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┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』 ┃
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1996(平成八)年10月28日(mon) JP Released
1996(平成八)年10月28日(mon) UK Released
1996(平成八)年10月29日(tue) US Released
◇Disc one (CD1)
◎LP A-side (Record Disc 1)
10."Don't Pass Me By" (Takes 3 & 5) Richard Starkey
1968(昭和43)年06月05日(wed) EMI Studios 2:42
‡1968(昭和43)年06月06日(thu) EMI Studios 2:42
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https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDWNM
https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT36GH9
https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_3
https://music.amazon.co.jp/albums/B00H77Z0I6
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音源◆The Beatles - Live At Blokker, June 6 1964 (Late Show) https://youtu.be/7N9CPlnvz5Y
‡6 June 1964 Blokker, The Netherlands, Prior to performing two concerts in the village of Blokker in the Netherlands - their only two shows on Dutch soil - The Beatles and Jimmie Nicol toured the canals of Amsterdam in a glass-topped tourist boat. The Beatles took to the stage following eight support acts. They played for around 25 minutes, and their stage times were 4.30pm and 10.05pm. The second show was filmed with television and newsreel cameras.
01. Introduction [0:00]
02. I Saw Her Standing There [0:21]
03. I Want To Hold Your Hand [2:14]
04. All My Loving [2:34]
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┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1960(昭和35)年06月06日(月) ライヴ演奏:グローブナー・ボールルーム/ワラジー
②1961(昭和36)年06月06日(火) ライヴ演奏:トップ・テン・クラブ/ハンブルグ (67日目)
7月1日のもうひとつの(土)曜日まで92日間、毎日演奏良好だヨ(=^◇^=)
③1962(昭和37)年06月06日(水) 録音:♪Love Me Do♪他/アビー・ロード (初)
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①1960(昭和35)年06月06日(月) ライヴ演奏:グローブナー・ボールルーム/ワラジー
ビートルズは1960年の6月から1961年9月までの間に、合計14回グローブナー・ボールルームに出演している。
②1960(昭和35)年06月04日 06日 11日 18日 25日
1960(昭和35)年07月02日 09日 16日 23日 30日
1960(昭和35)年12月24日
1961(昭和36)年02月24日
1961(昭和36)年03月10日
1961(昭和36)年09月15日
③1962(昭和37)年06月06日(水) 録音:♪Love Me Do♪他/アビー・ロード (初)
場所:EMIアビーロード第2スタジオ (Studio2/EMI Studios, Abbey Road)
プロデューサー:ジョージ・マーティン (George Martin)、ロン・リチャーズ (Ron Richards)
エンジニア:ノーマン・スミス (Norman Smith)
録音楽曲:♪Besame Mucho♪, ♪Love Me Do♪, ♪PS I Love You♪, ♪Ask Me Why♪
1962(昭和37)年06月06日(水)は、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日であった。7:00pm~10:00pmに第2スタジオで行われたこのレコーディング・セッションは、実質的にはむしろオーディションであった。彼らは多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、4曲を録音する。正確なテイク数は知られていないが、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順でテープに収められた。
