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 ┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1985~1988:佐伯明】Vol.11┃
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‡2017(平成19)年10月08日(日)
 2017(平成19)年07月15日(土) @新宿にて
関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー
音楽文化ライター 佐伯明
BOOWYには数々の筋書きのないドラマが存在する。80年代、インターネットもCS放送もなかった時代。バンドのヒストリーを毎月のように評論し、音楽雑誌を媒介に日本全国にイメージが拡散された影響は大きかった。
1978年、ロック雑誌『ロッキング・オン』誌をふりだしに17歳でライター・デビュー。音楽文化ライター佐伯明氏による“BOOWY論”に影響を受けたファンは多いだろう。筆者もまたそのひとりだ。当時の貴重な原稿が収められた、1989年春に発刊された『路傍の岩 WRECKD BY THE ROCKS ロックインタビュー&評論集』(CBSソニー出版)は、ロック原体験でありバイブルだった。
1985年以降、音楽雑誌を軸に、あらゆるBOOWYにまつわる執筆に携わった佐伯氏は2007年、BOOWY の8枚組DVDボックス『“GIGS” BOX』に収録された「DISC8:Artform? or Burnout!-EMI room 102-」の監修を手がけ、今年、2017年にリリースされた『“GIGS” CASE OF BOOWY -THE ORIGINAL-』ではライナーノーツも手がけている。今回の記事と合わせてあたらめてチェックしてほしい。
2017年夏、佐伯氏が取材場所に指定してきたのは、BOOWYマネージャーであった故土屋浩氏の行きつけだったという新宿の居酒屋『Mr.SANPEI』だった。当サイト『BOOWY HUNT』プロデューサーである、De-LAXや氷室京介を担当していたYui Musicの宮野真一氏とともに、お酒を酌み交わしつつ今だからこそ語れる視点で、ざっくばらんに当時を振り返ってもらった。
今も語り継がれるBOOWYプロジェクトに込められた、音楽評論によって形成されたバンドのイメージの断片。アーティストとオーディエンス、そしてジャーナリズムは三位一体の関係性だ。そんなBOOWY伝説を裏付ける貴重なトークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
――僕が、音楽を好きになったきっかけ、そしてライター仕事をはじめるきっかけとなったのが、佐伯明さんと紺待人さん(※BOOWYマネージャー、土屋浩氏のペンネーム)なんです。
佐伯:僕と紺待人は両極だったよね。土屋は感性の男なの。でもだからと言って文芸的な技術が無いかっていったらそういうわけではなくて、あいつ、最終学歴中学なんだけど、でもね、よ~く本を読んでたの。たとえば氷室さんの取材でロスに行くじゃない? あいつ、ずっと本を読んでるんだよ。僕は酒をかっくらって土屋とひとしきり話をしたら、ウォークマンで音楽を聴いて寝ちゃうの。ところが、ふと目を覚ますと、あいつはライトの下、三島由紀夫とか読んでるんだよ。
――え、そうなんですか。意外ですね。
佐伯:それこそ『夏の新潮100選』とか、文庫本のキャンペーンがあるじゃない? それを真面目に読破する文学少年って感じで。センスとそれに付随する素養、努力がすごくあったんだよね。
――そして、読んだ作品がご自身の仕事ともリンクして、魅力あるテキストとしてアウトプットされていたんですね。
佐伯:土屋が本を読んで学習してセンスと合体させてきた経験。結果、活字的な力量があるわけよ。で、外部のライターも、それに見合う人間しかBOOWYは与えないっていう。そんなジャッジがあったと思うんだ。土屋はマネージャーというポジションでプロモーションのアイディアを考えていて、ライターと近い距離にいたんだよね。結果、音楽ライターの藤沢映子さんの記事(BOOWY STORY ARCHIVE Vol.9)に登場していたいわゆる“BOOWY 5人組ライター”の話につながるんだよ。ただ単にミーハーだとか、BOOWYのことを良く知っているってことだけじゃなくて、もちろん大前提ではあるんだけどさ、その上で何を書けるのかっていうことを大事にしていて。そこには土屋の文学的なジャッジがあったと思うんだ。
――しかも、ライターも五人五様に選ばれていたという。
佐伯:そう。佐伯明、水村達也、B-PASSにいた中川隆夫もね。あと、関陽子。今はカナダのトロントに住んでると思うけど。あともう一人が、宝島の三宅だと思うんだよね……。違ったかな? で、この5人に土屋は照準を絞って、この5人でなくちゃBOOWYのことは書かせないっていうシフトを組んだんだよね。
――オフィシャル・ライター制の始まりですね。にわかな書き手やメディアを排除するという、賛否ありそうですけど、正しい情報を伝える仕組み、選択と集中。画期的ですよね。
佐伯:一種のパブリシストみたいなものだよね。トランプさんもそうすればいいのにね、CNNとか揶揄してないで(苦笑)。
――コントロールしようというよりも、情報を正しく伝えることの大事さ。更にライターそれぞれの素養やキャラクターも配慮しつつ執筆する媒体が振り分けられていて。BOOWYの魅了を正しく伝えるためにこのシステムを作ったっていうのがすごいと思います。
佐伯:BOOWYが破竹の勢いなタイミング、いわゆるアルバム『JUST A HERO』直前ぐらいから駆け上がっていく過程には、土屋のメデイア戦略が有効だったわけよ。あれがなければBOOWYは大きくなれなかったと思うんだよね。
――当時インターネットもなかったですし、ライブ映像を観られる機会も限られてますよね。1976年生まれの僕はBOOWYのライヴは生で1回も観れてないんです。音楽ライターの方たちが評論されたフィルターを通したBOOWYのライヴ像をず~っと追いかけてたんです。メイン媒体は映像でもない紙の音楽雑誌という。そういえばBOOWYの躍進と80年代中盤から音楽雑誌が大きくなっていったのって、完全に一致していますよね。
佐伯:ソニーの音楽雑誌『PATi・PATi』に神康幸さんという編集者がいて、BOOWYを鳥取砂丘で撮影したんだけどヴィジュアルがすごくかっこよかったんだよ。それが雑誌での表現でないとダメだって判断したのは、他ならぬ土屋なんだよ。映像じゃダメ、雑誌じゃなきゃという判断。そのジャッジは当時の気風とマッチしたんだよね。あとアートっぽかったんだよ。80年代の初めは「テレビに出るなんてカッコ悪い」っていう雰囲気がまだあった時代でさ。「ベストテン? ふざけんな!」みたいな。
――ちょうど時代的にアイドルが盛り上がってきたタイミングですもんね。反動もあったと。そこでいうと佐伯さんは元々は雑誌『ロッキングオン』から音楽ライター人生がはじまっているんですよね。
佐伯:そうだよ。高校3年のときに、『ロッキングオン』にジェフ・ベックとカレーライスについて『カレーの盛り付け方』っていう原稿が載ったんですよ。高校生としては有頂天になるじゃない? 当時は武蔵小金井に住んでたんだけど六本木の『ロッキングオン』の事務所まで行って、編集長の渋谷(陽一)さんに学生服のまま『書かせてください!』とか言っちゃって(笑)。そしたら「いいよ、若いライターがいないからさ」って。それで書くようになったんだよ。
――渋谷さんってどんな存在だったんですか、当時。
佐伯:今やロックフェスを成功させた実業家だけどね。当時の渋谷さんは音楽評論として何を書けるのかを追求されていたというか。これはね、ふくりゅう(インタビュアーの筆者のこと)も考えたほうがいいよ。音楽評論は情報じゃないよ、哲学だよ。まあ、渋谷さんが哲学だとは言わないけど、それに近いね。情報じゃない、今聴いている音楽はこんなに深い含蓄があるんだっていうことを提示してくれて、感じさせてくれたのが渋谷さんだったんだよね。当時、薄っぺらい『ロッキングオン』が吉祥寺のサンロードの本屋にあったときに感動したわけよ。280円だか、290円だったかで。それを買ってバスに乗って読むわけですよ、一字一句漏らさずにね。ロックっていうのは深いんだなぁと思って、原稿を書こうと思ったの。うん。だから、間違いなく渋谷さんは俺の師匠だよ。
――それこそ、佐伯さんは“音楽文化ライター”と名乗られていらっしゃるじゃないですか? 文化とされているのは『ロッキングオン』時代の影響の大きさですか?
