https://youtu.be/0PNQD59wXqk
‡1987(昭和62)年08月05日 FM東京にて♪
音は時を経てそれなりに・・・Cassette Tape 浜田省吾/タイム表示をクリックして下さい♪
①二人の夏 0:00
②路地裏の少年 4:21
③涙あふれて 9:31
④風を感じて 12:52
⑤終りなき疾走 16:54
⑥土曜の夜と日曜の朝 21:16
⑦いつわりの日々 25:54
⑧MAINSTREET 31:28
⑨J.BOY 36:00
賛同者・浜田省吾さんの父・敏太さんの原爆投下朝の体験記
2015/6/20(土) 午前 0:00
昨年の暮れに中国新聞社の方から「広島世界平和ミッション」に寄稿を依頼され、広島で救援活動中に二次被爆した父のことを書きました。
明けて、2004年の正月に姉宅を年始で訪ねた時に、姉から「お父さんの原稿が出てきたのよ」と、これを渡され読んだ時、あまりの偶然に驚きました。
内容が父の「原爆投下の朝の体験記」だったからです。
残念なことに、おそらくは長い体験談になったであろうこの原稿は、第一章までしか書かれていません。
日々の忙しさに追われ、そのままになってしまったのでしょう。
それとも、この先を書くことが精神的に困難だったのかもしれません。
これを書いた当時、父は54歳で大竹署に勤務しており、定年を次の年にひかえていました。
私は18歳の予備校生で初恋やら家出やら、今思えばまさに青春していた時期でした.
そんな私も今やこの当時の父と同じ世代になり、感慨深いものがあります。
この原稿は校正せず、そのままタイプしました.
途中数個所判読できない字があることをご了承下さい。
これをタイプしている今日は2004年4月30日、父の17年目の命日です。
浜田省吾
◇ ◇ ◇
■原爆被爆26周年に憶(おも)う/大竹署 浜田敏太
■はじめに
あれから26年、被爆地広島市が世界平和のシンボルとして、
生々発展してゆくよう心から祈ろう。
今被爆当時の記憶をペンで綴(つづ)ろうとするとき、いささか抵抗を感じるのは何故だろうか。
私だけの心の片隅に、そっとしておきたかった、
それが原爆犠牲者、そして先輩、同僚の霊に対する礼であろう。
多くの体験者は静かに見守り、祈りを捧げているではないか。
そして広島市と私の体内に滲(し)みついた悪夢にも似た傷跡をかき廻すことのおろかしさと不安…
さまざまなほろ苦い感情と疑問のもつれがうずまく心地がするのです。
勿論文才のないことは論外としておこう!
最近各専門家によって多角的に資料が収集され、高度な文筆技術等によって広島の記録が著書「広島原爆戦災証」として近く出版されると聞いているとき、今日の記念日のできごとを瞑想しつつ、当時の記憶の一ページを一気に書きなぐってみたくなったことを了承願いたい。
■原爆投下の前夜
当時私は木江署(1)で兵事、労政主任をしていた。
広島市に原爆が投下された数日前だった。
広島市において、広島?隊区司令部主催による、各署の兵事主任会議が開催された。
8月5日、私はこの会議の状況を各市町村役場の兵事政労関係者に急遽(きょ)伝達の使命を携えて、管内の豊島村に行き、
その日は豊島駐在所に一泊させてもらった。
その晩、福山、今治市がB29の空襲を受けたのを駐在所の一室で見た。
今治市の場合は比較的距離も近いので、照明弾、続いて焼夷弾投下が繰り返され、見る間に夜空を焦がす状況が手に取るようであった。
竹槍訓練や防空体制の強化叫ばれている時、こうして毎日のように、つぎつぎと各都市が空襲の被害に見舞われていったのである。
■会議に出席して
翌8月6日、午前7時過ぎから豊島村役場で広島?隊区司令部の伝達会議を開催した。
8月の太陽は会場一杯に照りつけ、会場は熱っぽい空気に満ち始めたころだった。
閃光一閃(せんこういっせん)!
瞬間、出席者一同が目を見張った。
雲ひとつない青空だ、稲妻でもない。
しかし、あの強烈な光ぼうは一体何だろう?
