過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃     広島平和記念資料館     ┃
 ┃  Hiroshima Peace Memorial Museum ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1971(昭和46)年08月06日(金) 原爆投下後26年目 初出席 佐藤栄作
 2002(平成14)年08月19日(月) 来館者数が5000万人に到達
‡2010(平成22)年09月05日(日) 来館者数が6000万人に到達
 2017(平成29)年09月24日(日) 来館者数が7000万人に到達
 2016(平成28)年度には、オバマ米大統領の訪問があり、入館者数が
 1991(平成三)年度の159万3280人を超え過去最多
*************************************************
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8
*************************************************

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ いはゆる「保守論壇」に問ふ  ┃各種論文編
 ┃ <其の十二>領土問題と拉致問題 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 2016(平成28)年08月06日(土) 
 昭和31年の日ソ共同宣言は、日ソ間の戦争状態を終結させたもので、これは交戦権(戦争権限)のない占領憲法を根拠として締結されたものではなく、帝国憲法第13条の天皇による講和大権によつて締結されたものであることは自明のことである。
戦争状態を終結させたとしても、それは戦争を終結したことではない。戦争の終結は、戦争によつて引き起こされたすべての事象を最終的に解決するための平和条約の締結によつてなされる。
つまり、日ソ共同宣言は入口条約であり、昭和48年の日ソ共同声明、平成5年の東京宣言や去る12月16日の安倍首相とプーチン大統領との日ロ首脳会談などは、最終講和に向けての中間交渉ないしは中間条約に過ぎないのである。
日ソ共同宣言は、我が国が泥棒国家連合の国際連合に被害国である我が国が国際社会への復帰との名目で加盟するためのもので、以後において平和条約(最終講和)が締結された場合に、歯舞、色丹を引き渡すことが約束されたが、国際法上我が国の領土である千島全島と南樺太の返還は、最終講和によつてその時期と方法が決定するといふことである。つまり、少なくとも平和条約締結時に、まづその一部である歯舞と色丹が直ちに返還されるといふ意味なのである。
ところが、占領憲法が憲法であると臣民を欺して洗脳し続けた敗戦利得者の政治家、官僚、学者どもが、「固有の領土論」を持ち出して、四島だけの返還を求めることによつて今日に至つてゐるのである。四島返還に限定する主張をした段階で、我が国はすでに講和交渉に敗北してゐるのであつて、このことは今回に限つたことではない。
そもそも、「固有の領土」とは、歴史的にどこまで遡つて「固有」といふのかが定まらない。そして、その究極において、国家成立以前あるいは国家による先占以前に遡ると、どの国の領土であるのかは不明であるとの結論に至るからである。
領域(領土、領海、領空)の取得について考察すると、まづ、「先占」の点であるが、これについてはアイヌ民族などによる先住性が認められるために、いづれの国においても先占は成り立たない。それは、西サハラ事件やパルマス島事件の裁判所の意見や判決の基準に照らしても当然である。
千島樺太交換条約と、ポーツマス条約によつて、千島全島と南樺太は、我が国の領土として帰属したが、ソ連が火事場泥棒的にこれらを侵略したのである。平穏な方法でない侵略的な軍事占領では、領土取得の成立要件とはならないことを国際法に従つて堂々と主張すべきである。さうすると、未だに千島全島と南樺太とは、国際法上において我が国の領土なのである。
確かに、サンフランシスコ講和条約第2条には、「日本国は、千島列島並びに日本国が
‡1905(明治38)年09月05日(火)のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」とあり、千島列島及び南樺太を放棄するとしたが、その相手国であるソ連は同条約に調印しなかつたので、同条約第25条により、我が国が千島列島(得撫島以北)と南樺太の領有権放棄の効力は発生しない。つまり、同条には、「この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第23条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つ之を批准したことを條件とする。・・・」とあるからである。