佐伯:そうだね。そもそも文化っていうのは、ふくりゅう、なんだと思う? 
――えっ……。
佐伯:……難しいよね。地方に行くと○○文化会館とかいっぱいあるじゃない、あれなんだと思う?
――う~ん……。
佐伯:あれは文化庁の管轄だから○○文化会館と呼ばれているんだよね。要はクラッシック。そうすると、文化庁が言ってる“文化”ってなんですかって話だよね。ロックは入ってないの。クラッシックとか民謡とかさ、所謂伝統芸能だよね。例えば“スポーツ文化”っていうけど、スポーツはいろんな競技のことだよね? サッカーや卓球だとかテニスとか。今の親御さんは自分の子供にどのスポーツをさせるか非常に悩んでると思うけど、じゃあ“スポーツ文化”って何かっていうとスポーツを長く広め伝えていくために、地元あるいは地方スポーツを存続させるかっていう人々の営みが“スポーツ文化”ってことなんだよ。だからスポーツは単体だけど、“スポーツ文化”ってなったら、それを支える人のことを言うんだよ。だから僕は“音楽文化”っていう、音楽を支える人のことを書きたかったの。音楽そのものよりもね。だからそう名乗ったの。
――佐伯さんの著書『路傍の岩 WRECKD BY THE ROCKS ロックインタビュー&評論集』で書かれていたのは、まさにそういうことですよね。
佐伯:音楽を支える人々を包括して書く。その位置に自分を置こうとしたから“音楽文化ライター”って名乗ったの。それはね、大至急ゴシック体で書いておいてね(笑)。それに反応してくれたのが土屋だし、BOOWYのメンバーだったんだよね。
――BOOWYというロックバンドとつながった、興味を持ったきっかけはどんなことからですか?
佐伯:一番初めはね、CBSソニー出版っていう出版社があって、そこが『POPEYE』(マガジンハウス)を真似した『All Right!』っていうライフスタイル雑誌を作っていて。その月間レコメンド……当時はCDじゃない……レコードのレビュー・コーナーを僕が担当してたの。で、プロモーターとして足を運んできたのが、鶴ちゃん(鶴田正人 / 東芝EMI BOOWYアーティスト担当)で。
――1985年、3rdアルバム『BOOWY』のリリース前のタイミングですね。
佐伯:そう。で、鶴田さんとしては僕にレビューを書かせたいわけじゃない? 当時の東芝EMIは、高中正義、ユーミンが推しものだったんだけど「佐伯さん、BOOWYっていうバンドがいるんですけど」って。4月13日、赤坂ラフォーレミュージアムのコンベンションに招待してくれたわけ。それが最初かな。もちろんバンド自体は前から知ってたよ。1983年9月25日、2ndアルバム『INSTANT LOVE』をリリースした後に、渋谷のライブインというライブハウスで観てさ。当時は、ジャパンレコードに芝さんって方が人がいて「佐伯くん、観てくれよ!」って言われて衝撃で。だって、ワンマンなのにものの40分くらいで終わっちゃってさ。
――どんな印象だったんですか?
佐伯:いや~、めちゃくちゃだなって思った。セオリー無視。さっと出て、パッと終わる。パンクな時代だよね。そのときはお客さんが嫌だったんだよ。なんて言うの? 暴れるために来ているっていうか鬱憤晴らし? 何回ビールをぶっかけられたわかんないし、何回蹴りをいれられたかわかんないし。
――ははははは(笑)。
佐伯:でもまあ、ロックのコンサートって当時はこうだったんだよ。
――その頃、佐伯さんはもうHOUND DOGなど、邦楽も書かれていたタイミングだったんですか?
佐伯:そうだね。まぁ、基本は『ロッキングオン』でブルース・スプリングスティーンをはじめとして、洋楽メインで。でも、僕は原田真二とRCサクセションの記事を書いちゃったんだよ。それで『ロッキングオン』は邦楽もやるんだっていうのを各社プロモーターが認識してですね「佐伯さん、こんなバンドがいるんですよ!」みたいにプロモーションにきたんですよ。僕はまだ学生ですよ、大学生。当時のプロモーターは熱かったからね。今みたいにメールを送って「お願いしま~す!」っていう風じゃないから(笑)。それこそ、飲み屋に呼び出されて「佐伯さん、来てください!」って。僕は一言も喋らないのに、1時間ずっとプロモーション・トークされてましたから。いかにすごいアーティストかっていう。そんなこともあって、洋楽ばっかり聞いてる時代は終わったんですよ。いやぁでも洋楽のほうが音がいいじゃないですかって、やりあいながらね(苦笑)。
――80年代頭って、音楽シーンの変革期ですもんね。
佐伯:洋楽至上主義から邦楽にスイッチしていったタイミング。日本でもロックができるんだって思いはじめた時期。それは思想、サウンド、ビジュアル、デザイン、すべてが日本でもやれるんだっていう過渡期にあったの。その最先端がBOOWYだったんだよ。
――おおお。コンベンションで改めて土屋さんやメンバーには会ったのですか?
佐伯:赤坂ラフォーレミュージアムでのコンベンションが先だったか忘れちゃったんだけど、赤坂に源氏っていう寿司屋があって、そこに鶴田さんから「土屋とヒムロック(氷室の愛称)が来るので、来い!」って言われたんだよね。「なんですか?」って聞いたら「親睦会だって」。でも実は親睦会なんかじゃなくて、面接みたいなものだったんだよね。
――えっ、メンバーも含めてライターを見極めるってことですか?
佐伯:コイツは本当に信頼に足りうる人間かどうかってのをチェックするんだよ。まずは鶴ちゃんチェック、次、土屋チェック。で、高橋まことチェック。最後がヒムロックだよ。四次面接(苦笑)。
――どんな話をされたんですか?
佐伯:最終のヒムロックとの話は「佐伯ってさ~、洋楽なにが好きなの?」とか。で、当時僕はブルース・スプリングスティーンとかマッチョなものが好きだったから、氷室さんが好きなロンドンのニューウェイブとは違って。「え~、本当に好きなの?」とか言われたね(苦笑)。でもね、僕は評論家だから全部をチェックしているって弁明をしてだね。そりゃデヴィット・ボウイの『SCARY MONSTERS』もいいよ、でもバナナ・ラマもポップでいいよとか(苦笑)。「いっぱい音楽知ってるんだね~」なんて言われてさ(笑)。
――20代前半ですか?
佐伯:そうだね、最初に会ったのは。土屋からさ、氷室さんは一瞬会っただけで視線で殺すからって言われて。なるべく視線を合わせないようにした(苦笑)。見たら最後、殺されるって思ったから(苦笑)。
――なんか、すごい話になってきましたね。
佐伯:でも面白かったよ。変な意味ではなく、どことなく芝居じみた感じがして。たぶん土屋がそういう演出をしたんじゃないかな。アーティストっていうイメージね。普通に会えて握手してサインをして「またよろしくお願いしま~す」って頭を下げるなんて「そんなのアーティストじゃないよ!」って土屋は思ってたんじゃないかな。
――価値を高めていくブランディングですね。アーティストや音楽ビジネスには不可欠なことだと思います。
佐伯:「音楽は凡人から生み出されるものじゃないんだよ!」ってことを、土屋はメンバーにリスペクトを込めてプロデュースしていたと思うよ。
――それが面接にもあわられていたんですね。
佐伯:今ってさ、生き神様じゃないけどさ、カリスマ的なアーティストっていないじゃない? いつでも会いにいけて、握手やハグができる。サインも簡単にもらえる。そんなものアーティストじゃないし、音楽じゃないって思うから。まぁ、僕はまんまと土屋のプロデュースに乗ったっていうかね。もちろん、メンバーもすごかった。でもそうだと思うよ。今の時代、音楽に訴求力がなくなったのはそういうことだと思うよ。誰でも作れる、誰とでも会える、チケットもすぐ取れる。そんなものは音楽じゃないよね。
――音楽は文化であり、哲学であるということですね。
佐伯:そうなんだよね。だからさ、ふくりゅうに聞きたいんだよ。なんでBOOWYの音楽を好きになったの? なんでBOOWYの音楽が自分の精神の柱になったの?
