音源◆浜田省吾1981年 NHK-FMスタジオライブ
1981(昭和56)年02月11日(水)に放送された浜田省吾さんのNHK-FMでのスタジオライブ 『HOME BOUND スタジオライブ』の音声です。
2012(平成24)年08月02日(木) 03:39 投稿日時 初恋はロック♪ さん
https://www.nicovideo.jp/watch/sm18507893
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┃ Steven Lee Lukather ┃
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‡1957(昭和32)年10月21日(mon) Born
https://ja.wikipedia.org/wiki/スティーヴ・ルカサー
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┃ 『Home Bound』 ┃
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‡1980(昭和55)年10月21日(tue) released
1985(昭和60)年12月01日(sun) CD released ※初CD発売
1990(平成二)年06月21日(thu) CD released ※再CD発売
1999(平成11)年09月08日(wed) REMASTERING 初回限定版 SRCL-4601
1999(平成11)年09月29日(wed) REMASTERING
①原田真二くんとか世良公則くんとか、自分たちより後輩がどんどんブレイクしていって、ひょっとしたら俺の時代は来ないまま終わってしまうのかなあって思ってたんですね。で、このアルバムを作ってコンサートも少し出来るようになって日本中を回りはじめたら、違うものが見えはじめたんです。夢のようなサクセス・ストーリーとか、金持ちになってアメリカに留学してみたいとか、いろんなことが夢なんだなあというなかで、300人や400人のお客さんしかいないんだけど、そこで演奏してすごく楽しかったんですよ。これでいいじゃないかって思いはじめた。ある意味じゃ、俺の本当のデビュー・アルバムっていう感じがしますね。当時、ジャクソン・ブラウンが好きで、彼はセクションというバンドをやってたんです。俺はロンドンに行きたかったんだけど、セクションとやれるかもしれないというんで、このアルバムをロサンゼルスでレコーディングしたんです。ロックの生まれた国で音を録ろう、本当のピュアなミュージシャンというのはどういう感じなのか会ってみたいと思って。結局、セクションのメンバーはジャクソン・ブラウンのあの"HOLD OUT"ツアーでいなかったんで、メンバーは変わったんですけど、すごくいい体験でしたね。
②「戻ってくるために離れることが必要だった」。レコードの帯には、そう記されていた。日本を離れた海外録音、そこに自らのルーツであるRock、そしてR&Bに回帰することを重ねた秀逸なコピーだった。1980年の夏、初めての海外録音でロサンゼルスに。当初は、アメリカ西海岸ではなく、イギリスでレコーディングしたいと思っていました。ニューウェイウ゛の出てきたイギリスの、たとえばエルウ゛ィス・コステロなどのロックなザラつき感が、自分のサウンドイメージに近いと思っていたから。でも、ジャクソン・ブラウンのレコーディングメンバーのザ・セクションと出来るかも……という話があって、それならアメリカもいいな、と。ただ、交渉中にザ・セクションのメンバーがジャクソンとのツアーに出ることになってしまって。それで、改めてデヴィッド・キャンベルという、ジャクソンなどの弦のアレンジをしている(キャロル・キング『つづれおり』ではウ゛ィオラを演奏)プロデューサー/アレンジャーがミュージシャンをコーディネートしてくれることになったんです。彼は、最近では〝ベックのお父さん?ということでも有名だよね。アルバムの1曲目は「終りなき疾走」。俺の感覚としては、ニューウェイウ゛の出てきたイギリスのロックなザラつき感が俺のサウンドイメージに近いと言ったけど、アメリカでいえば当時、イギリスのパンクやニューウェイウ゛に影響を与えたラモーンズのサウンドをイメージしていました。70年代になってロックがビッグビジネスになって産業化されていって、R&Bがディスコになる。その流れに対抗するように、60年代の古き良きロックを過激なサウンドでプレイして70年代後期に流行ったのが、ラモーンズにも代表されるパンクだよね。実は、その頃はほとんど聴いていなかったんだけど、ブルース・スプリングスティーンも、流行の音に振り回されることなくロックやR&Bのルーツの音を再生させていたという点では、パンク的だったとも言える。「終りなき疾走」や2曲目の「東京」でギターを弾いているのがTOTOのスティーヴ・ルカサー。俺達、彼がスタジオに来る前の日に、当時はまだ野外劇場だったユニバーサル・アンフィシアター(のちのギブソン・アンフィシアター、現在は閉館)にボズ・スキャッグスのコンサートを観に行って、そのゲストミュージシャンがTOTOのメンバーだったんだよね。その演奏を聴いた次の日の朝、スタジオに行ってそこに“TOTO”と書いた楽器車があったときには「お、本当に来てるんだ!?」と思った(笑)。TOTOとパンクじゃ正反対だけど、ギター奏者の水谷さんや町支くんは大喜びでした。そして、スタジオのブースの中にマーシャルのアンプが並んでいて、彼はスタジオの調整室のほうで弾くんだけど、地鳴りしていたね。プロデューサーの鈴木さんも「ルカサーのプレイは圧巻だった。若くていちばんいい時期に弾いてもらえたのは、僕らにとって大財産。すごくラッキーでした」と言っています。「丘の上の愛」などのピアノを弾いてくれたニッキー・ホプキンスも、とても印象深い人でした。ローリング・ストーンズのあのロックンロールピアニストのイメージが強かったけど、会ってみたらすらっと背が高くて優しい人で、モーツァルトとかシューベルトがすごい好きというクラシック派でした。間奏では、ウーリッツァーと生ピアノを重ねて、テープをスロー回転にして、それを速くして2回ダイビングしてバロックの感じにしてくれた。イントロは、コード進行に合わせて彼がアドリブで弾いていたのがあまりに美しいフレーズだったので、そのまま録音させてもらいました。「バンドを集めて行くから、日本で一緒にツアーをやろう」と住所も教えてくれたんだけど、彼は50才の若さでなくなってしまって、叶わないままになってしまいました。当時俺はザ・クリトーンズというニューウェイウ゛系のバンドも好きで、そのバンドのギタリストのマーク・ゴールデンバーグも参加してくれました。イメージとしてはタイトな、モッズみたいなスーツで演奏していたイメージなんだけど、スタジオに来たときはビーチサンダルに短パンにTシャツのカルフォルニア青年で(笑)。