放棄といふのは、単独行為、すなはち、相手の承諾を得ずしてできると解されてゐるが、これまで、「放棄」といふ単独行為によつて領域の取得原因とする国際法はなかつた。この場合の「放棄」といふのは、実質的には「割譲」といふ領域の取得原因を意味するのであつて、相手国が、同条約の当事国とならなかつたことは、仮に、我が国が放棄(割譲の申入)をしたとしても、それを予め拒絶することであるから、我が国の放棄(割譲の申入)は合意に至らずして失効し、撤回されたことになる。といふよりも、ソ連が相手国として調印することを「条件」として放棄するといふ「条件付放棄」であるといふべきであつて、相手国不調印のため、条件不成就により失効してゐるとも解される。それゆゑ、未だに、得撫島以北の千島列島と南樺太は、我が国が領有してゐることになる。
ところが、国際法上の論理を用ゐずに、「固有の領土論」を持ち出すことは、領土問題における敗北を意味する。「固有」といふのは、どこまで遡るのか、有利に援用できる面もあるが、結局のところ、遡れば遡るほど帰属未定地となつて固有の領土を失ふ論理に陥る。領土問題については、時効の論理だけでは不十分であり、国際条約を根拠に領土論を展開すべきなのである。
なぜならば、もし、我が国が、領土取得の基点を「固有」といふ歴史、沿革に依拠する根拠を持ち出すのであれば、ロシアもまた、その歴史的沿革を持ち出してくる。歴史的には、確かにアイヌ民族の先住性は認められても、約300年前からロシア人がカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始し、安永元年(1772+660)には、千島アイヌとロシア人が衝突してロシア人が島から退去するも、再びロシア人の南下による活動は続いてゐたことからして、得撫島を含め千島列島全域には先住民としてアイヌ人と後住民のロシア人とが混住してゐた事実がある。そして、ロシアとしては、アイヌ人を「自国」の先住民とみなしてこれを国内問題であると主張し、ロシア側もまた「固有」性も持ち出して来ることも可能となるのである。つまり、ロシア人とアイヌ人との混住事実論とアイヌ人自国民論の両者で、「固有性」を主張することもできる。そうすると、我が政府のいふ「時効の論理」(固有の領土論)の主張も盤石ではなく、早晩崩れてくることになる。そもそも、遠い過去において、どの民族がどの地域において原始的な先住民族であつたかといふことは、科学的に証明されてはゐない。たとへば、北海道アイヌについても、その祖先は、日高海岸に漂流した女神と同所に住んでゐた狼(ホロケウ)との間にできた子供の末裔とするアイヌ伝説があることからしても(更科源蔵)、これは渡来系の混血型民族であり原始的先住性があるとは云へないからである。
また、パルマス島事件の判決要旨にもある「領域主権の継続的かつ平和的な行使は、権原としては十分に有効である」とする論理からすれば、遲くとも安政の条約以後は、擇捉以南の千島について、「領域主権の継続的かつ平和的な行使」をしてきたのであつて、その経過事実を以て領域主権の権原とすべきであつて、これは、「時効」に類似した権原の主張として有力なものである。そして、この論理は、千島全島及び南樺太がソ連によつて侵略されて占領されてゐることから、ソ連とその継承国のロシアの占領は、「平和的な行使」ではない。それゆゑ、たとへこれからも如何に長期に亘つてロシアが千島全島と南樺太について領域主権を主張し実効支配を継続してきたとしても、それは、領域の取得の権原とはならないのである。
ところが、政府にはこの論理が理解できず、依然として、「固有の領土」といふ「時効」の主張しかしてゐないのである。そして、我が国は放棄したがソ連がサンフランシスコ講和条約に調印してゐないので、ソ連が領有したことにならないから、千島列島(得撫島以北)と南樺太は「帰属未定地」であるとするのである。敗北したことからくる卑屈さもさることながら、武裝解除を容認し続け、武力による奪還ができない状況で、帰属が未定となるやうな領土の放棄は、その住民(臣民)の遺棄(棄民)を伴ふものであり、これほど無責任な行為はないのである。
從つて、我が国は、ロシアとの講和條約を締結する以前に、直ちに、サンフランシスコ講和条約第2条の撤回と失効をロシアに対し主張し、千島全島と南樺太の領有権を堂々と主張すべきである。
ところが、我が国政府は、この不可解な「固有の領土論」に拘り続けてきた。そもそも、固有の領土であるとして、四島返還を求めたしても、それを全部認めさせるといふことは、ソ連の後継国ロシアが外交的に全面的に完全敗北することであつて、そんなことは到底あり得ないことである。領土問題の範囲を千島全島と南樺太にまで広げた上で、その妥協として四島返還を勝ち取るといふ外交戦略でなければ領土問題が解決できるはずがない。