不吉な予感と憶測が入り混じり、会場内はざわめき、会議は一時中断した。
しかし会議中何事もなかったかのように会議は予定どおり終了した。
■原子雲を見た
続いて私は次の目的地である、御手洗町(2)に向かった。
波静かな海上を、豊島から小さな渡し舟で、大崎下島(3)に渡り、徒歩で矢?港に到着したときだった。
船待客の一団が、広島方向の上空を見上げながらどよめいていたので、私は何事かと振り返ってみると、キノコ型の雲が豊島の北端山頂の青空に浮かび、むくむくと広がってゆく異様な光景を見た。
船待客は、
「ひどいこと やられたもんじゃのォ」
「こんなァ B29の爆弾ぐらいじゃぁ あがんならんよのォ」
「スパイが侵入って広島の火薬庫を爆破したんじゃろう」
「それにしても火薬庫ぐらいじゃ あがにならんじゃろう」
「火薬庫と云っても、火薬の他にもいろいろなものがあるけのォ」
「そうかのォ」
たわいもない話は繰り返された。
すると今度は、一人の船待客が付近のラジオの傍で、
「このラジオは先刻まで、大きな声で放送していたが、ピカッと光ってから放送せんようになったんじゃ、それが今何やら言いだしたんじゃ」
私もラジオの方に近づいて、耳を澄ましていると、
「大阪放送局、こちらは広島放送局です。聞こえますか、聞こえたら返事をして下さい」
と…悲痛な叫びが、かすかに繰り返され、応答を求めていたが…
私は先を急いだ。
灼熱(しゃくねつ)の太陽が降り注ぐ中を徒歩での山越えである。
上着を脱いだ。
剣が重く、歩くのに邪魔になりはじめたので、剣の先端に脱いだ上着を引っ掛けて、肩にかついで一路御手洗町に向かった。
■出動命令
午前11時頃だった。
本署との連絡用務もあり、途中「大長駐在所」(4)に立ち寄った。
そこで私を待っていたのは、本署からの命令であった。
「今朝、広島がやられた、被害は甚大らしいが通信網もやられており詳細はわからない。とにかく大崎下島在住の警防団、医師、看護婦を最大限に動員し、君が指揮して、直ちに広島へ救援に行かれたい。」
私は深く頷(うなず)いた。
駐在所をはじめ、地方の方々の積極的な応援を得て、180名に及ぶ多数の参集と救急薬品などを取り揃(そろ)えて、借り上げ船に乗り込み川尻港に向かった。
■広島への道は遠かった
搬送列車に乗った。
海田駅が近くなった頃、車掌がやって来て、
「この列車は広島がやられたため、海田駅で折り返し運転をしておりますので、海田駅で降りて下さい」と…。
海田駅で下車した私達救援隊は、徒歩で広島に行くしか方法が無い。
広島に近づくにつれて、破壊と混雑で行く手は遮られた。
状況判断の結果、山陽本線北側から東錬兵場に入ることに決定したのである。
広島が燃えている黒煙は夕焼けに映えて、上空を覆っている。
私達救援隊は遅々として日暮れの田んぼ道を、広島へ、広島へ、黙々として歩き続けた。
中には暑さと疲労で列外組も出始めるようになった。
もう広島への道は近い、しかし広島への道は遠かった。
■その夜の広島で
1名の落伍者もなく、東錬兵場の広島駅裏に到着した。
そこで私達を待ちうけていたのは、生死の境をさまよう、おびただしい数の被爆者と猛火に狂う広島の夜であった。
「こりゃぁひどい、まるで生き地獄じゃのォ」と誰かがポツリと呟いた。
救護本部への連絡は至難と諦め、その夜は野宿することにして、明日を待った。
隊員はみんな疲れていた。
だが休んではいられない、と言い聞かせているようであった。
今まで一番バテていると思われた医師と看護婦は、必死に訴える被爆者の要求に応じて、持参した医療品を取り出して、早速救護活動にとりかかった。
殆(ほとん)どまどろみもしないで夜明けをむかえようとする姿には頭が下がった。
各救援隊員も眠れないまま、焼け爛(ただ)れた被爆者が必死に求めている水を運んでは与えた。
被爆者は水を飲んで満足そうに眠った。
そして朝、被爆者はもう起き上がらなかった。
私は合掌した。
【編注】(1) 木江署(広島県豊田郡) (2)御手洗町(広島県豊田郡) (3)大崎下島(広島県豊田郡) (4)大長駐在所(広島県豊田郡)
http://blogs.yahoo.co.jp/u_t_r_s_m/19398302.html
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┃ 浜田省吾 #29 J.BOY 2 ┃
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‡2016(平成28)年8月05日(金) J.BOY Part.2です。
