冬動画◆Club Snowbound /Shogo Hamada 18AH-1960 Members Only https://youtu.be/wxLqlOtjkPw
①動画◆♪Champagne Night♪https://youtu.be/j-Y75IHdxOc
①動画◆♪Champagne Night♪
②動画◆♪SNOWBOUND PARTY -Tonight Visitors OK!-♪https://youtu.be/k3_4YzYT5Z4
③動画◆♪MIDNIGHT FLIGHT -ひとりぼっちのクリスマス・イブ-♪ https://youtu.be/0q8WpxNfXl4
④動画◆♪SNOW ON THE ROOF -Just Like You And Me-♪https://youtu.be/fIyGV7EUJHU
④動画◆♪SNOW ON THE ROOF -Just Like You and Me-♪ https://youtu.be/FpHv2iT86Ic
⑤動画◆♪SENTIMENTAL CHRISTMAS♪ https://youtu.be/7uMF62aNa2U
‡1985(昭和60)年11月15日(fri) released
https://ja.wikipedia.org/wiki/CLUB_SNOWBOUND
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 第9回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
1975(昭和50)年05月18日(日) つま恋エキシビションホール
入賞:♪傷ついた翼♪ 中島みゆき
┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ ♪時代♪/♪傷ついた翼♪ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛中島みゆき
1975(昭和50)年12月21日(日) 発売
┏━━━━━━━━━┓
③┃ 第6回世界歌謡祭 ┃日本武道館
┗━━━━━━━━━┛(財)ヤマハ音楽振興会
‡1975(昭和50)年11月15日(土) 予選 17:30開場 18:30開演
1975(昭和50)年11月16日(日) 本選 14:00開場 15:00開演
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88#%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A4%E3%81%BE%E6%81%8B%E6%9C%AC%E9%81%B8%E4%BC%9A
②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9B%B2)
③https://www.yamaha-mf.or.jp/history/e-history/wpsf/wpsf6.html
③https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%A5%AD
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大バッシング ギター1本の「時代」に秘めた思い
2021(令和三)年01月10日(日) 12:00配信 日刊スポーツ
写真◆中島みゆきの名曲「時代」のジャケット
【写真】20年1月、「ラスト・ツアー『結果オーライ』」で歌う中島みゆき
名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」の第24回は、中島みゆきの名曲「時代」です。デビュー当時、ステージで見せたパフォーマンスが批判されましたが、そこには胸に秘めていたある思いがありました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
今では考えられないことだが、デビュー当時の中島みゆきには「生意気」「ツッパリ」といったイメージが先行していた。北海道出身の中島が、全国区に躍り出たのは、
1975(昭和50)年11月16日(日)に東京・日本武道館で行われた第6回世界歌謡祭だった。中島は「時代」でグランプリを獲得したが、そのステージで起きた“事件”が「生意気」イメージを生むことになる。世界歌謡祭には、その年のポピュラーソングコンテスト(ポプコン)で優勝した新人歌手が自動的に出場した。中島もそうした新人の1人だった。グランプリ受賞後のアンコールで、中島はオーケストラの指揮者に何やら耳打ちした。そして突然、伴奏なしのギター1本で「時代」を歌い始めた。歌謡祭前半のエントリー曲紹介では、フルオーケストラをバックに「時代」を力強く歌っていた。しかし、アンコールでは一転してオーケストラの演奏を自ら制止し、ギター1本で歌ったのだ。まさに前代未聞の新人だった。オーケストラのメンバーや現場スタッフは激怒した。新聞や雑誌にはバッシング記事が相次いだ。しかし、ギター1本で「時代」を歌ったのは決して中島のわがままではなかった。自らを発掘してくれた“恩人”へのお礼のつもりだったのだ。