菅首相、あいさつ読み飛ばしで陳謝 広島の平和記念式典
2021(令和三)年08月06日(金) 11:08配信 中国新聞デジタル
写真◆平和記念式典であいさつする菅首相
菅義偉首相は6日、広島市中区の平和記念公園で営まれた平和記念式典での自身のあいさつで、原稿の一部を読み飛ばしたとして陳謝した。式典後に中区のホテルであった記者会見で「先ほどの式典のあいさつの際に、一部、読み飛ばしてしまい、この場を借りてお詫び申し上げる」と述べた。菅首相はあいさつで「日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない、核軍縮の進め方を巡っては各国の立場に隔たりがあります」と述べた。読み飛ばしたのは、核兵器のない世界の実現に向けた努力を誓う部分などとみられる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b0d22d83500a65efadd43ababa9fa5418f8943ea
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降雨域外で「黒い雨に遭った」 広島の4人が新証言 県・市は未確認
‡2021(令和三)年08月05日(木) 22:40配信 毎日新聞
写真◆平和記念公園と原爆ドーム(奥)=本社ヘリから猪飼健史撮影
【広島原爆の日】「忘れてはいけない」祈りの朝
広島への原爆投下後に降った「黒い雨」を巡り、これまで降雨が確認されていなかった爆心地の西側約30キロの地域で、新たに4人が「黒い雨に遭った」と毎日新聞の取材に証言した。過去3回実施された専門家らによる調査のいずれでも「降雨域外」とされていた地域。降雨域外の証言は、黒い雨被害者の支援団体や広島県・市も確認しておらず、明らかになるのは初めてとみられる。証言した4人が雨に遭った集落は爆心地からは西北西に約30キロ離れた旧吉和村(現広島県廿日市市)の小高い山に囲まれた地域。4人は当時、同村民で吉和国民学校(当時)の児童だった。国は、黒い雨を巡る広島高裁判決(7月)を受けて現行の援護対象区域外で雨に遭った住民への救済を検討するとしており、証言者が救済の対象になる可能性がある。4人によると原爆が投下された午前8時15分は校庭で朝礼中。広島市の方向から強い光が差し、爆音とともに校舎のガラスが揺れた。うち3人は、焼け焦げた紙片などが降った後、午後3時過ぎから黒い雨が降り始めたと証言する。4人のうち少なくとも2人は被爆者に支給される健康管理手当の対象疾病となる、がんなどを患っている。1人を除き雨の色は覚えていないが、焼けた紙やすすが多数降ったと証言した。【小山美砂】
https://news.yahoo.co.jp/articles/365371ba582caa0a9d6507378d72b09077d3a116
被曝75年「原爆市長」が語るヒロシマ【前編】
2020(令和二)年08月11日(火) 14:30 TSSテレビ新広島
戦後広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井さんが家族と映った映像を大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年とみられています。音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました。自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性、この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物、戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真、映像と同じ日に撮影されたものとみられます。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「8月5日(日)、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです、8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです。ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました、「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006845.html
あの日電車に遅れていたら……広島で被爆した三千子さんの手記
2020(令和二)年08月07日(金) 12:38配信 BBC News コリン・イネス(寄稿)英語記事 The day Michiko nearly missed her train
1945(昭和20)年08月06日(月)の朝、広島市内に住む三千子さんは寝坊した。「電車を1本遅らせても仕事には間に合うけれど、走ればいつもの電車に間に合うはず。そう思ったのを覚えている」三千子さんは晩年、その日のことを思い出してこうしたためている。「私は横川駅まで走って、いつもの電車に飛び乗った」この判断が三千子さんの命を救った。広島に最初の原子力爆弾が落とされたその時、三千子さんは無事に職場に到着していた。「もしいつもの電車に乗り遅れていたら、横川駅と広島駅の間のどこかで死んでいただろう」吉束三千子さんは当時14歳。広島市中心部にある女学校に通っていた。しかし市が学徒動員を決めてからは、市街地から8キロほど東にある工場で帝国軍の兵器を作る仕事に就いた。
8月6日(月)に三千子さんが寝坊したのは、怠惰というよりは疲労のためだった。工場での勤務は長時間にわたった。戦争による食糧不足で三千子さんは空腹に悩まされていた。そして前日の
‡8月5日(日)夜には(他の日と同様)、アメリカの爆撃機B-29が広島上空を飛び回り、市内には空襲警報が出されていた。警報が解除されたのは朝の7時だったという。しかし、アメリカ政府の原爆開発チーム「マンハッタン・プロジェクト」以外で、この後に来る大惨事を予想できた者はいなかった。マリアナ諸島・テニアン島の米軍基地から「エノラ・ゲイ」が広島に向かったのは、その数時間前のことだった。午前8時15分、エノラ・ゲイはアメリカ人が親しげに「リトル・ボーイ」と呼ぶ原爆を広島に投下した。この原爆により、投下直後から数カ月後にかけて約14万人が亡くなったと推定されている。三千子さんは生き延びた。工場と市中心部の間に横たわる比治山が、爆発の衝撃を防いでくれたのだ。三千子さんは、比治山の向こうに上がる煙を眺めたという。混乱の中、三千子さんは親戚の家のある祇園地区を目指し、中山峠へと向かった。その道行きで、市外へと逃げる何千人もの人たちとすれ違った。「けが人だらけだった。やけどと膿だらけの人、爆風で目玉が飛び出てしまった人、体や口から内臓が飛び出ている人、そういう人がたくさんいた」「歩いていると、突然誰かに足首をつかまれた。『お嬢さん、水をもらえませんか?』 私はその手を払いのけて(中略)『ごめんなさい、ごめんなさい!』と言うしかなかった。恐怖でいっぱいで、そのまま逃げ出した」祇園地区に着いて、三千子さんは母親と再会することができた。しかし回復を待つ時間はなかった。「そこから10日間、母と私は広島中を歩き回って、兵隊だった兄を探した。後になって(中略)兄が爆心地付近で亡くなったことを知った(中略)兄の遺骨は見つけられなかった」三千子さんは命こそ助かったが、やがて体調を崩した。「放射線障害の症状が出始めた(中略)はぐきや鼻から出血し、ひどい下痢を起こし、髪の毛が抜け、体中に紫斑が出た」「家族の友人宅の物置に隔離されて生死をさまよった。誰もが私は死ぬと思っていたけれど、奇跡的に生き延びた」広島と長崎への原爆投下そのものが戦争を終わらせたわけではない。アメリカ海軍による包囲網、ロシアの侵攻、そしてポツダム宣言で天皇制の維持を示唆されたことが決定打となった。 8月15日、昭和天皇は全国に向けての放送で降伏を発表した。日本は「耐えがたきを耐え」なくてはならないというその言葉に、多くの広島市民はあ然とした。彼らはもうすでに、耐えがたきを耐えたのではなかったのか? 終戦からの数日、数週間、数カ月で、広島はその回復力を見せ付けた。原爆投下から数日後には、電車やバスの運行が再開された。2カ月後には、半壊した校舎や青空教室で学校が再開された。市内の金融機関で唯一、建物の倒壊を免れた日本銀行は、建物内で他の銀行が窓口を開くことを許可した。広島は文字通り、灰の中から立ち上がった。三千子さんも、人生を立て直しつつあった。「1948年、18歳の時に結婚し、1949年4月に女の子を産んだ。この子は2週間後に亡くなった。原爆の後遺症のせいだと思う」その後、三千子さんは2人の健康な子どもを生んで育てたが、別の問題が浮かび上がった。夫がたびたび家を離れ、三千子さんの給料を持って愛人の元へ行くようになったのだ。原爆症による疲労感と夫の浮気に悩まされ、現状からの自由がほしかった三千子さんは、子どもを親戚に預けることが多くなった。子どもと一緒にいる時は、娘の早苗さんに当たってしまうこともあったという。「1964年、母ががんで亡くなった。私は家族の中で孤立した。母は戦没者遺族年金を受け取っていたが、母の死で停止されてしまった」さらに、夫が浮気を認め、愛人を選んで家を出て行った。夫からも国からも経済的支援を受けられなくなった三千子さんは生活にも苦労した。料亭での仕事を見つけた三千子さんは、毎晩和服を着て、夜遅くまで働いた。広島で毎年