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「遠くへ - 1973年・春・20才」は結果としてアルバムの中で二番目に長い曲になった。「遠くへ」ではあえて間奏にソロ楽器を入れないで、コード進行や楽器のアンサンブルで聴かせる構成にした。レコーディングのリズム録りは、大体どの曲でも最初の1テイク目でアレンジの構成やテンポの確認等をして、次の2テイク目か3テイク目ぐらいで元となるOKテイクを録ってしまうことが多い。あまり何回もテイクを重ねると鮮度と集中力が落ちて、結果としてあまり良いテイクが録れなくなる。 OKテイクが録れて次にやることは、間違えた箇所や演奏し直したい箇所の修正。それぞれが演奏し直したい箇所を自己申告して録音する。これをパンチインと呼ぶ。パンチイン、パンチアウトはスタジオ作業の中で頻繁に使われる用語で、ミュージシャンとエンジニアの間で「3小節目の2拍目からパンチインして 、4拍目のアタマでパンチアウトして下さい」と言ったような会話が飛び交っていた。「遠くへ - 1973年・春・20才」は長い曲だったので、何回もテイクを重ねると集中力が持たなくなるため、少ないテイクでOKになるようにバンド全員が高い集中力で録音に臨んだ。 インストゥルメンタルナンバーの
「滑走路 - 夕景」は、浜田さんが井上鑑さんのアルバムに提供した曲のセルフカバー。ぼくはエレキギターがリードを取るインストナンバーにするのが良いのではと思い、浜田さんに提案したところ、それで行こうということになった。例によってイントロのメロディが浮かんだ時点で、ぼくはほぼアレンジが出来た気分になったが、この曲に関してはそこから先が結構大変だった。 法田勇虫さんの弾くラリー・カールトンばりのエレキギターが格好良い。レコーディングスタジオでの唯一の息抜きは、短い食事の時間だった。食事と言っても外に食べに行くわけではなく、スタジオで出前を取ることが殆どだった。また全員が同じタイミングで食べられるわけではなかったので、出前のメニューも延びてしまう麺類は基本的にNG。必然的に弁当か揚げ物系になってしまうことが多かった。しかもそんな脂っこいものを深夜に食べるものだから、レコーディングの期間中はいつの間にか体重が増えてしまっていた。出前でミュージシャン、スタッフに人気があったのが、信濃町ソニースタジオの1階に入っていたレストラン「VEGA」のオムライスとにんじんリンゴジュース。特ににんじんリンゴジュースはNo.1の人気メニューだった。ぼくもにんじんリンゴジュースを飲むのが信ソでの楽しみのひとつだった。それと当時はレコーディングと言えば煙草が当たり前の時代だった。スタジオにいるほぼ全員が煙草を吸っていた。勿論ぼくもその中の一人で、レコーディングになると緊張からか、普段の3倍ぐらいの本数を吸っていた。町支さんはコーラスダビングの最中に、狭いボーカルブースの中で歌いながら矢継ぎ早に煙草を吸うものだから、ブースの中が白く煙って本人の姿が見えなくなるほどだった。 それでいてあの美声のコーラスを決めるのだから、ぼく達は感心するしかなかった。アルバムタイトル曲でもある
「J.BOY」は、ぼくと江澤くんの共同アレンジ。アレンジをするにあたりまず決めたことは、リズムはタイトなエイトビートにして、その上にホーン・セクションを入れようということで、江澤くんの家で二人でリズムのコンビネーションやホーンのフレーズを考えた。「J.BOY」は同じコードの展開が続く曲だったので、途中ベースソロを入れたり、クラビネットを入れたりして、サウンドに起伏を付けるようにした。サウンド的にはイントロのツインリードギターと、間奏のギターソロからサックスソロにバトンするところがスリリングで気に入っている。ただホーンセクションがミックスの段階で、かなりレベルを下げられてしまって、サウンドのダイナミズムが減少してしまったのがちょっと残念だった。
「AMERICA」は町支さんアレンジ。ザ・バーズを彷彿とさせる12弦ギターのフレーズがとても印象的なナンバー。町支さんが弾いたのは、リッケンバッカーのエレクトリック12弦ギター。ぼくはヤマハDX5シンセサイザーで作ったオルガンの音色をプレイした。「AMERICA」のサウンドの鍵を握っているのは、町支さんの多重録音によるコーラスと、リッケンバッカーの12弦ギター。
「想い出のファイアー・ストーム」「悲しみの岸辺」「晩夏の鐘」「A RICH MANS GIRL」は江澤くんのアレンジ。アルバムの前半は江澤くんのアレンジした曲が続くせいか、彼のカラーが色濃く出ている。江澤くん&ドラムの高橋さんの新リズム隊コンビも、ノリがバッチリ決まっていて心地良い。 このあたりの曲は、ぼくの演奏もシンセサイザー全開といった感じで、殆どシンセでプレイしている。「想い出のファイアー・ストーム」のイントロとアウトロの箇所で、印象的なパーカッションを演奏しているのはペッカーさん。”シモンズ”というシンセドラムを使ってプレイしている。ペッカーさんとは、1988(昭和63)年渚園でのA Place In The Sunでも一緒にステージに立った。
「悲しみの岸辺」で登場するフリューゲルホルンの音色は、イミュレーター2というサンプリングマシンでサンプリングしたもの。間奏とエンディングで登場するフリューゲルホルンの音色によるソロは、江澤くんが鍵盤で弾いている。
