映像◆「ザ・ビートルズ:Get Back」|特別映像|Disney+ (ディズニープラス)修復作業の裏側https://youtu.be/uzJJ8aRheeo
‡2021(令和三)年12月22日(水) 135,828回視聴16:48 2022/01/06(thu)
#ザビートルズ_GetBack #ビートルズ #ピータージャクソン
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┃『ザ・ビートルズ:Get Back』┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛時空を超えた《ライブ・ビューイング・ショー》不朽の名曲「Get Back」(原点回帰/復活)に込められた意味とはいったい何なのか。未公開映像を含む 6 時間超の貴重なリストア映像によって構成されるオリジナル・ドキュメンタリー・シリーズをディズニープラスで見放題配信中!
https://disneyplus.disney.co.jp/program/thebeatles.html.html
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アップル本社の屋根の上にビートルズの最後のギグを停止した警官は「後悔していない」
引退したPCレイ・ダッグの人生の一日は、彼が英国で最も伝説的なバンドの白鳥の歌を解散するのを見ましたが、当時19歳だった男は、彼がちょうどそれをさせることができなかったと言います
‡2021(令和三)年12月22日(水) マーティン・フリッカーニュースレポーター
2021(令和三)年12月17日(金) マーティン・フリッカーニュースレポーター
写真◆ファブフォーの最後のギグは警察によって停止されました (画像: 配布資料)
ビートルズの最後のライブパフォーマンスを停止した元警官は、彼の行動を後悔していません。PCレイ・ダッグは、1969年にルーフトップのギグを止めるためにロンドンのアップル本社に送られたのはちょうど19歳でした。彼は、彼らが苦情の後にパフォーマンスを停止しなかった場合、バンドを逮捕すると脅しました - そして、Fab Fourは再びグループとしてライブを行うことはありませんでした。今、焦点は、新しいピータージャクソンシリーズゲットバックでレイに落ちています。これは、歴史的なギグを含むマイケル・リンゼイ・ホッグの1970年のドキュメンタリー「レット・イット・ビー」のためにキャプチャされた素材から引き出されます。現在72歳のレイは、「それはただの仕事で、このすべてに吹き飛ばされています。二度と一緒に遊ぶとは知りませんでした。
写真◆ビートルズのマネージャーマル・エヴァンスと話す中央のレイ
「少なくともどこかの映画には、PCレイ・ダッグがビートルズをシャットダウンしたことを永遠に示すものがあります。それが私の人生の永続的なイメージなら、それは悪いものではありません。レイの名声の瞬間は、彼らの最後のスタジオアルバムであるレット・イット・ビーに取り組んでいるバンドのジャクソンのディズニー+ドキュメンタリーに捉えられています。彼は交通混乱を引き起こしたサヴィル・ロウのギグを止めるためにPCレイ・シェイラーと一緒に送られました。
写真◆10代のボビーとしてのレイ
レイは植木鉢に隠されたマイクを見つけたことを思い出し、「私たちは撮影されているので、私たちは最高の行動を取る方が良いとシェイラーに言いました」と説明しました。将校たちはやがて屋根の上に乗り込み、ポール・マッカートニーが彼らを見つけるとニヤニヤしているのが見えた。
写真◆ファブフォーは二度と一緒に遊んだことがなかった
レイはバンドのマネージャーに、彼らが止まらない限り逮捕されるだろうと言ったが、彼は彼らが私有地にいるように振る舞うことはできなかった:「まあ、私はそれにはったりを走っていた」と言った。しかし、彼は彼の脅威に従っていただろうか?
写真◆ここに太陽が来る.バンドは二度とコンサートで見られなかった
https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/cop-who-stopped-beatles-last-25679618
Jimi Hendrix - Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
2009(平成21)年04月23日(木)
‡1967(昭和42)年12月22日(金)にオリンピア・ロンドンで開催されたイベント “クリスマス・オン・アース・コンティニュード (Christmas On Earth Continued)” に出演時の映像。曲は言わずと知れたビートルズのカヴァー「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。ジミはカヴァー曲を色々手がけていますが、例外なく自分色に染め上げてしまいますね。このビートルズ・ナンバーも原曲と歌メロを共有しながらもビートルズっぽさをほとんど感じさせず、ジミヘンの香りがプンプン!最初に聴いた頃に感じたビートルズ・ナンバーを演ることに対する違和感。しかし、それを払拭するのに時間が掛からなかったのは、この強烈な個性によるものだったのかも知れません。エクスペリエンスによる初演は、
1967(昭和42)年06月04日(日)のサヴィル・シアター公演。驚いたことに、ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発売したわずか3日後のこと。聴衆の1人としてこれを聴いたポール・マッカートニーが驚き感激したのは言うまでもありません。お馴染み1970年のワイト・フェスティバル。ワン・コーラスしか演っていなかったので取り上げにくかったのですが、ちょうどいい機会ですので・・・。むしろイギリス国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の方が貴重かな?
