音源◆The Beatles - Live At The Star☆Club, December 1962 https://youtu.be/eJbAMYcNxbE
The Star☆Club, Hamburg (Germany), December 1962 The Beatles at The Star Club concerts are the earliest known complete live concerts of The Beatles. The recordings were made by the Star-Club's stage manager Adrian Barber, during The Beatles' third and final residency at the venue. Barber used a 3?" per second Grundig home tape machine to record the group, with a single microphone placed at the front of the stage. Although commonly believed to have been recorded on New Year's Eve 1962, the songs were actually taped on more than one night during the residency, which took place from 18 to 31 December 1962. The Beatles' early booking agent, Allan Williams, claimed that around three hours of performances were recorded between Christmas and New Year's Day.
Track Listing:
01. I Saw Her Standing There [0:00]
02. I'm Going To Sit Down And Cry [2:36]
03. Roll Over Beethoven [5:20]
04. The Hippy Hippy Shake [7:34]
05. Sweet Little Sixteen [9:21]
06. Lend Me Your Comb [12:06]
07. Your Feet's Too Big [13:55]
08. Where Have You Been All My Life [16:15]
09. Twist And Shout [18:01]
10. Mr. Moonlight [20:05]
11. A Taste Of Honey [22:29]
12. Besame Mucho [24:25]
13. Everybody's Trying To Be My Baby [26:34]
14. Kansas City/Hey-Hey-Hey-Hey! [29:33]
15. Nothin' Shakin' (But the Leaves on the Trees) [32:05]
16. To Know Her Is To Love Her [33:33]
17. Little Queenie [36:47]
18. Falling In Love Again [40:51]
19. Sheila [42:53]
20. Be-Bop-A-Lula [44:55]
21. Hallelujah, I Love Her So [47:22]
22. Ask Me Why [49:31]
23. Red Sails In The Sunset [52:08]
24. Matchbox [54:55]
25. I'm Talking About You [57:39]
26. Shimmy Like Kate [59:40]
27. Long Tall Sally [1:01:56]
28. I Remember You [1:03:43]
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┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1960(昭和35)年12月27日(火) ライヴ演奏:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール
②1961(昭和36)年12月27日(水) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜) /リヴァプール
③1962(昭和37)年12月27日(木) ライヴ演奏:スタークラブ/ハンブルグ (09日目)
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①1960(昭和35)年12月27日(火) ライヴ演奏:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール
‡1960(昭和35)年12月27日(火) この日に、ビートルズはリヴァプールのリザーランド・タウン・ホール (Litherland Town Hall) で公演した。この時のビートルズのラインナップは、ジョン、ポール、ジョージ、ピート、それにハンブルグに残ったスチュアートの代用で、チャス・ニュービー (Chas Newby) がベースで参加している。 彼らが最初のハンブルグ滞在から帰還したことを受けて、「お帰りなさい (Welcome Home)」と広告ビラに記されたこのショーは、ビートルズの名をリヴァプールのライヴバンドのトップに躍進させる突破口となった。
ジョン・レノン『ANTHOLOGY』まったく突然に僕たちはスターになっていた。いいかい、観客の70%は僕らをドイツ人のスターだと思ったんだ。しかしまあそれは気にしなかった。リヴァプールにおいてでさえ、人々は僕らが地元の人間だとは知らず、ハンブルグから来たと思っていたんだ。彼らは言った「なんと!奴らはいい英語を話すじゃないの!」そりゃそうだよね。英国人なんだから。 僕らが本当に殻を破って外に出たのは、あの夜だった。ステージに立って祝福を感じたのはそれが初めてだった。以来、僕らは「自分たちはいい」と考え始めた。ハンブルグまでは「自分たちは悪くはない」と思っていたが、決して「いい」とは思わなかったんだ。他のみんながクリフ・リチャード (Cliff Richard) を真似ている間に、僕らには変化が起こり、他のミュージシャンとの違いが現れた。でもそれはリヴァプールに帰って初めて分かったんだ。
ビートルズはこのリザーランド・タウン・ホールで、少なくとも20回の公演を行っていて、いつも熱烈な観客を集めた。しかし彼らにとってこの日ほどの重要性を持つショーは他になかった。 この日のブッキングは、マネージャーのアラン・ウィリアムズ (Allan Williams) がビートルズに紹介したボブ・ウーラー (Bob Wooler) によって手配された。彼は後にキャバーン・クラブ (Cavern Club) の館内DJになっている。
ジョージ・ハリスン『ANTHOLOGY』僕たちに演奏の仕事が来た。アラン・ウィリアムズが、ダンスホール巡業の司会をやっているボブ・ウーラーという奴を僕らに紹介した。彼は僕らを一晩駆り出して「ハンブルグ直送 ザ・ビートルズ!」という広告ポスターを作った。実際僕らはドイツ人ぽく見えたのかもしれない。他のグループとは違って革のジャケットを着ていたからね。見た目が風変わりだったし演奏も風変わりだった。僕らは爆弾を落としたんだ。
ボブ・ウーラーは28歳のディスクジョッキー/司会者で、アラン・ウィリアムズがリヴァプールに出店したトップ・テン・クラブ (Top Ten Club) で少し働いていた。この名前はビートルズが出演する予定だったハンブルグのクラブの名から取っている。このクラブは開店後わずか1周間で不審火による火事で焼失してしまい、ウーラーは失業する。 ウーラーと知り合ったビートルズは、彼に演奏の仕事を企画できるかと尋ねた。その頃のビートルズは、彼らの初めてのハンブルグ滞在が、ジョージの国外追放やポールとピートの逮捕など、嬉しくない事件で帰国を余儀なくされたため、意気消沈のムードだった。 ウーラーはプロモーターのブライアン・ケリー (Brian Kelly 通称:BK) に連絡を取った。ウーラーは時折、ケリーが主催するビーケイ・ナイツ (Beekay nights) というショーで司会をやっていたのである。ケリーは乗り気でなかった。ビートルズは昨年の5月、先約であるケリーとの契約を無断ですっぽかして、ジョニー・ジェントル (Johnny Gentle) とツアーに出ているからである。しかしながら最終的には、ビートルズがリザーランド・タウン・ホールでのショーに出演することを認め、6ポンドの出演料を払うことに合意した。宣伝ポスターにはビートルズの他に、ザ・デル・リーナス (The Del Renas)、ザ・サーチャーズ (The Searchers)、ザ・デルトーンズ (The Deltones) の名もあった。 ビートルズ出演の決定は遅かったため、彼らの出演の広告が十分でなかった。そのためケリーは他に自分が所有するレーサム・ホール (Lathom Hall) やアレクサンドラ・ホール (Alexandra Hall) などのショーで、彼らの出演を宣伝した。またすでに刷り上がっていたポスターに「ハンブルグ直送 ザ・ビートルズ!」の文字を加えて修正している。
ポール・マッカートニー『ANTHOLOGY』僕らは全員、ハンブルグにいた時に採用した黒い服を着た。リヴァプールの女の子はみんな言ってた「ドイツから来たの?」「ドイツから来たって新聞で見たわ!」
当時ビートルズはリヴァプールの北部ではほとんど知られておらず、リザーランドの常連客のほとんどは彼らをドイツ人のグループだと思っていた。ハンブルグでの長時間の演奏で得た経験と音楽的技量の蓄積は、ついにその利子を払い始めようとしていた。オープンニング・ナンバーの「のっぽのサリー (Long Tall Sally)」を演奏し始めたその瞬間から、ビートルズは観客を感電させた。そしてその反響の波が自然に起こり、ステージに寄せ返した。
