■猪木映像◆闘魂シリーズ第2弾
‡1975(昭和50)年12月11日 蔵前国技館 NWF世界ヘビー級選手権試合
アントニオ猪木 VS ビル・ロビンソン
https://njpwworld.com/p/s_series_00011_1_1
■猪木映像◆'86ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦 優勝決定戦
‡1986(昭和61)年12月11日 両国国技館
アントニオ猪木&藤原喜明 VS 前田日明&木戸修
https://njpwworld.com/p/s_series_00073_1_1
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徒然その95☆<猪木 VS ロビンソン戦>のアナルシス☆
2012(平成24)年01月22日(sun) 22:19:41 ☆格闘家カフェテラス☆
----ゴングが鳴った…。やはりイノキはゴッチが言うように、それ以前に闘ったジャパンのレスラーとはまったく
違っていた。私がその後に闘ったジャパンのレスラーを含めても、やはりナンバーワンだっただろう。
ビル・ロビンソン『高円寺のレスリング・マスター 人間風車 B・ロビンソン自伝』エスターブレイン社より
えー、今回は思いっきしむかしの昭和プロレスの話をば!---
‡1975(昭和50)年12月11日(木)、新日本プロレスのリング上で行われた伝説の名勝負「アントニオ猪木 VS ビル・ロビンソン」戦についてウンチクをたれたく思っているイーダちゃんなのであります。
ただ、あまりにコレ古い時代の話だから、
----ええ、37年もまえのプロレスの話だって!? 正気かよ。
とあきれるひとも多少はでてくるんじゃないか、と思います。
ところで、いまのひとはこの試合のことをどれくらい知っているもんなんでせうかね?
僕なんかの時代のいわゆる猪木ファンの立場からすると---注:僕はちがいます、僕はこのころからテーズのファンでありました---この試合を知らずして猪木を語るべからず! みたいなノリがだいぶ濃かったように記憶してます。
実際、この試合ってマジ画期的なモンだったんですよ。
国際プロレスの常連だった英国のテクニシャン、ビル・ロビンソンの実力は誰もが知ってましたし、また、彼の場合、人気も凄かった。
猪木の当時の師匠であるカール・ゴッチと何度か時間切れ引き分けの死闘を繰り広げていましたし、その技々は、誰が見ても分かるような別格級の「斬れ」を宿してました。
あのゴッチとも引き分けた、ヨーロッパ最強の男が猪木と闘う---!?
これは、みんなが夢中になるのもむりないですって。
ちなみに、当時の猪木と親日末期の、維新軍とかと闘っていたころの落日の猪木といっしょにはしないでね、くれぐれも。
両者は、僕にいわせれば真赤な別人ですわ。
全盛期の猪木は、それくらい神がかっていたんですよ。
美しい若いライオンみたいだった。なんというか、それこそオーラがちがってたのよ。
21世紀に入ったころ、漫画家の板垣恵介さんとかほかの方とかが、「猪木なんて大したことないよ。ヒクソンとやったら猪木なんて1分でやられちゃうよ」とか発言したのを何度か耳にしてはいたのですが、僕はそうした意見に組すことがどうしてもできませんでした。
いやいや、猪木はいいレスラーだと思うぞぅ---(いくらか小声で)---。
もっとも、猪木が世界最強だとは僕もたしかに思いやしません、全盛期のテーズやダニー・ホッジなんかのほうが、強さの点では明らかに上にいた気がする。
しかし、その猪木が格闘家として弱いか、になると、これは少うし別問題じゃないか。
あれだけトレーニングをしてて、しかも、素質に恵まれている猪木がどうして弱いだなんていえるんだ? いいや、決して弱くはないはずだ、というのが、まあ僕の当時の立ち位置だったわけ。
ただ、その意見に同調してくれるひとが、当時はちょっと少なかったんですね---ほら、時代がちょうどグレーシー一辺倒のころで、プロレスに加担するのは手垢にまみれた保守政治家に投票するのと同様、みたいに見なされていたときのことだったから。
そんなこんなでもやもやしていたら、ちょうど2004年に、折よくビル・ロビンソンの自伝が出版されたんですね。
で、そのなかで、実力者・ロビンソンが、猪木のことを非常に高く評価していたんです---シューターとして、レスラーとして。
これが、僕は非常に嬉しかった…。
たしかにアントニオ猪木さんは、一社会人としてはめちゃくちゃすぎるキャラの男かもしれません。
会社の金を自分の事業につぎこんじゃったり、腹心をあっさり切り捨てたり、部下を裏切ったり---たしかに破綻してる---それは、否定しない。
しかし、社会人としての顔とリング上のレスラーとしての実力は、これは、まったく無関係ですもん。
猪木は強かった、と僕はいまでも思っています。
アリも、ロビンソンも、ゴッチも、テーズも口を揃えてそういってるのに、それをそこそこの素人連中がわけ知り顔で否定するなんておかしいよ、というのが、いいですか、今日の僕の立ち位置ですので。
僕はぜんぜん猪木信者なんかじゃありません、しかし、今回はそっち寄りのサイドから、レスラー猪木の真の実力に光を当てていきたいものだ、と考えております。
ロビンソン戦は、あくまでそのための触媒のつもり。
世界公認のロビンソンの「フッカー」としての実力のフラッシュでもって、対戦相手の猪木の真の実力を影絵のように照らしだし、あぶりだしていこうというこの戦略(タクティス)…。
うーむ、このもくろみがうまくいきますかどうか、さあさ、皆さん、お立合い、お立合ーい---(^0^)/
× × ×
あ。この「猪木VSロビンソン」戦ね、実は、プロレス名勝負の典型ともいわれている試合なんですよ。
2002年には、こちら、新日本プロレス創設以来のベストバウトに選ばれたりもしています。
いわば、名勝負クラッシックス---既に殿堂入りも決定した、超・名士といった役どころ、ですか。
ところが、あとからのインタヴューなんかを調べてみると、あらら、猪木さん、この試合になにやら不満気な面持ちなんですよ。
猪木さん的にいうなら、いつものように試合展開を自分でプロデュースできなかった、そのあたりにどうも悔いの残る試合であったらしいんですわ。
えー、こんないい試合だったのに? と僕なんかは思うんですが。
試合相手のロビンソンにしても、試合後のインタヴューは大変爽やかなもんでした。
----どうだい、いい試合だったろう? テクニックでは私のほうが勝っていたと思うが、イノキというのは大した奴だ。これから凌ぎを削っていくライバルになっていくんじゃないのかな…?
