31: Karl Marx(カール・マルクス)多作な著述家、哲学者、経済学者のカール・マルクスは、1848年のパンフレット『共産党宣言』で最も良く知られている。同書はマルクス自身の学説の中心的な信条を概説しており、この1冊だけで政治運動が始動した。彼の作品は、現在の経済思想にも影響を与え続けている。
32: HG Wells(HGウェルズ)エドガー・アラン・ポー(No.8)とともに、HGウェルズは現代のSF小説を形作った。1800年代後半に『タイム・マシン(原題:The Time Machine)』、『宇宙戦争(原題:War Of The Worlds)』といった画期的な小説を発表した後、彼はより政治的な作品を執筆するようになり、ノーベル文学賞に4回ノミネートされた。
33: Sri Paramahansa Yogananda(スリ・パラマハンサ・ヨガナンダ)スリ・パラマハンサ・ヨガナンダはクリヤー・ヨガをスリ・ユクテスワ・ギリ(No. 1)の下で学び、ユクテスワ・ギリはその教義をスリ・マハー・アヴァター・ババジ(No. 27)に伝えた。1920年、ヨガナンダはアメリカへ向かって出港し、アメリカでセルフ・リアリゼーション・フェローシップを創設。西洋世界に瞑想を紹介した。
34: Hairdressers’ wax dummy No.1(ヘアドレッサーの蝋人形 No.1)地元のヘアドレッサーから借りた蝋人形2体のうちのひとつ。こちらの人形は、レッドとイエローのストライプが入った帽子を被っており、もうひとつの人形(No. 36)はグリーンの帽子を被っている。
35: Stuart Sutcliffe(スチュアート・サトクリフ)ジョン・レノン(No.62)の友人でザ・ビートルズの初代ベーシスト。ジョン・レノンとの仲はリヴァプール・カレッジ・オブ・アートにまで遡る。グループがハンブルグに住み、街のクラブで演奏していた頃、スチュアート・サトクリフは写真家のアストリッド・キルヒヘルと出会う。アストリッド・キルヒヘルは、個性的な60年代前半のヘアカット(マッシュルーム・カット)をザ・ビートルズに広めた人物だ。スチュアート・サトクリフはハンブルグ・カレッジ・オブーアート入学のためにグループを脱退したが、彼は脳動脈瘤により21歳の若さで死去し、そのキャリアは悲劇的な終わりを迎えた。
36: Hairdressers’ wax dummy No.2(ヘアドレッサーの蝋人形 No.2)1体目の蝋人形(No..34)の逆側にいる2体目の蝋人形は、スチュワート・サトクリフ(No. 35)の横にいる。
37: Max Miller (マックス・ミラー)イギリスのコメディアンで寄席演芸のスター。マックス・ミラーは「The Cheeky Chappie(やんちゃで魅力的な人物を意味する)」という愛称を手に入れた。カラフルなファッション・センスと際どいユーモアで知られる彼は、ダブル・ミーニング(2通りの意味を持つ表現)の名人だった。また、1930年代を通じて、多数の映画にも出演した。
38: Petty Girl No.1(ペティ・ガール No.1)ホワキン・アルベルト・バルガス・イ・チャベスによるバーガ・ガール(No. 11)と同様、ジョージ・ペティによってデザインされたペティ・ガールは、1933年から1956年の間にエスクワイア誌に掲載されたピンナップ・ガールの絵画で、第2次世界大戦の戦闘機の前面にも描かれた。B17戦闘機に描かれ、『Memphis Belle(メンフィスの美女)』の愛称で呼ばれる絵が特に有名だ。
39: Marlon Brando(マーロン・ブランド)1953年の映画『乱暴者(原題:The Wild One)』で、ジョニー・ステイブラーという伝説的な役柄を演じたマーロン・ブランドは、ロックン・ロールを生み出した世代に募る欲求不満を見事に表現した。史上最高の名優のひとりとして称賛されている。なお、『乱暴者』でブランドと敵対する暴走族が、ザ・ビートルズとほぼ同名(The Beetles)も注目に値する。
40: Tom Mix (トム・ミックス)ハリウッドにおけるウェスタン映画の第1号スター。1909年から1935年の間に、291本もの映画に主演した。
41: Oscar Wilde(オスカー・ワイルド)劇作家、小説家、詩人。オスカー・ワイルドは多くの金言を残し、こうした金言のほかにも小説『ドリアン・グレイの肖像(原題:The Picture Of Dorian Gray)』や『真面目が肝心(原題:The Importance Of Being Earnest)』や『理想の夫(原題:An Ideal Husband)』といった演劇作品でも名を残した。
42: Tyrone Power (タイロン・パワー)30年代、40年代、50年代、ハリウッドで人気を博した俳優。向こう見ずなアドヴェンチャー映画『The Mark Of Zorro(原題:怪傑ゾロ)』で名ばかりのヒーローを演じたことで知られるタイロン・パワーだが、無法者のカウボーイ、ジェシー・ジェイムズを演じたほか、ミュージカル、ロマンティック・コメディ、戦争映画にも主演した。
43: Larry Bell(ラリー・ベル)光と空間で遊んだ大きな彫刻作品で有名なアメリカの芸術家。60年代に制作した「シャドウボックス」のシリーズでまず頭角を現すと、その後も80年代の「Vapor Drawings」や、それに続いたシリーズ「Mirage Drawings」と含む幅広い作品で高い評価を受けた。
44: Dr David Livingstone(デイヴィッド・リヴィングストン博士)リヴィングストン博士と探検との関係は、ザ・ビートルズと革新的音楽の関係と同じだと言ってもいいだろう。恐れ知らずで絶えず探求を続け、新たなテリトリーを見つけようとしていたのだ。「リヴィングストン博士でいらっしゃいますね?(Dr. Livingstone, I presume?)」という有名な台詞は今でも一般的に使われており、初出はリヴィングストン博士と探検家のヘンリー・モートン・スタンリーの対面時まで遡る。6年間行方不明だったリヴィングストンを探して、スタンリーは捜索に送り出されていたのだ。リヴィングストンはウジジ(現在のタンザニア)の街で発見された。