https://drfred.blog.fc2.com/blog-entry-310.html
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『SGT:PEPPER'S』が後世に与えた影響
2017(平成29)年06月12日(月) STORIES Written By Martin Chilton
こと実験性という意味においては、1967年以降現在までの半世紀の間に生まれたポピュラー・ミュージックの大部分が、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(以下『Sgt Pepper』)に借りがあると断言しても決して言い過ぎではないだろう。ザ・ビートルズのサウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、そしてカヴァー・アートにおける極めてユニークな冒険が、たちまちのうちに大きなインパクトをもたらし、英国の全レコード・リリース史上最大のセールスを記録するに至ったこのアルバムが世に出たのは、
1967(昭和42)年06月01日(木)のことだった。
1967(昭和42)年06月04日(日) リリースから僅か3日後、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターでのショウのオープニングを、(『Sgt Pepper』の)アルバム・タイトル曲のカヴァーで飾った。折しも客席に居合わせたポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはこの時、自分たちが何かとんでもなくスペシャルなものを作り上げたことを悟ったに違いない。それから5カ月も経たないうちに、ジェファーソン・エアプレインが、実験的な『Sgt Pepper』の影響色濃い『After Bathing at Baxter’s』をリリースする。これは彼らが同じ年にリリースしていた前作の『Surrealistic Pillow』とは全くかけ離れた作風のアルバムだった。ザ・ムーディ・ブルースもいち早く新たな音楽的視界の受け容れを表明したバンドである。67年11月、彼らがリリースした『Days Of Future Passed』はロンドン・フェスティヴァル・オーケストラの力を借り、ザ・ビートルズの影響を強く感じさせるサイケデリック・ロック/クラシック・サウンドを作り上げた。
1967(昭和42)年12月08日(金)には、ザ・ローリング・ストーンズが『Their Satanic Majesties Request』をリリースする。このアルバムは『Sgt Pepper』に対するシニカルなサイケデリック的回答と評価され、キース・リチャーズもこう認めている:「あれは、結局何とも中途半端なもんになっちまったな。ちょうどストーンズが新しいアルバムを出そうとしてた時に、『Sgt Pepper』が出てきて、要するに俺たちはあれのパロディーをやらかそうと考えたわけだ」。この他にも、ザ・ビートルズによって具現化されたアルバムには枚挙のいとまがなく、1968年のブリティッシュ・ロック・グループ、ザ・プリティ・シングスによる『SF Sorrow』から、一年後にはキング・クリムゾンが『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』で明らかにそれと分かるオマージュを捧げた。ギタリストでありプロデューサーでもあるロバート・フリップは、ラジオ・ルクセンブルグで耳にしたジョン・レノンとザ・ビートルズの他のメンバーたちに触発され、かの歴史的プログレ・ロック・アルバムを作る着想を得たのだそうだ。「『Sgt Pepper』を聴いてから、私の人生は一変したんだ」、ロバート・フリップはそう言って憚らない。ザ・ビートルズはカウンターカルチャーの価値観をメインストリームに持ち込んだ。“ロック・アルバム”かくあるべし、という伝統的な不文律を破ることで、『Sgt Pepper』は他のアーティストたちに、それまでになかった新しいアイディアとアティテュードによる音楽へのアプローチを促したのである。レコードのプロダクションにおいても、このアルバムは専門的技術と革新性において新たな基準となった。ザ・ビートルズのファースト・アルバム『Please Please Me』は、全曲を実に僅か1日、約10時間で録音完了させたものだったが、『Sgt Pepper』は1966年11月から1967年4月まで、トータル約700時間の作業(プロデューサーのジェフ・エメリック談)が注ぎ込まれていた。