うーん、さっぱり、いいなあ。ロビンソンはスポーツマンですね!
ところが猪木さんはそうじゃない、スポーツマンシップといっしょに芸術家的な気風も宿してる猪木さんは、一般的なアスリートよりナルシスティックで気難しいきらいがあるのです。
特に、グラウンドでの展開をコントロールしきれなかった、という部分が、猪木さん的には過去においてあまり例のなかったこともあり、どうしてもそこが「悔恨」のツボにひっかかってしまうようなんですね。
もっとも、この点は、いかにロビンソンというレスラーが強かったか、という逆証明にもなる事実だと僕は思うのですが。
なお、この試合には「立会人」として、テーズとゴッチというプロレス界の二大巨頭がともに招待されておりました。
そのテーズ氏の試合評が面白いんで、ちょっと書き抜いておきませうか。
----…レスラー仲間でフッカーと怖れられていたロビンソンには非常に興味があり、ゴッチと二人でその卓越した技の数々を絶賛しあったが、とにかく技のキレでは圧倒的に猪木を上廻っていた。対して猪木は無尽蔵のスタミナでロビンソンの息切れを待ち、60分時間切れ寸前に決めたオクトパスで辛うじて引き分けに持ち込んだ。内容的には僅差でロビンソンがリードしていたが、実力的にはまず互角と言ってよく、私自身、「現役でいる間にロビンソンと一戦交えておこう」という目標ができた…。(ベースボールマガジン「鉄人 ルー・テーズ自伝」より)
さすが鉄人---無尽蔵のスタミナなんてうまい表現だなあ。
ダム、ライ(まさしくその通り)、この試合は、粘っこい猪木のグラウンドとサブミッションの展開を、ロビンソンの剃刀テクがときおり激しく切り裂き、新たな局面をきりひらいていく---といったような流れが基本になっていたと思います。
ひとことでいうなら、「粘り腰・猪木 VS 稲妻ロビンソン」といった感じかな?
もっとも、猪木の粘っこいグラウンドの流れを断ち切るロビンソンの技が、そのたびごとにあんまり鮮やかなんで、全般的にどうしてもロビンソンのほうに光があたって見えちゃったという感じはありましたねえ。うん、いつでも彼が試合の主導権を握り、立場的にも常時一歩リードしてるみたいに見えたというのは本当です。
対して、猪木のイメージは、光ではなくて影でした---地味だけど強烈なサブミッションで、あくまで粘っぽく水面下からロビンソンを追い、隙に乗じてロビンソンの艇を撃つ隠密舟といった役どころ。
さて、そんなふたりの技の絡みが実際にどんな展開をたどって進んでいったのか---猪木サイドとロビンソンサイドに分けて図にしてみましたので、まずはそれを御覧あれ。
そうなんです、猪木の光った箇所、ロビンソンの光った箇所をこうやって比較観察してみると、猪木が光ったのは主に粘り腰のグラウンド展開において、ロビンソンが光ったのは瞬発系の大技とかの瞬間に多かった---といったさきほどの第一印象にまたしても逢着してしまうんですね。
たとえば、猪木がこの試合中、最初に輝いたシーンはどこか?
僕は、それって試合開始の4分すぎ、両者手さぐりの状態からロビンソンに決めた、フロントのフェイスロックのときじゃないかと思います。
これは、がっちし入ってました。(ページ冒頭にUPしたフォトがそう。参照あれ)
フロント・フェイスロックは、84年にUWFのリングで藤原義明がはじめて決め技として使い、その後ようやく実戦的なコワイ技として観客に認知されていくのですが、それまではこんな地味な技で試合を「決める」なんておよそ考えられないことだったのです。
実際、猪木もこの技で試合を「決め」ようとはしていない。
しかしながら、この技で決められたほうのロビンソンにしても、かつてこの技に関してこのようなコワイ発言をしていたことが過去にあったんです。
----私がもしリングで相手を殺すつもりなら、フロント・ヘッドロックの体勢からのFLをやるね。自分の上腕を相手の左ホオ骨に食いこませて、そのまま持ち上げるように締めれば、首の骨なんて簡単に折れるからね…。(92年2月発言)
そして、この試合の冒頭において、猪木さんが名刺代わりに使用したのは、まさにそのようなフェイス・ロックなのでありました…。
これって強烈な自己紹介ですよね?
