過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

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 ┃『SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
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 1967(昭和42)年06月01日(木) 英国
 1967(昭和42)年06月02日(金) 米国
 1967(昭和42)年07月05日(水) 日本
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 ┃ 『SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND』  ┃
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 Parlophone PMC 7027; PCS 7027 - June 1, 1967 (traditional date)
 actually rush released May 26, 1967
 Capitol (S)MAS 2653 - June 2, 1967
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 http://www.beatlesagain.com/btlps.html
 http://yokono.co.uk/collection/beatles/beatles.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
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 ┃ザ・ビートルズ 日本 シングル リリース┃
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 38.1969(昭和44)年03月10日(月) 1 \400 ♪オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ♪/♪ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス♪ *日本独自発売(14)
‡39.1969(昭和44)年06月01日(日) 2 \400 ♪ゲット・バック♪/♪ドント・レット・ミー・ダウン♪
 40.1969(昭和44)年07月10日(木) 3 \400 ♪ジョンとヨーコのバラード♪/♪オールド・ブラウン・シュー♪
 41.1969(昭和44)年11月21日(金) 4 \400 ♪カム・トゥゲザー♪/♪サムシング♪
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 http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/single/single.html
 シングル写真一蘭◆http://d.hatena.ne.jp/hideaway_juju/20120717/1342515521
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81
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 ┃ ♪平和を我らに♪ Recording Data  ┃
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‡1969(昭和44)年6月1日(日) ティモシー・リアリーは6月1日(日)に行われたプラスティック・オノ・バンド名義で発売されることになるジョンの曲「Give Peace a Chance(平和を我らに)」のレコーディングに参加している。♪Come Together♪が書かれた経緯は、アメリカの心理学者であるティモシー・リアリーがカリフォルニア州知事選挙に出馬を表明した際、応援ソングとして作られたという事らしい。(この時の対抗馬はあのロナルド・レーガンである)このティモシー・リアリーはLSDの研究をハーバードなどで行っていたらしく、当時のカウンターカルチャー層からは「ドラッグの教祖」として支持されていたそうだ。もっともこの選挙運動中にマリファナ所持で投獄されてしまったらしい。
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 https://beatlesdata.info/13/01_cometogether.html
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 ┃ A-side  ♪BACK IN THE USA♪  ┃CHUCK BERRY
 ┃ B-side ♪Memphis, Tennessee♪ ┃Released June 1959
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 ┃ A-side ♪Back in the U.S.A.♪   ┃LINDA RONSTADT
 ┃ B-side ♪White Rhythm & Blues♪  ┃Released (tue)August 1, 1978
