過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃『Some Time in New York City』┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1972(昭和47)年06月12日(月) US released
 1972(昭和47)年09月15日(金) UK released
 1969(昭和44)年12月15日(月) Lyceum Ballroom, London
‡1971(昭和46)年06月06日(日) Fillmore East, New York City
****************************************
 https://en.wikipedia.org/wiki/Some_Time_in_New_York_City
****************************************

 ジョン&ヨーコも参加! ザッパの71年ライブ8枚組CDが3・18リリース
 2022(令和四)年01月28日(金) 20:02 デイリースポーツ
 写真◆フランク・ザッパ&ザ・マザーズ『ザ・マザーズ1971』50周年記念(8CDスーパー・デラックス・エディション)
 伝説のロック・ギタリスト、フランク・ザッパ率いるマザーズが残したライブ名盤「フィルモア・イースト1971年6月」の発売50周年を記念して、同時期のライブ音源を収録した限定ボックス「ザ・マザーズ 1971」50周年記念(8CDスーパー・デラックス・エディション)の日本盤が
 2022(令和四)年03月18日(金)にリリースされることが
 2022(令和四)年01月28日(金)、発表された。本ボックスは初出音源がぎっしりのCD8枚と68ページのオリジナルブックレット、日本製ブックレットで構成されている。CDには「フィルモア・イースト1971年6月」のもとになった
 1971(昭和46)年06月05日(土)と
‡1971(昭和46)年06月06日(日)、フィルモア・イーストでの4ステージを完全収録。名エンジニアのエディ・クレイマーとバーニー・グランドマンがそれぞれリミックスとマスタリングを担当した同年12月、ロンドンのレインボー・シアター公演(ビートルズ「抱きしめたい」のカバーを含むアンコールまで完全収録)、71年5月にペンシルヴァニア州ハリスバーグとスクラントンで録音されたライブ音源、同時期のシングルのAB面曲、当時のラジオCMのアウトテイクなども収録される。特に、ジョン・レノンとオノ・ヨーコがゲストで加わったフィルモアの最終ステージがアンコールを含む未編集の完全版で公開されるのは初めて。シングルのAB面曲「ティアーズ・ビギャン・トゥ・フォール」と「ジュニア・ミンツ・ブギー」も初CD化となる。オリジナルブックレットにはイアン・アンダーウッド(元マザーズ)のロングインタビュー(インタビュアーはザッパの次男アーメット)、ジム・ポンズ(元マザーズ)、エディ・クレイマー、ジョー・トラヴァース(ザッパ家のテープ倉庫管理人)のライナーノートを掲載。日本盤には全訳と歌詞、MC対訳を掲載したブックレットが付属される。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/fa5124b828297e32ebc8259c75536896a6179f50
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 フランク・ザッパ、『ザ・マザーズ1971』の50周年記念ボックスが発売 ジョン・レノン参加音源も
 2022(令和四)年01月28日(金) 14:20配信 CDジャーナル Photo by Henry Diltz-scaled
 フランク・ザッパ&ザ・マザーズの傑作ライヴ・アルバム『フィルモア・イースト1971年6月』の発売50周年を記念した、CD8枚組『「ザ・マザーズ1971」50周年記念(8CDスーパー・デラックス・エディション)』が
 2022(令和四)年03月18日(金)に日本盤で発売されます。収録曲から、
 1971(昭和46)年06月05日(土)のショー2で披露された「ウィリー・ザ・ピンプ」が先行配信中です。ボックスには、
 1971(昭和46)年06月05日(土)と6日(日)に米ニューヨークのフィルモア・イーストで行なわれた全4回の公演を完全収録するほか、
 1971(昭和46)年06月03日(木)のペンシルバニア州ハリスバーグ・ステート・ファーム・ショー・アリーナ公演、
 1971(昭和46)年12月01日(水)の英ロンドン・レインボー・シアター公演などもあわせて収録。
‡1971(昭和46)年06月06日(日)のショー2のアンコールでは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコがステージに上がり6曲に参加。一部はジョン・レノン&オノ・ヨーコの
 1972(昭和47)年06月12日のアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』で聴くことができますが、ここにはその全貌を初めて収めています。また、レインボー・シアター公演で披露したビートルズ「抱きしめたい」のカヴァーも聴くことができます。68頁のブックレットには、元マザーズのイアン・アンダーウッドへのロング・インタビュー(聞き手はフランク・ザッパの次男、アーメット)、ジム・ポンズ(元マザーズ)、エディ・クレイマー、ジョー・トラヴァース(ザッパ家のテープ倉庫管理人)が寄せたライナーノートを掲載。日本盤には、その全訳と歌詞およびMCの対訳を掲載したブックレットが付属します。また、日本盤のみSHM-CD仕様です。