しかも、彼の12弦ギターが大好きだったのに持ってきてなくて「俺はきみの12弦ギターがすごく好きなんだ」と言ったら、「オッケー、わかった!家は近いから」って車で取りに行ってくれた。「明日なき世代」で弾いてくれています。ミュージシャン達が「傷心」のメロディーラインをすごく気に入ってくれたのも意外でうれしかった。「beautiful tune」と言っていたけど、マイナーでヨーロッパ的なメロディーだからかな、新鮮だったみたいでみんないい演奏をしてくれているよね。ハーモニカをトミー・モーガンという人が吹いてくれたんだけど、俺が待合室でまだ出来ていない歌詞を書いていたら、エンジニアが来て「なんでこの素晴らしい演奏を聴かないんだ!」って(笑)。曲は出来ていたけど、テーマもタイトルも歌詞もまったくないままロサンゼルスに向かった、そんなアルバム制作だった。アルバムのタイトルになった「家路」にしても、ロス滞在中にかなり苦しんで書いた。「反抗期」の歌詞は行きの飛行機、エコノミークラスの通路側の席で、まわりは暗くなっている中で、灯を点けてずっと書いてた。なんでもいいからとにかく書かなきゃって、必死だった(笑)。でも、「家路」にしても、実は苦し紛れのぎりぎりのところで書いているからリアルだったりするのかもしれません。それと、ミュージシャン達の出す音が詞に向かう気持ちを大きく増幅してくれたんだと思います。テーマもタイトルも歌詞もなかったけど、自分がやりたいのはロックだ!というのだけはあったんだよね。デビュー2枚目の『LOVE TRAIN』から『君が人生の時...』まで、70年代のアルバムのメロディーやサウンドや歌詞はポップソングだけど、ファーストアルバムのロックに戻るという気持ちが強くありました。だから、アルバムタイトルを『Home Bound』としました。すごく満足のいく作品が出来たという気持ちがあったし、高く評価してもらえると思ってはいたけど、一方で、ポップな「風を感じて」が少し売れたあとに、ロックなこのアルバムを発表したので、覚悟はしてたけど、前作の半分くらいの売れ行きだったから、少しがっかりした(笑)。ただ、70年代にはテレビにも出たけど、自分のいる場所はあそこじゃない、自分の音楽をやる場所はライブなんだ、サクセスストーリーは夢かもしれないけど、300人、400人という観客の前でライブをやっていることが楽しい、そう感じるようになってきた時期でもありました。ヒットチャートを意識するのではなく、いいアルバムを作っていいライブをやる。歌詞もメロディーもサウンドも、まさに原点に戻るようなアルバムが、この『Home Bound』だと思う。ロックナンバーだけでなく「今夜こそ」のような、俺のもうひとつのルーツであるR&Bのポップな曲もあるし、習作時代を経て、本当の意味でデビューアルバムという見方も出来る感じがします。初の海外レコーディングだった『Home Bound』のあと、ミックスやマスタリングは海外で何回もしているけど、レコーディング工程を全て海外でやったのはこのときだけ。コンサートツアーで年間に何本もライブをやるようになると、一緒にやっているミュージシャン達と自分の音楽を分かち合いたいという気持ちが強くなってくるんです。ステージだけではなく、アレンジやレコーディングもツアーメンバーとやるべきだと。それが後の『DOWN BY THE MAINSTREET』あたりから現在に至る考え方になっていきます。
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https://shogo.r-s.co.jp/disco/album06.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/Home_Bound
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『浜田省吾ライブ』
1981(昭和56)年02月11日(水) NHK-FM
O.A内容: 6thオリジナルアルバム『Home Bound』スタジオライヴ
ラジオ欄の曲目
01.終わりなき疾走
02.今夜こそ
03.丘の上の愛
04.ハイティーン・シャッフル ※♪あばずれセブンティーン♪
05.反抗期
06.いつわりの日々
07.ガラスの部屋
08.東京
09.明日なき世代
10.家路
‡1980(昭和55)年10月21日(火)にリリースされたアルバム『Home Bound』の収録曲からのスタジオライブ。ただし、「傷心」はO.Aされずに、「ガラスの部屋」が演奏されている。ラジオ欄で、「あばずれセブーンティーン」の表記が、「ハイティーン・シャッフル」となっている。おそらく自分が、浜田省吾のアルバムで一番よく聴いたのが『Home Bound』シンプルな、ロック・バンドサウンド。「終わりなき疾走」の歌詞ではないけれど、稲妻が俺の身体 駆け抜けた衝撃があった。何度も聴いた。おそらく、自分が浜田省吾に求めているものは、ステージにおける紳士な振る舞いや、成熟とか、完成された演出、パフォーマンスなどではなく、今でも転がり続ける男の、やり場のない怒りだとか、荒々しいロックンロールなのでしょう。この音源を改めて聴いてみて、そう思った。それにしても、リリースされたアルバムの楽曲のほとんどをライブ演奏してラジオで流してくれていた時代。現代と比べるとハード的には、不便だったけれど、とても贅沢だったなと。
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11584210974.html
参考URL■https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11596940023.html
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┃ 『月間カドカワ』1997(平成九)年3月号特別対談 ┃
┃ “脆さ”の 関係 浜田省吾(44才) 桜井和寿(26才) ┃構成/田家秀樹
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浜田 そんなわけないだろう(笑)。僕が27歳っていうと、1980年。『Home Bound』を作った年。それまでの悪戦苦闘、七転八倒から、やっとこれが俺のやりたいことかなって思えた頃。そうしてみるとすごいよね。俺なんかコンサートやっても六百人とか、そういう時代だからね。
桜井 資料いただいたんですけど、矢沢永吉さんのコンサートの前にやっていたとか書いてあって。“ああそんなこともしてたのか”って。
浜田 コンサートの前ならいいけど、フィルム・コンサートの前、前座(笑)。
桜井 あ、フィルム・コンサートの前。
浜田 コンサートの前ならカッコイイじゃない。やめようか、そんな苦労話(笑)。思い出の量だけは沢山あるよ(笑)。
桜井 全然違うのかもしれないですけど、僕の中では、ラ・ママの対バンとか。