8月6日(月)に平和祈念式典が開かれ、これまでにマザー・テレサやキューバのフィデル・カストロ議長、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領などが出席した。しかし三千子さんは、原爆が投下されたその日に見た光景と、軽々しい平和への演説を結び付けられず、式典に参加したことはなかった。代わりに、夕方から元安川で行われるとうろう流しを見ることはあったという。三千子さんと娘の早苗さんの関係が徐々に改善されたのは、早苗さんに2人の子どもが生まれた後だった。お盆の時期に早苗さんの家族を訪ね、一緒に原爆を描いたテレビドラマを見ることもあった。「あんなものじゃない!」と三千子さんが言っていたのを、早苗さん家族は覚えているという。三千子さんはその生涯を通じ、ほとんど1945年の出来事について語らなかった。しかし原爆投下から50年目を迎えた1995年、かかりつけの医師から、ひとつの区切りになるからと手記を書くよう勧められた。三千子さんは最初のうちこそ乗り気でなかったが、最後には書くことを受け入れた。書かなければ、自分の記憶は永遠に失われてしまうと気付いたからだ。その頃には、広島は大きな並木通りが延び、立派なデパートが立ち並ぶ、活気ある現代の街になっていた。悲劇的な過去を示すものはほとんど残っていなかった。三千子さんは市街地近くの公営アパートに住んでいたが、その後、市の東側の戸坂に引っ越した。戸坂はあの日、三千子さんが通った中山峠に近い。峠への道中に足首をつかまれた記憶は、その後も三千子さんを苦しめた。「あの時の声は一生、記憶から消せないだろう」私が初めて広島に移り住んだ時、その歴史についてはほとんど知らなかった。でも佳織さんという女性と出会い、彼女が祖母の三千子さんの物語を教えてくれた。数年後、夫婦となった私たちは三千子さんの手記を英語に翻訳した。三千子さんの悲しい物語と、生き延びようという決意に心を打たれたのだ。妻によると、三千子さんは晩年、うつをわずらっていたという。本音よりも建前を重視する日本社会の中で、意志の強い三千子さんは常に友達を作るのに苦労していた。それが後になって、本当の孤独感へとつながった。さらに認知症をわずらった三千子さんは、介護施設に移り住んだ。亡くなったのは2012年1月のことだ。三千子さんの手記は今、広島の原爆死没者追悼平和祈念館に収蔵されている。歴史を、そして彼女の人生を永久に変えてしまった日の記憶だ。手記の最後の言葉には、逆境を乗り越え、人生を建て直す人間の強さが示されている。「原爆投下から50周年を迎えた今、私は命の大切さを改めて痛感している」
<編集注:三千子さんの手記部分は、この記事の筆者コリン・イネスさんが英訳したものを編集部で日本語に訳しています>
◎平和ボケしていましたが、原爆投下からまだたったの75年したか経っていないのですね。それまでは殺しあっていた世界が目の前にあったが、今やいつそのような事が起こるか分からない時代に入っている。核を保有している国々が、一度始めたらこの世界はあっという間に終わる。恐ろしいですね。
◎当時の事を経験した当事者の方々がどんどんお亡くなりになっている状況で このような戦争の悲惨さを後世に伝えていくためにも記録はとても大切です 思い出したくない事だから誰にも話さず記録も残さず亡くなった方も沢山います 話なくない方から聞き出す方も勇気がいる事ですが語り伝えていって欲しい
https://news.yahoo.co.jp/articles/e2aa7e54ad17b4f75b61e2b72738c26f7bd41599
「原爆市長」が語るヒロシマ 映像と音声を復元【前編】
2020(令和二)年08月04日(火) 午後6:30 テレビ新広島
戦後・広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井市長のプライベート映像と大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年代のものとみられています、音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性。この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物。戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三(しんそう)さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真。映像と同じ日に撮影されたものとみられます。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:元広島市長・浜井信三】
‡1945(昭和20)年08月05日(日)「8月5日、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです」「8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです」
「ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました。「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
「(自宅と防空本部を)行ったり来たりするのは面倒ですから、遠いところ」「ひとつ役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへころんどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない」朝まで眠れないと感じた浜井さんは市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えますが、夜中に起こすのは申し訳ないと思いなおし自宅へ戻ります
「8時頃に兄嫁が干し物を干していたら、それが庭で大きな声でBさんが何かを落としたよと大きな声で言っているんです、飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした、ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した」原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かいます
「比治山橋の近所までやってまいりますと、むこうから雪崩をうつように、色んな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく、みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん、そして私を見ると、「あちらのほうには火はないか」「お医者さんはないか」ということを聞いてくる、火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないでまたどんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく」
