過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)


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 ┃   THE BEATLES FOURTH CHRISTMAS RECORD    ┃
 ┃ 『PANTOMIME“EVERYWHERE IT'S CHRISTMAS”』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1966(昭和41)年11月25日(fri) recorded  <from Wikipedia>
 1966(昭和41)年12月02日(fri) recorded:Dick James Music
 1966(昭和41)年12月16日(fri) released Lyntone, LYN 1145 6:36
 音源◆https://youtu.be/zvJ0bYB6RxI
 
 音源◆『PANTMiMe Everywhere It's Christmas』http://youtu.be/lI7FUcMU47w
EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
EVRYWHERE ITS SONG.
LONDON, PARIS, ROME AND NEW YORK,
TOKYO, HONG KONG.
OH, EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AND IM OFF TO JOIN THE CHEER !
EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AT THE END OF EVRY YEAR !
OH, EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AT THE END OF EVRY YEAR !
I SAID THAT EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AT THE END OF EVRY YEAR !
ONE MORE TIME NOW !
EVRYWHERE ITS CHRISTMAS....

OROWAINYA, OROWAINYA, OROWAINYA, OOH,
ENDOMAINYA, ENDOMAINYA, ENDOMAINYA, OOH.

-"OUR STORY OPENS IN CORSICA. ON THE VERANDAH IS A BEARDED
MAN IN GLASSES CONDUCTING A SMALL CHOIR."

OROWAINYA, OROWAINYA, OROWAINYA....

YOHOO ! YODELLAIHETEE ! YOHOO !

-"MEANWHILE, HIGH IN THE SWISS ALPS, TWO ELDERLY SCOTSMEN
MUNCH ON A RARE CHEESE."

-"MM, WONDERFUL STUFF THIS, AGNES."
-"AYE, ITS WONDERFUL STUFF."

HODELLAIHETEE ! YODELLAIHETEE !

-"IM STANDING IN THE ENTRANCE TO THE MAIN TENT.
IMMEDIATELY BEHIND ME, THE FESTIVITIES HAVE ALREADY BEGUN."

-"TELL ME, ARE YOU ENJOYING THE WINE ?"
-"I AM INDEED YOUR HIGHNESS. IT GOES WELL WITH ME. YEH, VERY GOOD
VERY GOOD, HA HA HA !"
-"THE KING SEEMS TO BE ENJOYING HIMSELF TONIGHT ! YOU MIGHT NOT HAVE SEEN
HIM ON SUCH GOOD FOCUS SINCE THE OCTOBER FESTIVAL."
-"ALRIGHT ! IS THERE A DOCTOR HERE ? IS THERE A DOCTOR AROUND HERE ?
DID ANYBODY SEE ONE ?"

-"AT THE SAME TIME AS THIS IN THE CAPTAINS MESS IN BOARD
THE H.M.S. TREMENDOUS, A TOAST IS BEING PROPOSED."

-"TO HER MAJESTY !"
-"TO HER MAJESTY !"

HO-HO-HO-HO-HO-HO-HO-HO-HO !

PODGY THE BEAR AND JASPER WERE HUDDLED AROUND THE UNLIT
FIRE IN THE CENTRE OF THE ROOM. 
"THERE ARE NO MORE MATCHES LEFT, PODGY," SAID JASPER.
"THEN BUY SOME, JASPER, OLD FRIEND," SAID PODGY.
"MAKE A LIST AND AFTERWARDS WELL GO TO THE SHOP AND BUY MATCHES AND BUY CANDLES
AND BUNS."
"THERES NO MORE PAPER TO WRITE ON, PODGY."
"NO NEED TO WORRY, JASPER. YOU KEEP SAYING TO YOURSELF
`MATCHES` AND ILL KEEP SAYING `CANDLES` UNTIL
WE REACH THE SHOP. THEN WE WONT NEED TO WRITE IT DOWN, WELL REMEMBER." "WHOLL
REMEMBER THE BUNS, PODGY ?"
"WE BOTH WILL, JASPER ... MATCHES," "CANDLES." "MATCHES."
"CANDLES." "MATCHES." "CANDLES." "MATCHES." "CANDLES."
"MATCHES." "CANDLES."

IN THE LONG DARK CORRIDORS OF FELPIN MANSIONS, A DOOR
SLAMS. AND THE SHADOWY FIGURE OF COUNT BALDER APPEARS.
THE COUNT IS THE ECCENTRIC SON OF BARON LANDSBERG, THE
INVENTOR OF THE RACK. HE SPEAKS ;
"GUTEN TAGEN, MEINEN DAMEN AND HERREN. WELCOME TO FELPIN MANSIONS.
THE BUTLER WILL SHOW YOU TO YOUR ROOMS. BUTLER !
"YES, SIR !"
"SHOW THE LADIES AND GENTLEMEN TO THEIR
ROOMS."

-"COME IN."
-"MAY I COME IN ?"
-"COME, COME IN, COUNT."
-"MAY I ?"
-"OH, YES, COME IN."

-"AH, THANK YOU. I WAS WONDERING IF YOU KNEW ANY OF THE
SONGS FROM THE GOOD OL DAYS."
-"OH, MY GOODNESS, YES. DONT YOU WORRY ON THAT SCORE.
I HEAR THE BARON LIKES, UH, I HEAR THE BARON LIKES THE
GOOD OLD TUNES."
-"YES, I DO."
-"SO DO I, COUNT, SO DO I."
-"BUT THEYRE ALL MELODIES, ARENT THEY ?"
-"NO, DONT WORRY. ILL PLAY THIS ONE. DO YOU LIKE THIS
ONE ? LISTEN TO THIS ONE."

