
あれから5年。
粉塵による健康被害も、PTSDも、その日から切り離すことが出来ない継続する事実。
今でこそ盛んに言われる、終わらない影響。
ふと思い起こせば、周囲で今を生きる人々の中に、癒えぬ、言えぬ傷を持つ人たち。
戦時下を過ごし、戦後を乗り越え、生きてきている人たちにとって、
どれほど心身が痛めつけられてきたのか、想像も及ばない。
戦場に行った、生死の現場を通り、生き残ったことに深い罪悪感を感じてきた人も、
残されて、暮らしを守り、悲しさを悲しいともいえず混乱の中をひたすらに生きてきた人も、
空襲の恐怖におびえ、逃げ惑い、奪われてゆく命、故郷を見続けてきた人も、
復興をその手で行いながら、多くの人が口を閉ざしていった。
そうであろうと思う。
後を振り返るな、あの日を思い出すな、封印したい、できるだけ、できるだけ。。。。
一方で、忘れることはなかったという。
そうであろうと思う。
そのままではいけない。
残った者が、次に残せる命に、何があったかを伝えたい。
静岡平和資料センターは、思いを同じくした人が集まり、'71に誕生した。
当時の名は「静岡空襲を記録する会」
身につけた千人針や、寄せ書きの日章旗、銃痕の残るヘルメット、軍服、赤紙、配給帳、
手元に、様々な資料が届く。
その後'92に静岡中央体育館の3階に、市から間借りを許可され、
手狭になってゆく中、'96に、現在の葵区相生町に移る。
風化してしまう記録と、風化してゆく資料をどう守れるのか。
公営で「静岡平和資料館」をつくって欲しい。
'88から会の名を「静岡平和資料館を作る会」としたのは、
有志だけでは継続が困難なことを見越してのことだった。
18年経っても、未だにその名のままである。
平日は、学校などの団体を予約によって受け入れ、週末には、一般開館している。
資料を丁寧に検証し、新たに判明した事実もある。
子供たちに伝えるために、静岡・清水の空襲体験画を募り、戦後40年の機に本にした。
持って保存しているだけでは意味がない。
常設にして、いつでも誰にでも、もっともっと見てもらえる施設が欲しい。
しかし、造られるのを待っていても埒は明かない。
できるかどうかも、わからない。
昨年は、「静岡・清水空襲の記録」という本を発行した。
米軍の空襲資料と、体験者の証言、そこに日本軍の資料を加えた。
これは、青年学校の民間の若者が空襲時に、時間や敵機の数、爆撃を記録したもので、
三者を照らし合わせて、空襲の現実を少しでも詳細に掴もうという記録になった。
全国でも、多分、唯一かもしれない。
ただし、記録は読みにくい。
もっと、今の人たちに、今住むここで、つい60年ほど前、今の時代を一緒に生きているおじいちゃんおばあちゃんたちが体験したことを知って欲しい。
静岡空襲のあった翌日に米軍が空撮した写真を展示した時、この写真が欲しいという声を多く聞いた。
欲しい。
息子に見せたい。
電子データにしてくれないか。
今年、CD『絵と写真でたどる静岡空襲』を作成した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
空襲翌日に米軍偵察機が撮影した旧市街被災地の鮮明な航空写真を、
1戸建て家屋が確認可能な解像度で拡大してみることができます。
CDにはこの写真のほか、焼夷弾投下中や焼け野原になった市街地の航空写真、焼夷弾の写真、
体験者の絵などの画像、米軍の戦略爆撃の概要、空襲年表などの解説も収めてあります。
学校の授業の教材としても最適です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
購入者から手紙が届く。
「母に見せました。
話は聞いていたのですが、実感がないままで、聞き流していました。
本当にそうだったのですね。
本も買って、母といっしょに本とCDと併せて見ました。
そして、母といっしょに母が体験したその場所へ行って見ました。
はじめて実感がわきました。
母も、今その時のことを自分の中で整理している感じです。」

イノチ ノ ツヅクカギリ、カノジョタチ ノ カツドウハ ツヅク
静岡平和資料センター http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/
粉塵による健康被害も、PTSDも、その日から切り離すことが出来ない継続する事実。
今でこそ盛んに言われる、終わらない影響。
ふと思い起こせば、周囲で今を生きる人々の中に、癒えぬ、言えぬ傷を持つ人たち。
戦時下を過ごし、戦後を乗り越え、生きてきている人たちにとって、
