年末年始「例がない閑散さ」=観光地から相次ぐ悲鳴―GoTo全国で一斉停止
2020(令和二)年12月29日(火) 07:10
‡2020(令和二)年12月28日(月)◆写真◆年末年始を前に、人通りがまばらな国際通り=28日午前、那覇市c 時事通信 提供 年末年始を前に、人通りがまばらな国際通り=28日午前、那覇市
写真◆シャッターを閉めた店舗もあり、閑散とする清水坂=28日午後、京都市東山区 時事通信 提供 シャッターを閉めた店舗もあり、閑散とする清水坂=28日午後、京都市東山区
新型コロナウイルスの感染急拡大で、政府の観光支援事業「Go To トラベル」が28日、全国で一時停止された。稼ぎ時の年末年始だが、観光業界からは「こんな閑散さは例がない」と悲鳴が上がる。国内でウイルス変異種が確認されるなど、来月11日の事業再開も流動的。相次ぐキャンセルに「年間売り上げの5割が蒸発した」との嘆きも聞かれた。観光産業への依存度が高い沖縄県。那覇市の国際通りに人通りは少なく、年末のにぎわいからは程遠い。県内のホテル運営大手「かりゆしグループ」(那覇市)の平良朝敬会長は「(沖縄の観光業界は)県独自を含む5月と8月の緊急事態宣言、そして今回と、トリプルパンチ。年間売り上げの5割が蒸発した」と惨状を訴える。官民一体の一般財団法人「沖縄観光コンベンションビューロー」(那覇市)の下地芳郎会長は、同県の観光業は2001年の米同時多発テロの大きな影響も乗り切ったと強調。「観光インフラはしっかりしていると国内外に発信し、新しい年の回復につなげたい」と前を見据えた。国内有数の観光地、京都の打撃も大きい。清水寺近くのホテル(京都市)では、一時停止が決まった14日以降のキャンセルで予約が半減。広報担当者は「外国からの需要は皆無」と話し、政府による外国人の新規入国拒否の措置をめぐるインバウンド需要の長期低迷を懸念した。小説「坊っちゃん」の舞台、松山市の道後温泉の老舗ホテルの支配人によると、一時停止中のキャンセル率は60%以上という。支配人は「正月にこんなにがらがらなのは例がない。もっと早く決断してほしかった」と悔しさをにじませた。温泉街にはGo Toの対象期間に合わせ、当初の旅程を短くしたという観光客の姿もあり、滋賀県東近江市から来た主婦姉川ひとみさん(64)は「政府の考え方も分かるが、気をつけて行動すれば大丈夫では」と無念そう。兵庫県姫路市の会社員松本正和さん(38)も「個人的には(事業を)続けてほしかった」と顔をしかめた。
写真◆Go Toトラベルが一時停止された日の道後温泉本館前=28日、松山市c 時事通信 提供 Go Toトラベルが一時停止された日の道後温泉本館前=28日、松山市
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122800745&g=eco
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┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1972(昭和47)年12月28日(木) 北朝鮮の金日成国家主席就任 ⇒ 北朝鮮の金日成首相が新設ポストの国家主席に就任した。これにより、あいまいだった国家元首の存在が明確になり、金主席による指導体制が強まった。写真は、1968年当時の金氏【時事通信社】
1925(大正14)年12月28日(月) 東京大角力協会が財団法人の認可を受け大日本相撲協会(現日本相撲協会)に
1986(昭和61)年12月28日(日) 国鉄山陰本線の余部鉄橋で突風のために列車が転落。6人死亡
https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=Getty Images
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‡2012(平成24)年12月28日(金) 日米通算507本塁打!松井秀喜が引退表明
‡2018(平成30)年12月28日(金) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2012年12月28日だ。
写真◆巨人、ヤンキースなどで活躍した松井
日本時間のこの日、巨人とヤンキースなどで活躍した松井秀喜が20年間にわたる現役生活にピリオドを打った。現地時間27日、ニューヨークのホテルで行われた記者会見で正式に引退を表明。約45分間、松井らしく、さわやかに、ジョークを交えながら野球人生を振り返った。
「頑張ってきたつもりですけど、そんなに苦労してきたかな、と思うと別にそうでもない気がします。もう少しいい選手になれたかも、ですかね」
日本球界で332本塁打、メジャー・リーグで175本塁打。日米通算で507本塁打を放った長距離砲は会見の途中、20年間で最も印象深いシーンを聞かれ、少し間を置いて、次のように言葉を続けた。
「いっぱいありますね。やはり長嶋(長嶋茂雄)監督と2人で素振りをした時間ですかね。それが僕にとって一番印象に残っているかもしれない」