 https://www.cdjournal.com/main/news/frank-zappa/95446
◎久しぶりに「サムタイムインニューヨークシティ」聴いてみましたが、ドスの効いたジョンのボーカルにザッパのギターが絡むのはメチャ良いです。ただ6曲のうち4曲は収録済みなんで少ないな。それで15000円はきついよ。熱心なザッパファンの方には申し訳ないけど、ザッパの音楽はどっぷりのめり込むのはきついね。相当な音楽的素養と聴くゆとりが必要ですね。◎YCDTOSAのボックスセットより安いね。私は、もう、Spotifyで聴くので買わない。
◎確かにザッパはどこから入るかさえ分からない。デビューから順番に聴いたら、理解する前にお迎えが来そう。
◎こっちの国内盤をリリースするなら、"The ROXY Performances"(7CD-BOX)を出して欲しかったな。写真のSGはヘッド塗装が?がされて無いので、ピックアップはオリジナルのP-90だろうね。
◎フランク・ザッパの日本盤は、やっぱりMSIのトンチキな邦題や対訳とセットだと思う。
◎ディープ・パープルのスモークオンザウォターの直訳ロックでフランク・ザッパとマザーズが偶然ライブをやっていたどこかの奴が放火して辺りは火の海さと歌っていた
◎唐突に日本盤が出ますね。ジョン・レノンが参加してるからでしょうかね。
◎ディープ・パープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターの歌詞で存在を知りました。ヒゲがインパクトありますね。
◎思い出す。初ザッパは「フリークアウト」や「万人向け」ではなく、「いたち野郎」でした。
◎ザッパってきちんとjazz知ってるのか感性だけでやってるのかいまだに疑問
◎ライブも譜面あったと聞いた、アドリブ無しって事か。
◎フランク・ザッパ、私は「?△□」で知りましたり
◎素人が手を出してはいけないCD 私を含めザッパを愛する 少数マニア隣人どもよ さぁ買おう!
◎不真面目な事を真面目に完璧にやってた、モンティパイソンに通ずると感じた。
◎★★★★★★★ こんなニュースみたらあーいかん風呂蒸せて悩むわー
 https://news.yahoo.co.jp/articles/690a95594e9f3536c06546e48ba220eb2d337788

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
 ┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
 2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
 ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
 ┌─――――――┐Top row <一行目>
07| Carl Jung |『Wikipedia』
07|カール・ユング|『discovermusic.jp』
 └─――――――┘スイスの精神科医。進歩的な思想家であるユングは、世界に新種の心理学を紹介した。彼が創始した分析心理学は、1900年初頭に個性化と自己実現という概念の先駆となったヨ(=^◇^=)
 写真◆Edgar Allen Poe Sgt Pepper「Man, did you see them kicking Edgar Allen Poe?」 (『I Am The Walrus』歌詞より)
 1875(明治八)年07月26日(mon) Born
†1961(昭和36)年06月06日(tue) Died. 85 years old
***************************************
 https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
†https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Jung
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
 https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
***************************************

 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃デッカのオーディション落選と┃
 ┃ そのテープがもたらしたもの ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ビートルズ物語 1962年
■E.M.Iスタジオ・オーディション■
<1962(昭和37)年06月05日(火)>ロンドンのアビイ・ロードにあるE.M.I.・スタジオ (Abbey Road Studios) での翌日午後7時からのレコーディング・セッションの前日、ビートルズはEMIレコーディング契約成功させるために、交通渋滞や悪天候など、あらゆる可能性を排除するためリヴァプールからロンドンに向けて車で出発させ、その夜にはロンドン市内に到着宿泊します。