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Back_in_the_U.S.A.
 https://beatlesdata.info/10/01_backintheussr.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/Back_in_the_U.S.S.R.
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 ┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
 ┃   Radio previews and launch party  ┃
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 1967(昭和42)年05月19日(金)写真◆ブライアン・エプスタインの家で開催されたペッパー軍曹打ち上げパーティーのビートルズ
 1967(昭和42)年05月12日(金)、このアルバムは海賊ラジオ局ラジオロンドンでプレビューされ、
 1967(昭和42)年05月20日(土)にケニー・エベレットがBBCライト・プログラムの番組「Where It's At」で正式にプレビューした。エベレットは「人生の一日」とは別にアルバム全体を演奏した[277]。
 1967(昭和42)年05月19日(金)エプスタインはエベレットの放送前日、ロンドン中心部のベルグレイヴィアにある彼の家で音楽ジャーナリストとディスクジョッキーのための打ち上げパーティーを主催した[このイベントはポッププロモーションの新たなイニシアティブであり、アルバムのリリースの意義を高めた[メロディメーカーのレポーターは、ビートルズの革新の最初の「リッスン」と典型的な例として説明した[ [281] パーティーは、1年近くで報道機関とのバンドの最初のグループインタラクションをマークしました。 [282][283] NMEのノリー・ドラモンドは、彼らがその時間の間に「事実上非コミュニカド」であったと書き、バンドが「熟考、秘密主義的、排他的」であると全国紙に訴えた。ビートルズの出演、特にレノンとハリソンの姿にショックを受けたジャーナリストもいた[284]バンドメンバーのボヘミアンな服装は以前のイメージと対照的だった[音楽ジャーナリストのレイ・コールマンは、レノンは「ハガード、古い、病気」に見え、明らかに薬物の影響を受けていることを思い出しました。伝記作家ハワード・スーンズは、ビートルズの存在を英国王室の集まりになぞらえ、「誇張してお祝いの方法で、皮肉な笑い声で頭を投げ返す」と、レノンがマッカートニーの手を振る様子を映し出すイベントの写真を強調している[ [286]
 1967(昭和42)年05月26日(金)『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』は、
‡1967(昭和42)年06月01日(木)の予定日に先立って、英国でラッシュリリースを受けた。バンドの8番目のLP[288]は、トラックのリストがイギリスとアメリカのバージョンでまったく同じだった最初のビートルズのアルバムでした。 [81]米国のリリースは、
 1967(昭和42)年06月02日(金)に行われました。キャピトル・レコードのアルバムの広告は、ビートルズとペッパー軍曹のバンドが同じであることを強調した
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band#Radio_previews_and_launch_party
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 The Beatles アルバム備忘録9『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』
 2013-09-03 13:14:16 テーマ:The Beatles アルバム
 ビートルズ作品の備忘録、第九弾は『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』です。
 1967(昭和42)年06月01日 英国発売(ステレオ・モノ)。
 1967(昭和42)年07月05日 日本発売(ステレオ)です。「ビートルズの最高傑作」とか「ロックの金字塔」、「最初のコンセプト・アルバム」などと呼ばれる作品ですね。近年では評価はいろいろと別れるようですが、ビートルズのキャリアの中で重要なアルバムであることは間違いないでしょう。このアルバムを聴くに当たっては、ビートルズをよく知っている人から「このアルバムは難しいぞ」と釘を刺されていました。CDをレンタルして聴いたのが初めてですが、その言葉通り難解極まりない、という印象が強かったですね。初対面で「いい曲だ」と思えたのは”Lucy In The Sky~”と”When I'm Sixty Four”くらいのものです。しかも後者は単に「ポ○キッ○」で聴いたことがある、というだけですし(笑)通常は3~4秒設けられる曲間のブランクが全くないのにも戸惑いましたね。CDプレイヤーが故障でもしたのかと思ったほどです。特に冒頭のタイトル曲から2曲目にクロスフェイドで移る部分では「Billy Shears!」のコーラスが歌詞カードに載っていないこともあって、「あれっ、どこで曲が変わったの?」という感じでした。しかし、いちばん面食らったのは”A Day In The Life”でしょうか。