浜田 ラ・ママ? どこにあるの。
桜井 渋谷にあるんですけど、スピッツと一緒にやったりとかしてて。当時というか、バンド・ブーム全盛の頃、ライヴハウス・シーンが結構盛り上がっていて、まわりのいろんなバンドが契約金いくらで契約して月にいくら貰ってるとか、僕らは、まだ何にも決まってない時に聞いて、すごく焦ったですね。
浜田 何かの雑誌のインタビューで、たぶん『アトミック・ハート』の時だと思うんだけど、自分たちは、サザンオールスターズと、あと、誰だったかな、それを越えるバンドになるんだって、セールス的にも。その意識で作ってるんだって言ってて。おおすごいなって思ったのね。ちゃんと、そのとおりやったからね。
桜井 て言うか、僕らがデビューした時っていうのは、バンド・ブームみたいなものはあったんだけど、結局、売れるミュージシャンていうのは、サザンであったりユーミンであったり、プリプリもすごかったかな。でも、僕が好きで聴いてきた音楽とか、友達のバンドとか、いい音楽はこんなにあるじゃんって思ってて。何で皆、気づかないんだろう、どこかで、そのアンダーグラウンドなものと売れるメジャーな音楽という壁を破りたいなっていう想いがずっとあったんです。
浜田 桜井君は、そのアンダーグラウンドな音楽とメジャーな音楽の壁って何だと思う?
桜井 そうですね・・・・・・。
浜田 いいんだよ、かったるい質問だったらパスして呉て。俺も経験あるし(笑)。
桜井 いや、だから、取り敢えずメジャーシーンに殴り込みをかけるぞみたいな気持ちで。だったら、何が何でも、自分たちの音楽をやっていくんだということじゃないなと思って。例えば時代に合わせたプロモーションの仕方とか、15秒のひっかかりがものすごくいい曲を作るっていうことに専念した時期とかもあったんですね。それまではメジャーシーンってあまりカッコイイものと思ってなかったんですけど、自分でそれに挑戦していくうちに、売れる音楽を作るっていうこともそれはそれでものすごく難しいことなんだなっていうのが分かってきたりしたんですね。
浜田 それは自分で気づいたの。それとも誰かと話したりしてそうなったの。
桜井 まあいろんな人と話したり、自分でやってみて。15秒以内で何かを作るっていうのも結局音楽なんだなと・・・・・・。何が言いたいのか分からなくなってますけど(笑)。
浜田 やっぱりスタートした時代背景も違うよね。僕なんかはのんびりやってきたわけじゃない。同じようなペースで走ってきてるから、急に早くしたり遅くしたりするのは無理でしょう。例えば僕が27で『Home Bound』が6枚目のアルバム。今はそこまで待たないよね、事務所もレコード会社も。もっと早く答え出せよって、後ろからガンガン蹴り入れられるかもしれない(笑)。
桜井 そうかもしれませんね。
1984.10.21『DOWN BY THE MAINSTREET』
1984.11.01
写真◆http://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/17484061.html
東京、火薬のように http://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/28503970.html
火薬のように 作詞・作曲/浜田省吾 編曲/水谷公生
止まれと言われれば走り出し
黙れと言われれば叫んだ
何もかもに 背をむけてた あの頃
オンボロバイクで お前と海まで飛ばした
教室抜け出し 浜辺の女の子見てた
お前はギター おれはハーモニカ
いつでも ROCK&ROOL
立ってろと言われれば座り込み
座れと言われれば立ち上がる
火薬のような心を もてあまして
ああ、 おれの恋した あの娘は お前の恋人
いつでも二人を笑わせた 馬鹿げたジョークで
土曜の夜 ひとり帰り道
一度だけ泣いた
何ひとつ許すことも出来ず
誰にも助け求められずに
持ちこたえた 息苦しさの中で
何もかもに 背をむけてた あの頃
「鎌倉幕府」は存在しなかった! 変わる日本史の常識 (2013(平成25)年10月21日(月)
「イイクニつくろう」で鎌倉幕府の成立は1192年、という定説が揺らいでいる、と最近よく話題になっています。読売新聞が夕刊トップで掲載した「変わる日本史教科書」というタイトルの記事では、改訂された高校生用の日本史教科書が、鎌倉幕府の成立の時期について「1180年」から「1192年」まで6つの説を載せていることを紹介していました(2013(平成25)年3月27日(水)付)。なぜそんなことになるのでしょうか。その答えが『歴史をつかむ技法』(山本博文・著 新潮新書)に書いてあります。もともと「幕府」という言葉は、中国が起源。出征中の将軍が幔幕を張って宿営しているところを指したのですが、これが日本では武家政権のことを指すようにもなりました。ただし、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。つまり、源頼朝が鎌倉に政府を開いた際には、「幕府」なんて言葉は使っていなかったわけです。当然、頼朝はもちろんのこと、周囲の誰も「鎌倉幕府が出来た!」なんて盛り上がりは見せていません。したがって、正確に言えば、当時は「鎌倉幕府」など存在していなかったことになります。結局、いつ「鎌倉幕府」が出来たのかという答えは、後世の歴史学者の定義や解釈で異なってくるわけです。「安倍政権」「オバマ政権」といった現代の区分とは別のものなのです。こうした事情から、今の歴史教科書では「イイクニつくろう鎌倉幕府」というシンプルな教え方が消えていきました。同書によれば、鎌倉時代や室町時代に、征夷大将軍が実際に「将軍」と呼ばれることも少なかったし、江戸時代には「藩」という言葉もほとんど使われていなかったそうです。こういう事実を知ると、歴史小説やドラマの見方までがまた変わってくるのではないでしょうか。
http://www.gruri.jp/topics/13/10211630/
大山顕さんからクイズ! この「工場夜景」、どこかわかる?【全10問】
2015(平成27)年12月25日(金) 11:00
http://j-town.net/tokyo/research/votes/219087.html
呉シネマ閉館(2011年4月30日)
2011-05-15 | 呉のまち
http://blog.goo.ne.jp/spaceharrier/e/25c68e5b94db761522f41fc1651c4ba2
「MONEY」のモデルは浜田さんが育った広島県呉市です。「MONEY」の歌詞に出て来る「この町のメインストリート」は呉駅近くの本通り(国道185号線)で、「さびれた映画館」は去年閉館になった呉シネマです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1479014184