その恩人とは、ヤマハ音楽振興会の理事長で、ヤマハのワンマン社長として当時知られていた川上源一さんだった。69年にポプコンを創設した川上さんは、毎年全国から寄せられた応募曲を全曲聴いた。中島が「時代」を応募した74年はポプコン人気のピークで、応募曲は軽く1万曲を超えた。川上さんはその中で「時代」を耳に留めた。無名だった中島を浜松の自宅に呼び、こう激励した。「あなたは、すごい詞を書く。将来、詞で勝負するようなアーティストに育ってほしい。できれば、大音量をバックにするよりも、ギター1本で歌ったほうが、あなたの詞が人々に伝わると思います」。中島はその言葉を心に刻み、世界歌謡祭のラストでギター1本で切々と「時代」を歌い上げた。振興会で世界歌謡祭の担当者だった山口昌則さんは「当時、ポプコンの担当者たちはサウンドばかり注目していて、はっきり言って詞は盲点でした。中島さんの詞の可能性に注目したのは川上さんだけ。今でも頭が下がる思いです」と振り返る。ポプコンは86年に終了し、川上さんも同族経営が批判を浴びヤマハを離れた。そして時代は巡り、時は流れた。95年、中島が浜松でコンサートを行った時、川上さんが車いす姿で会場を訪れた。川上さんを見た中島は、世界歌謡祭でも見せなかった涙を、ステージ上でボロボロと流した。【特別取材班】
1997(平成九)年12月10日(水) ※この記事は97年12月10日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/da9a90fc9dd5649c28d106ae16f8086f7d80e7a8
浜田省吾、30周年記念盤『J.BOY』がオリコン週間ランキング初登場第②位を獲得
2016年11月15日
浜田省吾が、1986年に発表したアルバム「J.BOY」の30周年記念盤「J.BOY 30th Anniversary Box / Edition」を発売し、
2016年11月21日付オリコン週間アルバムランキング(集計期間:11月7日~11月13日)で初登場2位を獲得した。
1986年当時最高1位(当時はLPとカセットの売り上げを合算したもの)を記録した「J.BOY」のアルバムランキングTOP3入りは、
1986年10月27日付で1位を獲得して以来30年1ヵ月ぶり。四半世紀以上の年月を経ての上位入りで、名盤としての色褪せぬ存在感を改めて知らしめた。
浜田省吾「J.BOY 30th Anniversary Box」
本作は、86年のオリジナル音源のリマスターLP2枚組、99年にリミックスしてリリースされた現在の通常盤音源のリマスターCD2枚を収録。
コンサートツアー「ON THE ROAD ‘86 “I'm a J.BOY”」のライブ映像ほか、特典映像DVD、100P写真集、ライナーノーツブックレット、封入特典をコンパイルした豪華版となっている。
また、「Box」と共通のCD2枚、DVD2枚、写真集、ライナーノーツを同梱した「J.BOY 30th Anniversary Edition」も同時発売中。
浜田省吾ソロデビュー40周年スペシャルサイト
http://www.sonymusic.co.jp/ShogoHamada/40th/
リリース情報
浜田省吾「J.BOY 30th Anniversary Box」
「"J.BOY" 30th Anniversary Box」20,000セット限定生産
SECL2025-2032 24,840円(税込) LPサイズBOX仕様
浜田省吾「J.BOY 30th Anniversary Edition」
「"J.BOY" 30th Anniversary Edition」完全生産限定盤
SECL2033-2037 11,880円(税込) A4サイズ変形版三方背ケース仕様
http://www.musicman-net.com/artist/62848.html
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┃ 浜田省吾 #26 『CLUB SNOWBOUND』 ┃
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2016(平成28)年07月01日(金)
‡1985(昭和60)年11月15日(金)、浜田省吾のクリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』が発売になりました。今回はそのレコーディング話と、ツアーの話も少しだけ。
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「次のアルバムはクリスマスをテーマにしたミニアルバムを、オレと町支と板倉の三人で作ろうと思っているんだ。アレンジは全曲板倉でコーラスアレンジは町支。」1985(昭和60)年の夏が始まろうとしていた頃、浜田さんからそう告げられた。1985(昭和60)年のツアーは
1985(昭和60)年7月15日(月)の沖縄県那覇市民会館でひとまず一段落し、
1985(昭和60)年9月17日(火)の旭川市民文化会館から始まる北海道ツアーまで約二ヶ月間のインターバルがあった。1984(昭和59)年のツアーからバンドメンバーが代わり、On The Road 84'と題された80数本のツアーが
1985(昭和60)年2月08日(金)、