恐らく、この時点で猪木さんはロビンソンに、シュート・レスラーであるところの自分を身体でもってこう表明したのです。
----おい、俺はこういう技を知っていて使えるレスラーなんだからな。ナメるなよ…。
で、ロビンソンはすぐさま猪木のこのボディ・メッセージを了承したわけ。
試合後10分すぎ、ロビンソンは、ロープ際から電光石火のサイド・スープレックスでいきなり猪木を場外に放り投げ---1975年の時点でこのように危険な投げっぱなしスープレックスを使うレスラーは、彼以外にはいなかったのですよ---このメッセージに対し誠実に返信します。
----OK。そっちがその気ならこっちもいくらでも行くからな。そっちこそナメるんじゃないぜ…。
ハ、ハードボイルド!---これって震えがくるくらい高度で濃密なコミュニケーションじゃないですか。
両者の鍛えぬいた技と火傷するようなプライドの高さに、イーダちゃんはクラクラ痺れます。
ほんの開始10分でコレだもん---この試合がいまもって名勝負と語り継がれてきているのは当然だと思いますね…。
さて、そのようにしてお互いの実力を探りあい、さまざまな技で相手が「シュート」であると確認できたふたりは---その具体的一例:猪木が4分すぎに「決めた」フェィスロックをロビンソンは5分すぎ、猪木の顔面の右目下の急所に手をあてるという「裏ワザ」で外そうとしています。その痛みから猪木はF.Lをいちど解くのですが、まったく動揺せず、再度F.Lを仕掛けてていくあたりは「シュートレスラー猪木」の面目躍如たるところ、是非とも注目してほしい場面です。映像を所有してるひとは確認必須!---試合開始10分すぎ、ロビンソンが放った場外へのサイドスープレックスを皮切りに、新たなる試合展開にもつれこんでいきます。
それは、名刺交換が終ったふたりが、いよいよ万を持して己の手の内を見せあいはじめるような展開でした。
試合開始4分で放ったフェイスロックではロビンソンをそーとー苦しめた猪木でしたが、立ち技系だとロビンソンの瞬発力と非凡な運動神経に阻まれ、どうしても後手にまわりがちだった事態にやや焦れてきたのか、ラフっぽい仕掛けをする展開が徐々に増えてきたのです。
ロビンソンも気が強いもんだから、そのたびにボクシングポーズなんて取って、リング上にさっと緊張が走る場面が幾度となくあって---そんな流れがふっととまったある瞬間、ロビンソンが何気に猪木の背に周ると---
あっ、と思った瞬間、ハイアングルの振子式ワンハンド・バックブリーカーが、見事に猪木に決まっておりました。
これは、いま見ても電光石火の一撃でしたね。
全盛時のテーズのバックドロップ級のすばやさ!
まさに抜き身の一発---バックドロップっぽいフェイントをかけてからの入りだっていうのも効いた。
身体が異常に柔軟な猪木だからこそ、なんとか3カウントは逃れらたんですが、これは、猪木サイドからすると、ひょっとしてこの試合中いちばん危機的な場面だったのではないでせうか。
事実、猪木はのちのこの場面を自身でこう回想しています。
----あの一発が苦戦の原因だった…。
ええ、当時のロビンソンのこういったスープレックス系ワザの切れ味は、それっくらいハンパじゃなかった。
ここ、ひょっとしたらこの試合全体の最大の山場だったかもしれません。
「あっ。やられた」と必死に逃げる猪木と、ここが勝負どころと何度も体固めに固めようとするロビンソン…。
悔しいけれど、あれは、猪木の投げを完全に凌駕してましたねえ。猪木のバックドロップはたしかに華麗でしたけど、どっちかというと天性の柔軟性に頼った「ふにゃあ」って感じの動きじゃないですか? でも、ロビンソンのはビシッ、ドーン! の筋金入り、それこそ「斬れ」まくりの投げでしたから。
えーっ、投げ技ってこんなにシャープで速いんだ、と当時僕は小学生だったのですが、観戦しながら唖然とした記憶がありますね。
このワンハンド・バックブリーカーは、ホント、強烈でした。
猪木の積極的な動き、これでしばらくは完全にとまっちゃいましたからね。
それから逆エビの攻防が互いにあって、17分すぎ、ロープ際の猪木に背後から何気にボディーシザースにいったロビンソン---その油断した足首にうえから自分の両足をかぶせるようにして、猪木がレッグ・ブリーカーにいったんですね。
正確には、これ、変形のヒール・ホールドだそうです。
これが、決まってた!
うん、強烈に入ってましたね。
ロビンソンの尋常じゃない苦しみようと、その肌の紅潮加減を見れば、誰でもその点は了解できるかと思います。
20年後のU系の団体で大ブレークするあのアブナイ技を、このとき猪木はすでに披露していたわけですよ。
身体を入れかえたロビンソンが逆さ押さえこみみたいなブリッジをして、結局この変形ヒールホ-ルドは外されちゃうんですけど、5分すぎに決めたフロントのフェイスロック、あと、20分すぎに決めたヘッドシザースとともに、僕は、この3大基本技がもっともこの試合中ロビンソンを苦しめた技なんじゃないのかな、と解釈しているんです。
そう、こうやって試合の流れをひとつひとつ追っかけていきますとね、猪木がロビンソンを追いつめたのは、とてつもなく地味めな技が多かったってことがだんだんに分かってくるわけ。
ガス灯時代のプロレスじゃないですけど、猪木ってレスラーの本領はもしかしてそういうところにあるのかなあ、と思えてきたりもします。
そう、猪木の理想とするプロレスって、もしかして飛んだり跳ねたりなんかまったくない、とてつもなく地味で粘っこいグラウンドが延々とつづくような、こんな試合なんじゃないのだろうか。
だって、試合のこういう展開になると、猪木が心底嬉々としてくるのが分かるんですもん。
うーん、猪木ってレスラー、実はそうとうに地味なんですよ。
色に喩えるなら「鈍色」?