45: Johnny Weissmuller(ジョニー・ワイズミュラー)ジョニー・ワイズミュラーはハリウッドに視線を向ける前、水泳選手として名を馳せ、20年代のオリンピックで金メダルを獲得した。彼はターザン役でポピュラー・カルチャーに最大の功績を残し、ターザンのシリーズで主演を演じ続けると、ジャングル・ヒーローのトレードマークとなった特徴的な雄叫びを生み出した。
46: Stephen Crane (スティーヴン・クレイン)イッシー・ボン(No.47)の頭と手に隠れてほとんど見えないスティーヴン・クレインは、写実主義の小説家。1900年に28歳の若さでで死去したが、同世代で最も進歩的な考えを持つ作家のひとりと考えられている。彼の作品には日常会話が盛り込まれており、これが登場人物にさらなる現実味を与えた。また、彼の小説は、貧困をひるむことなく見つめている。
47: Issy Bonn(イッシー・ボン)マックス・ミラー(No. 37)と同世代のイッシー・ボンは、ユダヤ系イギリス人の寄席演芸スター。彼もBBCラジオで有名になった。
48: George Bernard Shaw(ジョージ・バーナード・ショー)近代劇を形作ったアイルランドの劇作家。ノーベル賞(1925年。文学賞)とアカデミー賞(1939年。『ピグマリオン(原題:Pygmalion)』で最優秀脚本賞)のふたつを受賞した初めての人物。彼の作品は、21世紀の今も舞台化されている。
49: HC Westermann(HCウェスターマン)アメリカの彫刻家。第2次世界大戦と朝鮮戦争で、米国海兵隊として従軍したHCウェスターマンは、大工として学んだスキルを使い、海外で戦っている間に目撃した恐ろしい出来事を批判する表現主義の彫刻作品を制作した。
50: Albert Stubbins(アルバート・スタビンズ)トミー・ハンドリーと(No.24)と同様、アルバート・スタビンズもビートルズの地元リヴァプールのヒーローだ。ウォールセンド生まれの彼は、1946年にリヴァプールFCのセンターフォワードとなると、翌年のリーグ・チャンピオンシップ優勝に貢献した。
51: Sri Lahiri Mahasaya(スリ・ラヒリ・マハサヤ)スリ・ラヒリ・マハサヤはスリ・マハー・アヴァター・ババジ(No. 27)の弟子で、1861年にクリヤー・ヨガの規律を学ぶと、その後はその教えをスリ・ユクテスワ・ギリ(No. 1)に伝えると、ユクテスワ・ギリはスリ・パラマハンサ・ヨガナンダへとその教えを伝えた。なお、ヨガナンダについてマハサヤは「精神的なエンジンとして、彼は多くの魂を神の御国へと運んでいくだろう」と語っている。
52: Lewis Carroll(ルイス・キャロル)1965年に行われたBBCのインタビューで、ジョン・レノン(No.62)は『Alice In Wonderland(不思議の国のアリス)』と『Alice Through The Looking Glass(鏡の国のアリス)』への愛を表明し、「1年に1回は読んでいる。未だに好きだからね」と語っている。そうなると、「セイウチと大工(The Walrus And The Carpenter)」という詩を書き、レノンの「I Am The Walrus」の歌詞に影響を与えた人物が、『Sgt. Pepper』のアルバム・ジャケットで目立つ位置にいるのも納得がいくだろう。
53: TE Lawrence(TEロレンス)『アラビアのロレンス Lawrence Of Arabia』(1962年)で映画化された人物。映画では、ピーター・オトゥールが彼の役を演じた。イギリスの考古学者で軍人だったTEロレンスは、1916年から1918年のアラブ反乱中、アラブ側の連絡役となった。1922年に出版された『知恵の七柱(Seven Pillars Of Wisdom)』は、戦時中の経験を詳述しており、彼の伝説の多くについて下地を作った。
54: Sonny Liston(ソニー・リストン)ビートルズはフロリダ州マイアミで1964年2月、伝説的ボクサーのカシアス・クレイと一緒に写真を撮ったことが良く知られている。しかし、『Sgt. Pepper』のジャケットに登場しているのは、ソニー・リストンの蝋人形だ。クレイはビートルズと写真を撮った同月、リストンを破り、ヘヴィーウェイト級ボクシング・チャンピオンとなった。リストンはクレイに敗北を喫するまで、1962年から1964年までヘヴィーウェイト級のタイトルを保持していた。なお、クレイはこの後、モハメド・アリへと改名する。
55: Petty Girl No.2(ペティ・ガール No.2)ぺティ・ガール No.1(No.38)と同様に、このペティ・ガールもジョージ・ペティによる絵画シリーズのひとつだ。
◇56, 57, 59 and 60: wax models of The Beatles(ビートルズの蝋人形)完璧なポストモダン・タッチで、ビートルズはビートルマニア時代の自身の蝋人形を加えた。蝋人形のビートルズは、ミリタリーでサイケデリックな衣装に身を包む現在のビートルズを見つめている。ジョン(No. 57)、ポール(No. 60)、ジョージ(No. 56)、リンゴ(No. 59)の蝋人形は、『Sgt. Pepper』の写真撮影のためにマダム・タッソー館から借りたものだ。