「MONEY」が収録されているアルバム「DOWN BY THE MEINSTREET」は、1960年代~1970年代前半頃の小さな貧しい工業都市で育った少年達の物語が描かれています。本人が書いたアルバム解説では、「主人公は僕自身を投影させた少年達です。」と言っています。浜田省吾さんが育った広島県呉市周辺の工場地帯がモデルになっています。「MONEY」の歌詞に出て来る「この町のメインストリート」は呉駅近くの本通り(国道185号線)、「さびれた映画館」は今年で閉館になった呉シネマだそうです。その頃の浜田省吾さんは貧しく、確かに「いつかBIG MONEYをつかんでやる。」と思っていたかもしれませんが、「世の中はカネが全て。」とは思っていなかったでしょう。当時はカネについて歌った歌が少なかったので、「あえて心の叫びを強調する為に、分かりやすいあの様な歌詞にした。」と、本人も言っていますし。「カネは無くても愛が有れば良い。」という様な歌詞だと、生身の身体から出ている心の叫びが伝わらないので、「あえてカネが欲しいという歌を作った。」とも、本人が言っていますね。その頃の時代は、ちっぽけな街を飛び出し、大都会に出て一攫千金を目指す様な時代でしたからね。でも、浜田省吾さんのその後の生き方を見れば、カネが全てでは無いと思っている事が一目瞭然だと思います。長年「J.S.FOUNDATION」を通してチャリティー活動を欠かしていないし、儲け主義的な音楽活動をしていないですからね。浜田省吾さんの歌には、実体験を基にしたものが結構多いですよ。でも、色々な解釈が出来る様な歌詞作りなので、分かりづらいですけどね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1270941772
映像◆マネー1986 浜田省吾http://www.tudou.com/programs/view/uWbKQkUc3hk/?spm=a2h0k.8191414.0.0
映像◆マネー1986 浜田省吾http://v.youku.com/v_show/id_XODU5OTU5Njcy.html?from=s1.8-1-1.2&spm=a2h0k.8191407.0.0
♪4年目の秋♪http://d.hatena.ne.jp/tk1968/20110920/1316521147
♪MONEY (FIRST VERSION) 浜田省吾
アニメ◆

ダイジェスト◆

♪MAINSTREET(メインストリート) <FIRST VERSION)> 浜田省吾
アニメ◆

ダイジェスト◆

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■『DOWN BY THE MAINSTREET』1984.6.21 リリース予定が4か月後の10月21日にリリース
削除音源◆「POP STATION KISS 木曜スペシャル」 http://youtu.be/9lvZpASz0RI
1984.10.4(tue) 23:00~25:00
ラジオ大阪「POP STATION KISS 木曜スペシャル」
ゲスト:浜田省吾
映像◆浜省だらけの野球対決 https://youtu.be/SG0QVLCBhzo
2001(平成13)年10月?? いきなり♪MONEY♪
映像◆のと自慢で浜田省吾のI am father を熱唱し、見事合格?? https://youtu.be/ef_Z2VHlx3I
削除映像◆NHKのど自慢 境港 終わりなき疾走 https://youtu.be/zUbicSdRNkU
平成25年7月7日境港市民会館
映像◆浜田省吾 モノクームの虹 https://youtu.be/gt8-T5-yj9g
NHKのど自慢 2015.9.20(日)(富山市高岡市)浜省を熱唱!
あばずれ女の特徴と意味7選http://tokutyou.com/tokutyou/1776
映像◆マネー1986 浜田省吾http://www.tudou.com/programs/view/uWbKQkUc3hk/?spm=a2h0k.8191414.0.0
映像◆マネー1986 浜田省吾http://v.youku.com/v_show/id_XODU5OTU5Njcy.html?from=s1.8-1-1.2&spm=a2h0k.8191407.0.0
音源◆♪MONEY♪10/21 FOR THE PROMOTIONAL CUT SINGLE https://youtu.be/bFmWQk-PbCw
音源◆♪DANCE♪10/21 FOR THE PROMOTIONAL CUT SINGLE https://youtu.be/9uAEQBxTVv8
音源◆♪DANCE♪10/21 ON SALE https://youtu.be/nz2ZG32voqk
音源◆♪DANCE♪08/01 https://youtu.be/LdAsQaHRZsU
音源◆♪DANCE♪08/01 https://youtu.be/l2acleIu_Ko
音源◆♪THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY♪https://youtu.be/4LYXQf6VHcQ
♪4回戦BOY♪ 1978.04.23日本教育会館コンサートより
つまづく度に もう二度と
夢など見ないと誓う
だけど お前の寝顔見てると
いつもの陽気な僕にかえる
ついてないのは いつもの事
滅入る気にもなれない
だけど時には ひどく疲れて
レール見つめる事がある
※まるで僕らは打たれっぱなしの傷だらけの4回戦BOY
お前はいつも 口ベタで そして一人ぼっちで
好きな人にも 何も言えないで
後姿を追ってただけ 冷たい雨に打たれて
歩くおかしな少女 それがお前さ
すぐにわかった 二人似たもの同志だと
※まるで僕らは打たれっぱなしの傷だらけの4回戦BOY
※繰り返し
http://www.flashandshadow.com/shogo/el/i_el_10.html http://www.uta-net.com/song/8461/
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓1987(昭和62)年8月24日(月)
┃ NHK-FM『マイ・セレクション』DJ 浜田省吾 ┃ ON AIR 日
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛http://www.uta-net.com/song/78347/
1980(昭和55)年[27歳] M07.♪終わりなき疾走♪ http://www8.big.or.jp/~most/bbs/nfm7.html
音源◆浜田省吾 ラジオ番組 マイ・セレクション Vol.① https://youtu.be/9ZBvEBwQ-ns
※これは1987年8月にNHK-FM『マイ・セレクション』という番組で放送されたものから、にゃみこさんがテープ起こし&タイプ打ちしたものです。14曲分、いきまっせ~~~!!
