過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1976(昭和51)年06月26日(土) アントニオ猪木vsモハメド・アリの異種格闘技戦開催 ⇒ プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ対プロレスNWFヘビー級チャンピオン、アントニオ猪木の格闘技世界一決定戦が日本武道館で行われた(写真)。寝技で足を狙う猪木の戦法にアリが攻めあぐみ、引き分けに終わった【時事通信社】※2020(令和二)年記事追加
 1968(昭和43)年06月26日(水) 小笠原諸島が23年ぶりにアメリカから返還 ※2020(令和二)年記事削除
 1983(昭和58)年06月26日(日) 日本の選挙制度で初の比例代表制導入 ⇒ 1982年の改正公職選挙法に基づき、翌年の参議院選挙に日本で初めて、各政党の得票率に比例して議席を配分する比例代表制が導入された。衆議院選挙でも96年から取り入れられた。写真は2017年10月に行われた衆院選の比例代表の投票用紙【時事通信社】
 2007(平成19)年06月26日(火) 時津風部屋の力士が親方らの暴行を受け死亡
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ 王貞治 節目の記録 ┃
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‡1970(昭和45)年06月26日(金) 3000塁打 対中日ドラゴンズ08回戦 後楽園球場 8回裏に水谷寿伸から2ラン ※史上7人目
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
 https://www.uta-net.com/song/2025
 https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1986(昭和61)年06月26日(木) これぞエースのプライド!巨人・江川卓が許した大記録
‡2017(平成29)年06月26日(月) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月26日だ。 
 写真◆マウンドで腰に手を当てバースが塁を回るのを待つ江川
 今年は1977年、巨人・王貞治が世界記録通算756号を放ってから40周年となる。ヤクルトのバレンティンが2013年に60本塁打を放って以来、昔話となったが、かつて王が現役時代につくったシーズン55本の日本記録は、ある意味、聖域となり、のちには、それを守るため、露骨な敬遠が行われたこともある。 
 阪神のバースも、その“被害者”の1人だ。阪神が日本一に輝いた85年、54本で残り2試合と55本の日本記録に迫りながらも、相手が王監督率いる巨人だったこともあって徹底的に勝負を避けられ、「あと1本」のまま終わった。そして翌86年、バースが6試合連続本塁打を放ち、再び王の金字塔7試合連続ホームランに迫った。 
 舞台は6月26日の後楽園。相手はまたも巨人だった。ただ、投手は江川卓。下位打線に手抜きはあっても、常に逃げず、敬遠を毛嫌いした男だ。果たしてチーム内でどのような話があったかは分からないが、この日の江川は自身の投手哲学を貫く。「フルスイングする強打者に、自身最高の高めのストレートで勝負」だ。それは入団以来、勝利以上にこだわってきたことでもある。 
 江川は4打席目までバースにヒット2本を許すも、ホームランはなし。そして8回、5対5の同点で迎えた8回にバースが5度目の打席に入る。ラストチャンスでバースは推定飛距離150メートル、右翼スタンドを越える決勝の場外弾を放った。 
 試合後、バースは「江川は力の投球でどんどん攻めてきた。男の勝負ができたよ」と笑顔。なお、記録は翌日27日のヤクルト戦でストップし、王とタイで終わった。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2001(平成13)年6月26日(火) 西武・松坂大輔のあまりうれしくなかった勝利
‡2018(平成30)年6月26日(火) 8:06 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月26日だ。 
 写真◆ブルペンから駆け足でマウンドに向かう松坂
 西武時代の松坂大輔がなんとも複雑な表情になった勝利がある。 
 2001年6月26日のロッテ戦(千葉マリン)だ。 
 この試合、西武は初回に5点、2回に1点を奪い、6対0としたが、そこからなぜか投手リレーがあわただしくなり、先発の星野智樹から後藤光貴、水尾嘉孝とスイッチ。そして5回二死二塁になって、この年、先発以外の起用がない松坂を投入した。 
 スコアは7対4だった。 
 要は東尾修監督の温情である。この年、なかなか調子が上がらなかった松坂は6勝8敗。しかも、ここまで4連敗していた。 