ノーマン・スミス『Sound On Sound』ビートルズの印象はルックス以外はあまりよくなかった。つまりジョンとポールのソングライターとしての資質はまったく聴き取ることはできなかった。彼らはちっぽけなVOX社製のアンプとスピーカーを持ってたが、それらは楽器の源音を再生できていなかった。言うまでもなくすべての音響技師はあるレベルの源音を欲しがる。それさえあれば後でいくらでも改良したり効果を加えたりできるからね。しかし僕らがビートルズの装置から得たものは大量のノイズやハム、あと正体不明の音だけだった。ポールの装置は最悪だった。その頃は残響を付加するために残響室 (echo chamber) という部屋があったが、僕は彼の音をなんとかテープに収められるレベルにするのに、第2スタジオの残響室にあったアンプとスピーカーを引っぱり出さなければならなかった。
問題はポール・マッカートニーのベース・アンプだけではなかった。
◎ノーマン・スミス『Recording The Beatles』ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン ⇒ ジョン・レノンのギターアンプが振動してカタカタ鳴るのを、僕らは実際にひもで縛って止めた。それからピート・ベストのドラムのシンバルにも確か問題があったと思う。でも最終的に何とかすべてを整頓し、やっとのことでレコーディング開始にこぎつけた。
このセッションについての記録文書のほとんどはとっくの昔に破棄されている。しかしロン・リチャード (Ron Richard) をアシスタントとしてジョージ・マーティン (George Martin) がプロデュースし、ピート・ベストがドラムで参加した唯一のEMIレコーディング・セッションだったことだけはわかっている。
1962(昭和37)年09月04日にビートルズがアビーロードにもどった時には、リンゴ・スター (Ringo Starr) が新ドラマーとして参加している。当初ロン・リチャードがこのセッションを任されたが、調整技師のノーマン・スミス (Norman Smith) が『Love Me Do』のクオリティに驚き、そこではじめてジョージ・マーティンが呼び出される。アーチスト・テストにプロデューサーが臨席すること自体が珍しいが、彼はこの日このセッションのほとんどに付き添っている。
◎ノーマン・スミス『Recording The Beatles』ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン ⇒ 調整室のドアが開いて入って来たのはジョージ・マーティン本人だった。そして僕は内心で「彼が出てくるなんて、これは何か特別なアーチスト・テストに違いない」と思った。普通プロデューサーはアーチスト・テストには付き添わない。それはアシスタントの役目だった。そしてもちろんジョージ・マーティンはそれまでギター・グループに関係したことはまったく無かった。彼はピーター・セラーズ (Peter Sllers) とかのコメディ・レコードを多くプロデュースしていた。
実際の所は、♪Love Me Do♪を聴いて何かを感じたスミスが、ロン・リチャードにジョージ・マーティンを呼び出すべきだと提言し、テープ・オペレーターのクリス・ニール (Chris Neal) にマーティンを連れてくるよう指示したようだ。それ以後はマーティンがこのセッションの指揮を取った。録音終了後にマーティンはビートルズを調整室に招いて録音を再生して聞かせ、また会話した。
◎ノーマン・スミス『Recording The Beatles』ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン ⇒ 僕らは彼らの装置について、またレコーディング・アーチストになるなら、装置に対して配慮すべきことについて長々と彼らに講義した。彼らは一言も物を言わず、同意して頷くことさえなかった。ジョージ・マーティンはしまいに言った「かなりの時間、こうして私は君たちに言葉を投げかけているのに、君らからは応答がない。何か気に入らないことがあるのかね?」彼らは貧乏揺すりしながら長くお互い同士を見つめ合った。そしてジョージ・ハリスンがマーティンを長々と見つめた後に言った「はい。あなたのネクタイが好きじゃありません。」その一言が我々を閉じ込めていた氷を溶かした。その後の15~20分、彼らはまったく愉快だった。彼らが帰った後、マーティンと僕は座って話した「ふぅー、ところで奴らをどう思うよ?」僕の顔には涙が伝っていた。
この日の録音は、このセッションの録音から商用レコードのリリースはできないと決定された時に廃棄されている。これは60年代の初期においては普通のことであった。しかし♪Besame Mucho♪Love Me Do♪は非公式ながら生き残った。前者は1980年代、後者は1994年に個人コレクションの中から発見されている。どちらもアルバム『ANTHOLOGY 1』に収録された。
