西日本の「物流大動脈」山陽線の特殊な事情 急曲線と急勾配で貨物大量輸送に不向き
2018(平成30)年11月10日(土) 04:50 梅原淳:鉄道ジャーナリスト
急曲線と急勾配とにより、山陽線三原―海田市間、特に八本松―瀬野間は、高速での運転にも、大量輸送にも適していない。最大1300tのコンテナ列車が運転されているので大量輸送は成し遂げられているが、この目的を達成するためにJR貨物は専用の電気機関車を14両用意し、定期運転では29本のコンテナ貨物列車に対して補助機関車として使用する。補助機関車は広島貨物ターミナル駅から西条駅までを走れば仕事が終わりというものではない。再度補助機関車として使用するために広島貨物ターミナル駅まで戻す必要があり、機関車だけで走る単機列車が定期運転で同じく29本設定されている。西条駅から広島貨物ターミナル駅までの間では多数の旅客列車、貨物列車が運転されているなか、さらに29本の列車を走らせなくてはならないので、複々線の海田市―広島貨物ターミナル間はともかく、西条―海田市間では旅客列車の増発が時間帯によっては難しくなっている。ちなみに、東海道線の膳所(ぜぜ)―京都間が戦時中の
‡1944(昭和19)年11月29日(水)に複線から線路が1本増設されたのも補助機関車の連結を行っていたからだ。当時京都駅から膳所駅までの間で使用されていた補助機関車を単機列車として京都駅に戻していた結果、膳所駅から京都駅までの線路に列車を増やす余裕がなくなってしまったのである。
□問題は古くから指摘されていた ⇒ 山陽線の問題はいまになって表れたのではない。すでに高度経済成長期からも問題になっていた。1960年代前半に国鉄本社の新幹線局調査室調査役を務めていた池原武一郎氏は当時の山陽本線の状況について次のように嘆く。「要するに山陽本線は輸送量の増大に応じて或いは軌道の強化・信号の自動化・車両の軽量化など、路盤より上の部分に対する近代化が進められたが、地形上の制約から勾配・曲線など、線路自体の近代化がはばまれてきたわけである。」(池原武一郎、「山陽新幹線の必要性」、「交通技術」1964年10月号、交通協力会、18ページ)池原氏が言う山陽線の線路の近代化は急曲線や急勾配の解消によって成し遂げられる。悪条件のそろった三原―海田市間では部分的な改良工事ではとても無理で、新線への切り替えが必須だ。事実、JR西日本は
1990(平成二)年06月26日(火)に三原―本郷間の一部を新線に切り替えて半径420mの曲線2カ所が姿を消すとともにキロ程も0.6km短縮され、三原―本郷間は10.1kmから9.6kmとなった。他の区間、特に八本松―瀬野間は早急に新線に切り替えたいところだが、現在に至るまで実現していない。その最大の理由は経済性によるもの、つまり多額の費用を投入して新線を敷設しても見合った効果が得られないからだ。結論から言うと、八本松―瀬野間の急曲線や急勾配を緩和した新線に切り替えたとしても、得られる効果は貨物列車に対する補助機関車連結の廃止にほぼ限られてしまうので、ならば現状のままとなっている。
→次ページ八本松―瀬野間が新線にできない理由
https://toyokeizai.net/articles/-/248156?page=3
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①┃ 内山信二 ┃
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1981(昭和56)年09月25日(金) 生誕
‡2019(令和元)年11月29日(金) 入籍
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②┃「夢を育てよ」#2 最高月収3000万円から仕事ゼロ ┃
┃ そして再ブレイク。内山信二さんに聞く ┃
┃ 逆境からの立ち直り方と、これからの夢と家族 ┃
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2019(令和元)年12月27日(金) 取材・執筆/清水京武 写真/山田英博