1985(昭和60)年2月09日(土)の京都会館2daysで終了した。新たに加入したメンバーはそれぞれが確かな技術を持っていて、人間的にもミュージシャンとしても特に問題があったわけでは無かったのだが、バンドとしてはどこか歯車が噛み合っていなかった。そこでサウンド面を統括する人間が必要だということで、85年のツアーからぼくがバンドのサウンド面でのリーダーシップを担うことになった。バンド内の雰囲気は最悪というわけでもなかったが、最高というわけでもなかった。それぞれの音楽的趣向もバラバラで、あくまでも浜田省吾という名のもとに集まったプロフェッショナルの集団だった。ぼくなりにバンドのサウンドをまとめようと、色々と試してはみたものの空回りすることのほうが多く、段々とプレッシャーとストレスを抱えるようになっていった。そんな状態でのツアーは正直しんどかった。そのせいかどうか定かではないが、ぼくは1984(昭和59)年~1985(昭和60)年のツアーの記憶が殆ど無い。思い出そうとしてもあまり思い出せない。勿論コンサートは毎回ベストを尽くしたし、それなりに楽しい事もたくさんあったはずなのだが。沖縄から戻ると東京もうだるような暑さだった。
1985(昭和60)年7月18日(木) 次の日、渋谷のNHKホールでアフリカ難民救済のチャリティコンサート「アフリカ・セッション」が開催された。浜田さんは勿論のこと、ぼく達バンドも出演することに何ら異存は無かった。ぼくはそれまでチャリティイベントへの出演者は、名目上はノーギャラと謳われてても、裏で某かのギャラをもらっているのだと思っていた。しかし今回のチャリティイベントへの出演は、アーティストもバンドメンバーも本当に全くノーギャラだった。でもそのことに異論や不満を唱えるものは誰一人としていなかった。「アフリカ・セッション」を終えると、ぼくは浜田さんから一本のカセットテープを受け取った。クリスマスアルバムに収録予定の曲のデモが入っているカセットだった。冒頭に触れたようにアレンジはアカペラの曲を除き、全曲ぼくが任されることになった。ぼくは浜田さんの期待を裏切らないよう、良いアレンジにすることを肝に命じた。真夏の暑い最中、ぼくは大量の汗を拭いながら、半分ヤケクソ気味で無理矢理クリスマス気分になり、仕舞いには寒いぐらいにガンガンに冷房を効かせて冬の気分に浸りながらアレンジをした。
1985(昭和60)年9月10日(火)、昼間のリハーサルを終えたぼく達は、夜の7時に市ヶ谷の一口坂スタジオに集合した。クリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』のリズム録りだった。スケジュールの都合上、この日一日で収録曲のすべてのリズムを録り終えなくてはならなかった。『CLUB SNOWBOUND』のレコーディングは夜の9時頃から始まった。この日のレコーディングメンバーは以下の通り。
ドラムス:滝本 季延
ベース:江澤 宏明
ギター:町支 寛二
ピアノ:板倉 雅一
「LONELY-愛という約束事/もうひとつの土曜日」のレコーディングの時と同じメンバーが集結した。
一曲目にレコーディングしたのは「思い出のX'mas Night」という仮タイトルが付いた曲。後に「Snow On The Roof」というタイトルになる曲だった。ミディアムテンポの軽快な曲で、この曲は町支さんがリードボーカルをとる予定になっていた。
二曲目は「X'mas Baby」という仮タイトルの曲。後に「Snowbound Party」と題される曲だった。
三曲目は「センチメンタル・クリスマス」。アルバム「愛の世代の前に」にも収録されていた曲のリメイクだった。
最後にレコーディングした曲は仮タイトル「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」と題された曲。後の「Midnight Flight」である。四曲のリズムを録り終えた頃にはもう朝になっていた。スタジオの外に出るとすっかり明るくなっていて、急ぎ足で会社に出勤する人々とすれ違いながらぼくは家路に着いた。後日、諸々の楽器のダビング作業が行われた。
1985(昭和60)年9月14日(土)は「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」のシンセサイザーのダビング。シンセサイザーのオペレーターは迫田 到さん。気鋭のシンセオペレーターだ。スタジオのコントロールルームには所狭しとシンセサイザーが並べられていた。その数ざっと見渡しても十台以上。音源モジュールやエフェクターが収納されたラックも含めると一体何台あるのかよく分からない。ぼくと浜田さんが「キラキラした音!とか、ちょっとこもった音!」とか迫田さんにリクエストを出すと、迫田さんが即座に音色を作ってくれる。ぼくは迫田さんが作ってくれた音を演奏するだけ。時には「うーん、ちょっとイメージとちがうんだけど。もっと他の音ないすかぁ?」とかエラそーなことを言っているだけ。何とも王様気分のレコーディングである。「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」はフィル・スペクター・サウンドを模倣したもので、アメリカの有名なプロデューサーであるフィル・スペクターが作り出す壁のような音、「ウォール・オブ・サウンド」を総称してスペクター・サウンドと言っていた。