実はCDをテープにダビングする間、LPで言うB面の真ん中あたりであまりの難解さに「後でテープで聴けばいいや」と聴くのを投げ出してしまいました。そして後日、ようやくB面のラストまで聴き通したのですが、ピアノの余韻がずーっと続いているので「いつまで鳴ってるんだ?」と確認のためにヴォリュームをどんどん上げていったんです。…まさか、あんなものが入っているなんて!奇妙な笑い声と意味不明な言葉が大音量で流れ、何事かと思いました。今でこそその正体を知っていますが、その当時は全く知りませんので、驚いたのなんの。レンタル料を浮かせるために速攻でダビング、速攻で返却!なことをしていたので、解説書もほとんど読まなかったですし。このアルバムの素晴らしさがわかるようになったのは、ファンクラブで購入した研究本を読んでからですね。”A Day In The Life”のアレのこともそこで初めて知りました。やはりある程度しっかりした予備知識がないと、全く意味不明で終わってしまうでしょう。何かの番組で、1967年当時にこのアルバムを聴いた一人の女性ファンが「ビートルズは変わってしまった。サウンドも奇妙だし、歌詞も何を言っているのか聞き取れない」というような内容のことを言って嘆いているのを見たことがあります。ネイティブのファンですらそうなのですから、我々日本人ならなおさらです。このアルバムの製作過程については「アンソロジー」でも触れられていましたが、中でも”A Day In The Life”の第一テイクをいろいろ操作しながら紹介するジョージ・マーティンの感慨深げな表情が非常に印象的でした。
 https://ameblo.jp/njfsc/entry-11605811373.html
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 ┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
 ┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
 2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
 ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
 ┌─――――――――┐Second row <二行目>
25| Marilyn Monroe |『Wikipedia』
25|マリリン・モンロー|『discovermusic.jp』
 └─――――――――┘ メイ・ウエスト(No.3)的な雰囲気を持つマリリン・モンローは、『お熱いのがお好き(原題:Some Like It Hot)』でトニー・カーティス(No.22)と主演を務め、50年代ハリウッドのピンナップ・ガールとなった。彼女の衝撃的な死について、いまだに陰謀説が囁かれている。『Sgt. Pepper』は、マリリンにとって41回目となる誕生日:
‡1967(昭和42)年06月01日(thu)に正式リリースされたヨ(=^◇^=)
‡1926(大正15)年06月01日(tue) Born
 1962(昭和37)年08月05日(sun) Died. 36 years old https://www.uta-net.com/song/67657
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 https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
‡https://en.wikipedia.org/wiki/Marilyn_Monroe
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
 https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
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 ┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
 ┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
 2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
 ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
『Sgt. Pepper』の who's whoのインタラクティヴ・ヴァージョンはこちら(日本語非対応)
 写真◆Beatles Sgt Pepper Map
 01: Sri Yukteswar Giri(スリ・ユクテスワ・ギリ)『The Holy Science』(1894年刊)の著者。同書は「全ての宗教には根本的な一貫性があることをできる限り明確に示す」ことを試みている。スリ・ユクテスワ・ギリは、Sri Mahavatara Babaji(スリ・マハー・アヴァター・ババジ:No. 27)とParamahansa Yogananda(パラマハンサ・ヨガナンダ:No. 33)のグル(導師)だった。彼が左上隅という重要な位置にいるのは、ジョージ・ハリソン(No. 65)がインド哲学への関心を高めていたためだ。1967年8月、アルバムのリリースから2カ月後、ザ・ビートルズはロンドンのパーク・レーンにあるヒルトン・ホテルでマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと初対面を果たした。4人はここで、ノース・ウェールズのバンガーで超越瞑想を学ぶよう勧められた。
