過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 

戸田城聖の実像http://sudati.iinaa.net/toda.html


「(広宣流布の時には)わが男子青年部の手によって内閣を結成して」
『大白蓮華』昭和39年2月号・現会長秋谷発言
1.精神面では、日本中を学会員にして池田の弟子にする  
2.政治面では、公明党が政権を樹立する  
3.経済面では、学会系企業が財界を支配する  
4.その他(行政、司法、マスコミ、教育、芸能等々)の要所要所に学会員を送り込んで日本国の機構を完全掌握する  
5.最後に、これら全体を統括し、池田大作が日本国の最高権力者となる
 http://www.toride.org/ikesho.html

■重要■
B29爆撃機 創価学会は分裂・崩壊寸前[] 投稿日:2011/11/13(日) 20:57:05.82 ID:QAIEBZ4f [1/1回] 
幸福の科学アンチが信仰する創価学会二代目会長“戸田城聖”は浮気を正当化する女好きだった 
学会二代会長・戸田城聖が、性的羞恥心を欠落させていたのは事実だった。一種異様な露出癖を持っていたようだ。夏になるとフンドシ一本の素裸になって、若い女性信者にうちわで、【フンドシの中まであおがせていた】という話もそうだが、さらに次のような、ある教師の残した証言もある。「昭和20年、戸田が豊多摩刑務所から出獄した時のことでした。何かの用事があって戸田の家を訪ねたのです。呼んでもなかなか出てこない。そのうち『あがれよ』という答えがあったので、あがってフスマをあけてみると、戸田が女性と同衾(どうきん=セックス、性交のこと)しているではありませんか。驚いて『後で出直してくる』といったのですが、戸田は平気で『いいよ、そのままでいいよ』と話しつづけたのです」戸田城聖の愛人であった森重紀美子は中太りの女性だったといわれる。まるぽちゃ系が好きなのは、戸田がスケベな証左でもあろうか。(笑)≪二代会長・戸田城聖も、女が好きだったことは有名だ。戦後、創価学会を始めた時の五人の仲間の一人だったN(一時、戸田と出版社を共同経営、学会はその後脱会)が、戸田の愛人・森重紀美子のことを「甚公(注=戸田の本名・甚一からくる)は、おおっぴらな男で、妻妾同居みたいなことも平気でやった」といっていた。溝口淳は、こう書いている。「池田はこういう戸田の弟子なのである。男女の機微に鈍かろうはずはない。池田自身も[戸田先生は、それはすごかった。毎日ふるえあがった。【女房と一緒に寝られるか!そんなくだらない!】とね](内部文書、50年10月の池田語録)と、戸田の実像を伝えている」(「現代」五十七年十二月号)≫ 『創価学会をブッた斬る』藤原弘達より 
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/koumei/1299297514/422

戸田会長語録http://soka-news.jp/kane.html
戸田会長と中央大学予科時代の同級生・江崎勝茂氏が戦後、戸田から聞いた言葉。
「俺がこれから創価学会という宗教企業を経営する。それにはまず会員向けの新聞(聖教新聞)を発行するつもりだ。これなら当たり外れがなくて確実に儲かる。そのためにはダマしてもナニしてもよいから会員をふやさなくてはならぬ」 

創価は、やりたくないことをどうやってやらせるかということを徹底的につきつめていった団体です。どうやったら会員がお金を喜んで貢ぐのか。どうやったらよろこんで選挙活動をするのか。どうやったら喜んで死ぬまでタダ働きをするのか。本来ならやりたくないことばかりですよ。でもそこに宗教の功徳と罰を信じ込ませて、やりたくないことでも必死にやらせることに成功したんですね。それが創価学会という巨大詐欺の基本システムだと思うんです。ビジネスだったら多少の見返りは発生しますが、創価の場合は見返りどころか、家族崩壊、経済破綻、精神崩壊という恐ろしい見返りしかありません。ビジネスなんかじゃありません。詐欺です。それ以外の何ものでもありません。もおちろん宗教でもなければ、怪しいおまじないでもない。最低最悪の詐欺団体です。「創価にもいいところがある」と、たまに言う人がいますが、私はその程度の「いいところ」なんて、そこらのダンス教室やお年寄りのゲートボールの集まりにだってあります。なにも人生のすべてを捧げてまでのものではありません。
https://signifie.wordpress.com/2015/07/11/%e7%99%bd%e3%81%84%e3%83%96%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b3%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%ae%e3%81%93%e3%81%a8/#comment-12976