PLEASE DONT BRING YOUR BANJO BAG,
I KNOW WHERE ITS BEEN.
I WASNT HARDLY GONE A DAY
WHEN IT BECAME THE SCENE.
BANJOS, BANJOS ALL THE TIME,
I CANT FORGET THAT TUNE.
AND IF I EVER SEE ANOTHER BANJO,
IM GOING OUT TO BUY A BIG BALLOON,
AND IF I EVER SEE ANOTHER BANJO,
IM GOING OUT TO BUY A BIG BALLOON,
AND IF I EVER SEE ANOTHER BANJO,
IM GOING OUT TO BUY A TOY BALLOON,
AND IF I EVER SEE ANOTHER BANJO,
IM GOING OUT TO BUY A TOY BALLOON,
AND IF I EVER SEE ANOTHER BLOOM,
IM GOING OUT TO BUY A TOY BALLOON,

YES, EVRYWHERE ITS CHRISTMAS.

EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
EVRYWHERE ITS SONG.
LONDON, PARIS, ROME AND NEW YORK,
TOKYO, HONG KONG.
OH, EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AND IM OFF TO JOIN THE CHEER !
EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AT THE END OF EVRY YEAR !
OH, EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AT THE END OF EVRY YEAR !
I SAID THAT EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AT THE END OF EVRY YEAR !
ONE MORE TIME NOW !
EVRYWHERE ITS CHRISTMAS,
AT THE END OF EV ?RY YEAR,

HA-HA-HA, JOLLY GOOD, HO-HO, JOLLY GOOD.


 Sound Base◆# 51. The Beatles - (BBC Radio, "SATURDAY CLUB" # 10, December 26, 1964) 18:13 http://youtu.be/wJM5K5lBUqE
 Number 2 Studio, BBC Aeolian Hall, London
   RECORDED: (wed)25 November, 1964, 07:00p.m.~10:30p.m.
 TRANSMITTED: (sat)26 December, 1964, 10:00a.m.~12:00p.m.
  ANNOUNCER: Brian Matthew
  PRODUCERS: Jimmy Grant & Brian Willey
 01. 00:00 "Rock and Roll Music" BBC.51.01
 02. 02:07 "Like Britain, Only With Buttons" (Interview / Song Intro)
 03. 03:44 "I'm a Loser"
 04. 06:22 "Everybody's Trying to Be My Baby"
 05. 08:43 "A Sort of Joint Effort" (Merry Christmas / Song Intro)
 06. 09:24 "I Feel Fine"
 07. 11:37 "We Like the Old Numbers" (Interview / Song Intro)
 08. 12:05 "Kansas City / Hey-Hey-Hey-Hey!" BBC.51.02
 09. 14:52 "She's a Woman"
 