さらに言へば、千島全島と南樺太に土地の所有権その他の権利を有してゐた島民(日本人)の権利(邦人財産)は存在してゐたのであるから、その邦人財産が侵奪されたことを理由とする賠償請求は可能であるのに、それが全く議論されない。全損の賠償を求めれば、その賠償が履行されると賠償者の代位の法理(民法第422条参照)によつて、島民は所有権等を失ふが、その所有権等を留保して、その使用収益の賠償のみを求めることもできるのであるが、それすら求めない。
そして、政府は、何とかの一つ覚えといふか、四島返還のみに拘り、しかも、固有の領土論で思考停止してゐる。千島全島と南樺太の返還を求めるのは、政党では日本共産党だけであるといふ皮肉な状況である。
ましてや、安倍は、今回の日ロ首脳会談の翌17日、日本テレビのインタビューにおいて、プーチンが、日ソ共同宣言で引き渡すとした歯舞、色丹は、その領土主権を返すとは書いてゐないと主張してゐることを明らかにしたのである。これは、以前からプーチンが主張してきたことを安倍首相が初めて認めたことになる。
我が国に領土主権があるから返還するのであつて、領土主権がないのに引き渡すのは、租借などしかないが、そんなことは一言も書いてゐない。租借であれば、「返還」ではなく、新たな「引渡」なのである。しかし、こんな自明のことをプーチンは平気で詭弁を弄するのである。
ソ連とその後継国であるロシアは、「約束はしたが、約束を守るといふ約束はしてゐない」といふ詭弁を平気で云ふ邪悪な国家であり、だから日ソ不可侵条約を違法に破棄して宣戦布告し、北方領土を侵略占領してたのである。
そのことを本来であれば、政治と外交の専門家ならば、一番解つてゐるはずなのに、あまりにも豊富で雑多に秘密情報に翻弄されて、微視的な領土交渉の経緯を深読みして分析を行ふといふ、まさにマニアの世界に入り込んで、「木を見て森を見ず」といふ状態に陥つてゐる。
技巧的でマニアックなことしか考へられない領土問題マニアたちの助言によつて安倍は前のめりになり、実質的には、今回の交渉で千島全島と南樺太をすべてロシアに割譲した上で、盗人に追銭として戦争賠償金まで支払ふことに決めたのである。しかも、その自覚が全くなく、将来の果たせぬ夢の幻想と空想に浸つて自画自賛する首相が居ることが、我が国にとつて最大の不幸なのである。
政治や外交のプロであつても、占領憲法の効力論に関するプロではないために、大局観がない。これが定まらなければ、国内政治も国際政治も間違へる。
これらのプロ(専門家)は、専門バカと云ふより、バカ専門である。プロを自称する者の驕りと油断を自覚せずして、島民の手紙を小道具としてプーチンに渡し、それを読んだプーチンが感動したことによつて交渉が円滑に進んだなどとお花畑的なマニア外交に自己満足するやうに安倍首相を唆してここまできてしまつた。
このやうな為体な状況では、絶対に北方領土も竹島も奪還できない。では、諦めるしか方法がないのか。否。諦めることはない。ひとつだけ起死回生の解決方法がある。それは、救国内閣を組閣し、占領憲法が憲法ではないとする無効確認宣言を行ふとともに、ソ連が日ソ中立条約を破棄したことに見習つて、占領憲法無効確認宣言を行つたことを以て重大な事情変更を生ずることになつたことを理由に、日ソ共同宣言のうち、戦争状態を終結する条項以外のすべての条項を破棄する。
そして、新たに千島全島と南樺太の領土返還交渉を、真正な臣民による政府によつて交渉することなのである。これは、竹島についても同様の手法によることになる。また、拉致問題も、この領土問題と相似性があるので、この手法を用ゐるのである。強盗犯人(ソ連、ロシア、韓国)から領土を奪還できないのも、誘拐犯人(北朝鮮)から拉致被害者を奪還できないのも、すべて占領憲法が元凶である。その認識に戻らなければならない。
拉致問題においては、人道支援と称する欺瞞と詐術に満ちた北朝鮮への援助を行つてきた政府の行為を糺さなければならない。そして、北方領土問題と同様に、占領憲法の無効確認決議を行ふとともに、北朝鮮との平成14年の日朝平壌宣言は、ミサイル発射実験や核実験を強行し、拉致問題などを誠意をもつて取り組みとした合意を反古にするなど、北朝鮮が一方的に信頼関係を破壊した違反行為を行つたこと理由に全部破棄(解除)して、仕切り直しすることである。
そして、自衛隊は帝国憲法下の軍隊であり、占領憲法第9条の制約を受けないことを確認して、その特殊部隊による拉致被害者の救出作戦を断行する強い国家意思があることを表明することによつて、完全に膠着した拉致問題を解決するための大きな一歩を踏み出すことができるのである。
憲法改正、領土、拉致など、占領憲法を憲法であるとする限りは永久に解決しえない問題があればあるほど、敗戦利得者に永久利権を与へ、国家国民が食ひ物にされる。
島民よ! 拉致被害者家族よ! 祖先から受け継いだ土地を奪はれ、身内を拉致されても、それでも盗人に追銭をし続ける政府に、もつと怒れ!