「夢を育てよ~素敵なあの人に聞いた、夢と備えの話~」。シリーズ第2回は、タレントの内山信二さん。子役として大ブレイクし、10歳にして最高月収3000万円。ところが16歳の頃には預金通帳の残高が数百円に。さらに、そこからの再ブレイクと、ジェットコースターのような人生を経て、内山さんがどのような夢を抱くようになったのか。また、金銭感覚の変化についても赤裸々に語っていただきました。90年代を代表する人気バラエティ番組『あっぱれさんま大先生』。その生徒役として、おそらくその当時、日本一有名な子役タレントとなったのが、「内山くん」こと内山信二さんでしょう。現在、38歳。今も変わらないその笑顔、その体型は、愛されるキャラクターとして希有な存在です。しかし、小学生ながら一気に全国区となった内山さんは、そのときが紆余曲折の人生の始まりでもありました。テレビから姿を消し、困窮の生活、そして引きこもり。そんな内山さんを救った恩師の言葉や、周囲の人たちの支え。ご本人に、これまでの歩みとこれからの自分、新しい家族について、語っていただきました。
◆内山信二さんプロフィール◆1981年、東京都葛飾区生まれ。5歳で芸能事務所に所属。7歳のとき『あっぱれさんま大先生(フジテレビ)』に生徒役で出演、一躍、人気子役となる。14歳で同番組を卒業し、それとともに人気も下降線に。アルバイト生活や引きこもりを経て、17歳で芸能界復帰。タレントの他、俳優やグルメレポーター、ラジオのMCなど、仕事の幅を広げていく。2017年には「かつしか観光大使」に任命。現在、TOKYO MX『バラいろダンディ(火曜レギュラー)』、TBSテレビ『坂上&指原のつぶれない店(準レギュラー)』、NHK『ごごナマ(コーナー準レギュラー)』等に出演。2019年11月、一般女性と入籍。
◆一躍全国区になり、お小遣いは1回5万円◆「芸能事務所に入ったのは5歳のとき。父親があべ静江さんの大ファンで、どうすれば本人に会えるかを考え抜いた結果、息子を芸能界に入れることを思いついたようです。ただ、最初は兄貴を歌手にするつもりだったんですよ。でも、当時はネットも普及していないからどこにも情報がなくて、どうやったら歌手になれるか分からない。それで、とりあえず信二を子役にして様子を見ようと考えたわけです。「これからの時代は人前で臆せず話せないとダメだ」と考えていた父親にとっては、僕の引っ込み思案をなおす目的もあったようです」
「最初に受けたオーディションが『あっぱれさんま大先生』でした。おいしいハンバーグ食べさせてやるからって、父親にだまされて(笑)。事務所に所属したとはいえ、演技のレッスンを受けていたわけでもない、単なる素人の子どもでしたが、なぜか受かって。気づいたらテレビに出ていました」すぐに人気タレントとなった内山少年。しかし、最初は芸能界での仕事が嫌で仕方なかったと言います。
「やっぱり遊びたかったんですよ。事務所は学校を優先してくれるところで、授業はほとんど出席できました。そうなると、仕事が入るのは学校が終わってからか、土曜の午後や日曜日。遊ぶ時間はほとんどありません。運動会も参加したのは6年間で1回だけ。今では仕事をいただけるありがたさが身に染みていますが、当時は遊びたい気持ちの方が強かったですね。でも、小学4年生くらいから、お金がいっぱいもらえることが分かって、子どもながらに『これはいい商売かもしれない』って。それが間違いのもとだったんですが」給与は当初、手渡し。しかも本人が事務所で金額を確認しなければいけませんでした。だから、収入はリアルな額で分かってしまう。10歳になると、CM契約も一気に増え、ピーク時で最高月収3000万円に達しました。
「そうなると家族全員、金銭感覚がマヒするんですよ。ウチの実家は下町の魚屋で、近くに大型スーパーができて、売上なんて知れています。でも、軽トラだった父親の愛車がいつの間にかベンツになっていたし、母親のバッグもヴィトンに。僕は僕で、おもちゃ屋さんに行って、ここからここまでゲームソフトを全部くれ、みたいな。僕自身は小遣い制で、金額は1回につき5万円。言えばいつでもくれました」
◆人気がなくなったのは自業自得◆いつまでも続くと思っていた自身の人気も、徐々に陰りが見え始めます。そして、いつの間にか子役タレント・内山信二の姿を見ることはなくなりました。
「『あっぱれさんま大先生』のときは、トコトコと歩いて『お腹減ったあ』と言うだけでドカーンとウケました。でも、それも小学生だからです。中学生になれば通用しません。それと、僕自身が嫌な奴でしたから。今振り返ってみても、つくづくそう思います。早々に、俺はこの家の大黒柱だっていう意識でいました。マネージャーなど、周囲の大人たちをからかったり、偉そうにご飯をおごったりして。とんでもない勘違いですよ。人気がなくなるのは、自業自得だったんです」
