広島アンデルセン レストランの営業来月から
‡2020(令和二)年09月28日(月) 12:16配信 HOME広島ホームテレビ
広島アンデルセンは新型コロナの影響で見合わせていたレストランの営業を来月
2020(令和二)年10月01日(木)から行うと発表しました。 先月、リニューアルオープンした広島アンデルセン。パンの販売などを行う1階フロアは通常通り営業していましたが、2階のレストランでは飲食物の提供は行わずテークアウトなどに限定していました。担当者によりますとレストランの感染防止対策が整ったことなどから席数を半分以下に減らした上で1グループの人数を6人までに限って営業することにしました。2階のレストランは来月1日にオープンします。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab3fb72ff280ee354e35c36f92f10664fed397e7
映像◆「他人を尊重できないなら出ていけ」 米空軍士官学校の校長https://youtu.be/XtyCvA8eN18
米コロラド州にある空軍士官学校予備校の学生寮で、黒人学生を侮蔑する人種差別的な罵倒が、学生の部屋のドアについた伝言板に書かれた問題を受け、士官学校校長のジェイ・シルベリア中将は
‡2017(平成29)年09月28日(木)、士官学校の全校生徒と教職員を集めて、このような振る舞いはまったく受け入れられないと強い調子で話した。「他人を尊重して敬意をもって接することができないなら、出ていけ」と、厳しい口調で繰り返すシルベリア中将の訓話は、インターネットでも大きな話題となった。空軍士官学校予備校では、ただちに士官学校に入学を認められなかったものの10カ月以内に補欠入学が認められる可能性のある生徒たちが学んでいる。
【8時だよ全員集合】最終回-1985年9月28日放送https://youtu.be/0EX2uxPpzHQ
†1985(昭和60)年09月28日(土)、最終回を迎える。荒井注も出演。前半は母ちゃんコント、後半は番組の名場面集を放送した後、ゲスト出演者からドリフターズに花束が贈られた。そしてフィナーレでは、天井から大量の紙吹雪がステージ一杯に降り、観客がスタンディングオベーション状態になり番組終了。
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┃ 森永チョコフレーク ┃
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‡2018(平成30)年09月28日(金)に、2019年内に製造が終了することが発表
https://ja.wikipedia.org/wiki/森永チョコフレーク
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1977(昭和52)年09月28日(水) 日本赤軍、日航機をハイジャック。仲間9人の釈放を要求 ⇒ 日本赤軍のメンバー5人が、パリ発東京行きの日本航空機をハイジャック。バングラデシュのダッカに強行着陸し、乗客乗員を人質に身代金600万ドルと刑務所に収監中の仲間ら9人の釈放を要求した。政府は「超法規的措置」で身代金の支払いと釈放に同意した6人の出国を決めた。写真はダッカ空港の日航機【時事通信社】
1971(昭和46)年09月28日(火) 日本初の科学衛星「しんせい」の打ち上げに成功
1994(平成六)年09月28日(水) バルト海で大型フェリー「エストニア号」が沈没。死者852人
https://www.jiji.com/jc/daily
1968(昭和48)年12月19日(木) 第9次南極観測隊が日本人で初めて南極点に到達 ⇒ 第9次南極地域観測隊の村山雅美隊長ら11人が、日本人で初めて南極点に到達した。11人は
‡1968(昭和48)年09月28日(土)、極地用に開発された雪上車で昭和基地を出発し、片道2600キロを83日かけてたどり着いた。写真は、第9次観測隊が南極点に到達した様子(国立極地研究所提供)【時事通信社】
https://www.jiji.com/jc/daily?d=1219
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1977(昭和52)年9月28日(水) 野球を取るか女を取るか迫られ、南海・野村克也監督が退任!
