過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOmeだヨ(=^◇^=)O♂

 映像◆真実から目を背けるな!知らぬが仏となる! 坂の上 零 氏、杉田穂高先生(アメノウズメ塾) https://youtu.be/vp4FuaqxOIU
 2019(平成31)年01/09 に公開
 ◆日本の世界一◆
 子供の少なさが世界一
 若者の自殺率がが世界一
 奇形児の出生率が世界一
 寝たきりが世界一
 精神科の病床数が世界一
 国の借金が世界一
 農薬使用量が世界一
 食品添加物の種類が世界一
 遺伝子組み換え作物が世界一
 ダイオキシン排出量が世界一
 水道水の塩素濃度が世界一
 電磁波を浴びる量が世界一
 放射能汚染が世界一
 家事・育児をしない夫の人数が世界一
 

北方四島は日本に戻るはずだった!!
五井野教授の北方四島返還計画をロシア政府が推し進めていたのに…
 3月11日の鈴木宗男議員の証人喚問で友好の家(ムネオハウス)など北方四島支援事業の疑惑に対し、鈴木議員は北方領土返還運動のためと主張したが、しかし次々と北方領土返還不要とも言うべき発言が外務省のメモで明らかにされた。
  そして鈴木議員、佐藤優氏等の妨害がなければ北方四島は日本に戻ったかも知れないという新事実を、「あおぽ」は日ロ双方の取材により情報をキャッチしたのである。
  つまり1997年11月、クラスノヤルスクでの橋本首相(当時)とエリツィン大統領(当時)の日ロ首脳会談で具体的に北方四島返還の話が出たという秘情報が飛び込んできたのだ。
北方領土は日本に返還される可能性があった!
 ロシア会談の公式な発表では、北方四島に日ロ双方の資本投資による経済協力プラン(エリツィン・橋本プラン)が決められ、燃料エネルギーに始まり宇宙事業にまで及んだ内容である。
  ところが、この非公式会談の裏には、北方領土が日本に返還される可能性があったという真実が隠されていたというのだ!
  それは本誌300号で紹介した歌川正国こと五井野正教授の提案する北方四島10年後返還という提案書(ウイッピータイムス9号に全文掲載)にそって、日ロ平和条約締結と同時に北方四島に年間2千億円、10年間で2兆円を投資して、宇宙事業を含む日ロ文化・観光共同事業となる北方四島芸術の島造り計画が、水面下で進められていたという話である。
  この五井野教授の提案書とは平成8年11月26日、日本で開催された日ロ国交回復40周年記念式典の会議で、ロシア側代表団7名に対して三塚博大蔵大臣(当時)、桜内義雄元衆議院議長ら出席の日ロ記念会議に特別ゲストとして同席した五井野教授が、その会談後に日ロ平和条約の締結と北方四島領土問題解決の提案書を日ロ双方に提出し、その後、この提案書はプリマコフ外務大臣(当時)、ロシア国会下院議長、そして五井野教授独自のルートでエリツィン大統領にも渡され、日・米・ロの300の提案の中で最高の提案と絶大なる評価を受けたのである。 ロシア会談の公式な発表では、北方四島に日ロ双方の資本投資による経済協力プラン(エリツィン・橋本プラン)が決められ、燃料エネルギーに始まり宇宙事業にまで及んだ内容である。
  ところが、この非公式会談の裏には、北方領土が日本に返還される可能性があったという真実が隠されていたというのだ!
  それは本誌300号で紹介した歌川正国こと五井野正教授の提案する北方四島10年後返還という提案書(ウイッピータイムス9号に全文掲載)にそって、日ロ平和条約締結と同時に北方四島に年間2千億円、10年間で2兆円を投資して、宇宙事業を含む日ロ文化・観光共同事業となる北方四島芸術の島造り計画が、水面下で進められていたという話である。
  この五井野教授の提案書とは平成8年11月26日、日本で開催された日ロ国交回復40周年記念式典の会議で、ロシア側代表団7名に対して三塚博大蔵大臣(当時)、桜内義雄元衆議院議長ら出席の日ロ記念会議に特別ゲストとして同席した五井野教授が、その会談後に日ロ平和条約の締結と北方四島領土問題解決の提案書を日ロ双方に提出し、その後、この提案書はプリマコフ外務大臣(当時)、ロシア国会下院議長、そして五井野教授独自のルートでエリツィン大統領にも渡され、日・米・ロの300の提案の中で最高の提案と絶大なる評価を受けたのである。
医学分野においても世界から注目の五井野教授・20世紀のレオナルド・ダヴィンチと評価!!