スープレックスや喧嘩殺法なんていうのも、もしかしたら自分のそうした本質的芸風を認識したうえで、プロとしての幅を広げるためにあえてレパートリーに取り入れた蛍光色なのかもしれない、なんて余計な邪推なんかもしてみたくなってきます。
ま、想像ばかりが先走りすぎてもなんですんで、このあたりでリアリズムに回帰、17分すぎに猪木が決めたレッグブリーカー(実はヒールホールド)のフォトでも御覧になってくださいな---。
いままでの論旨の流れを、このあたりでちぃーっと整理してみませうか---。
えー イーダちゃんはこの「猪木 VS ロビンソン戦」に関して、見るべきポイントが両サイドごとに3ポイントづつある、とまあ考えているわけなのでありますよ。
それは、猪木サイドからすると、
一、5分すぎのフロント・フェイスロック。
二、17分ごろに決めたレッグブリーカー(正確には、変形のヒールホールド)。
三、20分すぎに決め、25分すぎまで締めつづけたヘッドシザース。
ロビンソン・サイドからすると、
一、10分すぎにロープサイドから繰り出した、場外へのサイドスープレックス。
二、15分ごろいきなり決めた、電光石火のワンハンド・バックブリーカー。
三、52分ごろ、試合の終盤で繰り出した、猪木の首がグシャッとなった、危険なジャーマン・スープレックス。
試しに、両者の三番の技写真を、下にならべて比較観察してみませう。
この試合全体を象徴する両者のレスリングの本質と差異点が、この2枚の写真からそれこそ炙りだしのように浮かんでくるのが見えてきやしませんか?
僕は、見えてくるように思います…。
あのルー・テーズは、かつて「私には、バックドロップよりもダブルリスト・ロックの方がずっと重要だった」とか、「もし、たったひとつの技しか使わないでレスリングの試合をしろといわれたら、私ならダブルリスト・ロック(ヨーロッパ流にいうならチキンウイイング・アームロック、日本流にいうなら腕絡みですか)を選ぶ」なんて驚くべき発言をしています。
恐らく、猪木にしても、それと似たようなことを感じていたのではないでせうか。
プロとして、客を沸かせる卍固めは大事で重要だけど、実戦的なサブミッションという見地から考えたなら、自分的には、フェイスロックやレッグブリーカー、あるいはヘッドシザースなんて基本技の方がずっと重要だった---みたいにね。
むろん、猪木はそんなこと、どこのメディアでも一言もいってないのですが、僕はどうしてもそんな風に感じてしまうのです。
このページで試合終盤に猪木の決めた、あの劇的な「卍固め」にあんまり触れず、ページ冒頭にがちがちのフェイスロックのフォトをUPしたのもそのためです。
僕には「卍固め」よりも「フェイスロック」のほうが、いつでもより「猪木的」な技として自分内チャンネルに映っていたのですよ。
うーむ、ところでこの本能的な僕的察知、貴方はどう思われます?
なに、根本的にズレている? 完璧な的外れもいいとこですって?---あららら、がっくしだ。
それとも、実は、貴方も以前から薄々とそんな風に感じていらっしゃった?
だとしたら凄く嬉しいな---このあたりの機微を察知して共感してくれるひとがいることを知るのは、僕にとって大きな喜びです---こーんな趣味的な独断ページをはるばる編んだ甲斐もあるってなモンですねっ。(^.^;>
× × ×
大好評に迎えられたこの「猪木 VS ロビンソン戦」ですが、残念ながらロビンソンが新日本のリングを去ってしまったため、両者の顔合わせはこの一回きりになってしまいました。
うーむ、無念なり…。
現在、ビル・ロビンソン氏は74才---1999年に元プロレスラーの宮戸さんが東京・高円寺に設立した、U.W.F.スネークピットジャパンのヘッドコーチとして、伝統のキャッチ・アズ・キャン・レスリングの普及のために、日夜頑張っておられるとのことです。
www.uwf-snakepit.com/affiliation.html
凄いなあ、一生レスリングづくしの人生なんて!
超・輝いてる---めちゃ、格好よし、です。
なお、こちら、一般の人間も通うことのできるジムです。打撃も教えてるらしい。
ランカシャー・スタイルのレスリングに興味のある方は、ええ、是非にも訪ねてほしい、と思いますね---。
https://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/a21ffcd3a4551af71d83384003711039
和製ハードボイルド小説を通して見る、西新宿の土地事情。【速水健朗の文化的東京案内。西新宿篇①】
‡2019(令和元)年12月11日(水) 文:速水健朗 写真:安川結子
スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す東京を、ライターの速水健朗さんが案内。過去のドラマや映画、小説などを通し、埋もれた歴史を掘り起こす。オフィス街として知られる西新宿は、数々の小説で「探偵」や「ハードボイルド」の舞台としても描かれている。その先駆けとなった作品を通し、西新宿の街の変遷を追いかけてみた。和製ハードボイルド小説を通して見る、西新宿の土地事情。【速水健朗の文化的東京案内。西新宿篇①】
速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。
1920年代にアメリカで始まった「ハードボイルド」は、レイモンド・チャンドラーらにより確立されたミステリー小説のひとつのジャンルだ。アメリカで舞台となったのはロサンゼルス。一方、80年代の日本で「探偵・沢崎シリーズ」によって定着した、和製ハードボイルドの舞台は西新宿ということを知っているだろうか? 今回は、バブル期から現在までの西新宿の変化について、30年以上にわたって続く同シリーズを通して見てみたい。
■高層ビルの隣に、古い雑居ビルが密集する。