‡2017(平成29)年9月28日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月28日だ。
写真◆チームは2位と健闘していたのだが……
1977(昭和52)年9月26日(月)、スポーツ紙が「南海・野村克也監督解任」とぶち上げた。南海のプレーイングマネジャーだった野村は、離婚前から前夫人と別居し、現・沙知代夫人と新スタートを切っていた(のちに離婚成立が
1977(昭和52)年9月22日(木)だったと明らかになった)。
記事の内容は、この沙知代夫人がグラウンドや監督室に出入りし、さらにはコーチ会議にまで顔を出して選手の起用法にまで口を出すのはおかしいと、選手から不満が出ているというものだった。
それが川勝オーナーの耳に入った。もともと野村監督を高く評価していた人物だが、騒ぎが大きくなったため、事態収束に向け、「野球を取るか、女を取るか」と野村監督に迫ったが、野村監督はなんと「女」、つまりは沙知代夫人を選んだ。
‡1977(昭和52)年9月28日(水)は、野村監督の退任が発表された日だ。ただ、本人はその間、マスコミとの接触を断ち、野村を慕う江夏豊、柏原純一、高畠導宏コーチと自宅マンションに「籠城」。
1977(昭和52)年10月5日(水)になって記者会見を開き、「彼女がコーチ会議に出たというのはまったくのデマ。私が刑事事件でも起こしたのならともかく球団は非常識過ぎる」と反論。さらに「鶴岡元老(一人。前監督)の圧力で吹っ飛ばされた」との発言もあった。夫人の現場介入など口実に過ぎず、鶴岡氏の息のかかったコーチ陣を一掃したことでクビに追い込まれた、と主張したのだ。
その後、野村はチームを退団し、「生涯一捕手」と覚悟を決めてロッテに移籍。野村派の3人もロッテへの移籍を希望したが、結局、江夏は広島、柏原は日本ハム、高畠コーチのみロッテに移ることとなった。南海はその後、ダイエーとなり、97年までずっとBクラス。これは「ムースの呪い」というべきだろうか(野村氏の愛称がムースだった)。
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170928-12
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.129 ┃ 30円
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‡1960(昭和35)年9月28日(水)号 特集 巨人再建の秘密会議
2018(平成30)年3月05日(月) 17:20 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎「いまの巨人は阿波踊り」
写真◆表表紙は左から大洋・三原監督、巨人・水原監督
今回は『1960年9月28日号』。定価は30円だ。9月に入りセは大洋と巨人の優勝争いとなっていたが、カギを握るのは、両チームに7試合ずつを残す広島と言われていた。広島ナインとしては、警戒は大洋より巨人。『ペナントの鍵を握る広島』という記事で、長谷川良平が語る理由は、
「野球は映画と違うよ。監督が変わったからと言って、映画のようにいい作品が簡単にできるもんかい。いままでの大洋は先取点を取って逃げ込んでいたけど、こういう勝ち方は、そう長く続くもんじゃないさ」
1点差、それも1-0の勝利が多いのが、この年の大洋の特徴でもあった。
巻頭特集は『巨人優勝への秘密会議』。巨人初代総監督・市岡忠男、セ会長・鈴木龍二、巨人初代監督・三宅大輔、NHKアナウンサー、志村正順出席の座談会をもとに構成したものだ。
重鎮だけあって、それぞれ好き勝手に話している。一部を抜粋しよう。
志村 私はね、過去の輝ける巨人は川上(哲治)の引退によって終わりを告げたと思うのですよ。それから新しい巨人が長嶋(茂雄)の入団によって生まれてきたような気がする。昔の巨人は石にかじりついても負けられないという、執念のようなものがあったと思うのです。ところが長嶋の場合は、うわっという人気で押してきて、ほかの選手もそのハイライトの上に乗っちゃって、エラーしても三振しても大喝采という雰囲気の上に、ふわっと乗ってる。それがいまの巨人。
三宅 だいたい川上、千葉(茂)などは巨人が育てた選手でしょ。長嶋はほかで育ったものがぱっとやってきたところに違いがあります。
鈴木 川上の引退が早すぎたという気がするんだけどね。五番でも打っていれば、長嶋も敬遠されないで、もう少し得点も増えるような気がするしね。過渡的な状態というべきかな。
市岡 確かに、あの人気に乗っているからいかんな。いまの巨人はどうも阿波踊りで(笑)。しかもアワ踊りのアワはあぶくのアワ、泡沫のアワですよ。
『佐々木信也連載対談』は南海の野村克也が登場。野村は左指親指の第一関節あたりの骨にヒビが入っていたらしい。それでもギプスをつけて固定しながら試合に出続け「やりながら治さんとしょうがいない」とも。昔の人はタフだ。
以下は宣伝です。しばらく、まったく同じ文を掲載します。
現在、週刊ベースボール60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編です。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.331 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1964(昭和39)年9月28日(月)号 南海、阪急戦と野球賭博
2018(平成30)年11月1日(木) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎別所コーチに登板指令?