――僕の場合は、小学生だった1987年の「Marionette」からリアルタイムだったんですけど、本格的にハマったのは中学校時代、解散後の後追いです。楽曲の素晴らしさが第一ですけど、成功へのサクセス・ストーリーの面白さ。そのストーリテリングにも心を奪われました。布袋さんの緻密なポップセンスであったり、氷室さんのカリスマ性であったり。もちろん松井さんもまことさんも。アルバムを作るにしても、どんな思いで作られていたのか、ルーツや生い立ちだったり、社会的な関係性だったり、音楽の楽しみ方をすべてBOOWYから教わった気がしています。これは、80年代当時全盛だった歌謡曲では得られなかった体験でした。
佐伯:それが精神的支柱になっている、と。
――そうですね。だから完全にBOOWYが音楽を聴く上での基準になってますね。今もです。
佐伯:それは突然降ってわいたようにそうなっちゃったってこと?
――埼玉の浦和育ちなんですけど、中学時代クラスの半分はBOOWYを聴いていたような圧倒的影響力を持っていた世代で。先輩もみんな聴いていたり、すごい影響力だったんですよ。
佐伯:そりゃあふくりゅうの世代ならそうだよね。みんなコピーしたからね。
――コピーできない人でも、布袋モデルのギターをほうきで作ったり、安いギター買ってビニールテープ貼って手作りするぐらい。
佐伯:で、よしゃあいいのに開放弦とか使ってんだよな(笑)。もうやめなさいよ!って感じ。でも使いたいんだよなぁ、解放のストローク。
――スタートがそこからなんですよね。
佐伯:ふくりゅうの話を聞いてると雷鳴のような存在としてBOOWYがあって、そこから音楽にめり込んだっていう歴史があるわけじゃない。ふくりゅうって何年生まれ?
――1976年です。
佐伯:あ~、そうすると僕と16年違うんだね。僕が渋谷公会堂で解散宣言を聞いていたときには、君は11歳だよ(笑)。
――チケット取れなかったです(笑)。
佐伯:それが「雷鳴のように打たれました!」っていうBOOWYの衝撃ってことなんだろうな。それと、ブレイク以前からのし上がっていく姿を間近に見てきた僕とは印象が全然違うよね。
――いまだに、中学仲間とBOOWY話をしてますからね。氷室さんの東京ドームも一緒に行きました。
佐伯:そうなんだね。そういえば当時、土屋と『ロックページ』っていう地方のラジオ番組でコーナーをやってたの。今、FM横浜で復活してやってるんだけどさ。その番組の中に『BOOWY HUNT』っていう土屋が考えたネーミングで、今でも宮野さんがウェブで使ってくれてるけど、15分コーナーで喋ってたの。メンバー出ないんだよ。僕と土屋の与太話(苦笑)。しかも当時は、ラジオなんだけど都市圏を外すっていう鶴ちゃんの宣伝の思惑があって、東名阪じゃないところ、FM中九州とか……今はもうなくなっちゃったけどFM山陰とか。そういうところに番組供給をしたんだよね、あえて。
――そうなんですねぇ、どんなお話をされてたんですか? 
佐伯:はじめたのは1986年、アルバム『JUST A HERO』の後くらいだったかなぁ。そしたらさ、ハガキがダンボールでくるわけ。全部ゴムバンドで留められていてドサっと。人気番組じゃ~んって思うんだけど、都市圏では放送してなかった。音楽は好きだけど情報が足りなさすぎるっていうリスナーが、このダンボール一箱分いるってことだよねって。で、土屋さん佐伯さん、なんでもいいから話してください、っていう。とにかくファンの熱量が高かったから。
――番組はいつまでやられていたんですか?
佐伯:ラジオの『BOOWY HUNT』はBOOWYがいなくなったら終わっちゃったよ。
――え、じゃあ87年までやってたんですか?
佐伯:そうだよ。解散宣言をしたところまで。そのあとはさ、とんでもない、それこそダンボール×2以上になっちゃったからさ。そこで土屋が何かを話すってことさえもダメな状態になり、『BOOWY HUNT』は終わりました。
――『BOOWY HUNT』っていう言葉は、ラジオ~マガジン~WEBと、ずっと使われ続けていたんですね。
佐伯:それは宮野氏が土屋の遺志を受け継いでるんですよ。僕も継ぎたいと思っているし。だって、宮野氏だってず~っと土屋とBOOWYの4人をみているわけだから、何がどうしてこうなったかっていうのがわかるという。そうすると、いま何が足りないのか、何をすべきなのかっていうのが経験として浮かび上がってくるわけですよ。
――BOOWYメンバーへの初インタビューはどんなタイミングだったんですか?
佐伯:1986年、『JUST A HERO』の前ぐらいだったかなぁ。
――アルバムの総合的なクオリティとして、『BOOWY』から『JUST A HERO』へのランクアップがすごかったと思いますが、佐伯さんはどのように受け止めてましたか?
佐伯:布袋さんのサウンド・ブラッシュアップ能力が、3枚目のアルバム『BOOWY』で、音楽プロデューサーの佐久間(正英)さんと一緒にやることによって劇的に上がったんだよ。で、結果、早い段階からセルフプロデュースに目覚めちゃって。
――普通でいったら『JUST A HERO』も、前作に続いてがっつり佐久間さんプロデュースでも問題ないわけですもんね。
佐伯:全然よかったはずよ。でも、BOOWYの独立独行というかインディペンデントというか、全部自分たちでやるっていうね。他人の力なんて借りないっていうのは、プライベートオフィスO-con' nection時代からはじまっているんだよね。ヒムロックは佐久間さんのプロとしてのプロデュース能力とアレンジ能力、あと佐久間さんはギターもベースもできるから力量? スキルを認めていたと思うんだけど、布袋さんはこうやればこうなるんだっていう経過をみちゃったから、サウンドは俺がやるっていうね。一貫してるよね、BOOWYは。
――レコーディングされている現場は取材されたことありますか?
佐伯:『JUST A HERO』のときかな。伊豆の観音崎スタジオ。たしかミックスダウン前だったかな。まこっちゃん(高橋まこと)に「すげ~いいアルバムだろ!」って、まだ聴いてもないのに言われたことを覚えてる(笑)。
――ははは(笑)。
佐伯:インタビューもしたよ。全員ではないけど。土屋に雑談はいいけどインタビューは氷室だけにしてくれって言われてさ。
――氷室さんと話して印象深かったことを覚えてますか? 『JUST A HERO』のレコーディング時のインタビューって、そんなに多く残されていないんですよね。
佐伯:雑誌は『パチロク』だったかな。「布袋がすごく伸びてる、急成長してる」って話で。あと、去年の東京ドームの『LAST GIGS』でもヒムロックが言ってたじゃない? 自分の楽曲はデモ音源で自分で完成系に導こうとしていたって。
――印象的なMCでした。メンバー同士でも切磋琢磨されていたことを感じます。あと、氷室さんの歌詞のセンスが『JUST A HERO』から洗練されていきましたよね。それこそ後の日本のJ?ROCKのルーツになったというか……。
佐伯:いや、全然ルーツじゃない(笑)。
――佐伯さんの記事で、“夢の図書館”的な表現をされていたと思うのですが……。
佐伯:それは布袋さんが言ったからね。「“夢の図書館”のようなリリックを歌詞を書いた」って。いい言葉だよ。ギタリストなのに、よくそんなロマンティックな言葉が出たなって思うよ。
――それこそ1986年3月1日の『JUST A HERO』リリース後は、怒涛の勢いでバンドはブレイクしていくと思うんですけど、ターニングポイントとなった7月2日に行われた日本武道館公演の際は、佐伯さんは?