日本にハードボイルドというジャンルを定着させた「探偵・沢崎シリーズ」。左から、『そして夜は甦る』(原尞 早川書房 1988年)、『私が殺した少女』(原尞 早川書房 1989年)、『さらば長き眠り』(原尞 早川書房 1995年)、『愚か者死すべし』(原尞 早川書房 2004年)。すべて私立探偵・沢崎を主人公とした作品だ。写真:青野 豊
1980~90年代の新宿は、多くのハードボイルド小説の舞台だった。『新宿鮫』(大沢在昌 光文社 1990年)や『不夜城』(馳星周 角川書店 1996年)などがすぐに思い浮かぶが、これらの作品では東京の暗黒街として歌舞伎町が描かれている。一方、駅を挟んだ逆側は超高層ビルの広がる西新宿である。こちらには、また違ったハードボイルドの世界がある。原尞のデビュー作『そして夜は甦る』(早川書房 1988年)で初登場した、探偵・沢崎の事務所は西新宿の雑居ビルにある。以後シリーズとなるが、2作目『私が殺した少女』(早川書房 1989年)で原は直木賞を受賞している。
写真◆小説の中の記述から、沢崎の事務所がどの辺りを想定しているのか探ってみる。まだ古いアパートやビルの残る十二社通り周辺も、候補地として考えられそうだ。沢崎の事務所は「西新宿のはずれ」で、「低家賃の雑居ビルが密集する」地域にあるという。さらに「ほんの五百メートル南へ歩くだけで、超高層ビルが林立する新宿副都心に達する」というヒントがある。続いて詳細として、「三階建モルタル塗りの雑居ビル」で「東京オリンピックの年にマラソンの未公認世界記録なみの早さで建てられた代物」という記述もある。新宿のこの辺りだろうとエリアの検討をつけてみる。柏木公園周辺や、いまの地下鉄西新宿駅の裏側である西新宿8丁目。再開発がまばらな地域で、古いアパートやビルのすぐ際に、真新しいタワーマンションが見えていたりする開発の境界線だ。もしくは十二社通り周辺も、事務所の場所に該当するエリアだろうか。開発が進んでいるが、少し路地を入るとまだ雑居ビルが残されている。『そして夜は甦る』の時代設定は85年である。沢崎は、巨大電鉄グループに絡み、元新聞記者であるルポ・ライターの佐伯という男の捜索を依頼される。佐伯は巨大電鉄グループ総帥の娘と結婚していた。その総帥は美術評論家と経営者という二足のわらじを履いている。電鉄グループ自体は東急をモデルにしているが、総帥の存在は西武百貨店の堤清二を彷彿させる。
写真◆かつて千代田区丸の内に立っていた東京都庁。左下が本庁舎、線路を隔てて左上方に見えているのが第2庁舎だ。写真:毎日新聞社
ちなみに小説の後半では都庁舎を訪れる場面もある。当時の都庁は、新宿ではなくまだ丸の内の時代。都知事のモデルは明らかに石原慎太郎である。だが小説が書かれた時点で慎太郎は衆議院議員だった。慎太郎の都知事選への出馬は99年なので、小説で書かれたことが後に実現したことになる。そして石原裕次郎をモデルにした人物も登場する。財閥と芸能界と政界の黒いつながり。シリアスではなく、レイモンド・チャンドラーが映画界と財閥とギャングの街としてロサンゼルスを描いたことに対するパロディーだろう。
■バブル期に起きた、地上げとその後。
写真◆副都心計画により、超高層ビルが建てられていった1974年の西新宿の様子。左から、新宿住友ビル、新宿三井ビル、京王プラザホテル。写真:新宿歴史博物館
街の歴史にも触れておく。60年代以前に地名として「西新宿」はなく、「柏木町」と呼ばれていた。その名が廃止された直後から、京王プラザホテル(1971年)、新宿住友ビルディング(1974年)、三井ビルディング(1974年)と副都心計画の名のもとで超高層ビルの建築が始まる。
72年に放映を開始した『太陽にほえろ!』は、「新宿副都心の発展の歴史を映像で残せるから」とプロデューサーの岡田晋吉が言ったように、発展途上の新宿を映したドラマでもある。初代主人公であるショーケン(萩原健一)時代のタイトルバックには当時唯一の超高層ビルだった京王プラザホテルが映っている。ショーケンは1年でドラマを降りたが、最後に死ぬ場所が建築現場というのが象徴的だった。
写真◆雑踏の場面では小田急百貨店や京王百貨店、容疑者追跡の場面では十二社通りと、開発最中の新宿が随所に映し出されている。『太陽にほえろ!』監督/竹林 進、澤田幸弘ほか 出演/石原裕次郎、萩原健一ほか 1972年 ドラマ DVD/日本テレビ 写真:青野 豊
80年代後半になると世の中は土地狂乱の時代に入るが、西新宿には少し先にそれが訪れていたようだ。沢崎シリーズ第1作の時代設定である85年は、都庁舎の移転が決まった年だ。同年、バブルのきっかけとして有名なプラザ合意も行われている。『そして夜は甦る』には次のような描写がある。「信じられないことだが、低家賃の雑居ビルが密集する私の事務所のある区画から、ほんの五百メートル南へ歩くだけで、超高層ビルが林立する新宿副都心に達する。わずか一キロ四方の地域に、この街の老朽した顔と最新の顔が道路一つ隔てて鼻を突き合わせているのだ」新宿中央公園の北側。西新宿6丁目辺りにはつい十数年前まで、バブルの混乱の痕跡がくっきりと見えていた。地上げで頓挫し塩漬けにされたであろう場所が、駐車場などとして残されていたのだ。そこは“地上げの帝王”こと実業家の早坂太吉が仕掛けた場所だった。
写真◆高層ビルの目と鼻の先に雑居ビルなどが密集する、西新宿6丁目の路地裏を散策。久しぶりに訪れてみると、開発が進んでいるものの、以前の雰囲気も残っていた。