写真◆表紙は左から大洋・別所毅彦コーチ、秋山登
今回は『1964年9月28日号』。定価は50円だ。
パでは、首位を走る南海に2位阪急が挑む9月10日からの4連戦があった。
10日が西宮のダブルヘッダー、12,13日が大阪球場だ。まず10日の第1試合は南海がスタンカの好投で5対1と先勝したが、2試合は石井茂雄が杉浦忠との投げ合いを制し、3対2で阪急が勝利。石井は「ここまで来たら毎日でも投げるよ」と強気のコメントをした。
その言葉どおり12日の試合も石井は2対1の7回から登板。野村克也から同点弾を浴びるも、そこからは抑え、9回には自ら決勝の口火を切る一打を放ち、27勝目を飾った(阪急3対2)。
最後13日の試合は、スタンカが1失点完投で24勝目。南海の残りは3試合、阪急は7試合。「もはや優勝も見えてきたのでは」という記者の質問に、南海・鶴岡一人監督は開口一番、「アホ抜かせ」(南海4対1)。
この熱闘の最中、大阪球場の外野席でひと騒動があった。
警察による野球賭博への手入れだ。
当時、関西の球場ではかなり大っぴらに野球賭博が行われていた。この日も外野席で、
「南海七分で10本買いや」「1対1でどうや。阪急買わんか」などとやり取りがあった(分はハンデのこと)。彼らの手には千円札、1万円札がわしづかみにされている。
今回は彼らの中に約80人の警官がもぐりこみ、賭け屋やファンを装いチャンスをうかがっていたのだ。
逮捕者は29人。押収した賭け金は120万円あまり。彼らはイニングの得点差などに対して千円から1万円かけるという方法で、胴元はその1割をてら銭としていた。
西宮、甲子園、大阪球場には10人くらいの胴元がいて、これに常に30から40人程度の張り手がついていたという。
一方、大洋が首位も2位の阪神が僅差で追うセでは、いままでベンチにいた大洋・三原脩監督が一塁コーチスボックスに立って話題となっている。実はこれ、中部謙吉オーナーの意見だった。
「君が陣頭指揮を執れば、チームにも張りが出るやろ。ナインの気持ちがぐっと締まったものになる」
一方、中部オーナーは別所毅彦コーチに、
「どうや別所君、いよいよ投げてみんか。君の体なら練習せんでも大丈夫。いつでも投げられる。1勝20万や、どうや」
別所は目を白黒させながら「とんでない社長、私はとても無理ですよ」と言った。
では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.653 ┃ 80円
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‡1970(昭和45)年09月28日(月)号 ふてくされる阪神・江夏豊
2020(令和二)年02月21日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎ロッテのMVPは誰に?
写真◆表紙は大洋・平松政次
今回は『1970年9月28日号』。定価は80円。
17勝12敗、防御率2.21の阪神・江夏豊の評判がよろしくない。
9月2日、甲子園のヤクルト戦(甲子園)で3回KOを食らった際、
「もう早いことペナントレース終わらんかな。シーズンオフになったらいいのにな」
と投げやりな発言。さらに、
「はっきり言って、ワシが勝利投手になるのを喜ばん者がチームにいるんや」
と言った。これには阪神・村山実監督も激怒。
「当分、江夏をローテーションから外す」
と一度は言ったが、6日の広島戦に最後のチャンスとばかり先発させると完封してしまった。
試合後、マスコミの質問に対する答えは1つだけ。
「なんやかんやとたたかれたから一生懸命やっただけや」
冷戦状態になっていたマスコミには「今後いっさい協力しない」と宣告していたらしい。
南海では新人・佐藤道郎がリリーフメーンながら13勝4敗、防御率1.75で新人王候補の最右翼と言われているが、なかなかの強心臓で、野村克也監督に「先発させてほしい」と直訴したという。
このときは野村監督にこう言われた。
「いまお前を先発で使ってみろ。9回持たんぞ。ワシは監督や。お前の力はワシが一番知ってるんや」
一応、引き下がったらしい。
当時はまだセーブ制度がなかった。
いつも疑問に思うが、野村南海の抑え第1号は間違いなく佐藤。のちの話になるが、江夏豊が1号というわけではない。
ほぼ優勝決定と言われるパのロッテでは、誰はMVPか話題になっていた。
9月10日時点で、成田文男21勝8敗、木樽正明18勝7敗、小山正明13勝9敗、アルトマン打率.334、26本塁打、64打点らが候補で挙がっていた。
大穴は東映の張本勲。ただし、打率4割を達成したら、と言われていた。
死球を側頭部に受けた阪神・田淵幸一の続報。小さな血腫が頭部にあり、また脳が少しはれているようだが、手術の必要はなく、後遺症も出ないだろう、ということだ。
また、死球前後の記憶はなく、9月7日現在ではまだ自力で立ち上がれないという。この事故、当時の雑誌ではそれほど深刻に書いていないが、実際はかなりやばかったのではないだろうか。
今季はほぼ絶望。村山実監督は来季の起用について「しばらくファーストを守らせようと思っている」と話していた。
では、また火曜日に。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180305-91
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181031-01
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200221-01
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.216 ┃ ONLINE
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セ・リーグの迫害! 広島に球団がなかった可能性も!