◎ノーマン・スミス『Recording The Beatles』ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン ⇒ 彼らが帰るとマーティンは僕の所に戻って来て言った「さて彼らをどう思う?」僕は言った「僕はアーチスト・テストに来る多くのグループを見てきた。だけどこのグループには何か特別なものがる。それが何かは言えない、しかし彼らには何かがある。」前に言った通り、テストはそれほどうまく行ったわけじゃないし、僕は彼らのサウンドにこれといった印象は無かった。だけど彼らは訴える力、ある種のカリスマを持っていた。僕はマーティンに「私見では、彼らは契約されてしかるべきだ。」と言った。そして彼が帰るときに僕に言った「わかった。考えてみるよ。」という言葉を忘れることはないだろう。 ところであの日のアーチスト・テストの前に、ビートルズは実際は契約書にサインしていたのではないかという議論が後になって起こった。出てきた議論の多くは「なぜジョージ・マーティン自身ががアーチスト・テストに付き添ったのか?」という個人的な疑問に意味を成すものだった。言ったようにそれはアシスタントの仕事で、他のプロデューサーは誰もそんなことはしなかった時代だ。ところがあのアーチスト・テストにはジョージ・マーティン自身が当った。ということはあの時点で契約が結ばれていたのは疑う余地がない。しかし後に僕は迷い始めた「彼らはすでにサインされていたのか? だからジョージ・マーティン自ら出てきたのか? それとも彼がビートルズに会うのが初めてだったからか? それとも他にも何かあったのか?」
ケン・タウンセンド (Ken Townsend) はこのセッションでテープ・オペレーターをしていた。彼はビートルズの印象は長続きしなかったことについて後に回想している。
◎ケン・タウンセンド『Recording The Beatles』ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン ⇒ 僕らはあのテストをやって、テープはライブラリーに保管された。およそ1週間後にノーマンが僕に言った「ケン、先週僕らがやったあのグループの名前はなんて言ったかな? マンチェスター・スクウェアにテープを持っていかなきゃならないんだ。」僕は言った「ザ・ビートルズ!」つまり彼は実際そのグループの名前を忘れていたんだ。
④1962(昭和37)年06月06日(水)に行われたオーディションとレコーディングセッションの後、ジョージ・マーティンはビートルズとパーロフォン社との契約書にサインする。このジョージ・マーティンとビートルズのカップリングは、ポップミュージックに計り知れない変化をもたらす一連の出来事を引き起こし始めようとしていた。
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①http://gejirin.com/beatles/history/1960/19601224_live_grosvenor_wallasey.html
https://music.amazon.co.jp/albums/B00BKB6N3G
②https://gejirin.com/beatles/history/1961/19610401_live_top_ten_club.html
③https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620606_rec_LoveMeDo.html
④http://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/19260103_georgem_birth.html
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┃ THE BEATLES HISTORY ┃| June 06|157
┃ ザ・ビートルズの今日の出来事 ┃|6月06日|
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1960(昭和3)年06月06日(月) チェシャー州ワラシーのグロブナー・ボールルームでレス・ドッド主催のイベント「スペシャル・マンデー・ジャイブ・アンド・ロック・セッション」にシルヴァー・ビートルズが出演。ジェリー・アンド・ザ・ペースメイカーズと初競演。
1961(昭和3)年06月06日(火) 2度の契約更新の後、2度目のハンブルグ巡業が4月1日より7月1日まで行われ、92日間、のべ503時間トップ・テン・クラブのステージに立つ。前回の最初のハンブルグ巡業と並んで、ビートルズのスタミナと実力を飛躍的に向上させた有意義な巡業となった。
1963(昭和3)年06月06日(木) ロイ・オービソンとのパッケージ・ツアー中だが、この日はオフ
1964(昭和3)年06月06日(土) ワールド・ツアーでオランダのブロッカー公演がフェイリンハル・オブ・ホープ・ファン・ゼーハンで行われた。昼夜の2回公園で昼のステージは2時半、夜のステージは7時スタート。昼のステージは2,000人しか入らなかったが、夜のステージは7,000人の完売となった。セットリスト(1回目公演)「I Saw Her Standing There」「I Want To Hold Your hand」「All My Loving」「She Loves You」「Twist And Shout」「Long Tall Sally」(2回目公演)「I Saw Her Standing There」「I Want To Hold Your hand」「All My Loving」
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17025
http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/006/0606.html
https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15741792.html
http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
楽曲資料https://beatlesdata.info/
歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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┏━━━━━━━━━━━━━┓かみばやし さとる 朝日文庫
┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 本体680円+税 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛ 2013(平成25)年11月30日(土)第1刷発行
No.16 P.093 1964年02月09日「全米制覇の瞬間」◎テレビ番組『エド・サリバン・ショー』放送日◎
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1964(昭和39)年 2月 9日(日)|「全米制覇の瞬間」
|2008(平成20)年 2月 8日(金)|甲虫日記更新日 No.018
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ビートルズの「全米制覇」を象徴する出来事といえば、1964年2月9日午後8時から9時(東部時間)に全米に放映された『エド・サリバン・ショー』を挙げたい。日曜の夜のゴールデンタイムに毎週放映された、米国史上最も有名な音楽バラエティー番組。新聞の編集者やラジオ番組のパーソナリティーだったエド・サリヴァンが、CBSテレビに抜擢され、
1948(昭和23)年6月20日から
●1971(昭和46)年6月6日の約23年(22年11ヶ月17日)にわたり司会を務めた。
1964(昭和39)年2月7日、ジョン・F・ケネディ空港に降り立ったビートルズは、その瞬間から、全米すべてのマスコミの露出の対象になり、一挙一動がほとんど生で報じられた。米国は前年
1963(昭和38)年11月22日に起きた「ケネディ暗殺」の衝撃から抜け出せないでいた。4人は、喪失感に襲われた米国人の希望の光として受け入れられた。歴史には必然性がある。それまで英国のポップ・グループや歌手が米国のチャートで成功することはまれだった。ところが、前年
1963(昭和38)年12月26日に発売されたシングル♪抱きしめたい♪は3日間で25万枚が売れ、
1964(昭和39)年1月10日には100万枚を超え、
1964(昭和39)年1月13日はニューヨークで1日に1万枚を売れる勢い。2月初めに米国の2大音楽誌チャートの1位に輝くと、63年に英国で発売されたほかの3枚のシングルと2枚のアルバムすべてが、この時期にチャートを邁進する異常現象が起こっていた。
その熱狂の渦中に渡米して3日目になる日曜の夜。スタジオに集まった観客728人を前に約14分間出演。♪ALL MY LOVING♪/♪SHE LOVES YOU♪など5曲を演奏した。7300万人の視聴者をテレビにくぎ付けにし、72%の視聴率を稼ぎ出した。「ビートルズ出演中はニューヨークで青少年の犯罪が1件もなかった」。この記念すべき瞬間についての逸話は事欠かない。この瞬間を見た翌日、ブルース・スプリングスティーンやビリー・ジョエルら後に米国のミュージック・シーンを支える若者たちは楽器屋に走ったという。4人は
1964(昭和39)年2月16日、マイアミ・ビーチのホテルから生中継で『エド・サリバン・ショー』に出演する。7000万人が視聴したと推定されている。米国を離れ、ロンドンに戻った23日も3週連続で出演。初日の出演前に録画しておいたもので、厳密にはこれが番組初出演になる。エドの声が歓声でかき消される。出だしは「ツイスト・アンド・シャウト」。緊張気味のジョンのボーカルはかえって凄みがある。髪をオールバックにきっちりきめたエドと、モップトップ・ヘアの4人が一緒に並ぶと何とも奇妙だ。
1956(昭和31)年にエルビス・プレスリーが番組に出演した際、エドはカメラマンにエルビスの腰から上だけを撮影するように指示した。視聴者にルター派の人や牧師、尼さんが大勢いることを理由にした。ビートルズが初出演した時は、4人に対して他の出演者の演奏を礼儀正しく聴いているように注意し、「もしそれができなかったら床屋を呼ぶ」とも付け加えた。半面、人気テレビ番組の司会者にふさわしく、若い感覚を持ち続けた人らしい。ビートルズが番組に出演したきっかけは、
1963(昭和38)年10月31日、エドがロンドンのヒースロー空港でビートルマニアに遭遇したことに始まる。ビートルズはスウェーデン公演から戻ったところで、空港周辺は金切り声を上げるファンであふれかえっていた。この人出に驚いたエドは、通りかかった人に何があるのかとたずねた。返ってきたのは「ビートルズだよ」という答え。思わず、「一体何者ですか、そのビートルズというのは」と聞き返した。
ホテルに戻ると、早速、ビートルズのマネジャーの名前を調べ、番組に3度出演するよう話をつけた。しかし、米国に戻ると、ビートルズの名前を知っているのは自分たちだけらしいと知り、悩んだという。
1963(昭和38)年11月11日、ビートルズのマネジャー、ブライアン・エプスタインはニューヨークでエドの代理人と交渉した。スターの番組出演料は1回につき7500ドルが相場だった。だがビートルズの場合、3回分の出演料として1万ドルが提示された。代理人は交渉成立後もビートルズが米国で無名であることを心配したが、エドは電話でこう伝えたという。「彼らには投資してみる価値がある」。その直後、ケネディ暗殺事件が起こり、年が明けると♪抱きしめたい♪が大ヒット。歴史的な舞台は偶然も伴って整っていった。
◎『この日のビートルズ』の次回は、2月23日です(更新は22日)。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ ⇒ ♪抱きしめたい♪は『THE BEATLES 1』に入っています
『THE BEATLES 1』2000年11月13日 EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/list.html