「中学生になったくらいからですかね、家にあったものが徐々に消えていくんです。ベンツもヴィトンもロレックスも。そういえば、最近、仕事が少ないなあって僕も感じたし、親も薄々分かっていたんです。でも、誰も触れなかった。見栄もあるし、一度知った贅沢な生活って、なかなか変えられない。相変わらず、家族でハワイに行ってましたから。しかもファーストクラスです。行けば行ったで、高級ホテルに泊まって、買物もする。旅行費用は恐ろしい金額になっていたと思いますよ」16歳になって、原付免許を取得したいと父親に言ったときのこと。見せてくれた預金通帳の残高に目を疑いました。わずか数百円。そして、そのとき初めて、想像を超える状況に陥っていたことを知ります。でも、時すでに遅し。ほどなく家の電気が止められる事態に。
「高校も辞めてしまったので、とりあえず働くしかないと思い、ガソリンスタンドや引越しのアルバイトをしました。でも、続かないんですよ。僕だってすぐバレてしまって、最近テレビ出てないねって言われたりする。相手も悪気はないんです。事実だし。そのうち、被害妄想が出てきました。前にいるあの二人は僕の悪口を言っているに違いないって。だから外出もしたくない。結果、引きこもりになりました」
◆「芸能界で頑張るしかないな」の一言が自分を変えた◆アルバイト時代に知り合いから「相撲部屋に入門したらどうだ?」と、ウソのような誘いを受けます。紹介された入門先は、大関・霧島関が親方になったばかりの陸奥(みちのく)部屋。悩んだ内山さんは、明石家さんまさんに相談をします。
「たぶん通用しないやろけど、やれるとこまでやってみろ、と言われました。俺が後援会長になったる。しこ名は〈あっぱれ山〉でいいやろって」
「でも、いきなり飛び込むのは不安だったので、別の相撲部屋に見学に行かせてもらいました。すると、親方とか後援会の方が、相撲取りはいいぞって、盛んに僕に言うんです。朝に稽古して、あとは腹いっぱい飯食って寝るだけ。それで、ものすごく稼げるって。でもそれは成功したときの話ですよね。それで、僕と同じくらいの年齢の新弟子の人と二人きりになったとき、聞いてみたんです、正直どうなのって。そしたら、今日、部屋から逃げようと思ってるって真顔で言われました。相撲は無理だとその時点で思いましたね」その後、しばらくして、今度はさんまさんから連絡が入ります。コントの舞台の誘いでした。相撲部屋もあきらめ、引きこもっていた内山さんに「もう芸能界で頑張るしかないな」と言われたそうです。
「だから、トークを勉強せえって言われました。数年ですけど、まったくテレビを見ていない時期があって。情報が入ってくるのが嫌だったし、違う子役が活躍しているのを見るのも悔しかった。それでもさんまさんに声を掛けていただいてからは、まずはテレビを見てトークを勉強しました。『踊る!さんま御殿!!』を見ながら、このトークテーマを振られたら何て答えるか、自分なりにシミュレーションをしたりして」
「誘っていただいた舞台は『あっぱれさんま大先生』と同じで、台本はありません。設定だけを決めて、あとはその場で稽古しながら作っていく。さんまさんにはよく怒られましたよ。ここ、おもろいのに何で言わへんのかとか、お前キャラ分かってんのかとか。怖かったですけど、僕のために怒ってくれていると思うと、それだけで嬉しいんです。自分の存在を認められたみたいで」
◆支えてくれる人の存在と夢のハリウッド◆舞台をきっかけに仕事も少しずつ入るようになり、仕事の幅を広げていきました。人の浮き沈み、入れ替わりの激しい芸能界で、デビューより難しい復帰を成し遂げた、その要因は何だったのでしょうか。
「少なくとも僕の場合は、手を差し伸べてくれた人たちの存在が本当に大きかった。さんまさんはもちろんですが、それ以外にも、例えば、石塚英彦さんは、僕がまったくテレビに出てないときから、僕のことをテレビで話題にしてくれて。伊集院光さんは監督をされたVシネマに誘ってくれたし、松村邦洋さんは地方の放送局に行ったとき、内山に仕事ないですかって聞いてくれていたんです」
「裏方の方たちもそうです。マネージャーさんや事務所のスタッフさん。そういう人たちのフォローがなければ、タレントは仕事できません。僕なんか、電車のきっぷも自分で買えなかった。周囲の支えなくしてとても復帰は無理でした」そんな内山さんは、仕事でも新しいチャレンジに向けて、動き出しています。自身の夢、目標でもあるハリウッド映画への出演。そのために英会話の勉強も始めました。
「先日、Netflixの仕事で渡米しました。いつか生まれる自分の子どもたちに、父親のしてきた仕事を見せたいし、残したいと思っていて、その一つのかたちが映画なんです。国内映画は何本か出させてもらいましたが、ハリウッド映画は本当に憧れですよね」
「実際に撮影現場に入ってみると、すべてが新鮮なんです。例えば、呼び方ひとつ取っても、日本だと内山、あるいは内山くんですが、向こうでは〈SINJI〉ですからね。芸能生活はもう30年以上になりますが、まだまだ知らない世界があることを痛感しました」