「よく見ると、みんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている、何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです、やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、そのままでどんどんどんこうして逃げてくる、その人たちに聞いてみると、全部「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる」広島市佐伯区。浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんの自宅から音声と映像が見つかりました。
【長男・浜井順三さん】「実は昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね、出てきたんですよ」
2019(令和元)年07月 去年7月、浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんが105歳で亡くなり、今年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと、音声テープが発見されました。
1958(昭和33)年09月 1958年に完成した原爆の子の像が写っていること。そして、撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられます。順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、TSSのスタジオなどで復元しました。
証言の中では落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れています。
「2、3日後に私、新聞記者に聞きました、これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた、それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます、原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです」その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催します。この平和祭を開催した理由についても語っています。
「それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う」
https://www.fnn.jp/articles/-/70295
‡2020(令和二)年08月05日(水)
【山陽本線】 お客様と接触 運転取り止め<第一報 12時00分>18時47分更新
山陽本線:新白島駅で列車がお客様と接触したため、広島駅~岩国駅間で運転を見合わせていましたが、13時45分に運転を再開しています。一部の列車に運転取りやめが出ています。
影響線区:山陽本線 糸崎 から 岩国 まで 一部列車運休
【山陽本線】 お客様と接触 列車の遅れ<第一報 12時00分>17時04分更新
【山陽本線】 お客様と接触 列車の遅れ<第一報 12時00分>16時30分更新
【山陽本線】 お客様と接触 列車の遅れ<第一報 12時00分>16時02分更新
影響線区:山陽本線 糸崎 から 岩国 まで 一部列車運休・遅延
影響線区: 呉線 広 から 広島 まで 一部列車運休・遅延
【山陽本線】 お客様と接触 列車の遅れ<第一報 12時00分>15時10分更新
【山陽本線】 お客様と接触 列車の遅れ<第一報 12時00分>14時21分更新
【山陽本線】 お客様と接触 運転再開<第一報 12時00分>13時46分更新
影響線区:山陽本線 糸崎 から 岩国 まで 一部列車運休・遅延
影響線区: 呉線 広 から 広島 まで 一部列車運休・遅延
影響線区: 可部線 広島 から 横川 まで 一部列車運休
【山陽本線】 お客様と接触 運転見合わせ<第一報 12時00分>13時27分更新
山陽本線:新白島駅で列車がお客様と接触したため、広島駅~岩国駅間で運転を見合わせています。なお、運転再開は13時45分の見込みです。
※現地の状況により、運転再開時間は変更となる場合があります。
※広島~宮島口駅間で広島電鉄による振り替え輸送実施しています。
※運転再開見込み時間が13時30分→13時45分に変更となっています。
<運転再開見込日時:2020年08月05日 13時45分>
影響線区:山陽本線 広島 から 岩国 まで 運転見合わせ
糸崎 から 広島 まで 一部列車運休・遅延
影響線区: 呉線 広 から 広島 まで 一部列車運休・遅延
【山陽本線】 お客様と接触 運転見合わせ<第一報 12時00分>13時02分更新
【山陽本線】 お客様と接触 運転見合わせ<第一報 12時00分>12時57分更新
【山陽本線】 お客様と接触 運転見合わせ<第一報 12時00分>12時44分更新
【山陽本線】 お客様と接触 運転見合わせ<第一報 12時00分>12時35分更新
【山陽本線】 お客様と接触 運転見合わせ<第一報 12時00分>12時08分更新
山陽本線:新白島駅で列車がお客様と接触したため、広島駅~岩国駅間で運転を見合わせています。なお、運転再開は13時30分の見込みです。
※現地の状況により、運転再開時間は変更となる場合があります。
<運転再開見込日時:2020年08月05日 13時30分>
影響線区:山陽本線 広島 から 岩国 まで 運転見合わせ
https://trafficinfo.westjr.co.jp/chugoku_history_detail.html?id=00059939
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┃ ♪一本の鉛筆♪ ┃
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‡1945(昭和20)年08月05日(日) B面 ♪八月五日の夜だった♪
1945(昭和20)年08月06日(月) ヒロシマ市に人類最初の原子爆弾投下
1974(昭和49)年08月09日(金) 第一回広島平和音楽祭 広島県立総合体育館
1974(昭和49)年10月01日(火) シングルレコード発表
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┃ 『美空ひばりの広島平和音楽祭』 ┃
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2001(平成13)年06月24日(日) 日本コロムビア VHS:COVA-6540
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┃ 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』 ┃
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2006(平成18)年08月27日(日) 広島テレビのローカル企画に実妹の佐藤勢津子がゲスト出演し歌唱
動画◆https://youtu.be/dDEck4i-Ipg
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https://ja.wikipedia.org/wiki/一本の鉛筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/広島平和音楽祭
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「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真
‡2019(令和元)年08月05日(月) 6:00 西日本新聞 社会面
‡2019(令和元)年08月05日(月) 14:32 更新
「焼き場に立つ少年」を捜す村岡正則さん=長崎市
ローマ法王フランシスコの指示で印刷された「焼き場に立つ少年」の写真カードの表側