2018(平成30)年7月28日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
球団減のターゲットとなった広島
写真◆広島・小鶴誠
1950(昭和25)年、8球団でスタートしたセ・リーグだったが、西日本が西鉄と合併、パ・リーグに移ったことで1951(昭和26)年には7球団となり、試合運営に支障をきたしていた。
そこで出来たのが「あるチームの年度勝率が30パーセントに達しないときは当該クラブに対する以降の処置を理事会が決定する」という連盟規定だった。リーグが目論むのは6球団制で、そのターゲットとなったのが50、51年と連続最下位の広島だった。
1952(昭和27)年は8月末からの1カ月で27試合の過密日程。
‡9月28日(日)夜、石本監督は名古屋の宿舎に全選手を集めた。
「死んでも勝とう」
翌日のダブルヘッダーに1勝1敗。名古屋からこの年2つめの白星を挙げた。これで勝率.290、松竹が.288。ようやく最下位を脱出した。
結局、37勝80敗3分けの勝率.316の6位。最下位に落ち、勝率3割を下回った松竹は連盟の裁定で大洋(現DeNA)と合併。洋松ロビンスとなる。
その後、松竹から小鶴誠、金山次郎が加入することになるが、その獲得資金1000万円を捻出したのが後援会。「2万の後援会員が500円ずつ」で、本当にかき集めてしまった。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.191 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
ダメ虎に灯ったかすかな光明。ドライチ、5連続完投の“快記録”
2018(平成30)年7月2日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
シーズン終盤に起こった“奇跡”
写真◆阪神・湯舟敏郎
1991(平成三)年の阪神は残り18試合で早くも2年連続最下位が目前。秋風がビュービューと吹きまくっていた甲子園球場に、ある“奇跡”が起こった。
まずは1991(平成三)年9月22日(日)の横浜大洋戦。お立ち台で涙を流した阪神先発・中込伸の完投勝利からだ。
「すごくうれしいです。これまでなかなか勝てず、スカウトの方や田舎の監督、コーチのみなさんにも、ご迷惑をおかけしました……」
背番号は99と大きいが、1989(平成元)年のドラフト1位。右ヒジの手術もあり、これがプロ初勝利だ。この消化試合から、史上例を見ない“怪記録”がスタートした。
翌1991(平成三)年9月23日(月)の同カードで、今度は新人ドライチの湯舟敏郎が先発での2試合連続完投勝利(完封)。さらに
1991(平成三)年9月24日(火)からのヤクルト3連戦の初戦で、88年のドライチ、野田浩司が3失点完投勝利、続く
1991(平成三)年9月25日(水)には1987(昭和62)年のドライチ、猪俣隆が1失点完投勝利。これで4連続完投勝利だ。阪神にとって、
1977(昭和52)年4月07日(木)の6連続完投勝利以来14年ぶりとなる。
1991(平成三)年9月26日(木)、今度は1990(平成二)年のドライチ、葛西稔が1失点完投勝利。まさに前代未聞、ドラフト1位だけの5連続完投勝利を達成した。
阪神は、これでこの年初の5連勝、3連戦初の3タテ、2年目の中村勝広監督にとって、就任以来初の月間勝ち越しでもあった。この間、和田豊、八木裕、オマリーら打線も好調。遅まきながら“勝ちパターン”もできてきた。
‡しかし1991(平成三)年9月28日(土)、甲子園を離れた途端、“魔法”が解けた。中日に8対9と逆転負け。以後、閉幕まで2勝11敗とダメ虎へと完全に逆戻り。ただし、我慢しながら5人を軸に作った先発投手陣は翌年も機能。リーグトップの防御率2.90を残し、2位躍進の原動力となった。
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180728-12
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180702-13
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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