早坂はバブル期の実話をもとに書かれた林真理子の小説『アッコちゃんの時代』(新潮社 2005年)でもモデルとして登場する。山形弁まるだしで、田舎の不動産屋のような風貌だったと、直接彼を知る人たちは同じような印象を抱く。早坂の内縁の妻だった安達洋子の著書『冬の花火―地上げの帝王・早坂太吉との二千日』(日新報道 1991年)では、出会った当初である80年代の早坂の様子を振り返っている。バブル期のほんの数年前までの早坂は、女好きでも派手なパーティ好きでもない純朴な中小不動産業者の経営者だった。それが土地狂乱の時代が訪れ、ビジネスで扱うものもホテルやリゾートなど大型物件に変わっていく。いわゆる成金となり、金もうけの話に乗りやすい男のもとに怪しげな人々が集まり始めた。早坂はどんな競走馬にでもすぐに金を出してオーナーとなった。ある種の男たちは、早坂に水商売の女たちを近づけ、彼が気に入るように仕向けた。下半身の弱みをにぎろうとしたのだ。早坂は愛人にした女性に白いメルセデスベンツやマンションの部屋を買い与え、いちばんのお気に入りは所有するラブホテルの経営者に据えたりした。こうして気づくと早坂は女と酒にだらしない、金ですべてを支配する暴君に変わっていたのだ。環境が変われば、人はすぐに変化する。早坂の転落も早かった。西新宿の地上げが問題となり、87年に国土利用法違反で書類送検された。さらに早坂の会社が倒産するのはバブル崩壊後の93年。その5年後に彼自身も自己破産した。地上げの跡地は街の中に取り残されていた。都市は人と違って、20年まったく変化しないこともある。
写真◆14年ぶりに刊行された原寮の新作『それまでの明日』(早川書房 2018年)。小説の背景に現代社会が反映されているが、沢崎だけは変わらない。写真:青野 豊
原寮が生んだ探偵・沢崎もシリーズを通し、バブル前後の新宿の住人であり続けた。原は2018年に14年ぶりとなる沢崎シリーズの新作『それまでの明日』を刊行した。この小説も西新宿の事務所から始まっているが、沢崎をめぐる状況は変化している。たとえば、彼以外は誰もが携帯電話をもつようになっている。また、沢崎の探偵事務所が入っているビルはオーナーの世代交代により取り壊しが予定され、立ち退きを迫られている。小説は都市と犯罪を描き、その時代に伴う変化をも描く。だが探偵の沢崎だけは変わらないのだ。札束で頬を叩かれても、方針を変えないのがハードボイルドの探偵。沢崎の探偵事務所の立ち退き問題がどうクリアされるのかという結末については、ぜひ小説を読んで確認してほしい。
【西新宿篇②いまやノスタルジーとなった、西新宿の超高層ビル群を追う。】に続く。
https://www.pen-online.jp/feature/culture/hayamiz_nishishinjuku_01/1
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃フィンセント・ファン・ゴッホよりテオ宛書簡No.724┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1888(明治21)年12月11日(火)頃アルル『1958年版書簡集565』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B#.E6.89.8B.E7.B4.99.E3.81.AE.E5.87.BA.E5.85.B8
┏━━━━━━━━━┓
┃フライデー襲撃事件┃
┗━━━━━━━━━┛
1986(昭和61)年12月09日(火) 襲撃事件発生
1987(昭和62)年06月10日(水) ビートたけし:懲役6か月、執行猶予2年判決。東京地方裁判所、確定。レギュラー番組出演:執行猶予判決確定まで約8か月間謹慎
1987(昭和62)年12月22日(火) 傷害告訴記者:罰金10万円控訴、棄却判決確定
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‡1986(昭和61)年12月11日(木)『ビートたけしのオールナイトニッポン』~『金曜日のオールナイトニッポン』へ変更放送
1987(昭和62)年03月26日(木)から大竹まことが務め
1987(昭和62)年06月25日(木) 軍団メンバー担当 ※この週、たけし乱入
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1986(昭和61)年12月21日(日)『たけし軍団!ヒット&ビート』中断、打ち切り
1986(昭和61)年12月25日(木) 広島サンプラザ:浜田省吾「たけしはよくやった」
1986(昭和61)年12月26日(金)号『週刊朝日』「ブラックアングル」山藤章二:後藤田官房長官と藤尾正行(元文相)氏の二人を登場させて喧嘩装束の2人が「若いの、助っ人するぜ」と出張ってくるが、たけしに「駄目だよ、年寄りが出てきて利用しちゃ。これもオイラ一流のパフォーマンスでしばらく休むつもりなんだから」と返事をさせる構成
‡1986(昭和61)年12月xx日(X)号『FOCUS』「狂告の時代」マッド・アマノ:たけしの冠番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』をもじって、たけしがテレビ画面からげんこつをするシーンで飛び出すという設定の『ゲンコが出るテレビ!!』のパロディ広告(オマージュ)を披露
金https://www.uta-net.com/song/78817
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%BC%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
今日が命日の沢庵和尚 反骨の僧とたくあん漬けの逸話とは
‡2021(令和三)年12月11日(土) 07:00
写真◆東海寺・現在の本堂c AERA dot. 提供 東海寺・現在の本堂
大根がおいしい季節になった。一年中お店に並んでいる野菜ではあるが、青首大根の旬は12~2月頃らしいので、昔の人はこれを保存しておくために漬物に加工するようになったのだろう。中でも“たくわん漬”は今や日本を代表する保存食のひとつと言えるのではないだろうか。この“たくわん漬”、実はお坊さまの名前からきているという説が有力である。それが沢庵宗彭(たくあんそうほう)で、江戸時代初期に活躍した臨済宗の禅僧なのである。