ピート・ベスト ⇒ リザーランドはビートルズ開運の爆発だった。僕らは1500人ほど収容できるダンスホールでダンスのための音楽を演奏していたんだ。しかし僕らが演奏を始めると、彼らはダンスを止めた。そして群衆は僕らの近くに攻め寄せて来て、僕らの動きをじっと観察し始め、さらには金切り声を張り上げて叫び始めた。人々は悲鳴をあげるためにダンスにいくわけじゃないから、これはニュースだった。
このショーの終了直後、ブライアン・ケリーはその後の一連のショーに、1回6~8ポンドでビートルズをブッキングする。他のプロモーターが彼らと契約するのを阻止するためである。ビートルズのリヴァプールでの名声は、ただの一晩で出来上がった。このリザーランド・タウン・ホールに初出演してから後、彼らは献身的な地元の従者と、すべてのショーを観覧する多くのファンを従えることになった。これ以降、彼らは決してうしろを振り返ることは無かった。
③1962(昭和37)年12月27日(木) ライヴ演奏:スタークラブ/ハンブルグ (09日目)
ビートルズのドイツ・ハンブルグへの遠征は5回目、そしてこれが最後のものとなる。過去においては1960年8月~11月にインドラ・クラブ (Indra Club) とカイザーケラー (Kaiserkeller)、1961年4月~6月にトップ・テン・クラブ (Top Ten Club)、1962年4月~5月と11月にスター☆クラブ (Star-Club) に出演していた。スター☆クラブはドイツ・ハンブルグのセント・パウリ (St. Pauli) 区のグローセ・フライハイト (Grosse Freiheito) 39番に、
1962(昭和37)年04月13日(金)に開店している。カイザーケラー (Kaiserkeller) で用心棒を努め、後にトップ・テン・クラブ (Top Ten Club) に引抜かれたホルスト・ファッシャー (Horst Fascher) が、マンフレッド・ヴァイスリーダー (Manfred Weissleder) と共同経営者で、ホルストとビートルズは親友であった。
1962(昭和37)年12月31日(火)までのこの滞在中、クリスマスの夜を除く13日間で演奏時間は延べ39時間となった。彼らは1周間一人当たり750ドイツマルク (67ポンド) の報酬を受け取った。
1962(昭和37)年12月までにビートルズのイギリスでの業績は確実に上昇の波に乗っていた。彼らのデビューシングル『Love Me Do』はヒットチャートで好成績を上げ、それに続く2枚目のシングル『Please Please Me』もすでにレコーディングを完了していた。またブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) のマネージメントは、長い間欠けていたプロ気質を彼らに与えた。彼らのイギリスでの評判が急速に高まっていたため、彼らはこの契約義務の履行に気が乗っていなかった。故郷では自曲をヒットチャートに乗せ、ライヴショーでの名声、TVやラジオ番組への出演などを彼らはを楽しんでいたのであった。彼らがハンブルグやその人々に対して持っている親愛にもかからわず、今やこの町が彼らのキャリアに貢献できることはほとんど無くなっていたのである。このドイツ滞在中に録音されたビートルズの演奏が、1977(昭和52)年に2枚組の『Live! at the Star-Club in Hamburg, Germany; 1962』でリリースされている。これはスター・クラブのステージマネージャー、エイドリアン・バーバー (Adrian barber) が、ミュージシャンのテッド・キングサイズ・テイラー (Ted 'Kingsize' Taylor) の要請により録音したものである。バーバーはグルンディッヒ (Grundig) の家庭用オープンリール・テープレコーダーと1本のマイクを使った。一般的には
1962(昭和37)年12月31日(火)の演奏の録音と受け止められているが、クリスマスから大晦日にかけての複数日の録音が混在している可能性が高いという。
④1961(昭和36)年10月19日(木) ライヴ演奏:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール
ビートルズは、ハンブルグに滞在を終えた後イギリスに戻り、