◆苦しいときこそ、生活の中に笑いを◆
‡2019(令和元)年11月29日(金)、「いい肉の日」に婚姻届を提出し、一般女性と結婚。家庭を持ち、新たな人生のスタートを切りました。子どもは欲しいし、きっと子煩悩になるという内山さん、ちょっと気が早いですが、どんな父親になろうと考えているのでしょうか。
「親子というより、兄弟みたいな関係がいいですね。いっしょに遊んだり、ご飯を食べたり。そして何でも相談してくれる。パパやお父さんではなく、親方と呼ばれたい。きびしい稽古は一切ない相撲部屋、それが理想の家庭かな」描く理想像には、自分の父親の影響が少なからずあるのだとか。内山さん曰く「お金で人生の歯車が狂ってしまった」父親でありながら、だからといって、内山さんの目には決してダメな人間には映っていなかったのです。
「典型的な下町の頑固親父なんですが、子どもの僕を、いろんな場所に連れ出してくれたんです。動物園に行くと言って、中山競馬場だったこともありますが、遊園地や食べ物屋さんなど、約束をしていたら、前の晩にすごく飲んでいても、翌日ちゃんと連れて行ってくれました。しかも、僕以上に楽しんでいる。東京ディズニーランドの『ピーターパン空の旅』というアトラクションが大好きで、何回乗ったことか。だから、自分もあんな父親になりたいという気持ちが、どこかにあるんだと思います」お子さんが生まれれば、もちろんお金もかかります。しかし、お金のことで夢をあきらめることは、させたくない。だから、親として貯金はしないといけないと、今は自分に言い聞かせているそうです。
「でも、僕はお金の管理はできないので、もっぱら奥さん任せです。今、自宅には貯金箱が3つあるんです。1円とか10円の小銭用、500円玉用、そして1000円札用。定期的に財布からお金を抜かれて貯金箱へ。でも、ありがたいですよ、そうやって貯めようとしてくれている。僕一人では、そんな発想自体が出ませんから。それと最近は、奥さんに言われて、カードのポイント還元も気にするようになりました」最高月収3000万円から仕事ゼロと、まさに転落人生を経験された内山さん。それを経て、今後どのような思いで人生を歩んでいこうと考えているのでしょうか。同世代、子育て世代へのエールという意味も込めて、伺いました。
「たぶん、子育て世代は多少の差はあっても、経済的に我慢したり、窮屈に感じることがこれから増えると思います。僕も間違いなくそう。でも、だからこそ、家庭の中の笑いを大事にしたいですよね。どんな状況であっても、そこから笑いを見つけ出す。それがどんな笑いなのか、今から楽しみですよ」
◆これまでの夢や目標◆小さい頃はお坊さんになりたいと思っていました。お盆などにお経を上げに来てくれるんですが、感謝されてお金ももらえる。子どもながらに、何ていい仕事だと思いました。
◆夢を実現するためにやってきたこと◆自分で勉強したり人に頭を下げたり、地道にコツコツ。すぐに結果は出なくても、きっと誰かがそれを見て声を掛けてくれるから。
◆大切な時間やお金の使い方◆大事な部分は妻にすべてお任せしています。しっかりした人や会社にお任せするのがよいと思います。
◆いつか生まれてくる子どものために◆夢をあきらめることがないよう、親として支えてあげたい。
◆これからの夢や目標◆ハリウッドで映画デビュー。
◆読者へのメッセージ◆苦しいときこそ、生活の中に笑いや楽しみを見つけてください。
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/内山信二
②https://www.daiwa.jp/sodatte/career/s0238/
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「大喪の礼」7年前に極秘準備 昭和天皇逝去、弔問外交を想定 外務省記録
2019(令和元)年12月29日(日) 7:20 時事通信 配信
1989(平成元)年02月24日(金) 東京・新宿御苑 写真◆古装束の皇宮護衛官に担がれる葱華輦(昭和天皇の霊きゅうのこし)
1989(平成元)年02月24日(金)に行われた昭和天皇の「大喪の礼」をめぐり、外務省がその7年前の82年、天皇逝去に向けた準備を始め、宮内庁と極秘に協議していたことが分かった。
【図解】皇室の構成
‡1963(昭和38)年11月(国葬) ケネディ米大統領、
1980(昭和55)年05月(国葬) チトー・ユーゴスラビア大統領らのケースを参考とすることにし、これらの葬儀を調査。「弔問外交」の展開を想定していた。外務省外交史料館がこのほど秘密指定を解除した「昭和天皇大喪の礼」に関する記録で明らかになった。外務省儀典官室は
