中曽根康弘と失われた30年
1.国賊ほど長期政権 https://youtu.be/lfVJrbi134Q
2.慰安婦強制連行 https://youtu.be/vWyzRhCp77g
3.ロッキード事件 https://youtu.be/V2iy1dDD3jQ
4.JAL123便事件 https://youtu.be/TAQB0tZSJME
5.原発利権 https://youtu.be/vd3QJkZs6ws
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┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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2000(平成12)年12月30日(土) 東京都の世田谷一家殺害事件が発生 ⇒ 東京都世田谷区の会社員宮沢みきおさん方で、宮沢さんと妻、小学2年の長女、保育園児の長男の4人が首などを刺され、殺害された。30日深夜の犯行とみられ、2階に物色された跡があった。写真は現場で見つかった遺留品のヒップバッグとマフラー(いずれもレプリカ)=2018年5月【時事通信社】
1927(昭和二)年12月30日(金) 日本初の地下鉄が浅草?上野間で営業開始
1985(昭和60)年12月30日(月) 東京都大田区のコンビニに強盗。犯人を追跡した大学生が刺され死亡
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1956(昭和31)年12月30日(日)“ミスタータイガース”藤村排斥運動に決着
‡2017(平成29)年12月30日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月30日だ。
写真◆和解会見。前列右が藤村、左が金田
事件が動き出したのは、
1956(昭和31)年11月08日(木)だった。阪神の主将だった金田正泰の自宅に、田宮謙次郎ら主力選手が集まった。球団に対し、前年のシーズン途中から選手兼任となった藤村富美男監督の退陣を迫るためだ。
藤村は球団創設期からのスター選手で、物干し竿と言われた長尺バットでヒット、ホームランを量産。希代のショーマンとしても知られ、「ミスタータイガース」と呼ばれた人気選手だった。ただ、アクが強く、マイペースともとられる一面もあり、必ずしもほかの選手の人望が厚かったわけではない。
加えて金田ら選手が我慢できなかったのが、金銭に対する無頓着さだ。契約更改ではもめることなく、すぐサイン。ほかの選手は「藤村さんだってこの額で抑えているんだ。お前はこのくらいで当然」と言われることも多かった。
さらにいえば、当時の阪神はバラバラだった。金田を中心にした中堅ベテランの派閥、真田重蔵ら和歌山出身者中心の派閥、そして青木一三スカウトが獲得した選手の派閥と大きく3つに分かれていた。彼らは何かと言えば、衝突していたが、このときは「反藤村」で結束する。
1956(昭和31)年11月08日(木)の極秘会合の後、金田は球団に藤村退任を申し出、以後大騒ぎ。球団首脳の会議の結果、藤村監督の留任と金田、真田、青木と3派閥の中心人物の解雇を発表した。
しかし、これに主力選手が怒り、契約更改をボイコットした。ふたたびこう着状態となったが、球団は藤村監督の更迭要求撤回を条件に金田の復帰を認め、金田も藤村と和解した。その際、金田派は金田の自宅に押しかけ、金田を裏切り者となじったという。
全選手の契約が終わったのが
‡1956(昭和31)年12月30日(日)。その日、関係選手が球団事務所に集まり、仲よく握手し、52日間の内紛劇に終止符を打った。
ただ、藤村は翌年オフには監督を退任し一選手に。結局、同年限りの引退となった。
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.090 ┃30円
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‡1959(昭和34)年12月30日(水)号 特集 一九五九年プロ野球10大ニュース
2018(平成30)年01月25日(木) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3500号が近づいている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎座談会は『がん張れ・監督さん』
写真◆表紙は国鉄・金田正一
今回は『1959年12月30日号』。定価は30円だ。グラビアは前が『鶴岡親分今日ワ!』で、南海・鶴岡一人監督宅を岡本伊三美、杉浦忠、野村克也の3選手が訪問している。後ろカラーが巨人納会、中カラーは小社主催のゴルフ大会で、優勝は中日の杉下茂監督だった(いまはやってない)。
