東宮職)
だが、二十日すぎになると殯宮祗候を欠席されるようになった。
(引用終わり)

…一連の葬儀の儀式に雅子さまは途中まではがんばって付き添っておられたのです。倒れられたのは最後の最後だったのです。マスコミは最後の斂葬の儀を休んだことのみを取り上げて祭祀に不熱心な妃殿下と叩きましたが(岩井克己の本にもそういう記述があり本当に腹立たしいです。)果たしてそうだと言えますか?これが。
この本ではanima mea様が引用してくださった妊娠の可能性があったことも欠席の理由として述べられていますが更に衝撃的なことが。

(引用開始)
さらに、雅子妃が皇太后の葬儀を欠席され、姿を見せなくなったのには、もう一つの理由があった。雅子妃にとって、適応障害という病気に繋がる過去の暗い記憶となっているある出来事があったのだ。それは、この前後に、千代田側から雅子妃が厳しく叱責されたことだった。それが「簡単なアドバイス」などではなく、雅子妃を深く傷つける厳しいものだったのだ。

「この頃も雅子妃はお子様が欲しいと希望を持っておられたし、同時にまた、妃殿下としてのお務めを立派に果たしたいという気持ちが強かったのです。しかし、そのお努めについての意欲をも千代田側から強く叱責されて、八方ふさがりのような状態になってしまったのです。」(元東宮職)

それは十数年後に曲解されて報じられたような「皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けた」(週刊新潮/二〇一三年五月二・九日号)だけでも雅子妃が「自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同前)という、我慢が足りないというものでもなかった。

「しきたりに関するやり取りならば納得がいくのですが、その時のご気分による感情的な叱責があったといいます。雅子妃が注意されたことを悪くとるため注意することもできないと受取っている元千代田幹部もいるようですが、決してそんなことはないのです。もう少し雅子妃をやさしく受け入れることはできないものでしょうか」(宮内庁関係者)
雅子妃は自信をなくされていった。頑張ろうとすると打ち砕かれ、また這い上がろうとすると叱咤される。どうして良いのか分からなかったという。
(引用終わり)

雅子さまは知的な方ですし、努力家で、決して弱い方ではないと思います。
厳しくしかられてもそれが理屈に合ってるものなら納得して辛抱なさったことでしょう。でもこれは…いと高き方から理不尽な叱責を投げつけられたようですね。
労働者がブラック企業でひどいめにあったなら、労働基準監督署に訴えることができますが、雅子さまはどこに訴えることもできない。
こういうことが積み重なってお心が折れていったのでしょうね。
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ソース御礼 (INDEX)
2016-08-29 05:31:53
★AB型さま

優しい思いがあふれるコメント、ありがとうございます。

>従来、皇太子ご一家に対するネット上での誹謗中傷や捏造情報を繰り返すアンチ東宮たちは、雅子さまが長期療養で倒れられ、皇太子さまの人格否定発言以来から現れるようになったとばかり思っていましたが、「流産祈願スレ」を通じて、雅子さまが公務でお忙しい日々が続いていた1999年(平成11年)当時からすでに存在していたのですね。

これは特記すべきことと思います。男子を生まないとか公務をしないとかの理由は後からつけた理由にすぎず、とにかく雅子さまを叩くことが彼らの目的で、東宮家を排除して秋篠宮家にとってかわらせることを目指していたようです。

彼らの書き込みは、流産祈願から、雅子様に「自殺しろ」「離婚しろ」と迫るものに変わり、愛子様には「自閉症」「知的障害」「喋れない・歩けない・走れない」という執拗なデマの繰り返しに、皇太子さまには「廃太子」を迫るものになっていきました。

あまりに自信に満ち溢れた内容なので、半分ぐらい信じ込まされていました。愛子様が幼稚園の運動会で大玉ころがしをしている映像を見て、「ちゃんと走れている!」と目を見張る自分がいました。洗脳は恐ろしいですね。

>一社でもこのスレの存在に気づき、問題視していれば、当時の私や国民がいち早く気づき、糾弾することができたのに、ということを考えると本当に悔しいです。

残念な話ですが、もし、マスメディアがこれらの存在に気付いても、取り上げて糾弾することはなかったのではと思えるのです。その後のマスコミは、この狂った掲示板の主張を少しずつ取り込んで記事化する方向へ向かうのですから。流産祈願はさすがに論外ですが、離婚や別居、廃太子、自閉症(笑わない愛子さま)など、捏造承知で記事化し、囃し立ててきたわけです。一般人なら名誉棄損で告訴できるような内容です。東宮ご一家も制度上では可能ですが、お望みにならなかったか、できる状況ではなかったのでしょう。

宮内庁の一部は、これらの書き込みを知って黙認したか、もっといえば嗾けていた節さえあります。愛子様が自閉症というデマを最初に流したのは宮内庁、雅子さまを皇室から追い出そうとしていたのも宮内庁、廃太子を最初に言い出したのもたしか天皇のご学友ですから千代田(天皇皇后)の意向だったという推測も可能です。アンチ東宮といわれる人たちの書き込みは数において圧倒的で、書き込み方法も組織的であり、個人的偶発的なものではありませんでした。

★マーリン様

インターネット通信事情の歴史、ありがとうございます。懐かしく振り返りました。

>有名なあの巨大掲示板が出来たのが、1999年~2000年頃なので、そのおぞましいスレは過去ログにも残っていないのでしょうか?

タイトルで検索してみると、消えているものと、まだ残っているものがあるようです。

>日韓ワールドカップの頃(2002年)のことですが、赤ちゃんの敬宮様を抱いた雅子妃殿下の写真に落書き(口の両端からから血を流したような)した画像が貼ってあったのも見た事があります。これは明らかに韓国からの書き込みでした。その当時、日本より韓国の方がブロードバンドの普及率が高いと聞いた事があります。

あの掲示板に写真を加工した画像が貼ってあったのですか? いわゆるアスキーアートはよく見ましたが、写真画像は見たことが無かったです。
韓国からの書き込みというのは確かにありますね。アンチ東宮と言われる人たちも、日本語が怪しく、日本に住んでいない人だなとわかることがありました。彼らはどちらかといえば、半島北部のニオイがしましたが。

>15年~16年前頃のネット事情はたしかPCよりもiモードなどのガラケー中心だったので、現代よりもネット民とよばれる人は限られた人数だったと推測できます。

その頃はまだガラケーもさほど普及していなかったような? いつからだったか、携帯でのアクセスはヘッダ部分の印でわかるようになっていましたね。

★anima meaさま

雅子様「海外禁足」と「斂葬の儀」欠席についてのソース記事、ありがとうございます。
森暢平さん、こんなしっかりした取材記事を書いておられたのですね。『天皇家の財布』(新潮新書)の著者ですよね。最近、皇室関係ではあまりお見かけしないような気がしますが、こうした率直な記事が元で、遠ざけられているというようなことでなければいいのですが。
「菊のタブー」を書いておられた野中恭太郎氏の現在も気になります。

>相手国に対してもこれは大変失礼なことです。元外交官という経歴を持つ皇太子妃の皇室外交の機会を奪うなんて、完全に日本の国益を損ねているとしか思えません。

まったくそのとおりです。こういうことに「内閣の助言と承認」は働かないのでしょうかね。国事行為ではないとはいえ、外交は国益に影響することなのに。

「斂葬の儀」欠席の真相も胸が痛みます。流産という悲しみにバッシングの棘。どれほどお辛かったことか。なぜ両陛下はそこまで無配慮、冷酷でいられたのか。
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斂葬の儀欠席の真相記事 (anima mea)
2016-08-28 22:19:01
>この間、雅子さまも昼夜交代で棺に付き添われるなどされたが、斂葬の儀当日は体調が悪く欠席されたことが波紋を呼ぶ。しかし、この時実際にはご懐妊の兆候があったため、大事をとる必要があったと後に報じられる(★)。

上記部分に関してもソースが見つかりました。以下、転載させていただきます。

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文藝春秋 2009年5月号
平成皇室の行方 雅子妃すべての悲劇の始まり
(友納尚子)
pp.202-203