 平成11年からデンマーク・コペンハーゲン大学でGPによるガン細胞及びマウス実験が開始され、驚異的効果を得たとしてデンマークのトップの新聞ポリチケン紙が第一面で掲載、国営ラジオも何度も報道、さらにヨーロッパでも報道された事から、五井野教授は旧ソ連邦の国々だけでなく、ヨーロッパ諸国でも注目を集めている。
  また翌12年の7月には、デンマークの医薬品安全局から自然薬では難しいとも言われた治験医薬品に認可登録され、同年11月頃からGPによる臨床試験がコペンハーゲン大学の中央病院で開始された。
  コレステロールや糖尿病にも驚くべき結果が出たので、その成果は昨年9月9日から米国・ニューヨークで開催された第14回脂質代謝国際医学シンポジウムで、GPの優れた効果が公開発表されたのである。
  この国際医学シンポジウムにはファイザー製薬やバイエル等の世界の強大な国際医薬企業がズラリと並び、そして米国心臓学会や欧州動脈硬化協会など有名な学術団体が協賛しており、GPの発表データ表が瞬く間に無くなるほどの注目を集め、後日にはヨーロッパの大手製薬会社や保険会社など数社から申し入れが相次いだ。
 このように五井野教授は医学分野においても天才的才能を発揮し、世界から注目を集めているが、実は、平成8年エリツィン大統領の心臓病の容体が悪化した時、最後の頼みとして大統領府からGPが極秘に要請され、その為、五井野教授は極秘でモスクワにロシアの特別VIPとして出向き、エリツィン大統領側近にGPを渡した事から、エリツィン大統領との深い信頼の絆が生まれたと言われている。
  その後のエリツィン大統領が奇跡的に政治復帰したという事実は、世界の人々の知るところだろう。
  さらにクレムリン病院で別の重病の心臓病患者(大統領経済顧問)をGPによって奇跡的に治し、心臓のバイパス手術が中止になったほど健康を回復させ、ロシア医学界からも注目を浴びているのだ。
  また五井野教授は平成7年にサンクトペテルブルグのソプチャック知事(当時)と会談し、911(民間救助機構)の必要性と設立を呼びかけ、平成8年当時、副知事だったプーチン現大統領と協力して911を設立させている。
  また五井野教授は平成7年9月にアルメニア大統領から在日アルメニア名誉領事に任命されたが、日本外務省内で五井野教授の活躍を良しと思わない組織の妨害が起き、平成8年以降に日本外務省名を語って五井野教授を虚偽の中傷で、アルメニア外務省に無礼な拒否行動を起こす等の事件が起きた。
  それに驚いたアルメニア大統領はエリツィン大統領に相談すると、エリツィン大統領はこの妨害組織団体をカルトと認識して、ロシアから排除する為の法案制立のきっかけにまでなったと言われている。
  この五井野教授の在日アルメニア名誉領事就任妨害事件によって、アルメニアだけでなく、エリツィン大統領と日本の外務省との信頼関係さえも失われる事になった。
  そしてロシア大統領府は、五井野教授を日本外務省が認めなくても、今もアルメニア名誉領事の様に対応評価しているという事で、またアルメニアにおいても、つい最近でも政府系新聞に五井野教授について大きく特集されている位のヒーローなのである。
  つまり、北方四島はソ連からロシアに移属したが、ソ連邦解体後においても旧ソ連邦のロシア、ウクライナ、アルメニア等の国々が集まってCISが結成され、北方四島返還は道義的にはCISの問題ともからんで、そのCISの国々から20世紀のレオナルド・ダヴィンチと評価されている五井野教授の提案だからこそ、ロシア側は受け入れられるという話もあるのだ。
  それは日ロ40周年記念式典のロシア一行団事務局長のエリョーミン氏が「クリル4島(北方四島)はあの日本人には返さないが、五井野教授なら返そうと言うのが、ロシアの考え方だ」
と五井野教授に語ったと言われている事からも理解される。