 東尾監督にすれば、このまま最後まで投げさせて松坂に勝ちをつけ、復活のきっかけにさせたい、ということだったと思う。ただ、そのために起用したほかの3投手は少々複雑な心境だったのではないか。 
 結局、松坂は9回裏まで1安打1失点で切り抜け7勝目。 
 ただし、試合後の松坂は 
「(二番手の)後藤さんの勝ちを消してしまって……」 
 と笑顔はなかった。 
 松坂はこの年、入団から3年連続最多勝も15勝15敗に終わった。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1992(平成四)年06月26日(金) 清原和博が王を超える史上最年少で200本塁打に到達
‡2019(令和元)年06月26日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は1992年6月26日だ。 
 写真◆通算200本塁打を放ち、笑顔でダイヤモンドを一周した清原
 この日行われたオリックス戦(西武球場)で西武・清原和博が最年少記録を樹立した。1回裏、伊藤敦規から14号2ランを放ったが、これが通算200号。王貞治(巨人)の25歳4カ月を上回る24歳10カ月での到達となった。 
 高卒新人最多の31本塁打を放ち、鮮烈なデビューを飾った清原。通算100号、150号でも最年少でゴールインしていたが、世界記録868本塁打を放った王より、6カ月も若い時点で200号にたどり着いた。 
 ハイペースでホームラン人生を歩み、「王さんの記録を塗り替えた、ということが一番うれしい」と、満面の笑みを浮かべた清原。試合前、「今日打つから」と宣言しての予告アーチでもあった。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170626-01
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180625-03
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190626-11
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1998(平成十)年07月07日(火) 千葉ロッテ、七夕の悲劇と18連敗の状況
 2018(平成30)年07月07日(土) 7:07 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は7月7日だ。 
 7月07日(火)、七夕のオリックス─ロッテ戦。GS神戸には平日にもかかわらず2万人の観衆が集まり、異様な盛り上がりを見せていた。ロッテの先発は、ここのところクローザーとして起用され、先発は
 6月18日(木)以来となる黒木知宏。ロッテは3対1とリードし、9回裏オリックスの攻撃を迎えていた。黒木の球威は衰えず、先頭のイチローを三振、ニールにライト前ヒットを許すも、谷佳知をファウルフライで二死。続くプリアムも2ストライク1ボールと追い込む。1球外した後の139球目だった。サインどおり、プリアムが苦手なはずの内角低めの速球を投げ込んだが、プリアムがまさかの同点2ラン。黒木はそのままマウンドに崩れ落ち、交代。ベンチ裏で号泣した。そして同点で迎えた延長12回裏にロッテの三番手・近藤芳久からオリックスの広永益隆が満塁サヨナラ弾。試合後、黒木は脱水症状と体力消耗から全身がけいれんし、コーチに抱きかかえられながら無言でバスに向かった。 
 6月13日(土)から始まったロッテの連敗はこれで17。単独のチームワースト記録になった。さらに翌日も破れ、18連敗。ようやく泥沼から脱出したのは、
 7月09日(木)のオリックス戦だった。 ただし、18連敗は決して一方的なものではなく、逆転負け10度、サヨナラ4度と紙一重の試合も多かった。今回は18連敗を簡単に振り返ってみよう。 
‡10連敗 6月26日(金) 近鉄戦1対3(千葉マリン)※9回同点に追いつくも、11回表、黒木がまたも打たれ逆転負け。 
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 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180706-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.169 ┃  30円
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‡1961(昭和36)年6月26日(月)号 東京スタジアムの人気
 2018(平成30)年4月14日(土) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『西本は巨人の打撃コーチになるのか』
 写真◆表紙は巨人・高林恒夫
 今回は『1961年6月26日号』。定価は30円だ。本文巻頭は『西本は巨人の打撃コーチになるのか』。前大毎監督、西本幸雄である。巨人は川上哲治監督が、事実上、打撃コーチを兼ねていたが、多忙もあって指導になかなか時間を割けず、外部から打撃コーチを招くのでは、というウワサがあった。その筆頭候補が西本だった。 