‡1960(昭和35)年12月27日(火)にリザーランド・タウン・ホール (Litherland Town Hall) で行われた帰国公演で記念碑的な大成功をおさめている。この日は、彼らのそのホールへの18度目の出演であった。この夜のショーはブライアン・ケリー (Brian Kelly) によって主催された。北リヴァプールのあらゆる会場で、彼の率いるビーケー・プロモーション社 (Beekay Promotion) の企画するイベントが催されていた。この日の他の出演者には、ジェリー&ザ・ペースメーカーズ (Gerry & The Pacemakers)、それにリヴァプールのもう一つのトップ・ビート・グループである、カール・テリー&ザ・クルーザーズ (Karl Terry & The Cruisers) がいた。この夜はビートルズとペースメーカーズがステージで共演して『ビートメーカーズ (The Beatmakers)』になったらどうかという提案があった。そこでジョージがリードギター、ポールはリズムギター、ピートとフレディ・マースデン (Freddy Marsden) は二人でピートのドラムセットを叩き、レス・マグワイア (Les Maguire) はサキソフォン、レス・チャッドウィック (Les Chadwick) がベースギター、ジョンはピアノを弾き、ジェリー・マースデン (Gerry Marsden) がリードギターとヴォーカル、カール・テリーもヴォーカルを取るという、豪華な(?) 共演が実現した。ビートルズはリザーランド・タウン・ホールに20回出演している。
1961(昭和36)年11月09日(木)にリザーランド・タウン・ホールでの最後のショーは行われる。
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①http://gejirin.com/beatles/history/1960/19601227_live_litherland_town_hall.html
②http://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
③http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621218-2_live_StarClub.html
③写真集◆http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621231_Hamburg_photos1.html
④https://gejirin.com/beatles/history/1961/19611019_live_litherland.html
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┃ THE BEATLES HISTORY ┃|December 27|361
┃ ザ・ビートルズの今日の出来事 ┃|12月27日|
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1961(昭和36)年12月27日(水) キャバーン・クラブの夜の部に出演。この夜は「ビートルズ・クリスマス・パーティ」として告知された。
1963(昭和38)年12月27日(金) ブライアン・エプスタイン企画・主催の「ビートルズ・クリスマス・ショー」の3日目の公演がロンドンのアストリア・シネマで開催される。コメディ、パントマイム等のパフォーマンス、演奏と様々な要素で観客を楽しませた。
演奏コーナーでのセットリスト
♪Roll Over Beethoven♪
♪All My Loving♪
♪This Boy♪
♪I Wanna Be Your Man♪
♪She Loves You♪
♪Till There Was You♪
♪I Want To Hold Your Hand♪
♪Money (That's What I Want)♪
♪Twist And Shout♪
12月24日から1月11日まで行われたステージ出演者は、ほとんどがNEMSエンタープライズ所属アーティストで、チケット10万枚は完売。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17229
http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/012/1227.html
https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15596398.html
http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
楽曲資料https://beatlesdata.info/
歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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このライブ盤の録られたステージは 1962年12月31日とされていたが、
その後の調査で62年12月25日~31日のうちの3ステージからのテイクを寄せ集めたものであることが明らかになった
http://www.geocities.co.jp/Broadway/5266/beaAlb17.html
‡1962/12/27 "Love Me Do", number 17 in Britain. [December 29th?]