(左から)
■総理大臣官邸で、コチャリン大統領との首脳会談を行う小泉元総理
■平成13年12月19日(水)から22日(土)までの公式実務訪問賓客として、随員とともに日本を訪問するアルメニア共和国ロベルト・コチャリン大統領とともに、飛行機で日本へ向かう五井野教授・博士
■平成7年9月、アルメニア大統領(右)と会談し在日アルメニア名誉領事に任命され、日本外務省に公式に通達された。
 その様な流れの中で、平成9年1月に北方四島問題で一番ネックといわれるロシア国会内の地政学委員会で五井野教授が演説する事になった。
  成田を発つ前日に、外務省筋の重要人物と会い、五井野教授はロシア国会では北方四島に10年間にわたって総額1兆円の投資を述べるが、日ロ平和条約締結の段階までに金額がどんどん上乗せられる事も考えて、最終的にどの位の金額まで日本が出せるのかと話し合った結果、2兆円まで可能という確約を得て、ロシアに向かった。
  ロシア国会は始めから北方領土返還には一切応じないという厳しい意見が飛び交う中で、五井野教授が北方四島の芸術の島計画の提案を述べると雰囲気はガラリと変わって、委員会のメンバーから拍手喝采を浴び、特にブルブリス副委員長・元国務長官は興奮して、あらかじめ予定した原稿を読まないで、五井野教授を称賛し、最後に「これからは民間平和条約で話を進めてゆこう」と五井野教授の提案を支持して、会議は終了したという事である。
  その後、同年3月4日付けでロシア国会外務委員会のルキン委員長から五井野教授宛に、公式に五井野教授の提案を支持する文章が送られた。
 そして、同年6月にはエリツィン大統領もロシアのTVニュースで、この五井野教授の北方四島を日ロ両国で芸術の島として文化的、平和的に管理するという具体的提案を高く評価する発言をしたのだ。
  同年10月2日CIS加盟国のベラルーシ出身でベラルーシ大統領とも親しく、ロシアのジュコフスキー宇宙空軍アカデミー総裁で宇宙飛行を3回経験したコバリョノク空軍大将が五井野教授の招待で来日し、小渕外務大臣等と会い、長野県大町市にあるウイッピー総合研究所と歌川派門人会本部を訪れた。
  この頃の日本の状況として、週刊文春の平成14年3月7日号では鈴木議員が平成9年秋に「北方領土なんて返って来たら迷惑だ。30兆もの資金をつぎこまなければならないが、それだけの見返りはない」と発言したという事が掲載されている様に、五井野教授の提案に否定的な意見が政府の中にもあった。
  しかし、それよりも問題なのは、この頃五井野教授が何度も拉致されそうになったという事件が続出した事にある。
 そして平成9年11月クラスノヤルスクでのエリツィン・橋本会談が行われた。その後すぐに、特使としてブルブリス元国務長官が五井野教授の招待で同年11月22日に来日した。
  このブルブリス元国務長官に、モスクワで執拗に五井野教授の虚偽の中傷を述べて、ブルブリス議員の訪日を止めようとしたのが、あの佐藤前主任分析官なのだ。
  しかし、ブルブリス議員は佐藤前主任分析官の言動を疑い、逆に五井野教授を信じて来日した。
  来日前に五井野教授は野呂田日ロ議員連盟事務局長と会って、国会議員20~30名位がウイッピー総合研究所主催のブルブリス元国務長官歓迎パーティーに出席してもらえる手はずを整えたのだが、鈴木宗男議員等が根回しして妨害したそうで、結局、亀井元建設大臣だけが出席、さらに橋本首相(当時)にもブルブリス議員が首相に会いたがっていない等の虚偽を述べて、首相との会談が実現されなくなったという事で、これによって北方四島返還のシナリオが次々と壊され始めたという事である。
  つまりブルブリス元国務長官は五井野教授の北方四島の提案の実現化に向けて、日本政府側の下ならしに来たという事であり、帰国すれば第一副首相の座が約束されていたと本人が語っていた様である。