「斂葬の儀」欠席の真相
平成十二年七月二十五日、香淳皇后の本葬にあたる「斂葬の儀」に雅子妃がご欠席された。
東宮大夫はご欠席の理由について、
「夏バテのようなもの。暑い日が続いておりお疲れが溜まっている]。お体を大切にしていただくという見地から出席をお取りやめになった」と発表した。
前年の暮れ、雅子妃は稽留流産という悲しい経験をしたばかりだった。当然、宮内記者から御懐妊の可能性について質問があったが、大夫は、
「昨年末のようなこと(ご懐妊)が今回の背景にあるというようなことは全くありません。お疲れの集積であることは間違いないことで、推測をたくましくされないようよろしくお願い致します」と断言した。
「斂葬の儀」とは文京区・豊島岡墓地で両陛下と皇太子、各宮家の皇族方、政官関係者、各国駐日大使など千百人が参列する重要な儀式である。
皇室関係者からは「皇室の大事な儀式を疲れくらいで欠席するとはとんでもない。せめて棺のお見送りには出られなかったのか」「両陛下のお悲しみを考えれば、皇太子妃としての自覚がないとしか言いようがない」と非難されたのだった。
当時、私の取材でも「お疲れが溜まっているというのは表向きの理由で、実は引きこもりのような感じになっておられる。側で仕える者にも何も話されないし部屋から出てこられない」「理由はわからないが、うつ病のようなふさぎ込む感じだ」と話す東宮職がいた。
今に至るまで、雅子妃が皇室になじめない、わがままだ、祭祀を重んじていないといった批判の根拠として、しばしばこの「斂葬の儀」の欠席事件が語られているのである。
だが、事実は違った。ご欠席の理由は、ご懐妊の可能性があったため医者に無理をしないよう止められていたのだ。
「妊娠初期の特徴のひとつとして、体温が上がっておられたため熱っぽい感じだったといわれています。しかし、まだ妊娠五週目にも入らず胎嚢が確認されていない段階で、公表することもできない。このためお身体の大事をとられたんです」(元宮内庁関係者)
その後も遠方への公務などを控えられたが、結果的に胎嚢が発見されず、化学的流産になったという。
「おそらくご自身も、妊娠したかもしれないという身体の変化はさほどお感じにならなかったのではないでしょうか。稽留流産は胎児の成長が止まって体内に留まっているので処置が必要ですが、化学的流産はごく初期なので自然に流れてしまう。珍しいことではなく、特に原因もないといいますか、前年暮れの残念な結果につづき妃殿下は深いお悲しみだったため、お言葉も控えられていたのでしょう」(同前)
雅子妃は十二月のお誕生日会見で、当時のことをこう延べられている。
「(体調を崩したのは)その時一時的なことでございましたけれども、日程の変更などがありましたことなどから、一部で誤解を生じてしまったように思いますけれども、その後は体調も戻り、お陰様ですっかり元気にしております」
正式検査の前の段階で、朝日新聞に「懐妊の兆候」とスクープされたばかりだけに、雅子妃の御身体を考えて事実を伏せたのは理解できなくはない。
だが、私は今回あえて、この「斂葬の儀」ご欠席の裏にあったご懐妊の可能性について書こうと決意した。それは、皇太子ご夫妻がご自身では決して反論されないことを盾にとって、「お世継ぎへの自覚がなかった」という歪んだ情報を流し続けることは許されないと考えるからだ。こうしたご懐妊の可能性を示す出来事は稽留流産の前後にあったが、両殿下はお世継ぎ誕生を信じて、公務を緩やかにするなど調整しながら御懐妊にむけた積極的な体制を組んできた。当時の宮内庁幹部もそれを認識していたはずである。

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仮に雅子様が2回目の流産を経験されていたのだとしたら誠においたわしく、また「行事に出てこないとは何事か!」と一方的に批判した周囲の人々には心底腹立たしいです。確かに安定期にも入っていないのにご懐妊を発表できるわけがなく、東宮大夫もほかの理由を挙げるしか方法がなかったのでしょう。
「懐妊するまで海外には行かせないぞ!」と言う同じ口で、実際にご懐妊の兆候があってもその可能性に配慮することもなく「こんなことくらいで公務や行事に出ないとは何事か!」と言う。
まるでヤク●の恫喝ですよ。

そういえば、安定期にも入っていないのに懇意のNHK記者と結託して、自ら早々に妊娠を報道させたどこかの宮妃がいましたっけね…あの方、今にして思うとお腹の子にもしものことがあったらどうするつもりだったんでしょうか。
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雅子様に対する「海外禁足」のソース記事 (anima mea)
2016-08-28 21:53:37
>1997年(平成9年)にはシラク大統領から皇太子ご夫妻へ訪仏の招待があったが、宮内庁(天皇皇后)がこれを許さず、紀宮さまがフランスを訪問している(★)。1999年(平成11年)にはドイツにおける日本年の名誉総裁が皇太子さまであり、皇太子ご夫妻が招待されたが、宮内庁(天皇皇后)がこれを許さず、秋篠宮夫妻がドイツを訪問した(★)。

上記の部分のソースが見つかりました。以下、転載させていただきます。

-------------------------------------------

森暢平 「雅子妃に「海外禁足」を強いた人物」p32ー34
(女性セブン緊急増刊「雅子妃のお気持」2004年)

日仏文化交流の拠点となる「パリ日本文化会館」がセーヌ川沿いに建てられ、開館式が'97年5月に開かれることになっていた。
日本通のシラク仏大統領は「ぜひ皇太子ご夫妻の訪仏を」と希望し、外務省も動いたが、宮内庁サイドが頑強に反対したのだという。
反対の本丸はおそらく鎌倉長官だ。結局、開会式には紀宮さまが出席した。(省略)

翌’99年の「ドイツにおける日本年」にどの皇族が出席するかが宮内庁内部で議論されていた。
ドイツ側名誉総裁にヘルツォーク大統領が就任することから、外務省は日本側名誉総裁には皇太子さまが就任することを希望し、ご夫妻のドイツ訪問をも求めてきた。
ところが、宮内庁は、皇太子さまの名誉総裁就任までは譲ったが、ドイツ行きにはクビを縦に振らなかった。
ドイツでの式典に出席したのは秋篠宮ご夫妻だ。
ここでも、皇太子ご夫妻の訪独に反対したのは鎌倉長官だった。(省略)

雅子さまの苦悩は、ほかにも皇室での人間関係があった。
宮中晩餐会後のお茶の席を、皇室記者達は、会場の上部にある隠し窓から覗くように取材する。
印象にあるのは、紀宮さまと紀子さまは、お客様への対応が一段落すると、決まったように仲良くおしゃべりしていたことだ。
けれども、いつのころからか、雅子さまがその輪にはいるのを見なくなった。
また、美智子さま、紀宮さま、紀子さまの3人はたまに御所に集まり、楽しくお菓子づくりをしていたという。
しかし、雅子さまが呼ばれることはなかった。
雅子さまとの間には明らかな壁があった。
雅子さまは、他の女性皇族と打ち解けられない寂しさに孤独感をいっそう深めていったに違いない。
愛子さまの子育て方針をめぐっても、雅子さまは、美智子さまに違和感を持っていた。

美智子さまが、愛子さまを抱く回数も多くはなく、雅子さまは「皇后さまは私たちのことをどうお考えなのだろう」と悩んだという。(中略)

雅子さまの病気について(中略)同誌(「文藝春秋」2004年7月号)によれば、天皇、皇后のお住まいである皇居に行くたびに症状が悪くなる傾向があるという。 病気の背景には、宮内庁の対応だけでなく、皇室内の人間関係があることの証左のように見える」(p34)

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当時の鎌倉長官が独断で「皇太子ご夫妻排除」などできるわけがないと思うので、これらは明らかに両陛下の意向に基づいて行われてきたことだと思います。
一体過去に何度同じようなことがなされてきたのでしょうか。相手国に対してもこれは大変失礼なことです。
元外交官という経歴を持つ皇太子妃の皇室外交の機会を奪うなんて、完全に日本の国益を損ねているとしか思えません。