1983(昭和58)年02月15日(火)の極秘文書で「陛下(昭和天皇)の崩御うんぬんは、事柄の性質上軽々に口にしたり、とり上げたりすべき問題ではないが、陛下は既に82歳に近いご年齢であるし、万一かかる事態が発生しても当省としてスムーズに対処できるように所要の準備を進めておくことは事務的には必要」と記した。同文書によると、西田誠哉儀典長の指示で、
1982(昭和57)年秋ごろからごく少数の間で作業を開始。外務省出身の安倍勲式部官長らとともに、同年12月初めに勝山亮宮内庁審議官と協議を行った。勝山氏はその際、「まだ具体的なことはほとんど決まっていない」とした上で、「前例を参考とした私見」と前置きし、陛下逝去の際には皇室典範の規定に基づき「大喪の礼」を行うとし、国葬になるとの見通しを示した。「大正天皇の時の例にならう」とも述べた。
1983(昭和58)年12月08日(木)作成の外務省文書では「宮内庁の方針が決定しない限り、準備不可能なもの」として「外国人参列者を受け入れるか否か」を挙げ、早期の方針決定を求めた。その上で決定すれば「弔問外交(対皇族、総理、外相らとのアポイントメント)の調整」が予定されると記した。しかし、実際にはそれに先立つ
1982(昭和57)年06月、宮内庁は外務省に対し、在英、西ドイツ、フランス、ユーゴの各公館長宛てに、当該国元首の葬儀の内容について調査を依頼。外務省儀典官室では、英国のジョージ6世、スウェーデン国王、現職大統領で死去したケネディ、チトーの国葬を調査するとともに、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳といった歴代首相の葬儀も参考にすることにした。
1983(昭和58)年04月12日(火)「天皇陛下崩御の際の体制」と題した儀典官室作成の文書では、
1980(昭和55)年07月にカーター米大統領や華国鋒中国首相らが参列した大平氏の内閣・自民党合同葬儀を参考に、外国要人の送迎、宿舎、警備など受け入れ体制を具体的に定めた。実際の大喪の礼では、ブッシュ(父)米大統領ら164カ国の外国代表らが参列し、史上最大規模(当時)の葬儀となった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191229-00000006-jij-int
Renta!24時間TV配信予定!
24周年に合わせてRenta!24時間TVを配信します!
体を張った企画に挑みまくるスタッフの雄姿を見届けてください!
配信予定
‡2019(令和元)年11月29日(金)09:00
2019(令和元)年11月30日(土)09:00
https://renta.papy.co.jp/renta/sc/frm/page/topics/c_24anniversary.htm
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1987(昭和62)年11月29日(水) 大韓航空機が爆破され、乗客乗員115人が死亡 ⇒ バクダッド発ソウル行きの大韓航空機がミャンマー沖上空で爆発し、乗客乗員115人全員が死亡した。韓国当局は北朝鮮工作員男女の犯行と断定。男は服毒自殺、金賢姫工作員は捕まり、事件を自供した。写真は、身柄を拘束され、ソウルに護送された金工作員【AFP時事】
1973(昭和48)年11月29日(木) 熊本の大洋デパート火災、犠牲者103人
2003(平成15)年11月29日(土) イラクで日本人の大使館員2人が銃撃され死亡
https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1993(平成五)年11月29日(月) 松永浩美、FAでダイエーに入団
‡2017(平成29)年11月29日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月29日だ。
写真◆松永はFA移籍第1号選手でもある
1993年オフ、日本球界にフリーエージェント(FA)制が導入。移籍は新時代を迎えた。
宣言第1号は阪神の松永浩美。
1993(平成五)年11月02日(火)、自宅前で待ち構えていた報道陣に「FA宣言します。書類ももう提出しました」ときっぱり言い切った。この年の資格取得選手は引退表明者を含め60人。結局、松永をはじめ、中日・落合博満、巨人・槙原寛己、駒田徳広、オリックス・石嶺和彦の4人が宣言した。
