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┃ 軽井沢 離山房 ┃
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中軽井沢の鬱蒼とした雑木林のなか、離山房がオープンしたのは
‡1977(昭和52)年5月のことでした。軽井沢滞在中だったジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻が初めて当店にお見えになったのは、
1977(昭和52)年8月~その年の夏の終わりごろ。コーヒーと静かな環境がお気に召したようで、
1979(昭和54)年~その後3年間、夏の訪れとともに当店に足しげく通ってくださったのです。まだ幼かった息子のショーン君を伴った夫妻は、Tシャツに短パン、ゴム草履という気楽な服装で自転車に乗っていらっしゃいました。お気に入りは、店の奥手にある東屋。ハンモックに揺られたり昼寝をしたり親子で遊んだりと、いつもくつろいだ表情をお見せになりました。あれからずいぶん長い月日が過ぎましたが、素朴な木づくりの店も、ささやかな東屋も、それらを囲む自然の風景も、変わることはありません。軽井沢のほぼ中央に位置する離山はなれやまの山容になぞらえ、小さくとも心意気を示そう、と、この店に “離山房”の名をあたえてくださったのは、創業者夫妻と親交のあった作家の水上勉氏でした。ほかにも、軽井沢にゆかりのある作家、音楽家、芸術家、企業家といった方々が、この小さな店を愛してくださいました。時代を経てもなお多くのみなさまがご来店くださることに感謝しながら、今日も一杯のコーヒーに心をこめて、お客様をお迎えいたします。樹々の隙間から差し込む光とすずやかな風、葉擦れの音につつまれるひとときを、ゆったりおたのしみいただけますように…。
http://www.rizanbou.jp/rizanbou.html
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┃ ジョンレノンゆかりの地 ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛私が万平ホテルを訪れるきっかけは、ジョン・レノンが、1977年から3年間、軽井沢にある万平ホテルを訪れていたからでした。私の世代は、中学校の頃から、音楽の教科書にビートルズの「イエスタディ」が載っていた世代です。小さい頃から、大人になった今でも、ビートルズは大好きです。その、ビートルズの一人、ジョン・レノンが、自分にとっては身近な場所でバカンスを楽しんでいたということが、なんだか不思議な感じに思えたのでした。
■万平ホテルホテルロビー■旅籠「亀屋」として明治時代に生まれ、100年以上の歴史をもつ万平ホテルは、軽井沢初の洋風ホテルでした。ホテル中、至る所にクラシックな雰囲気が漂っています。皇室の方々や著名人が何度も訪れていることでも有名です。
■軽井沢彫り■さりげなく、マガジンラックや、受付のカウンターが軽井沢彫りです。こういうものが置いてあるあたりは、さすが老舗ホテル! と、感心してしまいます。
■亀のステンドグラス■万平ホテルの大元は、なんと、江戸時代からあったのでした。1764年に、万右衛門が旅籠「亀屋」を始め、それが後に万平ホテルになったのです。このステンドグラスは「亀屋」にちなんだデザイン。日本的なデザインと柔らかな光に包まれたステンドグラスがとても美しいです。
■ジョンの足跡■万平ホテルには、ジョン・レノン一家の写真が展示してあります。ジョンが軽井沢を訪れていた時代は、妻のオノ・ヨーコとの間に、息子のショーンが産まれ、ジョンは音楽活動から遠ざかり、自ら「ハウス・ハズバンド(主夫)」と称していました。暗殺されるまでの3年間、愛する家族に囲まれ、ジョンにとっては、本当に幸せな日々だったのではないでしょうか。そんな雰囲気がこの写真からも伝わってくるようです。
■ジョンのサングラス■こちらは、ジョンがしていたサングラスです。ヨーコさんとの熱愛がうかがわれるレコードジャケットですね。そういえばジョンのレコード「Imagine」にも「Oh! Yoko」というこれまたヨーコさんを愛してますっていう歌が入っていますね。日本人はこういう表現、できないなぁ、と思いましたが。
■ジョンとヨーコの切手■こちらは、ジョンとヨーコの切手です。イギリスのもので、二枚組でした。イギリスという国は、空港にまでジョン・レノンの名前をつけてしまうのだから、本当にジョンを愛している国なんだなぁ、と思います。
■ルームキー■こちらは、万平ホテルで昔使われていたルームキーです。ちょっとした手帳くらいの大きさがあります。外国人専用ホテルということで、大柄な外国人に合わせて、ルームキーのサイズまで大きかったのでしょうか?