佐伯:全部観たよ。「ライブハウス武道館へようこそ!」。あれは、今やJ?ROCKが誇る名言になってますけど、元々はRCサクセションが武道館をやったときに「俺んちだと思って最後まで楽しんでいってくれ」って(忌野)清志郎さんが言ったんだよね。ヒムロックはRCが好きだったから、リードボーカリストっていうのはこういうことを言うんだって学習をして、で、RCも渋谷の屋根裏から武道館に行ったし、BOOWYだって新宿LOFTから武道館に行った、その過程を氷室さんなりに考えて「ライブハウス武道館へようこそ!」という名言が出てきたわけですよ。だから言ってみれば、忌野清志郎という布石がなければ、氷室氏のあの名言は出てきてないと思うな。
――RCサクセションも佐伯さんは書かれてましたよね。
佐伯:もうねぇ、大好きでねぇ。昔、渋谷の屋根裏ってキャバレーの上にあったんですよ。センター街をちょっと行ったとこでさ。学校終わってね、高校、僕学ランでさ、屋根裏の階段を上ってる途中に、一階階段を登るとキャバレーがあるんですよ。そこに客引きのお兄さんが「にいちゃん、遊んでかない?」って(笑)。学ランだっていうのに(笑)。で、もう一回折り返して、3階に上がると屋根裏があったの。そこで観たRCサクセションは、もう脳天直撃ですよ。なんだこれはっていう。当時、清志郎さんが胸に「実習生」っていうハンカチをつけてたんですよ。髪の毛をビンビンに立てて、それで歌ってるのが「雨上がりの夜空に」だもん。とんでもないことが起きてるんだなって。
――それこそ80年代初頭、RCの野音でのライヴを観て、氷室さんは高崎に帰るのをやめたんですもんね。
佐伯:そうだよね。それに、氷室さんが選んだ20世紀に残したい曲はRCの「エネルギー」だったから。僕は氷室さんのTOKYO FMの番組の構成やってたからね。「ヒムロックはRCの曲で何が一番好きなの?」って聞いたら、即答だったね。「エネルギー」って。
――RCサクセションって、BOOWY結成にとって物凄く重要なバンドだったんですね。
佐伯:BOOWYっていうか氷室さんだよね。日比谷の野音に行かなければさ、氷室さんは布袋さんに声をかけていなかったかもしれないという。
――佐伯さんは、他のBOOWYライターのとコミュニケーションはどうだったんですか?
佐伯:水村達也とはよく話をしたよ。あと関陽子もね。中川くんは……暗かったな。ライター5人衆やプラスαで寿司屋で定期会合してたからね。
宮野:赤坂の寿司屋 源氏には他に誰がいたんですか?
佐伯:土屋と鶴ちゃん。あと、東芝EMIでプロモーターだった小澤(啓二)ちゃんもいたかな。で、誰が金を払うんだってよく言ってたよ。ひとり1万円くらいかかるし、よく飲むから、みんな。
――アーティスト担当だった、鶴田さんとのコミュニケーションも深かったんですか?
佐伯:あの人もねぇ、多くを語らない人なんだよ。たとえば企画書があって「佐伯さん、BOOWYをこうしたいんです」って企画書を見せられて「それで、あ~わかりました」、みたいなことにならないんだよ。そういう建設的な話し合いは全くない。
――ど、どうなるんですか?
佐伯:「良かったら来て」みたいな(笑)。“Let’s join us!”っていう、BOOWYファミリーにはそういう共通思想があったんね。でも、「のるかそるかは君次第だよ」っていうのを突きつけられていた気がするね。
――考えさせらるんですね。
佐伯:まさに“LET'S THINK”ですよ。なんていうのかな。目に見えないクリエイティビティというか、それを企画書みたいな建設的なものにするっていうのは全くなかったよ、BOOWYは。
――関係者への取材を続けていて、みなさんよく共通キーワードとして「かっこよければOK!」っておっしゃられていますね。
佐伯:それも正論なんだけど、もうひとつプラスするとすれば、シナリオありきのバンド・ストーリーは、ロックバンドではないってこと。逆に言えば一寸先は闇なんだよ。まぁそこに「かっこよければOK!」で、僕も参加した一員ですね。その思想が感動的だったよね。携わった人はみんなそうだったと思うよ。
――ゆえに、リミットをどんどん飛び越えていくんですね。
佐伯:じゃあさ、ふくりゅうに聞くけど、TM NETWORKとBOOWYの違いって何だと思う?
――そうですね……、TMは真逆ですね。小室哲哉さんのプロデュース・ワーク、設計図ありきなところが大きいです。
佐伯:そうだよね。小室さんの書いたシナリオがあるわけじゃない?
――小室さんも話されてましたが、TMは、BOOWYの背中を追っかけていた瞬間もあったそうです。「BE TOGETHER」というビートの効いた曲は「B・BLUE」からの影響が大きかったと。
佐伯:そうでしょう。つまり、実は設計図を書く人間がBOOWYにはいなかったんだよ。
――なのに結果、語られるストーリーが多いっていうすごさですね。
佐伯:でもね、今になって考えるとさ、人と人との付き合いの中で「どうでしょうか?」って企画書出す人いないじゃん? たとえばこの店の中で話をしている会話のディテールや雰囲気やノリによっては、たとえ初対面でも「いい奴だね~宮野は!」ってなるわけじゃん? そもそも「宮野と友達になりたい」っていう企画書なんてないわけで。だいたい、企画書にのっとって友達になったって達成感なんてないんだよ。それは高橋まことさんが正しく言ってたけど「いきあたりばったり」が一番なんだよ(笑)。思えば、BOOWYはいきあたりばったりっていう偶然性がずっと繰り返していたんだよね。しかもそれがカチっとハマるんだわ。『"GIGS" CASE OF BOOWY 』もそうだもんな。偶然、空いていた会場が横浜と神戸だったわけでしょ。で、渋谷公会堂の『1224』もフィルムで撮ってるわけじゃない? 普通だったらデジタルで撮るところをさ。だから映像を2017年の今でも綺麗に残すことができたわけで。でも当初は発売予定すらなかったわけで。だって、東京ドームでの『LAST GIGS』もそうじゃない? たまたまタイミングよく1988年にオープンしたから使っただけでしょ。BOOWYには偶然がぴったりハマるんだよ。神がかってるの。
――BOOWY の1986年,87年の活動スケジュール密度の濃さは謎めいてますよね。アルバムを3枚、ライヴ盤を1枚。さらに全国ツアー3本に、今もなお伝説的に語られている夏のイベントへ多数出演という。
佐伯:解散を控えていたというのもあるだろうけど、考えてではなくやりたいこと重視で偶然が重なりあってできているんだよ。
宮野:なんですかねぇ、あの歯車のぴしゃり感は。
――ディティールで言えば
1987年7月22日リリース「Marionette」のミュージック・ビデオは、のちにアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』をヒットさせたガイナックスの制作チームが撮っているじゃないですか? あの映像って今観てもカッコいいですよね。
佐伯:しかもアニメ部分のミュージックビデオの制作が間に合わなくて、オフショット含めスタジオ・シーンでのティーザー映像を先行して世に出して誤魔化してたんだよね。でも、結果それが画期的なプロモーションとして語られているんだから面白い。センスの話になるんだけど、何か企画があっても土屋がね「これじゃだめ!」ってしょっちゅう言ってたんだよね。「なんでこれでOKするの?」って。「何でひとつしか持ってこないの、もっとあるだろ!」って。「何でこんなことするの?」、「何でこんななの?」って。いわゆるBOOWYのブランディングの道筋らしきものを作ったのは土屋だと思うよ。だから宮野さんはそれを学習して「土屋さんだったらどうしたんだろうな?」って思っているんだと思うよね。