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①┃ 故・石井こうき事件の真相究明プロジェクト ┃
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‡2003(平成15)年02月11日(火) 設立
‡2004(平成15)年02月11日(水) 懸賞金30万円から100万円
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②┃ 石井紘基刺殺事件 ┃
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‡2003(平成15)年02月11日(火) 石井の遺族らが事件の真相を求めてウェブサイト(#外部リンク)を開設し、懸賞金を付けて情報提供を求めている[8]。 
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 https://www.uta-net.com/song/11684/
①http://masakikito.com/ishii/index.htm
②https://ja.wikipedia.org/wiki/石井紘基刺殺事件
 https://matome.naver.jp/odai/2147997226852760901
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 ┃ ボンカレー ┃
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 1968(昭和43)年02月12日(月) 大塚食品工業[注釈 1]より世界初の一般向けの市販レトルト食品として発売
 2009(平成21)年02月12日(木) 箱ごと電子レンジで温めるボンカレーネオを発売
‡2009(平成21)年02月11日(水) 関根勤&ゴスペラーズ:黒沢薫を呼んで『ボンカレーネオ誕生祭』
 2009(平成21)年09月08日(火)『ボンカレースマイルプロジェクト』スタート 関根勤がCBO(Chief Boncurry Officer―最高ボンカレー責任者
 2010(平成22)年03月XX日(X)まで半年にわたり展開
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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‡1998(平成十)年02月11日(水) 長野冬季五輪で里谷多英選手が金メダル ⇒ 長野冬季五輪のフリースタイルスキー女子モーグルで21歳の里谷多英選手(北海道東海大)が金メダルに輝いた。日本女子選手の冬季五輪での金メダルは初めてだった。写真は、決勝でエアを決める里谷選手【時事通信社】
‡1922(大正11)年02月11日(土) キャラメル「グリコ」が発売 ※2021(令和三)年記事追加
‡1970(昭和45)年02月11日(水) 国産初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げ成功、地球を周回 ※2021(令和三)年記事削除
‡1990(平成二)年02月11日(日) 南アフリカの黒人指導者マンデラ氏、27年ぶりに解放
 https://www.jiji.com/jc/daily
 2008(平成20)年02月10日(日) 韓国の国宝「南大門」が放火で全焼 ⇒ 韓国のソウル中心部にある名所・南大門(崇礼門)で放火による火災が発生した。消防車数十台が出動したが、建造物の構造などから消火作業は難航。発生から約5時間後の
‡2008(平成20)年02月11日(月)未明には木造部分全体が炎に包まれ、最終的に焼け落ちた。写真は、炎上する南大門と消火作業に当たる消防隊【AFP時事】※2021(令和三)年記事追加
 https://www.jiji.com/jc/daily?d=0211
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1993(平成五)年02月11日(木) 笑顔でサバイバルのゴング! 阪神の“PKO問題”勃発
‡2018(平成30)年02月11日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は2月11日だ。 
 写真◆中央で握手するのは郭李とオマリー(右)、そのさらに右がパチョレック
 1993年2月11日、この日から安芸キャンプに合流したパチョレック、オマリーと、新助っ人・郭李建夫が阪神の首脳陣とナインに囲まれ、笑顔で握手をしている。 
 前年の92年、猛虎快進撃の象徴は「シンカメ」こと新庄剛志、亀山努だったが、メーンエンジンとなったのは、オマリー、パチョレックのバットだった。 
 中村勝広監督は「今度こそ優勝」とオリックスに若きエース候補・野田浩司を放出してまで、強打者・松永浩美を獲得、さらにバルセロナ五輪銀メダルの台湾のエース、郭李の獲得に成功した。 
 ただ、問題は使い方。ポジション的な部分はまだましで、松永は三塁でオマリーとかぶるが、これはオマリーを91年に守った一塁に回し、一塁のパチョレックを外野にすればすむ。ただ、当時は一軍登録できる外国人選手は2人。郭李を使うなら、この2人のうちどちらかを外さなければいけない。 
 のち3人の頭文字を取り「PKO問題」とも言われたサバイバルだ。首脳陣も気をつかい、この前夜、オマリー、パチョレックを食事に誘い、起用法についての説明をしていたようだ。 
 結局、開幕はオマリー、パチョレックだったが、パチョレックは不振と腰痛もあって途中退団。ただ、その年、大不振なのにファン投票2位でオールスターに出場するなど、92年への感謝は虎ファンの中でも強かったようだ。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180211-12
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.044 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1959(昭和34)年02月11日(水)号 特集 水原と川上の手腕 巨人はどう変わっていくのか
 2017(平成29)年12月10日(日) 7:06 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎近鉄の新ニックネーム発表
 写真◆表紙は中日・森徹
 今回は『1959年2月11日号』。創刊44号で定価30円だ。表紙は中日・森徹、センターカラーは阪神から田宮謙次郎が加わった大毎の『強力打線』。榎本喜八、葛城隆雄、田宮、山内和弘、矢頭高雄がバットを片手にずらりと並ぶ。巻頭グラビアは1月20日から始まった巨人の多摩川での練習。すでにユニフォーム姿だ。 