■1966■
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 ┃   THE BEATLES FOURTH CHRISTMAS RECORD    ┃
 ┃ 『PANTOMIME“EVERYWHERE IT'S CHRISTMAS”』 ┃
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 1966(昭和41)年11月25日(fri) recorded  <from Wikipedia>
 1966(昭和41)年12月02日(fri) recorded:Dick James Music
 1966(昭和41)年12月16日(fri) released Lyntone, LYN 1145 6:36
■1966■
「サージェント・ペパー」の先駆け!~ビートルズのファン・クラブ会員向けの希少なレコード(その4)(162) 
2018-03-23  
リリースから50年経って、新たに傑作アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が最新ステレオ・ミックスでリリースされ、チャートNo.1を獲得しました。今回は、その先駆けともいえるクリスマス・レコードについてお話しします。
1 アルバムにストーリー性を持たせた 
(1)ストーリー性のあるレコード
(2)翌年にサージェントをリリース
2 長期休暇を取ったビートルズ
3 スタジオ・アーティストとしての新たなスタート 
(1)「Strawberry Fields Forever」のデモが登場!
(2)天才ギタリストと相互に影響を与え合った
4 サージェント・ペパーの先駆け!
5 一つの物語になっていた 
(1)ビートルズは頭がおかしくなった?
(2)サージェントの初期形態
(3)スタジオでの実験がやがて作品に結実する
1 アルバムにストーリー性を持たせた
(1)ストーリー性のあるレコード
これは、ビートルズの4枚目のクリスマス・レコードですが、それまでとはコンセプトがガラリと変わりました。3枚目までは、ビートルズのメンバーによるフリートークで、ファンにクリスマスのメッセージを送るのがメインでしたが、このレコードは、ストーリー性のある物語により構成されたのです。
これは、「ストーリー性を持った本格的な長編アルバム」を制作する前年に制作したものでした。
(2)翌年にサージェントをリリース
そうです。このレコードは、リリース当時、その革新さで全世界に衝撃を与え、50周年を記念して再リリースされ、再びチャートNo.1を獲得した伝説のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の先駆けともいえるものなのです。ですから、単なるファン向けのクリスマスを祝うメッセージ・レコードと片付けるわけにはいかないのです。
いわゆる「コンセプト・アルバム」の制作という、当時としては革新的な試みであり、サージェントのリハーサルのような意味を持ちました。サージェントに本格的に取り組む前に、上手くいくかどうか軽く試してみたといったところでしょうか?
2 長期休暇を取ったビートルズ
ビートルズは、ツアーを終え、3か月休暇を取った後、アビイロード・スタジオに集合し、その翌日の11月25日にこのレコーディングを行いました。
この休暇のおかげで、彼らは、大人として本格的に独立した生活を楽しめ、さらに重要なことには、混沌として閉塞されたビートルズというカゴから解放されたのです。
どこでもビートルズを囲んでいたビートルマニアにとっては、彼らがそれぞれ休暇に入る直前の8月のツアーが、彼らに触れた最後の機会となりました。ビートルズは、これをもってツアーをやめ、スタジオでのレコーディング活動を本格化させました。
この休暇の効果は絶大でした。ツアーの連続で疲れ切っていたビートルズが、強力な新しいアイデアと創造力をもって復活したのです。
3 スタジオ・アーティストとしての新たなスタート
(1)「Strawberry Fields Forever」のデモが登場!
彼らが11月24日に再度集合した時に行われた最初のセッションでは、何とジョンが、不朽の名作「Strawberry Fields Forever」の初期のテイクを披露したのです。もちろん、まだこの時点では、これが音楽史に残る不朽の名作になるとは、誰も、そして、ビートルズ自身も気づいていませんでした。
(2)天才ギタリストと相互に影響を与え合った
翌日、ビートルズは、新たにオープンしたバグオネイルズクラブで、アメリカからやって来たある天才ギタリストのイギリスでのデビューを目の当たりにしました。
そうです。あのジミ・ヘンドリックスです。彼のサウンドは、サージェントの作成にも何らかの影響を与えたと思われます。
前にもお話ししましたが、A Day In The Lifeの♪Ah~のところは、ヘンドリックスからインスパイアされたのではないかとの説もある位ですから。でも、ヘンドリックスもまた逆にサージェントに感動して、リリースの翌日には自分のライヴでカヴァーしましたからね。
偉大なアーティスト同士のこういうやり取りって、ホント雲の上で行われているみたいでカッコいいですね。
ビートルズは、音楽出版社であるデイック・ジェイムズのニュー・オックスフォードストリートのオフィスの小さなスタジオに集まり、最新のクリスマスのレコーディングを行いました。
4 サージェント・ペパーの先駆け!
ポールは、「僕たちは、(今までとは)まったく異なるアプローチをとるべき時だと思った。」と語っています。スタジオ・アーティストとなった彼らは、野心的なアルバム制作に取り掛かろうとしていました。ポールの言葉は、それを暗に示しています。
7分足らずではありますが、このレコードは、これからビートルズが歩もうとしている方向性を示す重要な意味をもつ作品となりました。
彼らは、ファンへの感謝のメッセージを直接送るのではなく、来たるべき「サージェント・ペパー」の登場を予言していたのです。もちろん、誰一人としてそのことに気づいた人はいません。
5 一つの物語になっていた
(1)ビートルズは頭がおかしくなった?
このレコードは、イギリスの伝統的なボードビリアンが舞台で演じるパントマイム、すなわち、ユニークなイギリス流の舞台で使用される音楽、ドタバタ喜劇、民話などで構成されています。
「舞台で芸能人がパフォーマンスするという設定」これこそ正にサージェントのコンセプトとして実現されることになります。タイトルに「パントマイム」とありますが、ヨーロッパでは「無言劇」として昔から盛んに行われていました。このタイトルを見れば、これは音楽のレコードじゃないなと分かります。
ただですね、当時、このレコードを聴いた人の殆どは戸惑いを隠せなかったと思います。一体、ビートルズが何をしようとしているのか理解できなかったでしょう。
最初こそクリスマスソングを歌っていますが、それが終わるとなんだか訳の分からない物語の朗読が始まるんです。それも何だかおどろおどろしい雰囲気ですね。
「彼らは、あまりにも忙しすぎて頭がおかしくなってしまったんじゃないか?」と心配したファンもいたかもしれませんね(笑)
(2)サージェントの初期形態
タイトル曲でポールは、ピアノを弾いて歌っていますが、その数日後に「When I'm Sixty-Four」のレコーディングを始めています。
このレコードの作成は、後のサージェントと同じように、ポールが主導している印象を受けます。実際、彼自身が3曲「Everywhere It's Christmas」「Orowayna」「Please Don't Bring Your Babjo Back」を制作しました。
さらに彼は、レコードのスリーブにフルカラーで、アートヌーボーのイラストを描きました。これもサージェントのあのサイケデリックなカヴァー写真を彷彿とさせます。「Pantomime: Everywhere It's Christmas(1966)」の画像検索結果
オリジナルのストーリーには、創造性は感じられるものの全く論理性はなく、「コルシカの眼鏡を掛けひげを生やした男」が小さな合唱団を連れてスイスのアルプスへ向かうところからストーリーが始まります。まあ、正直に言って良く分かりません(^_^;)
「眼鏡を掛けひげを生やした男」ん?もしかしてジョンのことか?この頃ですかね、彼があのトレードマークとなる丸縁のメガネと髭を生やし始めたのは。
それに「小さな合唱団」?これは、ペパー将軍の楽団と通じるものがありませんか?そう考えるのは、うがち過ぎでしょうか?
レコードの制作にあたっては、ジョージ・マーティンがイギリスのコメディアン、ピーター・セラーズやスパイク・ミリガンに代表される、イギリスのラジオのコメディー・レコードを制作した経験をフルに活用しました。
(3)スタジオでの実験がやがて作品に結実する
短い作品ではあるものの、レコードには創造性があり、奥深さも感じさせます。コルシカの合唱団風に歌われた「Orowayna」は、奇妙なほど美しいポップス調の賛美歌になっています。
そして、タイトル曲の「Everywhere It's Christmas」をエンディングで再び演奏しました。そう、タイトル曲をエンディングでもう一度演奏するのは、サージェントでもやったことです。また、A Day In The Lifeでローディーのマル・エヴァンスが数をカウントし、時計のベルを鳴らしましたが、このレコードでも似たような役割を果たしています。
このレコードを「サージェントのドラフト版」とみるのは、流石にムリだとしてもビートルズが、少なくともストーリー性をもたせたコンセプト・アルバムが、果たして上手くいくかどうかをテストしてみたと考えても不自然ではないでしょう。
何しろ、世界初とまではいえないものの、当時、コンセプト・アルバムを制作するのは相当大胆な実験でした。既にトップ・アーティストとしての地位を確立させていたビートルズにとって、極めて危険な賭けだったのです。失敗すればどれ程叩かれるか分かりません。
「新しいことには手をつけず、現状維持に努める」という選択肢もあったのです。しかし、ビートルズは前進することをいといませんでした。彼らにとって同じところに留まり続けるようなミュージシャンは、もはやアーティストではないという信念があったのでしょう。
さて、クリスマス・レコードはまだ続きがあるのですが、ここからビートルズの後期に入るので、一旦他のテーマにシフトします。
(参照文献)RollingStone
 http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2018/03/23/220000