■1980(昭和55)年[27歳] ♪風を感じて♪が終わって・・・・・
その友人の中原君も、えー、その後ねー、2,3年ずっと放浪生活が続いて、最終的にはインドのネパールにたどり着いて、かなり長い間そこに住み着いていたんだけど、そこでやはり日本から放浪して来た女の子と知り合って、子供が出来て、えー、日本に帰ってきた。で、また何年かして会った時にねぇ、「中原、もう5年も6年もあっちこっち行って、最後にはインドに行って、何か人生観変わったかぁ?」て聞いたらねぇ、「向こうにいた時は、もう全てが変わったような気がした」って言うのね。「だけど、こっちに帰ってきたら、やっぱり何も変わっていない」って言っていたのが、何か、うーん、真実だな、という風に感じました。その頃までの僕のアルバムを全部廃盤にしたいと言い続けたんだけど・・・。さて、1980年になって、それまで、あのー、”ポップなメロディーメーカーの浜田省吾”という感じでねー、期待されてたんだけど、何か自分で、「バカヤロー! 俺は何か違うぞ! コノヤロー!」とか思って。もう26になって。俺には絶対ビートルズみたいにね、一大センセーショナルな成功なんて絶対訪れないんだな。だったら、もう本当に好きなロックンロールに戻ろうということで。で、はじめてなんかふっ切れてねぇ。それが俺の真の意味でのデビューじゃぁなかったかな、と思うんだけど・・・。『Home Bound』 というアルバムをロスアンジェルスに作りに行ったわけです。でー、まー、ごちゃごちゃ色々あるんだけど・・・。休暇は殆どなくてねぇ。 3日ぐらいしか無かったんだけど・・・。1日はボズ・スキャッグスのコンサートに行って、1日はジャクソン・ブラウンのコンサートに行った。で、ジャクソン・ブラウンの『ホールド・アウト』のコンサートで、一番、まあ、僕が見た中で、彼のコンサートの中で、一番良かったコンサートなんだけど・・・。フォーラムであったの。で、チケットをやっと2枚手に入ってねぇ。町支と二人で。まだ当時は僕は車の免許を持ってなかったんじゃないかなぁ。誰かに送ってもらって。えー、コンサートを見て、さあ帰ろう、って言ったんだけど、何万人ていう人が居るからタクシーなんか全然拾えないのよ。で、この話をねー、去年ジャクソン・ブラウンに、話したらスゴイうけてたんだけど・・・。さー、タクシーを拾おうとしたらつかまらない。やっと捉まえたタクシーが、あのー黒人ドライバーでねぇ。別に僕は差別意識なんて無いんですよ。とにかく、まー、知らない街の、知らないタクシーで・・・。さんざん「ロスは危ないから」と脅かされて・・・。乗ったら、そのー、黒人の運転手がねぇ、まー、そのーブロークンなイングリッシュで、「この車はヨー。兄貴の車でヨー。俺、客乗っけてハリウッドなんか行けねーんだ。だからチョット空港で兄貴を拾って行くからヨー。」・・・。ていう感じの英語で俺に話した。で、だいたい俺はヒヤリングはできて、「だからどうしたんだ?」 みたいな感じだった。「だから、兄貴を拾っていいか?」っていったら、町支が訳も解らないのに、一緒になって、 「OK! OK!」みたいな感じでね、言っちゃったもんだから空港に向かって、反対方向に向かってどんどん、どんどん行くわけ。で、町支に僕は膝で、肘でね、「バカヤロー! お前どうすんだよ! どうすんだよ!」なんて言ってたら、空港着いたら、これがそのドライバーの倍ぐらいある大きな巨漢のまた黒人のブラザーが横に、助手席に乗ってきたわけ。で、「こ、れ、は、絶、対、に、マズイことになった・・・」という認識がはっきり浮かんだのね。で、パッと気が付くとね、メーターが下りてないわけ。でー、「I have a question.」 とかってね、丁寧に言って、「な、ん、で、メーターが、下りてないの?」 て言ったら、「オッ、忘れてた!」 みたいな感じで、そこからガチャン、と下ろして・・・。それからもう、あのー、黒人の人達はディスコ曲しか聴かないのね。で、ギンギンになって、ズンジャカ・バカスカ・ズンジャカ、こんなんなって、ウエ~~!!なんて歌いながらハリウッドに向かって走って行くんだけど、そこに、本当にハリウッドに向かって走って行くのか俺達は知る由も無いわけでねぇ・・・・。で、まあ、結果からいうと、ちゃーんと、こー、無事に着いて、「Hey!Brother.」 みたいな感じで、「アリガトウ!」 見たいな感じでねー。で、メーターも、 「倒し忘れたから、アソコの分はいいわー」みたいな感じで言ってくれて。もう、無事に着いたのと、その人たちがあまりに親切だったのに感激して、30$という、あのー、なんていうの? そのー、タクシー料金よりも多いチップを渡してしまったという・・・(笑)その思い出があって。この前大阪でコンサートをやった後ね、ジャクソンと一緒に、ジャクソン・ブラウンと食事になる時にねぇ、その話をしたらねぇ、「いやー、色んなことがあるんだよ。でも、黒人だっていい人が居るし、白人だって悪い奴が居るし。アメリカは本当に物騒だからねー」みたいな話で。えー、笑い話で終わったんだけど・・・。えー、その 『Home Bound]』 を聞くたびにねぇ、その時の町支のあの軽さを思い出してしまいます。♪終わりなき疾走♪・・・・・(『終わりなき疾走♪が流れ始める・・・・)
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1984(昭和59)年[31歳] M12.♪DADDY'S TOWN♪ http://www8.big.or.jp/~most/bbs/nfm11.html
音源◆浜田省吾 ラジオ番組 マイ・セレクション Vol.② https://youtu.be/qIYsUHaODis
※これは1987年8月にNHK-FM『マイ・セレクション』という番組で放送されたものから、にゃみこさんがテープ起こし&タイプ打ちしたものです。14曲分、いきまっせ~~~!!