◇58, 71 and 73: Shirley Temple(シャーリー・テンプル)女優、歌手、ダンサーと、まさに三拍子揃ったシャーリー・テンプルは、30年代に子役スターとなった。彼女は『Sgt. Pepper』のジャケットに3回登場している。ジョン・レノンの蝋人形(No. 57)とリンゴ・スターの蝋人形(No. 59)の間から、髪の毛が出ているのが1回目、ダイアナ・ドース(No. 70)の前に立っているのが2回目、右端に入る「Welcome The Rolling Stones(ローリング・ストーンズを歓迎)」というスローガンの入ったセーターを着た布製の人形が3回目だ。
61: Albert Einstein(アルベルト・アインシュタイン)ジョン・レノン(No.62)の右肩の上に辛うじて見えるアルベルト・アインシュタインは物理学者で、彼の相対性理論は何光年も時代を先取りしており、世界を永久に変えた。
◎62, 63, 64 and 65: THE BEATLES (ビートルズ)ミリタリー・シック(もしくはミリタリー・サイクとでも言おうか?)なまばゆい衣装に身を包んだジョン(No.62)、リンゴ(No. 63)、ポール(No. 64)、ジョージ(No. 65)は、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮しており、それぞれがフレンチ・ホルン、トランペット、コー・ラングレ、フルートをこれ見よがしに持っているため、サイケデリックなブラス・バンドのように見える。アルバム・ジャケットと同様に、ビートルズが着用したサージェント・ペパーのコスチュームは、史上最高に象徴的なバンド・コスチュームのひとつに数えられるようになった。一目でそれとわかるコスチュームは、我々の文化の中へと永遠に織り込まれたのだ。
66: Bobby Breen (ボビー・ブリーン)シャーリー・テンプル(No.58, 71, 73)と同じく、ボビー・グリーンも30年代の子役スターだった。軍隊に入り、第2次世界大戦中は軍隊の慰問をした後、彼はナイトクラブ・シンガーとなり、1964年にはベリー・ゴーディのモータウン・レコードでシングル数枚をレコーディングした。
67: Marlene Dietrich(マレーネ・ディートリヒ)ビートルズと同じように、マレーネ・ディートリヒも絶えず自己改革をしてきた。20年代のベルリンで撮影されたサイレント映画から、30年代のハリウッド大作映画へと移行した後は、舞台で勝負するライヴ・パフォーマーとして活躍した。1963年11月、彼女はビートルズ出演回の『ロイヤル・ヴァラエティ・パフォーマンス(Royal Variety Performance)』に出演し、よく知られているようにビートルズと記念撮影をした。
68: Mohandas Karamchand Gandhi (モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー)非暴力の不服従と、イギリス支配からのインド独立運動を率いたことで知られるマハートマー・ガンディは、『Sgt. Pepper』のアルバム・ジャケットから最終的に姿を消した。ガンディの写真使用がインドの人々の怒りを招くかもしれないという懸念によるものだ。
69: Legionnaire from The Royal Antediluvian Order Of Buffaloes(ロイヤル・アンティディルーヴィアン・オーダー・オブ・バッファローズの兵士)1822年に創立されたロイヤル・アンティディルーヴィアン・オーダー・オブ・バッファローズは、現在もその活動を続けており、北アイルランド、キプロス、アフリカ、南アフリカ、インド、中東、オーストラリア、ニュージーランド、カナダに支部を擁している。同組織のモットーは「何時も賢い者はいない」というもので、今も会員と、死去した会員の扶養家族の世話をし、慈善事業を行っている。
70: Diana Dors(ダイアナ・ドース)イギリスのマリリン・モンロー(No.25)と称されたダイアナ・ドースが出演した作品の大半は際どいセックス・コメディだったが、後に歌の世界にも進出し、1960年の『Swinging Dors』が特に有名である。70年代に入ると、彼女はキャバレー・スターとタブロイド誌を賑わす人物として、彼女のキャリアは息を吹き返した。
◇71, 73 and 58: Shirley Temple(シャーリー・テンプル)女優、歌手、ダンサーと、まさに三拍子揃ったシャーリー・テンプルは、30年代に子役スターとなった。彼女は『Sgt. Pepper』のジャケットに3回登場している。ジョン・レノンの蝋人形(No. 57)とリンゴ・スターの蝋人形(No. 59)の間から、髪の毛が出ているのが1回目、ダイアナ・ドース(No. 70)の前に立っているのが2回目、右端に入る「Welcome The Rolling Stones(ローリング・ストーンズを歓迎)」というスローガンの入ったセーターを着た布製の人形が3回目だ。
72: Cloth grandmother figure(布製のグランマ人形)ピーター・ブレイクの妻で、『Sgt. Pepper』のアルバム・ジャケットの共同制作者でもあるジャン・ハワースが作ったグランマ人形は、彼女が布から作った人形のひとつだ。
◇73, 71 and 58: Shirley Temple(シャーリー・テンプル)女優、歌手、ダンサーと、まさに三拍子揃ったシャーリー・テンプルは、30年代に子役スターとなった。彼女は『Sgt. Pepper』のジャケットに3回登場している。ジョン・レノンの蝋人形(No. 57)とリンゴ・スターの蝋人形(No. 59)の間から、髪の毛が出ているのが1回目、ダイアナ・ドース(No. 70)の前に立っているのが2回目、右端に入る「Welcome The Rolling Stones(ローリング・ストーンズを歓迎)」というスローガンの入ったセーターを着た布製の人形が3回目だ。