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┏━━━━━━━━━━━━━┓かみばやし さとる 朝日文庫
┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 本体680円+税 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛ 2013(平成25)年11月30日(土)第1刷発行
No.06 P.040 1962年10月05日「3種類のデビュー曲」◎デビュー曲♪Love Me Do♪発売日◎
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1962(昭和37)年10月 5日(金)|「レコード・デビュー曲♪ラヴ・ミー・ドゥ♪発売」
|2007(平成19)年10月 5日(金)|甲虫日記更新日 No.009
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1962年10月5日、ビートルズの記念すべき英国デビューのシングル盤レコード「ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー」が発売された。
コアなファンには周知の事実だが、A面の「ラヴ……」には3種類の公式バージョン(版)がある。ほとんどの人が耳にしている版で、リンゴはドラムスではなくタンバリンを演奏している。そして、B面の「P.S.……」でドラムスを担当しているのは熟練セッション・ミュージシャンのアンディ・ホワイトで、リンゴはマラカスを振っているだけだ。
こうなった原因は、録音を指揮したEMIのプロデューサー、ジョージ・マーティンの考えによるところが大きい。
デビュー・シングル発売に向けた録音は、62年6月6日、9月4日、同11日の計3回行われたが、3回ともドラム担当者が違っている。正確なテンポを刻むドラム演奏に慣れていたジョージ・マーティンの「耳」を、若きピート・ベストもリンゴもすぐには満足させることができなかったからだ。
ビートルズがEMIで初めての録音に臨んだ6月6日、ピートがドラムをたたいた。この版は、95年11月世界同時発売の「アンソロジー1」に収録されてようやく日の目を見る。全体にテンポは遅く、サビと間奏でシャッフル系からエイト・ビートにリズムが変わるなど不安定な演奏だ。
ジョージ・マーティンは録音が終わるとピートを部屋の隅に呼び、「次はスタジオ・ミュージシャンを雇う」と告げた。当時はセッション専用のドラム奏者を使うことは珍しくなかった。
8月にピートはビートルズを解雇される。ジョージ・マーティンの指摘が自然と最終的な方向を突いていたのは確かだが、解雇の理由ではない。ピートの母に電話で釈明した内容から、マーティンの基本的な考え方が伝わってくる。
「ピートを辞めさせなければならないとは言っていない。ビートルズの最初のレコードだから、セッション・ミュージシャンを使ったほうがいいと思うと言っただけで……。それにファンというのはドラム演奏の質には特別の注意を払いません」
2回目の録音があった9月4日、新メンバーのリンゴがドラムスを担当した。ところが左利きなのに右利き用のキットを使っていたリンゴは、ロール演奏がうまくできなかった。どうしてもビートが速くなったり遅くなったりする。この日は、スティックではなくマラカスでハイハットを刻む妙なテクニックも試みた。
そのときジョージ・マーティンには、リンゴの本当の実力が分からなかった。ビートルズと危険を冒す心構えもできていなかった。ポールに「リンゴはやめよう。このレコードでは別のドラマーを使いたい」と告げた。
3回目の録音の日、スタッフの記憶によればリンゴはスタジオにあったドラムに触ってもいない。スタジオに行くと「プロのドラマーがいるから」と言われ、静かにコントロール・ルームで座っていた。そのうち「ラヴ……」でタンバリンを担当し、「P.S.……」ではマラカスの演奏を頼まれた。
いよいよデビューという段階になって双方に歩み寄りがみられた。最初にシングル盤として発売されたバージョンは、タンバリンが入っていない「リンゴ」版に決まった。
マネジャーのブライアン・エプスタインは自分が経営するレコード店で1万枚注文したり、BBCとラジオ・ルクセンブルクに手紙を出すキャンペーンを仕掛けたりした。英国のヒット・チャートで最高位は17位。
ところが、63年3月発売のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」では「アンディ」版が収録された。このころからEMIは「アンディ」版を正式版扱いにし、シングル盤やEP盤も「アンディ」版に差し替えている。ベスト盤「ビートルズ1962―1966」(通称・赤盤)にも「アンディ」版が収録されている。
一方、リンゴが演奏した版は珍品扱いとなった。解散後に発売された編集盤「ビートルズ・ボックス」と米国盤「レアリティズ」に収録されたが、2作ともCD化はされていない。英国で最初に発売された、センターレーベルが赤色のドーナツ盤は、いまや収集家にとって垂涎(すいぜん)の的だ。
「リンゴ」版の原盤は長らく「紛失した」とされていたが、デビュー20年後に「発見」され、82年11月に「アンディ」版と組み合わせた12インチ・シングル盤で発売された。いまはCDアルバム「パスト・マスターズVOL1」で聴くことができる。
さて、ジョージ・マーティンにドラマーを降ろされたリンゴは、そのことを何年も恨んでいた。内心は「ピートの次はおれか」と相当焦っていたはずだ。マーティンから何度か謝罪を受けたというが、アンソロジー(本)では「完全に許しちゃいないからね」と記している。