――1986年11月にスタートした全国ツアー『ROCK'N ROLL CIRCUS TOUR』では、企画当初、全国をめぐるために、空き地に会場を作りたくてサーカステントを建てようとしていた土屋さんですもんね。
佐伯:「象や虎を預かってくれないとダメ」だってサーカスから言われたってヤツね(笑)。「どういうこと?」って思ったよ(笑)。
宮野:いろんな企画を考える人でしたね。
佐伯:でもさ、僕は木下サーカスって僕好きだったんだよ。当時一番人気のエンタテインメントだったと思うよ。あと、プロレスな。地方にも行くエンターテインメントって言ったら、サーカスとプロレスだったよね。地元の祭りとか盆踊りとかはあるだろうけど、外からやってくるものって言ったらそれくらいだよね。ありえないけどさ、虎とか象をどの曲、どのタイミングで出すのかとか考えると面白いよねぇ(笑)。「BABY ACTION」で出すのか「IMAGE DOWN」出すのか(笑)。それを今こんな風に話すのも楽しいじゃないですか? 「IMAGE DOWN」で虎かよ、ジャジャジャジャーン!って(笑)。みんな虎と火の輪に目がいっちゃって、メンバーの存在意義が全くなくなりますよね。音楽は全てBGMになっちゃうから、サーカスにならなくてよかったっていう。あ、話が逸れたね。
――神ってるところでいえば、1986年8月4日に都有3号地(現:東京都庁)で豪雨のなかでおこわれた野外イベント『ウォーター・ロック・フェス』で記録的な大雨が降るっていうのも、よりライヴの伝説化というか、語られやすくなった要素ですよね。
佐伯:そういう偶発性が重なっているっていうことだよね。
――しかもあれはフェスめいたコラボレーションでした。
佐伯:そうだよ、吉川(晃司)くんも出たし、久美ちゃん(山下久美子)も出たんだもん。あと、44MAGNUMのPAULと大澤誉志幸もね。布袋さんの頭、大雨で立てた髪が寝ちゃってね。
――吉川さんは、登場シーンで自分でバケツの水をかぶってましたね。
佐伯:体育会系だよねぇ。僕なんて京王プラザホテルの隅で着替えをしましたよ、ずぶ濡れだったから。そしたらホテルマンが来て「ここで着替えをされたら困ります」って怒られたもん。
――やっぱりめちゃくちゃ大変でしたか?
佐伯:めっちゃくちゃ大変だったよ(笑)。映像観りゃわかるだろう(笑)。
――イベンター、ディスクガレージの中西(健夫)さんは、カッパを売りまくったって言ってました。
佐伯:売れたって言ってたもん(笑)。俺、中西のカッパは買ってないからね。
――それで言うと、
1987年8月22日、熊本グリーンピア南阿蘇アスペクタで台風直撃のなか実行された野外イベント『BEAT CHILD』も伝説化してますよね。
佐伯:行ったよ(笑)。僕ね、ず~っと救護室にいたんですよ。あの時の雨は、今の計測装置によると80ミリくらいだったらしいんだよ。しかも阿蘇山麓だからさ、カルデラで土じゃなくて砂に近いのよ。そうすると立っててもずるずる滑り落ちてくの。落ちていった先は泥沼だから。低体温症になって運ばれてくる観客が数知れず。で、僕は一応メディアの人間として『BEAT CHILD』をレポートしなくてはならない人間だったけど、救護室の先生が言うわけですよ。「どんな方でもいいですから手を貸してください!」って。そうなるとレポートなんて知ったこっちゃないわけ。人として何が正しいかっていったら、泥まみれで救護室に送られてくる人の体をタオルで拭いて、毛布をかける。それしかないの。それをずっと繰り返してたの。BOOWYの前からひどい雨だったからさ。一応BOOWYはちゃんと観たけどさ。でもさ、すごいのはあの何時間も豪雨の中、なのに死人がいなかった。すごいなと思ったね。それは僕たちが毛布をかけ続けたからだと思ってるよ。
――映画を観させてもらいましたが、前日は晴れて気持ちがいい雰囲気でしたよね。しかも佐伯さんが取材されていたアーティストがたくさん参加されていて。
佐伯:そうだよ。事務所のマザーエンタープライズでHOUND DOG 、RED WARRIORS、尾崎豊。エピックソニーでTHE STREET SLIDERS、(渡辺)美里ちゃんとか佐野(元春)くんとかね。
――そして、今年
2017年の8月7日にライヴ盤『"GIGS" CASE OF BOOWY -THE ORIGINAL』の神戸と横浜公演、両日39曲ずつのフル・ヴァージョンがリリースされます。
佐伯:ライナーノーツを書いたよ。宮野さんが「ブレてないですねぇ」って言ってくれた(笑)。昔のものを書くというのは、昔のままではいられるわけがないけど、ギリギリ昔に戻って書けるかどうかってことだよね。
――まさにオリジナルってことですね。
佐伯:僕は、BOOWYの重要なライヴはほとんど観てきたからね。去年の9月に、新宿のNAKED LOFTでBOOWYについて語るトークイベントをやったじゃない? ふくりゅうが前説とレポートしてくれたやつ。あそこで「この場所にBOOWYのライヴを観たことがあるひとは何人いますか?」って聞いたら会場に4人しかいなかったもんね(笑)。
――コアな方が集まるイベントなはずなのに、リアルタイムで生でライヴを観たファンが少なかったんですよね。
佐伯:『BOOWY HUNT』にも入ってる、ものすごいコアな人たちのはずだよね。そんなコアな人でもリアルタイムでBOOWYのライヴを観たことはないっていうんだもん。
――1988年4月4日,5日の『LAST GIGS』なんて、プレミアムなチケット争奪戦で10万人が観ているはずなんですけどね。
佐伯:実数でいけばね。そう考えるとやっぱりさ、残像が人を動かしてるんだよ。それこそ「あなたたちはBOOWYの残像に突き動かされて新宿まで来ているんですよ」って、ぴしゃりと言ってあげないといけないと思ったんだ。だから、今年も高崎に5枚のポスターが貼られました。そしたら「氷室さん、もう一度ライヴをやってくれるんだ!」って思っちゃう人がいるでしょう? で、煽るだけだけ煽られて「何だよ『"GIGS" CASE OF BOOWY』完全版かよ」って。だけど、それって80年代当時のプロモーション担当、小澤ちゃんが原宿竹下通りの店を一軒一軒あたって、シャッターにBOOWYのペインティングをしてティーザー宣伝をやっていたことを知って入れば、復活するなんて思うはずないじゃない? だから現役を知らなかった人こそいらぬ妄想をする。まぁ狙いなんだろうけどね。それはレコード会社や宮野さんが土屋の手法をうまく使ったんですよ。
――1987年夏に、神戸と横浜でおこなわれた通称4時間GIG『"GIGS" CASE OF BOOWY』。ひと公演で39曲演奏するという経験はBOOWYの歴史において、かなり異色だったと思います。クリスマスイヴの解散発表を控え、最後に初期のナンバーも観たいという、自らBOOWYファンを自認する土屋さんからの要望だったそうですが、メンバーがよく受け入れたな、と。12月24日の解散を控えていたこともあると思うんですけど、奇跡的なライヴですよね。初期の曲や、いわゆる未発売だった曲も含めてのセットリストで。これが映像としてがっつり記録されてVHSビデオで発売されたことは、解散後にファンが増え続けた影響として大きかったと思います。佐伯さんにとって『"GIGS" CASE OF BOOWY』とは?