それから、上記森暢平氏の文章の後半では、雅子様がほかの女性皇族たち(と言っても例の3人だけですが)から明らかにハブられていたという状況も暴露されています。念のためこの部分も転載させていただきました。

ほかのソースも時間があればまた探してみたいと思います。
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日本のネット環境 (マーリン)
2016-08-27 20:08:42
有名なあの巨大掲示板が出来たのが、1999年〜2000年頃なので、そのおぞましいスレは過去ログにも残っていないのでしょうか?
私は敬宮様ご誕生のあと皇太子様ご一家を誹謗中傷するスレを見てしまったことがあります。それはたしか愛子様のお名前を婆の口調でバーのマダムみたいな名前と書き込んでいました。「いや愛子様には宮号があってそれとつながっているから」と言ってやりたかったです。
また、これは日韓ワールドカップの頃(2002年)のことですが、赤ちゃんの敬宮様を抱いた雅子妃殿下の写真に落書き(口の両端からから血を流したような)した画像が貼ってあったのも見た事があります。これは明らかに韓国からの書き込みでした。その当時、日本より韓国の方がブロードバンドの普及率が高いと聞いた事があります。
敬宮様ご誕生の頃の(15〜16年前)のインターネット事情は現在のような光やLTEも普及前であり、もちろんスマホなどはありませんでした。掲示板を読むにはたしかネットでつながったPCでしか読めなかったのでは?
iPhoneが登場したのは光によるブロードバンド普及と同時期の2008年です。最初の頃は画像をアップするのがやっとで、動画サイトのYouTubeは2007年頃からです。
ちなみにブログが普及しはじめたのが2002年からです。それまでは更新が大変で書き込みが出来ないホームページが主流でした。ですから書き込みが出来たのは掲示板がほとんどだったと思います。
15年〜16年前頃のネット事情はたしかPCよりもiモードなどのガラケー中心だったので、現代よりもネット民とよばれる人は限られた人数だったと推測できます。
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「流産祈願スレ」の実態に言葉失う (AB型)
2016-08-27 13:45:57
INDEX様、こちらのページの趣旨と全く異なる投稿をすることをお許しください。どうじても「流産祈願スレ」の件で一言申し上げたかったので…。

Unknown様、貴重な情報をありがとうございました。私自身も皇太子妃雅子さまが2001年(平成13年)当時、敬宮さまを出産されたことを素直に慶び、お祝いした者の一人です。

あの当時、国民の多くが「皇太子ご夫妻に待望のお子様が生まれた」と歓喜に沸き、皇居前では、雅子さまのご出産をお祝いする国民集会が開かれ、多くの市民が日章旗と提灯を持って「万歳」とお祝いする姿は、まさに今の陛下が1933年(昭和8年)にお生まれになり、当時の市民が皇居前で奉祝に沸いたときと同じ光景でした。宮内庁始め全国ではお祝いの記帳も受け付けられ、2日間で12万人もの記帳者が訪れる程でした。

そんな列島中の奉祝ムードの中で、某巨大掲示板で「流産祈願スレ」が乱立していたことには驚きでした。私自身、かつてのスレの存在を知ったのは、つい最近のことでしたが、Unknown様が紹介して下さった一覧を拝見して、正直憤りというより言葉を失いました。これは「酷いことがあった」という一言だけでは片づけられないことだと思いますし、単に「一部のネット住民の書き込みなんて気にしない方が良い」で済まされることでもありません。

従来、皇太子ご一家に対するネット上での誹謗中傷や捏造情報を繰り返すアンチ東宮たちは、雅子さまが長期療養で倒れられ、皇太子さまの人格否定発言以来から現れるようになったとばかり思っていましたが、「流産祈願スレ」を通じて、雅子さまが公務でお忙しい日々が続いていた1999年(平成11年)当時からすでに存在していたのですね。Unknown様やINDEX様のおっしゃる通り、恐らく「流産祈願スレ」の乱立から、後の敬宮さまの自閉症デマや小和田家・江頭家に対する誹謗中傷、両殿下の振る舞いや公務に対するバッシングなどを繰り返す「今日のアンチ東宮」と呼ばれる者たちの出現につながっていると考えます。

こうした某巨大掲示板を巡る問題は、2000年(平成12年)に発生した西鉄バスジャック事件でも当時のマスコミが取り上げていました。事件後、犯行予告を書き込む模倣犯が現れるようになり、翌2001年にも多くの検挙者を出しています。当時のマスコミによって、ネットの掲示板の書き込みが問題視されるきっかけがあったにも関わらず、雅子さまに対する「流産祈願スレ」の存在が明らかにならなかったことは非常に残念です。

一社でもこのスレの存在に気づき、問題視していれば、当時の私や国民がいち早く気づき、糾弾することができたのに、ということを考えると本当に悔しいです。

INDEX様がおっしゃる通り、10年以上も経過したスレを巡り、送信元等を探ることは流石に困難ですし、刑事責任を問うことも難しいと思います。一応、現行の刑法上でも、宮内庁や法務省などが、皇族に対する名誉毀損罪や侮辱罪、脅迫罪ということで告訴はできると思いますが、最近書き込まれた内容ではないので不可能に近いでしょう。

ですが、当時はこうしたスレが乱立していたという事実を踏まえて、それを知る私たちが記録し、多くの国民に伝えて行くことは肝要だと思います。刑事告訴はできずとも、かつての犯罪行為を糾弾していくことは今でもできます。私も微力ではありますが、皇太子ご一家を温かく見守り続けている多くの皆さんとともにお手伝いできればと思います。

スレ一覧を読んで、正直気分が悪くなりましたが、Unknown様の貴重な情報提供に私からも改めて厚く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
返信する
告発し続けていきましょう>流産祈願スレ乱立 (INDEX)
2016-08-27 01:04:14
Unknownさま

「流産祈願スレ」乱立の証拠を挙げていただき、ありがとうございます。
ご提示いただいたスレ一覧、じつはこれを探していました。

>「流産祈願スレ」が乱立していたとされる1999年から2001年頃、私は某掲示板なども含めてあまりネットそのものを見ていませんでした。そのため、流産祈願スレに関しても間接的なお話しか聞いたことが無かったのですが、以前何かをきっかけにして流産祈願スレのタイトルとスレが立った場所と日時の一覧を入手したことがあります。

私もおそらく同じ経緯だったと思います。流産祈願スレの乱立には遭遇していないのですが、紀子妃懐妊の頃、雅子さまご懐妊当時はこんな恐ろしいことをする人たちがいたのだということで、タイトルと場所・日時一覧がアップされたのではなかったでしょうか。

それを人でなしたちの証拠として保存したつもりだったのですが、時間を経るうちに消失してしまったようで探し出せず、残念に思っていました。こうして貴重なログをご提供いただき、本当に助かりました。

>このスレの乱立が、後の「敬宮様は自閉症」というデマや雅子様に対する10年以上に及ぶバッシングにもつながっていっていると思うのです。

その通りと思います。

>ちなみに紀子妃が悠仁親王を妊娠した時は、このようなスレは立っていませんでしたよね?

アンチ東宮といわれる人たちが、自分たちの行いと同じことを東宮擁護派もやっているように見せかけようとして立てたスレは、いくつかあったようです。しかしそれは所詮ヤラセですので数も少なく、書き込む人もほとんどいなかったと記憶しています。

>当時、このスレを乱立させた連中の送信元等を辿ることはもう無理なのでしょうか?