 川上監督が西本の人柄を高く評価していたのは周知のこと。実際、打診もあったらしいが、いつしか立ち消えとなった。受けていたら、球史が大きく変わったかもしれない。 
 ただ、長嶋茂雄のコメントは、らしくていい。 
「別にコーチが一人足りないからといって、どうってことないですよ。バッティングの面で分からなくなったら、監督さんに聞けばいいんですから」 
 ニュースストーリーは『東京スタジアムの人気』。後楽園に巨人、国鉄と同居していた大毎がついに新球場建設に乗り出す。用地問題でもたついていたが、永田雅一オーナーの知り合いでもあった政治家・河野一郎の紹介で、名鉄が持っていた南千住の土地の買収がようやく決まった。 
 記事の中に、映画人で友人だった故・マキノ光雄が書いた永田社長の逸話があった。 
 京都の動物園でライオンとトラをじっと見比べていた永田氏が突然“おい光雄君、金をこさえて東京の国技館を借り切って猛獣同士の戦いをやらせよう。ライオンと熊、象とカバとの戦いとか、毎日、組み合わせをかえて見せんのや。観客には賭けをさすんだ。勝ったほうに配当をやったらもうかる。おれは明夜発って東京へ行く”と叫んだ。 
 さらに「自分の計画に自分で酔ってしまって、計画と実行の幕が見えなくなるほどスピーディな実行力を持っているのが永田氏である」とも書いている。 
 希代の風雲児・永田社長。興味深い人物だが、この人の部下なったら大変そうだ。 
 以下、宣伝。週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』が好評発売中です。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.474 ┃  60円
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‡1967(昭和42)年06月26日(月)号 強心臓新人・江夏豊
 2019(令和元)年06月04日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎村山実の血行障害
 写真◆表紙は巨人・高倉照幸
 今回は『1967年6月26日号』。定価は60円。 
 このネタ、初めてではないが、新人らしかぬ言動が話題になっている阪神・江夏豊という記事がまたあった。 
 巨人・森昌彦は「長い捕手人生で、あんな新人に会ったのは、初めてや」と驚いていた。 
 江夏が先発していた試合で、打席に入る際の話だ。江夏は捕手の森に頭をペコリと下げた後、こう言ったらしい。 
「森さん、僕、今夜は打撃練習をやらなかったんです。だから変化球は全然打てそうにありません。すいませんけど、カーブは投げさせないでください」 
 試合は阪神が2点リード。巨人ナインは「こんな若造に!」とカッカしていたが、この男には関係なかったらしい。 
 森は「なんか馬鹿にされたような、ユーモラスなような」で、ついふき出してしまったという。 
 江夏に聞くと、 
「あつかましい? なぜですか。あそこでヒットを打ちたかったから素直にお願いしたまでです」 
 とあっさり。 
 なお、森については、併用となっている大橋勲との冷戦の記事もあった。口をきかないだけではなく、目も合わせないのだから穏やかではない。 
 6月7日の大洋戦(川崎)では、巨人のベテラン、金田正一が1試合セ新記録の16奪三振をマークした。もちろん、ヒジは万全ではない。イニングの合間にはカイロを当てて温め(冷やすのではない)、トレーナーからマッサージを受けていたというが、雑誌には試合中のベンチ最前列で堂々とマッサージを受ける金田の写真がある。 
 さすがだ。 
 創設32年目、阪急が悲願の優勝に向け、突き進んでいるが、その中でベテラン・梶本隆夫がうれしい記録を達成した。 
 6月6日、南海戦で今季6勝目、通算200勝を完封で飾った。グラウンドにはファンが次々降り、彼らの手で胴上げされた。 
 なお、阪急は64年に2位になったとき、8月、宝塚ガールたちを球場に動員し、ファンとともに応援歌を歌っていたこともある。一部ファンは「今年もまた」と期待していたらしいが、その年は動員と時を同じするようにチームが失速したことで、小林オーナーが「宝塚の女の子を引っ張りだしたのは失敗だった」と発言し、以後は話にも出なくなったらしい。  
 鶴の一声だ。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180414-14
 ②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190604-02
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.185 ┃ ONLINE
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 史上最後の放棄試合はロッテ実質1年目の出来事だった