■その後のルームキー■その後、ルームキーは、手帳型から棒形に変わりますが、相変わらず大きい! 物差しかと思うくらいの長さがあります。確かにこれくらい長ければ、間違って持って帰ってしまうことはないと思いますが。平成元年まで、このルームキーが使われていたそうです。その後のルームキー ジョンレノンゆかりの地
■昔のパンフレット■デザインが素敵なパンフレットです。英語で書かれたフランス料理のメニュー表まであって、万平ホテルが、外国人避暑客にとっての中心的役割を果たしていたということがうかがえます。
■万平ホテルカフェテラス■ジョン・レノンが毎朝通っていたというカフェテラスに行きます。正面入り口の左手にあるガラス張りの明るいカフェテラスです。平日のせいか、私の他には一組のお客さんだけで静かな時間を過ごせました。夏になると、コーヒーを飲むだけで、1時間も待つことがあるそうです。冬に行くのはおすすめですね。
■ジョンのロイヤルミルクティー■ここでの目当ては、ジョンが毎朝飲んでいたというロイヤルミルクティーです。紅茶とミルクのやさしい味が広がります。なんと、私にミルクティーを作ってくれたウェイターさんが、当時、ジョン・レノンのミルクティーも作っていたそうです。ジョンは、初めは、普通のミルクティーを飲んでいたそうですが、「ロイヤルミルクティーを作れますか?」と、リクエストして、それからは毎朝のロイヤルミルクティーがジョンの日課になりました。
■松の実タルト■ここの人気メニューの一つ、松の実タルトです。松の実というのは初めて食べたのですが、松ぼっくりの内側についている実だそうです。クルミのような、しっかりとした味わいで、ミルクティーと一緒に食べるとまたおいしいのです。
■カフェテラス■実は、この後私はとても恥ずかしい失敗をしてしまったのです。会計する段になって、お財布がない! 「すいません、車にお財布を置いてきてしまったみたいで・・・」ウェイターさんは、嫌な顔ひとつせず、控えめな笑顔でした。それまでは、ジョン・レノンに浸っていたのに、一転して「おサイフ忘れたサザエさん」になってしまったのです。「これで、お財布を持ってきてなかったら、私はもう万平ホテルの敷居を踏めない!」青ざめた私は、小走りに車にもどり、お財布をつかんで駆け戻りました。 カフェテラス
■カフェテラスの灯り■ウェイターさんは、本当にいい人でした。駆け戻ってきた私に、「良かったら、ジョン・レノンの泊まっていた部屋を観てみますか?」と、言ってくださったのです。ああ、なんていい人なんだ。さすがは万平ホテルで何十年も勤めている人だけある。おまけに、オノ・ヨーコさんの別荘の場所まで教えてくれたのです。あまりの嬉しさに、今までの恥ずかしさが一度にふきとんでしまいました。
■ジョンの泊まった128号室■ジョンは、カフェテラスのあるアルプス館の128号室にいつも泊まっていました。建物自体は古いのですが、随所に今のホテルにはない歴史を感じさせてくれます。
■軽井沢彫りのデスク■部屋においてある家具のほとんどが、軽井沢彫りのものが使われています。デスク、ドレッサー、タンスなど、外国人宣教師の為に作られた西洋家具と日本的な模様の軽井沢彫りの歴史そのものが、この万平ホテルに息づいているように感じます。 軽井沢彫りのデスク ジョンレノンゆかりの地
■宿泊客風■「ここに泊まってるみたいに写真を撮りましょう」と、親切なウェイターさんが、写真を撮ってくれました。ジョン・レノン関連のホームページに、この場所で、ジョン・レノン一家が写っている写真がありました。ジョンと同じ部屋にいるという、嬉しさでつい顔がゆるんでしまいます。
■お茶セット■各部屋のお茶のセットもこんな木のケースに入っています。お茶を入れるのも楽しくなりますね。
■猫脚のバスタブ■このバスルームをよく見ると、バスタブの脚が猫の足の形をしています。この猫脚はガブリオールといわれるもので、18世紀のイギリスでロココ調の家具としてたくさん作られたものらしいです。こういうさりげないところに、優雅な演出がされているのも万平ホテルのすばらしいところです。
■玄関■親切なウェイターさんに別れを告げ、万平ホテルを後にします。初めは気遅れしながら入った万平ホテルでしたが、帰りには、従業員の方々の暖かさに触れ、ジョン・レノンの面影に触れ、とても暖かい気持ちになっていました。また、ロイヤルミルクティーを飲みに来たいです。写真◆万平ホテルの玄関