「晩夏の鐘」はインストゥルメンタルナンバー、ぼくと古村くんと江澤くんの三人だけで演奏した。この曲も 江澤くんの弾くシンセベースがいい味を出している。この頃はシンセサイザーのマニピュレーターという職種の人がいて、スタジオに山のような機材を持ち込んで、音色を作ったり打ち込みのデータを作ったりしていた。J.BOYのレコーディングでは梅原篤さんという方が、マニピュレーターでぼくとタッグを組んだ。使用したシンセは、オーバーハイムOB-8、 プロフィット5、ミニ・ムーグ、イミュレーター2等々。86年当時の流行だったとはいえ、 アルバムJ.BOYには今聴くとびっくりするぐらいたくさんのシンセの音が入っている。「DOWN BY THE MAINSTREET」のレコーディングの時は、フェンダー・ローズ・エレクトリックピアノやハモンドB3オルガンといった、本物の楽器を使っていたのに、J.BOYのレコーディングでは殆ど使っていない。今思えば「何で?」と首を傾げたくなるが、86年当時はやはりそういう時代だったのだろう。
「勝利への道」や「路地裏の少年」での古村くんによる躍動感溢れるアレンジも、他のメンバーのアレンジと違って、イギリスっぽいアプローチで古村くんらしい尖ったサウンドが格好良い。
「路地裏の少年」もとても長い曲になったため、リズム録りは大変だった。1テイク録り終える毎に、どっと疲れたのを覚えいてる(笑)ぼくがこのアルバムで一番好きな曲は
「19のままさ」。浜田さんの書くプロテスト・ソングも嫌いではないが、ぼくは浜田さんのメロディックでセンチメンタルな雰囲気の曲が特に好きだった。「19のままさ」は町支さんのアレンジも素晴らしくて、ぼくは町支さんの考えたイントロのピアノのフレーズを、レコーディングの時に感動しながら弾いた。
「八月の歌」と「こんな夜はI MISS YOU」も 町支さんのアレンジ。 「八月の歌」では、ぼくはアコースティックピアノを弾いた。シンセは福ちゃんこと福田裕彦さんが演奏している。
「こんな夜はI MISS YOU」は町支さんとドラムの高橋さんの共同アレンジ。高橋さんはリズムマシンのプログラミングを担当した。過酷なツアーのヒトコマを描いた小品だが、ぼくはとても好きな曲。 J.BOYのレコーディングは締め切り日が決まっていたため、終盤になると大忙しとなった。時には二つないし三つのスタジオで作業が同時進行していて、あるスタジオでダビングが終了したばかりのテープを、エグゼクティブ・プロデューサーの鈴木幹治さんが抱えて別のスタジオに持って行き、そこで待機しているミュージシャンがそのテープにダビングしたりと、終盤は綱渡りのようなレコーディングが続いた。レコーディングの最後のほうは、自宅からそう遠くない目黒川近くのスタジオでのダビングが多かったので、ぼくは自転車でスタジオに通った。長かったレコーディングも終わり、最終ミックスはロスアンゼルスで行うことになっていた。アレンジを担当したぼく達バンドのメンバーも、当然ミックスに同行するものだとばかり思っていたのだが、ミックスには浜田さん以外には事務所とレコード会社のスタッフ、カメラマン等が同行することになり、ぼく達はミックスに立ち会うことが出来なかった。何だか腑に落ちないものを感じながら、ぼく達はレコーディングした音を渡米するスタッフに託した。ロスでのミックスを終えた音を聴いて、ぼくは複雑な気持ちになった。ミックスを担当したのは、ジャクソン・ブラウンやTOTO、ドン・ヘンリー等のアルバムのミックスを手がけていたグレッグ・ラダニー。ぼくはジャクソン・ブラウンの「The Pretender」や「Running On Empty」等のアルバムの音がとても好きだったので、大いに期待してグレッグのミックスしたJ.BOYを聴いた。グレッグのミックスしたサウンドは、タイトで音像がくっきりとしていてリバーブも浅めで、確かにLAっぽい乾いた音をしていたが、いかんせん全体的に小じんまりとしていた。そしてぼくがアレンジした際にイメージしていたサウンドとは少し違っていた。J.BOYが完成して少し経った夏のある日、ぼくは下北沢で浜田さんとばったり会った。お茶でも飲もうと言うことになって、近くの喫茶店に入った。自然と話題はロスでのミックスを終えたばかりのJ.BOYのことになった。浜田さんから感想を聞かれたぼくは、アルバムを聴いて自分が感じたことを率直に伝えた。そんな経緯もあってかどうかは分からないが、J.BOYは
1999(平成11)年09月8日(水)にリミックス、リアレンジ、リマスタリングが施されてリイシューされた。その内容は1986(昭和61)年版のオリジナルバージョンのJ.BOYとは別物と言っていいぐらいにかなり違っていて、ぼくは99年版を聴いてますます複雑な気持ちになった。 二枚組アルバム「J.BOY」は、
1986(昭和61)年09月4日(木)に発売されると4週連続でチャートの一位になった。ツアーに出ていたぼく達は、初のアルバムチャート一位獲得の知らせを旅先で聞いた。初の一位獲得で沸き立つ周囲の喧噪をよそに、ぼく達は快挙の知らせをまるで人ごとのように感じていた。J.BOYは今の耳で聴くと結構ポップな印象を受ける。そして全編を通して伝わってくる勢いが凄い。サウンドに悔いは残るが、浜田さんのシンガー/ソングライターとしての創造力と、バンドの勢いが最初のピークに達した作品だと思う。