74: Mexican Tree Of Life candlestick(メキシコの「生命の樹」ろうそく立て)伝統的に、メキシコの「生命の樹」の彫刻は。メヒコ州メテペク産で、聖書からの場面が描かれている。『Sgt. Pepper』のアルバム・ジャケットに写っている「生命の樹」は、ろうそく立てでもある。
75: Television set(TVセット)「生命の樹」のろうそく立て(No.74)が、ストーリーを語る伝統的な手法だとすれば、ソニーのTV9-306YBポータブルTVは、1967年時点で極めてモダンなストーリーテリングの道具だった。
◇76, 77 and 78: stone figures (石像)シャーリー・テンプル人形(No.73)の足元に見える石像(No. 77)とともに、少女の石像(No. 76)はジョン・レノン(No.62)とジョージ・ハリソン(No. 65)がアルバム・ジャケットに入れようと家から持ってきた像のひとつだ。石像の中で最も目立つのは、バス・ドラムの右側に置かれている胸像で、これはレノンが1964年から1969年まで住んでいたサリー州ウェイブリッジにあるジョンの自宅「ケンウッド」にあったもの。
79: Trophy(トロフィー)「BEATLES」の「L」の曲がった部分に置かれているトロフィーは、ジョン・レノン(No.62)が子どもの頃にもらった水泳のトロフィー。
80: Lakshmi doll(ラクシュミー人形)アルバム・ジャケットの中心に置かれているのは、インドの女神で富、幸運、繁栄を司るラクシュミーの人形だ。
81: Sgt. Pepper drum skin(サージェント・ペパーのドラムヘッド)有名なサージェント・ペパーのドラムヘッドは、フェアグランド・アーティストのジョー・エフグレイヴがデザインした2種のうちのひとつ。2番目のデザインは、よりモダンなレタリングが使われており、バス・ドラムの逆側に付けられていた。こうして写真撮影中、バンドにドラムヘッドのオプションが2つ与えられたのである。
82: Hookah(フーカー/水パイプ)インドを起源とするフーカーはタバコを吸う道具で、水を通った後の煙を吸うようにデザインされている。『Sgt. Pepper』のアルバム・ジャケットに入ったのは、ジョージ・ハリソン(No. 65)のインド愛と、ジョン・レノン(No. 62)のルイス・キャロル愛を鑑みたものだ。(『不思議の国のアリス(Alice’s Adventures In Wonderland)』に登場するイモムシは、フーカーを吸う。)
83: Velvet snake(ヴェルヴェットの蛇)ソニー・リストン(No.54)の下に置かれた紫色のヴェルヴェットの蛇は、おそらくジャン・ハワースが布で作った作品のひとつだろう。
84: Fukusuke statue(福助人形)大きな頭と耳が特徴の福助人形は日本に由来し、幸運をもたらすと言われている。
85: Stone figure of Snow White(白雪姫の石像)福助人形(No.84)の前にあるのは、『グリム童話(Grimms' Fairy Tales)』の白雪姫像。
86: Garden gnome(ガーデン・ノーム)「BEATLES」のBの左側に辛うじて見えるのは、よくあるガーデン・ノームだ。19世紀のドイツで生まれた。
87: Tuba(チューバ)ビートルズの各メンバー(Nos.62, 63, 64, 65)が抱えているフレンチ・ホルン、トランペット、コー・ラングレ、フルートと同様、チューバもブラスバンドの演奏には欠かせない楽器だ。
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https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
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『SGT:PEPPER'S』を可能にした10の事
2017(平成29)年05月15日(月) STORIES Written by Laura Stavropoulos
『Sgt. Pepper』はザ・ビートルズのカタログにおいても、人々の記憶においても唯一無二の地位を占める作品である。あなたの音楽的な傾向にかかわらず、一般的に、音楽、文化、両面にとってこのアルバムの影響力が非常に巨大なものであることは否定できない。歴史は、サージェント・ペパーズ以前と以後で分類されるのだ。そのリリースを直に体験したことのない人々にとっては、『Sgt. Pepper』へのなじみは軽減されているだろう。かつては広く革新的であり、大いに新しいものであったものが、今や“クラシック・ロック”に分類されるからだ。それにもかかわらず、『Sgt. Pepper』はロックを“尊敬すべき”アート・フォームたらしめ、その評判は、その後何十年にわたって聞かれることとなる。『Sgt. Pepper』は1967年にしか生まれえなかったものかもしれない、それを理解するには、文化と音楽の間の共生関係を理解しなくてはならない。このアルバムの50周年を記念して、ザ・ビートルズ史上もっとも、褒め称えられた功績へと導いた周囲の状況を考察してみよう。