松永に対しては、宣言後、阪神ファンが一斉に大ブーイングをした。松永がオリックスから阪神に移籍し、まだ1年。しかも故障もあって期待されたようにVの使者にはなれず、対して交換トレードでオリックスに移った野田浩司が17勝を挙げて、最多勝の活躍をしたこともある。
加えて大きかったのは、マスコミが、この流れに乗って松永を完全に“悪役”とし、ネガティブな報道に終始したことだ。それにより騒動はさらに大きくなった。
松永は、人気ドラマ『ドクターX』ではないが、いわゆる職人選手で、上に媚びることなく、自らの持つスキルで勝負する一匹狼だ。ただ、強かった時代の阪急で若手時代を過ごしたこともあり、ドラマと違って、チームの勝利への思いもまた、誰よりも強かった(患者の命と考えれば同じか)。
阪神移籍後も当然のようにチーム改革のためにさまざまな提案をしたが、ほぼ無視されたという。いらいらが募り、阪神フロントにもまた、そんな松永を煙たがる空気があったのだろう。FA宣言後、まったく連絡がなく、放置状態が続いた。
第1回の交渉は
1993(平成五)年11月24日(水)。交渉の席で「私に何を求めますか」と尋ねても「三塁を守ってクリーンアップを打って、そのくらいですかね」の答え。その場で退団を決意した。
阪神への不満だけではない。松永の中に「自分がFA第1号に」という思いがあったのも確かだったようだ。ずっと日本のプロ野球選手の価値観をもっと高めたいという思いがあり、そのための近道は選手の年俸を上げること。FAは、その絶好の手段に思えた。
以後、西武とダイエーの争奪戦になったが、ここでも光ったのが、球界の寝業師と言われたダイエー・根本陸夫監督だ。殺し文句は「松永君、ウチで苦労してくれないか」。低迷期にあったダイエーを引っ張っていく存在になってくれ、という意味だ。
対して松永は「ダイエーの若い選手にズバズバ言うかもしれません。殴るかもしれませんよ」と言ったが、「かまわん。そういうのを君に求めているんだ」とニヤリ。松永が何に不満を持ってFAを選んだか、さらには、その性格も十分に分かっていたからだろう。
さすが根本監督の“人たらしぶり”と言うべきか。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1949(昭和24)年11月19日(土) 二日酔いで球がたくさん見えたから?東急・大下弘、7打数7安打
2017(平成29)年11月19日(日) 7:05
写真◆幾多の伝説を持つ強打者・大下弘
2つの驚きがある。1つは1試合7打席7安打という日本最多記録に対し、もう1つは11月19日まで試合があったことだ。
1リーグ制最後の1949(昭和24)年、日本シリーズがないとはいえ、ペナントレース最終戦は
‡1949(昭和24)年11月29日(火)だった。終戦後、“青バット”でのホームラン量産で人気者となっていた東急・大下弘が記録達成者である。この年は無冠ながら打率.305、38本塁打、102打点、27盗塁をマークしている。
大記録の舞台は甲子園、相手は大陽ロビンスだった(「太陽」ではない)。快晴ながら強風の日だったという。試合は一方的な東急ペースとなり、21安打を放ち、22対2で大勝。結果的には、だからこそ打席が多く回り、歩かされることはなかったとも言える。
三番に入った大下は、第1打席は一、二塁間を抜く単打、第2打席は右翼線二塁打、第3打席は一塁強襲安打、以後二塁打2本、内野安打1本で、まず6打席6安打とした。
7打席目は9回に訪れる。このとき幸運もあった。3球目の一塁方向へのファウルフライを強風に流された一塁手が捕球できず、仕切り直し。フルカウントにしてから三遊間深くにゴロ。間一髪、一塁セーフで大記録が生まれた。内野安打3本と、大下の足の勝利でもあった。
その後であるが、大下は遊郭からそのまま球場にやって来て、グテングテンの二日酔いであった。ボールがたくさんに見え「どれかを打てばいい」と打った大記録という話もあったが、それはすべて後付け。実際に遊び人で遊郭から球場に通ったことはあったようだが、さほど酒が飲めず、宴席でも飲まずに騒ぐタイプだったという。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171129-11
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171119-11
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.392 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1965(昭和40)年11月29日(月)号 南海・鶴岡一人はサンケイ監督になる?