 女王陛下殿、私は、英国のナイジェリア・ビアフラ問題への介入、ベトナムにおけるアメリカ支持、そして『コールド・ターキー』がチャートから滑り落ちたことに抗議し、MBE勲章を返還します。
 愛を込めて、ジョン・レノン
 1969(昭和44)年11月25日(火) 
 Your Majesty, I am returning my MBE in protest against Britain's involvement in the Nigeria-Biafra thing, against our support of America in Vietnam and against Cold Turkey slipping down in the charts.  
 With love, John Lennon 
‡(tue)November 25, 1969 
◎大英帝国勲章(Wikipedia)
 http://nikkidoku.exblog.jp/18101346

 1965年11月に書かれたBEATLES 4 人のサイン
 ¥1,480,000 店頭閲覧OK!ショッピングクレジット・分割払い可
 注文番号:beatles-014 12cm×8.5cm。額装、保証書、鑑定書付きUK TRACKS の鑑定書有り
 こちらの商品はショッピングクレジット、カード、またカードと現金の併用などが出来ます。ぜひお問い合わせください。
 1965年に書かれたビートルズ4 人のサインです。このサインを所有していた方の手紙に依ると、サインを貰ったのは親戚の伯父さんで、このサインが書かれたのは
‡1965年11月25日だそうです。当時ロンドンの老舗百貨店Harrods のマネージャーだったこの方は、当日開店前のデパートにクリスマス・ショッピングの為にやって来たビートルズを売り場案内する係の1 人だったそうで、サインは彼らが店を出る前に頼んで書いて貰ったのだそうです。サインは4 人とも赤のボールペンで書いています。サインが書かれた紙のサイズは12cm x 8.5cm。コンディションは折畳み跡 が有り、多少の経年シミがあります。サインを所有していた方の手紙付き。
 http://www.tracks-japan.com/autograph/beatles-autograph.html

 

 