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1960(昭和35)年12月27日(火)|「転機となった60年の年末ライブ」
|2007(平成19)年12月27日(木)|甲虫日記更新日 No.015
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ビートルズはドイツのハンブルク・ツアーで修業を積み、実力を磨いてから、故郷リバプールで成功した。いわば「逆輸入」バンドでもある。1960年のこの日は、リバプールでの人気に火をつけた記念すべきステージがあった日だ。そのきっかけは、「失意の帰国」から始まる。ジョンのバンド「クオリーメン」は頻繁にメンバー交代を繰り返していた。そのたびにジョン、ポール、ジョージの3人の絆は堅く結ばれていく。
1959年夏、クオリーメンはピート・ベストの母親モナが自宅の地下室を改装して開いたカスバ・コーヒー・クラブで、ケン・ブラウンを加えた4人で本格的な音楽活動を再開した。ところが、同年10月には「ジョニー&ザ・ムーンドックス」を名乗り、ケンを除いた3人でコンテストに参加する。ケンとはカスバ・クラブでのギャラの問題でしこりが残り、結局、バンドを辞めさせている。60年になると、ジョンのアートスクールの同級生、スチュアート・サトクリフを4人目のメンバーに加えた。5月には「シルバー・ビートルズ」の名でバックバンドとしてスコットランド・ツアーに出かける。バンド名をザ・ビートルズと改めると、
1960(昭和35)年08月17日(水)から11月30日(水)までの最初のハンブルグ・ツアーに旅立つため、リバプール・カレッジエイトを中退したピート・ベストをドラマーに加える。最初のクラブ、インドラでは、毎日ノンストップで演奏した。ここが騒音妨害で閉鎖されるとカイザー・ケラーに移った。演奏と休憩を1時間ずつ交互に繰り返し、1日6時間のステージをこなした。古いロックンロールを中心に、自作曲も織り交ぜて演奏した。観客の反応をみて何が求められるのかというショー・ビジネス感覚を磨き、独自のスタイルを築いていく。レパートリーも徐々に増えていった。リンゴが在籍していたロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズと交互にステージに出演。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴとハリケーンズのルー・ウオーターの5人で「サマータイム」など3曲の自主制作盤もつくった。ところが、ビートルズが別のクラブに通っていたことを快く思わなかったプロモーターの差し金によって、ジョージが国外退去処分を命じられてしまう。当時17歳のジョージは「18歳未満は夜間のクラブへの立ち入りを禁止する」という法律に抵触していた。ビートルズは就労許可証もビザも持っていなかった。
1960(昭和35)年11月21日(月) ドイツ人の写真家アスリット・キルヒヘアと交際していたスチュアートが、失意呆然となったジョージをアスリットと一緒にハンブルク駅まで見送った。自宅に戻ったとき、ジョージは一文無しになっていたという。続いてポールとピートも、寝泊まりしていた映画館の屋根裏でボヤ騒ぎを起こして、同じく国外退去処分になった。スチュアートをハンブルクに残し、ジョンも直後に帰国する。スチュアートは脱退したわけではないが、リバプールで4人が活動するには臨時のベーシストが必要になった。ピートはケン・ブラウンを推したが、ジョンとポールは過去の因縁を恐れた。ポールは、ケンがクオリーメンを追い出された後に在籍したバンドでギターを弾いていたチャス・ニュービーの参加を提案した。ポールは、同じ誕生日で同じ左利きのチャスの名前を覚えていた。化学の学生だったチャスは、大学がクリスマス休暇中だったため短期間なら参加できると返事をした。革ジャンとベースギターを借りて、
1960(昭和35)年12月17日(土) モナの店カスバ・クラブでビートルズと初共演した。チャスがビートルズと演奏したのはわずか4回だ。そのなかで
1960(昭和35)年12月27日(火)のリザランド・タウン・ホールでの公演は、リバプールでビートルズの人気が急上昇する「ターニング・ポイント」になった。この公演は、オーディションに合格して急きょ出演が決まった。ポスターのキャッチコピーは「ハンブルクから直撃、ビートルズ」。地元では無名に近く、全員が革ジャンを着て黒ずくめのスタイルも独特だった。彼らはハンブルク出身のバンドと勘違いされ、観客には「ずいぶん英語がうまいね」と真顔で言われた。当時、経理の勉強をしていたベスト家の間借り人、ニール・アスピノールがビートルズを初めて見たのはこのときだった。後にビートルズ初代ロード・マネジャーや「アップル」の役員を務め、「アンソロジー」ワークでは重要な仕事を果たした人物だ。ステージの幕が上がり、ポールが「ロング・トール・サリー」を歌い始めると、観客は騒然となった。磁力に吸い寄せられるようにステージに走り寄ってきた。ハンブルクのナイトクラブで演奏してきたナンバーを次々と披露すると、彼らもこれまでみたことない熱狂を生み出した。「爆弾を落としたのさ」とジョージ。ジョンは「僕らが殻を破って思いっきりやれるようになったのはあの晩からだ」という言葉を残している。大みそかのギグを最後にチャスはビートルズを離れた。翌年、2度目のハンブルク・ツアーに同行するのをジョンに誘われるが、断っている。
もしジョンの誘いに乗っていたらどうなっていたか。地元音楽誌「マージー・ビート」の編集長ビル・ハリーには、「興味はなかった」「後悔するというようなことになかった」と答えている。ビートルズより学業を優先した男、チャス・ニュービーは、アンソロジーにも登場することなく、その存在を知る人は少ない。
◎『この日のビートルズ』の次回の更新は、1月11日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ ⇒ 初期のビートルズのサウンドが聴ける2枚をご紹介。いずれも61年にハンブルグでトニー・シェリダンのバック・バンド「ビート・ブラザーズ」として録音した曲を集めたもの。20歳のレノンが出演している。ドラマーはピート・ベスト。リンゴ・スターが加わる以前の「ビートルズの原点」ともいえるものだ。