2019(平成31)年02月05日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎東京・永田オーナーの焦り
写真◆表紙は巨人・宮田征典
今回は『1965年11月29日号』。定価は50円だ。
日本シリーズで巨人に敗れた直後、電撃辞任を表明した南海・鶴岡一人監督。前回に続き、この号でも、鶴岡が次にどこの監督になるのかの記事にたくさんのページが割かれていた。
11月13日には、38歳の蔭山和夫ヘッドコーチの昇格が発表され、鶴岡同席で就任会見が行われた。
「ツルさんが作った伝統は守っていきたい。これからも勉強して一生懸命やっていきたい」
蔭山は、緊張とともに、少し興奮した様子で話した。
鶴岡の進路について、マスコミは東京監督、サンケイ監督で二分されていたが、どうやらサンケイ有利になりつつあったようだ。
11月12日には大阪中之島のホテルでサンケイの水野オーナーと鶴岡が会談。各社、ここで決まり会見がある、と予想し、100人の記者が詰めかける騒ぎとなった。
心中穏やかでないのは、3年前に鶴岡を監督に誘った際、「南海をやめることになったらお世話になります」と言質を取り、来てくれるとばかり思っていた東京の永田雅一オーナーだ。
パ・リーグ総裁でもある永田は、
「鶴岡を絶対パ・リーグから手放すな。もし彼をセ・リーグに取られたらパは存亡の危機に陥る」
とコメントしていた。
南海では8日に村上雅則が来日。日本人初のメジャー・リーガーとして大活躍し、地元山梨では大歓迎だったが、気になる来季については「いまは話せません」だった。
11月17日には第1回ドラフト会議が行われるが、その提唱者である西鉄・西亦次郎社長の退陣が発表された。博多ターミナルの社長に転身するとのこと。西は西鉄クリッパース時代から球団経営にあたっていた人物である。
後ろグラビアでは、ドラフトの目玉として甲府商高・堀内恒夫が紹介されていた。本人は希望球団を語っていないが、父親は、
「できるだけ守備のいいチーム、勝てる望みがあるチームに入れてやりたい」
と話していた。
MVP、ベストナインの投票結果が発表された。
セのMVPは僅差になったが、王貞治が650票で8時半の男、宮田征典の605票を上回った。
王の受賞を聞いた川上監督は投票権があった新聞記者に、
「宮田にあげることはできなかったのか」
と言ったという。
では、またあした。<次回に続く>
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190204-02
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.771 ┃ 90円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年11月29日(月)号 阪急・山田久志、あの1球への悔いを告白/週べ回顧1971年編
2020(令和二)年08月10日(月) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎告白シリーズに山田登場!
写真◆表紙は左から巨人の長嶋茂雄、カージナルスのB.ロビンソン
今回は『1971年11月29日号』。定価は90円。
少し前の回に書いた巨人-阪急の日本シリーズ。第3戦、巨人・王貞治のサヨナラホームランがシリーズ全体のターニングポイントとなったが、この号では打たれた阪急・山田久志の「告白」が載っていた。日本シリーズの個所を抜粋し、紹介する。
王さんの打球が、まぶしすぎるほどまぶしい西陽の中に消えたとき、あの明るいスタンドが一瞬、真っ暗になったようだった。
投げた瞬間、嫌な予感がした。まるで自分の意思で走るかのように真ん中にすっと流れていった。バットが出てカンと音がしたとき、もうダメだと思った。
その後、打球を目で追ったのは、切れてくれ、入らないでくれと祈るためだった。だが、祈ってもどうにもなるものではなかった。
戦前、新聞は阪急有利の予想を書き続けていた。それをそのまま信じてしまったわけではないが、我々も阪急が勝てると思っていた。巨人の試合を詳細に見たわけではない。でも130試合を終わった後にあらわれる数字だけを見ても、あらゆる面で阪急が勝っていた。
巨人はいざとなったら数字にはあらわれない力を見せるとも聞いていた。しかし、それをいうなら阪急にもあった。そんなものは巨人の専売特許ではない。阪急だって130試合の公式戦の間には、負けムードの試合を技術以外の力で逆転したこともある。
負けてしまった後でこんなことを言って、なんて馬鹿なやつだと笑われるかもしれないけど、本当に勝てると思ったし、勝とうと思って頑張った。
それがなぜ負けたのか。
あの運命の1球だったというしかない。シリーズが終わった後、いろいろな評論家の方々が、「山田が王に打たれたホームラン。あれが阪急の敗因のすべてだった」と新聞に書かれていた。
ほんとにそのとおりだと思う。あの1球さえなければ、シリーズがどうなっていたか分からない。
王さんに投げたのは、いまさら言うまでもなく、さんざん書かれたことだけど、直球だった。1球目が直球でボール、2球目が直球でストライク、3球目も同じく直球でホームラン。
なぜ王さんほどの打者に3球も続けて直球を投げたのか。変化球でかわす方法がなかったのか。確かに、ほかに方法があったかもわからない。しかし、相手は王さん。なまはんかな変化球では通用しない。それなら自分の持っている最高の球で勝負するのが男の戦いではないだろうか。
強がりではないけれど、あの泣きたいような苦しみを味わったことは、自分にとって最高に貴重な経験だった。
勝負の世界には常に勝者と敗者がある。勝者になるに越したことはないけれど、同じ敗者でも、あれほど劇的で過酷な敗北感はそう簡単に味わえるものではない。そんな貴重な体験をしただけでも、これからの人生に決して無駄にならないだろうと思う。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.772 ┃ 90円