フィル・スペクターが作るサウンドは一度に多くの楽器を同時に録音して、それに深いリバーブをかけるのが特徴で、時にはピアノを何台も同時に鳴らしたり、ベースが二人いたりすることもあるらしい。「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」でもスペクターと同じ手法を用いて、アコースティック・ギターを何本も重ねて録音したり、町支さんに「ウー」とか「アー」とかロングトーンで実際に歌ってもらった声を、当時の最先端サンプリングマシンだった「イミュレータ?2」にサンプリングして、ぼくが鍵盤でイミュレータ?2を弾くと、町支さんの声が再生されるという手法を用いてコーラスパートを録音したりもした。とにかくシンセサイザーだけでもの凄く多くのチャンネルを使った。24チャンネルレコーダーだけではチャンネルが足りなくなって、もう一台24チャンネルレコーダーを用意して二台をリンクして(スレーヴするという)合計48チャンネルでの録音となった。フィル・スペクターと言えばロネッツをプロデュースしたことで有名だが、ぼくがリアルタイムで聴いていたのはビートルズのアルバム「Let It Be」や、ジョージ・ハリスンの「オール・シングス・マスト・パス」、ジョン・レノンの「イマジン」等、ビートルス関連の作品が多かった。「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」はエンジニアの助川さんの素晴らしいミックスのおかげもあって、見事なウォール・オブ・サウンドになった。この曲のアレンジは自分でもとても気に入っている。
「センチメンタル・クリスマス」はぼくと浜田さんの共同アレンジ名義。リメイクということで、結構アレンジに苦戦した。浜田さんが考えたイントロのフレーズを生かすことと、ちょっとロマンティックなサウンドにする方向でいろいろと試行錯誤した。アレンジ的には間奏で転調する箇所が気に入っている。法田さんのラリー・カールトンばりのギターもカッコいい。そういえば法田さんのギター・ソロの最後の部分の着地の音階をめぐって、法田さんとエンジニアとの間で一悶着あった。法田さんはスケールから外れていない音だと主張し、エンジニアの助川さんはスケールから外れた音、すなわちミストーンに聴こえると主張した。両者の言い分は平行線のまま、結局ミックスの段階でそこの部分の音は少し小さくなった。シンセサイザーは福田裕彦さん、フクちゃんに弾いてもらった。 「Snow On The Roof」は何と言っても町支さんがリードボーカルで、浜田さんがコーラスを担当したということが最大のポイントだった。でもアルバムを通して聴くと、一瞬浜田さんが歌っているかのように聴こえるところが面白い。「X'mas Baby」はとにかくいろんな音を詰め込んだ。浜田さんとの合い言葉は「音の玉手箱」。シャッフルという跳ねたリズムの曲のため、演奏するのは少し難しかった。三連譜が連続で続くところなど、演奏していて思わず手がつりそうになった。町支さんの一人アカペラが美しい「Champagne Night」は、町支さんがコーラスのパートをツアー先で考えていて、ある日の移動のバスの中で、書いた譜面の音の確認をしたいからぼくにポータブルキーボードで、譜面の音を弾いて欲しいと言って来た。ぼくは町支さんが書いた譜面をバスの中で読みながらキーボードを弾いたのだが、ものの五分もしないうちに気持ち悪くなってしまった。「町支くんゴメン、酔ったみたい。」揺れるバスの中でオタマジャクシがいっぱいの譜面を読むことは止めた方がいい(笑)アルバムが完成すると、ぼく達三人は音楽雑誌でのインタビューやラジオへの出演等、積極的にプロモーション活動にも参加した。真夏の最中から秋にかけてレコーディングしたクリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』は、発売されるとチャートの4位を記録した。
写真◆アナログ盤のジャケット。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/07/26-club-snowbound.html
****************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓1987(昭和62)年8月24日(月)
┃ NHK-FM『マイ・セレクション』DJ 浜田省吾 ┃ ON AIR 日
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛http://www.uta-net.com/song/78347/
1985(昭和60)年[32歳] M13.♪MIDNIGHT FLIGHT♪ http://www8.big.or.jp/~most/bbs/nfm12.html
音源◆浜田省吾 ラジオ番組 マイ・セレクション Vol.② https://youtu.be/qIYsUHaODis
※これは1987年8月にNHK-FM『マイ・セレクション』という番組で放送されたものから、にゃみこさんがテープ起こし&タイプ打ちしたものです。14曲分、いきまっせ~~~!!