<1962(昭和37)年06月06日(水)>この日が、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日になります。アビイ・ロード第2スタジオで午後7時~10時に行われたこのレコーディング・セッションは、所謂オーディションのようなもので、オーディションのメンバーである、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ピート・ベストの4人は多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、本番の演奏を始め、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順に4曲、テープに収めます。但し、正確なテイク数は現在でも分かっていません。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■ノーマン・スミスは語ります、「ビートルズの印象はルックス以外はあまりよくなかった。つまりジョンとポールのソングライターとしての資質はまったく聴き取ることはできなかった。彼らはちっぽけなVOX社製のアンプとスピーカーを持ってたが、それらは楽器の源音を再生できていなかった。言うまでもなくすべての音響技師はあるレベルの源音を欲しがる。それさえあれば後でいくらでも改良したり効果を加えたりできるからね。しかし僕らがビートルズの装置から得たものは大量のノイズやハム、あと正体不明の音だけだった。ポールの装置は最悪だった。その頃は残響を付加するために残響室 (echo chamber) という部屋があったが、僕は彼の音をなんとかテープに収められるレベルにするのに、第2スタジオの残響室にあったアンプとスピーカーを引っぱり出さなければならなかった。また、ジョンのギターアンプが振動してカタカタ鳴るのを、僕らは実際にひもで縛って止めた。それからピート・ベストのドラムのシンバルにも確か問題があったと思う。でも最終的に何とかすべてを整頓し、やっとのことでレコーディング開始にこぎつけた。」。
 写真◆左からリチャード・ランガム、ノーマン・スミス、ジョージ・マーティン
 https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-decca-audition/
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃George Martin ジョージ・マーティン誕生┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1926(大正15)年01月03日(日) ビートルズの音楽創造に極めて重要な役割を果たした「ジョージ・ヘンリー・マーティン (George Henry Martin)(ジョージ・マーティン (George Martin) )」は、1926年1月3日にロンドン・ホロウェイ(Holloway, London) で生まれす。彼の家庭にはピアノが備えらており、彼は6才時以降音楽に興味を持つようになり、その2年後には両親に許しを経てピアノのレッスンを受けるようになりますが、このレッスンは長くは続かず、その後は独学でピアノの演奏法を身につけます。ホロウェイの修道会学校や聖ジョーゼフ初等学校など、複数の学校を様々な理由で(資金面の多々あり)入退学し、最終的には奨学金を勝ち取りスタンフォード・ヒルの聖イグナティウス大学に入ります。そして、戦争が始まり、聖イグナティウス大学の学生はウェルウィン・ガーデン・シティに疎開させられることとなり、その影響もあり、マーティン一家はロンドンを離れ、マーティン自身はブロムリー・グラマー・スクールに編入します。ジョージ・マーティンは語ります、「私が初めて交響楽団を聞いたのはティーンエージャー時だった。その時の事はよく覚えているよ。公開コンサートでエイドリアン・ボールトが私の学校にBBC交響楽団を連れて来た時だった。魔法に掛けられたような衝撃だった。それは規模の大きななサウンドで、光輝いていた。ただ、真鍮や木製の器具を吹き、弦を馬の毛の弓でこすったりする90人の男女の様をその壮麗な音と結びつけることはその時の私にはができなかったよ」その後彼は、積算士として働き出しますがそれは短期間で、続いて国防省の臨時職員となり、1943年には、17歳で英国海軍のパイロットになり同時に将校もなります。しかし、戦闘に巻き込まれることなく戦争は終わり、退役軍人の助成金で1947年から1950年までの間「ギルドホール音楽演劇学校」 に通い、ピアノとオーボエを学びます。そこでは、モーリス・ラヴェル(=『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』、バレエ音楽『ボレロ』の作曲や『展覧会の絵』のオーケストレーションでよく知られたフランスの作曲家)やセルゲイ・ラフマニノフ(=ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者で、ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在)、コール・ポーター(=6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習いイェール大学卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選んだ、アメリカ合衆国の作曲家・作詞家)、ジョニー・ダンクワース(=(別名John Philip William Dankworth)英国エセックス州ウォルサムストウ生まれのジャズ奏者であり、アルトサックス奏者、クラリネット奏者、アレンジャーとして活動)などの音楽を学びます。この時のオーボエの教師は、偶然にも1960年代にポールと恋仲になる「ジェーン・アッシャー」の母のマーガレット・アッシャーです。そしてマーティンは在学中にもかかわらず、