01:60年代カウンターカルチャー■カウンターカルチャーの精神は、『Sgt. Pepper』以前に、一足早く姿を現していた。ボブ・ディランが彼の伝説的な2枚組アルバム『Blonde On Blonde』をリリース、一方で、ブライアン・ウィルソンは、ザ・ビーチ・ボーイズで『Pet Sounds』を制作した。一見したところ、すべてのアーティストが創造的にフル回転しており、その1年間に及ぶ、凄まじいリリースのペースは異例なものであった。アメリカの両海岸、そして、イギリスにおいて、アーティストは各々刺激しあい、次々に何か新しいものが創作されるなど、文化的な交流が開放されていた。ジョン・レノンの指摘によると、ザ・ビートルズがカウンターカルチャーを作り上げたわけではない、しかし彼らが最も周知されたシンボルであることは間違いない。「僕らがみんなのヘアスタイルを変えたなんてほんの微々たることだろ?だけど、僕らは何らかの影響を受けたんだ、そこに漂っているすべてにね」とジョン・レノンは語った。「僕たちは60年代のすべての一部だよ。それは自然に起こったことだ。僕らはストリートで起きていることを代表するためのひとつとして選ばれただけ」。『Sgt. Pepper』は60年代文化の反体制的な本質を捉えたものではない一方で、音楽、ヴィジュアル・アート、歌詞のイメージといった点において、その寛容性を定義していた。ボードビリアン的な「Being For The Benefit Of Mr Kite!」から 「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」のスポークン・ワード、そして、「A Day In The Life」のフル・オーケストレイションまで、それらは、前衛的芸術とポップ・ミュージックの境界線をあいまいなものとしたのだ。
02.カリフォルニアのサイケデリックなバンドのバンド名■東海岸、特にサンフランシスコのシーンで起きていること夢中になり、ポール・マッカートニーはバンドの名前の最近の流行は、革命的に長く、そしてより想像力に富んだものであることに気が付いた。もはやザ・ビートルズ、ザ・バーズ、ザ・キンクスといったものではなく、それらは突然、ローター・アンド・ザ・ハンド・ピープル、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー、そしてジョン・レノンの提案(*訳注:インタビューにおける発言)の“フレッド・アンド・ヒズ・インクレディブル・シュリンキング・グレイトフル・エアプレインズ”といったものになった。バンドはパロディの偽名を無造作に口にしながら、ザ・ビートルズという名前を忘れるアイディアをうみだし、それ自身に新しいアイデンティティを創造していった。
03:オルター・エゴ(別人格)の採用■この時点までに、ザ・ビートルズの人気は、成層圏に届くレヴェルに達していた、そしてザ・ビートルマニアはバンドの音楽自体を曇らせてしまうほどだった。バンドは、彼らのモップの様な髪型の時代のイメージからの解放を求めており、それがオルター・エゴという未踏の地への探検へと導いたのだ。後にポール・マッカートニーは、「自分たちのアイデンティティを失うというのは素晴らしく思えたんだ、偽のグループのペルソナに、自分たちを隠してね」と思い出して語った。そして、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドは生まれたのだ。この流動的なアイデンティティという考えは、カウンターカルチャーの若者たちにの心に強く響いた。もはやその人の将来すべては出自で決定するものではなく、自己改革はシンプルに行うことにできるのだ。
04:ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』■ジョージ・マーティンとポール・マッカートニーは、ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』を公に褒めちぎっており、『Sgt. Pepper』にとって、影響力を与えたものであったと公言している。ジョージ・マーティンはもしもブライアン・ウィルソンとザ・ビーチ・ボーイズがこの名盤を制作しなかったならば、「“Sgt. Pepper”は生まれなかっただろう」と語っており、ポール・マッカートニーは、「このアルバムにおける音楽的改革は、ただ‘ワオ!’という感じだよ。僕にとってはとても大きなことだった。しまった、これは最高傑作だ。いったい僕らは何をやってるんだ?って思ったね」と語った。しかし一方『Pet Sounds』は永続的なローテーションの中にあった、この作品はブライアン・ウィルソンがザ・ビートルズの『Rubber Soul』に影響を受けなければ、生まれなかったからだ。そして、このサイクルは続いている。
05:フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『Freak Out!』■もし、ブライアン・ウィルソンが、ポップな側面に助言を与えたとしたら、フランク・ザッパは、ザ・ビートルズにより革新的であるようにと後押ししたといえるだろう。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの1966年のデビュー・アルバム『Freak Out!』は、ネオクラシカルなオーケストレーションとジャズの即興性を合体させ、カウンターカルチャー的な政治が内包され、また、単なるLPフォーマットを、コンセプチュアルな声明へと変化させた最初ともいえる作品であった。『Pet Sounds』も『Freak Out!』も、ロックとは、スタジオ・プロデューサーのメディアであるだけでなく、パフォーマンス・アートであることを証明したのだ。『Freak Out!』がLAのフリーク・カルチャーにおける宣言であったならば、『Sgt. Pepper』はサンフランシスコのヒッピーたちのサブカルチャーの高尚な宣伝といえるだろう。