■紫衣事件で流刑の身に■沢庵宗彭は、織田信長が勢力を広げ始めた
1573(天正元)年12月01日(旧暦)に、城下町で知られる但馬国出石(兵庫県豊岡市)で生まれた。羽柴秀吉の侵攻により主君が滅亡、父が浪人したことから10歳で出家する。37歳で京都・大徳寺(臨済宗の大本山)の住職にもなるが、これを3日で辞職し、隠棲をはじめた。ところが、江戸時代に幕府と朝廷の権力争いの中で、「紫衣事件」が起こり、沢庵は一切の非は自らにあるとして流刑処分をうけるのである。簡単に言えば、この頃、将軍の参謀には2人の僧侶(崇伝と天海)がいて、僧侶の高位の証である「紫衣(しえ)」を天皇が授ける行為が、朝廷の収入になっていることを進言、これらを阻止する命令を出したのだ。もちろん朝廷は大反発し、沢庵が矢面に立って幕府の横暴だと反論文を送ったものだから、幕府側は首謀者を捕らえて罰したという事件である(規制は紫衣に留まらず広範囲にわたっていた)。
■家光との対面に柳生宗矩が■この事件は朝廷と幕府の間に大きな溝を生んだが、3年後、徳川秀忠の死による恩赦で流罪は許され、沢庵は江戸でしばらく過ごしたのち大徳寺へ戻る。そして、朝廷との軋轢解消のために京を訪れていた徳川家光と沢庵は対面することなるのだが、これが家光と沢庵が生涯に渡り関わりを持ち続けた始まりである。この面談を強く進めたのが、徳川家の兵法指南役・柳生宗矩だったという。時代劇などで知られる柳生十兵衞の父であり、柳生新陰流は沢庵の教えから誕生した武道だとも言われている。
■沢庵の説く禅の心■沢庵は、生涯にわたり名利を拒否し、出世や役職を辞退し続けた。江戸時代の記録書「耳袋」には「人は衣食住の三つに一生を苦しむ。だが、このことを知っているが故に我は三苦が薄い」と沢庵が壁書した写しが残っている。欲しがれば、どこまでも人は欲が出るという意味だろうか。「心さえ潔白であれば」という生き方を貫く沢庵は、流刑先でさえ、土地の藩主などから帰依を受け、相談や助言などを与えている。そして、家光もまた、沢庵に深く感銘を受けるのである。
■沢庵を江戸に留めたかった家光の案は■家光は沢庵を江戸へ呼び寄せ、品川に東海寺を建立、住職になってくれと依頼する。沢庵はかなり固辞をしたようだが、紫衣事件のきっかけとなった法令なども元に戻されることになり、ある意味、沢庵が江戸で人質になる代わりに京の仏閣の権利が復活したとも言える扱いだったようにも見える。それでも、家光は足しげく品川を訪れ、沢庵との会話を楽しんでいたようだ。
■たくわん漬を家光に提供した理由■ある時、家光が「最近おいしいと感じるものがない」と沢庵にこぼした。「それでは明日、おいしいものをご用意します」と沢庵。翌日、指定の時間に出向いた家光は、茶室で茶を振舞われるも、肝心の食事はいつまでたっても出てこない。お腹が空き過ぎた家光が流石にがまんできずに席を立とうとしたその時に、沢庵が運んできた御膳には湯掛けの白米と2切れの黄色いものだけ。それでも空腹の家光は椀を抱えてガツガツと満腹になるまで食したとか。その後「この黄色いものはなんだ」と沢庵に家光が問うと、「大根の粕漬けで、たくわえ漬けでございます」と答えたとか。重ねて「以後、空腹になってから食事をするとよいのでは」とも。
■実は家光が名づけ親?■その後、家光は怒るでもなく「美味じゃ」と応じた。この漬物が「たくわん漬」なのだが、その時家光が「沢庵の漬物だから沢庵漬けと称せ」と言ったとも、また、たくわえ漬けがいつしか変化したとも言われている。さすがに東海寺では、「たくわん」と呼び捨てにすることはできず、この漬物は「百本」と呼ばれているとか。
■家光と沢庵の禅問答■北品川駅から少し歩いたところに「問答河岸跡」という碑が残っているが、これは家光が東海寺を訪れる際に船を寄せた波止場の名残である。品川沖は随分埋立が進んだため、碑のあるところから海などまったく見えないが、これは沢庵が家光を出迎えた際の禅問答に由来している名だ。「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」と問うた家光に対し、「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と沢庵が返した、という。この話は、「徳川実記」に記されている。
■一介の僧として扱ってくれ■江戸時代、東海寺は徳川幕府の手厚い保護を受け、広大な寺領を有していたが、明治時代になりそのほとんどを政府により接収され衰退した。本堂も失い、現在は元子院のお堂を元に再建されている。このため、沢庵和尚の眠る東海寺の墓地はお寺に隣接しておらず、徒歩で7~8分ほどかかるJR東海道線に区切られた西側に位置している。沢庵は、故郷に帰ることも、住職を辞することもできずに、結局、江戸で没した。死に際し、「夜間に密かに担ぎ出し地に深く埋めよ。いっさいの痕跡を残したり伝記や肖像画も無用」と遺言したが、東海寺と8年過ごした故郷の宗鏡寺にお墓は残っている。そして、意に反して、和尚の名だと意識しないままに日本一有名な漬物の名となった。本日、12月11日(旧暦)は、沢庵和尚の命日にあたる。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子
https://news.yahoo.co.jp/articles/f5f84b70526ac22861be94c0a85ab533a9eb5104
聴覚障害の児童が避難できなかった昭和の大惨事
‡2021(令和三)年12月11日(土) 11:00
2021(令和三)年12月06日(月)午前写真◆岡山市中区の岡山県立岡山聾学校 16人が犠牲となった寄宿舎火災について話す裏辻哲也さん