■1984(昭和59)年[31歳] ♪いつわりの日々♪が終って・・・・
1983年の秋に出したアルバム『SAND CASTLE』の中から♪いつわりの日々♪です。これは初めて佐藤準というキーボードの奏者・アレンジャーと一緒にやった仕事で、レコーディングは一緒にやったことあるんだけど、一緒に音作りをやったのは初めてで、僕は彼が、彼のサウンドが好きで、なんていうのかなぁ、自分の作ったアルバムの中で唯一プロらしいアルバム、っていうとこれかな、っていう感じがするアルバムです。さて、その次の年、初めて今度は自分でプロデュースして『DOWN BY THE MAINSTREET』っていうのを出すんだけど。この年はホントにあの、忘れられないことがあって、えーこのアルバムを作ってる時はツアーの準備をしてる期間と重なって、やっぱり夏で。いつも夏なんだなぁ・・・。そうだね、だいたいツアーが秋から始まるから夏なんだけど・・・。六本木?麻布かな?あれは。麻布にあるスタジオで毎日、こー集まってね、メンバーと。あのーリハーサルをする、コンサートの。そしてその後、夜はレコーディングをするっていう毎日で、スッゴク忙しかったの。で、まだ曲を全曲書き終えてなくて、あの結構・・・なんていうのかな、イライラしてたんだねぇ~。おまけにバンドの中がうまくいってなかった。例えば、キーボードがもう一人のキーボード奏者と合わないとかね、ベーシストがドラマーと合わないとかね、非常にバンド内がぎくしゃくしてて。おまけにサックスの古村はひとりで孤立してふてくされてるし、町支はいつもの感じで、あのーマイペースって感じで・・・。僕は凄いイライラしてた・・・。ある日、レコーディングとリハーサルが一日だけオフになって、僕は近くにあるスポーツジムへ行って。食事しに行ったのかな?なんか覚えてないんだけど、新宿だったか渋谷だったかよく覚えてないんだけど。とにかく夜、食事が終わった後、駐車場から車を出そうとしたの。そしたらそこに酔っぱらいが来たんだなぁ、これが、3人組の。で、普段俺は、あまり自分では暴力的な人間ではないと思ってはいるんだけど、その夜、えーーーーま、手が出てしまってね。その3人組の中の一人がちょっと絡んできたんだねぇ。普段だったら「まぁいいか」で済ませるんだけど、その時は何のためらいもなく、手が出てしまって喧嘩になったのね。かなり、なかなかいいファイトをして。で、その後、ま、友達に喧嘩がすごい好きなヤツがいてね、「浜田さん。相手がだいたい喧嘩になった体勢の時に下にぐっと構えて体重が下に落ちるようなヤツだと、そいつはやっぱり慣れてるから気をつけた方がいいよ。」とかって言われたことがあるんだけど、まさにそのー、喧嘩した相手のヤツはえー体重が下に、ぐっと来るようなタイプのヤツでね。で、結局なんだかんだ大暴れして、駐車場の人やらなんかその辺にいた人に止められて、別れたんだけど。ふと気がつくと自分の左手の薬指が直角に横に曲がってる!ハッと見た瞬間、俺、「折れてる!」と思ったのね。それまでは結構ね、「わ、爽快!」っていうスッキリした気分だったんだけど、「お、折れてる」と思った瞬間ね、急にクールになって。その後あれは駒沢通りにある第一国立病院に、救急病院にね「すいません、指が折れちゃったみたいなんです」とか言ったら、「ここまで歩いて車で来れるような人は、救急患者にはなれません」とか言われて。自分で引っ張って。結局脱臼してたんだけど、靱帯を切ってしまったんだけどね、自分で引っ張って、もう腫れ上がった指でまた飲みに行ったという・・・(笑)。次の日にお医者さんに怒られましたけど。喧嘩がいいとか悪いとか別にして、その時俺、すっごい気分が良かったのね。なぜならば、えーその時31になってたんだけど、もう30を越えてね、路上で喧嘩するようなことは俺にはできないだろうと。分別もくさくなって、ナントカ週刊写真誌も怖いし、そんなことはできないだろうと思ったんだけど。何の理屈もなくポッと自分の手が出たってことが、スッゴイ嬉しかった。まぁ、そこまで僕を追い込んだバンドのメンバーも悪い!とかって言いたいんだけど(笑)。えー、レコーディングのスケジュールも悪い!って言いたいんだけど。とにかくイライラしてたのが、それで結構吹っ切れたっていうのがあって。でも、その後ツアーがすぐ始まったんだけど。それがツアーの始まる2週間くらい前で。3か月間僕はギブスをしたままギターを弾いてる”振り”をしてました(笑)。ほとんど、あのー固定してるギブスがあのー金具でできてるもんですから、ボトルネックのボトルをささなくても、そのまま”ボトルネック奏法”ができるという3か月間で。(笑)えーそのツアーはメチャクチャな厳しい、バンド内がグジャグジャという、えーその次の年、見事に解散してしまいましたが、ツアーでした。そのツアーをやった時の、できあがったアルバムがこれです。このー伝わるような気がするんだよね、そのイライラが。『DOWN BY THE MAINSTREET』から♪DADDY'S TOWN♪(♪DADDY'S TOWN♪が流れはじめる・・・・)
浜田省吾の経済学 ~ビッグマネーはいくらなのか?