 02: Aleister Crowley (アレイスター・クロウリー)非常に多くの作品を残した作家。オカルティズム(神秘主義)に共感し、セレマ(Thelema)という自身の宗教を創設した。クロウリーの中心的信条は「汝の意志することを行うことが、法の全てである。愛は法であり、愛は意志の下にある」。
 03: Mae West(メイ・ウエスト)メイ・ウエストは当初、アートワークへの写真使用を拒んだ。ハリウッドの黄金時代にその名を轟かせた魅惑的な彼女は、自分は決してロンリー・ハーツ・クラブには入らないと思っていたのだ。しかし、ザ・ビートルズが直々に手紙を書き、4人全員がファンであることを説明すると、彼女は写真の使用を許可した。1978年、リンゴ・スター(No. 63)はメイ・ウエスト最後の作品となった『結婚狂奏曲セクステット(原題:Sextette)』(1978年)に出演し、恩返しをした。なお、同映画の中では『The Beatles』(通称ホワイト・アルバム)収録の「Honey Pie」のカヴァー・ヴァージョンが使用されている。
 写真◆Mae West Sgt Pepper's◆Mae West(メイ・ウエスト)
 04: Lenny Bruce(レニー・ブルース)レニー・ブルースは、後年のコメディアンの多くに影響を与えた個性的なスタイルで、50年代、60年代のコメディに革命を起こした。『Sgt. Pepper』のジャケットに登場した頃にはわいせつ罪で逮捕されていたが、こうした逮捕によって、彼はザ・ビートルズだけでなく、ビートニックス(*訳注:1950年代の米国のサブカルチャーを支持する若者たちの総称)やボブ・ディラン(No. 15)にとってもさらに反体制文化のヒーローと化した。1966年8月に薬物中毒死。
 05: Karlheinz Stockhausen(カールハインツ・シュトックハウゼン)50年代から60年代、電子音楽を先駆的に利用したドイツの作曲家で、今もアヴァンギャルドのゴッドファーザーであり続けている。限界を押し広げるシュトックハウゼンの音楽に影響を受けたザ・ビートルズは、『Revolver』の「Tomorrow Never Knows」でのテープを使った実験的手法を皮切りに、スタジオで画期的な実験をするようになった。ポール・マッカートニー(No. 64)がシュトックハウゼンの作品を他のメンバーに紹介すると、ジョン・レノン(No. 62)がファンとなった。レノンとオノ・ヨーコは1969年、シュトックハウゼンにクリスマスカードを送ったほどだ。
 06: WC Fields (W.C.フィールズ)アメリカのライター/コメディアン/俳優。無声映画とトーキー映画の両時代に活躍したW.C.フィールズは、万能エンターテイナーの典型例だ。彼の喜劇映画はザ・ビートルズ自身のユーモアを加速させ、また、彼の出自となったヴォードビルの世界は「Your Mother Should Know」といった楽曲に影響を与えた。
 07: Carl Jung(カール・ユング)スイスの精神科医。進歩的な思想家であるユングは、世界に新種の心理学を紹介した。彼が創始した分析心理学は、1900年初頭に個性化と自己実現という概念の先駆となった。
 写真◆Edgar Allen Poe Sgt Pepper「Man, did you see them kicking Edgar Allen Poe?」 (『I Am The Walrus』歌詞より)
 08: Edgar Allan Poe(エドガー・・アラン・ポー)「I Am The Walrus」で名前を出される前に、エドガー・アラン・ポーは『Sgt. Pepper』のコラージュで最上段の右側に登場していた。彼が1820年代から1840年代にかけて執筆した詩と短編小説は、モダンホラーというジャンルを創設し、現代のSF小説や探偵小説の土台を作った。
 09: Fred Astaire(フレッド・アステア)
 写真◆メイ・ウエスト(No.3)とは対照的に、フレッド・アステアは 『Sgt. Pepper』のアルバム・ジャケット登場の依頼を受けて喜んでいたと伝えられている。最初は姉と舞台で踊っていたが、ジンジャー・ロジャースと共演した『トップ・ハット(原題:Top Hat)』や『有頂天時代(原題:Swing Time)』などのハリウッド黄金時代の映画で大成功を収めた。フレッドはまた、ジョン・レノンとオノ・ヨーコとともに1972年のテレビ映画『Imagine』にも出演している。
 10: Richard Merkin (リチャード・マーキン)アメリカの画家/イラストレーター。1938年生まれのリチャード・マーキンは、自身が生まれる前に流行した草創期のジャズに魅了された。彼のモダニストなスタイルは、ジャズの抽象性とマッチしており、1966年にピーター・ブレイクが制作したトリビュート作品『Souvenirs For Richard Merkin』のインスピレーションともなっている。
 11: A Vargas Girl (バーガ・ガール)ペルーの画家、ホワキン・アルベルト・バルガス・イ・チャベスは、1910年代から30年代にブロードウェイを飾った『ジーグフェルド・フォリーズ』のポスターをデザインして名声を手にすると、ピンナップ・ガールを描いた作品の数々を制作した。「バーガ・ガールズ」として知られる一連の作品は、40年代にエスクワイア誌で大々的に取り上げられたほか、第二次世界大戦の戦闘機に描かれた絵の多くをインスパイアした。