残念ですが、無理なのでしょうね。もし、雅子様が一般人であれば、名誉棄損か脅迫罪か、何かしら犯罪に値するとして告訴することも可能ではないかと思うのですが。あるいはまた、国家権力がその気になれば、できないことはないのでしょうが。今の日本では無理でしょうね。

でも、その代わり、こういう犯罪行為への怒りをもつ私たちが、「決して許さない」という思いで記録し、語り継ぎ、誰の仕業だったのかと告発しつづけていくことが、できます。その意味でも、ほんとうに貴重なログを、ありがとうございました。
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「流産祈願スレ」乱立の証拠 (Unknown)
2016-08-26 22:43:27
※ネットに「流産祈願スレ」乱立の怪
東宮家の慶事をわがことのように喜ぶ国民をよそに、某巨大掲示板には「流産祈願スレ」が乱立。「雅子の腹に蹴りをぶっこいてくるのよ」といった信じがたい暴言の数々が日夜書き込まれた。
御子の性別も不明なときであり、男系男子派の仕業ではありえない。「東宮家による皇位継承」という当然のことを阻止しようとする勢力の仕業であり、それによって誰が利を得るかを考えれば、紀子妃とそのご実家という見立ては成り立ち得る(★)。


「流産祈願スレ」が乱立していたとされる1999年から2001年頃、私は某掲示板なども含めてあまりネットそのものを見ていませんでした。そのため、流産祈願スレに関しても間接的なお話しか聞いたことが無かったのですが、以前何かをきっかけにして流産祈願スレのタイトルとスレが立った場所と日時の一覧を入手したことがあります。

タイトルだけでもあまりにもおぞましいので本当はここにその一覧を貼るのはやめた方がいいのかと躊躇しましたが、「こういう酷いことがあった」という事実を証拠として残すことも検証の一環として必要だということ、そして私のように当時のスレ乱立を知らない人々も「こんな酷いことがあった」ということを知ることができるようにと、敢えて一覧をここに貼らせていただきたいと考えました。

もし気分を害する方がいたら誠に申し訳ありません。しかし雅子様のお腹のお子(=敬宮様)に対してここまで異常なことができるのは誰か?普通の日本国民は皇太子妃殿下のお子様が無事に元気にお生まれになることだけを願いますが、そうではない連中が実際にいたということは一体何を意味するのか?
皇太子妃殿下である雅子様のお腹のお子にもしものことがあったら喜び得をするのは誰か?ということを、多くの人々に考えていただきたいです。
このスレの乱立が、後の「敬宮様は自閉症」というデマや雅子様に対する10年以上に及ぶバッシングにもつながっていっていると思うのです。

ちなみに紀子妃が悠仁親王を妊娠した時は、このようなスレは立っていませんでしたよね?それも一体何を意味するのか?

●流産祈願スレ 一覧●(閲覧注意)

99/12/30 22:25 - 0027 - 雅子様 流産
99/12/31 10:59 - 0179 - 雅子様 流産 政治思想@log
00/01/16 21:42 - 0003 - 雅子様 流産 しちゃったけど、 main@mukashi
00/02/25 06:04 - 0013 - 雅子 流産 は笑えた ラウンジ@mukashi
00/05/23 08:36 - 0063 - 雅子 流産 万歳!雅子流産万歳!雅子流産万歳! 政治思想@ebi
01/04/16 22:42 - 0737 - 雅子様の 流産祈願スレッド pizatr@piza
01/04/17 11:49 - 0005 - マスコミによる 雅子様 流産 計画 マスコミ@natto
01/04/19 00:43 - 0157 - 雅子さまの 流産を祈る会 病院・医者@cocoa
01/04/23 20:33 - 0151 - 雅子様の 流産 祈願其の弐 pizatr@piza
01/04/25 20:40 - 0017 - 雅子が 流産 しますように ラウンジ@corn
01/04/27 22:50 - 0060 - 雅子 流産 しちゃえば????? ラウンジ@corn
01/04/29 16:42 - 0808 - 雅子様の 流産 祈願其の参 pizatr@piza
01/04/30 23:23 - 0064 - 雅子が 流産 しますように ラウンジ@corn
01/05/10 02:06 - 0511 - 雅子様の 流産 祈願其の四(黄泉・死) pizatr@piza
01/05/13 16:44 - 0042 - 雅子が 流産 しますように ラウンジ@corn
01/05/13 16:55 - 0040 - 雅子が 流産 しますように ロビー@saki
01/05/15 17:32 - 0093 - 【ひどい!】 雅子さま 流産 を願う市民団体 ニュース議論@piza
01/05/15 22:54 - 0009 - 速報!! 雅子様 流産 厨房!@bbspink-okazu
01/05/15 22:54 - 0009 - 速報!! 雅子様 流産 厨房!@bbspink
01/05/15 22:57 - 0044 - 雅子様ご流産
01/05/19 13:05 - 0446 - 雅子様また 流産 !!! ゴミ箱@ton
01/05/24 11:08 - 0011 - 雅子の 流産 祈願した人の数→ ラウンジ@corn
01/06/04 23:57 - 0047 - 雅子様の 流産 祈願其の伍(呪) ニュース議論@piza
01/06/04 23:57 - 0477 - 雅子様の 流産 祈願其の伍(呪) ゴミ箱@kaba
01/07/03 11:34 - 0252 - 雅子様の 流産 祈願其の陸(呪) ゴミ箱@kaba
01/07/07 20:54 - 0146 - 雅子が 流産 しますように ラウンジ@corn
01/07/15 17:25 - 0292 - 雅子様の 流産 祈願其の七(致死) ニュース議論@kaba
01/07/21 06:09 - 0012 - 皇太子妃 雅子 流産 祈願@政治思想 政治思想@ebi
01/07/21 22:20 - 0073 - ■■ 雅子妃の 流産 は、呪いによって?■■ 政治思想@ebi
01/07/28 12:29 - 0240 - 言論の力で 雅子を 流産 させたい(2) ニュース議論@kaba
01/07/28 12:55 - 0271 - 雅子様の 流産 祈願其の八(災禍末広) ニュース議論@kaba
01/07/30 21:00 - 0255 - 言論の力で 雅子を 流産 させたい(3) ニュース議論@kaba
01/08/07 10:19 - 0230 - 言論の力で 雅子を 流産 させたい(4) ニュース議論@kaba
01/08/12 08:09 - 0034 - 雅子の 流産 祈願@ハングル ハングル@teri
01/08/12 08:09 - 0036 - 雅子の 流産 祈願@ハングル ハングル@kaba
01/08/20 18:13 - 0006 - 雅子が 流産 したらいとこ皇室に養子にしようと思うが 日本史@mentai
01/08/21 10:03 - 0061 - 言論の力で 雅子を 流産 させたい(5) ニュース議論@kaba
01/08/25 21:12 - 0029 - 速報・ 雅子妃 流産 ニュース議論@kaba
01/09/03 20:54 - 0146 -雅子様の 流産 祈願其の拾壱 ニュース議論@kaba
01/09/09 00:32 - 0054 -【 流産 】皇太子妃殿下 雅子 容疑者(37)
01/09/11 03:21 - 0012 - 雅子様の 流産 祈願其の拾弐 ニュース議論@kaba
01/09/12 03:01 - 0002 - 爆破テロのショックで 雅子 妃が 流産 !! 臨時ニュース速報@piza2
01/09/15 19:50 - 0098 - 雅子様の 流産 祈願其の拾参 ニュース議論@kaba
01/09/20 03:01 - 0078 - 雅子様の 流産 祈願其の拾死 ニュース議論@kaba
01/09/27 06:19 - 0341 - 雅子様の 流産 祈願其の銃後 ニュース議論@kaba
01/10/02 22:32 - 0218 - ★ご長寿スレ, 雅子様の 流産 祈願其の16★ ニュース議論@kaba
01/10/02 23:52 - 0011 - 雅子が 流産 しますように ラウンジ@saki
01/10/06 15:58 - 0245 - ■■■ 雅子の 流産 祈願其の17■■■ ニュース議論@kaba
01/10/09 01:00 - 0344 - ★★ 雅子皇太子妃殿下ご 流産 祈願其の18★★「 ニュース議論@kaba
01/10/13 01:41 - 0796 - ■■■千客万来! 雅子 流産 祈願その19■■■ ニュース議論@kaba
01/11/11 17:03 - 0151 - 雅子の腹に蹴りぶっこんで 流産 させてくるのよ!! 既婚女性@natto
01/11/16 04:14 - 0005 - 雅子の 流産日が決定!?! ニュース議論@kaba
01/11/30 04:52 - 0041 - 超緊急速報!!! 雅子様 流産 !!! 独身男性@yasai
01/11/30 23:04 - 0006 - 雅子様が 流産 の為入院 臨時ニュース速報@ex
01/11/30 23:19 - 0024 -【流】 雅子は今回も 流産 【流】__________ ニュース速報@news
01/12/01 00:17 - 0059 - __【流】 雅子は今回も 流産 !!【流】___ 臨時ニュース速報@ex
02/04/07 00:54 - 1001 - 雅子の 流産 祈願と愛子の狂人祈願 ニュース極東@tmp
02/05/15 21:48 - 1001 - 雅子の 流産 祈願と愛子の狂人祈願2 ニュース極東@tmp
02/05/18 21:12 - 1001 - 雅子の 流産 祈願と愛子の狂人祈願3 ニュース極東@tmp