98年に発売されたリンゴのソロアルバム「ヴァーティカル・マン」には、いまやロック・クラシックにもなった「ラヴ……」が収録された。ジョンの代わりにスティーヴン・タイラーがハーモニカを担当。リンゴは、昔年の恨みを晴らすかのようなパンチの利いたドラミングにあわせ、実に心地よさそうに歌っている。
◎お知らせ ⇒ 本文中に登場するアルバム
「アンソロジー1」1992.6.24発売 EMIミュージック・ジャパン
「プリーズ・プリーズ・ミー」1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン
「ビートルズ1962-1966」1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン
「パスト・マスターズVOL1」1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン
「ヴァーティカル・マン」1998.6.29発売 EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/071005.html
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1963(昭和38)年 1月11日(金)|「初のナンバー・ワン・ヒット誕生」
|2008(平成20)年 1月11日(金)|甲虫日記更新日 No.016
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ミレニアムに発売された「ザ・ビートルズ1」には、ビートルズが活動していた1962年から70年にかけて英米のチャートいずれかで1位になった27曲が収められている。
正直に言おう。「ベスト盤? 何をいまさら」と鼻で笑っていた。ところが、日本だけで300万枚も売れ、東芝EMIの担当者の予想も覆す大記録となった。売り場を視察した担当者は、解散して30年もたつバンドのCDを10代の少年少女らが次々と購入する光景に目を疑ったそうだ。
ひとつだけ難癖をつけるとすれば、英国初のナンバー・ワン・ヒット「プリーズ・プリーズ・ミー」が収録されていないことだ。
1963年1月11日、第2弾シングルとして発売された。ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌で2週連続1位に輝くなど英国の主な音楽チャート(当時)のうち、レコード・リテイラー誌を除いた5つのチャートで1位になった。一方、米国では、64年1月30日に再発売され、ビルボードとキャッシュ・ボックスの両誌で最高位3位を記録した。
この成功は、自作曲にこだわるビートルズと音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンの揺るぎない信頼関係を生み出すことにつながる。
62年4月、EMIのレコード・プロデューサーだったマーティンは、友人の紹介でブライアン・エプスタインに会い、ビートルズの自主制作盤を聴くことになった。彼らの演奏に初めてふれた感想は、意外にも「可もなく不可もない、平凡な出来」であった。
ただ、ある種の荒っぽさに感覚を揺さぶられた。歌っているのが1人だけでないのも気になった。次第に彼らが演奏するところが見たくなり、録音テストを兼ねたオーディションをすることにした。糸はつながった。
6月6日、彼らに初めて会った。「一目ぼれだった」と自著に記す。「非常に人の注意を引く彼らの個性、一緒にいて魅力を感じる若者だった」。録音契約を結んだ。
もっとも、現場に立ち会ったスタジオ・エンジニアのノーマン・スミスは、ビートルズがマーティンに認められたのは、演奏力や曲の良さというより、彼らの会話のおかげだと本気で信じている。
録音の途中、マーティンは4人に色々と指示をしたが、彼らは何も言い返さなかった。そこで「何か気に入らないことでもあれば遠慮せずいってくれ。何とか手だてを考えてみる」と呼びかけた。
4人はお互い顔を見合わせて長い間モジモジしていた。そして17歳も年が離れたジョージ・ハリソンがマーティンの顔をまじまじとみながらいった。「うん、あんたのネクタイが気に入らない」。マーティンは腹の底から笑った。
双方の関心は、どうやってヒット曲を生み出すか、に変わった。
マーティンは、ジョンとポールの曲作りの能力について「先行き売れる見込みがない」と厳しい評価をしていた。彼らのスタイルにあった他人の曲を見つけ、声が最も魅力的と評価したポールをリーダーに、ほかの3人はバッキング・グループにする「思い違い」もプランにあった。一方、ビートルズは自作曲にこだわりをみせていた。
9月4日に2回目の録音。ドラマーがリンゴに代わった新生ビートルズ。マーティンはプロの作曲家が書いた「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」を録音させた。それが終わるとリンゴがドラムをたたいた自作曲「ラブ・ミー・ドゥ」の録音もした。
4人は自作曲でのデビューをかたくなに主張した。マーティンは、「ハウ……」に匹敵する曲が書ければそちらをやることにしよう、とかわした。
マーティンは頭の中のモヤモヤを整理したかった。妻と連れ立って4人が出演するリバプールの「キャバーン・クラブ」に出かけた。
立錐の余地もない地下の「穴蔵」は、人いきれがすぐに水滴になって壁をつたうような熱気があった。そこで聴衆がビートルズの「耳障りな音楽」に一瞬一秒にのめり込んでいく様子を目の当たりにした。ビートルズの音楽が、若者が本質的に求め、枯渇していた最も深いルーツからあふれるものだと気づいた。
マーティンは、「ボーイズ」と呼ぶ4人に選曲を任せることにした。デビュー曲は「ラブ・ミー・ドゥ」に決まり、「ハウ……」はEMIの貴重な秘蔵盤になった。
9月11日、デビュー曲の仕上げの録音が終わると、次に4人は「プリーズ・プリーズ・ミー」に取りかかった。