 2016(平成28)年12月21日(水)記す 憲法学会会員、弁護士 南出喜久治
 http://kokutaigoji.com/reports/rp_iwa_h281221.html


 WI-1000XM2 ワイヤレスノイズキャンセリングステレオヘッドセット
 2019(令和元)年12月07日(土) 発売予定
 \38,500(税込) 3,850 ヤマダポイント(10%還元)
 いい音には、静寂が要る。ハイレゾを、業界最高クラス(*)ノイキャンで。ネックバンド型ワイヤレスノイズキャンセリングヘッドホン市場において。
‡2019(令和元)年09月05日(木)時点、ソニー調べ、電子情報技術産業協会(JEITA)基準に則る
 https://www.sony.jp/headphone/products/WI-1000XM2/
 https://www.yamada-denkiweb.com/4218691012

‡2018(平成30)年09月05日(水) 01:11 どん兵衛
 どん兵衛です。Daichiさん、海ねこさん、明さん、コメントありがとうございました。
 社長会記録とは、学会の外郭企業の社長らとの会合で池田会長(当時)が語った記録集で、社長会は、
 1967(昭和42)年06月25日(日)の第1回から
 1972(昭和47)年06月15日(木)まで61回開催。昭和54年に松本勝彌著「池田大作言行録」(泉文社)や下山正幸著「私は創価学会の『スパイ』だった」(晩声社)に収録され、学会は出版を妨害し裁判でその是非が争われたが、松本氏とは和解、下山氏とは学会側が一方的に訴訟を取り下げた。学会はなぜか「著作権法違反」として告訴したため、本物であることが証明されてしまった。高級料亭などで開かれ、池田会長の金儲け話が相次いだといいます。
 >1億7000万、よし買おう。そこにある森林を製紙会社に売ると5000万になる(第10回)
 >念珠を一手に買い取り、卸せば良い。もう内の人達が使うもので、外郭に儲けさせることはない。線香もローソクも東洋精光でやんなさい。 正本堂のみやげものも作れ、とにかく作るものは全部東洋にやらせる(第24回)
 >一連50円の儲けとしても、10年間に1,000万本としても5億だ。年間5,000万だ、大きいよ(第29回)
 >正本堂関係の記念品、1人200円としても18億だ(第35回)
 >北海道 絵葉書6万枚売った。うまいことをした。来年は栞(しおり)を5枚1組で50円位で売る(第47回)
 >本山の全T・V報告。東洋にやらせようね。いいね。どれほど儲かる。10%かそれでは少ない、15%儲けなさい。かまわないよ(第53回)
 https://signifie.wordpress.com/2018/08/31/創価の活動をやめてよかったこと/#comment-35265

 「ウィルキンソン」がバカ売れしている本当の理由
‡2017(平成19)年09月05日(火) 08時15分 公開
 「ウィルキンソン」がバカ売れしているらしい。
 「そういや最近よくディーンフジオカのCMを見かけるなあ」という人も多いだろうが、気がつけば無糖炭酸水市場の50%を占めるまでのブランドに成長しているのだという。
 その成功ぶりを扱っているニュースによると、躍進のきっかけはハイボールブーム。割り材としての需要が増えたことでブランドの認知が上がったことや、「家飲み」でハイボールをつくった人が余った割り材を飲むことで、ウィルキンソン単体の味にも注目が集まったのだという。
 そこで手応えを感じた製造販売元のアサヒ飲料が2011年にペットボトル入りを発売。「直飲み」を提案したところ、世の健康志向、糖質ゼロ飲料のトレンドにピタッとハマって、この10年で10倍の急成長を遂げたというのだ。
 ハラ落ち感のあるサクセスストーリーに思わず「なるほど」とうなずく人も多いだろうが、個人的にはひとつ大事な要素が欠けている気がしている。
 それは、PB(プライベートブランド)だ。
 実はウィルキンソンのペットボトルを出してからしばらくして、アサヒ飲料はセブン&アイホールディングスのPB商品である「炭酸水」を手がけるようになる。セブン&アイの販路網に加えて、88円という低価格もあって、この製品が「炭酸水愛好者」の増加に大きく貢献していることは間違いない。
 そう聞くと、もうピンときた方も多いだろう。
 ウィルキンソンのファンを増やしていこうとした場合、「とにかく人目につくように店の棚を占拠しよう」とか「まずは手にとってもらえるように価格を下げよう」という戦略がよろしくないのは言うまでもない。
 そんなことをするともともといるファンにそっぽを向かれてしまうし、飲食店やバーでプロに愛用されてきたという「ブランド価値」が地に落ちてしまうからだ。