レコードが完成するまでレコーディング作業を続けるという考え方(ただ単にスタジオを数日借りるということではなく)は革命的なコンセプトであり、プロデューサーのジョージ・マーティンによれば、‘道具としてのスタジオ’の定義を見直すきっかけにもなった。結果としてアビィ・ロード・スタジオの使用料総額が、当時としてはケタ外れの25,000ポンドに達したのも当然の成り行きだろう。更に画期的だったのはマルチ・トラックを使っての録音作業で、ジョージ・マーティンはその利点を駆使して西洋の音楽とインド音楽、ジャズ、そしてサイケデリック・ロックやポップ(ヴィクトリア時代のミュージック・ホール《訳注:ヴォードヴィル的演芸要素を含む軽音楽劇》をたっぷりと加えて)との融合を図り、声とインストゥルメンテーションによるめくるめくサウンド・コラージュを作り上げた。ポール・マッカートニーは『Sgt Pepper』が音楽カルチャーに‘大いなる違い’をもたらした理由のひとつとして、それ以前は「みんなポピュラー・ミュージックの枠の中で、少しばかり無難な方に寄っていたんだけど、僕らはふと気づいたんだよ、別にそうする必要なんかないんだってね」と語っている。『Sgt Pepper』は時に、史上初のコンセプト・アルバムとして称えられることがある。これは必ずしも的を射た表現とは言えないが(ドラマーのリンゴ・スターは、アルバムには首尾一貫したテーマは存在しないことを公式に認めており、レコーディング作業開始直後のセッションから生まれた2つの名曲、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」はそれぞれシングルとして出すことを前提に録音されたものだったと証言している)、世の人々はかの作品を‘コンセプト’・アルバムと信じて疑わず、その定義はもはや音楽界の民間伝承と化しているのだ。ザ・ビートルズに影響を受けたバンドには、ジェネシス、イエス、ラッシュ、ジェスロ・タルまで含まれており、彼らの独創的なアルバムは、空前の“ロック・オペラ”熱をも巻き起こすきっかけとなった。驚異的成功を収めたザ・フーの2枚組アルバム『Tommy』(1969)も、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーによる『Jesus Christ Superstar』(1970)も、根元をたどれば『Sgt Pepper』という大木に行き着くのだ。ザ・ビートルズが変化の引金を引いたのは、何もロックの輪に限ったことではない。カーラ・ブレイはこのアルバムを聴いて、「これに負けないようなアルバムを作ってやる」と心に決め、それからの4年間を費やし、リンダ・ロンシュタットをフィーチャーして作り上げた前衛ジャズのトリプル・アルバム『Escalator Over The Hill』を1971年に世に送り出した。『Sgt Pepper』はまた、音楽上の第二の自我(ルビ:オルター・エゴ)という考え方を一般的に知らしめた。いつもの日常から一歩踏み出し、ステージの上やレコードの中では別のペルソナをまとっても差し支えないという発想は、「解き放たれたように感じさせてくれた」とポール・マッカートニーは言い、この冒険はやがてデヴィッド・ボウイやグラム・ロック時代のKISSをはじめとする多くのアーティストたちを巻き込んでいくことになる。もっとも、すべての人が『Sgt Pepper』を手放しで、何もかも超越した天才的作品と褒め称えたわけではなく、かのアルバムにインスピレーションを得て生まれた作品の中には、寧ろその逆に近い反応もあった。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションがヴァーヴ・レコードから1968年にリリースした『We’re Only In It For The Money』(*訳注:直訳すると「俺たちはただ金のためにやってるだけだ」)は、アルバム・カヴァーからして『Sgt Pepper』のパロディで、その政治的スタンスと、60年代後期のカウンターカルチャーの心臓部と思われていた、いかにもインチキ臭い“ヒッピー的”価値観を痛烈に諷刺した。ザ・ラトルズは『Sgt Pepper』ならぬ『Sgt Rutler’s Only Darts Club Band』というパロディ・アルバムを出し、子供向けTV番組の『セサミ・ストリート』までもが、‘With A Little Yelp From My Friends’という曲をレコーディングした。しかし、ザ・ビートルズがこのアルバムで切り拓いた新たな道は、実は音楽だけに留まらなかった。フロントの眩惑的なヴィジュアルは、アルバム・カヴァーがモダン・アート作品になり得ることを確信させたし、アルバムのパッケージの一部に全収録曲の歌詞をすべて完全な形で組み込んだ、最初のロック・アルバムともなったのである。