2016(平成28)年11月9日(水)に"J.BOY" 30th Anniversary Editionが発売される。
オリジナルバージョンの86年版J.BOYも、リマスターが施されて2枚組アナログ盤でリイシューされるとのこと。今回のリマスターで、どこまで音質が向上しているか楽しみだ。
写真◆J.BOYツアーパンフより。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/08/29-jboy-2.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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┃ 浜田省吾 #19 1983 A Place In The Sun ┃
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2016(平成28)年5月07日(土)
1983(昭和58)年8月13日(土)、福岡海の中道海浜公園にて浜田省吾のコンサート「A Place In The Sun」が25,000人の観客を動員して開催されました。その時のお話です。
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‡1983(昭和58)年8月05日(金)の帯広市民会館でのコンサートを挟み、
1983(昭和58)年8月07日(日)からリハーサルの第2クールがスタートした。
写真◆1983(昭和58)年8月12日(金)海の中道海浜公園。サウンドチェックの模様。ドラムの鈴木俊二くんの後ろに大きな銅鑼が見える。何の曲で鳴らしたのだろう?
写真◆ぼくのスペース。とても広かった。手前からフェンダー・ローズ・スーツケース73key、KAWAI KP-308クリスタル仕様、KPの上にRoland Juno-60、KAWAI KP-308ノーマル仕様、KPの上にKORG POLY-61、YAMAHA CP-70(結局CPは使わなかった)。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/05/19-1983-palce-in-sun.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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┃ 1992年 下半期の出来事 ┃
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2017(平成29)年08月11日(金)
今回は1992(平成四)年下半期の出来事です。
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そろそろ本格的な夏も始まろうかという暑い日に、ぼくは浜田省吾さんの事務所であるロード&スカイのIさんと、世田谷のイタリアンレストランでお会いした。町支寛二さんのツアーのオファーを兼ねた打ち合わせだった。ちょうどこの時ぼくは、他にも同時進行していた案件があったので、町支さんのツアーに参加するためにはスケジュールの調整をする必要があった。Iさんから町支さんのツアーやリハーサルの日程を確認すると、どうにか参加出来そうな感じがしてきた。ぼくは少し時間をもらって更に各所とスケジュールの調整をした結果、正式に町支さんのツアーに参加することが決定した。その頃infixのセカンドアルバムのレコーディングも大詰めに来ていた。infixのメンバーはそれぞれ個性的な連中で、ボーカルの長友くんはバンドのフロントマンらしく快活でよく喋る男だった。ギターの佐藤くんは一見淡々としているが、秘めたものを持っているバンドのまとめ役だった。ベースの野間口くんは一番年下なせいか控えめな印象を受けたが、音楽的に長けたものを持った好青年だった。ドラムの大神くんはみんなのいじられ役で、なにかとちょっかいを出されていたが、プレイヤーとしては頑固なところのある練習熱心なドラマーだった。ぼくは連日二子玉川のスタジオサウンド・ダリに通い詰めながらも、同時に町支さんの譜面や音源の資料の確認と、久宝留理子さんのアレンジもしなければならなかったので、圧倒的に時間が足りなかった。そんな真夏の最中、ようやくinfixのセカンドアルバムが完成した。「Just A Hero」と名付けられたそのアルバムは、難産ではあったが充実した内容の作品になった。infixのレコーディングが終わってから、92年の後半はツアー漬けの日々だった。久宝留理子さんのツアー、町支寛二さんのツアーに加えて、ぼくはinfixのツアーにもキーボード奏者として帯同した。更にその日程の隙間を縫うように、山本英美くんのコンサートも何本かあった。ぼくは夏の間、久宝留理子さんのコンサートで全国を飛び回っていた。久宝留理子さんのバンドメンバーは、