 本文巻頭も『特集 水原と川上の手腕~巨人はどう変化していくのか』。トレーニング初日、水原円裕監督は私服、就任したばかりの川上哲治ヘッドコーチはユニフォーム姿で現れた。 
 水原監督はこの日、「ほんとうにチームが一丸となっていかなければならない。今年は一軍、二軍という垣根を取り除いて、調子の悪いものはビシビシ鍛え、よいものは一軍に上げていきたいと思う」と訓示した。川上の引退もあって、思い切った世代交代に打って出たいということだろう。 
 ただし、川上は自身はすでに引退を表明していながら、正力松太郎読売新聞社主の意向により、まだ正式な引退発表がされていなかった。なかには「調子のいいときは代打として登場すればいい」という意見もあったが、川上は「常時出場の自信がないのに代打にだけ出るようでは、若い人の進歩を邪魔する結果になる」と現役続行を完全否定した。 
 恒例の『12球団週間報告』の近鉄ページでは、1月14日に行われた新ニックネーム発表披露会に触れている。 
 新ニックネームは新監督・千葉茂の巨人現役時代のニックネーム『猛牛』もあって「バファロー」。これは一般公募で決まったものだが、2万通近く寄せられた中では、ほかに「フェニックス」も有力だったという。2004年の球界再編問題で近鉄球団は消滅したが、その際、新参入球団として楽天と競ったのが堀江貴文社長の『ライブドア』、そしてそのニックネームがフェニックスだった。複数でなかったのは、アルファベットにすると9文字と長くなり、胸のマークなどに収まりづらいためだったらしい。 
 会場であいさつに立った千葉監督は片手をポケットに突っ込んだままの悠然スタイルで「猛牛は止まることを知らず走り続けます。近鉄もジャイアンツと選手権を争うまで走り続けます。いままでの近鉄はおとなしすぎたと聞いています。しかし僕はエレガントではないので、近鉄をたくましいチームに育て上げるつもりです」と語り、大喝采を受けていた。 
 また、大洋退団後、なかなか行く先が決まらなかった青田昇は阪急入りが決まった。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.254 ┃  40円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1963(昭和38)年2月11日(月)号 野村克也の背筋力は南海で1位だった
 2018(平成30)年7月09日(月) 10:24 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎後藤修が7球団目の西鉄へ
 写真◆表紙は阪神・村山実
 今回は『1963年2月11日号』。定価は40円だ。 
 のち日本人メジャー第1号となる南海の新人左腕(前年秋入団)・村上雅則の評判がいい。 
 ピッチングではなく、身体能力だが。 
 合同自主トレで選手全員に握力テストをしたのだが(当時の合同自主トレは、ほぼキャンプと変わらない)、右が69キロ、左が76キロだった。76キロはスタンカの右75キロをしのぎ、チーム最高だったらしい。 
 握力の強さはピッチングとイコールではないが、何事も一番はいいものだ。 
 続いて背筋力を測ったら1位が野村克也で209キロ。村上も196と、こちらでも上位グループに入った。 
 ここではマッシー村上より、さすがノムさんと書いておきたい。当時はウエート・トレなどまったくしていなかった時代のはずだが、身体能力というか、体幹が強いタイプだったのだろう。 
 西鉄には後藤修が入団。若林忠志コーチが「今までは指導法の誤りで本当の力を発揮できなかった。僕は先発で起用したい」と惚れ込んだ左腕だが、後藤の近鉄時代の監督であり、解説者だった千葉茂は「球は速いし、カーブもいい。ただコントロールに不安があって、ここ一球というときに失敗する。どこまで心配していいか不安があった」と語っている。 
 52年松竹入り。松竹が大洋と合併した洋松を経て、東映、大映、巨人、近鉄、南海と渡り歩き、西鉄にたどりついたジャーニーマンだ。 
 しかも結果を残し、請われての移籍というより、結果を出せず、戦力外でテストを受けての繰り返し。この号の記事では、11年間で7球団とあって「球界の七不思議」の1つが後藤の運命と書いている(松竹と洋松は1つに数えているようだ)。 
 なお、後藤にはピッタリの異名があるのだが、「あまり適切ではない」と言われてきたので、あえて書かない(みんな知っていると思うし)。 
 巻頭企画は巨人・長嶋茂雄の結婚問題。『長嶋夫人最後に残った2人の女性』のタイトルもほぼ女性誌だ。記事中では「いままで十数回にわたって紙上で婚約させられてきた長嶋だが、今度ばかりは……」とあるが、今度の2人も、また違っている。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171210-10
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180708-02
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.050 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
   【助っ人トンデモ話 No.01】
 アルバイトで試合に出ていた基地所属の元メジャー・リーガー【助っ人トンデモ話】
‡2018(平成30)年2月11日(日) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 カイリー[1953毎日/投手]
 毎日・カイリー
 1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争で、多くのメジャー経験者が軍服を着た。そのなかで日本の基地勤務となった男と日本の球団が、彼らに勤務の休日だけ試合に出てもらう、“アルバイト契約”を結ぶこともあった。もっとも有名なのが、
 1951(昭和26)年にレッドソックスで7勝を挙げた毎日のレオ・カイリーだ。
 1953(昭和28)年8月に契約すると、
 1953(昭和28)年8月8日(土)から30日(日)までに、6試合に登板し、6勝0敗、防御率1.80。バッティングも19打数10安打、打率.526とよく打った。 
 戦争の停戦もあって9月には除隊して、帰国。レッドソックスでメジャーに復帰している。その後、
 1954(昭和29)年2月になって福井盛太コミッショナーから「米軍勤務中の選手の採用は自粛するよう」通達が出されたこともあり、米軍所属選手は姿を消すことになった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180211-10
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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