 1948(昭和23)年01月03日(土)(彼の22歳の誕生日)に、シーナ・チザムと結婚し、アレクシスとグレゴリーの2子を儲けますが後に離します。
‡1966(昭和41)年06月には、ジュディ・ロックハート・スミスと再婚し、ルーシーとガイルズの2子を授かります。その後、ギルドホール音楽演劇学校を卒業し、BBCのクラシック音楽部局で働きますが、短期間で止めてしまいます。そして1950年、パーロフォン社長のオスカー・プロイス氏の助手としてE.M.I.に入社します。過去においてのパーロフォンは伝統のあるドイツ系の重要なレーベルでしたが、マーティンが入社した頃はE.M.I.のマイナーなレーベルの一つにとなっており、マネージャーのプロイスの1955年の引退に伴い、マーチンがE,M,I.傘下レーベルのパーロフォンのマネージャーであり実質のヘッドとなり、成功の道へと突き進みだします。彼の最大の成功はコメディや企画物のレコードで、コメディ俳優のピーター・セラーズらの作品など、コメディ色の強いレコードの制作を多く手がけ実績を積み、1962年にマーティンは、レイ・カソード のペンネームで「タイム・ビート」と云うエレクトロニック・ダンス曲を録音してリリースし、「戦場にかける橋」のパロディ作品を作った際、収録曲の「クワイ河のマーチ」について会社上層部からのクレームを受け、既に録音し終えていた曲中の「クワイ(Kwai)」というフレーズから「K」の部分だけ削除して「ワイ河のマーチ」に作り直したと云うエピソードもあり、頑固で洒落っけがある気質はここでも見受けられます。その後、英国で芽を出し始めていたロックンロールの波に乗ろうと、彼はパートナーとなるグループを探し始めます。そしてマーティンは、デッカのオーディションを不合格になり、その他の大方のレコード・レーベルにも相手になさなかったポップ・グループのマネージャーである「ブライアン・エプスタイン」を知ります。彼は
 1962(昭和37)年02月13日(火)にエプスタインと会う手はずを調え、その場でビートルズのデッカでのオーディションでの録音を聞くことになります。マーティンは語ります、「彼らの音楽性は非凡だったが、ジョン・レノンとポール・マッカートニーのヴォーカルには好感を持ったよ。」。そして、マーティンとエプスタインは
 1962(昭和37)年05月09日(水)にE.M.I.スタジオ(アビイ・ロード・スラジオ)で再度打ち合わせすることになります。
 マーティンは語ります「『僕はまだ彼らビートルズに会ったことはないし演奏も聞いたこともないが、君の熱意に打たれ、契約することに合意するよ。』とエプスタインに言った。この時『失うものは何もない』と考えて、「1枚のレコード売上げに付き、1ペニーのロイヤリティをビートルズ払うこと」を契約に入れると約束した。」。そして、マーティンはそのバンドのパフォーマンスを聞いてから契約書にサインするという条件で合意します。
‡1962(昭和37)年06月06日(水)に、プロデューサー:ロン・リチャード、エンジニアノーマン・スミスでE.M.I.のオーディション・テープの録音が行われます。マーティン不在のレコーディング・セッションですが、終了後彼はビートルズに会い、テープを聴きます。
 マーティンは語ります「僕はビートルズと云うバンドのオリジナル曲はあまり良くないと思った。彼らに『何か気に入らない事はあるか』と尋ねると、ジョージ・ハリスンが『まずはあなたのネクタイですね』と答えた。この時を境にガラッと楽しいムードに変わったね。僕は彼らのウィットだけでも契約する価値があると感じたよ。」。1962年にビートルズを見出したことによりプロデューサーとして大成功を収め、1965年にはEMIから独立しますが、ビートルズのプロデュースは継続します。その後もジェフ・ベック、アメリカ、チープ・トリック、ポール・マッカートニーなどのプロデュースを手がけ、1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、彼にとってのイギリスにおける30曲目のチャート1位作品となり、1998年、ジェフ・ベック、セリーヌ・ディオン、ヴァネッサ・メイ、BONNIE PINK、フィル・コリンズらの参加したビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズと共にプロデュースし、自分の名義で発表します。1999年、聴力の衰えを理由にプロデューサー・エンジニアを引退し、その後は公演会でのパネル活動を主軸にしています。 そして、
 2016(平成28)年03月08日(火)に亡くなったことが、海外メディアで報じられます(90歳没)。1962年のデッカのオーディションに不合格となったビートルズは、マネージャーのブライアン・エプスタインの貢献により、ジョージ・マーティンへの売り込みに成功します。マーティンはビートルズのメンバーと直接面会していないにもかかわらず、ビートルズにレコーディングを要請し、