2014(平成26)年 5月14日(水) 10時20分
http://news.livedoor.com/article/detail/8829886/
1993年4月発行 会報第58号全32ページ。
DEEP INTERVIEW WITH SHOGO HAMADA
Sound「グレッチで弾くイメージだった「愛の世代の前に」。」
浜田省吾作品をふりかえりながら、サウンドと声について聞く
●3枚目から水谷公生さん。
浜田 『Illumination』から『PROMISED LAND』まで、全部で6枚。だから、俺のミュージシャンとしての少年時代から大人になる架け橋は、やっぱり水谷さんから学びながらやってきたっていう感じですね。でも、俺、最初は嫌いだったんですよ。あはは。
●(笑)どういう意味ですか?
浜田 ようするにねえ、当時のスタジオ・ミュージシャンってのは、すごいエリート集団だったのね。エリートで鼻持ちならなかったの。俺なんかは、アカデミックな音楽教育も受けたことがない楽譜も満足に読めないシンガー・ソング・ライターだよ、売れてない。だからひとりでそう感じたのかもしれないけど、スタジオの中ですごい疎外感があったんですよ。スタジオに行くのが嫌で嫌でしょうがなかった(笑)。
●今の水谷さんからは想像できませんね。
浜田 今じゃ大笑いなんですけどね。「あの頃は、俺たちもツッパッてたからなあ」って。そうでしょ。俺が25歳ぐらいで、彼らは27、8、9、ぐらいだったわけだから。佐藤準さんに至っては、俺より若いから 22、3だったわけで、22、3であれだけプレイできりゃ、ツッパるよね(笑)。だから彼らも、自分たちのサウンドの中にソング・ライターを引っぱり入れるっていう自負?今だったらみんなもっと大きな目で、このソング・ライターにはこういうサウンドが合うだろうっていう感じで見られるんだろうけど。そこで戦いがあるわけですよ。俺は本来すごく粗野な8ビートのR&Rが好きなのに、彼らはその当時でいうすごく洗練されたTOTO風のサウンドだったりとか、スティーブ・ガットとかそういったものを目指していて。スタジオに入ったときに詞ができてない。だからメロディはララララって感じで歌うから、どういう歌になるか、ミュージシャンはわからなかったんですね。でも何作か作って、その後自分たちが録ったものに歌詞がのった歌を聞いて、評価してくれたのね。(浜田省吾というミュージシャンは)いい歌詞を、いい作品を作るって。だから、最後の『PROMISED LAND』の頃はすごくいい雰囲気になったんだけど。
●その頃、特にアレンジ面で気に入った曲っていうのを覚えてらっしゃいますか?
浜田 いや、どの曲も洗練され過ぎてるとずーっと思ってた(笑)。たとえば、「愛の世代の前に」も、なんて言うか、当時で言うとTOTO的な音の作りになってるのね。ちょっとヘヴィ・メタルだけどポップでライトな感じ。でも俺のイメージとしては、もっとパンクっぽかったんです。グレッチみたいなギターでジャカジャカとコードを弾く。
●グレッチのギターで「愛の世代の前に」って、かっこよさそうですねえ(笑)。その前の『Home Bound』は、特にサウンド面ではエポック・メイキングなアルバムですよね。『Home Bound』の「丘の上の愛」のピアノ・ソロはアドリブなんですか?
浜田 アドリブです。あれはニッキー・ホプキンス。彼はほら、モーツァルトがいちばん好きだって言ってたから、クラシックっぽく、バロックっぽく弾いてくださいよ、ビートルズの「イン・マイ・ライフ」の間奏とかあるじゃないですかって言ったら、「『イン・マイ・ライフ』ってなんだ?」みたいな(笑)。
●それは浜田さんが話すんですか?
浜田 そうです。そしたら「じゃあウェルツァーと生ピアノを遅い回転にして録音して、それを上げたらどうなる?」って言うから、ちょっとテープの回転を遅くしてウェルツァーと生ピアノを重ねてね。で、ちょっと回転を速くしたらチェンバのような、なんか不思議な音になった。あとイントロの♪タンタターン、タターンタターンってフレーズがありますよね。あれも彼がスタジオで譜面のコード進行を見ながら、ぼんやり弾いていたんです。それがすごく綺麗で、それ録らせてくれって言って、録音したんです。
●「ガラスの部屋」というギター・ソロもいいですね。
浜田 あれはドゥービーブラザーズにいた、ジェフ・バクスター。あれも2テイクか3テイクのアドリブですね。彼はその頃ギターの先生もしていて音楽理論などを話してくれながら、弾いてくれたんだよね(笑)。
●当時から浜田さん自身としても、あのアルバムのサウンドはかなり満足していましたか。
浜田 ……今はね。
●今は(笑)。
浜田 今はあれでよかったと思ってるけど、そのときはギターでも、スティーブ・ルカサーのようなマーシャル系の音ではなく、フェンダーのテレキャスターとかの、もっと乾いたジャキーンっていう音を考えていた。
●スプリングスティーン風の雰囲気っていうのも、一時期ありましたよね。たとえば「MAINSTREET」。
浜田 そうかなあ?
●あれは、サックス入ってるからそう思うのかな。
浜田 アルバムのサウンドは全然違うよね。だって「MONEY」なんてのはやっぱりハード・ロック系だし、「DADDY'S TOWN」はちょっとはそういった感じがあるけど、「DANCE」っていうのは完全にダンス・ミュージックでしょ。
●その頃からバンドのメンバーが、アレンジを浜田さんと一緒にするようになったんですよね。やがてはバンドでアレンジもやっていこうというのが元々あったんですか?