佐伯:ライナーノーツにも書いたんだけど解散までの布石があったんだよ。当時、ヒムロックに言うとさ「そんなことねぇよ邪推だよ!」って怒られちゃったんだけどさ。僕が最初に観た1983年の頃『INSTANT LOVE』時代のライヴはワンマンなのに40分ぐらいだったから。それが3時間以上だよ。俺は集大成ってことだと思ったんだよ。集大成を見せるってことは、終わるってことだよね、普通は。でも、ヒムロックには「邪推だ!」って怒られちゃった。
――3時間半ですもんね。ほぼ全曲を聞かせるコンセプトというのも当時は珍しかったと思います。現場の雰囲気はいかがでしたか?
佐伯:なんかね、格闘技を観てるような感じだった。あのときさ、グッズのタンクトップが売れに売れたんだよ。Tシャツじゃなくて。真夏だしさ、会場は空調もあまり効いてなかったから。女の子のタンクトップは良かったなぁ(笑)。タンクトップのイメージが強かったですね。
――横浜と神戸公演で違いを感じられましたか?
佐伯:それはライナーノーツに書いたから読んでよ。
――読みます(笑)。
佐伯:やっぱりメンバーはヘトヘトだったよね、歌い続けた氷室さんは特にね。
――そして1987年の夏は、7月22日にシングル「Marionette」に続いて『"GIGS" CASE OF BOOWY』、その後レジェンドなイベントを挟んで、9月5日には、アルバム『PSYCHOPATH』のリリース、そして9月16日からは全国ツアー『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』のスタートとなりました。怒涛の展開です。そして、12月24日に千秋楽として渋谷公会堂を迎えますが、……佐伯さんはどのタイミングで解散を知ったんですか?
佐伯:薄々気づいていたのは『"GIGS" CASE OF BOOWY』のライヴをやるっていうことを土屋から聞いたときですよ。そもそもなんでそんなまとめてやるの? たとえばベストアルバムって、今みなさんよく出しますよね? でもベストアルバムって泉谷しげるさんが言ってたけどアーティストにとっての墓場なんですよ。ベストアルバムを出すってことは墓石を建てるってことなんです。「どうぞ、みなさん拝んでください」ってことなの。BOOWYは、現役中にベスト盤を出すことはなかったでしょ? でも、集大成ライヴとして『"GIGS" CASE OF BOOWY』があるってことは、これはライヴという墓石だろうと。だとしたら、終わりに向かっているだろうって推理するのが僕なわけ。普通に考えたらそうだよ。何で新作アルバム『BEAT EMOTION』が過去最高に売れたタイミングで過去を振り返るの? こんな段階ですべてのレパートリーをやるってありえないだろうと。だってさチャートで1位になってるんだよ。
――普通、昔の曲をやらなくなるタイミングですよね。
佐伯:『BEAT EMOTION』の曲だけやってもライヴは全然成立するんだよ。しかもさ、神戸公演なんて昔の曲をやりすぎていたからか、歌詞が飛んでるんだよ。でも、それをそのままリリースするのってロックじゃんって思ったね。
――その意味でいえば、BOOWYってベスト盤を出していなかったからか、ライヴ盤から入ってきたキッズがものすごく多いんですよね。でも本来、ライヴ盤ってマニア向けのコアアイテムな位置付けですよね。ライヴバンドであるがゆえのBOOWYのすごさだと思います。
佐伯:ライヴ盤だからこそ、MCをそのまま覚えたり、間違った歌詞ですらそのまま覚えちゃうやつね。
――楽曲的には『PSYCHOPATH』は、特にB面は“さよなら感”を意識させる曲も多かったです。佐伯さんは、いかが受け止められたのですか?
佐伯:終わることを前提にしたアルバムだからね。
――しかも世の中的には、それを言わずにリリースされました。
佐伯:そうだよ。ツアーだって組まれてたんだから。その辺になるとかなりヘヴィーだよね。
――ヘヴィーすぎますよ。わかりやすいのが『"GIGS" CASE OF BOOWY』の氷室さんの顔ってものすごい健康的なんですけど、12月24日の渋谷公会堂、通称『1224』のライヴでは、完全に削ぎ落とされているというか全然表情が違いますよね。葛藤がにじみ出ているんです。同じ1987年の出来事だとは思えません。もちろんどちらもかっこいいんです。でも別人のように感じちゃいました。
佐伯:うん、わかるよ。そうだ
――あと『BEAT EMOTION』と『PSYCHOPATH』って、冷静に考えてみたら、同じバンドとは思えないぐらい作品の世界観が全然違いますよね。
佐伯:そうだよ。『BEAT EMOTION』は、チャートで1位を獲るために製作されたわけ。で「ああ、やっぱり『B・BLUE』をやれば1位ってとれんだ。だったらもうそれはやらない」。というのがBOOWY。
――アルバム『BEAT EMOTION』に収録された「SENSITIVE LOVE」なんて、むちゃくちゃポップソングなんですよね。もし、解散せずにポップでメロディアスな方向で90年代も活躍されていたら、日本の音楽シーンはまた変わっていたでしょうね。もちろん、全然そんなことはやらずに『PSYCHOPATH』へ向かいましたけれども。
佐伯:同じようなことは彼らは2度やらないの。
――『PSYCHOPATH』で表現された精神性、ダークな部分に踏み込んだ作品の世界観は、後の氷室さんのソロ活動にもつながっていくわけですよね。
佐伯:『PSYCHOPATH』で示した精神性って最初からあったと思うよ。いわゆる心理学的なものは『PSYCHOPATH』で明らかになったかもしれないけど、そもそもぶっちぎれてるっていうクレイジーさだよ。『MORAL』のときからずっとあったでしょ。そのクレイジーさについていけないメンバーが抜けていったんだよ。あるいはまこっちゃんみたいに、クレイジーさに鈍感な人が残ったんだよ。
――『PSYCHOPATH』って言葉、今年、脳科学者の中野信子さんが本のタイトルにされていて話題となりました。
佐伯:2012年には、Production I.G制作のアニメのタイトルにもなったもんね。
――そう考えると『PSYCHOPATH』って言葉をあの時代に使ってるって早すぎるなぁと思うんですけど。1987年、日本では一般的じゃなかった言葉ですよね。
佐伯:そんなこと言ったら“O(空集合)”だってそうじゃない?
――そうですね。“空集合=要素を一切持たない集合”ってパンクでかっこよすぎます。それこそ、氷室さんとか徐々にアート的な趣味も広がっていきましたけど、佐伯さんとその辺の話をしたりもしたんですか?
佐伯:ヒムロックは、きっかけとしては布袋さんから学んだんだと思うよ。
――布袋さん、そのあたりのカルチャー的なものをいち早く取り入れてましたもんね。ちなみ、佐伯さんは打ち上げであったり、合宿的なレコーディングであったり、移動中であったり、メンバーとはいろんなお話をされましたか?
佐伯:いや~、まこっちゃんとは50,000字インタビューくらいできるね(笑)。
――まことさんとはどんな話をされていたんですか?
佐伯:まこっちゃんていうのは、初代ドラマーの木村マモルさんが退いた後にバンドに加入したんだけど、それこそ初セッションでカウントの声がものすごい大きかったから、みんな吹いちゃったっていう話が有名だよね。でも、俺はまことさんはBOOWYに欠くべからず人間だと思ってる。まことさんほど、BOOWYのクレイジーネスに全く無頓着な人はいないと思う。だからこそバンドが継続した。ライヴでの「ONLY YOU」のイントロのカウントって何拍か知ってる? 
――えっ、……16拍ですか?
佐伯:普通16だと思うけど、20拍なの。で、20拍にしろって言ったのはヒムロック。何で20拍なのか、まことさんは全くわからなかったって。それって一種のクレイジーネスだろう? でも、あの20拍でなければ、あの「ONLY YOU」の印象的なイントロにはならなかったんだよ。それって天才的=クレイジーじゃん? まことさんは全くわからなかったけど、そのニーズに応えたんだよ。「ヒムロックやっぱり8とか16じゃないの?」って聞かなかった。ヒムロックが歌いやすいって言ってるから20拍にしようって。
――それがBOOWYらしさとなるんですね。
佐伯:それがバンドでしょう。つまりバンドの構成員がバンドのことをすべてわかっているわけではないんですよ。でも、バンドってそういうもんなんだよね。さっき企画書のことを言ったけど、もっと言えばバンドを構成している氷室、布袋、松井、高橋すらも自分以外のメンバーを正しく知っているわけではないんですよ。知る必要もないの。それが一時交わってスパークするのが音楽という現場。それこそがバンドなんじゃないかな。
――バンド活動の本質ですね。
佐伯:いやもう、WEB版『BOOWY HUNT』の真骨頂を作るために話してますけどね。
――ありがとうございます。松井さんはどんな方でしたか?