■幸福の谷■ウェイターさんに教えてもらった、オノ・ヨーコさんの別荘に向かいます。ここは「幸福の谷」と呼ばれている石畳の小道です。英語で「ハッピーバレイ」と呼ばれるこの場所を命名したのは、外国人宣教師たちでした。新緑の頃はたくさんの人が訪れますが、雪の中、鳥の声だけが聞こえる幸福の谷も、別の世界に迷い込んでしまったようで、またいいものです。きっと、ジョン・レノン一家もここを散歩したのでしょうね。
■オノ・ヨーコの白い門■この門の向こうにオノ・ヨーコの別荘があります。今では使っていないそうです。こんなに近くに別荘があるのに、わざわざ万平ホテルに泊まるなんて、さすがです。 オノ・ヨーコの別荘 ジョンレノンゆかりの地
■オノ・ヨーコの別荘■意外に小さな、目立たない別荘でした。夏だったら、葉が茂って建物自体は見えなくなってしまうでしょう。ジョンは、軽井沢に通った「ハウスハズバンド」時代を経て、1980年、再び音楽界にカム・バックを果たし、ヨーコとの共作アルバム『Double Fantasy』を発表しています。と、いうことは、あのポーチで、ジョンとヨーコが共演していたということも、充分ありえそうです。残念ながら、その年の12月、ジョンは5発の銃弾に倒れるのですが、もし、ジョンが暗殺されていなかったら、この別荘からもっとたくさんの名曲が産まれていたかもしれません。
■離山房■ジョン・レノンの足跡をたどる旅は続きます。冬季はお休みをしていますが、ジョンが通っていたという喫茶店「離山房」へ行ってみました。軽井沢駅前から車で約10分。喧噪から離れた林の中にありました。
■離山房のあづまや■この、庭にあるあづまやで、ジョンはよく昼寝をしていたそうです。ある時、ジョンは、ここにライターを置き忘れました。そのライターは、その後店内にかざられ、ジョンのファンの間で『ジョンのライターで火をつけ、タバコを吸うと歌がうまくなる』という噂が広まったそうです。ライターはジョンの手に返ることはなく、後に、ふいに離山房に訪れたオノ・ヨーコの手に戻されました。その後、ライターは、オークションにかけられ、どこかのジョン・レノンファンの手に渡ったようです。
■離山房■ジョンレノンゆかりの地 離山房の全景です。この写真を撮った後で気がついたのですが、離山房はオノ・ヨーコの別荘とよく似ています。白い壁に三角の互い違いの屋根。オノ・ヨーコの「お店の雰囲気をこのままにしておいて欲しい」という希望を入れて、お店はジョンが来ていた当時のままになっているそうです。夏になったら、ジョンの好きだったというブルーベリージュースを飲みに来たいです。
http://kazeno.info/karuizawa/4-kyuu/4-kyuu-1-08.htm
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A.C.ショー氏が第一号の別荘を建てた後、多くの宣教師や在日外国大使、政治家や文化人が別荘を建てるようになり、異国情緒あふれる街となりました。そうした別荘客を支えるべく、旧道には東京や横浜から衣食住にわたり数々の老舗が軒を並べたのが現在の旧軽井沢銀座の発祥です。近くにある三笠ホテルは、中を見学できます。
■ショーハウス記念館■明治19年、軽井沢町にはじめて訪れたアレキサンダー・クロフト・ショーは、この地を「屋根のない病院」と絶賛し、明治21年に軽井沢で最初の別荘を建てました。この別荘が「軽井沢の別荘」を生み出すもととなりました。この建物は、昭和の初めに軽井沢教会敷地内に移築されましたが、昭和61年に軽井沢ショー記念礼拝堂横にショーハウス復元委員会によって復元され、平成8年に町が寄贈を受け、現在にいたっています。
ショーハウス(ショー礼拝堂)
■旧三笠ホテル■重要文化財旧三笠ホテル 旧三笠ホテルは、日本郵船や明治製菓の重役を務めた実業家の山本直良(1870~1945)が創業しました。この山本直良という人は、有名な音楽家・山本直純の祖父に当たる人です。あの懐かしい森永製菓のTVコマーシャル『大きいことはいいことだ』や映画『男はつらいよ』の主題歌の作曲者としても有名であり、テレビ『オーケストラがやってきた』などでも活躍した山本直純さんののおじいちゃんです。
■テニスコート通り■天皇、皇后両陛下のロマンスの場所としてあまりにも有名。現在も夏になれば皇室の方々の姿がちらほらと見受けられる。クラブハウスは軽井沢に多くの建築物を残した建築家W.M.ヴォーリズが増築設計したものです。ちなみに1992年にジョージ・ブッシュ大統領が来日した際には、天皇陛下は、皇太子とペアを組んで、ブッシュ大統領&マイケル・アマコスト駐日大使と対戦し、2ゲームに全勝したといいます。