ドラムス:大久保敦夫、
ベース:江澤宏明、
ギター:高村周作、
キーボード:板倉雅一、
サックス:古村敏比古、
コンピュータプログラミング:池田公洋。久宝留理子さんの夏のツアーは以下の通り。
久宝留理子「Go! Go! everyday」ツアー
1992(平成四)年07月20日(月) 仙台エルパークスタジオホール
1992(平成四)年07月23日(木) 大阪 ミューズホール
1992(平成四)年07月25日(土) 福岡 ビブレホール
1992(平成四)年07月26日(日) 熊本 イエロースタジオ
1992(平成四)年07月28日(火) 広島 ウイズワンダーランド
1992(平成四)年08月01日(土) 名古屋 ハートランド
‡1992(平成四)年08月05日(水) 札幌 メッセホール
1992(平成四)年08月07日(金) 横浜 ビブレホール 久宝さんのコンサートのスケジュールが一段落した頃、町支さんのツアーのリハーサルが始まった。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/08/1992.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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映像◆『LICENSE』長渕剛 レコード大賞(アルバム大賞) https://youtu.be/e1rCnphRX6Q
https://ja.wikipedia.org/wiki/LICENSE_(%E9%95%B7%E6%B8%95%E5%89%9B%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
映像◆19⑧⑤ 亞洲青年音樂節 (梅艷芳、西城秀樹、田原俊?、松田聖子等) (1/2) http://youtu.be/rcQQ9jV-m_c
02:33 ♪チャールストンにはまだ早い♪ 田原俊彦
04:06 ♪青い珊瑚礁(青春珊瑚島)♪ENGLISH挿入OK VERSION 松田聖子
13:02 13:44 ♪三味線Boogie♪ 少年隊
21:39 ♪ギャランドゥ♪ 西城秀樹
23:50 24:27 ♪涙のリクエスト♪ チェッカーズ
26:35 ♪ハートのイアリング(心型耳環)♪ 松田聖子
29:59 ♪顔に書いた恋愛小説(ロマンス)♪ 田原俊彦
映像◆1985 亞洲青年音樂節 (梅艷芳、西城秀樹、田原俊?、松田聖子等) (2/2) http://youtu.be/ZrmGmKwmSKU
0:27 ♪抱きしめてジルバ(愛的擁抱)♪ 西城秀樹
3:41 ♪Up Where We Belong♪ 田原俊彦&松田聖子
6:02 ♪See You Again♪
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┃ ♪みちのくひとり旅♪ ┃
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‡1980(昭和55)年08月05日(火)シングル発売
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%97%85
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山本譲二「みちのくひとり旅」の大ヒットは土下座から…恩人の死に涙こらえる
2015(平成27)年 2月24日(火)19時43分『デイリースポーツ』配信
三島大輔さんとの思い出を語る山本譲二
歌手・山本譲二(65)が24日、横浜市内で営まれた自身の出世作「みちのくひとり旅」の作曲家で22日に死去した三島大輔(みしま・だいすけ、本名臼井邦彦=うすい・くにひこ)さんの通夜に参列。「先生は明るいことが大好きだった。だから泣きません。くよくよしたら元気だせ!と怒られるよ」と、恩人を亡くしたショックを隠し、気丈にふるまった。
1980年。歌手としてヒットがなく、もう後がない状況に追い込まれていた山本は、三島氏が作曲した「みちのくひとり旅」を聴き、「ぜひ歌わせてください」と土下座して自分の歌にした。
必死な活動で「みちのく-」は大ヒット。三島氏にとっても出世作となった。一緒に人生を賭けた勝負に出た者同士。「先生は自分にとってお父さんだった。先生も自分を息子と思ってくれていた。自分も先生も『みちのくひとり旅』で男になった」としみじみと振り返った。
8年前に、個人事務所を立ち上げ独立してからは、毎月1回「三島会」と称して酒席をともにした。数年前に三島氏にがんが見つかった後も11年に35周年記念曲「旅路の果ての…」の作曲を依頼。「依頼した時、先生は喜んでくれて元気になった。まだまだ曲を書くよ!と言ってくれたのに」。だが、三島氏との作品がこれが最後になった。