  ロシア側は日本でのクラスノヤルスクに続く日本での非公式会談場所を長野と希望していた。
  つまり長野県大町市には五井野教授主宰のウイッピー総合研究所があり、そこを在日アルメニア名誉領事館と希望したい旨を、アルメニアや日本外務省に知らせていたからである。
  ところが日本側の意向は始めは北海道を希望し、後に静岡県川奈となったが、長野県をはずすなど、ロシア側の提案とは逆に北方領土は返らなくてもいいから始めに国境線を引き、前倒しで2千億円(当時のレートで14億ドル)出すなどの逆提案を出した様である。
  エリツィン大統領は訪日の前に、この様な日本側の意向を受けたチェルノムイルジン首相を解任して、ロシアの法律にのっとり、首相不在の時は大統領は国外にでてはいけないという規定から川奈会談をボイコットしようとしたのではないかとも言われている。
  そこで五井野教授は大統領府に同行の取材記者と共に呼ばれ、
 「エリツィン大統領は間違いなく長野のあなたのところへ行く予定だった」
と述べ、エリツィン大統領は五井野教授の10年後返還の提案を非公式会談という形で橋本総理と共に支持する計画を描いていた事を知らせてくれた。
 それに対し、五井野教授は日本側に悪質な妨害があり、その過程で日本側が示した前倒しの金額の話に関しては新聞に載った位だから確実であると言い切った。
  そこで大統領は五井野教授を信用して、非公式な形で静岡県川奈に行く事になったのではないかと同行記者が語る。
  そして川奈において橋本総理から国境線画定の逆提案が出され、エリツィン大統領はこの提案を面白いと述べモスクワで回答を出すと約束した。
  しかし、その後、橋本総理は総理の座を降りて故小渕恵三議員が日本の首相として25年ぶりにモスクワを訪れる事になるが、舞台は公式会談となった為に、日ロ双方の互いの立場を表明するだけとなり、北方四島返還交渉は難航し始めた。
  1999年12月に北方四島問題解決は、日本側の妨害組織団体がある限り不可能と考えた五井野教授はエリツィン大統領に、「北方四島10年後返還」提案は断念してよい旨の文章を送り、その二週間後位にそれに呼応するかの様にエリツィン大統領は大統領を辞職した。
  つまり、「北方四島問題を両国の友好の橋として解決して、日ロ平和条約を締結する事がエリツィン大統領の夢として、最後の仕事として肉体的な限界を超えて、がんばっていた。しかし、その夢も消えたから…」と五井野教授は心情的に語ってくれた。
  その後、鈴木宗男議員の「二島先行返還」が外務省の方針となって大きく舵を切るのである!
戦後50年の外交努力は経済バブルと同じく消えた…。
 以上の事実を日本国民が聞いたら驚くような、信じられない話であるが平成13年12月20日鈴木宗男議員を招いた懇談会において聴衆の一人から「北方四島は金で買えないのですか」と質問されたとき、鈴木議員は、以前は1兆や2兆で買い取る事は出来たかも知れないが今は無理という返答を行った。
  具体的な金額がピッタリ一致する返答の言葉の中に、北方四島が戻ってきた可能性を鈴木宗男議員が皮肉にも肯定している事実が読みとれるのである!
  いみじくも鈴木議員は、北方四島支援事業において北方四島返還のためと主張していたが、今回の鈴木宗男スキャンダルによって日ロ双方は仕切り直しをせざるを得なくなり、田中、ブレジネフ会談(1973年)の成果さえも失い始め、戦後50年の日本政府の外交努力は日本経済のバブルと同じ様に消えた。その後遺症は日本経済と同じ様に、共にずっと続くのだろうか?!
  それゆえ、鈴木宗男議員は結果的に見る限り北方四島を買うことに努力するよりも、売ることに努力していたのではないかという疑惑がここに新たに生まれ、今、国民の前で売国者として裁かれているのではないだろうか?!