火災や地震といった災害は、障害者にとって大きな脅威だ。昭和25年に起きた岡山県の盲・聾(ろう)学校寄宿舎火災では、16人の児童が犠牲になった。視覚障害のあった児童の死者はなかったが、亡くなった16人全員が聴覚障害のある児童だった。生死を分けた境目は「音」。未明の火災とあって、現場は暗闇と煙に包まれて視界は悪く、音の聞こえない聴覚障害者が逃げるには厳しい条件が重なっていた。重い教訓を残した火災から約70年。聴覚障害があり、当時寄宿舎で生活をしていた裏辻哲也さん(82)は「火災を知らせる太鼓の音が聞こえず、低学年の子供は逃げ遅れ、16人が亡くなる大惨事となった。とても悲しい思い出です」と手話で振り返った。
写真◆裏辻さんが描いた燃える寄宿舎の絵c 産経新聞 裏辻さんが描いた燃える寄宿舎の絵
■窓から木にとびつき■現在の県立岡山聾学校(岡山市中区)の資料などによると、火災は
1950(昭和25)年12月20日(水)午前2時ごろ、岡山県立盲・聾学校の寄宿舎1階から出火。木造2階建ての寄宿舎が全焼した。出火当時、寄宿舎には盲・聾学校の児童は計約130人いたが、犠牲となったのは聴覚障害のある16人だった。出火原因は宿直職員の火の不始末とみられるという。火災発生時、11歳だった裏辻さんは2階の一室で就寝中だった。火の回りが早かったため、当直の職員は2階まで起こしにくることができなかったという。火の手に気づいた上級生らは、目を覚まさない下級生らを起こしに各部屋を回っていたという。
写真◆岡山県立岡山聾学校に建つ「十六学童の碑」c 産経新聞 岡山県立岡山聾学校に建つ「十六学童の碑」裏辻さんは「すぐには起きられなかった。充満する煙で息苦しくなり、起き上がって部屋から出ると廊下が燃えていた」と話す。裏辻さんは窓を開け、目の前にあった木に飛び移り校舎から脱出。一命をとりとめた。だが、頭と腕に全治2カ月のやけどを負った。寄宿舎では普段、太鼓を鳴らして響かせた振動で聴覚障害のある児童らに時間や異常発生を知らせていた。当時は建物内の電灯も十分には設置されておらず、火災発生時の深夜、児童らは深い眠りについていたため、逃げるのが遅れ、犠牲になったという。
写真◆聾学校内の校舎や寄宿舎内には、異常発生を強い光の点滅で知らせる警告灯が設置されているc 産経新聞 聾学校内の校舎や寄宿舎内には、異常発生を強い光の点滅で知らせる警告灯が設置されている
裏辻さんは「16人の中には、仲の良かったクラスメートもいて忘れられない。とても悲しい思い出です」と振り返る。
■「十六学童の碑」■火災は当時、全国的に大きく報道され、災害発生時の聴覚障害者の避難誘導について考え直すきっかけになったという。裏辻さんは「火災以前は避難訓練はなかったが、火災後は寄宿舎で夜11時ごろに起きるような訓練をするようになった」と話す。学校は47年、現在の岡山市北区の位置から中区に移転。火災の教訓を伝え犠牲の児童を慰霊する「十六学童の碑」も同年移転した。同校では毎年12月20日に合わせ「十六学童を偲(しの)ぶ会」を行い、在校生らが、献花や黙?(もくとう)を行っているという。裏辻さんも友人らを誘い毎年参列。16人分のおにぎりや果物を供えているという。裏辻さんは「耳が聞こえないのは、いろいろと不便がある。健聴者のみなさんには理解と支援をお願いしたい」と呼びかける。
■各教室に警告灯■現在、岡山県立岡山聾学校では幼稚部から高等部で計60人の児童・生徒が学ぶ。また、8人は実家が遠方にあるなどの理由で校内にある寄宿舎で指導員とともに暮らしている。火災を教訓として、校内の各教室や廊下には異常発生を強い光の点滅で知らせる警告灯(フラッシュライト)が備え付けられている。定期的に避難訓練も行っている。同校の高見晴寿副校長は「夜間に発生した火災では暗闇や煙で周囲の状況が視覚を通じての情報では把握できず、聴覚障害の児童らには悪条件が重なった。このため、全員が避難できた視覚障害の児童と明暗を分けたのではないか」と推測する。高見副校長は「このような火災は二度と起こしてはいけない。学校として防災に取り組むとともに、子供たちが自分を守れるよう、訓練を通じて育てていきたい」と話している。(高田祐樹
https://www.sankei.com/article/20211211-NIMPGYSONBKHXFW6Q7QJRI6ITY/
☆乙骨訴訟 学会の不法確定☆
2011(平成23)年12月11日 更新
学会が発行する「創価新報」記事において、ジャーナリストである乙骨氏への「裏切るものは何度でも裏切る」「デマには必ず裏がある」「恩を知らない。畜生にも劣るやつだ」などとした表現が、去る3月24日、東京地裁で乙骨氏を支持する勝訴判決が下り、学会側は控訴した。しかし、
2011(平成23)年11月30日、高裁判決においては学会側の不法性をさらに踏み込んで、乙骨氏の完全勝訴判決となった。学会側は、12月2日、上告を断念し、乙骨氏へ賠償金(55万円)を支払うと通告して、この判決が確定した。
◎破門20年で顕著となった学会体質◎この裁判の一審の編集に関わった記者(青年教学部長などを歴任)の証言では、原告側弁護士が証人に「『創価新報』の記事は読者に誤解や偏見を与えると思わないか」と聞くと、証人は「その心配はない」と応じ、まるで事前に用意していたかのようにその理由を述べた。その理由とは、「創価新報」の読者は青年部員であり、青年部は常に乙骨氏らの動静を調査し把握し、周知徹底しているから誤解を与える心配はない、というものだった。乙骨氏側の弁護士は重ねて、「青年部では日常的に経歴調査や学習をしているのか」と聞くと、証人は「原告に限らずやっている」と胸を張った。この証言と同趣旨の「陳述書」を被告の佐藤男子部長も提出しているが、学会批判者らの動静を日常的、組織的に調べていることが当事者が語ったのである。世間はこれを「スパイ」行為と呼ぶ。法廷の場で、当事者が公然と語る。そんな人権感覚なのかと驚いた記憶がある。
2011.12月号『フォーラム21』から
http://beautygirl88.web.fc2.com/14.htm