マイケル・クーパーの撮影による写真では、バンド・メンバー全員が揃いのサテンのスーツ姿で、画家のピーター・ブレイクと彼の当時の妻ジャン・ヘイワースが制作したメイ・ウェスト、オスカー・ワイルド、ローレル&ハーディ、それにW.C.フィールズといった歴史上の人物たちの段ボールのコラージュの前に立っている。これは60年代サイケデリック時代全体を通じて、最も不朽のイメージのひとつだろう。『ザ・シンプソンズ』をはじめ、このカヴァーは愛情をこめて何百回と真似されてきた。2016年には、英国の芸術家クリス・バーカーが、レナード・コーエン、プリンス、フットボール選手のヨハン・クライフ等、同年惜しまれつつ亡くなった各界のスターたちをキャスティングした新たなヴァージョンを発表している。アルバム全体と同様、『Sgt Pepper』は曲単位でも数え切れないほど多くのカヴァー・ヴァージョンを触発している。特によく知られているのは♪Lucy In The Sky With Diamonds♪ エルトン・ジョン ♪With A Little Help From My Friends♪ ジョー・コッカー他、ハリー・ニルソン、ファッツ・ドミノ、ブライアン・フェリー、ジェフ・ベック、ソニック・ユース、アル・ジャロウ、ビリー・ブラッグ、そしてビリー・コノリーに至るまで、実に多くの優れたカヴァーが世に出ているのだ。20世紀の音楽の傑作に対するトリビュートは、1995年のスマッシング・パンプキンズの後も、世紀をまたいでなお続いている。カイザー・チーフスは1967年のレコーディング時にエンジニアを務めたジェフ・エメリックの手による2007年のトリビュート・アルバムのために、「Getting Better」のカヴァーを提供した。ブライアン・アダムスも参加したこの『Sgt Pepper』のニュー・ヴァージョンの録音に際し、ジェフ・エメリックはオリジナルのレコーディングで使用されたのと全く同じ機材を使っていた。アメリカのバンド、チープ・トリックは、2009年のライヴ・アルバムでフル・オーケストラをフィーチャーしたヴァージョンを披露し、更に2011年にはアメリカ人ギタリストのアンディ・ティモンズが、1970年に別のザ・ビートルズのアルバム、『Abbey Road』の全曲カヴァーを出した例に倣うように、全曲インストゥルメンタルのカヴァー・アルバムを出している。『Sgt Pepper』が何故こんなにも絶大な影響力を持っているのかを恐らく最も的確に総括してくれるのは、ロジャー・ウォーターズの言葉だろう。ピンク・フロイドの1973年の名作『The Dark Side Of The Moon(狂気)』の構想に、このアルバムがいかに大きな役割を果たしていたかについて、彼はこう説明している:「俺はレノン、マッカートニー、そしてハリスンから、俺たちの人生について書いてもいいんだ、感じたままを表現していいんだと教わったんだ ……あれは他のどんなレコードよりも、俺と俺の同世代たちに、思い切って既定路線を外れて、何でもやりたいことをやっていいんだって許可を与えてくれたんだよ」。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
音源◆The Beatles - The Evolution of Strawberry Fields Forever https://youtu.be/ZW61Qn97DXM
September
‡22 December 1966
One of The Beatles' undisputed masterpieces, Strawberry Fields Forever was written by John Lennon and first released on a single along with Penny Lane. Lennon wrote the song in Almeri-a, Spain in autumn 1966, while filming his role as Private Gripweed in the Richard Lester movie How I Won The War. He later described Strawberry Fields Forever, along with Help!, as "one of the few true songs I ever wrote... They were the ones I really wrote from experience and not projecting myself into a situation and writing a nice story about it."