三島氏の遺影を前に「年上から順番とはいえ、悲しさ、世の無情を感じる。やるせない気持ちです」とまだ気持ちの整理がつかない様子。25日の葬儀にも参列するが「元気に送る。だから絶対に泣かない」と涙をこらえていた。
〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった・・・はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』制作秘話
‡2015(平成27)年08月05日(水) 執筆者:小倉エージ
‡1970(昭和45)年08月05日(水)、はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』が発表された。林静一が手がけたアルバム・カバーに描かれた製麺所の看板にちなんで後に「ゆでめん」と称されることになる。70年の4月以来、岡林信康の『見る前に跳べ』への参加をきっかけに岡林のライブでバックを務める一方、独自の活動を始めていたはっぴいえんどは、アルバム発表直後の
1970(昭和45)年08月09日(日)、岐阜県の糀の湖で開催された第2回全日本フォーク・ジャンボリーに出演し、岡林信康のバックを務めると同時に彼ら自身の演奏を披露した。「朝」を幕開けに♪12月の雨の日♪、「春よ来い」など「ゆでめん」からの主要曲に加え、遠藤賢司の「雨上がりの街」を演奏したが、
♪12月の雨の日♪の冒頭で大滝詠一が「暑くてやりにくいんですけど」と触れているように、収録された作品の大半が〝冬〟を背景にした作品が収録された「ゆでめん」の記念すべきお披露目のステージにしてはいささか不似合なものだった。前後して「ゆでめん」からの作品はラジオで放送されはじめたが、やはり暑い夏の真っ盛りだっただけにそれもまたいささか不似合なものだった。おまけに〝(音が)ひきずるように重い音!〟、〝歌詞が聞き取りにくい〟といった声も耳にするなど、当初「ゆでめん」の評判は芳しくはなかった。音楽誌での評価も様々だったが、岡林信康との共演や独自のライヴ活動、加えてURC初期の作品がそうだったように東京の最新情報を伝える各地の放送局の番組などを通じてはっぴいえんどと「ゆでめん」の評価は高まり、翌年のニューミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン)の4月号で日本のロック部門の1位に選出された。〝日本語のロック論争〟の発端のひとつになったものだが、それでもはっぴいえんどの存在は日本のフォーク、ロックを知るファン層に限られていた。日本のロック史、日本のポピューラ・ミュージック史における重要な存在としてその業績、影響などが一般に知られるようになったのは、「ゆでめん」の発表から10年以上を経てのことだった。私が細野晴臣に出会ったのは新宿の花園神社近くにあった「パニック」にエイプリル・フールの一員として出演していた時のことだった。初めての出会いにも関わらず、好んだ音楽が似通っていたことを知り、話が弾んだ。その際、エイプリル・フールの解散と新しいバンドの結成の話を教えられた。それは「バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプみたいなバンド!」というものだった。アート音楽出版に勤務しURCの制作を担当し、どうしてもロック・バンドのアルバムを制作したかった私にとってはそれこそ望んでいたものだった。細野晴臣のその言葉、好きなグループやアルバム、作品についての会話から得た細野晴臣への信頼こそが、すべてのはじまりだった。そして無謀にも細野晴臣が結成するバンドの作品や演奏を聞かないまま、レコーディングの話を進めた。そのメンバーは細野晴臣と同じくエイプリル・フールの一員だった松本隆。当初、ヴォーカルでの参加を予定されながらロック・ミュージカル『ヘアー』への出演が決まった小坂忠にとって代わって参加することになった大滝詠一。「ゆでめん」の録音が終了するまで進学かそれともプロのミュージシャンになるか決めかねていた鈴木茂。URCの制作を担当していた私は、当然、4人の経歴、音楽的な背景や結成の経緯を知っておくべきだったはずだが、それを怠っていた。それを知ったのは「ゆでめん」を制作して後、音楽誌に掲載された彼らのインタビューでのことだ。それよりも彼らが目指す音作りや音楽性について確認し、具現化することにしか関心がなかった。細野晴臣だけでなく松本隆、大滝詠一と拠り所にしたグループのアルバム、作品についての入念な会話を交わすことが重要であり、それ以外は必要もなかったからだ。はじめて彼らの作品、演奏を耳にしたのはレコーディングの実現の為に必要なデモ・テープを制作した時のことだ。大滝詠一によれば彼らの演奏を耳にしながら私は終始うつむいたままで、バッファロー・スプリングフィールドの「ブルバード」のコピー演奏を耳にして初めて反応したということだが、「ブルーバード」の演奏を耳にして演奏の技量を確認し、録音が可能なことを確信した。録音にあたって日本語のオリジナルであることを必須の条件とした私にとって、彼らの作品はそれを満たすものだったが、明らかに習作の段階であり、実際、「春よ来い」がほぼ完成していた以外、