 次 ⇒ ウィルキンソンが売れているというが、気になることも
◎ウィルキンソンのブランド価値を押し上げた
 では、ウィルキンソンの価値を維持しつつ、世に普及させるためになにがあるかと考えると、「炭酸水市場全体の底上げ」というやり方が浮かび上がる。
 スーパーやコンビニでミネラルウオーターと変わらぬほど安い炭酸水が溢れかえれば、これまで炭酸水を飲んだことがない者も手を伸ばす。そうなると、「炭酸水好き」になった者は「次はちゃんとしたブランドのを飲むか」となる。そこで、コンビニやスーパーの棚を見渡してみると、「日本生まれの100年タンサン」なんてテレビCMをやっているおしゃれなパッケージの炭酸水が目に飛び込めば、そちらへわっと流れるのは容易に想像できよう。
 つまり、ウィルキンソンの躍進は、一部の愛好家のみに支持されていた炭酸水がPBによって市場が拡大した「追い風」の影響も否めないのである。
 「そんなのはお前の妄想だろ、フェイクニュースを勝手に流すな!」という怒声があちこちから飛んできそうだが、これは筆者がテキトーに思いついた話ではなく、アサヒ飲料の方がそうおっしゃっている。2015年3月まで経営をなさっていた本山和夫前社長だ。以下、『日経MJ』(2013年6月24日)のインタビューを引用させていただく。
ーープライベートブランド(PB=自主企画)についての考え方はどうですか。
「まずはナショナルブランド(NB)をしっかりやっていくというのが基本です。ただNBの価値向上につながるものであれば検討します。例えばセブン&アイ・ホールディングスとは『炭酸水』や『凍頂烏龍茶』をやっています。炭酸水はPBで火が付きNBの『ウィルキンソン』の活性化につながりました。PBをうまく活用できた好例です」
 要は、PBという「大衆ライン」をつくることで、ウィルキンソンというナショナルブランドの価値を押し上げた、というわけだ。
「大衆ライン」をつくることで、ウィルキンソンの価値を上げた(出典:ウィルキンソンのWebサイト)
 次 ⇒ ウィルキンソンも昔は「天然炭酸水」
◎ウィルキンソンも「天然炭酸水」
 このような「マーケティングの勝利」ともいうべき売り方を見ていると、さすが三ツ矢サイダーやカルピスというそうそうたるブランドを有するアサヒ飲料だなと素直に関心するが、その一方で、マーケティングが強すぎるがゆえ、諸刃の刃ではないが、ゴッソリと失ってしまったものも多い気がしている。
 その代表が、「天然炭酸水」というジャンルだ。
 日本国内でも愛飲者の多いフランスの「ペリエ」やイタリアの「サンペレグリノ」、ドイツの「ゲロルシュタイナー」など、グローバルブランドとして多くの国で愛用されている炭酸水は、火山活動などで地中に発生した炭酸ガスが地下水と偶然混ざり合ってできた「天然炭酸水」をボトルに詰めたものが一般的だ。
 しかし、いまコンビニやスーパーの棚を占める日の丸炭酸水は、ミネラルウオーターに人工的に炭酸を加えたものが大半を占める。ラベルには「炭酸飲料」「炭酸入りナチュラルミネラルウォーター」と記載されている。
 そんなのヨーロッパと日本の地質的な違いがあるからしょうがないだろ、と思うかもしれないが、伊勢志摩サミットに採用されて話題になった「奥会津金山天然炭酸の水」や「天然炭酸水YOIYANA」(大分・阿蘇野)が一部の炭酸水ファンから熱烈に支持されていることからも分かるように、日本国内でも「天然炭酸水」は取れる。
 というよりも、ウィルキンソンも三ツ矢サイダーも昔は「天然炭酸水」だった。
 おしゃれなブランドサイトで得意げに紹介しているように、このブランドの歴史は古く、1889年(明治22年)にさかのぼる。英国人のジョン・クリフォード・ウィルキンソンが狩猟に行った宝塚の山中で炭酸鉱泉を見つけ、それを英国に送って分析したところ、「世界の名鉱水と肩を並べる良質な食卓用ミネラルウォーター」だという結果が出て、「仁王印ウォーター」として1890年(明治23年)に発売したのがきっかけだ。
 ちなみに、同じアサヒ飲料が有する三ツ矢サイダーも同じような成り立ちで、英国人が兵庫県多田村(現在の川西市)で見つけた鉱泉を、三菱商会が1884年(明治17年)に「平野水」という天然炭酸水として売り出したのが始まりである。
 https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1709/05/news029_3.html
◎はっきり言うと、「おいしくない」
 では、なぜ当時の人たちはそんなにも天然炭酸水をありがたがったのかというと、「万病にきく薬」とされたからだ。例えば、1909年4月19日の『読売新聞』に掲載された平野水の新聞広告には、「日本一の衛生飲料」といううたい文句のほか、特色として「慢性子宮病」「腎臓病」「便秘」などの「効能」が記されている。仁王印ウォーターというネーミングも、もともとは「胃腸を仁王の如く強くする」ということだった。