佐伯:松井さんは織田哲郎と一緒にやってたのは知ってる?
――織田哲郎 & 9th IMAGEですね。
佐伯:その音源を聞いたことある? 当時は、流行りの音をやってたの。シティポップス。松井さんはシティポップスをやっていた。でもね、僕から言わせると松井さんは何か時代の潮流にあったものをやらされたがゆえに反発が出てきたんだと思うんだ。やらされていなかったら反発としての表現は出てこなかったんじゃないかな。つまり自分が嫌だと思う感情は、嫌なものを直接的に受けなければ、嫌だっていう感情は出てこない。
――なぜBOOWYというバンドが生まれたのか、に通じますね。
佐伯:普通に俺はパンクをやりたいんだよって氷室さんが思っていただけだったら、絶対にBOOWYは生まれなかった。人っていうのはぬくぬくと育っていると何も不満はないよ。不満っていうのは逆境に立たされて初めて生まれるんだよ。それがエネルギーになるの。
――結成時のビートの速さ、『MORAL』でのパンクなイメージはそこからの発露だったんでしょうね。では、1987年12月24日の渋谷公会堂の話に進みたいのですが、氷室さんが解散宣言をされましたが、実は“解散”という言葉は使ってないですよね。あの衝撃的な瞬間は、どのへんで観られていたんですか?
佐伯:1階の後ろから3列目の左から4番目かな。
――あの日、あのあと佐伯さんはどうされていたんですか?
佐伯:土屋と飲みに行ったよ。メンバーは赤坂プリンスに行ったんじゃないかな。
宮野:いや、そのまま帰ったってまこっちゃんが言ってた。
佐伯:は~、冷めたもんですなぁ。バンドの最期ってそういうことなのかもしれないけど。
宮野:いや、あの時は次にやることが決まってたから。
佐伯:そりゃあそうだけどさ。
――その時、土屋さんとはどんな話をしたんですか?
佐伯:二人じゃなかったんだよね。『PATiPATi』の神さんとか水村もいたよ。ああ、今日で終わったんだねって。土屋は後で合流したかな。
――どこで集られたんですか?
佐伯:渋谷の道玄坂の飲み屋。
――土屋さんの雰囲気はどんな感じでした?
佐伯:どういう雰囲気……。まあテンパってたよ。
――どんな感情でいればいいのかわからないですよね。
佐伯:当事者たちも、これでよかったのかなっていう気持ちもあったんじゃないかな。複雑すぎるよね。
――またファンの方も暴動というか……暴動めいた雰囲気になりましたよね。
佐伯:いや、暴動暴動。でもさ、やっぱりロックは暴動が起きないと。今ロックのコンサートで暴動は起きないからね。
――80年代はまだそういう70年代的な残り香があったんですね。
佐伯:当日はいわゆる媒体とかもほとんど入れなかったからね。BOOWY関係者って土屋がすごい狭めてたから。それに「業界招待席はありません」って、アーティスト担当の鶴ちゃんが言って。文化放送とかニッポン放送のディレクターがびっくりしていたな。スポークスマンであるライター5人衆に伝えて貰えばいいっていう考えだったんだよ。何を見て、何を書いて伝えたか、あるいは喋ったかっていうのを土屋は重んじてたから。「BOOWYってバンド、いま盛り上がってるらしいから渋谷公会堂入れますか?」っていうような奴は全部シャットダウン。あれは凄かったよ。「なんで行けないんだよ!」って言うメディアのお偉いさんとかいたからね。でも、別にあなたの番組でBOOWYを紹介してなかったじゃんって、そういうことだよね(笑)。だから「何をやったか」っていうのを土屋はよ~く見ていたんだよね。
――佐伯さんはBOOWYが世の中的にはまだ知られていない時期から見続けられていましたが、1985年から1987年のたった2年で、あっという間に状況が変わりました。当時、メディアやレコード会社からのBOOWYの捉え方が大きく変わったことについて実感ありましたか?
佐伯:あったね。だから「やった!」って思ったよ。「時代がBOOWYなんだよ!」って。鶴田さんとガッツポーズだよね。あとさ、ふくりゅうがやったインタビューかわからないけど、小室哲哉さんが「80年代、ソニーグループ総出でバンドブームに向けていろんなバンドを送ったけど、唯一勝てなかったのはBOOWYだった」って話してたよね。まさにそうだと思うよ。あの時は、当時エピック・ソニーの創始者だった丸山茂雄さんがロックバンドを売るんだって言ってたから。そりゃあMODSでもTHE STREET SLIDERSでもTM NETWORKもいてさ。でも、唯一勝てなかったのはBOOWYだったっていう。もう、正解。じゃあ何で勝てなかったのかっていう話だよな。ソニーには潤沢な資金もあるし、プロモーション体制も整っていた。いろんなプロモーションができていたはずなのに。その答えはさ、プロモーションのセグメントを狭めた土屋の手腕が勝ったんだよ。
宮野:パブリックイメージだよね。何で売るか、何で伝えるかっていう。当時は文章だったんだよね、あと写真。BOOWYは格好良い写真と文章で売ってこうと思ったんだよ。ものを売る時に「これをどうやって売ろうか?」っていう話になるじゃん。どうやって伝えるかって。当時はライヴっていう柱があったから、ライブをやれば客が増えるっていう。その状況を拡散してくれたスポークスマンとなった音楽ライターの力だよね。
――その戦略が正しくて、一気に駆け抜けられたってことですよね。
宮野:正しいっていうか、そこしかなかったんだよ。で、方やREBECCAとかテレビとか出てたわけじゃん。それはそういう売り方をしてたわけでしょ。TM NETWORKもそうだし、PRINCESS PRINCESSもそう。だからBOOWYは数字で言ったらそこまで売れてないわけ。負けてるわけ。数字だったらね。でも実態が伝わるブランディングの強さ、記憶に残る作品を残せたこと。それとお店を大事にしたんだよね。レコードショップを大事にしたっていうのは画期的な話なんだよ。当時にしてみればね。
佐伯:音楽が好きなやつがどこにいるのかっていうのをちゃんと探してた。小澤ちゃんとかね、BOOWYを好きな人を名指しで覚えていたから。それをいちいちやってたの。ファンをスタッフに巻き込んだりね。それがすごいんだよ。
――象徴的なのが7枚目のラストシングルとなった「季節が君だけを変える」のミュージックビデオですよね。BOOWYメンバーは瞬間しか写っていなくて。あとは、ターゲットにしていたであろう世代の若者がたくさん登場していて。しかも、The Collectorsの加藤ひさしさんも偶然か参加されていたそうですね。それもまた面白いなって。
佐伯:『BOOWY HUNT』で出演者を募集したり、歌舞伎町や原宿で参加してくれる人にどんどん声をかけたらしいね。オーディエンスに主軸を置いたすごい企画だと思うよ。
――で、衝撃の『1224』から4ヶ月、期間が空いてからの1988年4月、東京ドーム『LAST GIGS』なんですけど。実は、メンバーにとっては解散ライヴというよりも再結成に近い感覚であったという。BOOWYというバンドは渋谷公会堂で終わっていたという事実ですね。その後、メンバーは次のプロジェクトに向かっている状態ですし。
佐伯:「早いけど同窓会だね」って。まさにその通りだよね。
――『LAST GIGS』はあんな広い空間でしたけどどの辺で観られていたんですか?