五井野 正 (ごいの ただし) 科学者・芸術家
ウィッピー総合研究所 所長 / ロシア国立芸術アカデミー名誉正会員
スペイン王立薬学アカデミー会員 / アルメニア国立科学アカデミー会員
フランス芸術文化勲章受章 
http://www.aopo.net/goino/vol305-g.html

 

 

 緊急事態宣言解除で再開したパチンコ業界が「6月6日」を不安がるワケ 
 2020(令和二)年06月04日(木) 08:33 ハーバー・ビジネス・オンライン
 <取材・文/安達夕>【安達夕】Twitter:@yuu_adachi
 写真◆HARBOR BUSINESS Online 提供 ※写真と本文は関係ありません yamahide / PIXTA(ピクスタ) 
■営業再開もパチンコ業界の顔は晴れず ⇒ コロナ禍における政府の緊急事態宣言が解除され、「新しい生活様式」という名のもと人々は第二波に危機感を抱きつつも日常を取り戻すための生活を始めた。自治体の自粛要請により休業を余儀なくされた多くの企業や店舗も、感染対策に気を配りながら活動、営業を始めている。多分に漏れず、全国のパチンコ店も営業を再開し始めている。パチンコ業界では、緊急事態宣言の際には全国2県を除いた地域で知事らから営業自粛を要請され、一部要請に応じなかったパチンコ店が批判非難の槍玉に挙げられた経緯も踏まえ、業界独自の営業ガイドラインを策定し、全国のパチンコ店に対策の徹底を訴えている。〈参照:パチンコ業界がコロナ対策のガイドラインを正式発表。垣間見える「絶対に感染させない」という強い意思|HBOL5月26日)しかし一部の業界関係者は一抹の不安を隠さない。今週末に迎える「6月6日」が心配だと言う。彼らが言う、6月6日の不安や心配とは何なのか。
■業界が怒る一部の「ガイドラインを守らない店」
「6月6日」は、パチンコやパチスロを嗜むファンにとっては特別な日である。
「1月11日」や
「9月9日」など所謂ゾロ目の日は、「数字が揃う」ということで、パチンコユーザーらの期待値が高まる日であり、特に七夕「7月7日」には全国の多くのパチンコ店に、開店を待つ客の長蛇の列が出来るのも珍しくない。
「6月6日」という日は、パチスロの出玉率が一番高い「設定6」が大量に導入される日として期待するユーザーも多く、またパチンコ店側としても、ユーザーの期待に応えるべく通常時よりも多く出玉の還元を行う店も多い。
「6月6日」は週末の土曜日。平時であれば、パチンコ店も客も両方が色めき立つのであろうが、状況はコロナ禍、過剰な集客はウイルス感染のリスクに直結する。前出の業界関係者はこの点を不安に思っているのだ。更に心配なこともある。業界情報サイト「パチンコ・パチスロ情報島」によれば、業界が策定した営業ガイドラインを守らないパチンコ店が少なからずあると言うのだ。
 5月26日(火)以降、営業を再開する店舗が相次いだが、「ガイドラインが全く守られていない」といった苦情が事務局(※東京都遊技業協同組合の事務局)に多数寄せられ、一部のパチンコ店では実際にガイドラインがほとんど実施されていないことが判明。都遊協は、「万一、遊技場においてクラスターが発生し、ガイドラインを実行していなかったとなれば、もはや弁明の余地はない。営業を再開する組合員店舗においては、こうしたことを肝に銘じ、絶対に自店でクラスターは発生させない決意を持っていただきたい」とし、改めて「パチンコ・パチスロ店営業における新型コロナウイルス感染症の拡大予防ガイドライン」の遵守(台間ボードがない場合は、1台置きの稼働)、休業協力要請が解除されるまで広告宣伝を自粛すること、22時までの時短営業とし、ネオン等(保安上必要な照明を除く)を消灯することの3点を求めた。パチンコ店だけではなく、居酒屋であれ、スポーツジムであれ、映画館であれ、営業を再開し客が集まれば、どれだけ対策をしていたとしても決してリスクをゼロにすることは出来ない。ただ出来得る限りの対策を講じるのは営業をする店側の責任でもあり、その具体的な対策内容は、多くの場合、関連業界団体等が作成している。パチンコ業界のガイドラインの内容については冒頭に挙げた記事を参照してほしい。一部のパチンコ店が、業界が示した具体的な対策を講じぬまま、「6月6日」を迎えることは、元々ある感染リスクを抑制するどころか、輪をかけて肥大化させることに繋がる。業界関係者はこの点を心配しているし、対策をろくに講じないパチンコ店について怒りすらおぼえている。
■パチンコ店の対策実施状況はいかなるものか?