そう答えたとき、松井の目には熱いものが光った。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=Getty Images
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‡2012(平成24)年12月28日(金) 松井秀喜、引退会見
‡2017(平成29)年12月28日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月28日だ。
写真◆最後のユニフォームはレイズだった
1993(平成五)年に入団した巨人、そして2003年に移籍したメジャーでも活躍したスラッガー、松井秀喜。無類のタフガイにも現役を終える日がやってきた。
2012(平成24)年12月27日(木)、アメリカ・ニューヨークのホテルで緊急会見。日本時間では
‡2012(平成24)年12月28日(金)午前7時からの出来事である。
全国放送のTV局のほとんどが一斉に松井を映し出した。前日のスポーツ紙の報道のどおり、現役生活に区切りをつける記者会見だった。今回は、そのほぼ全文を再現してみよう。
「長嶋監督には感謝し尽くせない気持ちでいっぱい」
<あいさつ>
本日をもって20年に及んだ野球人生に区切りをつけたいと思い、20年間応援してくださったファン、報道の皆さまに感謝の気持ちを伝えたいと思います。
今(2012年)シーズンは3カ月くらいしかプレーできませんでした。マイナーからスタートし、メジャーに上がり、プレーする機会をいただきクリーンアップを打たせてもらいましたが、結果が振るわなかった。これが一番大きな要因です。
10年前にメジャーに挑戦するときに話しましたが、『命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮する』という気持ちでやってきましたが、結果が出なくなったということです。『命懸けのプレー』もこれで終わりを迎えたんじゃないかと思います。
僕の野球人生を振り返りますと、北陸の小さな町で生まれ育ち、野球を始め、地元の高校で甲子園に出るという目標を達成でき、注目もしていただき、高校3年のとき、ジャイアンツにドラフト1位で指名していただき、長嶋監督にクジを引いていただきました。長嶋監督に出会い、毎日のように2人きりで指導していただき、その日々が僕の野球人生にとって大きな礎になりました。その出会いに関しては大きなもの、長嶋監督には感謝し尽くせない気持ちでいっぱいです。
ジャイアンツで10年間で3度の日本一になり、日々幸せで充実した時間を過ごせました。センターにコンバートされたとき、長嶋監督から『ジョー・ディマジオのような選手を目指せ』と言われたんですが、そのとき、ぼんやりとヤンキースというチームをイメージし、ずっと頭の中に残りました。1999(平成11)年のオフ、ニューヨークのヤンキースの試合を1日でいいから見てみたいと思いアメリカに行きました。ヤンキー・スタジアムでヤンキースの試合を見たことが運命のような気がします。ヤンキースの選手が放っている空気、ヤンキー・スタジアムの雰囲気。3年後にFAになるのは分かってはいましたが、3年後、このチームから欲しいと言われるような選手になりたいと思いました。
そして3年後、運良くヤンキースに誘っていただき、(決断まで)苦しい思いもしましたが、あこがれのヤンキースで7年間もプレーできたのは、僕にとって最高の出来事でした。ヤンキー・スタジアムで初めてプレーしたこと、最後にプレーしたことは一生忘れることはありません。
20年間たくさんのファンの方に応援していただき、僕の大きな力になりました。素晴らしい指導者とチームメート、僕にとって一番大きな誇りです。今後につきましては、まだ(引退を決断して)時間もたっていませんし、あまり決めておりません。ゆっくりしながら今後のことを考えていきたいと思います。20年間、ファンの皆さま、温かい声援をくださり、ありがとうございました。
「何一つ後悔はない」
<記者との質疑応答>
――引退を決断したタイミングはいつごろだったのでしょう。
松井 常にありましたけど、傾いたのはつい最近ですね。
――巨人から復帰の誘いはなかったのでしょうか。
松井 10年前、ジャイアンツの四番バッターということに対して誇り、責任を持ってプレーしていたつもりです。もし戻ってプレーすることになれば、たくさんのファンの方が10年前の姿を見たいと思うし、期待します。正直言いましてその姿に戻れる自信が強く持てませんでした。
――巨人とヤンキースについてお聞かせください。
松井 巨人は故郷(ふるさと)のようなチーム。ヤンキースはあこがれていたチームでしたが、家族のような時間があったし、家族の一員になれたような気がします。
――20年間で一番の思い出を教えて下さい。
松井 いっぱいありますね……やはり、長嶋監督と毎日、2人で素振りした時間ですかね。一番印象に残っています。
――引退することを最初に報告したのはどなただったのですか?