‡2018(平成30)年6月26日(火) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 激しい首位争いのさなかで……
 ロッテ・江藤慎一
 優勝の翌年で、ロッテが実質的なオーナーとなった初めてのシーズンでもあった
 1971(昭和46)年。この年も阪急と激しい首位争いを展開していた。 
 1971(昭和46)年7月13日(火)、西宮球場での直接対決、阪急10回戦で“事件”は起こった。7回表に打者・江藤慎一がカウント1ボール2ストライクからハーフスイング。すると、球審の判定はボール。しかし、阪急の捕手・岡村浩二が「振った」とアピールすると、球審は判定を覆し、空振り三振を宣告した。 
 江藤はもちろん、濃人渉監督とて黙ってはいない。30分以上の猛抗議で判定を戻すように要求したが変わらず。選手たちをベンチから引き揚げさせて結局、放棄試合をみなされ、ルールどおり0対9で敗れてしまう。日本のプロ野球ではこれ以降、“放棄試合”というのは存在していない。 
 球団は罰金、制裁金合わせて500万円以上を払っており、
 1971(昭和46)年7月23日(金) 事件の10日後、濃人監督は責任を取らされる形で更迭。江藤は最終的に首位打者を獲得し、史上唯一の“両リーグ首位打者”となるが、野村収との交換で大洋に移籍することになる。 
 そして太平洋の選手兼任監督を経て、
 1976(昭和51)年にロッテに復帰するが、69試合で打率.229と低迷し、現役引退した。
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.198 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 真っ向勝負の江川から7試合連続本塁打を放ったバース
 2018(平成30)年7月9日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 ◎「彼の挑戦する姿勢を尊敬する」
 写真◆江川から7試合連続本塁打となる22号アーチを放ったバース
 「グレート!」 
 エキサイティングな試合後、阪神のランディ・バースはこう叫んだ。 
‡1986(昭和61)年6月26日(木)、後楽園球場での巨人12回戦。8回、バースは巨人の先発・江川卓から右翼場外へ勝ち越しの22号本塁打を放った。
 1986(昭和61)年6月18日(水)、ヤクルト11回戦(甲子園)で高野光から16号を放って以来、7試合連続の本塁打。巨人・王貞治(86年当時、巨人監督)が1972(昭和47)年にマークしたセ・リーグ記録と日本記録に並んだのだ。 
 おまけに、その打球は推定150メートルの後楽園球場最長本塁打。これまた王が1964(昭和39)年、国鉄・金田正一から打った最長弾に肩を並べたことになる。そしてもう一つ、これが阪神選手の対巨人通算800号アーチでもあった。 
 だが、バースの「グレート!」は、そんなメモリアル弾を放った自分自身を称賛したものではなかった。称えた相手は、ホームランを打った相手の江川。 
 「江川はまったく逃げずに、どんどん攻めてきた。僕は、彼の挑戦する姿勢を尊敬する」 
 実のところ、バースはこの試合まで、江川を苦手にしていた。来日4年目で、通算51打数10安打、打率は.196。本塁打となると、入団1年目の1983(昭和58)年に甲子園で打った1本きりだった。 
 だから江川も“逃げなかった”といえるのだろうが、この日も初めの4打席はことごとく得意の“読み”を外され、タイミングを狂わされていた。仕方がないので(?)無心で打った結果が、会心の当たりになったのだ。 
 翌1986(昭和61)年6月27日(金)(ヤクルト戦)、バースは1981(昭和56)年、デール・ロング(パイレーツ)が作った8試合連続の「世界記録」に挑戦したが、6打席とも本塁打はなかった。 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
③┃ プロ野球仰天伝説 No.204 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 三振してスポーツ紙の1面を独占したイチロー
 2018(平成30)年7月15日(日) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 日本記録の216打席連続無三振
 写真◆オリックス・イチロー
‡1997(平成九)年6月26日(木)、在京朝刊スポーツ6紙の1面は、すべてオリックス・イチローが独占した。その見出しは「イチロー、ついに三振!」。三振で1面を取ったのは、おそらくイチローが初めてだろう。 
 1997(平成九)年6月25日(水)の日本ハム戦(東京ドーム)の4回表、イチローは左腕の下柳剛に三振を喫した。217打席ぶりの三振。前日24日の同カードで達成した“209打席連続無三振”の日本新記録を、“216”まで伸ばしての三振だった。もはや“打って当たり前”になってしまったイチローは、8月には月間打率.296で“不調”と大いに話題になった。 