 実際にどれほどの対策を講じているのか。千葉県のパチンコ店数店に訪れてみた。
●総武線主要駅徒歩1分圏、500台クラスの中型店A
●総武線主要駅徒歩3分圏250台クラスの小型店B(A店とは別の駅)
●千葉市中心部にある500台クラスの中型店C すべてのパチンコ店では、入場口を1カ所に限定し、客の入店時の消毒とマスク着用の義務化が徹底されていた。中型店のAとCでは、入口のドア付近にフェイスガードを着けた専門のスタッフが立ち、手指の消毒を補助し、また非接触型の体温計による検温も行われた。Bでは検温は無かった。全店とも、店内スタッフは全員マスクと手袋を着用。空いた遊技台の消毒作業は欠かさず、消毒が終われば「消毒済み」のカード等を遊技台ごと客に分かるように掲示している。客が出玉を交換するカウンターには、飛沫感染防止用のビニールシートが貼られており、足元には距離を取るための立ち位置シールが貼られている。喫煙室の利用人数は極端に制限されていたし、C店では店内喫煙室は閉鎖されていた。遊技台や店内のBGMの音量は無くすか最大限小さくすることを業界のガイドラインは求めているが、実際にどれほど対策をしているのか、客が少ないせいもあり正確には分からなかったが、いつものパチンコ店と比べれば驚くほど静音化された空間であった。C店では、トイレの自動ドアのボタンに客が接触しないよう、センサー式に切り替えられていた。
■「遊技台の距離」対策は……しかし実際に遊技台コーナーに移動してみると、業界のガイドラインであれば「遊技台の間に飛沫感染を防ぐボード等を設置するか、または一台置きに稼働(間引き営業)させるか」の対策を講じなくてはならないはずなのに、実際に守られていたのはA店だけであった。A店は、パチンコは遊技台の間に飛沫感染防止ボードを設置し、パチスロは一台置きに営業していたが、B店はパチンコ、パチスロ共に台間の対策はなく、C店はパチンコ台は対策を講じていたものの、パチスロ台は対策なしで一部人気機種のコーナーでは客同士が密接しながら遊技をしていた。総じて言えばA店のみが業界ガイドラインを遵守しており、他の2店はそうではなかった。パチンコ店のコロナ対策におけるキモは、遊技客同士の距離である。遊技台と遊技台の間に、飛沫感染を防止するためのボードやビニールシートを設置するか、もしくは一台ずつ間を空け(電源を落とし)客同士の距離を取るのかの二択しかない。長期間の休業で落ち込んだ売上を取り戻すため、1台でも多く遊技台を稼働させたいのかも知れないが、「どうせ客は少ないんだから大丈夫」などとガイドラインの対策を軽んじることなかれ、一時の欲が取り返しのつかない過ちを引き起こしかねない。火急。即刻襟を正し是正してほしいものだ。
◎以前はパチンコ月に数回いっていたが、やめてみていかに無駄金つかっていたことがわかった。浮いたお金で高級料理食べに行った方が良いことに気が付いた。ある意味依存症になりかけていたのかもね。今回は良い機会だった。 
◎パチンコ屋ってのは3密の心配は無さそうだけど、・金を失う・時間を失う・理性を失うって【3失 】な気がするまあ、お客本人がいいんならいいけどねー失うよりも得るものが本人にはあるのかもしれないし 
◎規制緩和されて以降も、パチンコ店や飲食店やバーなどの酒場は人が戻らないって話もありますが、まだ警戒して行かない人も多いのでしょうがパチンコや酒場を好んでいた若者の収入が激減して遊べない影響もあると思う。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/b5b771909b5f8fb5dcfcba5a1026764cd443f0ca

 西日本の「物流大動脈」山陽線の特殊な事情 急曲線と急勾配で貨物大量輸送に不向き
 2018(平成30)年11月10日(土) 04:50 梅原淳:鉄道ジャーナリスト
 写真◆山陽線の八本松―瀬野間が急勾配のため前後の区間は貨物列車の最後尾に補助機関車を連結する(写真:T.Tsuchiya / PIXTA)
 「平成30年7月豪雨」によって不通区間が生じていたJR西日本山陽線は、
 2018(平成30)年09月30日(日)に広島県の三原駅と白市(しらいち)駅との間の30.6kmが復旧し、列車の運転が再開された。この結果、JR西日本が第一種鉄道事業を実施する山陽線は神戸―下関間528.1kmを通して列車の運転が可能となっている――。と思ったら、
‡2018(平成30)年09月09日(日)に豪雨災害から復旧したばかりの山口県の柳井駅と下松(くだまつ)駅との間27.7kmが台風24号の影響で
 2018(平成30)年09月30日(日)から再度不通となり、約半月後の
 2018(平成30)年10月13日(土)にようやく復旧を果たした。