松井 妻です。「お疲れさま」と言ってもらいました。そのひと言に集約されています。彼女が一番のファンでいてくれたと思いますし、支えてくれました。ケガをしてから結婚したので心配をかける時間が多かった気がします。普段は球場には来ませんが、2009年のワールド・シリーズは全試合球場で観てました。それが唯一の恩返しですね。
――長嶋監督には報告されたのでしょうか。
松井 報告はしてあります。電話だったのですべての気持ちは伝わったかどうか分かりませんが、少し残念な気持ちと、よく頑張った、ご苦労さんという気持ちと両方あったような気がします。
――松井選手にとって長嶋監督とはどのような存在ですか。
松井 プロ野球選手としての心構え、練習への取り組み方、試合への取り組み方、すべてにおいて学んだことは20年間の大きな支えになりました。
――今後についてお聞かせください。
松井 これまでの経験をいろんな世代、いろんなファンに伝えていけたらいいですね。ただ20年間、プロ野球しかやっていませんから、いろいろ勉強しながら土台をつくる時間が必要だと思います。
――指導者への道をお考えではないですか?
松井 現時点では想像していないです。ただ、もしかしたら将来そういう縁があるかもしれないですね。
――日米通算で507本塁打を打たれました。その感想をお願いします。
松井 本塁打は確かに僕の魅力の一つだったと思いますが、僕が常に意識したのはチームが勝つことで、そのために何をするかを一番大きく考えていました。
――引退に悔いはありませんか?
松井 そのとき、そのときに自分で決断してきましたし、何一つ後悔はないし(心残りも)ないですね。
――今の率直な心境をお聞かせください。
松井 寂しい気持ちとホっとした気持ち。いろんな気持ちがあります。複雑ですね。「引退」という言葉は使いたくないですね。草野球の予定も入っているし、まだまだプレーしたい(笑)。
――今、自分にかけたい言葉はありますか。
松井 「よくやった」という気持ちはありません。「頑張ったね」というのもない。そんなに苦労した思いもないですし「もう少しいい選手になれたかもね」ですかね。
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1998(平成十)年12月31日(木) 新人・松坂大輔、除夜の鐘を叩く
2017(平成29)年12月31日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月31日だ。
写真◆右が東尾修監督、左が松坂
1998年秋、進路が注目された、平成の怪物・松坂大輔(横浜高)。3球団が1位で競合したドラフトで交渉権を得たのは、東尾修監督率いる西武だった。
この年の西武は2年連続のリーグ優勝。
1998(平成十)年12月15日(火)から
1998(平成十)年12月21日(月)までの優勝旅行もあって松坂の入団発表は
‡1998(平成十)年12月28日(月)となった。世間の注目は、松坂とオリックスのイチローとの対決だった。聞かれると、「メジャーの中継をテレビで見て、力と力の対決にあこがれているんです。イチローさんには打たれると分かっていても、真っすぐを投げたい」と声を弾ませた。
1998(平成十)年12月31日(木)は、東京都港区芝公園の増上寺で東尾監督、両親とともに松坂が除夜の鐘をついた日だ。鐘をつく順番は、背番号にちなんで18番目。
「ケガなく1年を過ごせるようにお祈りしました。思い出に残る初詣になりましたね」と松坂が言えば、東尾監督は「松坂が全国的なスターになってほしいという思いを込めた」と語った。
東尾監督は松坂に自身の200勝のボールも贈り、「200勝したら返してくれよ」と声をかけていた。2017年終了時点で松坂の日米通算勝利は164勝となっているのだが……。
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃ 30円
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1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
写真◆表紙は南海・野村克也
今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。
巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。
‡1958(昭和33)年12月28日(日) 14時 東亜テレビ正月番組
‡1958(昭和33)年12月28日(日) 19時 石原裕次郎の誕生祝