(以上)

上記一覧を貼り付けている間、目眩がして気分が悪くなりました。本当に酷過ぎると思います。某掲示板は「便所の落書き」と揶揄されていますが、それでもこれはあまりにも常軌を逸しています。当時、このスレを乱立させた連中の送信元等を辿ることはもう無理なのでしょうか?
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作業報告 (INDEX)
2016-08-26 05:25:47
★にゃーこ様

英文資料を多数挙げていただき、ありがとうございます。記事リストを英語が得意な友人に送り、ざっと翻訳してもらおうと思います。

YouTubeに、1993年4月12日の納采の儀、4月20日の告期の儀、6月15日からの饗宴の儀、7月8日に開かれたサミット晩餐会の動画がありました。

饗宴の儀では美しいドレスをまとった雅子さま、晩餐会ではクリントン夫妻、エリツィン夫妻など世界の要人とにこやかに話す雅子様さまを拝見できます。しかし、これらの行事名で検索すると、雅子さまにあり得ない難癖をつけ、紀子妃を持ち上げるサイトが多数、ヒットするようです。この悪質な侮辱は、当時書かれた記事などを調べ、事実をもって否定しておきたいところです。

>余談ですが、これらの取材ではハーバード大学の成績や在学当時のことは徹底的に調べていますから、これらの記事で成績優秀と書かれている以上、そこは揺らぎのない事実です。

あまりにも馬鹿々々しい根拠のない侮辱が真実であるかのように書き散らされているので、この件については、海外の記事名とともに念押しダメ押ししておきたいですね。

>ネットの噂で気になるのは、雅子様を父親である小和田氏が売り込みをしていた、という嘘です。当時は妃殿下候補にもならなかった、昭和天皇が認めなかった、それを亡くなったあとに強引に進めた、といった嘘を平然と書いているものを複数目にしました。
>雅子様の入内までの報道記事を集めて、その流れを明確にすることも必要なのではないかと思います。

なるほど。秋篠宮夫妻の結婚に至る経緯はあまりに怪しいため、関連記事を収集して確認しておかなければと思っていましたが。雅子さまの結婚に至る経緯は日本人なら皆知っていることして、その必要に思い至っていませんでした。しかし、事実と違うことを書き立てて事情に疎い人たちに信じ込ませようとするのがアンチ東宮さんたちの戦略なのですよね。こちらについても、記事の収集を目指したいと思います。ご指摘ありがとうございます。

★auxiliaさま

敬宮愛子内親王ご出産前後、その後についての資料をありがとうございます。天皇は先日の生前退位メッセージで、次のように述べていますが、

「伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。」

 なんとも荒唐無稽な自画自賛ですね。女性を生む機械扱いにすることがどれだけ恥ずべきことか、今の時代の常識というものをまったくご存じない。周囲に誰も、それを教え諭してくれる人がいなかったのでしょうか。

★余裕のない庶民さま

>たしか海外の雑誌『Majesty』の2009年2月号に両陛下の写真とともにタイトルに「Family trouble」とかかれ5ページほどさかれていたそうなんです。

読んだ方が現れるといいですね。私も今後、気を付けてみていくこととします。

★がたみんさま

詳細に調べていただき、ありがとうございます。
ただ、このトピックでは、愛子様ご誕生の2001年までを扱いたいと思いますので、お調べいただいたことは、次のトピックで、活用させていただきますね。

高円宮様ご逝去から人格否定発言に至る流れは、東宮ご一家にとって辛く苦しい時期で、なぜそこまで追い詰められなければならなかったのか、解明したいです。

ただ、2001年までの出来事も非常に重要で、調べて書き残しておくべき要件が多いため、もしかして数か月かかるかもしれません。どうか気長に、お付き合いくださいませ。
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Unknown (がたみん)
2016-08-25 20:00:56
とりあえず、調べたところを書いてみましたので。
ご参考までにどうぞ。

2001年2月 結婚から8年近くを経て初めて皇太子御夫妻でスキーに。

2002年11月21日 高円宮様逝去。
2002年12月1日 愛子様1歳。
2003年12月1日 愛子様2歳。アルファベットを発音。
2003年12月3日 宮内庁。雅子様が帯状疱疹と診断され、病院に数日入院の可能性があると発表。
4日 雅子様入院。
25日 ほぼ治癒。

2004年3月26日 雅子様転地療養のため長野へ。小和田家別荘で2週間ほど滞在の予定
4月5日 宮内庁。雅子様の滞在をしばらく延長すると発表。
4月6日 皇太子様静養先入り。
4月26日 雅子様帰京。
2004年5月10日 皇太子様会見。 人格否定発言。
7月31日 宮内庁。雅子様の病名を適応障害と発表。
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Unknown (余裕のない庶民)
2016-08-25 17:20:59
記憶違いだったら大変申し訳ないのですが、たしか海外の雑誌『Majesty』の2009年2月号に両陛下の写真とともにタイトルに「Family trouble」とかかれ5ページほどさかれていたそうなんです。
私も気になって探しているのですが、まだみつけられておりません。
読んだ方はいらっしゃいますでしょうか?
返信する
敬宮愛子内親王ご出産前後 そして その後 (auxilia)
2016-08-25 13:30:58

雅子妃の明日
友納尚子 著  (2006年7月発刊)


三十項

言うまでもなく、雅子妃に課せられたもっとも重要な課題は「お世継ぎ」を産むことだった。
雅子妃もその重要性は十分に理解していたし、誰よりもそれを望んでいた。
それだけに、ご結婚以来、ご夫妻はコウノトリの訪れがないことに悩み続けてこられた。
しかしそれは、周囲に容易に打ち明けられる問題ではない。

中略

内親王ご誕生までに雅子妃が嘗められた苦渋は、お生まれにならないことに対する苦言の連続であった。
「自覚が足りない」にはじまり、「本当に子供をつくる気があるのか」という直接的で度を越した物言いに対しても、あえて反論をせず、じっと耐えるしかなかったのである。

中略

ある幹部にいたっては、単刀直入にお世継ぎの話しかしない。
顔を合わせた途端、いきなり直接的な言葉を口にしたという。
雅子妃でなくとも、体の話ばかりされれば居心地の悪い思いをするのではないか。
宮内庁の関係者が直言したのは雅子妃ばかりではない。
雅子妃の周囲にも、
「とにかく一人産んでくれればいいんですから」
「これが国事行為ですから妃殿下に産んでいただくよう諭してください」
「産んでくれれば日本経済のGDPも三パーセント上がるんだから」

中略

両殿下をよく知る人物が明かす。
「雅子妃が周囲から求められているのは、世継ぎを産むことだけと、お感じになったことでしょう。
『天皇皇后両陛下は強くお世継ぎを望んでいる』ということも、毎日にように聞かされるようになったのです。
たとえ『私はお世継ぎを産むための機械じゃない』と思われたとしても、不思議はないのではないでしょうか」

中略

三十二項

中略

いくら皇太子妃がお世継ぎをお産みにならなければならぬ特別な存在だとは行っても、周囲から毎日のように子供を作るように迫られたら、一人の女性としてどう感じるだろうか。望んでも恵まれないとしたら、なおさらである。