 「ちょっとは休ませてよ。僕は数字でやってるんじゃない。関係ないことろでいっぱい打って、打率だけ上げればいいわけじゃないんだし」 
 終盤戦、西武を追い上げて逆転Vを狙うチームのカンフル剤として、イチローは115試合目にして初めて二番に入った。開幕から三番としてチームを支えてきたイチローを、あえて1994(平成六)年に経験したことのある打順に戻したのだ。しかし、
 1997(平成九)年10月3日(金)、オリックスは優勝を逸した。 
 「ペナントレースが終わっても、すべてが終わったわけじゃない。自分の目標に向かって、日々レベルアップしていかないと」 
 イチローは打率.345で4年連続首位打者、185安打で最多安打。フル出場での4年連続首位打者は、史上初だった。
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
④┃ プロ野球仰天伝説 No.197 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 なぜ、バースはシーズン最高打率.389を残せたのか
 2018(平成30)年7月8日(日) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 ◎春先に不振も徐々に本領発揮
 写真◆阪神・バース
 1985(昭和60)年は三冠王にMVP、チームも日本一と最高のシーズンを過ごした阪神のバースは、そのオフ、ほとんどトレーニングらしいトレーニングをしなかったという。高知・安芸の春季キャンプには初日から参加したが、ベストコンディションにはほど遠く、それはふっくらとした体つきからも見て取れた。 
 案の定、春先は不調。4月は腰痛とカゼで3試合に欠場。さらに持病の左かかと痛、左手のひらのマメがつぶれるなどで打撃3部門すべてに出遅れた。チームがスタートダッシュに失敗した理由もここにあるのだが、このとき誰がバースの2年連続三冠王、そしてシーズン最高打率を予想できただろう。 
 しかし、バースは5月下旬から少しずつ、しかし確実に前年の輝きを取り戻し始めるのである。 
 復調したきっかけは
 1985(昭和60)年5月24日(金)からの横浜大洋3連戦だった。3試合で3本塁打を含む6安打8打点。
 1985(昭和60)年5月31日(金)には再び横浜大洋戦で4打数4安打、.346でついに打率1位に躍り出た。 
 バースの猛打は止まらない。6月に入って巨人・王貞治監督から「打席に入る前にバットの上方部に滑り止めのスプレーをかけている。ルール違反だ」とクレームがつき、審判部から警告を受けたが、バースは鼻で笑った。ささいなことを。やめると言うならやめてやるさ――
‡1985(昭和60)年6月26日(水)には、その目の前で、王監督が持つ日本記録の7試合連続本塁打に並んでみせた。 
 さらに7月には13試合連続打点達成と、こちらは堂々の日本新。開幕から自ら出場した69試合目まで4割をキープ。打率.399で前半戦を折り返した。 
 ◎欠場も視野に入れた日本記録更新
 後半戦は再び4割に到達することはなかったが、それでも3割9分前後の高い打率をキープしていった。大きな調子の波はなく、本塁打、打点もコンスタントに重ねていく。2年連続三冠王が濃厚となるなか、しかしバースは4割、そしてそれ以上に70年に張本勲(東映)が達成したシーズン最高打率.383の日本記録更新を意識していた。 
 バースは決めていた。残り20試合で打率.393。今後、もし日本記録まで下がるようなら、その前に残り試合を欠場する。一度、下回ったら、日本の投手は絶対に勝負してこないと確信していたからだ。優勝の可能性はすでにない。イラ立ちのなか、打席に立ち続ける気はさらさらなかった。 
 しかし、バースの心配は杞憂に終わる。重圧をまるで感じることなく打ち続けたからだ。残り20試合、3安打の固め打ちこそなかったが、マルチ安打7試合、無安打も5試合にとどめた。日本記録.383を下回る気配はなく、最終戦まで出場して.389をマークした。 
「正直、こんなに打てるとは思わなかった。ラッキーだったね」 
 16年ぶりの記録更新。翌日、バースは何事もなかったように「来年もタイガースでプレーしたい」という言葉を残し、故郷オクラホマへと帰って行った。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180626-12
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180709-11
 ③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180715-13  ④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180708-12
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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