1994年02月25日発売『マイ・ボニ』ポリドール
2000年12月16日発売『イン・ザ・ビギニング』ユニバーサル インターナショナル
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https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/071227.html
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┃ 『THE BEATLES Interviews Database』 ┃
┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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‡1967(昭和42)年12月27日(水)
‡No.119(13) 1967-12-27(wed) McCartney / The Frost Programme, David Frost talks with Paul after the initial telecast of the Beatles' new film.
Paul McCartney Interview: David Frost 12/27/1967
Note・・・『THE BEATLES Interviews Database』Last article in 1967
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http://www.beatlesinterviews.org/db1967.1227.beatles.html
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┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
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‡(wed)27 December 1961 Liverpool, England, The Cavern Club
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┃ THE BEATLES Live 1962 ┃
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‡(thu)27 December 1962 Hamburg, Germany, Star-Club ?(18~31 December 1962)
写真◆http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621231_Hamburg_photos1.html
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https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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┃ 『MAGiCAL MYSTERY TOUR』 ┃1967(昭和42)年12月26日(火)
┗━━━━━━━━━━━━━━┛https://en.wikipedia.org/wiki/Magical_Mystery_Tour_(film)
2012年リマスター版映像◆http://video.fc2.com/content/201501180XzxvMVm
解説:ラブサイケデリコ☆高画質バージョン 2012年リマスター版☆ポールが "Scrupt" と呼んだ、様々なアイデア、スケッチなどの手書きのメモの寄集めを基に、脚本なしで撮影された。内容は、ビ_ー_ト_ル_ズが参加するバスツアーの模様である。ツアー中には「5人の魔法使い」の気まぐれにより様々なおかしなことが起こる。魔法使いは彼ら4人と、彼らのロードマネージャーを長年勤めていたマル・エヴァンズが演じている。また、ジェシーがエキセントリックで人騒がせなブラッドヴェッセル氏と恋に落ちたり、イギリス陸軍の人材登用事務所のような場所を訪れたり、どんな乗り物を使用してもよいマラソン大会に参加したり、最後にストリップ・ショーを見たりといった、ツアー中の出来事の合間に、『アイ・アム・ザ・ウォルラス』、『ブルー・ジェイ・ウェイ』などの演奏シーン、イギリスのコミックバンド「ボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンド」 による『Death Cab for Cutie』の演奏シーンなどが挿入されている
1967年版映像◆http://video.fc2.com/content/20140223T6U4kNuQ 本作は、1967年8月にマネージャーのブライアン・エプスタインの死去後、監督・脚本・出演すべてを自分たちで取り組んだ映画プロジェクト。BBC-TVで放映され日本でも1968年武道館で上映。とりとめのないオムニバスのストーリーは後に「MTVの先駆け」と絶賛される。内容は、ビ-トるスの参加するバスツアーの模様である。ツアーのビ-トルス以外の参加者は、リンゴの叔母役であるジェシー・スターキー夫人(ジェシー・ロビンズ)、ジョリー・ジミー・ジョンソン(デレク・ロイル)、ウェンディー嬢(マンディー・ウィート)、バスター・ブラッドヴェッセル(イヴォア・カトラー)等。ツアー中には「5人の魔法使い」の気まぐれにより様々なおかしなことが起こる