中略

四十三項

中略

しかし、実際には雅子妃にかかる重圧は簡単には変わらなかった。
愛子内親王のご出産後、日を置かずして、第二子の準備のための計画が持ち出されたのである。
宮内庁関係者が話す。
「愛子さまが誕生した翌年の2002年12月、両殿下はご夫妻そろってニュージーランド、オーストラリアに八年ぶりの外国訪問をされました。
ところが、帰国した際に周囲から開口一番言われたのは労いの言葉ではありませんでした。
『次のことはお分かりですね』という念押しの言葉でした。
しかし、第二子のことを考えるには、1年前のお元気だった頃とは違って、雅子妃は体調のすぐれない状態でした。
といって、国内の過密な公務の調整にも限度があり、完全な休養を聞き入れてもらえる状況ではなかったのです」


+++++++++++++++++++

雅子妃に直言したのは宮内庁関係者などと書かれているが、いくら「天皇皇后両陛下を第一に考えて動く宮内庁」とはいえ、女性しかも皇太子妃を相手に「子供を作る気があるのか」などと平気で言えるものだろうか。

そこには(自分のバックには皇太子夫妻でも刃向かえないし反抗できない人物が付いているのだ。自分は、その人物からの言葉を伝えているのだ。)という絶対の自信___お墨付き___が無ければ無理だと考えられる。

皇太子夫妻でも刃向かえないし反抗できない人物とは?
それが誰であるかは、言わずとも書かずとも、誰もが知る人物であろう。

返信する
都市伝説 (にゃーこ)
2016-08-25 12:52:55
たびたびで申し訳ございません。

東京都知事選挙の折、それまでタブーだった政治家のスキャンダルをあばいたのが鳥越氏だとしきりに喧伝されていましたが、どうしてタブーだったのかというと、やはり国のイメージを貶めるからでしょう。
そのため、下半身のゴシップは書かないという不文律があったわけです。
この宇野元首相スキャンダルが1989年。まさに平成元年、秋篠宮殿下がご婚約になった年です。
まともなマスコミは下半身ゴシップは取り扱わないものでした(だからこそ、そういうことを扱うFOUSとかFRIDAYに存在価値があったわけです)。

そもそも、国に傷がつくようなことは、大事ごとであればあるだけ表には出て来ません。
石原元都知事の四男がオウム真理教に深くかかわっていたことなども、なかったことになっています。
ましてや、都市伝説のようなことは一般人でも口にしないことが暗黙の了解というようなことですから、報道されないことは当然だと思います。

個人的なことではありますが、私は婚約発表から数日後に、学習院とか皇室とか華族とか、そういう類縁の方から、この都市伝説と同じ内容を耳にしました。あまりに驚いたので質問などできなかったのですが、その方の周辺では周知の事実なのだろうということは感じました。
いわく、素直な人なので殿下の要求に否を言えず、そのため避妊もできないのだ、と。だから父親が乗り込んだのだとも。

ほとんどの人にとっては、これが事実として認識されているのではないでしょうか。
そして、まともな人は、雅子様のことだと言われても嘘だということはわかります。年代も異なりますし、雅子様のお人柄からもありえない、なにより、皇太子殿下がそういうことをなさるはずがありませんから。

むしろネットの噂で気になるのは、雅子様を父親である小和田氏が売り込みをしていた、という嘘です。
当時は妃殿下候補にもならなかった、昭和天皇が認めなかった、それを亡くなったあとに強引に進めた、といった嘘を平然と書いているものを複数目にしました。
あの時代のニュースを見ていた人であれば、断りきれずに受諾されるまでのいきさつを知っていますし、だからこそ、その後の産む機会のような人権無視の扱いと病まれたことを痛ましい思いで見守ることになりました。

もしかしたら過去に取り上げられているかもしれませんし、むしろ、ネットのデマゴーグのカテゴリで取り扱った方がいいのかもしれませんが、雅子様の入内までの報道記事を集めて、その流れを明確にすることも必要なのではないかと思います。
海外の記事では、きちんとこのあたりの事情はおさえてあるものが多いですが、国内ではそれこそ配慮から、ご成婚あたりの記事には書かれていません。

秋篠宮殿下のご結婚については、諦めるよう説得のために赤坂御所に呼び出されたのを、朝日新聞が婚約のため、と翌朝にスクープしたのではなかったでしょうか。
そのいきさつについて、どこかに書かれていたような気がします(あいまいでごめんなさい)。
川島教授(改名前なので、当時はこの表記です)は、人間は平等だからネクタイをせずに赤坂御所にあがったのでしたよね。ネクタイは身分ではなくTPOだと思うので、当時も疑問に思ったものでした。
こういう言い方は何ですが、こうした革新的なお育ちでは、上流階級特有のしきたりなどはご存知なくても当然でしょうし、だからこそ、国中が喪に服しているのにもかかわらず婚約会見などできたのでしょう。

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1993年・その3 (にゃーこ)
2016-08-25 10:41:11
文字数制限で2回に分けます。


3月13日
The Washington Post
「NAME & FACES 」

3月15日
The Washington Post
「A Damper On Japan's Royal Wedding 」

3月30日
The New Tork Times
「The Career and the Kimono」
http://www.nytimes.com/1993/05/30/magazine/the-career-and-the-kimono.html?pagewanted=all

4月13日
Los Angeles Times
「Royal Ritual for Japanese Betrothal」
http://articles.latimes.com/1993-04-13/news/mn-22396_1_japanese-sake

5月25日
Chicago Tribune
「'90s Princesshood: What Happened To Happily Ever After?」
http://articles.chicagotribune.com/1993-05-25/news/9305250021_1_crown-prince-naruhito-chrysanthemum-throne-masako-owada

6月3日
Los Angeles Times
「A Bride All Japan Has Advice For : Masako Owada is about to cross the moat forever, going from diplomat to royal wife. She is getting an earful from everyone because both conservatives, feminists wish the prince had picked someone else.」
http://articles.latimes.com/1993-06-03/news/mn-42760_1_masako-owada

6月5日
The Washington Post
「Japan's Wedding Bell Blues; Royal Nuptials Not Sparking Predicted Economic Boom 」
https://www.washingtonpost.com/archive/business/1993/06/05/japans-wedding-bell-blues/3b8c9951-4111-4920-bf4b-a26115a4d2b6/

The Economist (US)
「The princess, the god and the dead fish. (Japan's royal wedding) 」

Ben Hills
「A modern Masako goes backwards in time:The tragedy of Princess Masako. Modern woman collides with ancient dynasty.」
http://benhills.com/articles/japan-unlimited/a-modern-masako-goes-backwards-in-time/

6月6日
The Washington Post
[ With about a thousand VIPs in attendance and a billion or so electronic guests watching on television ]

The New York Times
「The Molding of Masako-san, Japan's Perfect Bride」
http://www.nytimes.com/1993/06/07/world/the-molding-of-masako-san-japan-s-perfect-bride.html?pagewanted=all

The New York Times
「Tokyo Journal; Finally, Prince Finds a Bride: A Harvard Woman」
http://www.nytimes.com/1993/01/07/world/tokyo-journal-finally-prince-finds-a-bride-a-harvard-woman.html

Los Angeles Times
「SHINTO MEETS CHANEL : An Imperial Family Steeped in Tradition Searches for a Clear Identity as Japan Struggles to Update the Myth of Its Chrysanthemum Throne」
http://articles.latimes.com/1993-06-06/magazine/tm-288_1_imperial-family

6月7日
UPI
「When former diplomat Masako Owada is driven over the...」
http://www.upi.com/Archives/1993/06/07/When-former-diplomat-Masako-Owada...