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.142 ┃ 30円
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‡1960(昭和35)年12月28日(水)号 川上監督の考えた三つの人事~主将、あと一人のコーチ、トレード問題
2018(平成30)年03月18日(日) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『監督の座を追われた西本の心境』
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1960年12月28日号』。定価は30円だ。もめていた監督問題が、また一つ決着。大毎・西本幸雄監督が退任し、国鉄前監督・宇野光雄の新監督就任が決まった。最下位で解任された監督が優勝チームの監督になるのは異例である、というかV監督の解任自体、珍しいが。
『監督の座を追われた西本の心境』という記事があった。和歌山中の先輩である宇野新監督からコーチ就任の要請があるのでは、というウワサもあったようだが、西本は「宇野さんとは一緒にやってみたいが、個人的な気持ちでは表明できない問題だ」と話していた。
また「俺から野球を取りさってしまったら何も残らんよ。俺は一生、野球から足を洗えないんだ」と言っていた西本に今後について聞くと、
「若手選手の育成という仕事には、今でも魅力を感じている。働き甲斐のある仕事だと思っている」と答えている。
濃人渉が新監督となった中日には、巨人を事実上クビとなった与那嶺要が入団。巨人は34歳の年齢を理由にプレー継続を希望する与那嶺を切った。
その後、近鉄からオファーがあったようだが、与那嶺は「巨人がそのつもりなら必ずカムバックして、巨人に目を見張らせてやる。そのためにセントラルに残りたい」と誓った。74年につながるドラマの始まりだ。
本文巻頭特集は『川上の考える三つの人事』。大改革の話かと思ったが、むしろチームの和を重視したようだ。唯一の例外が川上哲治監督が現役時代、首位打者などを競ったチーム内ライバル、与那嶺の放出だった。まだ、水原茂前監督の去就は明らかになっていない。
ちなみにこの本、10ページからいきなり15ページに飛び、70ページから71ページの間に飛んだページが入っている。合本制作時のミスならいいが……。そうでなかったときように、購読された方に、先輩になり代わり、お詫びします。すいません。
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』が好評発売中。次回は日本ハムの予定です。
では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.344 ┃ 50円
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‡1964(昭和39)年12月28日(月)号 金田正一、国鉄退団
2018(平成30)年11月20日(火) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎西垣元監督の金田愛
写真◆表紙は巨人・王貞治
今回は『1964年12月28日号』。定価は50円だ。
1964年12月12日、大もめが予想された国鉄・金田正一の契約更改だが、“一発”で蹴りがついた。
交渉の後、金田は今泉球団代表とともに記者会見を開いた。金田はそこで、これまでの球団批判を謝罪。さらに、
「僕は退団を決意しました。15年間も国鉄でやってきた愛着はありますが、僕の決意は固いのです」
と語った。
これに対し今泉代表は、
「国鉄としては、はいさようですかというわけにはいかない。12月15日までは国鉄の選手なのですから最後まで慰留するつもりです」
ただ、わずか3日の交渉期間、会見後、笑顔での2人の握手を見ても金田を無理に慰留する気がないことは明らかだった。
B級10年選手の権利については何度か説明しているので省くが、林義一監督との確執、さらに国鉄(球団)と資本提携し、あれこれ口出しするサンケイグループにイライラしていた金田。ついに来るべきときが来た、という感じか。
金田はさらに語る。
「国鉄とケンカ別れするのではない。どちらかと言えば、僕は身を引いたことになりますかね。国鉄が緊縮財政となった中で、僕の給料は飛び抜けて高い。僕はいては企業として成り立たない。ならば高い給料を出しても企業として成り立つところへ行かなければならんということでしょ。