 12: Leo Gorcey(レオ・ゴーシー)レオ・ゴーシーは、ハンツ・ホール (No.13)とともにバワリー・ボーイズの一員だった。バワリー・ボーイズは、デッド・エンド・キッズとイースト・サイド・キッズから派生したギャング役を演じる映画俳優のグループだ。バワリー・ボーイズの映画シリーズは、40年年代から50年代にかけて合計48作品にのぼった。レオ・ゴーシーの演じたギャングのリーダーは、ギャング役の原型となり、多くの俳優のお手本となった。なお、彼はザ・ビートルズに写真使用料を求め、この要請は却下されたため、写真使用を認めなかった。
 13: Huntz Hall (ハインツ・ホール)ハンツ・ホールもバワリー・ボーイズの一員だった。お調子者のギャング、ホレス・ドビュッシー・ ‘サッチ’・ジョーンズを演じたことで有名。
 14: Simon Rodia (サイモン・ロディア)1879年、イタリアに生まれたサイモン・ロディアは、15歳の頃に兄とアメリカに移住した。その後35年間はさまざまな場所に住んでいたが、1920年にロサンゼルスのワッツ地区に定住し、翌年からワッツ・タワーの建築に着手した。相互に結びついた17の彫像によって構成される同タワーの完成までには33年を要した。
 15: Bob Dylan(ボブ・ディラン)ボブ・ディランとザ・ビートルズは60年代を通じて影響を与えあっていた。お互いを刺激しあいながら、限界を押し広げ、シンプルな‘ポップ・ミュージック’で可能と考えられていたことを変革する音楽を作っていたのだ。ジョン・レノン(No. 62)に「Help!」という形でより私的な曲を書くきっかけを与えたのはボブ・ディランだった。また、ザ・ビートルズはフルバンドを擁してできることをボブ・ディランに示し、これをヒントにボブ・ディランは1965年、エレクトリック路線へと進んだ。しかし、ボブ・ディランと最も長く友情が続いたのはジョージ・ハリソン(No. 65)で、2人はその後もしばしば一緒に演奏し、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成したほか、お互いのプロジェクトにゲスト参加しあっていた。
 16: Aubrey Beardsley (オーブリー・ビアズリー)19世紀のイラストレーター。オーブリー・ビアズリーのペン画の影響は、クラウス・フォアマンが手がけた『Revolver』のジャケットにも感じ取れる。オーブリー・ビアズリー自身のスタイルは日本の木版術に影響を受けており、耽美主義者として同年代に活動していたオスカー・ワイルド(No. 41)と遠からぬスタンスを取っている。
 17: Sir Robert Peel (サー・ロバート・ピール)現代の保守党を創始したサー・ロバート・ピールは、1834年~1835年、1841年~1846年の2回にわたり、英国首相を務めた。また、英国内務大臣に在任中は、近代警察の基礎を築いた――その名残は今日でも残っており、警察官(複数)はイギリスでは「ボビーズ(訳注:ボビーはロバートの愛称)、アイルランドでは「ピーラーズ」と呼ばれている。
 18: Aldous Huxley(オルダス・ハクスリー)1954年に刊行されたオルダス・ハクスリーの『知覚の扉(原題:The Doors Of Perception)』は、1960年代を生きる反体制文化のエリートにとって必読の書だった。メスカリン(幻覚剤)を使用した自身の経験を詳述した同著は、当時流行していた意識拡大の風潮と一致していた。また、ザ・ドアーズは同著にちなんでグループ名をつけた。オルダス・ハクスリーはノーベル文学賞に7回ノミネートされ、『With The Beatles』のリリース、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺と同日の1963年11月22日に死去した。
 19: Dylan Thomas(ディラン・トマス)人々に愛されたウェールズ著述家。1953年死去。『Sgt. Pepper』のジャケット制作に取りかかる頃までに、ザ・ビートルズの4人はディラン・トマスの詩のファンとなっていた。「4人ともディラン・トマスのファンだったんだ」とポール・マッカートニー(No. 64)は後に回想している。「僕も彼の作品をたくさん読んだ。確かジョンは、彼がきっかけで詩を書きはじめたんじゃないかな」。故サー・ジョージ・マーティンもトマスのファンで、1988年にトマスのラジオ・ドラマ『Under Milk Wood』のミュージカルをプロデュースした。
 写真◆Dylan Thomas ポール・マッカートニーによるとジョン・レノンが、作詞するきっかけとなったウェールズの詩人Dlylan Thomas(ディラン・トマス)
 20: Terry Southern (テリー・サザーン)風刺に富んだ小説家/脚本家。ビート・ジェネレーションとザ・ビートルズの橋渡しをした。彼はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでビート・ジェネレーションと交流し、1966年にロンドンへと居を移した後は、ザ・ビートルズと親交を結んだ。『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(原題:Dr. Stranger Love Or: How I Learned TO Stop Worrying And Love The Bomb)』、『イージー・ライダー(原題:Easy Rider)』など、60年代を象徴する映画の脚本も手掛けた。