■愛宕山・オルガンロック■軽井沢に住む外国人達のいこいの場だったというオルガンロック。旧軽井沢の賑やかな通りから、聖パウロ教会に続く小道に入って行きますと、苔むした庭を持つ別荘や、オーブンテラスのしゃれたレストランが、ほどよい間隔で並んでいます。
■竜返の滝■小瀬温泉から湯川の渓流を流れに沿って12分ほどさかのぼると高さ7m、幅2mの滝が見えてきます。湯川の清流を集め、勢いよく流れ落ちており、轟音を響かせています。昔、竜のように大きな蛇が滝を渡りそびれて、深い滝壺にのまれてしまったことから、この名が付いたといいます。
■三代目なべやつる吉■この店は、軽井沢の豆腐屋さんが経営している店で酒は軽井沢地方の地酒だけを利き酒師が選んだ三十数銘柄。魚は新潟県佐渡からの直仕入れの最高の店なのです。だから、酒が美味しい。
■トラットリア プリモ(primo)■軽井沢で見つけにくいレストランは、美味くて安くて接客の良い店です。美味いだけの店ならいくらでもあるし、安いだけの店も、接客の良い店もあります。そういう意味で、安くて、美味くて接客の良い、軽井沢では珍しい店が「トラットリア primo」です。 ただし、この店の欠点は、いつも混んでいることです。
■ミカドコーヒー■軽井沢で老舗の喫茶店といえば、ミカドコーヒーです。かのジョン・レノンとオノ・ヨーコもここの常連で、モカソフトを食べながら旧軽井沢銀座を散策したそうです。それが「食べ歩き」の元祖になったという話もあります。このモカソフト、ドリップしたての珈琲の香りとほのかな苦みがあり、さっぱりとした口当たりで実においしいのです。
■作りたてジェラート・リビスコ■美味しいジェラートを食べさせてくれる店です。その日に作って、その日に完売。だからとっても美味しいのです。リビスコのジェラートは、前日の残りは処分し、すべてのジェラートが作りたてです。そのため糖分を最小限に抑えられ、保存料も使用しておりませんので、素材の味そのままを味わえます。
http://kazeno.info/karuizawa/4-kyuu/index.htm
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2018(平成30)年08月14日(火) You Hatch Tokyo 丁度40年前の夏、軽井沢で偶然出会ったJohn(自転車2台?♀?で家族3人)とテニスをした。そして、彼が凶弾に倒れたのは、それから2年後、日本時間ではワシの誕生日だった。
https://www.facebook.com/groups/720792321370235/posts/1820563118059811
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2021(令和三)年07月21日(水)
You Hatch Tokyo Johnと一緒にテニスした想い出は忘れない・・・・・(1978年夏、@Karuizawa)
J.BOΦWY ぶちすごいですね。よければ、何でJOHNとテニスをすることになったのですか?https://www.facebook.com/groups/720792321370235/posts/1820563118059811/
You Hatch Tokyo 富岡 正彦さん 大学のテニス合宿の帰り、軽井沢に立ち寄った時、偶然に彼等が乗った自転車と出会い、ワシが英語が話せたから友人達に「話しして来いよ!」とワシを無理矢理押し出し、、、それがきっかけ。
J.BOΦWY ビートルズファンにとってこんなラッキーな奇跡はないですヨ(=^◇^=) You Hatch Tokyoさんにとって38年前の大切な想い出ですねhttp://kazeno.info/karuizawa/4-kyuu/4-kyuu-1-08.htm
You Hatch Tokyo 富岡正彦さん 今から考えれば、もう43年も前のことです。
J.BOΦWY 43年前でしたね(=^◇^=)ゞ。計算間違えして失礼しました 時を超えて・・・いい想い出は、光り輝く宝物です。You Hatch Tokyoさんのin my lifeの中で大切な想い出を教えてくださってありがとうございます。1978年の軽井沢にback to the futureした気分でジョンのことをいろいろと調べて知り得てよかったです。http://kazeno.info/karuizawa/4-kyuu/index.htm