■重要路線なのに課題が多い山陽線 ⇒ 山陽線には課題が多い。多数の旅客列車、貨物列車が運転され、人や物の流れのうえで極めて重要な路線である割に線路は大変お粗末で、高速での運転や大量輸送に向かない区間が多々存在するからだ。その傾向は三原―海田市(かいたいち)間65.0kmで顕著になる。高速での運転のためには、列車の速度に制限を課さないよう、できる限り曲線半径を緩くしたい。新幹線それも山陽新幹線以降開業のような半径4000m以上は在来線では無理ながら、JRの主要な幹線では半径600m以上というのが一応の基準値となっている。半径600mでの制限速度は、電車やディーゼル動車が用いられる高性能列車であれば時速90km、高性能列車以外の一般列車であれば時速85kmだ。振子車両であれば制限速度はさらに向上し、たとえば名古屋―長野間の特急「しなの」に投入されているJR東海の383系特急形直流電車であればこのカーブを時速120kmで通過できる。乗り心地や線路の保守の手間などは別として、最高速度が時速130kmの383系電車にとって半径600mの曲線はもはや直線並みと言ってよい。山陽線三原―海田市間の場合、本線上に存在する最小曲線半径は300mだ。数も多く、筆者の計測では22カ所に達するうえ、うち半数の11カ所は急勾配区間でもある八本松(はちほんまつ)―瀬野間10.6kmに集中している。半径300mの区間での制限速度は高性能列車で時速65km、一般列車で時速60kmにすぎない。先ほどの383系電車はさすがに時速90kmで走行可能だが、曲線区間での運転に関しては国内で最高の性能をもつ383系でさえ、最高速度の時速130kmとの速度差は時速40km分も生じてしまう。
 https://toyokeizai.net/articles/-/248156
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 ┃ 日韓(韓国)併合 ┃
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 韓国は植民地ではなかった! ②
 2019(令和元)年11月11日(月) 00:00:00 テーマ:朝鮮人問題・日本籍朝鮮人
※李氏朝鮮時代、荷物はほとんど奴隷の人間が担いだのです。男は250キロ、女は150キロの荷物を担いだのです。国民の大部分が奴隷の白丁だったのです。
 李氏朝鮮は完全にシナの属国だったのです。それから、日本の援助で大韓帝国を造ったのです。それで、シナから独立したのです。その時に日本は、大韓帝国に多大な援助をしたのです。ところが、「何が大韓帝国だ」と認めなかったのがシナです。「お前らは俺の属領だろう」と思っているのです。ロシアも「大韓帝国など認めない」と思っていたのです。しかし、独立して大韓帝国を造り、皇帝もできたのです。誰のおかげかというと、日本のおかげです。日本の隣に五等国があっては困るから、「シナの家来から独立してくれ。援助します」と言ったのですから、日本の属国にしようなどと思っていません。大韓帝国の皇帝陛下が出来たのです。これを見れば、如何に大韓帝国が独立しているかわかります。王様と言ったら独立していませんが、朝鮮王は日本の援助で皇帝陛下になったのです。皇帝陛下は出来たのですが、大韓帝国は行き詰まってきたのです。それで困って、「日本に助けてもらって、合弁してもらおう。日本に我々も入ろうではないか」ということになり、日韓併合が行われたのです。何の問題もありません。朝鮮は日本の植民地ではありません。植民地というのは他国に押し入り、「お前ら、従わないとぶっ殺すぞ!」と軍隊で抑えて抵抗する土人達を抵抗できないようにして、「あれをつくれ」「これを持ってこい」と働かせるのが植民地です。最初から韓国は植民地ではありません。それをハッキリしておかないと、徴用工の問題、従軍慰安婦の問題にしても、みんな後から覆(くつがえ)されてしまうのです。最初の入り口で覆っているのです。植民地ではないものを「植民地だ」と朝鮮人にウソをつかれて、日本人は黙ってずるずると認めてきたのです。識者や政治家の連中も、「韓国は日本が植民地にしたのだから日本が悪い」と言うのです。日本は悪くなどありません。日本のおかげで韓国は立派になったのですから、感謝されることはあっても恨まれることなど一つもありません。韓国が日本を恨むのは間違っています。土着民を奴隷にして働かせて吸い上げるのが植民地です。日本は朝鮮人を教育して学校を造り、大学まで造り、日本の軍隊まで入れてあげたのです。しかも朝鮮人の将校が大勢いたのです。そんな植民地は世界の何処を探してもありません。韓国は日本だったのです。朝鮮人は日本人だったのです。それを忘れて朝鮮人は何を寝言を言っているのでしょうか? これは一歩も引いてはいけません。