その場合、やっぱり在京球団になります。僕は東京に家もあるし、家族もあるから、そうじゃなきゃ成り立たない」
完ぺきに巨人を意識した言葉である。
この騒動、金田が巨人入りしたくてゴネたと思っている人も多いかもしれない。確かにそれは間違いとは言えないが、話はもう少し複雑だ。
前述のように当時のチーム内は国鉄派とサンケイ派で分裂しており、サンケイは球団に経営悪化を改善するために緊縮財政、つまりは年俸を下げろと要求していた。
当然、年俸3000万円と言われた金田がターゲットになる。
サンケイに対し苛立っていた金田は、この動きを自身に売られたケンカとばかり吠えまくったが、国鉄派は、金田を必死で守ろうとした。
実際、「球団が5億円の赤字でつぶれるかどうかの瀬戸際に、金田にだけ法外な給料をやるわけにはいかない」と話した今泉代表に対し、
当時球団重役となっていた初代監督、西垣徳雄は、こう訴えたという。
「私は全国の鉄道管理局を行脚して金田のために資金を集めます。私も人間なら職員も人間です。誠心誠意、真心を持ってぶつかれば、きっと分かってくれるでしょう。
どうしても金田を引き留めたい。たとえ林監督と折り合いがうまくいかずとも、私が叱るところは叱り、説得すべきところは説得します」
しかし今泉代表は、
「緊縮プランを作ることは誰にでもできる。だがそれを守ることは難しい。私はいったん決めたものは、最後まで貫くつもりなのだ。それでなくては経営合理化も単に掛け声だけに終わってしまう」
と決然たる態度を変えなかった。
西垣は金田をスカウトした人物で、金田は西垣家に下宿していた時期もある。
では、またあした。<次回に続く>
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.671 ┃ 80円
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‡1970(昭和45)年12月28日(月)号 南海・杉浦忠が引退会見
2020(令和二)年03月18日(水) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎荒川堯の移籍問題再燃
写真◆表紙は阪神・村山実兼任監督
今回は『1970年12月28日号』。定価は80円。
12月に入り、大洋に入団した荒川堯の周囲があわただしくなってきた(※大洋の1位指名を拒否していたが、水面下で決まったヤクルトとの三角トレード前提で、期限ぎりぎりに入団。これがあまりにあからさまだったこともあり、世論の反発とセ会長・鈴木龍二の注意もあって、ひとまず練習には参加していた)。
5日、ヤクルト・松園オーナーが「荒川問題はもう大丈夫」と発言。水面下で大洋と金銭トレードの交渉を続けていたことは、いわば“公然の秘密”だっただけに、ついに移籍決定かと報道陣も色めきだった。
しかし、7日になって大洋の中部オーナーが「荒川君には1年大洋でプレーさせてやったほうがいいと思うんだ。その後で後楽園でも神宮でも自分のやりたいところに行けばいいさ」と話した。
これだけ聞くと移籍はなくなったかのように聞こえるが、別当薫監督をはじめ、現場では荒川を「来季はいない人」とみなすような言葉が多くなっていた(なお、昨日、荒川なのになぜ背ネームがKからなのかというコメントがあったが、このときは全員がKAWASAKIだった)。
12月4日には、南海の杉浦忠の引退会見があった。新山球団社長は「翌春のオープン戦巨人戦を杉浦の引退試合とし、21も永久欠番にしたい」と話した。
引退の話を聞いた立大生同期の長嶋茂雄(巨人)は、
「スギがやめるなんて、考えるだけで寂しい。何も言えないほどだ。引退試合で打席に立ってスギを見たら、目がかすんで何も見えなくなるだろう」
と話していたが、あなた……。
感傷的になる周囲に対し、杉浦自身はむしろさばさばしていた。
「僕の栄光なんて、もう過去のものだし、それもボロボロ、ヨレヨレになっている。昨年は、少しでもチームの役に立てればと思っていたが、最近は僕がベンチに入る25人の枠を取ると、若い一人を締め出すことになる。迷惑になることが分かった。だからホークスのために身をひくほうがいいと思ったんだ」
と話していた。
また、若い時の投げ過ぎで壊れてしまったという声には、こう笑顔で答えている。
「僕は決して酷使でダメになったとは思わんよ。僕の投手としての体質が投手寿命の短さにつながったと判断しているんだ。手術のあともこれだけ投げられたんだから、むしろ僕は幸せだったと感じ、感謝しているくらいなんだ」
12月11日、南海の沼沢康一郎コーチが東名高速道で交通事故。車から投げ出され、頭がい骨骨折で意識不明の重体という。医師は、「1週間で意識が回復すれば社会復帰できるだろう」と話していた。