Music: (all excerpts)
- It's Not Too Bad (Warm Up)
- It's Not Too Bad (Take 5 & 6)
- Guitar Overdub Demo
- Vocal Overdub Demo
- Mellotron Overdub Demo
- Electric Demo (Takes 2 - 5)
- Studio Take 1
- Studio Take 2
- Studio Take 4
- Studio Take 6
- Studio Take 7
- Studio Take 25
- Studio Take 26
- Final Version
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┃ ♪MY BONNIE♪ ┃
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1961(昭和36)年12月21日(thu) Recording
‡1961(昭和36)年12月22日(fri) Recording
1962(昭和37)年01月05日(fri) Released
2018(平成30)年12月19日(wed) Released『UK Chart Top 100』No.48
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https://en.wikipedia.org/wiki/My_Bonnie
https://music.amazon.co.jp/albums/B07MCYDS11
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話は15年近く前に遡ります。「週刊女性」という典型的女性週刊誌の「誌上お宝鑑定団」という“いかにも”な企画に、当店の高額レコード買取額が紹介されたことがありました。ヤラセではないのですが、こういう場合結構金額的にも勢いがつくようで、「マイ・ボニー・ツイスト」は“買い取り価格70万円・売り価格150万円”となっております。週刊誌の特性からしても、高額であればあるほど話は盛り上がるのでしょう。ちょうどおりしも「何でも鑑定団」というTV番組がスタートしたばかりの頃のこと。大手の週刊誌であることには違いありません。とんでもない反応でした。発売された直後は、一日に50件近く問い合わせの電話があったでしょうか。特に最高買取額80万円の「ベスト・オブ・ザ・ビートルズ」には、女性ならではの凄まじい反応が。「2枚持ってますよ!」案の定、聞けば「赤盤」「青盤」のベスト盤2枚のこと(そんなものが100万以上で売れるなら、こんな商売誰でもやりますよ)。ヒステリックに反応した女性に罪はありません。FAXで送った買取表にちゃんと明記して強調しておいた、発売中止盤のレコード番号<OP-7177>を掲載し忘れた週刊誌側のミスでした。そんなドタバタの対応でバテバテが続いてる中、若い女性から一本の電話が。
「父親が持ってた古そうなビートルズのレコードが3枚あるのですが・・。」
「あっ、そうですか。帯って分かりますか?」
「ハイ、分かります。」
「ついてますか?」
「はい、ちゃんとついてます。」
「色は何色ですか?」
「白いです。」
あっ、この娘(こ)は間違いなく歌詞カードのことを帯だと思っている。
「白?、青ってことはないですよね?(精一杯の期待と皮肉を込めて)」
「いいえ、白いです。」
「分かりました。で、値段はいくらになってますか?」
「1500円です。」
「1500円・・。じゃあ結構古いですね。・・・。1500円、1500円。 !!!! あの~ォ、その帯って、ひょっとして巻いてなくて下の方で切れてませんか?」
「はい、切れてます。」
「切れてるんだ!切れてるんだ!!切れてるんだ!!! 」
思わず3枚分連呼してしまわずにおれない僕がそこにいました。(ウソ)
あの夏ヴィトンのバッグをいっぱい買い込んだ(?)女性は、今でも父親への感謝を忘れずにいるだろうか。
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http://thisboy1994.blog47.fc2.com/blog-entry-56.html
http://www.thisboy.co.jp/liverpool10.html
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┃ 『LIFE』 ┃1969(昭和44)年12月22(mon)日号
┗━━━━━━━━┛「激動と混乱の歴史'60年代」の大特集号。60年代を総括した内容です。とてもお勧め!!ビートルズもかの有名な写真で大々的に登場。やはり歴史の一部なのですね!69年当時価格は250円だったのです!!
http://www.beatle-japan.com/shop/126_ar.html
音源◆The Beatles - Live At The Star☆Club, December 1962 https://youtu.be/eJbAMYcNxbE
The Star☆Club, Hamburg (Germany), December 1962 The Beatles at The Star Club concerts are the earliest known complete live concerts of The Beatles. The recordings were made by the Star-Club's stage manager Adrian Barber, during The Beatles' third and final residency at the venue. Barber used a 3?" per second Grundig home tape machine to record the group, with a single microphone placed at the front of the stage. Although commonly believed to have been recorded on New Year's Eve 1962, the songs were actually taped on more than one night during the residency, which took place from 18 to 31 December 1962. The Beatles' early booking agent, Allan Williams, claimed that around three hours of performances were recorded between Christmas and New Year's Day.