 仁王印ウォーターは1904年(明治37年)に「ウヰルキンソンタンサン」と名を変えて、国内・国外27箇所に販路を広げるなど、日本を代表する天然炭酸水となった。「ウヰルキンソン鉱泉会社」が運営する採水工場の近くには、外国人バイヤーの視察用に当時の日本では珍しい超高級ホテル「タンサンホテル」もつくられた。
 ペリエが、ルイ・ペリエ博士によってボトリング設備とボトル開発をしたのは1898年、本格的に発売されたのは1903年になってからということと照らし合わせると、当時の日本の「天然炭酸水ビジネス」がいかに進んでいたのか、ということがうかがえよう。
 しかし、戦後の高度経済成長期を経てウィルキンソンや三ツ矢サイダーはペリエとはまったく異なる道を歩み始める。
 ウヰルキンソン鉱泉会社は戦後も続いていたが、1983年にアサヒビールが商標権を獲得。当初は「天然鉱泉の湧水をもとに、ミネラル分を調整、精製」(日経産業新聞 1983年8月12日)した「ウヰルキンソン・ミネラルウォーター」を発売するなどしたが、ほどなく「鉱泉」という原料にこだわらない道を選ぶ。1990年に宝塚の工場(住所は西宮市)を閉鎖、明石市のアサヒ飲料の工場で「磨き抜いた水」(ウィルキンソンのWebサイト)を用いて製造をすることになったのだ。
 天然炭酸水では生産量に限りもあるうえ、採水地の水源保護など厳重な管理が必要となる。それよりも時々で良質な原料の水を得て、それをろ過して、炭酸を入れていく工程のほうが効率的であることは言うまでもない。はっきり言ってしまうと、天然炭酸水は飲料ビジネス的にはあまり「おいしくない」のである。
◎日本で「世界に通用するブランド」が育たない
 その後、アサヒ飲料によって、三ツ矢サイダー、バヤリースに続く第三のブランドとなるように育成されていたウィルキンソンだったが、近年ブレイクするまでは飲食店やバーという業務用の「割り材」というポジションに甘んじでいたのは、ご存じのとおりだ。
 一方、「おいしくないビジネス」をやっていたペリエは「地球最初のソフトドリンク」というキャッチコピーとともに1976年に米国で大ブレイクを果たしたのを皮切りに、世界中でブームを巻き起こし140カ国で愛飲されるようになる。90年代後半には、日本でも人気となったので、現在40~50代の人ならば「若い時に飲んだなあ」という思い出がある人もいるかもしれない。
 ペリエの水源地であるヴェルジェーズは、水源付近の1300ヘクタールが環境保護地区となっており、ガイドツアーで見学ができるようになるなど、地域の観光資源となっている。
 ウヰルキンソン工場が閉鎖される時、付近の住民は「宿場町の風土に英国の近代建築を融和させた文化で私たちの誇りだ」という宣言をして、保護すべきだと呼びかけたが、特に「産業遺産」などに認定されることなく取り壊され、立派な高層マンションが建てられた。
 かつて「世界の名鉱水と肩を並べる良質な食卓用ミネラルウォーター」がとれると絶賛された水源もそのあたりにあるらしいが、「ブランド発祥の地」として守られているわけでもなければ、観光資源として活用されているわけでもない。
 ウィルキンソンがここにきてバカ売れしたのは、日本の飲料メーカーが得意とするマーケティングの強さがあるのは明らかだ。それはそれで大変素晴らしいことだと思う一方で、そういう企業側の「仕掛け」でモノがバンバン売れてしまうことで、大切なものも失ってしまっているような気がしてならない。
 日本に本当の意味で、「世界に通用するブランド」がなかなか育たないのは、実はそんなところ原因があるのではないか。
 https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1709/05/news029.html
 ┏━━━━━━━━━┓
 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
 ┗━━━━━━━━━┛
 2015(平成27)年09月05日(土) <小津安二郎監督作品などで活躍した>往年の大女優、原節子さんが95歳で死去 ⇒ 「東京物語」「青い山脈」などで昭和のスクリーンを彩り、42歳の若さで引退、伝説的な存在だった女優の原節子さんが肺炎のためで死去、95歳だった。松竹の小津安二郎監督作品の常連で、日本人の理想ともいえる美しく慎み深い女性像を具現化。小津作品になくてはならない女優として作品世界を支えた【時事通信社】※2021(令和三)年説明追加及びタイトル変更