06:ツアーをやめたこと■オルター・エゴの採用を決定する前、ザ・ビートルズは、ツアーをやめることを決めた。不便さを別にしても、熱心なファンや、ジョン・レノンのキリスト教を冒涜するように見える発言を受け入れない好ましくないオーディエンスのおかげで、ツアーはバンドにとって物理的に危険なものになっていた。1966年8月29日に、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われた彼らのパフォーマンスが、1969年の有名なアップル・ルーフトップ・パフォーマンスを別にして、最後のコンサートとなった。それぞれに自分のやり方で逃避していたメンバーが、1966年11月にふたたび集まった時、彼らは、ワーキング・バンドであることよりも、よりコンセプチュアルなアイディアと共にあることへと変化することを決めた。彼らの曲の中で、民主的にヴォーカルと楽器のパートを分け合わなければ、彼らはお互いの強みにより自由でいることができ、また、完璧に近いところまで成し遂げるために、スタジオで(音を)いじくりまわすことができたのだ。リンゴは『Anthology』のブックレットの中で、バンドの考えを総括して語った、「ツアーをやめると決めた後、僕らはわずかなことを気にせずに済むようになった。『Revolver』や『Rubber Soul』を聴けばわかるように、僕らはスタジオでより楽しめるようになった。スタジオから引きずり出されて、ツアーに出る代わりに、(スタジオで)時間を費やせるようになったし、リラックスできたんだ」。
07:スタジオにおける実験とジョージ・マーティン■アビィ・ロードにおけるセッションの間に、ザ・ビートルズは彼らのビートルマニアの章の幕を閉じ、スタジオ・イヤーズともいえる章の幕を開けたのだ。何年もの間、多くのロックとポップはある程度ライヴで演奏ができるように制作されていた。レコーディング・プロセスがどうかというと、大まかなやり方は、ライヴ・パフォーマンスを録音する、もしくは再構築するといったものだった。しかし、ジョージ・マーティンと・ザ・ビートルズは、彼らの奇抜な考えで、それらをひっくり返したかった。ジョージ・マーティンが語ったところによると、「テープでしかできない何かをテープの中に落とし込みたかったんだ」ということだ。彼はプロデューサー以上の存在であり、ザ・ビートルズ・サウンドの建築家であり、グループにより前衛的なタイプのレコーディングを経験させ、彼らの視野を広げるアイディアに触れさせた。
08:技術的制限■当時のスタジオ技術を使用して、ジョージ・マーティンとザ・ビートルズが成し遂げたことは、並外れたことであり、それが、『Sgt. Pepper』を印象的なものにしている。すべての素晴らしいアイディアのように、逆境は、創意あふれるアイディアの源である。1967年までに、マルチ・トラック・レコーディングは業界のスタンダードになっていたが、エイト・トラック・テープ・レコーダーは、アメリカではありふれたものであったが、イギリスでは、1967年後半まで、そうではなかった。アルバムにおけるサイケデリックなサウンド・エフェクトの大半は、ヘッドフォンをマイクとして利用したり、マイクをスタジオにある様々なものとつなげたりする独創的なアイディアや他の創意あふれる工夫によって、作り上げられた。
09:東洋的神秘主義■ザ・ビートルズは、他の西洋世界と同様に、インドの音楽の伝統、精神性、文化に夢中になっていった。その影響は、『Rubber Soul』収録の「Norwegian Wood」のころから感じられる、そして、特に、『Revolver』収録のジョージ・ハリスンによる「Love You To」では色濃く感じられる。ジョージ・ハリスンのインド音楽への興味は一生かけての情熱として花開いた。『Sgt. Pepper』のセッションが始まる前、ジョージ・ハリスンはボンベイへ、ラヴィ・シャンカールのシタールのレッスンを受けるために旅立った。結果として、東洋に染まった「Within You Without You」が生み出され、「Lucy In The Sky With Diamonds」のバックの音色にもそれは現れている。
写真◆George Harrison Ravi Shankar Credit: Michael Ochs Archives/Getty Images
10:音楽業界のトレンドを無視した■1966年までに、次々と巨大なヒットを蓄積しており、
1966(昭和41)年12月31日(土)までに、アルバム『Revolver』はアメリカだけで、1,187,869枚売り上げていた。彼らの成功は、自身をソングライティング、楽器/機材の使用において新しいアプローチを試みることのできるポジションへと押し上げていた。彼らは、それぞれのアルバムで、ロック・ミュージックが許容しうる定義を広げて、またあらゆるジャンルのファンにリーチすることができる能力は、メインストリームへのアピールを残しつつも、彼らに違うスタイル、楽器での演奏を可能にした。ポピュラー音楽の思いつきを通過しそれにこたえてこなければ、ザ・ビートルズはダンス・ミュージックやラジオ・フレンドリーなシングルを作ることを避けることができただろう。その代わりに、彼らはロックのスタンダードを上げ、その後すぐに頭角を現すプログレッシヴ・ロックや、アートロックの未来を切り開いたのだ。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/10-things-that-made-sgt-pepper-possible
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『SGT:PEPPER'S』が後世に与えた影響
2017(平成29)年06月12日(月) STORIES Written By Martin Chilton
こと実験性という意味においては、1967年以降現在までの半世紀の間に生まれたポピュラー・ミュージックの大部分が、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(以下『Sgt Pepper』)に借りがあると断言しても決して言い過ぎではないだろう。ザ・ビートルズのサウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、そしてカヴァー・アートにおける極めてユニークな冒険が、たちまちのうちに大きなインパクトをもたらし、英国の全レコード・リリース史上最大のセールスを記録するに至ったこのアルバムが世に出たのは、