■1985(昭和60)年[32歳] ♪DADDY'S TOWN♪が終わって・・・・
1984年、初めて自分でプロデュースした『DOWN BY THE MAINSTREET』っていうアルバムから♪DADDY'S TOWN♪でした。えっとね、その年だったかなぁ。ひとりでロサンゼルスに旅行に行ったのね。で、まぁ、こうやって番組の中で話すと照れ臭いんだけど。初めて好きになった女の子ってゆうのが、あのぉ、留学生で、カリフォルニアから来た女の子でねぇ。18の時かな?別れたまま、ずっと初恋のまま、とてもロマンティックな思い出のままなんだけど・・・。それから十何年してロスへ一人で遊びに行った時に、「そういえば、その子が住んでた街はベートーベンストリートだったなぁ」なんて思って、ロードマップを広げてベートーベンストリートを探したの、ほんとに小さな通りなんだけど。そしたら俺が泊まってるサンタモニカのホテルのすぐ近くだったのよ。で、レンタカーを借りてその通りを走ってみたわけ。そもそも自分が音楽を選んだっていうのは、アメリカに凄く行きたくてねぇ。その子への憧れもあったし、子供の頃アメリカ音楽をずっと聴いてたっていうのもあったしね。それでその通りを走ってる時に、「あぁ、俺が18、19、20、大学1年生位までかな?あんなに憧れてた街、そしてその通りっていうのはこの通りなんだなぁ・・・」と思うとね、なんかセンチメンタルなものがありました。まぁ、当然その子の家は無くって、たとえあったとしても会うつもりはないしね。相手もお母さんになってるだろうしね。その通りをゆっくり、ゆっくりゆっくり一軒一軒見ながら走ってると、小さな平屋の、平屋っていっても日本よりよほど広いんだよ(笑)。中産階級の家なんだけど。平屋が並ぶ通りをセンチメンタルな気分で走ったのが思い出されます。さて、次の曲は♪Midnight Flight♪(♪MIDNIGHT FLIGHT♪が流れはじめる・・・・)
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1993年8月発行 会報第60号全32ページ。
新しいバンドが固まるまでの過渡期、四国でむかえたクリスマスの夜。
●法田勇虫インタビュー
浜田さんのバックでやることになったのは、鈴木幹治さんから知り合いを通して話がきたからなんです。浜田さんのサウンドは聞いたことがなかったんですが、幹治さんと原宿の喫茶店で会っていろいろ話を聞いて「ああ(浜田省吾は)こんなにすごい人だったんだ」って(笑)。だったら一度やってみたいなと思ったんです。
バックで初めて演奏したのは、横浜スタジアムでやった"A PLACE IN THE SUN"でした。僕としては、あんな大きなところでやるのは初めてで、だからもう非常に緊張して、どんな演奏したか何も覚えてないような……(笑)。
それまでは来生たかおさんのバックなどをやっていて、ロックを感じるアーティストとやったのは初めて。やはり印象としてはB・スプリングスティーンに近いものを感じました。こんなでかい人だと思わなかった!!みたいな(笑)。
浜田さんはあんまりプレイヤー個人のサウンドを潰してまで自分のサウンドに近づけようとはしないんですね。で、僕が弾いたことをすごく気に入ってくれて、リハーサルの合間に「法田くんと俺とで、法田くんが行きたい道を探してもいいんじゃないか」みたいなことを言ってくれたんですよ。僕の次元まで下りて話をしてくれて、すごく好感持てました。
当時、この業界ではギタリストがふたりいるバンドはあまりなくて、移動中などに町支君とふたりでよく相談しました。ふつう、上から「(担当の部分を)やっといてくれよ」って言われてもなかなか難しいもんなんですよ、ギタリスト同士というのは。でも町支君の人柄があって(笑)非常にスムーズにツインのハモリの部分などを決めることができましたね。
ツアーは楽しかった。今思い出しても。いい思い出ばかりです。九州に行ったときに浜田さんがすごく疲れてて、飲みに行ったときに冗談まじりに肩をもんだんですよ。そしたら彼に「こんなすごいギタリストの指でもまれるなんて俺はすごく恐縮する」とか言われて、僕はすごくありがたく思いました(笑)。