 21: Dion DiMucci(ディオン・ディムチ)ディオン・アンド・ザ・ベルモンツのリーダーだったディオン・ディムチは、「The Wanderer」、「Rundaround Sue」などのヒットでソロ・アーティストとして成功を収めた。ロックン・ロール時代を特徴づける彼のドゥワップ曲は、ザ・ビートルズに大きな影響を与えた。
 写真◆Tony Curtis『お熱いのがお好き』の役柄で知られる Tony Curtis(トニー・カーティス)
 22: Tony Curtis(トニー・カーティス)魅力に溢れた多才多芸のトニー・カーティスは、ハリウッドのアイドルだった。1949年から2008年の間に、目もくらむような数の映画(100作品以上)に出演した。ジャック・レモン、マリリン・モンロー(No. 25)と共演した『お熱いのがお好き(原題:Some Like It Hot)』(1959年)での女装姿が忘れられないが、バート・ランカスターと共演した1957年のフィルム・ノワール『成功の甘い香り(The Sweet Smell Of Success)』で演じた早口のプレス・エージェント、シドニー・フィアスコ役も印象深い。
 23: Wallace Berman (ウォレス・バーマン)アメリカのヴィジュアル・アーティスト、ウォレス・バーマンは、アルバム・ジャケットの歴史に名を残す以上の功績を残した。彼が先駆となった「アッサンブラージュ・アート」は、立体的な手法のコラージュ・スタイル。これはピーター・ブレイクが得意とするもので、『Sgt. Pepper』のアルバム・デザインにもこの手法の影響が感じ取れる。
 24: Tommy Handley(トミー・ハンドリー)マックス・ミラー(No.37)と同様、トミー・ハンドリーも戦時中に活躍したイギリスのコメディアンだ。リヴァプール生まれの彼は、ザ・ビートルズにとっては地元の英雄だった。BBCのラジオ番組『ITMA(”It’s That Man Again”)』は、1939年から1949年に彼が脳内出血で急逝するまで、10年にわたって放送された。
 25: Marilyn Monroe(マリリン・モンロー)メイ・ウエスト(No.3)的な雰囲気を持つマリリン・モンローは、『お熱いのがお好き(原題:Some Like It Hot)』でトニー・カーティス(No.22)と主演を務め、50年代ハリウッドのピンナップ・ガールとなった。彼女の衝撃的な死について、いまだに陰謀説が囁かれている。『Sgt. Pepper』は、マリリンにとって41回目となる誕生日(1967年6月1日)に正式リリースされた。
 26: William Burroughs(ウィリアム・バロウズ)ボブ・ディラン(No.15)からデヴィッド・ボウイ、トム・ウェイツからスティーリー・ダンにいたるまで、ビート・ジェネレーションの作家、ウィリアム・バロウズは何十年にもわたって多数のソングライターに影響を与えてきた。あまり知られていないことだが、ウィリアム・バロウズ本人によれば、ポール・マッカートニー(No. 64)が「Eleanor Rigby」を書いているところに立ち会っていたという。ヴィクター・ボクリスと共著した対談集『ウイリアム・バロウズと夕食を―バンカーからの報告(原題:A Report From The Bunker)』の中で、ポール・マッカートニーがモンタギュー・スクエア34番地にあるザ・ビートルズのアパートに泊めてくれたと語っている。「曲が出来ていくのを見ていたよ。またしても、私は音楽のことなど詳しくないのに、彼が万事を心得ていることが分かった」。
 27: Sri Mahavatara Babaji (スリ・マハー・アヴァター・ババジ)スリ・ユクテスワ・ギリ(No.1)の教え子だったスリ・マハー・アヴァター・ババジは、クリヤー・ヨガの瞑想を復活させたと言われており、クリヤー・ヨガの瞑想はその後、パラマハンサ・ヨガナンダ(No. 33)によって西洋に伝えられた。自叙伝『Autobiography Of A Yogi』の中でヨガナンダはバジジについて、まだヒマラヤに住んでおり、真に神聖な者の前にしか姿を現さない、と記している。
 28: Stan Laurel(スタン・ローレル)スタン・ローレルは、オリヴァー・ハーディ(No.30)とともに107本の映画に出演した。その大半は1920年代から1940年代半ばの映画で、『底抜け極楽大騒動(原題:Block-Heads)』や『宝の山(原題:Way Out Wes)』といったアイコニックな作品も含まれる。2人とも『Sgt. Pepper』がリリースする前に死去している(オリヴァー・ハーディは1957年8月7日、スタン・ローレルは1965年2月23日)。
 29: Richard Lindner (リチャード・リンドナー)リチャード・リンドナーは1901年にドイツで生まれたが、ナチスから逃れるため、1941年にアメリカへと移住した。1950年代、彼は表現主義とシュルレアリスム、ニューヨークで出合った極めて性的なライフスタイルを取り入れた絵画スタイルを生み出した。『Sgt. Pepper』のジャケットに登場後、彼の抽象的なスタイルは、アニメ映画『Yellow Submarine』にも影響を与えた。
 30: Oliver Hardy(オリヴァー・ハーディ)ローレル&ハーディで、口ひげを生やした背の高い方がオリヴァー・ハーディだ。不運なスタン・ローレル(No. 28) を引き立てる短気な役柄を演じた。2人のレコード(「The Trail Of The Lonesome Pine」)は1975年12月、イギリスのシングル・チャートで第2位に入った。

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