 1972(昭和47)年09月05日(火) ミュンヘン五輪の選手村をパレスチナ・ゲリラが襲撃 ⇒ ミュンヘン五輪11日目、パレスチナ・ゲリラ8人が選手村のイスラエル選手団宿舎に侵入。選手団の2人を射殺した後、9人を人質にイスラエルに抑留中のアラブ人釈放を要求。警官隊との銃撃戦が発生し、人質全員が死亡した。写真は選手村に立てこもるゲリラのメンバー【時事通信社】※2021(令和三)年説明削除
 1905(明治38)年09月05日(火) 日露戦争講和条約に反対する民衆暴動「日比谷焼き打ち事件」発生 ※2020(令和二)年記事追加
 1960(昭和35)年09月05日(月) 自民党、向こう10年で国民所得を2倍にする「所得倍増計画」を発表 ※2020(令和二)年記事削除
 https://www.jiji.com/jc/daily
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1979(昭和54)年09月05日(水) 阪神・小林繁が対巨人無傷の8連勝
‡2017(平成29)年09月05日(火) 8:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月5日だ。 
 写真◆王と対峙する小林。これは「一本足」のようだ
 1979(昭和54)年は前年オフ、江川卓と巨人の“空白の1日騒動”の余波、というよりは激流の真っただ中で始まった。江川を国民的悪役とすれば、一気に株を上げたのが、新人・江川とのトレードをすんなり承諾し、阪神へと移籍した小林繁だ。 
 モデルのような容姿で、もともと女性人気の高い選手だったが、入団会見でのさわやかな笑顔と受け答えもあり、人気が爆発した。 
 ただ、この男、甘いマスクの奥底、芯に秘めた負けん気にはすさまじいものがある。独特のサイドハンドから打者をグイグイ攻め、特に巨人戦は目の色が変わった。 
 1979(昭和54)年4月10日(火)、初対決での勝利に始まり、なんと開幕から対巨人7連勝。アンチ巨人ファンの喝采を一身に集め、
‡1979(昭和54)年9月05日(水)、9回目の巨人戦マウンドに立つ(7月8日のみ勝ち負けなし)。 
 舞台は、かつての敵地で、いまは本拠地の甲子園だ。阪神打線は巨人投手陣に初回から襲い掛かり、一挙4点、2回にも6点で早々に勝負を決めた。小林は8回に崩れ、5失点で途中降板となったが、13対5の大勝。小林は対巨人8連勝で、シーズン17勝目を挙げた。 
 この連勝の中で小林が印象に残っているのは、実は、唯一勝ち星がつかなかった
 1979(昭和54)年7月08日(日)の試合だという。 
 小林にまったくタイミングが合わなかった王貞治が一本足を捨て、通常のフォームで打席に立ったのだ。2安打は許すも「あの王さんが自分のスタイルを変えた。それだけでうれしかったですね。打たれましたが、勝った、と思いました」と小林。最終的には、この年の小林は22勝9敗1Sで最多勝、沢村賞を獲得し、対して江川は、開幕からしばらく謹慎期間があったこともあり、9勝10敗で終わっている。 
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=前島進
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛
 2010(平成23)年09月12日(日)“虎の新人”秋山拓巳が無四球完封勝利 
 2017(平成29)年09月12日(火) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月12日だ。 
 写真◆勝利の後、ナインから祝福される秋山(中央)。右は捕手の城島健司
 長い低迷を経て、今季先発ローテに定着。現在、12勝5敗とチームの勝ち頭になっているのが、プロ8年目の26歳、阪神の秋山拓巳である。 
 2010(平成23)年9月12日(日)は、ルーキーだった秋山にとっての記念日でもある。 
 愛媛・西条高時代はバッティングもよく、通算48本塁打で「伊予ゴジラ」の異名も取った。阪神へはドラフト4位で入団。8月になって一軍初昇格をした秋山は、
 2010(平成23)年8月21日(土)の巨人戦(東京ドーム)で初登板初先発のチャンスをもらうも黒星。ベンチで大粒の涙を流した。ただ、その後、
 2010(平成23)年8月28日(土)のヤクルト戦(神宮)でプロ初勝利、
‡2010(平成23)年9月05日(日)の広島戦(マツダ広島)で2勝目と、いずれもビジターで勝利し、この日は初めての甲子園のマウンドだった。 
 相手はヤクルト。秋山は打たせて取るピッチングで9回を被安打4、奪三振3の無四球完封。阪神の高卒新人の1年目の勝利、完封とも1986(昭和61)年遠山昭治以来24年ぶり4人目の快挙だった。同年秋山は4勝を挙げ、翌年以降の飛躍を期待されたが、故障もあって長い低迷期を過ごすことになってしまった。 