『CLUB SNOWBOUND』を出しましたよね。あれは主旨としては、自分の最良だと思う女性とクリスマスの日にふたりで聞いていられるような、そんなアルバムをつくろうということでした。僕は「センチメンタル・クリスマス」だけ弾いたんですが、ツアーで盛岡にいるときから盛り上がっていて、いいフレーズが頭の中に浮かんだりしてたんですよ。で、そうこうしてるうちにいいアルバムができて、やっと本番のクリスマスが来たんです。で、そのクリスマスの夜…… 四国で全員でボーリングしてたという。情けないことに(笑)。
その後浜田さんは帰ったんですけど、メンバーでカフェバーかなんかで飲んだんです。浜田さんはのども大切にしなきゃいけないし、疲れてるんだろうなあって思ってたんですけど、僕がホテルに帰ったら部屋のベットの上に「いいアルバムをありがとう」みたいなメッセージと、(プレゼントの)Tシャツが置いてあったんですよ。ものすごく感動しましたねえ。
今回のアルバムはいきなり浜田さんから電話がありまして、「この曲は法田君に弾いてもらおうと思って書いたようなもんだよ」とかって(笑)。だからすぐ「行きますよ」って盛り上がって(笑)。スタジオ行って、その場でいきなり弾いたのは「MONEY」くらいで、それ以外は浜田さんから「つくってほしい」という依頼があるんです。ソロの構成とか。だから今回もテープをもらって帰ってつくりました。でも浜田さんの曲はすぐできちゃうんですよ(笑)。2年間ツアーをやったから、なにかしみついてるもんがあるんですね(笑)。
そういえば去年でしたっけねえ、たまたま会おうかという話になったときに、浜田さんが前からほしがってたタイプのギターを2本プレゼントしたんですよ。(談)
→FROM SHOGO HAMADA
この頃は今のバンドが固まるまでの過渡期なんですよね。ドラムが鈴木君から高橋君に落ち着くまでのその間で、横浜スタジアムはグリコと、当時「愛の世代の前に」のレコーディングでやってもらった菊地丈夫君のツイン・ドラムだったんです。で、そのあとレコーディングは滝本君でやったのかな。で、滝本君に「やろうよ」って言ったんだけど、彼が当時、矢沢じゃなくて……矢沢永吉をやってたのはグリコか。とにかく滝本君も(スケジュールなどが)合わなくて、ドラマーが定まらなかったんです。
で、そんなふうに何人かのドラマーとやって、このバンドに。このバンドは2ツアーしかやってないんだよね。この頃がいちばんつらかったかな、ある意味では。もちろんみんなすごくいい奴だったんだとよ。いい奴だったんだけど、少しずつ、やりたい音楽とかフィーリングっていうかなあ……人間が合わないっていうんじゃなくて、音楽的に合わない部分があって、2ツアーで終わってしまうんですね。
http://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber060.html
国宝映像◆(TV版) Studio Live B・BLUE~ 19861115 BOΦWY 超低画質 https://youtu.be/PtFBLLARw9g
「オールナイト フジ」(JOCX系)で2度目のミニコンサート。
BEAT SWEET / ONLY YOU...演奏....Thanks : )
国宝映像◆氷室上機嫌でピース「乳首なんかをちょっと見せてるような感じのアルバムなんです」https://youtu.be/lKCksmruDoo
【BOΦWY貴重テレビ映像】 B・BLUE, Beat Sweet, Only You, トークあり
音源◆浜田省吾「浜省も若い頃にはバカなことやったww」過去のクリスマス騒ぎを語る。https://youtu.be/mQhtUbxSpms
音源◆スリー・ファンキーズ 浮気なスー https://youtu.be/dwM1Oi8RFjs
Dion 悲しき恋の物語(浮気なスー)Runaround Sue