Track Listing:
01. I Saw Her Standing There [0:00]
02. I'm Going To Sit Down And Cry [2:36]
03. Roll Over Beethoven [5:20]
04. The Hippy Hippy Shake [7:34]
05. Sweet Little Sixteen [9:21]
06. Lend Me Your Comb [12:06]
07. Your Feet's Too Big [13:55]
08. Where Have You Been All My Life [16:15]
09. Twist And Shout [18:01]
10. Mr. Moonlight [20:05]
11. A Taste Of Honey [22:29]
12. Besame Mucho [24:25]
13. Everybody's Trying To Be My Baby [26:34]
14. Kansas City/Hey-Hey-Hey-Hey! [29:33]
15. Nothin' Shakin' (But the Leaves on the Trees) [32:05]
16. To Know Her Is To Love Her [33:33]
17. Little Queenie [36:47]
18. Falling In Love Again [40:51]
19. Sheila [42:53]
20. Be-Bop-A-Lula [44:55]
21. Hallelujah, I Love Her So [47:22]
22. Ask Me Why [49:31]
23. Red Sails In The Sunset [52:08]
24. Matchbox [54:55]
25. I'm Talking About You [57:39]
26. Shimmy Like Kate [59:40]
27. Long Tall Sally [1:01:56]
28. I Remember You [1:03:43]
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┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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1962(昭和37)年12月22日(土) ライヴ演奏:スタークラブ/ハンブルグ (05日目)
ビートルズのドイツ・ハンブルグへの遠征は5回目、そしてこれが最後のものとなる。過去においては1960年8月~11月にインドラ・クラブ (Indra Club) とカイザーケラー (Kaiserkeller)、1961年4月~6月にトップ・テン・クラブ (Top Ten Club)、1962年4月~5月と11月にスター☆クラブ (Star-Club) に出演していた。スター☆クラブはドイツ・ハンブルグのセント・パウリ (St. Pauli) 区のグローセ・フライハイト (Grosse Freiheito) 39番に、
1962(昭和37)年04月13日(金)に開店している。カイザーケラー (Kaiserkeller) で用心棒を努め、後にトップ・テン・クラブ (Top Ten Club) に引抜かれたホルスト・ファッシャー (Horst Fascher) が、マンフレッド・ヴァイスリーダー (Manfred Weissleder) と共同経営者で、ホルストとビートルズは親友であった。
1962(昭和37)年12月31日(火)までのこの滞在中、クリスマスの夜を除く13日間で演奏時間は延べ39時間となった。彼らは1周間一人当たり750ドイツマルク (67ポンド) の報酬を受け取った。
1962(昭和37)年12月までにビートルズのイギリスでの業績は確実に上昇の波に乗っていた。彼らのデビューシングル『Love Me Do』はヒットチャートで好成績を上げ、それに続く2枚目のシングル『Please Please Me』もすでにレコーディングを完了していた。またブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) のマネージメントは、長い間欠けていたプロ気質を彼らに与えた。彼らのイギリスでの評判が急速に高まっていたため、彼らはこの契約義務の履行に気が乗っていなかった。故郷では自曲をヒットチャートに乗せ、ライヴショーでの名声、TVやラジオ番組への出演などを彼らはを楽しんでいたのであった。彼らがハンブルグやその人々に対して持っている親愛にもかからわず、今やこの町が彼らのキャリアに貢献できることはほとんど無くなっていたのである。このドイツ滞在中に録音されたビートルズの演奏が、1977(昭和52)年に2枚組の『Live! at the Star-Club in Hamburg, Germany; 1962』でリリースされている。これはスター・クラブのステージマネージャー、エイドリアン・バーバー (Adrian barber) が、ミュージシャンのテッド・キングサイズ・テイラー (Ted 'Kingsize' Taylor) の要請により録音したものである。バーバーはグルンディッヒ (Grundig) の家庭用オープンリール・テープレコーダーと1本のマイクを使った。一般的には
1962(昭和37)年12月31日(火)の演奏の録音と受け止められているが、クリスマスから大晦日にかけての複数日の録音が混在している可能性が高いという。
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http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621218-2_live_StarClub.html
写真集◆http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621231_Hamburg_photos1.html
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┃ THE BEATLES HISTORY ┃|December 22|356
┃ ザ・ビートルズの今日の出来事 ┃|12月22日|
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1963(昭和38)年12月22日(日) 2日後にスタートする「ビートルズ・クリスマス・ショー」のプレビューがリヴァプールのエンパイア・シアターで行われた。前日にもブラッドフォードのゴーモント・シネマでプレビューが行われており、どちらもステージ演奏のみでコントなどの余興は行われなかった。
1964(昭和39)年12月22日(火) ロンドンのハマースミス・オデオン・シネマで「アナザー・ビートルズ・クリスマス・ショー」のリハーサル。BBCのテレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』のプロデューサーであるジョニー・スチュワートはカメラ・クルーを派遣し、短いインタビューを撮影している。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17224
http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/012/1222.html
https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15585988.html
http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
楽曲資料https://beatlesdata.info/
歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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┃ THE BEATLES of 1963 ┃(thu)11 April
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Concert:Co-operative Hall, Long Street, Middleton, Lancashire
Photo◆The Beatles with promoter Barry Chaytow
"ON THURSDAY 11th April 1963, four Liverpool lads, all in their early 20s, brought a touch of Tin Pan alley stardust to Middleton.