亡くなった弟を背負った少年が、真っすぐ前を見つめる。原爆投下後の長崎で撮影したとされる写真「焼き場に立つ少年」は、11月に来日予定のローマ法王フランシスコが世界中に広めるよう呼び掛けたことで注目された。法王は言う。<このような写真は千の言葉よりも伝える力がある>。だが少年の身元も撮影場所も分かっていない。長崎市のある被爆者は今も、写真の謎を追っている。
写真は、米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネルさんが1945年に長崎で撮影。少年が焼き場で弟を火葬する順番を待っている場面だとされる。
「あの子じゃなかろうか」。長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は10年ほど前、写真が長崎で公開されることを伝えるニュースを見て驚いた。同じ銭座国民学校(現銭座小)に通っていた少年にそっくり。学級は違ったが、何度か校庭で遊んだことがある。丸顔でおとなしい性格。転校生だったと記憶するが、名前は思い出せなかった。
1945(昭和20)年08月09日(木)、村岡さんは爆心地から1・6キロ離れた自宅で被爆。外出しようとした瞬間、閃光(せんこう)が走り吹き飛ばされた。がれきの下からはい出し、両脚と左腕のやけどの痛みをこらえながら母たちと裏山に逃げ込んだ。あの少年も幼子を背負って裏山にいた。「どうしよっとね」と尋ねると、少年は「母ちゃんを捜しよると」と言い、立ち去ったという。それっきり会っていない。
◇ ◇
2017年末、法王は写真をカードに印刷し、<戦争がもたらすもの>というメッセージを添えて各国に配るよう指示。日本ではカトリック中央協議会(東京)などを通じて配布された。「私はあの子に会うたとさ、話したとさ」。カトリック信者でもある村岡さんは法王の行動に背中を押され、少年を捜し始めた。
銭座小は児童約850人のうち約500人が犠牲となり、学籍簿も焼失した。写真のことが書かれた本に出てくる人に会い、自分の記憶と照らし合わせて手掛かりを探った。調査範囲は市外にも広げたが、有力な情報は得られていない。
法王はかつて<核兵器は人類の平和的共存の基礎にはなれない>と語り、その教訓となる被爆者の証言を<予言的な声>と表現した。「焼き場に立つ少年」は核廃絶が進まない世界の未来を示唆する、と伝えたいのだろうか。
法王は11月、長崎と広島を訪れる予定だ。「この写真は末永く戦争の惨禍と平和の尊さを力強く、訴え続けていくに違いない」と村岡さん。少年に光を当てた法王の来日を機に、新たな証言が出てくることを待ちわびる。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/532764/
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┃ DNA論で皇統を語ることの危険性 ┃
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‡2006(平成18)年08月05日(土) 民族戦線社はこの論文を重要かつ緊急性のある提言として位置づけ、広く世論に訴えます。
最近、とみにDNA論で皇統を語る言説が多くなつてゐる。しかも、男系男子の伝統を擁護する者の中には、神武天皇Y染色体論を持ち出す者も多く、また、女系を容認する者の中には、天照大御神が女性神であるから女系が許されるなどとする天照大御神X染色体論(女性神論)を持ち出す者も出てきてゐる。しかし、男系男子の皇統を護持しなければならないのは当然であつても、このやうに、皇統をDNA論で語ることが皇統を護持することについて如何に有害であるかについての警鐘を鳴らしたい。まづ、はつきりさせておきたいことは、生物学や遺伝学において、このDNAの意味するものは、これが「死」と「性差」の起源であるといふことである。性の区別(性差)があるものは、交合生殖によつて種族保存を実現するために、例外なくDNAを持ち、そして必ず個体は死に至るといふ宿命がある。もし、神に性差があるとすれば、それはDNAを持つ存在となり、寿命の長短はあつても、いづれは死を迎へるのであつて、「神は死んだ」と叫んだニーチェの言葉が正しかつたことが証明される。はたして、神に死があることを認める信仰が世界にあるのか。古事記上巻を素直に読めば、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)とはそれぞれ「男性神」と「女性神」であり、それゆゑにイザナミノミトコは死んで(神避りましき)黄泉國へ行つたとされてゐる。しかし、イザナギノミコトはどうして死なないのか、イザナギノミコトが禊祓して「左の御目を洗ひたまふ時に」、その男性神からどうして天照大御神が生まれるのか、どうして急にイザナギノミコトは女性神となつたのか、そのときの男性神は誰なのか、などといふ粗野ではあるが素朴な疑問に対峙するとき、このやうな解釈で果たしてよいのかと戸惑ふことになる。つまり、この神話は何らかの寓意であつて、神の世界では、死といふものはなく、黄泉國も死後の世界を意味しない。また、性の区別もなく、その「作用」があるだけである。「礼之用、和為貴」(礼の用は和を貴しと為す。論語)や、「能に体、用(ゆう)の事を知るべし。体は花、用は匂いの如し。」(至花道)といふやうに、物事の本質や本源を「体」とし、その作用や働きを「用(ゆう)」として区別すれば、神には、性別の「体」はなく「用」があるのみである。つまり、イザナミノミコトや天照大御神は「女用神」であつて、「女体神」ではない。また、イザナギノミコトや建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)は、「男用神」であつて「男体神」ではない。神に性差を認めることは、そのDNAを認めて死を宿命付けることとなり、神道としては成り立たない。それゆゑ、神武天皇Y染色体論から必然的に生まれるものは、その神武天皇のY染色体はどこから由来したのかといふ疑問であり、その探求をして行くと、ついにはイザナギノミコトY染色体論へと辿り着くことになる。そして、その過程で生まれるのが、天照大御神X染色体論である。ここまで来れば、神武天皇の神格どころか、天照大御神の神格を否定し、ついには神世七代と別天つ神五柱のうち「身を隠したまひき」とある神々について、これを「死」と解釈してこれらの神格をも否定するに至る必然性を持つてゐる。そもそも、神武天皇Y染色体論とは、「男系男子の皇統」といふことを表現する手段として、未解明な遺伝学のDNA論の流行に便乗し、「男系男子の皇統」といふ伝統的な言葉を「神武天皇Y染色体の継承」といふ新しい言葉に置き換へれば、解らない者も解つたやうな気分に浸れるといふ外連味(けれんみ)の効果を狙つた小賢しい言説であつて、決して「男系男子の皇統」であるべき根拠を示すものではなく、何ら深みのある見識ではない。それどころか、その説明の手段として用ゐたDNA論が却つて皇統を辱めることになるのである。このやうに、ミトコンドリア・イヴやY染色体アダムなどの議論に振り回されるDNA論から派生して、神武天皇Y染色体とか、天照大御神X染色体(女性神)とかの議論を以て皇統を語ることが許し難い誤りであることの大きな理由が、まさにここにある。そして、さらに、DNA論には、もう一つ大きな誤謬がある。それは、DNA論は紛れもなく「唯物論」であるといふ点である。天皇の血統といふこと自体が唯物論であるが、皇統にとつて最も重要なものは、血統とともに、皇霊(すめらみたま)を継承する霊統なのであり、その核心に宮中祭祀がある。DNA論では、この皇霊を全く説明できないし、なによりも、これ自体を否定するものである。思ふに、そもそも、男系男子の皇統が伝統として守られてきた根拠は、主に次の三点である。
①女人禁制の宮中祭祀が存在すること、
②天皇は大元帥の地位にあること、