‡1962(昭和37)年06月06日(水)、彼らをE.M.I.スタジオに呼び、多くの曲を演奏させ、演奏技術を確かめた後、その場でデビュー曲のレコーディングを行います。彼マーティンのビートルズに対する第一印象は「彼らはだいぶひどかった(They were pretty awful)」と云うものですが、彼はビートルズと契約すことを決めます。その決断こそが、彼らとマーティンとの長きにわたる関係の始まりとなります。この時、緊張していた彼ら4人にマーティンは「何か気に入らないことがあるか?」と尋ねたところ、ジョージ・ハリソンの回答が「あなたのネクタイが気に入らないね!」と云うもので、その時に感じたセンスやユーモア、そして音楽性が、お互いを認め合うスタートであると云われています。彼は最初のレコーディング時のドラマーであるピート・ベストの演奏が気に入らず、レコーディングには使えないことを指摘します。マーティンのこの指摘が直接的な引き金となってピート・ベストが解雇され、あらたにリンゴを加入させるというメンバー再編となったと報道されてますが、後に発表されたジョージ・マーティンの自伝『耳こそすべて(ALL you need is ears)』によれば、マーティンはベストの脱退に関してはまったく関与していないと語っており、現在ではピートの脱退はマーティンの示唆によるもの、という説はほぼ否定されています。マーティンの音楽的専門知識は、ビートルズの天賦の才能と達成しようと考えていたサウンドとのギャップを満たすことを助け、ビートルズの楽曲におけるクラシック的アプローチやオーケストレーション、複雑なサウンド・エフェクトの多くが、マーティンとの共同作業によるもので、代表的な例として「ペニー・レイン」におけるピッコロ・トランペットのソロや「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのテンポもキーも違った二つの曲を一つの曲にするという離れ業を行うなど(注意して聞くと開始から1分ちょうどを境にテンポが違っているのが分かります)、彼はメンバーからの困難なリクエストに応え、その音楽的な成功に大きく貢献します。ただし、実際はジェフ・エメリックの手腕によるところが大きいとも云えるでしょう。彼自身は「アレンジの際、ポールは音楽的に解り易く説明してくれたので、あとはそれに基づいて譜面を書けばよかったけど、ジョンは抽象的な表現だけで説明してくるので苦労した」と振り返っています。
****************************************
 https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1926-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3-%E8%AA%95%E7%94%9F/
 https://en.wikipedia.org/wiki/George_Martin
****************************************

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃『Some Time in New York City』┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1969(昭和44)年12月15日(mon) Lyceum Ballroom, London
 1972(昭和47)年06月12日(mon) US released
 1972(昭和47)年09月15日(fri) UK released
‡1971(昭和46)年06月06日(sun) Fillmore East, New York City
 1970(昭和45)年04月01日(wed)号『THE SUN』
*************************************************
 https://en.wikipedia.org/wiki/Some_Time_in_New_York_City
*************************************************

 映像◆The Beatles Live At The Veilinghal, Blokker, Netherlands https://youtu.be/hf9hi9NVyAw
‡Saturday 6th June 1964)
 

 映像◆B4 19640606 RareFilm https://youtu.be/iJuOg1vLSkA
 

 THE BEATLES『SESSIONS』
‡2017-06-06 22:03:48 テーマ:The Beatles
 先日、50th AnniversaryのSgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandが発売されて、公式で聴けるアウトテイクが一気に増えた。この公式のアウトテイクの歴史を振り返る上で、起点となる重要なアルバムとして、GET BACK と SESSIONS がある。これ、どっちも未発表アルバムとなった。この2つのプロジェクトを起点とするアウトテイクの一部は、1995、1996年のTHE BEATLES ANTHOLOGYとして日の目をみるんですけど、もしSESSIONSのプロジェクトがなかったら、THE BEATLES ANTHOLOGYはなかったかもしれない。ということで、SESSIONSについて、まとめてみたい。