浜田 あったけど、もっと早めにやってたら、ジャクソン・ブラウン風だったり、スプリングスティーン風だったり、全部なんとか風みたいになってしまったんじゃないかな。当時は自分たちが好きな音と、スタジオ・ミュージシャンの作る音とズレるのがいやだったけど、今思えばかえってよかったなあと。でも、水谷さんなんかは、逆のことも言ってる。「浜田の方が俺たちよりもやっぱり早かった」って。というのは、俺が言っていたのは、その時期の若者のサウンドだったんだよね。彼はスタジオ(における最先端の)の音を聞いて、俺は当時の空気を聞いていた。で、その後'80年代の半ばにバンド・ブームみたいのが来て、ほとんどそういう音だったでしょ。で、その時に初めて「あっ、浜田はこんな音のことを言ってたんだな」っていう風に思ったって。水谷さんはその頃、俺の言ってる音は古いと思っていたんだって。というのは、時代はくり返しだからね。俺はひと回りした新しさだったんだけど、水谷さんにとっては、ついこの前やってたリバプール・サウンドとかをベースにした音に聞こえたんだね。たとえば、当時のジョン・クーガーにしても、シックスティーズに聞いた音をベースにしてる。スプリングスティーンも、モータウンの音とかをしメイクしたわけでしょ、ある意味では。ただ、「終りなき疾走」をスプリングスティーンみたいにやったら、本当にスプリングスティーンの真似みたいに思われてただろうね。世代がほぼ同じで、聞いてきた言葉が同じだからそうなるんだけど、彼のほうがはるかに有名だから、彼のフォロワ-ズみたいに言われちゃう(笑)。でまあ、とにかく(水谷さんにアレンジをやってもらっている)その間にバンドのメンバーは、レコードをコピーしながらステージをやってて、やっぱり影響も受けるわけですよね。でも自分の音もあるっていうことで、だんだん成長してきて、そして『DOWN BY THE MAINSTREET』あたりから「じゃあ、自分たちでやってみようか」っていうことで始めたんですよ。
●『J.BOY』の「AMERICA」という曲に12弦ギターを使おうというアイディアは?
浜田 あれは俺の指定です。フレーズは町支君が考えてくれたんだけど、言葉で言うならば「バーズみたいなのにしようぜ」って。そう言ったら、それは12弦ギターのフォーク・ロックだって、町支なんかだったらすぐわかるよね。
●新しい方の「悲しみは雪のように」のアレンジはポリスの「見つめていたい」のパターンにちょっと似てますよね。
浜田 ギターの♪タンタンタントンタントンタントンって。あのギターのスタイルっていうのは、ポリスのアンディ・サマーズが、たぶん最初だったと思う。それまで、それに似たことは誰かやってたんでしょうけど。あれ以来、ギターのテンションをちょっと乗っけた分散和音っていうのは、1つのスタイルになりましたよね。気持ちのいい、8分でね。
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家路
ロースカツ旨いじゃないか.2012/08/24 (2012/08 訪問)
http://tabelog.com/hiroshima/A3401/A340102/34006976/dtlrvwlst/
音源◆火薬のように 浜田省吾http://video.fc2.com/content/20110611MW97gExL
アニメ◆

ダイジェスト◆

静止画◆

音源◆♪愛のTWILIGHT TIME♪山口百恵 https://youtu.be/Sf5z-p1OxZ8
■ 火薬のように
作詞・作曲:浜田省吾 編曲:水谷公生 歌:浜田省吾
浜田省吾シングル「東京」(07SH886)のc/w曲,1980年10月21日発売
止まれと言われれば走り出す
黙れと言われれば叫んだ
何もかもに 背をむけてた あの頃
オンボロ・バイクで お前と海まで飛ばした
教室 抜け出し 浜辺の女の子見てた
お前はビター おれはハーモニカ
いつでも Rock & Roll
立ってろと言われれば 坐り込み
坐れと言われれば 立ち上がる
火薬のような心をもてあまして
あ、おれの恋した あの娘は お前の恋人
いつでも二人を笑わせた 馬鹿げたジョークで
土曜日の夜 ひとり帰り道
一度だけ泣いた
何ひとつ許すことも出来ず
誰にも助けを求められずに
持ちこたえた 息苦しさの中で
何もかもに 背をむけていた あの頃
アルバム「GOLDEN FLIGHT」に収録された「愛のTWILIGHT TIME」の歌詞違い曲。
「愛のTWILIGHT TIME」は伊藤アキラさんの作詞だが,「火薬のように」は浜田省吾さんが
自ら作詞し,11枚目のシングル「東京」のB面として収録された。この二つの曲のイメージは,
同じメロディーでもこれだけ違った曲になるのかと驚くほどである。「火薬のように」はアル
バムには未収録でCD化もされておらず,浜田省吾作品の中でもレアな1曲である。
「GOLDEN FLIGHT」は1977年に発表されたアルバムであるが,百恵引退の年にリリース
された浜田省吾さんのシングルのB面にそっとこの曲が収録されていることに,浜田省吾さ
んの“想い”を感じるのは私だけだろうか・・・。
■ 浜田省吾さんのコメント (「Complete Shogo Hamada 浜田省吾辞典」より)
頻繁に人に曲を提供していたのは,デビューして最初の3年ぐらい。当時所属して
いたホリプロのプロデューサーの川瀬泰雄さんが,僕のメロディ・メーカーとしての才能
を,すごく買ってくれていたんです。山口百恵さんには何曲か提供しました。彼女のプロ
デューサーでもあった川瀬さんに「横須賀ストーリー」のリズム・セッションを聞かされて
「この歌はヒットするよー。浜田,このリズム隊どう思う?」って言われて,「なかなかいい
んじゃないですか」って言った半年後ぐらいに,その曲が大ヒットして。
印象深いのは,彼女が三浦友和さんについて「彼っておかしいんですよ,ジーンズに
もアイロン当てて折り目つけないとはかないんですよね」なんて言ってクスクス笑ってい
たこと。しばらくしてから彼らが結婚すると聞いて,「当時から好ましく思っていたんだな
あ」と思いました。
「DANCING IN THE RAIN」は,横須賀恵というペンネームで彼女が歌詞を書いてい
ます。僕のメロディーを気に入ってくれて,「自分で詞を書きたい」と思ったことが,とても
嬉しかったですね。
http://www.tv-naruto.ne.jp/s-take/tribute/others.htm