③閨閥による皇位簒奪の危機を回避すること、である。男系男子の皇統は國體を構成する伝統であつて決して理屈ではない。これは最高規範たる國體そのものである。皇統は、皇祖皇宗の血統の器に皇祖皇宗の皇霊(すめらみたま)を受け継ぐ霊統を意味するものであつて、その血統と霊統の証を核心付けるものが宮中祭祀であり、この宮中祭祀のうち、天皇自ら行ふ祭典(大祭)には、春季皇霊祭や秋期皇霊祭のやうに女人禁制の儀式がある。また、肇国以来、天皇は躬ら大伴物部の兵(つはもの)どもを率ゐた大元帥であることから男子でなければならない。明治政府においても、明治11年に参謀本部ができ、翌12年に「天皇自ら大元帥の地位に立ち給ひ、兵馬の大権を親裁し給ふ」との布告が出され、明治15年には「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」との軍人勅諭が完成してゐる。つまり、「統帥」は、主に「国務」を規律した明治22年の帝國憲法よりも早く完成してをり、これが統帥権の独立といふ過度の政治的主張の根拠ともなるのであるが、いづれにせよ、ここにも、大元帥は男子天皇でなければならないとする伝統の明徴が見られる。そして、蘇我氏、藤原氏、平氏などの君側が勢力を伸長するのは、常に天皇との閨閥を強化する過程を辿り、これにより閨閥政治が行はれて私物化されてきた歴史があり、もし、男系男子の皇統を護持しなかつたならば、閨閥による皇位の簒奪が繰り返されることになつたはずである。それゆゑ、このやうな混乱と危険から皇統の安泰を図り、閨閥による皇位簒奪の危機から皇統を護持し続けるための叡智として男系男子の皇統を守り続け、これが國體規範となつたのである。このやうに、この男系男子の皇統の根拠は、これらの理由によつて続けられてきたその「伝統」といふ國體規範に求めるられるものであつて、決して神武天皇Y染色体論といふ軽薄なものを根拠とするものではない。この神武天皇Y染色体論に与して男系男子の皇統護持を主張することは、皇統を唯物的、生物学的なものとして蔑む元凶となり、天照大御神X染色体論(女性神論)に対して全く反駁できずに完敗する。警戒すべきことは、皇統を辱め、皇統断絶をさせる明確な意図を持つて、あへて神武天皇Y染色体論を唱へ、これが天照大御神X染色体論(女性神論)に敗北することを論理的、科学的に必然であることを明確に想定してゐる者の集団が居ることである。そして、その集団の言説に引き摺られ、多くの無明の者が騙されて、この神武天皇Y染色体論に同調してゐるのが現状である。まさに「ハーメルンの笛吹き男」と、これに惑はされたネズミの大群と多くの子供たちである。この天照大御神X染色体論(女性神論)に対する反駁は、DNA論ではその敗北は必至であり、今まで述べてきた「伝統論」でなければ不可能である。それは、これまでの理由に加へて、以下のやうに反駁すべきものである。仮に、天照大御神からの皇統の源流が、初めは女系から出発したものであるとしても、それは一回的な「先例」であつて反復継続した「伝統」ではない。歴史的に見ても、一回的な「先例」は単なる例外であつて、今日まで反復継続して守られてきた「伝統」といふ大原則を改変する力はない。女系容認は、「先例」と「伝統」とを完全に混同し、意図的にすり替へるものである、と。
平成18年8月5日記す 南出喜久治
http://kokutaigoji.com/reports/rp_h180805.html
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┃ 伝統保守と戦後保守編 ┃
┃ いはゆる「保守論壇」に問ふ ┃
┃ 其の五:日韓の宿痾と本能論<全3頁> ┃
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‡2007(平成19)年08月05日(日)
◎崔基鎬教授との邂逅
去る7月23日、私は、韓国ソウルの某所において、現在は加耶大学校国際通商観光学部客員教授である崔基鎬(チェギホ)教授とお会ひした。これは、崔教授が祥伝社黄金文庫から『歴史再検証 日韓併合』を最新刊として上梓されたお祝ひのご挨拶をするためでもあつた。
ご存じの方も多いと思ふが、崔教授は、日本統治下の大正12年生まれで、日韓問題に関する日本語の著作も多く、自己の体験も踏まへて、日韓併合は韓国人にとつて正しい選択であつたとする立場である。
崔教授は、開口一番、「私は、今でも日韓併合は正しかつたと思つてゐます。もし、大東亜戦争がなかつたら、今頃は日韓、日台が一体となつて、満州まで共栄圏が確立してゐたはずなのに、誠に残念です。もう一度日韓併合をすれば、韓国病に蝕まれた今の韓国を正すことができます。このままでは忘恩の民族に将来はありません。」といふ趣旨のことを、はつきりとした口調で云はれた。
なぜ忘恩の民族なのか。それは、李氏朝鮮の末期の暗黒時代から救ひ出してくれた日本に対し、官民挙げて歴史を歪曲捏造してまで日本を加害者に仕立て上げ、その恩に報ひる恨みを以てする邪曲な忘恩の所業を続けてゐるからであるとされる。
◎韓国病
崔教授は、国民性の頽廃と民度の低さを意味するこのやうな韓国病の原因について、朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致されて処刑されたとされる近代韓国文学の祖と云はれた李光洙が著した『民族改造論』に民族衰退の原因として挙げた点を次のとほり引用されてゐる。
一、虚言と騙し 韓国人の間では、嘘と騙しのために相互に信じられず、「外国人は信用していても、韓国人を信用しない」奇妙な現象がある。
二、空想と空論 韓国人は美辞麗句を連ねるが、実行が伴わない。他人の行動や話の揚げ足をとり、問題点を探すだけで空論に陥ることが多い。
三、裏不同 人の前ではへつらい、背後では批判し、悪口を言う。恥知らずの態度だ。
四、怯懦(臆病)、卑屈 物事に怖じけ恐れる、臆病である。他人のことを気にし、決断する意志が弱い。
五、利己主義(非社会的) 社会的公益には無関心だが、自己と家族、私党のためには極端なまでに利己的となる。・・・以下略。
崔教授は、これらこそ、現在の韓国を深く蝕む”韓国病”そのものにほかならない、とされた。現在では、これよりもさらに屈折してゐるやうだが、支那の属国であつた長い歴史が民族性を頽廃させたといふことであり、そのことを韓国において堂々と指摘して民族の再生を強く願つてゐる崔教授は、真の愛国者と云へる。
無頼漢が他民族(唐)の勢ひを借りて自分たちの民族国家(百済、高句麗)を打倒して唐の属国に成り下がつた「統一新羅」。そして、民族国家の高麗の臣下であつた李成桂が主殺しの下克上により高麗を滅ぼして明の属国と成り下がつた「李氏朝鮮」。この統一新羅の259年間と、李氏朝鮮の518年間の、通算777年の属国時代によつて韓民族の民族性は歪められたとされる。ただし、私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へてゐる。
◎占領憲法と広島原爆慰霊碑
私も崔教授のご著書を愛読してきた一人であるが、今回のソウルでの邂逅は歴史問題といふよりも私の取り組む憲法問題について話し合ひたいといふ主たる目的があつた。といふのも、崔教授は、これまでの著作に加筆されたものを同じく祥伝社黄金文庫から今年6月に再度上梓された『韓国 堕落の2000年史』にも、占領憲法に関して興味深いことを書かれてゐたからである。
それは以下のとほりである。前後の脈絡との関係から、少し長くなるが引用してみたい(186頁以下)。
日本人は先の大戦に敗れてから、高度経済成長によってたしかに体は大きくなったが、それにつれて、日本人らしさを失ってきたのではないか、とも思う。
それにしても、姜汎は炯眼の持ち主だった。『看羊録』のなかで、日本人の「風俗といえば、小事に聴く大事に疎い。衆人が尊び誉れとすることは、内容もよく調べずにひたすら従い、いったん惑わされてしまったら、死ぬまで覚ることがない。これこそ、蛮夷の陋劣というものである」と述べている。
これは今日の日本人がアメリカによる保護を天与のものとして、それが未来永劫に続くものと錯覚して、アメリカが日本を属国とするために強要した”平和憲法”を崇めていることを見透かしているように思える。
今日の日本が、アメリカ文化を競うようにして模倣して恥じることなく、アメリカに国家の安全と未来をすべて託しているのを見ると、李氏朝鮮の中国に対する事大主義を想起せざるをえない。中国に憧れ服属したことが、李朝時代を通じて韓民族を堕落させたという事実を、よもや日本人が知らないではあるまいに。
また、他の箇所では次のやうに記述されてゐる(201頁以下)。
「大清皇帝功徳碑」は、その後も韓民族の歴史のなかに登場する。
一八九五年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第二十六代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。
「大清皇帝功徳碑」は、一八九五年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は韓日併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。