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃『THEIR SATANIC MAJESTIES REQUEST』 ┃
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 Studio album by the Rolling Stones
 1967(昭和42)年02月09日(thu) 録音開始
 1967(昭和42)年10月23日(mon) 録音終了
‡1967(昭和42)年11月25日(sat) US released
 1967(昭和42)年12月08日(fri) UK released
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃『WE'RE ONLY IN IT FOR THE MONEY』┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 Studio album by the Mothers of Invention
 1968(昭和43)年03月04日(mon) Released
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①https://en.wikipedia.org/wiki/Their_Satanic_Majesties_Request
②https://en.wikipedia.org/wiki/We%27re_Only_in_It_for_the_Money
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/10-things-that-made-sgt-pepper-possible
****************************************
『SGT:PEPPER'S』が後世に与えた影響
 2017(平成29)年06月12日(月) STORIES Written By Martin Chilton
 こと実験性という意味においては、1967年以降現在までの半世紀の間に生まれたポピュラー・ミュージックの大部分が、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(以下『Sgt Pepper』)に借りがあると断言しても決して言い過ぎではないだろう。ザ・ビートルズのサウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、そしてカヴァー・アートにおける極めてユニークな冒険が、たちまちのうちに大きなインパクトをもたらし、英国の全レコード・リリース史上最大のセールスを記録するに至ったこのアルバムが世に出たのは、
 1967(昭和42)年06月01日(木)のことだった。
 1967(昭和42)年06月04日(日) リリースから僅か3日後、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターでのショウのオープニングを、(『Sgt Pepper』の)アルバム・タイトル曲のカヴァーで飾った。折しも客席に居合わせたポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはこの時、自分たちが何かとんでもなくスペシャルなものを作り上げたことを悟ったに違いない。それから5カ月も経たないうちに、ジェファーソン・エアプレインが、実験的な『Sgt Pepper』の影響色濃い『After Bathing at Baxter’s』をリリースする。これは彼らが同じ年にリリースしていた前作の『Surrealistic Pillow』とは全くかけ離れた作風のアルバムだった。ザ・ムーディ・ブルースもいち早く新たな音楽的視界の受け容れを表明したバンドである。67年11月、彼らがリリースした『Days Of Future Passed』はロンドン・フェスティヴァル・オーケストラの力を借り、ザ・ビートルズの影響を強く感じさせるサイケデリック・ロック/クラシック・サウンドを作り上げた。
 1967(昭和42)年12月08日(金)には、ザ・ローリング・ストーンズが『Their Satanic Majesties Request』をリリースする。このアルバムは『Sgt Pepper』に対するシニカルなサイケデリック的回答と評価され、キース・リチャーズもこう認めている:「あれは、結局何とも中途半端なもんになっちまったな。ちょうどストーンズが新しいアルバムを出そうとしてた時に、『Sgt Pepper』が出てきて、要するに俺たちはあれのパロディーをやらかそうと考えたわけだ」。この他にも、ザ・ビートルズによって具現化されたアルバムには枚挙のいとまがなく、1968年のブリティッシュ・ロック・グループ、ザ・プリティ・シングスによる『SF Sorrow』から、一年後にはキング・クリムゾンが『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』で明らかにそれと分かるオマージュを捧げた。ギタリストでありプロデューサーでもあるロバート・フリップは、ラジオ・ルクセンブルグで耳にしたジョン・レノンとザ・ビートルズの他のメンバーたちに触発され、かの歴史的プログレ・ロック・アルバムを作る着想を得たのだそうだ。「『Sgt Pepper』を聴いてから、私の人生は一変したんだ」、ロバート・フリップはそう言って憚らない。ザ・ビートルズはカウンターカルチャーの価値観をメインストリームに持ち込んだ。“ロック・アルバム”かくあるべし、という伝統的な不文律を破ることで、『Sgt Pepper』は他のアーティストたちに、それまでになかった新しいアイディアとアティテュードによる音楽へのアプローチを促したのである。レコードのプロダクションにおいても、このアルバムは専門的技術と革新性において新たな基準となった。ザ・ビートルズのファースト・アルバム『Please Please Me』は、全曲を実に僅か1日、約10時間で録音完了させたものだったが、『Sgt Pepper』は1966年11月から1967年4月まで、トータル約700時間の作業(プロデューサーのジェフ・エメリック談)が注ぎ込まれていた。レコードが完成するまでレコーディング作業を続けるという考え方(ただ単にスタジオを数日借りるということではなく)は革命的なコンセプトであり、プロデューサーのジョージ・マーティンによれば、‘道具としてのスタジオ’の定義を見直すきっかけにもなった。結果としてアビィ・ロード・スタジオの使用料総額が、当時としてはケタ外れの25,000ポンドに達したのも当然の成り行きだろう。