特集は58年もあった『プロ野球1959年10大ニュース秘話』。項目の見出しを挙げていく。
「極秘の三原監督会見記」(三原脩監督、西鉄退団時)
「だれも知らない水原の腹」(辞意をもらしつつ留任した巨人・水原茂監督)
「山本(八)殴打事件の前後」(暴力事件で出場停止処分が下った東映・山本八郎について後輩・張本勲が語る)
「杉浦投手快調の秘密」(日本シリーズでの南海・杉浦忠投手の好投を捕手・野村克也が語る)
「当ぜんだった“別所の三百勝”」(通算300勝をマークした巨人・別所毅彦)
「優勝前夜の眠れぬ鶴岡」(日本一決定前夜の南海・鶴岡監督)
「山内の死球と舌禍事件」(大毎・山内和弘の顔面死球とその後のドタバタ)
「千葉はなぜ倒れたか」(シーズン中に貧血で倒れた近鉄・千葉茂監督)
「ホームラン王大下の引退」(引退した西鉄・大下弘)
「金田を残留させた男」(A級十年選手で移籍濃厚だった国鉄・金田正一の残留について)
なかなか、にぎやかな年だったことが分かる。
座談会は『がん張れ・監督さん』。国鉄二軍監督となった砂押邦信監督に立大時代の教え子である巨人・長嶋茂雄、南海・杉浦忠がエールを送るというもの。スパルタ指導で知られ、長嶋らの上級生と激しく衝突し立大監督を退任となった人物だが、長嶋らの学年とは関係がよかったらしい。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.292 ┃ 40円
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‡1963(昭和38)年12月30日(月)号 ストーブリーグ本格化
2018(平成30)年09月07日(金) 9:12 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎ミサイル打線崩壊
写真◆表紙は中央が巨人・長嶋茂雄、左から時計まわりで巨人・王貞治、南海・野村克也、国鉄・金田正一、巨人・広岡達朗、大洋・近藤和彦、東映・張本勲、中日・江藤慎一、阪神・吉田義男
今回は『1963年12月30日号』。定価は40円だ。
ストーブリーグが活発だ。
阪神と大毎のトレードは、阪神・小山正明の譲渡が決定。大毎・永田雅一会長は「見返り選手は阪神に指名権を与えた」と語り、実質、山内一弘、榎本喜八のどちらかに絞られた。
実は大毎は小山を榎本で取り、山内は中日の江藤慎一との交換要員と考えていたようだ。
ただ、榎本は一塁しか守れず、阪神の一塁には藤本勝巳と遠井吾郎がいたことで、外野手の山内を希望するのでは、と言われていた。
すでに大毎は葛城隆雄が前田益穂とのトレードで中日へ。田宮謙次郎が引退を発表した。1960年リーグ制した「ミサイル打線」は、これでほぼ崩壊したことになる。
これについて永田会長は、
「何がミサイルかね。ミサイルは打つことだけか。あんな醜態とも言える成績しか残せず、何がミサイルや。やはり統制の枠に入って打たなきゃダメなんだよ」
とわめく。
同年、大毎は5位だった。
契約更改も本格化。
巨人の長嶋茂雄は、「ついに年俸1000万円台に乗せた」とある。
ただ、これは知っている方がいたら教えてほしいが、「月給は130万円になった」ともあった。これを12カ月にしたら1560万だが、単に大ざっぱに書いてあるのか、それとも払わない月もあったということか(10分割とか)。
長嶋の上を行くのが国鉄の金田正一。こちらは1500万円と言われる。
さらにその上を行くのが、中日のマーシャルだ。4万5000ドルで1620万となる。当時は固定相場で1ドル360円だった。
写真◆野村克也52本塁打で胴上げ
今回の2枚目。
この週の佐々木信也連載対談にも出ていた南海・野村克也。63年シーズンの最終戦(近鉄戦)最終打席で日本新の52号本塁打をマークし、胴上げされた1枚だ。
カウント0-3から外のボール気味の球を運んだ。
野村は、
「敬遠するようなことをするから、こっちはカーッとしてしまう。よーしと思って何も考えんと、もうどんなボールがこようが引っぱたけという気持ちでいったから打てた」
と振り返る。
いつの間にか1963年最後の号となった(発売は別)。
では、またあした。<次回に続く>
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.558 ┃ 60円
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‡1968(昭和43)年12月30日(月)号 サンケイを襲った乳酸菌(ヤクルト)騒動?
2019(令和元)年09月30日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎さすが豊田泰光!