♪12月の雨の日♪は「雨上がり」の段階であり、「足跡」が「田舎のコーヒー屋にて」を経て録音時に「かくれんぼ」となったように、リハーサルを重ねるうちに作品の歌詞、メロディーは修正が施され、タイトルが改められていった。
1970(昭和45)年03月18日(水)、麻布のアオイ・スタジオで初めてのレコーディングが実施された。URCは制作予算の関係から録音は使用料の安価な夜半を中心とし、ハウス・エンジニアの起用が基本方針だったが、はっぴいえんどの初回の録音ではメンバーの要望から吉田美奈子の兄で、当時は東芝EMIで様々な録音を担当していて吉田保があたった。もっとも、その日の録音は芳しくなく、キャンセルせざるを得なかった。最初の録音がキャンセルとなって後、
1970(昭和45)年04月09日(木)から新たに録音にとりかかった。その様子については「定本はっぴいえんど」を始め、メンバーが様々に語ってきているが、いくらか誤認もあり、それを訂正すべくレコード・コレクターズ誌2015年1月号の「特集はっぴいえんど」での拙稿「「ゆでめん」が出来るまで」で記してきた。彼らが目指した音作り、録音への取り組みについて触れたものだ。音作りもさることながら、作品そのもの、歌唱や演奏を見逃すことが出来ない。〝お正月〟〝こたつ〟〝お雑煮〟〝歌留多〟といった日本の正月の光景を描いた意表をついた歌詞が衝撃的だった「春よ来い」。家を飛び出てひとり暮らす若者の姿は、即座に永島慎二の「漫画家残酷物語」を思い浮かべずにはいられない。それが掲載された劇画誌の「ガロ」こそは60年代末期、何かを求める若者にとって欠かせないもののひとつだった。さらに「12月の雨の日」は、そこに描かれた雨の日の情景が所在のない若者の心情が浮かび上がる。松本隆は「はっぴいえんどにはほとんどラヴ・ソングが無い。でも、ラヴ・ソングの少なさにもかかわらず、はっぴいえんどが普遍的に皆に支持されてるって言うのは、画期的だと思う。あれだけラヴ・ソングが少ないバンドって、かつてなかったと思うし、これからも出てこないと思う」と語る。その例外としてあげられる「かくれんぼ」は男女間の心情の隔たりを描いたもので、当時、ほとんどないシチュエーションだった。そればかりか、その背景に垣間見られる雪景色から、つげ義春的な世界が思い浮かぶ。例外的なもうひとつのラヴ・ソング「朝」では男女間の在り様、恋人の存在を観察する男の心情の描写が興味深い。いずれも大滝詠一が曲を書き、ヴォーカルを担当した。ロック・ヴォーカルにとって不可欠とされたシャウトにとって代わる〝唸り〟の表現、一方で滑らかなクルーナー・スタイルでの取り組みなど、大滝の歌唱はすでに独自性を明らかにしている。自身が作詞、作曲を手がけた「いらいら」でもパワフルな唸りを聞かせている。作曲に対する姿勢、考えはまだ曖昧ななままで、それ以上に〝自分の声〟を見つけ出せなかったという細野晴臣だが、松本隆による都会の冬の雪の情景を描いた「しんしんしん」、〝音〟と意味の重なる語呂合わせに凝った「あやかしのどうぶつえん」や前衛詩的な「敵 タナトスを想起せよ」など、松本隆の歌詞に即したメロディーを手がけ、自身が作詞、作曲を手がけた「飛べない空」では批評性をのぞかせている。さらに〝しあわせなんて どう終わるかじゃない、どう始めるかだぜ、しあわせなんて何を持ってるかじゃない、何を欲しがるかだぜ〟という松本隆が手がけた歌詞が印象深い「はっぴいえんど」の作品としての説得力と重厚さは白眉というにふさわしい。鈴木茂はまだ作詞、作曲を手掛けるにいたらなかったが、
♪12月の雨の日♪の鮮烈なリード・ギターを始め、歌を生かし、反映したギター演奏で大きな役割を担っていた。さらに細野晴臣のベースやキーボード、松本隆のキック・ドラム、また16ビートのニュアンスを生かしたトップ・キット・ワークなど、演奏面での充実も見逃せない。2トラックからはじまり、楽器、歌、コーラスのダビング作業の多さから4トラックに移行し、それも4トラックの録音機は一台しかなく2、4トラックの録音機材を駆使しながら録音作業を進めたが、その手法は手探りだった。楽器の分離などの明瞭さにはかける音の塊、ひきずるような重さのものになったが、それが結果として重厚さ、ガッツのある〝音〟を生み出すことになった。「ゆでめん」は、〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった。自分探しのアルバムでもあった。さらにその背景には60年代末と言う時代の空気が見え隠れする。他に比較できるものがない画期的なアルバムだった。発表から45年を経た今、懐かしさを覚える人は少なくないはずだ。発表当時もさることながら後年になったその真価が問われ、評価が一層高まることになったのは、作品自体が持つ普遍性によるのは明らかだ。今なお魅力のつきないアルバムである。
http://music-calendar.jp/2015080501