更に画期的だったのはマルチ・トラックを使っての録音作業で、ジョージ・マーティンはその利点を駆使して西洋の音楽とインド音楽、ジャズ、そしてサイケデリック・ロックやポップ(ヴィクトリア時代のミュージック・ホール《訳注:ヴォードヴィル的演芸要素を含む軽音楽劇》をたっぷりと加えて)との融合を図り、声とインストゥルメンテーションによるめくるめくサウンド・コラージュを作り上げた。ポール・マッカートニーは『Sgt Pepper』が音楽カルチャーに‘大いなる違い’をもたらした理由のひとつとして、それ以前は「みんなポピュラー・ミュージックの枠の中で、少しばかり無難な方に寄っていたんだけど、僕らはふと気づいたんだよ、別にそうする必要なんかないんだってね」と語っている。『Sgt Pepper』は時に、史上初のコンセプト・アルバムとして称えられることがある。これは必ずしも的を射た表現とは言えないが(ドラマーのリンゴ・スターは、アルバムには首尾一貫したテーマは存在しないことを公式に認めており、レコーディング作業開始直後のセッションから生まれた2つの名曲、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」はそれぞれシングルとして出すことを前提に録音されたものだったと証言している)、世の人々はかの作品を‘コンセプト’・アルバムと信じて疑わず、その定義はもはや音楽界の民間伝承と化しているのだ。ザ・ビートルズに影響を受けたバンドには、ジェネシス、イエス、ラッシュ、ジェスロ・タルまで含まれており、彼らの独創的なアルバムは、空前の“ロック・オペラ”熱をも巻き起こすきっかけとなった。驚異的成功を収めたザ・フーの2枚組アルバム『Tommy』(1969)も、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーによる『Jesus Christ Superstar』(1970)も、根元をたどれば『Sgt Pepper』という大木に行き着くのだ。ザ・ビートルズが変化の引金を引いたのは、何もロックの輪に限ったことではない。カーラ・ブレイはこのアルバムを聴いて、「これに負けないようなアルバムを作ってやる」と心に決め、それからの4年間を費やし、リンダ・ロンシュタットをフィーチャーして作り上げた前衛ジャズのトリプル・アルバム『Escalator Over The Hill』を1971年に世に送り出した。『Sgt Pepper』はまた、音楽上の第二の自我(ルビ:オルター・エゴ)という考え方を一般的に知らしめた。いつもの日常から一歩踏み出し、ステージの上やレコードの中では別のペルソナをまとっても差し支えないという発想は、「解き放たれたように感じさせてくれた」とポール・マッカートニーは言い、この冒険はやがてデヴィッド・ボウイやグラム・ロック時代のKISSをはじめとする多くのアーティストたちを巻き込んでいくことになる。もっとも、すべての人が『Sgt Pepper』を手放しで、何もかも超越した天才的作品と褒め称えたわけではなく、かのアルバムにインスピレーションを得て生まれた作品の中には、寧ろその逆に近い反応もあった。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションがヴァーヴ・レコードから1968年にリリースした『We’re Only In It For The Money』(*訳注:直訳すると「俺たちはただ金のためにやってるだけだ」)は、アルバム・カヴァーからして『Sgt Pepper』のパロディで、その政治的スタンスと、60年代後期のカウンターカルチャーの心臓部と思われていた、いかにもインチキ臭い“ヒッピー的”価値観を痛烈に諷刺した。ザ・ラトルズは『Sgt Pepper』ならぬ『Sgt Rutler’s Only Darts Club Band』というパロディ・アルバムを出し、子供向けTV番組の『セサミ・ストリート』までもが、‘With A Little Yelp From My Friends’という曲をレコーディングした。しかし、ザ・ビートルズがこのアルバムで切り拓いた新たな道は、実は音楽だけに留まらなかった。フロントの眩惑的なヴィジュアルは、アルバム・カヴァーがモダン・アート作品になり得ることを確信させたし、アルバムのパッケージの一部に全収録曲の歌詞をすべて完全な形で組み込んだ、最初のロック・アルバムともなったのである。マイケル・クーパーの撮影による写真では、バンド・メンバー全員が揃いのサテンのスーツ姿で、画家のピーター・ブレイクと彼の当時の妻ジャン・ヘイワースが制作したメイ・ウェスト、オスカー・ワイルド、ローレル&ハーディ、それにW.C.フィールズといった歴史上の人物たちの段ボールのコラージュの前に立っている。これは60年代サイケデリック時代全体を通じて、最も不朽のイメージのひとつだろう。『ザ・シンプソンズ』をはじめ、このカヴァーは愛情をこめて何百回と真似されてきた。2016年には、英国の芸術家クリス・バーカーが、レナード・コーエン、プリンス、フットボール選手のヨハン・クライフ等、同年惜しまれつつ亡くなった各界のスターたちをキャスティングした新たなヴァージョンを発表している。アルバム全体と同様、『Sgt Pepper』は曲単位でも数え切れないほど多くのカヴァー・ヴァージョンを触発している。特によく知られているのは♪Lucy In The Sky With Diamonds♪ エルトン・ジョン ♪With A Little Help From My Friends♪ ジョー・コッカー他、ハリー・ニルソン、ファッツ・ドミノ、ブライアン・フェリー、ジェフ・ベック、ソニック・ユース、アル・ジャロウ、ビリー・ブラッグ、そしてビリー・コノリーに至るまで、実に多くの優れたカヴァーが世に出ているのだ。20世紀の音楽の傑作に対するトリビュートは、1995年のスマッシング・パンプキンズの後も、世紀をまたいでなお続いている。カイザー・チーフスは1967年のレコーディング時にエンジニアを務めたジェフ・エメリックの手による2007年のトリビュート・アルバムのために、「Getting Better」のカヴァーを提供した。ブライアン・アダムスも参加したこの『Sgt Pepper』のニュー・ヴァージョンの録音に際し、ジェフ・エメリックはオリジナルのレコーディングで使用されたのと全く同じ機材を使っていた。アメリカのバンド、チープ・トリックは、2009年のライヴ・アルバムでフル・オーケストラをフィーチャーしたヴァージョンを披露し、更に2011年にはアメリカ人ギタリストのアンディ・ティモンズが、1970年に別のザ・ビートルズのアルバム、『Abbey Road』の全曲カヴァーを出した例に倣うように、全曲インストゥルメンタルのカヴァー・アルバムを出している。『Sgt Pepper』が何故こんなにも絶大な影響力を持っているのかを恐らく最も的確に総括してくれるのは、ロジャー・ウォーターズの言葉だろう。ピンク・フロイドの1973年の名作『The Dark Side Of The Moon(狂気)』の構想に、このアルバムがいかに大きな役割を果たしていたかについて、彼はこう説明している:「俺はレノン、マッカートニー、そしてハリスンから、俺たちの人生について書いてもいいんだ、感じたままを表現していいんだと教わったんだ ……あれは他のどんなレコードよりも、俺と俺の同世代たちに、思い切って既定路線を外れて、何でもやりたいことをやっていいんだって許可を与えてくれたんだよ」。