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‡1971(昭和46)年11月29日(月)号 大洋・中部謙吉はコンニャクオーナーだったのか?/週べ回顧1971年編
2020(令和二)年08月11日(火) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎川崎球場への不満も
写真◆67年、平松政次入団の際の大洋・中部オーナー(左から2人目)、右が当時の三原脩監督
今回は『1971年11月29日号』。定価は90円。
最終的には3位となったが、シーズン中から別当薫監督の進退が盛んにウワサされ、オフには江藤慎一の獲得、青田昇のヘッドコーチ就任などで騒がせた大洋ホエールズ。
当時12球団で一番アトホームとも、ぬるま湯とも言われた球団だ。
大洋・中部謙吉オーナーは、冗談まじりながら、よくこう言っていたという。
「監督やコーチを入れ替えたり、選手を補強するよりオーナーが変わらんと、大洋は強くなれんらしいね。うちの重役連中もコンニャクオーナーがいる限りは優勝が無理だと言うようだし」
聞かされるたび、記者たちは返事に困る。
ただ、「コンニャクオーナーはある意味、ぴったり」の声もあった。
「柔らかいけど、もろくはない。つかみどころはないけど芯はある。ぬらりくらりと正体不明」
だからだ。
質問した際、絶対にウソは言わないが、話が遠回しだったり例え話が多く、何が何だか分からなくなるときが多かったという。
親会社の大洋漁業はようやく少しだけ上向きになっていたらしいが、まだ相当の累積赤字があり、以前も書いたが、最悪の時期だった69年には球団の身売りが重役会で真剣に検討された。
何しろ球団は創設以来一度も黒字がない。毎年5000万、累積赤字は5億円ほどだった。それでも中部オーナーは、
「(創設以来)20年分の宣伝費と考えれば5億なんて安いもんだよ」
と話していた。
ただ、それでも不思議なことに選手の年俸は意外と高い。これはかつて契約更改でもめると選手がすぐオーナーに直訴。その後、球団の経理に「なんとかしてやれよ」の鶴の一声があり、選手の要求が通ったことが多かったからだという。
有望選手を一度大洋本社の社員にしてから球団に出向させる制度も、オーナーが「引退後の心配なく野球に打ちこんでほしい」とつくったものだが、何かと甘えにつながると批判があった。
当時の大洋の大きな悩みが本拠地の川崎球場だった。なかなか満員にならなかったのはチームが弱かったせいもあるが、球場自体の設備もかなりお粗末。横浜市の平和球場の改築話が出たときは移転に乗り気だったらしいが、開発計画が立ち消えになってオジャンになった。
球場の持ち主は川崎市。球場としては黒字が出ていたのだが、なかなか球団の要望は通らなかった。向こうからはいつも「契約が1年ごと。いつ見捨てられるか分からないのに設備投資はできない」と冷たい反応だったという。いわゆる、お役所対応だったのだろう。
しかし、こんな対応では、いずれ川崎から大洋が出ていくことは確実と察する人がいてもよかったようにも思う。そうなってから焦っても遅かったのだが。
昨日は山の日でしたか……。では、またあした。<次回に続く>
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‡1971(昭和46)年11月29日(月)号 ロッテ・大沢啓二監督の鉄下駄特訓!/週べ回顧1971年編
2020(令和二)年08月12日(水) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎バーベルは意外と軽い
写真◆ロッテ・大沢啓二監督
今回は『1971年11月29日号』。定価は90円。
オリオールズが圧倒的なパワーで日本チームを圧倒していたのと関係あるかないかは分からないが、ロッテ・大沢啓二監督が秋季キャンプでユニークな特訓を始めた。
主たる道具は、まず「鉄下駄」。
今の人は知らないだろう、と思ったらアマゾンで買えるらしい。要は普段から重い下駄をはいて歩くことで足の筋肉を鍛える、というものだ。
柔道一直線など「スポ根」ものでよく見られた。
大沢監督は重さ5キロの鉄下駄を選手にはかせ、左右の足を蹴り上げさせた。目安はベルトより上で、片方の足で30回やったあと、もう一方の足で30回。これを2セットだったという。
さらにこれが終わると5キロの砂袋を腰につけ、グラウンド10周。最初は、そう重く感じられないから、
「こんなの軽いぜ」と言っていた選手もいたが、周を重ねるごとに、だんだん腰がふらふらになり、倒れこんだりする。ここですかさず、「もう1周」とおまけがつく。
ここまでは時代を感じさせる猛特訓だが、その後のバーベルについては違う意味で時代を感じる。
これが50キロだったというが、
「せいぜい25キロくらいをやってやったつもりになっているのが、プロ野球選手。50キロという重量は、プロ野球としては型破りの重さだとある」
ベンチプレスなのかスクワットなのかは分からないが、こちらは今の選手より軽い。
当時は筋肉をつけ過ぎると動きが鈍くなるとウエート・トレをしない選手も多かった。
新任の飯島秀雄コーチは「筋肉を強くし、スタミナをつけるためにやるものだ」と目的を話していた。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200810-01
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200811-01
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