一八九三年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟三十二号に指定されている。
しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。
日本にはその歴史を通じて、「大清皇帝功徳碑」も「迎恩門」もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。
しかし、そのかわりに今日の日本には、日本国憲法と、広島の市の中心にある平和公園に、「過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑がある。
公平に見て、日本の対米戦争にはそれなりの言い分があったように思える。一九四〇年代のアメリカが、「寛温仁聖」を備えていたとは、とうてい言えまい。それなのに多くの日本国民が、アメリカに敗れたことによって、まるで冬が春に代わり、旱魃が慈雨によって潤されたと信じるようになっている。今も昔も大国に対する小国の罪は、重いものなのだろうか。
かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。今日の日本では、平和主義が李氏朝鮮の慕華思想に相当するようになっている。
もしかすると、李氏朝鮮の歴史から教訓を学ばねばならないのは、韓民族だけではなくて、今日の日本国民も同じなのではないかとも思う。
私がこれを読んだとき、崔教授は占領憲法の護憲や改憲といふやうな戦後体制保守の立場ではないし、しかも、戦前まで運命共同体であつた韓国の側から、占領憲法による戦後体制を根底から否定する見解が出てきたことに大いに感動したことを鮮明に覚えてゐたからである。
私は、これらの記述部分を指摘しながら、我が国のことに話を変へて、崔教授に私の思ひをいろいろとぶつけてみた。まづ、占領下で作られた占領憲法が無効であること、それがポツダム宣言、降伏文書及びサンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)と同様に帝國憲法第13条の講和大権に基づく講和条約の限度で効力があることなどを説明してみた。すると、崔教授は、このことに大きく頷かれて、占領憲法などは、李氏朝鮮が西暦1637年1月30日に清の属国となつたときの和約に似てゐると思ふと話された。
◎恥辱碑と恥辱旗
この和約とは、前出の「大清皇帝功徳碑」(大韓民国史蹟第101号指定)の由来のとほり、朝鮮王の仁祖は、命乞ひをし、それまで軽蔑してゐた胡服を着て、今のソウルの松坡区石村洞三田渡の地に設けられた「受降壇」(降伏を受け入れる拝礼壇)において、清の太宗に向かつて、九回地面に頭をつけて叩頭する拝礼を行ひ、その後に清からの一方的な講和を結ばされたことを意味する。
ともあれ、通算777年間の属国時代で罹患した「韓国病」が「慢性疾患」の属国病であるとすれば、占領憲法と原爆慰霊碑で金縛りになつた我が国の「日本病」は、その100分の1にも満たない占領時代だけで罹患した「急性疾患」の占領病といふことにならう。
日韓併合前の李太王がヘーグの万国平和会議に密使を派遣した企て(ヘーグ密使事件)は失敗に終はつたが、これを夜郎自大と嘲るのであれば、占領憲法の強制がヘーグ条約や帝國憲法に違反することを国際世論に訴へることを民間団体だけでも働きかけることが当時できなかつたことは、怯懦卑屈であつたと自嘲せねばならないことになる。
また、この韓国病について云へば、韓国では、「大清皇帝功徳碑」を三田渡碑(サムジョンドビ)とか恥辱碑(チジョクビ)と呼ぶものの、同じく李氏朝鮮が宗主国である清(大清帝国)の従属国(属国)であることの証しとして清から下賜された「太極旗」(テグキ)を原型とする旗を、「属国旗」とか「恥辱旗」とせずに、未だに大韓民国の独立国旗として用ゐてゐることも、韓国病の重篤な症状に一つに他ならない。太極旗の意味するものは、宗主国の命ずるままに国家教学とされた朱子学の学祖である朱熹の理気説を易学的に顕したもので、韓民族の独自性などはどこにもない。そして、韓国が支那の属国旗を使用し続けることは、政治的に見ても、現在の中共が推し進める領土拡張政策に絶好の口実を与へることにもなる。にもかかはらず、韓国が新たに独立国の国旗を求めることをせずに、属国病からくる習性として太極旗を今でも国旗として掲げ続けることに、韓民族に染みついた慕華と受降によつて恥辱を名誉に倒錯してしまつた「刷り込み」の悲哀を感じざるを得ない。恥辱を名誉に倒錯させることによる怨恨の鬱積は、ニーチェのいふ「ルサンチマン」であり、これが韓国の「恨(ハン)」の正体である。
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◎脳幹論
この「刷り込み」といふのは、たとへば、狼に育てられた人間の子供が、狼を親と認識し、その行動様式も狼と同じになるといふやうに、授乳期に自己に乳を与へる授乳者を親と認識してしまふといふやうな学習の一形態であつて、コンラート・ローレンツが動物行動学として確立した科学的理論である。それを我が国では、戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が取り入れ、脳幹論としてさらに発展させて実践し、これまで数へ切れないほどの多数の情緒障害児などを教育的に矯正改善し、プラグマティズム的にその実践理論の正しさを証明して見せた。これは、これまでの合理主義的な教育理論を根底から覆すものであつた。理性論と脳幹論とのいづれが正しいかを相対的に決する科学的手法は、教育現場において、そのいづれの方が、より良い効果、より多くの成果を上げるかといふ実績で判定せざるをえないし、また、それで充分である。
ところが、戸塚校長は、その科学的手法に基づき、あまりにも多くの良い成果と実績を上げすぎた。「俺なら少年犯罪者を矯正して見せる。」との戸塚校長の自信とその表明には、それなりの充分な根拠があつた。しかし、既存の教育関係者ではそんな自信は無く、しかも、自信がないことを告白することは権威を失墜することになるので口が裂けても言へない。そのことが彼らの嫉妬と怨嗟と危機感を煽り、戸塚校長の理論とその実践成果を葬り去ることが企図された。それが、戸塚校長らの逮捕に始まる、いはゆる「戸塚ヨットスクール事件」といふ「国策捜査」の発端であつた。
学校や児童相談所はもとより、教育学者やカウンセラー、心理学者などの評論家では、あゝでもない、かうでもないと能書きを垂れ、「小田原評定」を繰り返すだけで、誰も少年犯罪者の病気を直せない。少年の凶悪事件が起こるたびに評論家などがメディアに露出して解説と論評をするだけで、誰もその事件の再発を防止できない。却つて、そのアナウンス効果によつて、後続事件が発生するだけである。この負のスパイラルを阻止できるのは、合理主義を根底から否定して脳幹論を掲げる戸塚理論だけだつた。脳幹を鍛へ本能を強化すれば教育効果は高まり、しかも、犯罪性向は改善される。そのことは今も変はらない。否、むしろ、戸塚理論を教育と行刑に導入することは喫緊の要事なのである。
◎合理主義の誤謬
明治の流行歌であるデカンショ節の語源になつたとされる、デカルト、カント、ショーペンハウアーに始まる欧米の合理主義(理性論)による啓蒙思想は、今日、あらゆる分野において矛盾を生み出してゐる。合理主義による啓蒙思想とは、理性と感性の科学的思考(悟性)を絶対視し、科学的認識の対象とはならない全てのものを排斥した。理性を善とし、本能を悪とする二分法に立ち、本能を抑制するものとして道徳などの社会規範を位置付ける。しかし、本能が悪であつたり、理性によつて抑制しなければならないものであつたとすれば、人類を含む生物は、もつと早くその本能と理性といふ二律背反の構造的欠陥により自壊して滅亡したはずである。本能を悪として否定することは、自己否定に他ならないのである。
本能を肯定するやうなことを云ふと、まるで理性論から生まれた本能主義や快楽主義など、欲望を満たすことが正しいといふ考へではないかと不安を抱かれるが、そんなことは全くの誤解である。 人間以外の動物は、自己保存本能と種族保存本能などによる忠実な生活をするために、無益な殺生や姦淫、盗みなどをしないが、人間だけは時にはそれを犯す。それこそが人間らしさと云へばそのとほりなのに、そのやうなことをすると、外道、畜生、ケダモノなどと最大級のスラングで罵られ、その返す刀で、忠実に本能に従ひ品行方正な生活を営む動物たちに謂はれなき中傷と濡れ衣を浴びせるのは、霊長類だと自惚れる人間の滑稽さである。これも合理主義の誤りの一つなのである。