どれほど心身が痛めつけられてきたのか、想像も及ばない。
戦場に行った、生死の現場を通り、生き残ったことに深い罪悪感を感じてきた人も、
残されて、暮らしを守り、悲しさを悲しいともいえず混乱の中をひたすらに生きてきた人も、
空襲の恐怖におびえ、逃げ惑い、奪われてゆく命、故郷を見続けてきた人も、
復興をその手で行いながら、多くの人が口を閉ざしていった。
そうであろうと思う。
後を振り返るな、あの日を思い出すな、封印したい、できるだけ、できるだけ。。。。
一方で、忘れることはなかったという。
そうであろうと思う。
そのままではいけない。
残った者が、次に残せる命に、何があったかを伝えたい。
静岡平和資料センターは、思いを同じくした人が集まり、'71に誕生した。
当時の名は「静岡空襲を記録する会」
身につけた千人針や、寄せ書きの日章旗、銃痕の残るヘルメット、軍服、赤紙、配給帳、
手元に、様々な資料が届く。
その後'92に静岡中央体育館の3階に、市から間借りを許可され、
手狭になってゆく中、'96に、現在の葵区相生町に移る。
風化してしまう記録と、風化してゆく資料をどう守れるのか。
公営で「静岡平和資料館」をつくって欲しい。
'88から会の名を「静岡平和資料館を作る会」としたのは、
有志だけでは継続が困難なことを見越してのことだった。
18年経っても、未だにその名のままである。
平日は、学校などの団体を予約によって受け入れ、週末には、一般開館している。
資料を丁寧に検証し、新たに判明した事実もある。
子供たちに伝えるために、静岡・清水の空襲体験画を募り、戦後40年の機に本にした。
持って保存しているだけでは意味がない。
常設にして、いつでも誰にでも、もっともっと見てもらえる施設が欲しい。
しかし、造られるのを待っていても埒は明かない。
できるかどうかも、わからない。
昨年は、「静岡・清水空襲の記録」という本を発行した。
米軍の空襲資料と、体験者の証言、そこに日本軍の資料を加えた。
これは、青年学校の民間の若者が空襲時に、時間や敵機の数、爆撃を記録したもので、
三者を照らし合わせて、空襲の現実を少しでも詳細に掴もうという記録になった。
全国でも、多分、唯一かもしれない。
ただし、記録は読みにくい。
もっと、今の人たちに、今住むここで、つい60年ほど前、今の時代を一緒に生きているおじいちゃんおばあちゃんたちが体験したことを知って欲しい。
静岡空襲のあった翌日に米軍が空撮した写真を展示した時、この写真が欲しいという声を多く聞いた。
欲しい。
息子に見せたい。
電子データにしてくれないか。
今年、CD『絵と写真でたどる静岡空襲』を作成した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
空襲翌日に米軍偵察機が撮影した旧市街被災地の鮮明な航空写真を、
1戸建て家屋が確認可能な解像度で拡大してみることができます。
CDにはこの写真のほか、焼夷弾投下中や焼け野原になった市街地の航空写真、焼夷弾の写真、
体験者の絵などの画像、米軍の戦略爆撃の概要、空襲年表などの解説も収めてあります。
学校の授業の教材としても最適です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
購入者から手紙が届く。
「母に見せました。
話は聞いていたのですが、実感がないままで、聞き流していました。
本当にそうだったのですね。
本も買って、母といっしょに本とCDと併せて見ました。
そして、母といっしょに母が体験したその場所へ行って見ました。
はじめて実感がわきました。
母も、今その時のことを自分の中で整理している感じです。」

イノチ ノ ツヅクカギリ、カノジョタチ ノ カツドウハ ツヅク
静岡平和資料センター http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/
戦争にしても、環境破壊にしても、まずは記録することから・・・
将来人類がもうちょっとだけ賢くなったときに、きっと判断材料に必要なデータになるしね。
その前に人類が自殺しないとは言い切れないけど、そのへんは、ま、祈るだけだぃねぇ~。
自分は、ではなく、ヒト族はと見ると、またイロイロ見えてくるものがあるよね。
さて、さて。。。。
それが戦争や環境破壊を食い止める必要条件であることはかなりカタイでしょう。
個性重視も自由も否定しませんが、”個”の意識だけが人間の意識ではないはず
今のこの空間は、いろんな主語の重なりで出来上がっている。
厚みを知るのは大切だね。3Dの生き物だもん。