For well over an hour in the Co-op Hall, Long Street, 300 screaming teenagers jived and twisted to the bouncing rhythm of beat ballads being performed by The Beatles.
The music was deafening and the record fans were keyed up to a fever pitch. Almost hysterical enthusiasm hit you in the face as you walked in, but promoter Barry Chaytow had taken great care in making sure that if his patrons did not get over-excited there were sufficient "bouncers" to take care of the trouble.
He could have saved himself a great deal of expense in that direction, because they were not needed. The teenagers were there to see and hear The Beatles and everything else became secondary.
The boys and girls certainly got their money's worth. This group which turned professional almost as soon as it was formed two years ago has carved itself two unforgettable niches in the charts with Love Me Do and Please, Please Me.
Though their earlier work was confined to backing other artists on the Continent, they have now earned a place in show business with their undeniable talent and unassuming manner.
Perhaps one of the reasons for their success is the fact that most of their work is completely original and they seem to have an almost inexhaustible supply of new material. For instance, their first LP just issued has on it eight numbers which have been written by members of the group.
The group is one tightly knit one. Drummer Ringo Starr joined in the August last year, but the others are original members. George Harrison, lead guitar, and Paul McCartney used to go to the same school and John Lennon is Paul's next door neighbour.
The four Beatles came off the stage pouring in sweat. They were cheerful and cracking jokes with each other as though two years of one night stands was all in day's work for them, which of course it was.
They ran the inevitable gauntlet of autograph hunters as they tried to wind down and get changed in time to get back to Liverpool for a well earned rest.
Inside the hall the teenagers were still going strong to the music of Shaun and Sum People. Out of their dramatic maroon suits piled in after it, got comfortable and passed round the cigarettes.
Less than 30 minutes after facing a crowd of perspiring fans The Beatles were still a group, but this time just another group of homeward bound travellers on the Liverpool road."
Source: Middleton Guardian
"A month before signing their contract the Country Gents and another local group, Mr Smith and Sum People played support to an up-and-coming Liverpool band at Middleton's Co-op Hall. Booked by local impressarios Barry Johns Promotions (Barry Chaytow and John Dean) the Beatles played before a sell out crowd of 300 enthusiastic fans on Thursday 11 April 1963."
‡Source:(mon)22 December 2008『Manchester Evening News』
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http://www.multiplusbooks.com/630411.html
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┃ TV & Radio 1964(昭和三十九)年 ┃
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収録日 放映日 番組名 放送局
‡12/22 12/24『Top Of The Pops '64』BBC1 ※インタビュー
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◆URLなし◆
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1966(昭和41)年11月24日(木)|「スタジオ時代」の幕開け
|2007(平成19)年11月22日(木)|甲虫日記更新日 No.013
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1966(昭和41)年12月22日(木)、録音開始から丸1カ月がたとうとしていた。曲のつなぎ目が知られるようになったのは、CD化された80年代後半からのことだ。曲の頭からちょうど60秒のところにある。ビートルズ研究家のマーク・ルイソンはこうも忠告する。「いったんその位置がわかったら、この曲は二度と同じようには聴こえなくなるだろう」曲づくりもさることながら、ジョンの子ども時代の思い出と重ね合わせて、この叙情詩の世界を探ることも興味深い。何しろジョンはこの曲で「自分自身を表現しようとした」とインタビューに答えているからだ。
歌詞のなかに♪No one I thinkis in my tree 誰も自分の「樹」にはいない♪とある部分は、子どものころから「自分みたいにヒップなやつはどこにもいなかった」「ぼくは狂人か天才のどっちかだった」と「感じていた」ことを指すという。次に歌詞は「I mean it must be high or low」(高すぎるか低すぎるせいだろう)と続く。「きっと自分には何か問題があるからだと思っていた。異常なうぬぼれ屋なんだと思ったね。人に見えないものが見えるんだから」
ジョンは、ストロベリー・フィールドのゴシック的な建物の壮麗さと森の神秘性に魅せらていた。そこは自分が1人きりになれる場所で、自由に想像力の翼をはばたかせことができた。そして自分は周りのみんなと違っている、という自意識のシンボルになっていたのだろうか。
音楽ジャーナリスト、スティーブ・ターナーは、「彼独自の世界観を表現した曲だとするなら、『自分と波長があう人間はひとりもいない、みんな高すぎるか低すぎる』と書かれていた初期の歌詞の方が伝わりやすかったはずだ」と指摘する。歌詞の意味をわざとぼかしたのは、「気取っていると思われるのを嫌ったためだろう」とも。
ニューヨークのセントラル・パークにあるジョンの慰霊碑は、ジョンの最高傑作に敬意を表して「Strawberry Fields」と呼ばれている。
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/071122.html
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┃ THE BEATLES on film and television 1963 ┃
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1963/11/20(wed) recorded 『The Beatles Come To Town』is a mini-documentary filmed this day by Pathe News. The eight minute colour film includes 'She Loves You' and 'Twist and Shout' from the show at the ABC Ardwick in Manchester.