本能を司る中枢は、脳幹と脊髄などの部分である。本能の基礎となる自律神経は生来的に備はつてゐるが、五感の作用に基づいてなされる行動の様式と能力である本能は、成長に伴ひ、学習と経験を積み重ねることによつて強化される。群れをなし社会を形成して生きる人類には、生命維持本能、種族保存本能、集団秩序維持本能などがあり、それは、個体と種族集団を守るためのプログラムが組み込まれてゐる。たとへば、身の危険を避けようとするのは生命維持本能であり、子孫を残し、身を捨てでも家族や社会、国家を守らうとするのは種族保存本能によるものである。
◎禁忌と本能との関係
ところで、本能と理性との比較において、試金石として挙げられるものは、人間社会において、近親相姦や近親婚を禁忌してきたのは何故なのかといふことである。これについては、これまで様々な理由と根拠が考へられてきた。
初期においては、近親婚では劣悪な遺伝子が結びつゐた個体が出てくることを経験的に知つたことから禁止されたとする生物学的見解があつた。しかし、劣悪な遺伝子は、必ずしも遺伝学的にいふ劣性遺伝子、すなはち、遺伝子が二個結合しなければ出現しない性質のものではない。むしろ、能力的又は形質的に優れた遺伝子が、劣性遺伝子であることが多いことが知られるやうななつたことから、この見解は否定された。
次に登場したのが、人類学に構造主義を取り入れたフランスの人類学者C・レヴィ・ストロースの見解である。人間の心や行動は、意識だけでは捉へきれない社会構造があるとし、近親相姦や近親婚の禁忌は、家族の中の女性を家族内だけで独占すればその家族が他の家族との関係で孤立し、社会のつながりを形成できなくなるので、「女性の交換」をする社会規範を作つたといふのである。しかし、規範は、その規範内容を周知させることに実効性の基礎を置くものであるから、人間の意識外で形成される規範といふものはあり得ない。社会契約説の陥つた矛盾のやうに、「女性の交換」規則を誰も意識せずに全員がそのことを相互に合意してきたといふのであらうか。
さうなると、やはり、ここは本能の出番である。家族内の女性に対する性的衝動を抑制し近親相姦と近親結婚を避けるのは、自己の家族集団以外の他の家族集団との紐帯を築いて、さらに大きな種族の群れを形成し、それによつて種族全体の維持を実現しようとする種族維持本能によるものである。そのためには、家族内の秩序を維持してストロースの云ふ「女性の交換」が行へるやうにしなければならないので、家族内の女性に対する性的衝動を抑制する秩序維持本能が働く。本能中枢神経として意志とは無関係に機能する自律神経にも、交感神経系と副交感神経系があつて、相互が拮抗的に作用するのと同様に、この場合には、集団秩序維持本能が性的衝動を司る種族保存本能を抑制する。欲望があるのは、自己と種族を保存するために必要な本能であるが、その逆に、その欲望を秩序維持のために鎮めるのも、やはり本能の働きである。このやうなことは誰に教はることなく、理性的に学習することもなく、そもそも種族内の秩序を維持し発展させるために人類全般に備はつた本能なのである。
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◎本能強化教育
つまり、禁忌(タブー)などの基本的な道徳規範は、個体と集団を守るために組み込まれた本能に由来し、それがさらに民族的特性も加味されて道徳などの、より高度で複雑な社会規範へと形成発展してきた。それゆゑ、家族や社会、そして国家といふ集団を防衛するための規範が生まれ、これに違反した者に対して応報的処罰を課すことを当然と認識し、それを実行するのも、群れ社会秩序を維持するための本能から由来するのである。国家の形成も、この集団の確定のために必要な本能の発露である。
そして、人類全体に共通する一般の本能もあるが、それに付加して各民族ごとに特別の本能がある。おそらくそれは、使用言語の性質によつて人の思考や行動が規律される言語相対説(サピア・ウォーフの仮説)からして、わが民族においては、やまとことのはの持つ言霊による特殊な本能が備はつてゐるはずである。
いづれにしても、決して、本能を抑制するために理性による思考の産物として規範が生まれたのではない。自己保存のために情欲や物欲をかき立てるのも本能なら、それを秩序維持のために抑制するのも本能である。それゆゑ、この本能の総体が規範を生み出す源泉となり、さらに、理性により複雑に構築されて現代の規範となつたのである。本能と理性とは決して対立するものではなく、コンピュータのハードとソフトの関係か、あるいは、基本ソフトと応用ソフトの関係に準へることもできる。また、自動車に喩へれば、本能といふのはアクセルで、理性がブレーキといふのではなく、アクセルもブレーキもハンドルもいづれも本能なのである。理性は、その運転技術である。アクセルとブレーキ、それにハンドルの操作を無意識に調整し、その行動を理性の働きで認識するのである。
そして、民族国家の形成は、集団を形成し維持発展させる本能の発露であつて、民族必須の根本規範である國體(規範國體)は、やはり、禁忌、道徳などの延長線上にあるものとして、やはり本能に由来することになる。
このやうな本能は、過去においては正常に機能し、家族や社会での躾けや教育などを通じて強化されてきたが、核家族化と極度の分業体制、相互不干渉、そして、食の乱れと歪みなどによつて、現代社会においては、本能の機能低下、人類の退化、民族の劣化が進行してゐる。昨今の「少子化」といふのは、その前提に「劣子化」、すなはち、本来的に子孫に備はるべき民族の生命力が劣化してゐるのではないか。教養や徳性は云ふに及ばず、戦前までの日本人の民度の高さと比較すると、現代日本人は、奢侈と拝金と快楽に溺れて教養と徳性を低下させ、その民度が著しく低くなつてきてゐることは明らかであり、民族自体が劣化してゐることこそが問題なのである。
その結果、親殺し、子殺し、凶悪犯罪、ニート、無気力、出産意欲や育児意欲の低下、政治家や公務員、会社経営者などの倫理感、規範意識の喪失、拝金主義の蔓延などといふ現代社会の病的現象が起こり続ける。
これを根本的に改善治癒させるためには、合理主義による「理性偏重教育」から脱却し、初等教育での戸塚理論による「本能強化教育」による國體の基礎教育によつて民族の蘇生が行はなければならないのである。「命の大切さ」を教へるといふやうな理性教育は必要ではない。これは最も根源的な自己保存本能であつて、本能を強化すれば足り、わざわざ教へる必要はない。むしろ、それよりも高度な「命を捨てて家族、社会を守る」といふ種族保存本能などを覚醒させる必要がある。畏敬の念や惻隠の情などは、本能を強化すれば自然と生まれてくる。それが本能の神秘さでもある。社会集団の中で生きることの修養がなければ情操は育たない。この修養には、災害その他有事の際にも対応できる「教練」を取り入れることが必要である。そして、この修養と一体となつた情操教育といふ土台をしつかりしなければ、その上に築く理性教育は壊れやすい。これは全て小学生までで決まる。この本能強化教育を実現できるのが戸塚校長の教育理論であり、その教育改革は、実践に裏打ちされた重みがある。しかし、これを教育界で採用すれば、これまでの戦後教育体制は崩壊し、それに巣くう占領教育学界の利権は吹き飛んでしまふ。それゆゑ、どうしても組織維持と保身のために、今もなほ国賊どもは、口先だけの「教育改革」を喧しく唱へて衆目をそらし、戸塚理論の封印を画策してゐるのである。本質論に迫らない小手先だけの「教育改革」を唱へ、選挙で衆愚な支持を得て当選したからと云つて、それが真理であるはずもない。真理は多数決で決まるものではない。
皮肉なことに、これもまた本能的闘争の一種である。教育利権に牛耳られた現在の教育業界、教育学界といふ限定された範囲の「部分社会」である利益社会集団の擬似的な組織維持本能と、国家全体の「全体社会」の生来的な組織維持本能との闘争なのである。
◎合理主義と新無効論
国家に重要な基軸は、教育と憲法である。この教育における戸塚校長の「脳幹論」と「教育界」との対立構造は、占領憲法における「新無効論」と「司法界」との対立構造と瓜二つである。私が戸塚校長を全面支援するのも、この教育の問題と憲法の問題とは、ともに国家の基軸に位置する問題であり、戦後保守体制を打倒することが目的であることも共通するからである。