写真◆表紙は広島・安仁屋宗八
今回は『1968年12月30日号』。定価は60円。
この号に関しては、また2回に分ける。
面白いかどうかは別にし、1回目の話が、かなり入り組んでいるからだ。流れを書くだけでも、相当量いってしまう。
ヤクルトの球界参入話だ。いまでは球界の“穏健派”だが、このときは結構、“イケイケ”だったようである。
企業としても急速に成長していた時期だ。
表面的な動きは、およそ3日で終わっている。
まず、1968年12月7日、あるスポーツ紙が「ヤクルトがプロ野球に参入!」と書いた。乳酸菌を使った飲料会社のヤクルトが、サンケイ・アトムズに対し、経営への提携を申し込んだ、という内容だった。
これに対し、翌8日、サンケイの福田オーナーが、あっさり「交渉に応じる」と発言。要は、下準備がしっかり終わっていた、ということだろう。
翌9日には、サンケイの福田オーナーが入院していた水野前オーナーと話し合った後、ヤクルトの松園専務と産経新聞社内で会談。松園氏から「経営に参加させてほしい」と正式な申し出があり、10日、福田オーナーが会見を開いて「提携することにした」と発表……という流れだ。
では、少しだけ深くいく。
ヤクルトは国策パルプ会長の南喜一が会長をしていたが、実質的に会社を指揮していたのは、松園尚巳専務だった。5年ほど前、南会長の関係で面識があった水野成夫当時サンケイオーナーに「イメージアップのため、プロ野球球団を持ちたい」と相談したという。
そのときは「まだ早い」と言われたらしいが、この会見の1カ月前、水野から連絡があり、「もういいだろう」と許可が出たという(当時サンケイが球団をすでに持っていたのか、サンケイの国鉄からの球団買収が決まり、松園が自分も、と思ったのかは定かでない)。
提携については、1億5000万円の資本金だったサンケイ球団は、今後、ヤクルト、産経新聞、フジテレビの三社経営となり、資本金、役員ともヤクルトが50パーセント出す、というものだった。
松園専務は「優勝するまで資金は出し続けるよ」と話し、記者たちに「いったいON(王貞治、長嶋茂雄)をとるとしたら、いくらくらいいるんだい」と質問した。意気軒高だ。
これが建前だった。
実際は、サンケイ内での水野派の衰退があった。ワンマンで知られた産経新聞社長・水野がメルセデス氏病(メニエール病の間違いか?)で入院し、そのまま社長を退任。グループ会社のフジテレビ・鹿内信隆社長が、産経新聞の社長を兼ねることになった。
鹿内は、水野の道楽と言われ、赤字を垂れ流していたアトムズの経営に消極的。売却は時間の問題かと思われた。
ここで動いたのが南だった。南と水野は、戦前はともに共産党員として活動し、互いに「兄弟以上の仲」と言っていた。
「何も知らんやつに渡すよりいいだろう」と、南が、会社が急成長し、野心家でもあった松園につないだのではないか。5年前の逸話が嘘とはいわないが、ふくらましてあるのかは確かなはずだ。
サンケイ球団は、別所毅彦監督をはじめ、現場が大混乱となったが、コーチ兼任で次期監督とも言われた豊田泰光は、さすが腹がすわっている。
「だれが経営するといっても、われわれが野球をすることに変わりはない。まさかサッカーをやるわけではないだろう」
と言ってニヤリと笑った。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.558 ┃ 60円
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‡1968(昭和43)年12月30日(月)号 田淵幸一の巨人側の交換要員は誰だったのか?
2019(令和元)年10月01日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎バッキーへの高すぎた?期待
写真◆表紙は広島・安仁屋宗八
今回は『1968年12月30日号』。定価は60円。
前回と同じ号からもう少しネタを拾う。
しつこいようだが、今回も法大・田淵幸一をめぐる巨人側の動きについてだ。
田淵をドラフトで阪神に“かすめ取られた”後、巨人は、「どうせ、田淵がうんと言わず、阪神は万策尽きるはず」と読んでいた。
その場合、田淵側とも話を合わせ、田淵が阪神に入団した後、末次民夫か、千田啓介+金銭でのトレードを阪神に申し出る予定だったという。
しかし、徐々に田淵サイドが阪神入団に傾き、さらにはマスコミに自分たちの裏工作(密会騒動)がばれたこともあり、今度は巨人が追い詰められ、11月下旬、正式に阪神にトレードを申し込んだ。
交換要員としてマスコミには、
「一、三、六、八、十二以外は」
と話していたという。王貞治、長嶋茂雄、土井正三、高田繁、柴田勲以外なら、ということだ。
堀内恒夫も交換要員に挙がっていたというから驚く。川上哲治監督の中に、それほどONに続く、若きスラッガーがほしかったということだろう。
結局、この話は交渉まで至らず、本当は誰を準備していたかは定かでない。巨人はその代わりというわけでもないのだろうが、大洋・桑田武と捕手の大橋勲の交換トレードを決めた。
10年選手のボーナスの金額交渉で東映の張本勲、中日の江藤慎一がもめ、張本の巨人入りもあるのでは、とウワサがあったが、今回は巨人も静観するのではという声が多かった。
阪神で右手の親指を骨折し、近鉄入りしたバッキー。
どこも行き場がなく、近鉄が拾ったのかと思っていたが、少なくとも入団決定時には大さわぎになっていたらしい。
金銭トレードだが、近鉄から阪神に支払われたのは1000万円。
三原脩監督は、
「パ・リーグでバッキーの球を打ちこなせるのは張本、アルトマン、スペンサー、榎本の4人だけでしょう。ただ、いい捕手をつけなきゃいかん。あの変化球はなかなかこなせんよ」
と話していた。バッキー専用に阪神・辻佳紀の獲得に動くとも言っている。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190930-01