https://www.facebook.com/groups/720792321370235/posts/4164343317015101/
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┃ 『衝撃の瞬間』season3 ┃
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①2005(平成17)年10月04日(火) ep.01「コロンビア号、最後の飛行」
2003(平成15)年02月01日(土)「ヒンデンブルグ号の火災」悲劇的な大惨事発生までの一連の事象を、先進的なCGI,過去の映像素材,科学捜査,目撃情報等を専門家による証言を交えて解析する。
⑤2006(平成18)年06月06日(火) ep.05「米国大使館爆破事件」
1998(平成十)年08月07日(金) ケニア・ナイロビのダウンタウンで事件は起こった。首都で最も往来が激しい交差点の角にアメリカ大使館が位置していた。10時39分、大使館後方でテロリストによりトラック爆弾が爆発した。今日かコンクリート造の大使館は、この大規模な爆発により、瓦礫の山と化した。
⑥2006(平成18)年05月09日(火) ep.06「ロシア原子力潜水艦の悪夢」
2000(平成12)年08月12日(土) 軍事演習に参加していたロシアのクルスク潜水艦は、2回の爆発のあとバルト海に沈んだ。爆発の直後、乗員の内23名は生存していたとされているが、結局は118名全員が命を失った。
⑫2010(平成22)年01月28日(木) ep.12「プエルトリコのガス爆発」
1996(平成八)年11月21日(木)「プエルトリコのガス爆発」悲劇的な大惨事発生までの一連の事象を、先進的なCGI,過去の映像素材,科学捜査,目撃情報等を専門家による証言を交えて解析する。
amazon・・・世界最悪の惨事発生までの一連の事象を、時間を追って解析する人気サイエンスシリーズ。先進的なCGI、再現ビデオ、過去の映像素材、科学捜査、劇的な目撃情報や専門家による証言を交え、スペースシャトル“コロンビア号”の悲劇的な事故から多数の死者を出したバリでの爆弾テロ事件まで。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07DC1JG5K
①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A2%E5%8F%B7%E7%A9%BA%E4%B8%AD%E5%88%86%E8%A7%A3%E4%BA%8B%E6%95%85
⑤https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E9%A4%A8%E7%88%86%E7%A0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1998%E5%B9%B4)
⑥https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%9E%8B%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6#%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%B2%88%E6%B2%A1%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%A8%E4%BD%99%E6%B3%A2
⑫https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E3%83%AB%E7%88%86%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%95%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E6%92%83%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93
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