国内の方が時間がかかりそうです。
返信する
1993年・その2 (にゃーこ)
2016-08-25 10:30:06
INDEXさま、早速の記事への反映をありがとうございます。

とりあえず、ざっくり検索をかけて出て来た英文記事です。
タイトルだけで中が読めないものもありますし、アーカイブ自体が登録しないと検索できないものもあるので、偏ったものになっています。
肝心のワシントンポストの記事も読めません。

ヨーロッパのものがないのは、多分、ネット対応が遅かったことが大きいのではないでしょうか。
記事になっていないことはないはずですから。

アメリカでは、やはり「ハーバード卒の外務省職員」ということが、大きく取り上げられています。
また同盟国である日本の将来の皇后ということで、関心が高かったことも大きいと思います。
ワシントンポストは継続して取り上げているのは、スクープしたと自負していることもあるでしょう。

また現代的なキャリアを持つ才女が、古式ゆかしい皇室でやっていけるのかという懸念や興味もありますね。
キャリアを活かした外交を期待しているものも多いと感じます。

1993年のアメリカ大統領はクリントン、日本の首相は宮澤氏→細川氏。
そして1993年7月にはクリントン大統領が来日しています(7/6-7/10)。
日米関係が良好だった時代だったことも、記事には反映されているように個人的には感じます。もし摩擦のある時期なら、もっと悪辣な視点だったかもしれません。

余談ですが、これらの取材ではハーバード大学の成績や在学当時のことは徹底的に調べていますから、これらの記事で成績優秀と書かれている以上、そこは揺らぎのない事実です。


1月6日
The Washington Post
「Japan Picking Princess; Secrecy Surrounds Crown Prince's Choice 」

1月7日
The Washington Post
「An Imperial Betrothal; Japan's Prince Picks Harvard Graduate 」
https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1993/01/07/an-imperial-betrothal/3b9e465b-0ffe-414c-8fb4-e49708586946/

The Washington Post
「Japan's Press Breaks Silence With a Bang; Vow to Betrothed Prince Ends in a News Torrent 」

The Boston Globe (Boston, MA)
「Japan's crown prince finally finds his princess 1985 Harvard graduate is bride-to-be 」

Chicago Sun-Times
「Japan's Crown Prince Will Marry Diplomat 」

Los Angeles Times
「Japan Prince to Wed Aspiring Diplomat」
http://articles.latimes.com/1993-01-07/news/mn-963_1_crown-prince-naruhito

Los Angeles Times
「Sayonara to the Single Life : Logistics: The wedding will be simple and short. But the celebration involves a cast of thousands and a cost of millions.」
http://articles.latimes.com/1993-06-07/news/vw-576_1_royal-wedding

UPI
「The engagement of Crown Prince Naruhito to Masako Owada,...」
http://www.upi.com/Archives/1993/01/07/The-engagement-of-Crown-Prince-Naruhito-to-Masako-Owada/9968726382800/

1月8日
The Buffalo News (Buffalo, NY)
「A DATE FOR CROWN PRINCE」

1月9日
The Washington Post
「Royal Romance Sparks Vision of Rebound; Japanese Companies See Prince's Engagement Leading to Increased Spending 」

1月11日
Los Angeles Times
「Japan's Economy in Mood for Royal Wedding : Asia: The business sector is hoping the event will spark consumer sentiment and help lift the country out of its current slump.」
http://articles.latimes.com/1993-01-11/business/fi-1124_1_royal-wedding

1月20日
The Washington Post
「Japan's Princess-to-Be Charms in Shy Debut 」

1月25日
people
「Princess Bride:Oft Rejected, Japan's Crown Prince Gets a 'Yes' from a Harvard Grad」
http://www.people.com/people/archive/article/0,,20109655,00.html

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作業報告 (INDEX)
2016-08-25 04:33:46
★auxiliaさま

たくさんの貴重な資料を教えていただき、ありがとうございます。さっそく「平成皇室実録」記事に組み入れました。

『プリンセス・マサコ』の原文と翻訳のご提示もありがとうございます。雅子さまが懐妊優先で国内に閉じ込められていたという事実、生理を報告させる天皇皇后の仕打ちについては、しっかり記録しておくべきことと思います。天皇皇后宮内庁のやり方は、はっきり間違っていた、非人間的なものだった、雅子さまを病ませた一因だったということ、平成皇室の影の部分として、逃げずに記録しておかねばならないことだと思います。

美智子皇后はそれを何としても阻止したく、『プリンセス・マサコ』の出版を停止させたのでしょう。愚かなことです。この部分の編集については、より効果的な方法を検討したいと思います。

★にゃーこさま

 海外メディアのスクープの経緯、皇室会議を受けての記者会見、納采の儀について教えていただき、ありがとうございます。さっそく記事部分に組み入れました。

 ご結婚からしばらくの過密なご公務についても記録しておきたいですね。あまりに多忙で子作りの暇もないと心配されたのは、高円宮さまだったような? その記事ソースも探していきたいと思います。

★翡翠さま

 紀子さま堕胎の件、たしかに雑誌や本など出版物には1行たりとも掲載されませんね。それを匂わすような記事も見たことがありません。それほど宮内庁が重要視した機密事項なのでしょう。記者クラブがあってこそ可能な言論統制です。でも、一般庶民はみな知っているというw(北朝鮮を嗤えない)

 しかし、皆が知っているはずのことも、時間の経過とともに風化し、無かったことにされるわけですね。歴史から消され、違う話に捏造されてしまう。雅子さまが意図的に流したかのように。真犯人を捕まえておかないと冤罪が生まれてしまうのに似て、事実を押さえておかないと、潔白な方が濡れ衣を着せられてしまう。それを許さないためにも、ぜひ情報収集をお願いいたします。

 引き続き、情報の追加、ソースの確認など、どうぞよろしくお願いします。
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「皇室会議」と所功氏、『日本会議の研究』菅野氏の推論 (INDEX)
2016-08-25 04:01:11
同い年様

 「皇室会議」というのは結局、事後承諾するだけの役割のようですね。雅子さまの時もそうだったようで。

 所功氏は、生前退位ニュースの時に「皇太弟」を認めることが大事と言い、そういったことを「皇室会議で決めればいい」と主張されていました。以下は、過去記事にあげたものですが、7月14日「テレあさ スーパーJチャンネル」での所氏の発言を書き取ったものです。

>皇太子さまが天皇になられた場合、皇子がおられませんから、その方はいったいどなたかといえば、ふつうは、典範第1条に基づいて、秋篠宮さまだ、その先は悠仁さまだということになります。それを可能にするためには、皇太弟たる方を皇太子とみなすとか、あるいは、皇太弟たる方も内廷皇族とするということをちゃんとしておかないと、先に進めないということだと思います。

>歴史がある皇室を今後とも安定的に継承するためには、皇室会議というものがありますから、そこで情報を共有し、一定の方向性を見出し、それを政府に進言もしくは答申をして。それに基づいた法律案は与野党を超えて、みんなでそれを成立するようにすると。念のためですが、皇室会議は、皇族2名と三権の代表8名からなっていますし、国会の場合、正副議長ですから、与党と野党の代表者も入ることになりますので。議長は総理大臣ですから。そういう意味で、国民の意見を背景として、皇室会議でしっかりと議論をすると。そのうえで政府が法案を出すという。国会ではすんなりそれを通すと、そういうことでないと。前に、有識者会議など立ち上げますと、かえって意見が分かれてしまって、いつまでも結論が出ないということになると思います。(発言引用ここまで)

 皇室会議の皇族2名のうち一人は秋篠宮ですからねえ。自分が自分を皇太弟に推すようなことをさせていいと思っているんでしょうか、所氏は。しかも、事後承諾専門の名ばかり「会議」で、「しっかりと議論する」などという実績はこれまで1つもなさそうな機関なのに。

 こういうことを生前退位スクープ直後のTVで発言するような人は、やはり宮内庁の意を受けた御用学者としか思えません。とても信用できない。あの『日本会議の研究』の著者の菅野氏が、「日本会議に籍のある人でご皇室の話させてマトモな人って、所先生ぐらいしかおらん」とツイートしておられますが、尊敬する菅野氏の見立てでも、とても賛成できません。

>僕の過去ログを探っていただいていいが、ご譲位の第一報が流れた7月から、ずっと「東宮」と言い続けている。確か、「東宮を守ろうとされておられるのだ」と書いたはずだ。で、現に、8月9日以降、東宮家のご公務に、愛子親王が表立って参加されるようになった。これは、恐れ慎むべきことですよ(菅野氏の8月24日のツイート)