佐伯:記者席だったね。まだ東京ドームでライヴ公演が定着してなかった時期だから音響が悪いわけ。記者席だと完全にハウってたから。今みたいに残響音を計算できる時代じゃなかったからさ。だってまだイヤモニ(音響をチェックするために使用するイヤホンの一種)は無くて転がし(アンプ)だったからね。まあ、転がしがなければヒムロックのあれ(足をかけるポーズ)が生まれてないからな。
――巨大空間でのメモリアルな2日間となりましたが『LAST GIGS』はどんな感情で観られてましたか?
佐伯:もうねぇ、やだなぁバンドが終わるのはなって思った。
――人気絶頂を迎えている、というかさらに売れていくであろう状況で最後を迎えるバンドってないですからね。
佐伯:ないよ、そんなの。見たことある? 絶頂で終わるんだもん。だからもう全然腑に落ちない。まったく理解不能な感じで記者席に座っている僕の気持ちを君はわかる(机をドン!)?
――……ですよねぇ。
佐伯:でもね、逆に言えば時代を象徴した音楽はこんな風に終わってくんだなぁって。でも他には、ビートルズくらいしか例えがないけど、音楽と共に自分の時代が終わっていく、あのとき感じたよ。さらに言えば、……僕はあのとき死にたかったよ。
――それだけ大事な存在だったということですよね。……『LAST GIGS』が終わったあと、佐伯さんはどうされたんですか?
佐伯:放心状態だよ、放心状態。土屋も来ないしさ、誰か編集者と酒を飲んだんじゃないかなぁ。土屋は電話にも出なかったよ。
――佐伯さんはBOOWYが躍進する瞬間、売れたって瞬間はどこでしたか?
佐伯:「ホンキー・トンキー・クレイジー」ができあがった時だね。「ホンキー・トンキー・クレイジー」がUKのバンド、デキシーズミッドナイトランナーズ「カモン・アイリーン」のコードを逆から辿ってるって知ってる? 「ホンキー・トンキー・クレイジー」はシャッフルビートなんだけど、何でもかんでもシャッフルビートにしたら売れるって……氷室さんが言ってたなぁ。
――氷室さん、後のソロ曲でもシャッフル好きですよね。
佐伯:「佐伯、どんな曲でもさ、リズムをシャッフルにすると良い曲になっちゃうんだよ」って。1985年、東芝EMIに移籍して、最初のシングルは「ホンキー・トンキー・クレイジー」でしょう? シングルで僕らの名刺ですって出したものがシャッフルだったんだよ。
宮野:俺が佐伯さんに聞きたいのは、個人的な想いでいいんだけど、ライヴのベスト3かな。
佐伯:えっとね、第3位は詳しくは書けないけど『ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR』の秋田県民会館。第2位は、音は良くなかったけど『"GIGS" CASE OF BOOWY』の神戸。こんなスペシャルなライヴを、神戸でやったのが驚きだよな。神戸ってしょっちゅう行く場所じゃないから。こんな場所で、総集編的なライブをどうしてやるんだろうって思ったわけ。普通、思うよね。挙句、ヒムロックがね、初日だったからかペース配分を間違えてライヴ中に息が苦しそうだったの。酸欠状態になるライヴハウスでもないのに、その感じがね……かっこよかったんだよ。40曲をやるってことはどういうことなのかっていうのをわかってないのがいいんだよね。素なBOOWYを観れたんだよ。かっこいいんだ。それがまた全レパートリーに反映されてるから。ライヴハウスで40分でさよならってもんじゃないのよ。必死な感じが観れたのが『"GIGS" CASE OF BOOWY』だったんだよ。
宮野:必死な感じにテンションが上がったよね。では、第1位は?
佐伯:ベストワンは『LAST GIGS』の1日目。もう会場の問題で全然音がボロボロだし、でも何だろうな、開拓精神みたいなものを感じられたの。日本のロックバンドが1日で5万人の前でライヴできるんだっていう希望。でもさ、終わりなんだよ。終わりの1日目なんだけど、ああ、信じていた音楽の未来があるなって、その時は思えたの。挙句、ライヴ後も土屋がいろっていうから残ってたらさ。メンバーがモニターがどうたらとか言ってるわけよ。PAの人と話ていて。「B・ BLUE」のイントロがなんたらとか言ってるわけ。普通じゃないでしょ。最後のライヴだよ? 終わりなんだよ君たちって。明日終わるバンドなんだって。でも本気でライヴと向き合っていたの。その終わりに希望があったんだ。終わりが始まりで、終わりが希望。そんなことを示したバンドは絶対に他にはない! それを僕は20代の後半で体験できて人生この上ないですよ。だから一生ロックと一緒にいようと思ったの。命の続く限りね。
――ロックは人であり、思想であり哲学というわけですね。
佐伯:ふくりゅうもきっと観ているであろう、BOOWYの8枚組DVDボックス『“GIGS” BOX』。それの第8巻に僕が監修したものがあるんですよ。そのタイトル覚えてる?
――『Artform? or Burnout!-EMI room 102-』ですね。何度も観ました。2007年12月24日にリリースされましたね。
佐伯:それをどう日本語訳する?
――えっと直訳としては“芸術性を保てないのならば、燃え尽きるしかない”って感じですかね……。
佐伯:ぼくから言わせると“後がない”。後がないバンドって今いますか? 見渡してくださいよ。みんなね、頑張って売れようとしてますよ。売れようとしている時に後がない雰囲気を出せる。そんなバンドいますか? 頑張って、もっと売れようって一生懸命フォローしたのに、その影がないの。売れようとしているのに後がないって、どういうことだ、と。
――BOOWYしかいないですね、そんなバンドは。
佐伯:頑張って応援しながらも死の影がつきまとう、そんな理不尽なことがありますか? じゃあ僕は何を応援してるんですかって話になるじゃん。今でいえば、BOOWYはサザンオールスターズやMr.Childrenみたいになって欲しかったんですよ。そうなると信じていた。最終的に、バンドは東京ドームに立ったけどね。80年代当時さ、渋谷のライヴハウス、ライブインで、BOOWYを観た後に、渋谷公会堂に行ってほしいな、とか、武道館に行ってほしいな、とか思ったんだよ。だからさ、彼らのいいところを抽出して原稿に書いてきたんだよ。とても素敵な最高の時代だったからね。
――最後の質問です。佐伯さんにとってBOOWYとは?
佐伯:すべての突破口を開いたジャパニーズ・ロックバンド。だから僕はBOOWYがグラミー賞をとってくれたらいいなって思っていたんだよ。B’zの松本(孝弘)さんがラリー・カールトンと一緒にやってとったり、坂本龍一さんとか、クラシック方面ではあるけど、本当にマジョリティを獲得している人気のある日本のバンドがグラミー賞をとったらいいなって思ってたんだよ。何がふさわしいかって思ったらBOOWYだったんだ。
――佐伯さんはB’z、BUMP OF CHICKEN、サザンオールスターズなど、様々なトップレベルのジャパニーズ・ロックバンドを取材し続けられてきたわけで。その上でのBOOWYってことですよね。
佐伯:革新的なものがあるかどうか、だね。BOOWYにはそれがあったんだよ。
<インタビューを終えて>
『BOOWY STORY ARCHIVE』第11弾、BOOWYファンであれば誰もが大きな影響を受けた音楽文化ライター 佐伯明氏へのロング・インタビュー。いかがでしたでしょうか。マネージャーの土屋さんが懇意にしていた新宿の懐かしの居酒屋で、お酒も入り通常の連載記事とはちょっと違ったフランクな雰囲気のなかトークが弾みました。メンバーと同世代であり、BOOWY躍進の歴史に立ち会い、数々のストーリーを言語化されてきた佐伯氏らしい熱量の高い流麗なる語り口。お楽しみいただけたのではないでしょうか? 
引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWY伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告:斉藤 良(フライングハウス代表取締役 / ROCK'N'ROLL OLYMPIC主催)
 https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=11
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