 1980(昭和55)年。EMIにJohn Barrettって人がいた。この人は、1960年代後半にEMIに入社して、1981年のThe Beatles E.P.s collectionのボーナスEP収録のThe Inner Lightのステレオミキシング・セッションにも参加したした人です。彼が、癌に罹患しちゃって、エンジニア職を離れなきゃいけないって時に、当時、Abbey Road Studiosゼネラル・マネージャーだったKen Townsendが、Barrettでもできる仕事として、ビートルズのマスターテープの整理を命じたんです。いい話だね。ちなみにKen Townsendは、Rubber SoulからSgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandの時期にビートルズのバランスエンジニア、テープオペレータ、また技術的な問題の解決なんかをやっていた。有名なADT(人工ダブルトラッキング)を開発したのも彼。これは、WavesのReel ADTというプラグイン。Ken TownsendのADTをモデリングしたもの。John Barrettの仕事は、膨大なビートルズのマスターテープを聴いて、その内容を記録することだったんだけど、彼は、発表できそうな音源集を独自に編集して、カセットテープに記録していったわけ。しかし、このテープは日の目を見ない。その頃のアップル・コア(ビートルズ)とEMIの関係は冷え切っていて、John Barrettがまとめたデータを元に未発表曲集なんて発売できる状態でなかった。アップル・コアとEMIが揉めてたのは印税の支払いに関することだったので。同じ頃、Abbey Road Studiosでは、改装をやっていて、その完成披露として、一般公開するって企画が持ち上がっており、その目玉として、John Barrettがまとめたテープを元にしたThe Beatles Live At Abbey Roadというフィルムを制作して、公開しようってことになった。これは実現して、
 1983(昭和58)年07月から09月の間、フィルムが公開されて、そのサウンドトラックがまとめられたわけです。内容は、
 Love Me Do (Take 18)
 How Do You Do It? (Take 2)
 I Saw Her Standing There (Takes 2, 11 & 12)
 Twist And Shout (Take 1 RS1)
 One After 909 (Take 4)
 Don't Bother Me (Takes 11 & 12)
 A Hard Day's Night (Takes 2, 3 & Take 9 RS2)
 Leave My Kitten Alone (Take 5)
 I'm A Loser (Take 8)
 She's A Woman (Take 1)
 Ticket To Ride (Take 2)
 Help! (Take 5)
 Norwegian Wood (This Bird Has Flown) (Take 1)
 I'm Looking Through You (Take 1)
 Paperback Writer (Take 2 RS3)
 Rain (Take 7 RS1)
 Penny Lane (Take 9 RS1)
 Strawberry Fields Forever (Take 1, Takes 7 & 26, Take 26)
 A Day In The Life (with count-in)
 Hello, Goodbye (Take 22 RS2)
 Lady Madonna (Take 4)
 Hey Jude (Take 9)
 While My Gutar Gently Weeps (Take 1)
 Because (Take 7)
 #9 Dream - John Lennon (with spoken intro by Ringo Starr)
 この時に、曲間にナレーションが入っているのだが、それを担当したのが、Roger Scottって人で、この時にも流出した音源があるってことになってるけど、その話は、今回は割愛。このThe Beatles At Abbey Roadは非常に話題になって、Paul、George & Ringoも驚いたよう。これで、EMI側が気をよくして、先走って、後にSESSIONSになるプロジェクトが立ち上がる。EMIは、John Barrettのテープを元にして、アルバム制作をしようとするわけだけど、癌を患っていたJohn Barrett自身は1984年に他界。そして、このリミックス作業をGeoff Emerickに依頼する。Geoff EmerickはRevolver以降のビートルズのメインのバランスエンジニアです。EmerickはBarrettが残したレコーディング記録を元にしてリミックス作業をして、アルバム SESSIONSを完成させる。内容は、
 Side A
 Come And Get It
 Leave My Kitten Alone
 Not Guilty
 I'm Looking Through You
 What's The New Mary Jane?