‡1963/12/22(sun) broadcast ABC-TV the concert at the Ardwick Apollo, Manchester
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http://www.beatlesource.com/TV/index.html
http://www.tvtalkin.esy.es/fab4tv/1963.htm
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‡1963/12/22 Recording of Christmas edition of『Thank Your Lucky☆Stars』
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┃ THE BEATLES Live 1962 ┃
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‡(sat)22 December 1962 Hamburg, Germany, Star-Club ?(18~31 December 1962)
写真◆http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621231_Hamburg_photos1.html
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┃ BRIAN EPSTEIN Presents 1963 ┃
┃ THE BEATLES Christmas Shows ┃
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No.01 (sat)21 December 1963 Bradford, England, Gaumont
‡No.02 (sun)22 December 1963 Liverpool, England, Empire Theatre
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https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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参考パンフ■https://www.tracks.co.uk/product/b24472-the-beatles-19631964-christmas-show-programme-uk/
参考パンフ■https://www.tracks.co.uk/product/b23624-the-beatles-19631964-christmas-show-programme-uk/
参考パンフ■https://www.tracks.co.uk/product/b23788-the-beatles-19631964-christmas-show-programme-uk/
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛Studio 2
┛THE BEATLES 1967 Mono mixing ┛7:00-11:30pm
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ remix 10,
┃ ♪Strawberry Fields Forever♪ ┃from take 7 and remix 11,
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛from take 26
No.7 ■レコラス(ト)?■ジョンはマーティンに「よく考えてみれば前のバージョンのシンプルなのもいいね。始めの部分だけに前のテイクをつなげて使うってできないかな?」と相談する。マーティンは「キーもテンポも違うんだから無理だよ」と答えたんだが、ジョンは「君ならできる!」と言い切ったそうだwマーティンはこの無茶ブリに対応するために頭を働かせた。そして11月29日の第7テイクを速度を上げて、12月15日の第26テイクの速度を下げればキーもテンポも一致する事が判明したのである。このつなぎ目は曲が始まって60秒、「Let me take you down, 'cause I'm going to」の、「I'm」と「going」の間。ドラムがフィルの途中なのに音質が変わり、そしてポールのベースがここからなくなる。この様に、すでにビートルズのレコーディングは複雑怪奇なものに変貌していたのである。これも「音」を追求するが故の行動なのだろうか。
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┛THE BEATLES 1967 Editing ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00-11:30pm
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┃ ♪Strawberry Fields Forever♪ ┃of mono remixes 10, 11,
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛edit numbered remix 12
Producer: George Martin
Engineer: Geoff Emerick
2nd Engineer: Phil McDonald
Martin and Emerick join the two ♪Strawberry Fields Forever♪ versions
‡1966(昭和41)年12月22日(thu)
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https://beatlesdata.info/9/08_strawberryfieldsforever.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Strawberry_Fields_Forever
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音源◆The Beatles At Home- Sgt. Pepper Era (1966/67) https://youtu.be/7Sytq8zx2Zg
‡November 1966
Strawberry Fields Forever (Electric Take 1) [3:49]
Strawberry Fields Forever (Electric Take 8) [4:19]