‡1967(昭和42)年06月01日(木)のことだった。
1967(昭和42)年06月04日(日) リリースから僅か3日後、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターでのショウのオープニングを、(『Sgt Pepper』の)アルバム・タイトル曲のカヴァーで飾った。折しも客席に居合わせたポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはこの時、自分たちが何かとんでもなくスペシャルなものを作り上げたことを悟ったに違いない。それから5カ月も経たないうちに、ジェファーソン・エアプレインが、実験的な『Sgt Pepper』の影響色濃い『After Bathing at Baxter’s』をリリースする。これは彼らが同じ年にリリースしていた前作の『Surrealistic Pillow』とは全くかけ離れた作風のアルバムだった。ザ・ムーディ・ブルースもいち早く新たな音楽的視界の受け容れを表明したバンドである。67年11月、彼らがリリースした『Days Of Future Passed』はロンドン・フェスティヴァル・オーケストラの力を借り、ザ・ビートルズの影響を強く感じさせるサイケデリック・ロック/クラシック・サウンドを作り上げた。
1967(昭和42)年12月08日(金)には、ザ・ローリング・ストーンズが『Their Satanic Majesties Request』をリリースする。このアルバムは『Sgt Pepper』に対するシニカルなサイケデリック的回答と評価され、キース・リチャーズもこう認めている:「あれは、結局何とも中途半端なもんになっちまったな。ちょうどストーンズが新しいアルバムを出そうとしてた時に、『Sgt Pepper』が出てきて、要するに俺たちはあれのパロディーをやらかそうと考えたわけだ」。この他にも、ザ・ビートルズによって具現化されたアルバムには枚挙のいとまがなく、1968年のブリティッシュ・ロック・グループ、ザ・プリティ・シングスによる『SF Sorrow』から、一年後にはキング・クリムゾンが『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』で明らかにそれと分かるオマージュを捧げた。ギタリストでありプロデューサーでもあるロバート・フリップは、ラジオ・ルクセンブルグで耳にしたジョン・レノンとザ・ビートルズの他のメンバーたちに触発され、かの歴史的プログレ・ロック・アルバムを作る着想を得たのだそうだ。「『Sgt Pepper』を聴いてから、私の人生は一変したんだ」、ロバート・フリップはそう言って憚らない。ザ・ビートルズはカウンターカルチャーの価値観をメインストリームに持ち込んだ。“ロック・アルバム”かくあるべし、という伝統的な不文律を破ることで、『Sgt Pepper』は他のアーティストたちに、それまでになかった新しいアイディアとアティテュードによる音楽へのアプローチを促したのである。レコードのプロダクションにおいても、このアルバムは専門的技術と革新性において新たな基準となった。ザ・ビートルズのファースト・アルバム『Please Please Me』は、全曲を実に僅か1日、約10時間で録音完了させたものだったが、『Sgt Pepper』は1966年11月から1967年4月まで、トータル約700時間の作業(プロデューサーのジェフ・エメリック談)が注ぎ込まれていた。レコードが完成するまでレコーディング作業を続けるという考え方(ただ単にスタジオを数日借りるということではなく)は革命的なコンセプトであり、プロデューサーのジョージ・マーティンによれば、‘道具としてのスタジオ’の定義を見直すきっかけにもなった。結果としてアビィ・ロード・スタジオの使用料総額が、当時としてはケタ外れの25,000ポンドに達したのも当然の成り行きだろう。更に画期的だったのはマルチ・トラックを使っての録音作業で、ジョージ・マーティンはその利点を駆使して西洋の音楽とインド音楽、ジャズ、そしてサイケデリック・ロックやポップ(ヴィクトリア時代のミュージック・ホール《訳注:ヴォードヴィル的演芸要素を含む軽音楽劇》をたっぷりと加えて)との融合を図り、声とインストゥルメンテーションによるめくるめくサウンド・コラージュを作り上げた。ポール・マッカートニーは『Sgt Pepper』が音楽カルチャーに‘大いなる違い’をもたらした理由のひとつとして、それ以前は「みんなポピュラー・ミュージックの枠の中で、少しばかり無難な方に寄っていたんだけど、僕らはふと気づいたんだよ、別にそうする必要なんかないんだってね」と語っている。『Sgt Pepper』は時に、史上初のコンセプト・アルバムとして称えられることがある。これは必ずしも的を射た表現とは言えないが(ドラマーのリンゴ・スターは、アルバムには首尾一貫したテーマは存在しないことを公式に認めており、レコーディング作業開始直後のセッションから生まれた2つの名曲、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」はそれぞれシングルとして出すことを前提に録音されたものだったと証言している)、世の人々はかの作品を‘コンセプト’・アルバムと信じて疑わず、その定義はもはや音楽界の民間伝承と化しているのだ。ザ・ビートルズに影響を受けたバンドには、ジェネシス、イエス、ラッシュ、ジェスロ・タルまで含まれており、彼らの独創的なアルバムは、空前の“ロック・オペラ”熱をも巻き起こすきっかけとなった。驚異的成功を収めたザ・フーの2枚組アルバム『Tommy』(1969)も、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーによる『Jesus Christ Superstar』(1970)も、根元をたどれば『Sgt Pepper』という大木に行き着くのだ。