ドキュメンタリー映像◆http://video.fc2.com/content/20150121L3eMmPpX『ドキュメンタリー Magical Mystery Tour Memories』1967年にビートルズのメンバーが手掛けたTV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』この映画制作に関わった当時の関係者や出演者らが登場し、制作秘話を披露するドキュメンタリーをお送りします。未公開写真や映像なども交え、活動後期のビートルズをとらえた貴重映像が目白押し!公開当時は酷評されたが、現在もカルト的人気を誇る映画の裏側に迫りますヨ(=^◇^=)
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┃ 『Magical Mystery Tour Revisited』 ┃
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映像◆ドキュメンタリー『アリーナ:マジカル・ミステリー・ツアーリビジテッド』http://video.fc2.com/content/201501189aYbHN3L
2012(平成24)年10月 6日(土) イギリスで放送されたものです。日本版の題名にある「アリーナ」はイギリスBBCのドキュメンタリーシリーズ名です。撮影時のエピソードよりは当時の時代背景の説明(「サマー・オブ・ラブ」など)が多かったです「Magical Mystery Tour」は当時の時代やイギリスの慣習を色濃く反映したものである、という論調でした。当時の「Magical Mystery Tour」
‡1967(昭和42)年12月27日(水) 放送翌日に内容ついて釈明するポールの映像に続いて現代のポールが説明する映像に切り替わる際に当時と同じ身振りをしているのは面白い編集でした。そもそも釈明が必要になって実際にしたというのも凄いです。
音源◆BEATLES' MOVIE MEDLEY http://youtu.be/VtGQZfNcVRw
音源◆BEATLES' MOVIE MEDLEY US promo http://youtu.be/YljEzwku2O4
音源◆BEATLES' MOVIE MEDLEY US promo https://youtu.be/YljEzwku2O4
音源◆"Fab Four On Film" 1982 B-Side Promo Unreleased https://youtu.be/HvIaSqdyygU
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┃ THE BEATLES of 1963 ┃(wed)02 January 1963
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The Beatles were due to fly from London to Edinburgh, Scotland this morning to begin a five-day concert tour. Poor weather caused the flight to be rerouted to Aberdeen instead; unfortunately, roadie Neil Aspinall had already driven their equipment van to Edinburgh Airport to meet them. In any event, the performance that night in Keith ended up being cancelled due to snow-blocked roads. Instead, John flew home to Liverpool for a quick visit, returning to Scotland early on the 3rd.
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Concert:Longmore Hall, Church Road, Keith, Banffshire, Scotland
CANCELLED
"Note this
Modern Dancing Enterprises presents the boys of 'Love Me Do' fame "The Beatles" in a Special New Year's Dance in the Longmore Hall, Keith on Wednesday 2 January 1963 from 9pm until 1am. Tickets cost 5/-
A bus will leave Buckie at 8pm going via the coast to Cullen and Deskford, another bus will run from Huntly via Dufftown"
‡Source: The Banffshire Advertiser, (thu)27 December 1962
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http://www.multiplusbooks.com/630102.html
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限定公開映像◆2019年ビートルズ友の会 名古屋場所忘年会https://youtu.be/7GHaH-To5Hg
‡2022(令和四)年12月27日
2019(令和元)年12月30日 名古屋場所忘年会の様子 June Konoさんと丸橋修二さんの投稿から
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仲村会長インタビューhttps://youtu.be/IXteRSJ-cXk
‡2022(令和四)年12月27日