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
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『SGT:PEPPER'S』を可能にした10の事
 2017(平成29)年05月15日(月) STORIES Written by Laura Stavropoulos
『Sgt. Pepper』はザ・ビートルズのカタログにおいても、人々の記憶においても唯一無二の地位を占める作品である。あなたの音楽的な傾向にかかわらず、一般的に、音楽、文化、両面にとってこのアルバムの影響力が非常に巨大なものであることは否定できない。歴史は、サージェント・ペパーズ以前と以後で分類されるのだ。そのリリースを直に体験したことのない人々にとっては、『Sgt. Pepper』へのなじみは軽減されているだろう。かつては広く革新的であり、大いに新しいものであったものが、今や“クラシック・ロック”に分類されるからだ。それにもかかわらず、『Sgt. Pepper』はロックを“尊敬すべき”アート・フォームたらしめ、その評判は、その後何十年にわたって聞かれることとなる。『Sgt. Pepper』は1967年にしか生まれえなかったものかもしれない、それを理解するには、文化と音楽の間の共生関係を理解しなくてはならない。このアルバムの50周年を記念して、ザ・ビートルズ史上もっとも、褒め称えられた功績へと導いた周囲の状況を考察してみよう。
 01:60年代カウンターカルチャー■カウンターカルチャーの精神は、『Sgt. Pepper』以前に、一足早く姿を現していた。ボブ・ディランが彼の伝説的な2枚組アルバム『Blonde On Blonde』をリリース、一方で、ブライアン・ウィルソンは、ザ・ビーチ・ボーイズで『Pet Sounds』を制作した。一見したところ、すべてのアーティストが創造的にフル回転しており、その1年間に及ぶ、凄まじいリリースのペースは異例なものであった。アメリカの両海岸、そして、イギリスにおいて、アーティストは各々刺激しあい、次々に何か新しいものが創作されるなど、文化的な交流が開放されていた。ジョン・レノンの指摘によると、ザ・ビートルズがカウンターカルチャーを作り上げたわけではない、しかし彼らが最も周知されたシンボルであることは間違いない。「僕らがみんなのヘアスタイルを変えたなんてほんの微々たることだろ?だけど、僕らは何らかの影響を受けたんだ、そこに漂っているすべてにね」とジョン・レノンは語った。「僕たちは60年代のすべての一部だよ。それは自然に起こったことだ。僕らはストリートで起きていることを代表するためのひとつとして選ばれただけ」。『Sgt. Pepper』は60年代文化の反体制的な本質を捉えたものではない一方で、音楽、ヴィジュアル・アート、歌詞のイメージといった点において、その寛容性を定義していた。ボードビリアン的な「Being For The Benefit Of Mr Kite!」から 「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」のスポークン・ワード、そして、「A Day In The Life」のフル・オーケストレイションまで、それらは、前衛的芸術とポップ・ミュージックの境界線をあいまいなものとしたのだ。
 02.カリフォルニアのサイケデリックなバンドのバンド名■東海岸、特にサンフランシスコのシーンで起きていること夢中になり、ポール・マッカートニーはバンドの名前の最近の流行は、革命的に長く、そしてより想像力に富んだものであることに気が付いた。もはやザ・ビートルズ、ザ・バーズ、ザ・キンクスといったものではなく、それらは突然、ローター・アンド・ザ・ハンド・ピープル、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー、そしてジョン・レノンの提案(*訳注:インタビューにおける発言)の“フレッド・アンド・ヒズ・インクレディブル・シュリンキング・グレイトフル・エアプレインズ”といったものになった。バンドはパロディの偽名を無造作に口にしながら、ザ・ビートルズという名前を忘れるアイディアをうみだし、それ自身に新しいアイデンティティを創造していった。
 03:オルター・エゴ(別人格)の採用■この時点までに、ザ・ビートルズの人気は、成層圏に届くレヴェルに達していた、そしてザ・ビートルマニアはバンドの音楽自体を曇らせてしまうほどだった。バンドは、彼らのモップの様な髪型の時代のイメージからの解放を求めており、それがオルター・エゴという未踏の地への探検へと導いたのだ。後にポール・マッカートニーは、「自分たちのアイデンティティを失うというのは素晴らしく思えたんだ、偽のグループのペルソナに、自分たちを隠してね」と思い出して語った。そして、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドは生まれたのだ。この流動的なアイデンティティという考えは、カウンターカルチャーの若者たちにの心に強く響いた。もはやその人の将来すべては出自で決定するものではなく、自己改革はシンプルに行うことにできるのだ。
 04:ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』■ジョージ・マーティンとポール・マッカートニーは、ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』を公に褒めちぎっており、『Sgt. Pepper』にとって、影響力を与えたものであったと公言している。ジョージ・マーティンはもしもブライアン・ウィルソンとザ・ビーチ・ボーイズがこの名盤を制作しなかったならば、「“Sgt. Pepper”は生まれなかっただろう」と語っており、ポール・マッカートニーは、「このアルバムにおける音楽的改革は、ただ‘ワオ!’という感じだよ。僕にとってはとても大きなことだった。しまった、これは最高傑作だ。いったい僕らは何をやってるんだ?って思ったね」と語った。しかし一方『Pet Sounds』は永続的なローテーションの中にあった、この作品はブライアン・ウィルソンがザ・ビートルズの『Rubber Soul』に影響を受けなければ、生まれなかったからだ。そして、このサイクルは続いている。