では、またあした<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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┃ プロ野球仰天伝説 No.002 ┃ ONLINE
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打席に入ると絶対に外さなかった“打撃の神様”川上哲治
‡2017(平成29)年12月28日(木) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ヘソの前までボールを引き付ける
打席で究極の境地まで達した川上
打撃の神様と言われた巨人・川上哲治は、1度打席に入ると、絶対に外さなかったことでも知られる。国鉄時代に対戦した金田正一は「あれでイライラするときがあった」と振り返っている。
ほとんど微動だにせず、クセの貧乏ゆすりも不思議と止まっていた。そして自分の狙い球以外には、まったく反応もしない。まるで、釣り糸をたらし、そこに魚がかかるのをじっと待つ、釣り人のようなものだ。こじつけのようだが、川上の趣味が釣りだったのも、なんとなくうなずける。
それに触れた言葉があった。
「球を打つとき迎えにいくと、上体が突っ込み、泳ぐような形になる。単純な速球ならこれでも打てるが、この速球がちょっと変化して沈んだり、シュートしたり、スライドしたりするともうお手上げだ。この球を十分に手元に引き付けて、ヘソの前にある一点で打てば、速球も変化球もみんな同じ球になり、スイングひとつでどこへでも飛んでいく。それはバットを振ったときに体重が乗って一番力が入るところで、私等はそれを“ポイント”と言っていた」
意識の問題もあるのだろうが、ヘソの前と言うと、かなり引き付けることになる。自身、「これだけ引き付けると腰が使えないので内角高めの速球は詰まったが、カーブはかなりの確率でホームランか、一、二塁間への強烈な打球を打ち返せた」と話している。
また、ポイントについて、「酒をじょうごで小さな瓶に移すときのよう」と説明する。
「大きな瓶からじょうごに移された酒は、受け皿いっぱいに広がり、出口にやってくる。出口はストライクゾーンである。ここで待ち構えて、入ってくる球を片っ端から打っていけばいいんだ」
“球が止まって見える”心境
のち川上監督時代に打撃コーチをしていた荒川博は「川上さんはレベルスイングだから、あれだけ引き付けることができた。ダウンスイングでは無理」と話している。ダウンスイングが監督時代の川上の持論だが、自身が違っていたのだから、これもまた、感覚の問題と言っていいのかもしれない。
川上は1950(昭和25)年の9月、打撃練習中に“球が止まって見える”心境に達した。自分が打とうとしているポイントで球が止まるように見え、少し間を置いて打つというタイミングもつかんだ。
「いまの表現で言えば、ゾーンの中に入り込んでいる、と言えばいいのだろう。仏教で“同行二人”という言葉があるが、欲得のある生身の人間と欲得を超えた人間、そのもう一人の川上哲治が、球が止まった感覚をつかんだ。そのうち投げている人がもう勘弁してくださいと言う。はっと気が付いたら、とっくに1時間を過ぎていた」
この感覚は一時的なものではなく、以後も忘れることがなかったという。翌年、打率.377で戦後初の首位打者、以後53年、55年と1年おきに3度の首位打者を獲得。ただ、肉体の衰えには勝てず、「それまでは抜けた当たりが捕られたり、ホームランの手応えなのにフェンス前で失速したり。これでは巨人の四番の給料はもらえない」と58年限りで引退を決めた。
●川上哲治(かわかみ・てつはる)
1920(大正九)年3月23日(火)生まれ。熊本県出身。熊本工から
1938(昭和13)年に巨人入団。秋のシーズンを前に一塁手に転向し、
1939(昭和14)年、1941(昭和16)年と首位打者。
1942(昭和17)年限りで応召、戦後は
1946(昭和21)年シーズン途中に復帰、“赤バット”で人気を博した。
1958(昭和33)年限りで現役引退。
1961(昭和36)年に監督就任、優勝、日本一ともに11回、野球殿堂入りを果たした
1965(昭和40)年から巨人をV9に導いた。主なタイトルはMVP3回、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回。通算成績1979試合、2351安打、181本塁打、1319打点、220盗塁、打率.313