「植民地はウソだろう。その話は止めなさい!」と言わなければいけません。朝鮮人がどのような生活をしていたのか教えてあげましょう。朝鮮の町中はウンコだらけです。下水と水道の区別もつかず、お風呂は絶対に入らず、着るものは白い着物一枚です。文化もなければ何も無かったのです。朝鮮人はお裁縫で使う針すらできなかったのです。車輪もありません。車という概念がありません。日本は当時、大八車もあったのです。朝鮮人には車という概念がありません。車はありません。馬はいたのですが、もの凄い荷物を乗せるので、馬はフラフラになって荷物を運んだのです。荷物はほとんど奴隷の人間が担いだのです。男は250キロ、女は150キロの荷物を担いだのです。国民の大部分が奴隷の白丁です。それを支配する両班は好き放題の搾取をやっていたのです。両班には法律などありません。法律がないから何でもやってしまうのです。家庭内SEXの近親相姦をやり、母子相姦、父子相姦、兄妹相姦、何でもやるのです。滅茶苦茶な性交渉を長い間やってきたので、朝鮮人は頭がおかしいのです。血が濁っているのです。その連中が一等国民になれたのですから、感謝しなさい。「我等朝鮮人を育ててくれて日本人に感謝します。有難うございました」と言うべきです。韓国と日本は一度も戦ったことなどありません。それを「日本と戦って韓国は独立を取り戻した」と光復節をやっているのです。いつ、日本と韓国が戦ったのでしょうか? これもウソです。日本が韓国の面倒をみてきただけの話です。韓国は植民地ではありません。「韓国から搾取しよう」などと言っても、産業が何もありません。何を搾取するのでしょうか? 日韓併合をしたら、朝鮮半島の米は4倍収穫できるようになったのです。だから、朝鮮の人口が増えたのです。米も日本が教えたのです。「こうやってお米をつくるのです」と教えたのです。山には木も生えていません。朝鮮人は山の木を切ると燃してしまい、植林などしていません。「木というものは植林しなければいけませんよ」と教えたのは日本人です。何でもかんでもみんな朝鮮人に教えたのです。朝鮮人は日本人になったのです。日本人から言うと、そのような感覚です。朝鮮人は日本人になったのだから、「こんな不衛生なことをやっていては、まずいよ」「山をはげ山にしてはまずいよ」「近親相姦などしてはまずいよ」「白丁という奴隷をいじめるのはまずいよ」と教えたのです。それで、両班が威張っていたので、両班をなくして一等国民にしたのですから、そのような意味でも韓国は奴隷がいなくなって立派な国になったのです。日本は文化大恩の国です。それなのに入り口論で「日本が韓国を植民地にしたのだから、全ての問題はそこにある。謝れ!」と言われて、日本は謝ってしまったのです。ここで負けてしまったのです。日本人が馬鹿なのです。「何を言っているのだ、反対だろう。何を謝る必要があるのか? どこが植民地なのだ!」と反論しなければいけません。これは、非常に大事です。入り口論を間違えると、後々までずっと言われてしまいます。徴用工の問題もこれで終わりではありません。朝鮮人は次から次へとネタを見つけて、「賠償しろ!」と言ってくるのですから、これではダメです。入り口論でブッ叩かないといけません。喧嘩は全て入り口で叩くのです。「このくらいはいいだろう」と思って、入り口を開けてしまうと、そこからドドッと雪崩を打って入ってきて、反対にこちらが負けてしまうのです。朝鮮人よ、わかったでしょうか? 日本は文化大恩の国なのです。日本は朝鮮人と戦ったことなどありません。それを日本人は教えていくのです。何事も入り口論が大事です。
■日韓併合
 日本統治時代の朝鮮は、
 1910(明治43)年08月29日(月)の大日本帝国による韓国併合から、
†1945(昭和20)年09月09日(日)の朝鮮総督府による対連合国降伏まで、35年間続いた。 
■朝鮮半島の人口
 李氏朝鮮時代(1392年~1910年)
  1753年 730万人
  1891年 788万人
 大韓帝国時代(1897年~1910年)
  1907年 710万人
 日韓併合時代(1910年~1945年)
  1910年 1,313万人
  1942年 2,553万人(朝鮮の人口が約2倍増えた)
※朝鮮半島の人口が増えたのは、日韓併合のおかげです。これが紛れもない事実です
 https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12543126634.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/韓国併合

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