 05:フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『Freak Out!』■もし、ブライアン・ウィルソンが、ポップな側面に助言を与えたとしたら、フランク・ザッパは、ザ・ビートルズにより革新的であるようにと後押ししたといえるだろう。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの1966年のデビュー・アルバム『Freak Out!』は、ネオクラシカルなオーケストレーションとジャズの即興性を合体させ、カウンターカルチャー的な政治が内包され、また、単なるLPフォーマットを、コンセプチュアルな声明へと変化させた最初ともいえる作品であった。『Pet Sounds』も『Freak Out!』も、ロックとは、スタジオ・プロデューサーのメディアであるだけでなく、パフォーマンス・アートであることを証明したのだ。『Freak Out!』がLAのフリーク・カルチャーにおける宣言であったならば、『Sgt. Pepper』はサンフランシスコのヒッピーたちのサブカルチャーの高尚な宣伝といえるだろう。
 06:ツアーをやめたこと■オルター・エゴの採用を決定する前、ザ・ビートルズは、ツアーをやめることを決めた。不便さを別にしても、熱心なファンや、ジョン・レノンのキリスト教を冒涜するように見える発言を受け入れない好ましくないオーディエンスのおかげで、ツアーはバンドにとって物理的に危険なものになっていた。1966年8月29日に、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われた彼らのパフォーマンスが、1969年の有名なアップル・ルーフトップ・パフォーマンスを別にして、最後のコンサートとなった。それぞれに自分のやり方で逃避していたメンバーが、1966年11月にふたたび集まった時、彼らは、ワーキング・バンドであることよりも、よりコンセプチュアルなアイディアと共にあることへと変化することを決めた。彼らの曲の中で、民主的にヴォーカルと楽器のパートを分け合わなければ、彼らはお互いの強みにより自由でいることができ、また、完璧に近いところまで成し遂げるために、スタジオで(音を)いじくりまわすことができたのだ。リンゴは『Anthology』のブックレットの中で、バンドの考えを総括して語った、「ツアーをやめると決めた後、僕らはわずかなことを気にせずに済むようになった。『Revolver』や『Rubber Soul』を聴けばわかるように、僕らはスタジオでより楽しめるようになった。スタジオから引きずり出されて、ツアーに出る代わりに、(スタジオで)時間を費やせるようになったし、リラックスできたんだ」。
 07:スタジオにおける実験とジョージ・マーティン■アビィ・ロードにおけるセッションの間に、ザ・ビートルズは彼らのビートルマニアの章の幕を閉じ、スタジオ・イヤーズともいえる章の幕を開けたのだ。何年もの間、多くのロックとポップはある程度ライヴで演奏ができるように制作されていた。レコーディング・プロセスがどうかというと、大まかなやり方は、ライヴ・パフォーマンスを録音する、もしくは再構築するといったものだった。しかし、ジョージ・マーティンと・ザ・ビートルズは、彼らの奇抜な考えで、それらをひっくり返したかった。ジョージ・マーティンが語ったところによると、「テープでしかできない何かをテープの中に落とし込みたかったんだ」ということだ。彼はプロデューサー以上の存在であり、ザ・ビートルズ・サウンドの建築家であり、グループにより前衛的なタイプのレコーディングを経験させ、彼らの視野を広げるアイディアに触れさせた。
 08:技術的制限■当時のスタジオ技術を使用して、ジョージ・マーティンとザ・ビートルズが成し遂げたことは、並外れたことであり、それが、『Sgt. Pepper』を印象的なものにしている。すべての素晴らしいアイディアのように、逆境は、創意あふれるアイディアの源である。1967年までに、マルチ・トラック・レコーディングは業界のスタンダードになっていたが、エイト・トラック・テープ・レコーダーは、アメリカではありふれたものであったが、イギリスでは、1967年後半まで、そうではなかった。アルバムにおけるサイケデリックなサウンド・エフェクトの大半は、ヘッドフォンをマイクとして利用したり、マイクをスタジオにある様々なものとつなげたりする独創的なアイディアや他の創意あふれる工夫によって、作り上げられた。
 09:東洋的神秘主義■ザ・ビートルズは、他の西洋世界と同様に、インドの音楽の伝統、精神性、文化に夢中になっていった。その影響は、『Rubber Soul』収録の「Norwegian Wood」のころから感じられる、そして、特に、『Revolver』収録のジョージ・ハリスンによる「Love You To」では色濃く感じられる。ジョージ・ハリスンのインド音楽への興味は一生かけての情熱として花開いた。『Sgt. Pepper』のセッションが始まる前、ジョージ・ハリスンはボンベイへ、ラヴィ・シャンカールのシタールのレッスンを受けるために旅立った。結果として、東洋に染まった「Within You Without You」が生み出され、「Lucy In The Sky With Diamonds」のバックの音色にもそれは現れている。
 写真◆George Harrison Ravi Shankar Credit: Michael Ochs Archives/Getty Images
 10:音楽業界のトレンドを無視した■1966年までに、次々と巨大なヒットを蓄積しており、
 1966(昭和41)年12月31日(土)までに、アルバム『Revolver』はアメリカだけで、1,187,869枚売り上げていた。彼らの成功は、自身をソングライティング、楽器/機材の使用において新しいアプローチを試みることのできるポジションへと押し上げていた。彼らは、それぞれのアルバムで、ロック・ミュージックが許容しうる定義を広げて、またあらゆるジャンルのファンにリーチすることができる能力は、メインストリームへのアピールを残しつつも、彼らに違うスタイル、楽器での演奏を可能にした。ポピュラー音楽の思いつきを通過しそれにこたえてこなければ、ザ・ビートルズはダンス・ミュージックやラジオ・フレンドリーなシングルを作ることを避けることができただろう。その代わりに、彼らはロックのスタンダードを上げ、その後すぐに頭角を現すプログレッシヴ・ロックや、アートロックの未来を切り開いたのだ。
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/10-things-that-made-sgt-pepper-possible

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