 Side B
 How Do You Do IT?
 Besame Mucho
 One After 909
 If You've Got Trouble
 That Means A Lot
 While My Guitar Gently Weeps
 Mailman, Bring Me No More Blues
 Christmas Time (Is Here Again) 
 完成したマスターテープは、発売するために世界中にコピーが送付された。もちろん、東芝EMIにも。この時期は、ちょうど20th Annversaryの企画が盛んな時期で、
 日本で初めてのオリジナルアルバムのMono盤(この頃、MAGICAL MYSTERY TOURはオリジナル扱いじゃないので、発売されていない)
 映画使用曲のコンピレーションアルバム Reel Music
 Stars On 45に触発されたマッシュアップシングル The Beatles' Movie Medley
 The Beatles E.P.s collection
 原則20年前と同じ日付で発売する新しいカラースリーブのオリジナルシングル
 それのピクチャー盤
 英米のヒット曲集、THE BEATLES ? 20 GREATEST HITS(英米で収録曲は違う)
 12"シングル Love Me Do / P.S. I Love You c/w Love Me Do (original single version)
 Mobile Fidelity Sound LabのOriginal Master Recordingシリーズのボックスセット
 さらに日本では、青盤赤盤のカラーVinylや、血迷ったか単なるベスト盤Beatle In Italyなんてのも発売された。そして、
『SESSIONS』に関しても、発売予告が東芝EMIからあった。当時の販促資料を見ると、
 「12月1日にはいよいよザ・ビートルズの未発表ナンバーを発売することになるかもしれない。100曲以上残されているという噂のあるビートルズの未発表作(レコーディングを完了しながら、結局アルバム等に収録しなかった作品)の中でイギリスEMIは次の3曲を年末ごろには発売できるであろうと発表している。1曲は「If You Get Trouble」この曲はアルバム『ラバー・ソウル』に収録される予定だったナンバー。もう1曲はジョージ・ハリスンの作品「Leave My Kid Alone」この曲は1963?4年頃のレコーディング・ナンバー。そしてもう1曲は「ワン・アフター909」のスロー・ヴァージョン。この曲はジョン・レノンが青年時代、初めて作曲したナンバーで、ビートルズの最も古いオリジナル作品。ロックン・ロール・スタイルのものはアルバム『レット・イット・ビー』に収録されている。」(原文ママ)
 とんでもない説明。曲名含めて、すべての曲で間違いがあるね。笑。こんな感じで、盛り上がりを見せていたんだけど、元々、このSESSIONSの企画はEMIの先走り。アップル・コア側は発売差し止めをEMIに要求して、発売中止となった。中止になったとはいえ、マスターのコピーを全世界に送付してしまっているので、それを元にしたBootlegが流通するということになった。一方で、アップル・コア側では、1969年頃から、Neil Aspinallを中心にしてビートルズの映像をまとめて「The Long And Winding Road」という映像作品を完成させるというプロジェクトが始まっていた。90年代に入って、このプロジェクトが、ANTHOLOGYプロジェクトに変わっていく。少なくとも、1992、3年頃には「The Long And Winding Road」は完成間近というような情報が度々、The Beatles Cine ClubのInternational Clubの会報なんかに登場していましたね。EMI側のJohn Barrettの記録及びテープ、SESSIONS アップル・コア側の「The Long And Winding Road」これが、時を経て和解して、ANTHOLOGYプロジェクトになったということです。ANTHOLOGYプロジェクトは、TVドキュメンタリー 大型本の発言集 CD/LPと付帯するシングル盤及びEP。のちに発売されるVHS/DVD こういう資産になったということです。さらに、John Barrettの記録は、Mark Lewisohnのthe complete BEATLES Recording Sessionsの重要な資料になりました。
 https://ameblo.jp/hkiryu/entry-12281422941.html

 映像◆The Beatles At Home- The Silver Beetles Era (1960) https://youtu.be/irDcoXGaAsY
†April/June 1960
 Matchbox [0:00]
 Some Day [1:01]