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燃え尽きてもなお黒田博樹がマウンドに上がる「新たな使命感」
●2015(平成27)年12月28日(月)8時0分『webスポルティーバ』配信 前原淳●文 text by Mehara Jun
現役続行を表明した広島・黒田博樹 photo by Koike Yoshihiro
「燃え尽きたところがある」
2015(平成27)年10月7日(水)のシーズン最終戦終了後にそう口にしてから62日目。黒田博樹(広島)が出した答えは、現役続行だった。9年間も力を証明し続けた前田健太が「世界のマエケン」になる日「1年間必死に戦ってきた中でどこかで燃え尽きた部分もあったんですけど、来季やるにあたっていろんなモチベーションを探して……。やっぱりモチベーションを探すというのは、どこかでもう1年やりたいというか、やらないといけないという気持ちがあったんだなという気持ちですかね」自ら決断した理由を探すように、言葉を紡(つむ)いだ。41歳で歩む現役続行は厳しくつらいものになると、覚悟を要した。何度も引退の道に歩を進めようとする自分がいた。だが、そのたびにもう一方の道の先で待つ人たちの顔が立ち止まらせた。「球団、ファンの人を含めいろんな人にまだやれるということを言われ、それに応えないといけないというか、応えるのがプロとしてやらないといけないことかと。あとは若い投手の中に『来年もよろしくお願いします』と。社交辞令かもしれないですけど、そういう言葉をもらって、そこで辞めるという決断を自分にはできなかった」広島に入団してから19年、野球を楽しいと思ったことはない。海を渡っても、その思いは変わらなかった。8年ぶりの日本復帰。大歓声で迎えられるマウンドは特別であっても、楽なものではなかった。プロとして投げてきた。ならば、たとえ厳しい道であっても、そこに自分を待ってくれている人がいるならばマウンドに立たなければいけない。そう自らを奮い立たせ、引退への道を断ち、現役続行の道を歩むことを決めた。昨年のオフはヤンキース残留、米国内の移籍、広島復帰、現役引退の4つの選択肢だった。そして「広島復帰」の道を選んだ。広島のファンだけでなく、日本全国のファンから歓迎され、注目を集めた。そして期待に違わぬ投球を見せた。07年まで広島で見せていた力強い直球で押すスタイルから、投球は円熟味を増した。カットボールやツーシームを両サイドに投げ分けながらストライクゾーンを目いっぱい使い打ち取っていく。マウンドでの立ち居振る舞いが、7年間メジャーリーグで結果を残してきたことの何よりの証明となった。6月までに6勝を挙げ、オールスター戦にはファン投票で選出された。だが、5月の右足くるぶし付近の炎症による登録抹消に続き、7月には右肩炎症により2度目の登録抹消を味わった。日本の蒸し暑さなど7年過ごした米国との違いに適応することは容易ではない。40歳の体は悲鳴を上げる寸前だった。それでも今季、黒田は26試合に先発し、11勝8敗。防御率2.55の成績を残した。ファンは「現役続行」を疑わなかった。それどころか、米球界復帰を不安視する声まで聞かれた。だが、球団関係者や担当記者の中では「引退するのではないか……」という声が上がっていた。08年からドジャースと結んだ複数年契約の最終年となる10年から「いつ最後の試合となってもいい」という気持ちで投げてきた。だからこそ球団側が複数年契約を提示しても、単年契約を希望した。そういう男だ。今季も目の前の試合にすべてをかけてきた。普段は関西のおもしろいおっちゃんの印象も、登板日が近づけば周囲を寄せ付けないオーラを漂わせる。マウンドに上がれば、戦う男。打球に対し右手を出して止めに行こうとすることもあった。緒方孝市監督や畝龍実投手コーチがいくら言っても、黒田の戦う本能を止めることはできなかった。さらに、相手投手を威嚇することもあった。苦手な打撃でも腕を目いっぱい伸ばして食らいつこうとする。勝利への執念を人一倍見せた。それは同時に自ら燃え尽きようとしているようにすら感じたほどだった。実際、シーズン終了後は「燃え尽きた」と語った。それでも現役続行の道を歩む決断をした。野球を楽しいと思ったことはない。それでもプロとして求められる存在でありたいと思い続けた。広島でエースとなり、海を渡っても名門で大黒柱を担った。日本に帰ってきた今季、歓声は想像以上だった。41歳となる来季も、自分を求めてくれる人がいる。「プレッシャーはありますけど、最後はやらないといけないというのが自分のどこかにあったんじゃないかなと思います」新たな使命感を胸に、黒田は来季へ歩を進めている。結論を出した明確な答えは、その道程にあるのかもしれない。