私は、崔教授に、これまで述べてきたやうな本能と理性、脳幹論などの詳しい説明はしなかつたものの、その概要を説明してみた。そして、教育と憲法とが民族の再生にとつて密接不可分な国家の基軸であるといふ認識を共有するに至り、日韓両国の教育事情などについても語り会つた。そして、崔教授曰く、常に国際事情を重視し、あらゆることについて国内事情だけで憲法や教育の問題を捉へてはならないとの意見を述べられ、最後に、再び、「やつぱり、私は、今でも日韓併合は正しかつたと思つてゐます。」と繰り返し強調された。このやうに、終始和やかな雰囲気の中で、あつと云ふまに時間が過ぎ、再会を約束してお別れした。
その後、私は、この度の邂逅のことを反芻しながら考へ続け、大清皇帝功徳碑にも行つて見た。碑文の文字は全て削り取られて、恥辱の歴史は隠蔽されてゐた。すると、どうしてもそのときに、私が口に出した「刷り込み」とか、「本能」といふ言葉が何度も浮かんできて頭から離れない。それは、私の本能論を踏まへて、予てから考へてきた次に述べるやうな一つの仮説のためである。それは、もしかして、新無効論は我が民族の本能から導かれた結論ではないのか、といふことである。そして、この時点で結論が見えてきたのである。
これまで、私は、占領憲法有効論(護憲論、改憲論)と対峙するためには、有効論が依拠する合理主義の土俵に上がつて、論理学を徹底的に駆使して論駁しなければならないとの信念でここまで来た。それは、まさに合理主義の精緻な論理展開に徹して、むき出しの情念や感情の世界を意識的に遠ざけてきた。感情だけに流されると論理が破綻する。論理が破綻すれば有効論を論破できない。だから、あくまで厳格に論理に拘る。ただその一念であつた。そして、帝國憲法第75条を根拠として占領憲法が憲法としては無効であり、承詔必謹が成文化された第76条第1項を根拠として、占領憲法が講和条約の限度で有効であるといふ新無効論を確立させた。これは、まさに合理主義による理性の領域において結実した理論であり、情操などとは無縁のものであると自負してゐた。
◎本能と新無効論
何故そのやうに拘つたのか。それは、いはゆる右翼は情操を、いはゆる左翼は論理を、それぞれ重視するといふ状況ではお互ひに同じ土俵に立つて議論できない。そして、どちらかが相手の土俵に立つことを譲歩すること自体が、譲歩した側の敗北であるやうに云はれてきた。しかし、旧無効論は、これに挑んで論理の土俵に上つたものの、残念なことに論理が破綻してゐることが露見してしまつた。そこで、私は、再度挑戦した。厳格に論理を貫き、もし、その結果において有効論が正しいとすれば、残念ながらそれに従ひ、以後は憲法論からを離れ、情操の世界で文化活動をしようと考へてゐた。だが、幸ひなことに、論理破綻することなく合理主義に則つた新無効論は完成した。
それでも、やはり、論理を嫌ひ、情操を重んじる人たちの多くは、新無効論の論理重視の立場に抵抗があるのか、今まで新無効論を受け入れようとはしなかつた。平たく云へば、新無効論が余りにも論理的であることが鼻に付くのである。あるいは、論理に深入りすると情操を失つてしまふといふ迷信を信じてゐるからである。まるで、写真を撮られると魂が吸ひ取られるといふ明治維新のころの迷信さながらに。
思ふに、この情操の領域は、本能の深層に根ざしてゐる。では、この新無効論といふ論理は合理主義の極地として生まれたが故に、民族の本能とは異なる方向を向いてゐるのか。否、断じて否である。別の方向を向いてゐると思ふこと自体が、本能と理性とを対立させてきた合理主義に犯された結果である。むしろ、厳格な論理に拘つて有効論と戦ふのだといふこの國體護持の一念こそが、民族の本能に由来し、それによつて完成した新無効論も本能に基づくものではないのか。さう思つた。
これは、民族の自己保存本能に適合する結論のはずである。占領憲法が無効であるといふ結論は、民族(国家)内の秩序回復であり、また、講和条約として有効であるとするのは、他の民族(国家)との国際関係において、その関係性を破壊せずに共存共栄で調和しようとする民族の保存本能に基づくのである。占領憲法が成立した当時の情勢と、それを今なほ引き摺つてゐる現在の国際関係において、占領憲法を自国内だけで無効であるとして国際法的観点を無視する立場(旧無効論)や、サンフランシスコ講和条約第11条に関して、judgementsを「諸判決」と解釈するだけで、この条項を対外的に破棄せずとも国際法的にもA級戦犯などの存在を否定する立場(破棄無用論)は、その論理自体に矛盾があるのは勿論のこと、これでは「夜郎自大的な冒険主義」に陥つてしまひ、民族の存続を危うくする。国際社会の規範を遵守して「然諾を重んずる」ことは我が民族の伝統的な道義であつて、それは民族保存本能に由来する凛々しさである。これらの方向はいづれも民族の本能が示すべき方向と一致してゐる。さう考へたとき、私は、崔教授が最後に言はれた国際性重視の言葉をその意味で受け止めることができた。
すると、やはり、占領憲法の護憲派はもとより、改憲派もまた、占領政策によつて、貰ひ乳の狼(GHQ)を親として慕ふ「刷り込み」から脱出できない占領病(属国病)に犯された者であり、淘汰されなければならない「民族の徒花」であるといふことを再確認するに至り、この度の崔教授との邂逅の意義と成果を実感した。
◎小山常実氏と産経新聞社へ
ところで、私は、平成19年7月1日付の「保守論壇」(その四)において、小山氏に公開反論したところ、これが掲載された数日後に同氏から私宛の私信を頂戴した。その内容は、公開討論は拒否するとのことであつた。しかし、どうしてなのかその理由は示されてをらず、共に学問に携はる者として、そのやうな態度は到底理解ができない。
しかし、これを拒否されてしまつた以上、納得できないが是非もない。そこで、私は、改めて自己の新無効論についてまとめたものを後日出版する予定であり、その中で小山氏の見解などについても言及するつもりでゐる。
今回のことは、決して他意はなかつた。小山氏の方から挑まれたことについて答へることから始まつたのである。そして、それを契機として、旧無効論に属する小山氏が新無効論を全く理解せずに『別冊正論Extra.06』において新無効論の内容を誤つて紹介をしてゐることについて、その訂正を強く公式に求めるためでもあつた。
私の見解を誤つて紹介した小山氏の論文を掲載した産経新聞社も、私からの「反論権」による申出を今もなほ全く無視したままである。もともと、産経新聞社は、「社是としての第9条改憲論」による世論形成に水をさすことになることを恐れ、新無効論を紹介したくないのであらう。前掲雑誌は改憲論の啓蒙用であり、あたかも刺身のつまのやうに、旧無効論の小山氏の不正確な論文を載せることで「公正さ」を装つてお茶を濁すだけである。
本来、前掲雑誌の特集タイトルである「日本国憲法の”正体”」を真に解明したいならば、占領憲法の制定経緯に関する歴史的事実について詳細に蘊蓄を傾けて縷々書き連ねるだけの「事実論」では意味がない。占領憲法の前文や第9条などを含めて占領憲法の各条文の意味が可笑しいとか、正しい日本語の表現に成つてゐないとか、あるいは、条文の規定が国際政治の現実に適合しないとかの愚痴をこぼし、こんな内容のものを押し付けられたとする言説を中心に編集されてゐるが、これでは「押し付け憲法論」を通り越して「ケチ付け憲法論」である。隔靴掻痒の改憲論や情緒的な無効論や破棄論など、引かれ者の小唄の言説を並び立てるだけである。
しかし、「立法論」としての護憲論と改憲論との論争のみならず、もつと本質的には、「法律論」としての有効論と無効論との本格的な学術論争、さらに、旧無効論と新無効論との学術論争として企画編集したものでなければ、占領憲法の「正体」は解らない。少なくとも、立法論としての改憲論と法律論としての無効論とをごちや混ぜにした編集であつてはならないはずである。
最後にあへて云ふ。「営業右翼」の改憲論者たちよ!民族の徒花たちよ!祖先から受け継いだ民族の本能からの叫びに耳を塞ぐ勿れ!諸君らは死してどこへ帰へるといふのか?このやうな羊頭狗肉の欺瞞は、必ずや今後の動向と後世による歴史の審判によつて白日に曝されるであらう。
平成19年8月5日記す 南出喜久治
http://kokutaigoji.com/reports/rp_iwa_h190805-3p.html