ザ・ビートルズが変化の引金を引いたのは、何もロックの輪に限ったことではない。カーラ・ブレイはこのアルバムを聴いて、「これに負けないようなアルバムを作ってやる」と心に決め、それからの4年間を費やし、リンダ・ロンシュタットをフィーチャーして作り上げた前衛ジャズのトリプル・アルバム『Escalator Over The Hill』を1971年に世に送り出した。『Sgt Pepper』はまた、音楽上の第二の自我(ルビ:オルター・エゴ)という考え方を一般的に知らしめた。いつもの日常から一歩踏み出し、ステージの上やレコードの中では別のペルソナをまとっても差し支えないという発想は、「解き放たれたように感じさせてくれた」とポール・マッカートニーは言い、この冒険はやがてデヴィッド・ボウイやグラム・ロック時代のKISSをはじめとする多くのアーティストたちを巻き込んでいくことになる。もっとも、すべての人が『Sgt Pepper』を手放しで、何もかも超越した天才的作品と褒め称えたわけではなく、かのアルバムにインスピレーションを得て生まれた作品の中には、寧ろその逆に近い反応もあった。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションがヴァーヴ・レコードから1968年にリリースした『We’re Only In It For The Money』(*訳注:直訳すると「俺たちはただ金のためにやってるだけだ」)は、アルバム・カヴァーからして『Sgt Pepper』のパロディで、その政治的スタンスと、60年代後期のカウンターカルチャーの心臓部と思われていた、いかにもインチキ臭い“ヒッピー的”価値観を痛烈に諷刺した。ザ・ラトルズは『Sgt Pepper』ならぬ『Sgt Rutler’s Only Darts Club Band』というパロディ・アルバムを出し、子供向けTV番組の『セサミ・ストリート』までもが、‘With A Little Yelp From My Friends’という曲をレコーディングした。しかし、ザ・ビートルズがこのアルバムで切り拓いた新たな道は、実は音楽だけに留まらなかった。フロントの眩惑的なヴィジュアルは、アルバム・カヴァーがモダン・アート作品になり得ることを確信させたし、アルバムのパッケージの一部に全収録曲の歌詞をすべて完全な形で組み込んだ、最初のロック・アルバムともなったのである。マイケル・クーパーの撮影による写真では、バンド・メンバー全員が揃いのサテンのスーツ姿で、画家のピーター・ブレイクと彼の当時の妻ジャン・ヘイワースが制作したメイ・ウェスト、オスカー・ワイルド、ローレル&ハーディ、それにW.C.フィールズといった歴史上の人物たちの段ボールのコラージュの前に立っている。これは60年代サイケデリック時代全体を通じて、最も不朽のイメージのひとつだろう。『ザ・シンプソンズ』をはじめ、このカヴァーは愛情をこめて何百回と真似されてきた。2016年には、英国の芸術家クリス・バーカーが、レナード・コーエン、プリンス、フットボール選手のヨハン・クライフ等、同年惜しまれつつ亡くなった各界のスターたちをキャスティングした新たなヴァージョンを発表している。アルバム全体と同様、『Sgt Pepper』は曲単位でも数え切れないほど多くのカヴァー・ヴァージョンを触発している。特によく知られているのは♪Lucy In The Sky With Diamonds♪ エルトン・ジョン ♪With A Little Help From My Friends♪ ジョー・コッカー他、ハリー・ニルソン、ファッツ・ドミノ、ブライアン・フェリー、ジェフ・ベック、ソニック・ユース、アル・ジャロウ、ビリー・ブラッグ、そしてビリー・コノリーに至るまで、実に多くの優れたカヴァーが世に出ているのだ。20世紀の音楽の傑作に対するトリビュートは、1995年のスマッシング・パンプキンズの後も、世紀をまたいでなお続いている。カイザー・チーフスは1967年のレコーディング時にエンジニアを務めたジェフ・エメリックの手による2007年のトリビュート・アルバムのために、「Getting Better」のカヴァーを提供した。ブライアン・アダムスも参加したこの『Sgt Pepper』のニュー・ヴァージョンの録音に際し、ジェフ・エメリックはオリジナルのレコーディングで使用されたのと全く同じ機材を使っていた。アメリカのバンド、チープ・トリックは、2009年のライヴ・アルバムでフル・オーケストラをフィーチャーしたヴァージョンを披露し、更に2011年にはアメリカ人ギタリストのアンディ・ティモンズが、1970年に別のザ・ビートルズのアルバム、『Abbey Road』の全曲カヴァーを出した例に倣うように、全曲インストゥルメンタルのカヴァー・アルバムを出している。『Sgt Pepper』が何故こんなにも絶大な影響力を持っているのかを恐らく最も的確に総括してくれるのは、ロジャー・ウォーターズの言葉だろう。ピンク・フロイドの1973年の名作『The Dark Side Of The Moon(狂気)』の構想に、このアルバムがいかに大きな役割を果たしていたかについて、彼はこう説明している:「俺はレノン、マッカートニー、そしてハリスンから、俺たちの人生について書いてもいいんだ、感じたままを表現していいんだと教わったんだ ……あれは他のどんなレコードよりも、俺と俺の同世代たちに、思い切って既定路線を外れて、何でもやりたいことをやっていいんだって許可を与えてくれたんだよ」。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
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