 なお、このときの秋山の背番号は「27」。今年は心機一転、背番号を「46」に変えて挑んだシーズンでもあった。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170905-10
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170912-12
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.432 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1966(昭和41)年09月05日(月)号 巨人・牧野茂コーチの策略
 2019(平成31)年04月02日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎巨人・王貞治が250号到達
 写真◆表紙は南海・野村克也
 今回は『1966年9月5日号』。定価は60円だ。 
 巨人・牧野茂ヘッドコーチのしたたかというか、少し陰険な戦略が前回触れた阪神お家騒動の火に油を注いだという話があった。 
 8月10日の巨人─阪神戦(後楽園)だった。阪神の左腕・権藤正利が投げていたのだが、5回裏二死満塁で三塁の牧野コーチが三走の黒江透修に本盗のサイン。これは本塁でタッチアウトとなったものの、すぐ牧野コーチが「ボークだ」と猛抗議し、判定が覆った。 
 これのどこが陰険かと言われそうだが、牧野コーチはもともと権藤の二段モーション気味のフォームにボークの疑いを持っていた。このときもホームスチールすることで、そのクセがはっきり出るはずと思い、失敗覚悟で走らせた、というのだ。 
 昔の人はいろいろ考える。 
 ただ、どちらとも取れる動作だったこともあり、阪神ベンチは大激怒。しかし杉下茂監督は抗議には出たものの審判の説明を少し聞いただけで引き揚げ、怒り心頭となっている選手たちに何も説明しなかったらしい。 
 これに捕手の辻佳紀らが今度は怒りの矛先を杉下監督に向ける。 
 辻は試合後、記者たちに向かってほえまくる。 
「かつての名投手か何だか知らんが、ボーク問題は微妙なんだ。自分一人が説明を聞いてあっさり納得しても、われわれの気持ちは収まらんよ。 
 責任者はケンカするつもりでやってもらわんと。それがなんだい。ああ簡単に引き下がって。ファイトファイトと言って、一番ファイトがないのは誰だい」 
 休養も分かる。 
 大記録が続く。 
 8月10日には阪急の米田哲也が通算200勝達成。 
「プロ入り11年目のやっとできただけに本当にうれしい。ここまで来れたのはカジさん(梶本隆夫)という大きな目標があったから。入団当時、カジさんとは同室でお互いに励まし合いながら勝ち星の内容を検討したものだ」 
 ヨネカジとも言われた先輩左腕・梶本のことである。 
 8月19日の大洋戦(川崎)では巨人の王貞治が通算250本塁打をマーク。史上4人目の達成だが、994試合目は他を圧倒するハイペース。荒川博監督は「王は600号は打てるだろう」と言っていたが、まだ7年目。可能性はある。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190401-01
************************************************************
‡2018(平成30)年09月05日(水) 03:06 どん兵衛です。 
 1968(昭和43)年02月10日(土) 第9回社長会(於 築地・小冨美)池田発言より「戸田先生は葉っぱを御札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宜流布の為ならば葉っぱを札にしてみせる、と云う戸田先生のきょう信が今日の学会を築いた」その戸田先生が陣頭指揮をし出版していた日本正学館発行の昭和23年創刊の「ルビー」とはどんな雑誌だったのでしょうか。小説「人間革命」3巻では「婦人雑誌」と紹介されていますが、当時の所謂「婦人雑誌」は育児、料理、裁縫、女性の自立などがテーマですが、「ルビー」には全くそういう要素がない。女性執筆者が皆無だったのも「婦人雑誌」とは趣が異なるようです。侠艶、女体、人肌、四畳半裡、あいびき、変態、エロチツク、処女、未亡人と性などといった艶っぽい文字が目を引きます。今でこそ大したことがないように見えますが、当時としては少なくとも子供たちの目には触れさせたくない類のものでした。これが「冒険少年」の姉妹誌だったとは。
 https://signifie.wordpress.com/2018/08/31/創価の活動をやめてよかったこと/#comment-35268

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る