この曲は、ビング・クロスビーが32年に発表した「Please」にヒントを得ている。言葉遊びが好きなジョンが、歌詞の「お願いだ(please)ぼくの願い(pleas)に耳をかたむけてほしい」にある「please」と「pleas(『懇願』の意味を持つpleaの複数形)」という同音異義語を使った手法に感動し、綴りと発音が同じで2つの意味を持つ「please」という言葉を使って曲を作ろうと思いついた。
ロイ・オービンソンの「Only The Lonely」からインスピレーションをうけて書いてもいる。最初のテイクを録音したテープは現存しないが、マーティンが「とてもスローで、ボーカルはブルージーで、ロイ・オービンソンのナンバーみたいだった。テンポを速めなくちゃ使い物にならないと思った」と話していることから、何となくイメージはつかめる。
マーティンは、「テンポを上げてタイトなハーモニーをつければ、パッとした曲になる」とジョンにアドバイスした。自作曲でデビューを飾ることができた4人は、長身の「音楽教師」の言葉に素直に従った。
11月26日、「プリーズ……」に再びチャンスが巡ってきた。ジョンが「ちょっと変えてみた」曲は、つぼを押さえたマーティンのアドバイスが効果的にいかされていた。
録音が終わると、マーティンはスタジオ内のマイク・ボタンを押して言った。
「初のナンバー・ワン間違いなしだ」
ポールは「マーティンが先を見る目があることを初めて示した」と敬意を込めたコメントを残している。
◎『この日のビートルズ』の次回の更新は、1月30日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ ⇒ 「THE BEATLES 1」
2000年11月13日 EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/080111.html
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『THE BEATLES Interviews Database』 ┃
①┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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1964(昭和39)年6月5日(金)
No.032(16) 1964-06-05(fri) Beatles / Amsterdam, Holland (8 photos) Beatles' Schiphol Airport press conference and Doelen Hotel interview.
Beatles Press Conference & Interview: Amsterdam 6/5/1964
Before their performances ●on June 6th(sat), the group climbed aboard the Royal Yacht, taking a boating tour of Amsterdam's canals. The shores and bridges were swarming with Beatlemaniacs -- the more out of control fans jumping into the channel and swimming toward the boat that carried the Beatles. John and Paul attempted to physically protect a few of the fans from the Amsterdam police, who were brandishing hard rubber police clubs. As the craft passed under bridges, the Beatles were showered with gifts from the fans above. Due to the crowds and general chaos, the Beatles arrived late for the first of their two shows in Blokker at Veilinghal.
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‡1968(昭和43)年6月6日(木)
‡No.126(07) 1968-06-06(thu) Lennon / BBC-TV, Release (4 photos) John Lennon and Victor Spinetti discuss the new play based on John's books.
John Lennon Interview: Release 6/6/1968
‡On June 6th 1968, Peter Lewis chatted with Lennon and Spinetti about the new play. The filmed interview would air on BBC-2 as part of the arts program 'Release.'
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①http://www.beatlesinterviews.org/db1964.0605.beatles.html
②http://www.beatlesinterviews.org/db1968.0606.beatles.html
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