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃ 30円
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1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
写真◆表紙は南海・野村克也
今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。
巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。
‡1958(昭和33)年12月30日(火) 早朝 埼玉サイン会へ
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.005 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
あまりの速さにマウンドが近すぎるとクレームがついた金田正一の速球
‡2017(平成29)年12月30日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ノーコンだが、とてつもなく速い
1年目からプレーも、心も新人離れしていた金田
1950(昭和)年途中、享栄商高を中退して国鉄入りした“怪童子”金田正一。甲子園出場はなかったが、快速球左腕のウワサを名古屋・八事球場のグラウンドキーパーから聞いた西垣徳雄監督が直接勧誘した。
17歳で挑んだルーキーイヤーは、8月末のデビューながら8勝(12敗)。ただ、球はとてつもなく速かったが、とてつもないノーコン。「三振か、四球か」を地で行き、自滅する試合も多かった。本格開花は22勝を挙げた2年目からだ。この年、初の最多奪三振、最多与四球にもなっている。
1年目には、こんな伝説がある。阪神と対戦した地方球場で、バッターの金田正泰があまりの速さに「こんなに球が速く見えるはずがない。マウンドからホームまでが近すぎるんやないか。地方球場だからデタラメするな」とクレーム。メジャーを持ってこさせ、審判と一緒に距離を測った。だが、距離はピッタリ。正泰は真っ赤な顔で引き揚げ、正一はニヤニヤしていた。
なお、この試合ではないが、金田は自分の球をヒットにしたミスター・タイガース、藤村富美男に「おっさん、よう打ったな」と声をかけ、あ然とさせている。プレーも、心も、新人離れしていた。
●金田正一(かねだ・まさいち)
1933(昭和八)年8月1日(火)生まれ。愛知県出身。享栄商を中退して
1950(昭和25)年途中に国鉄入団。翌
1951(昭和26)年にはノーヒットノーランを含む22勝を挙げた。以降14年連続20勝以上。
1957(昭和32)年には完全試合を達成し、
1958(昭和33)年まで2年連続最多勝、最優秀防御率に輝いている。
1965(昭和40)年に巨人へ移籍し、通算400勝、4490奪三振など、多くの日本記録を残して
1969(昭和44)年限りで現役引退。その後は2度にわたってロッテの監督を務めた。
1988(昭和63)年野球殿堂入り。主なタイトルは最優秀防御率3回、最多勝利3回、最多奪三振10回、沢村賞3回。通算成績944試合登板、400勝298敗、防御率2.34
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.006 ┃ ONLINE
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本当は160キロを出していた剛球右腕・伊良部秀輝
‡2017(平成29)年12月30日(土) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
「だったら、160キロを狙おう」
剛速球を武器に、打者をなで斬った伊良部
球速では多くの選手に抜かれてしまったが、あのときの伊良部秀輝(ロッテ)が一番速かったと断言する関係者はいまも少なくないし、映像を見ても、そう感じる。
1993(平成五)年5月3日(月)、西武戦(西武)だった。清原和博に投じた1球が、当時最速の158キロを記録。清原はこれをファウルにし、続く157キロもファウル。5球目、渾身のストレートは157キロだったが、右中間に運ばれ、二塁打となっている。
当時、伊良部、野茂英雄(近鉄)は、清原との対戦でほとんどストレートしか投げなかった。ストレートを待つ打者をストレートで打ち取る。賛否両論がありながらも、“平成の名勝負”とも言われ、ファンを魅了した。
最初の158キロのとき、伊良部は驚いたように振り向き、表示を見た。「エッ、こんなに出たの?」が、正直な印象だったと振り返る。それで次の回、伊東勤を打席に迎えたとき、「だったら、160キロを狙おう」と思った。結果、ボールとなり、表示エラーで数字が出なかったが、「160キロは超えていた。確実です」と伊良部は言う。
投げたとき、右ヒジがぶっ飛んだように感じ、翌日は「筋肉痛で腕がバリバリになってしまいましたよ」と笑っていた。
●伊良部秀輝(いらぶ・ひでき)
1969(昭和44)年5月5日(月)生まれ。兵庫県出身。香川・尽誠学園高からドラフト1位で
1988(昭和63)年ロッテ入団。
1994(平成六)年には最多勝、
1995(平成七)、1996(平成八)年には最優秀防御率に輝く。
1997(平成九)年ヤンキース移籍。
2003(平成15)年阪神に移籍し、
2004(平成16)年限りで退団。
2011(平成23)年7月27日(水)ロサンゼルスで死去した。主なタイトルは最優秀防御率2回、最多勝利1回。NPB通算成績273試合登板、72勝69敗11セーブ、防御率3.55
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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