 天皇が「東宮を守ろうとされている」「愛子さまを皇太子として想定されている」という菅野氏の見立ては、天皇を心優しい方、大局を見ることができる方と信じているからこそのものでしょう。私にはそうは思えないのが残念でならない。愛子さまの清々しいお姿をたくさん拝見できるのはほんとうに嬉しいことですが。眞子さまニュースも頻繁で、それもあの宮家らしいズルで固めた粉飾がすこしも変わっていないわけで。眞子さま佳子さまの粉飾ニュースをみるたびに、女性宮家アピールの一環としか思えないわけです。

 皇統を守るために必要な女帝・女系天皇への道を開くのではなく、姑息な「女性宮家」アピールのために、愛子さまのお出ましも利用されてしまうのだとしたら、許せない。水を差すようですが、こういう「疑い」を持ち続けて、用心することも大事と思っています。
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紀子さまの堕胎 (翡翠)
2016-08-24 23:49:00
紀子さまが結婚前に2回堕胎したということは、意外に多くの人が知っているんですね。私が驚いたのは、郊外の一戸建てに引っ越して、隣組の会合に参加したときのこと。リーダー格のおばさん(70代)が、明日は紀子さんに会いに行くのよ(何かの集まりがあるらしい)というので、ちょっとその話をふってみたんです。そうしたら、「2回じゃないのよ、3回よ」と。

回数はともかく、堕胎したことそのものが当たり前、みんな知っている常識、みたいなことになっているのが、驚きでした。とくに大層な秘密というのでもなくて、みんなが「ああ、あれね」と知っていて、でも、それで紀子さまをとくに軽蔑するとかいうのではなくて。「明日は紀子さんに会いに行く」と、ちょっと晴れがましげに言うわけです。ちゃんと、皇族としてそれなりに認めている感じで。

でも、そんなふうにみんなが知っていることでも、活字になったものを読んだことは一度もない。これを週刊誌などの記事にすることは、出版界では絶対にやってはいけないタブーなんでしょうね。

「昭和天皇実録」を意識して「平成天皇実録」が作成されるとしたら、いまの一般庶民が当たり前のように知っている皇室の醜聞は、きれいに消されてしまうでしょう。活字になっていないので、事実として扱われることはなさそうです。ネットには残っていても、活字になっていないんだから悪質なデマ、都市伝説、ということにされてしまいますね。

紀子さまの堕胎話は某宗教団体が流したデマで、その宗教には雅子さまが関係している、というような嘘が、まるで真実のように書かれているサイトもあります。個人のブログではなく、中立を装ったサイトです。

そういう嘘やごまかしが、事実のように語られ、いつの間にか事実になってしまうというのが、イヤでたまらない。一般庶民というか、国民をなめている、馬鹿にしていると思う。

ということで、私は紀子さんの堕胎について、情報を集めてみますね。それを、庶民版「平成皇室実録」に入れてほしいです。
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1993年 (にゃーこ)
2016-08-24 23:16:32
皇室会議を受けての記者会見と、納采の儀はあった方がいいのではないでしょうか。

1月6日 ワシントンポストがスクープ
宮内庁から正式発表まで統制がかけられていたが、宮内庁記者クラブに所属しないため報道協定に縛られない海外メディアによってスクープされた
これを受けて国内外のメディアが一斉に記事を掲載する
(時間があれば、リストを作ってみます)

1月19日 皇室会議
8時30分から19分間行われ、小和田雅子さんを皇太子妃と内定し、記者会見が行われた

4月12日 納采の儀

この時の写真が「NEWSWEEK」表紙に
記事は「THE RELUCTANT PRINCESS」
http://www.newsweek.com/reluctant-princess-193416

6月9日 結婚の儀

「ニューヨークタイムズ」の記事
「Royal Wedding in Japan Merges the Old and New」
http://www.nytimes.com/1993/06/09/world/royal-wedding-in-japan-merges-the-old-and-new.html

「The Molding of Masako-san, Japan's Perfect Bride」
http://www.nytimes.com/1993/06/07/world/the-molding-of-masako-san-japan-s-perfect-bride.html?pagewanted=all


この時期、国内はネットに対応していないので、探すとしてもタイトルだけになるでしょうか。
ご結婚からしばらくの、すさまじいまでのご公務のスケジュールに、「こんな忙しくて小作りが出来るのか」という記事もありましたね。
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生理の周期など (auxilia)
2016-08-24 14:22:08
英文:
Princess Masako Prisoner of the Chrysanthemum Throne
by Ben Hills  (2006年 発刊)

日本語訳:
プリンセス・マサコ 完訳
藤田 真利子 訳



According to well-placed palace insiders, every month since her marriage the princess has been summoned to the imperial presence.

宮内庁の事情通によれば、結婚以来毎月皇太子妃は天皇と皇后の前に呼び出される。


Using the politest and most formal of language, the emperor enquires as to whether she has had a period that month.

この上なく丁寧で堅苦しい言葉を使い、天皇は雅子妃がその月生理があったかどうかを尋ねる。


Each time she has to lower her head in shame and confess that, sadly, she has failed yet again to conceive achild.
そのたび彼女は恥ずかしさに頭をたれ、悲しいことにまだ妊娠していないことを告白しなくてはならない。


They also point out that she has effectively been grounded until she does her duty and produces an heir.

事情通たちはまた、雅子妃が世継ぎを有無という義務を果たすまでは外出できないことを指摘する。


+++++++++++++++++++++


天皇が雅子妃の「女性特有の周期」を知りたがっている云々……という記事は、この本が出版された後に出たような気がするのだが。
ベン・ヒルズの本が発行されたのは2006年なので、そういう話は既に2006年以前には囁かれていた(公然の秘密として有名であった)と考えられる。
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礼宮文仁と川島紀子の結婚前後 (auxilia)
2016-08-24 14:20:39
英文:
Princess Masako Prisoner of the Chrysanthemum Throne
by Ben Hills  (2006年 発刊)

日本語訳:
プリンセス・マサコ 完訳
藤田 真利子 訳



According to the journalist Edward Klen,
he had earned the nickname ‘Fast Hands’.

エドワード・クライン記者によれば、
秋篠宮は「手の早いやつ」というあだ名をつけられていたのだという。


Kenichi Asano,a professor of journalism at Doshisha University and a longtime critic of the royal family says he knows two of the women the prince had affairs with,one the daughter of a personal friend.

同志社大学のジャーナリズムの教授で、長年天皇制を批判してきた浅野健一は、
親王が情事を持った女性のうち二人を知っているという。
そのうちの一人は個人的な友人の娘だというのだ。


The Kawashimas were also insisting he make an honest woman of their daughter.
川嶋家も娘への責任を取るように要求していた。


■ 1988年 3月5日号  週刊現代
礼宮さま 教授令嬢とのデート親密度
3時間も2人きりで…

■ 1989年 5月5・12日号  FOCUS
渦中の女 
「浩宮妃」より先に「礼宮の恋人」

■ 1989年 5月9・16日号  FLASH
スクープ 礼宮さまが学習院大教授令嬢と婚約へ

■ 1989年 9月6日号  女性自身
反対だらけだった礼宮の結婚

■ 1989年 9月7日号 週刊新潮
礼宮「ご婚約発表」のあと
平民化に拍車がかかる「新皇室像」
皇籍「離脱」で抵抗した成果

■ 1989年 9月14日号  週刊宝石
礼宮婚約 スクープの裏
決め手は両親の赤坂御所訪問だった…

■ 1989年 9月15日号  週刊ポスト
プリンセスを生んだ川嶋家の「血族と財産」

■ 1989年 9月16日号  週刊現代
ご婚約“突如内定”なぜ急がれたのか

■ 1990年 9月13日号 週刊ポスト
礼宮結婚フィーバー  日本はこれでいいのか!
「奉祝押しつけ」の大騒ぎ報道を排す
沸騰皇室核心論議
右と左と知識人のミカドの肖像


++++++++++++++++


礼宮文仁と川嶋紀子は当初、祝福されての婚約ではなかったというのが分かる記事の数々であると思われる。
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美智子入内、紀子入内 (同い年)
2016-08-24 08:52:58
結局どちらも、先マスコミによって、婚約確定情報が拡散され、せっかくの皇室会議も、事後承認するしか無かったと言う事ですね。
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