 One After 909 [2:35]
 Cayenne [4:01]
 Hallelujah, I Love Her So [6:30]
 You'll Me Mine [9:04]
 I'll Follow The Sun [10:51]
 

『COMPLETE DECCA AUDITION TAPES』
   型番 DAP-B001
 販売価格 3,500円(内税)
 ビートルズの歴史的記録として知られている62年デッカ・オーディション・テープ音源が過去最高クオリティの新音源ソースによるマスター・エディションとしてリリースです。 これまでにも音質向上やピッチ修正等の様々なバリエーションがありましたが今回のマスター・エディションでは最も未編集のオリジナル・ソースに近いマスター音源としてすでにコアな海外のビートルズ・コレクターでもベスト音源と話題になっているもので実際そのクリアな音質クオリティそしてテープ・スピードやレングス(曲の長さ)等のコンディションにおいて初めて陽の目を見た待望のマスター音源といえるでしょう。 後半ボーナス・トラックでは公式デビュー前のビートルズ・ドキュメントとしてトニー・シェリダン音源やEMIオーディションさらにキャバーン・クラブ・リハーサル音源等も収録されています。 結果的にオーディションを落としデッカとして歴史的痛恨を残した今となっては伝説の記録であるデッカ・オーディションの決定版となるマスター・エディションです! ビートルズ・コレクターにはすでにお馴染みのデッカ・オーディション音源ですがかつてアナログ時代にはデッカゴーン・シリーズとしてシングル盤が30年以上前に出回って以来数多くのLP盤がリリースされCD時代になると音質向上やピッチ修正等が謳われたタイトルもリリースされてきましたがいずれもマスタリングでリバーブ加工されたり一部の曲のエンディングがカットされたりしてオリジナル音源から劣化したものがほとんどで盤起こしではないテープ音源からのCDにおいても同様で結局デッカゴーン・シリーズのシングル盤が音質・内容共に一番良かったとも言われてきましたがこれまでこのアナログ・マスターの元となった音源を使ったリリースはなく今回リリースの音源はこのオリジナル・マスターからの初CD化となります。 実際に比較検証するとこれまで過去にリリースされた音源はオリジナルに近づける編集はなされていても今回のリリース音源と完全に一致するものはなく過去のコピー音源ではないことが分かります。 場合によって曲の時間がより長いものも見受けられますがピッチの違いによるものでこのオリジナル・マスターを超える内容のものはありませんでした。またオフィシャル「アンソロジー」に一部収録されたものと比較しても音質そのものもいっさいの加工や調整もない最もナチュラルでクリアなサウンドです。 また今回リリース音源でマスターから唯一補正されたのが「マネー」冒頭のテープヨレを本来の状態にした箇所のみでそれ以外はオリジナル・マスター通りの収録となっています。 
 Audition Recorded At EMI Abbey Road Studios, London, UK 6 June 1962 
 27. Besame Mucho 
 28. Love Me Do 
 http://strangelove-records.com/?pid=121366349
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1995(平成七)年11月20日(mon) UK Released
 1995(平成七)年11月21日(tue) US Released
 1995(平成七)年11月21日(tue) JP Released
□Disc one (CD1)
◎LP B-side (Record Disc 1)
 21."Besame Mucho" (mono) Consuelo Velazquez, Sunny Skylar
‡1962(昭和37)年06月06日(wed) EMI Studios 2:37
 22."Love Me Do" (mono) 
‡1962(昭和37)年06月06日(wed) EMI Studios 2:32
*******************************************
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTWQN3X
 https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDFSO
 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_1
*******************************************

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る