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┃ 浜田省吾 #07 因島 ┃
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2016(平成28)年03月24日(木)
ぼくは浜田省吾さんのツアーで全国津々浦々を廻りましたが、その中でも何カ所か印象に残っている場所があります。今回はそんな場所の一つ、因島でのコンサートのことを思い出してみます。
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1979(昭和54)年11月08日(木)から、関西学院大学での学園祭出演を皮切りに始まった、浜田省吾の関西~中国ツアーは、
1979(昭和54)年11月11日(日) 福山大学学園祭
1979(昭和54)年11月13日(火) 因島市民会館
‡1979(昭和54)年11月15日(木) 萩市民会館
1979(昭和54)年11月16日(金) 三次文化会館
1979(昭和54)年11月18日(日) 山口大学学園祭
1979(昭和54)年11月19日(月) 高梁市民会館と廻る、約二週間の日程のツアーだった。
1979(昭和54)年11月11日(日)に広島の福山大学での学園祭を終えたぼく達は、
1979(昭和54)年11月12日(月)に三原から船で因島に入った。因島は現在は尾道市に属しているが、当時は因島市として独立していた。島に着いてすぐにぼく達は、二階建ての簡素な作りの旅館に連れて行かれた。旅館というよりも、まるでどこかの会社の保養所みたいだな、とぼくは思った。明日のコンサートまでオフなので、浜田さんとバンドのメンバーは二組に別れて休日を過ごすことにした。ドラムの俊ちゃんとギターの町支くんは、どこからか二千円の竿を買って来て、釣りに行くと張り切っている。ぼくとキーボードのいっぺいちゃん、ベースのブンちゃん、そして浜田さんの四人はレンタカーを借りて島を一周することにした。さっそく小さな車を借りて来て、ブンちゃんの運転で島をドライブした。走り出してすぐに大きな造船所が見えて来た。因島は当時、造船の島と呼ばれていて日立の巨大な造船所があった。その時も一隻の船を造っている最中で、ぼく達はその大きさに息を呑んだ。造船所を見たり車の中で音楽を聴いたりして、はしゃいでいたぼく達四人だったが、四方を海に囲まれた小さな島なので、そんなに時間を要することなく島を一周してしまった。それでもぼく達は美しい景色を堪能することが出来て満足だった。釣りチームの二人は、今夜の夕食のおかずを釣ってくると豪語して出かけて行ったが、釣果はゼロであった。釣れたての魚を期待していたぼく達は大いにガッカリした。明けて
1979(昭和54)年11月13日(火)、因島市民会館でのコンサートの日になった。会場の因島市民会館は約千人ほどのキャパの小さな会館で、どこか懐かしい雰囲気のする建物だった。こんな小さな島でコンサートをやって、果たしてお客さんは来てくれるのか心配していたぼく達だったが、コンサートが始まってみたら客席はほぼ満杯で、ぼく達は胸を撫で下ろした。コンサートが始まってステージから客席を見渡すと、おそらく今日来た大半の方が、初めて浜田さんのコンサートを観るのではないかと思われるようなムードが、何となく全体に漂っていた。そして大音量でのコンサートにちょっと戸惑っている風でもあった。この日のセットリストは以下の通り。
01.ひとりぼっちのハイウェイ
02.愛を眠らせて
03.朝のシルエット
04.いつかもうすぐ
05.いつわりの日々
06.恋の西武新宿線
07.愛のかけひき
08.涙あふれて
09.片思い
10.幻想庭園
11.風を感じて
12.今夜はごきげん
アンコール
13.さよならの前に
14.ミッドナイト・ブルートレイン オープニングの「ひとりぼっちのハイウェイ」の前には、オーバーチャーのようなちょっとした長めのイントロが付いていた。「朝のシルエット」は町支、岡島、板倉の三声によるアカペラのコーラスから始まるアレンジだった。エンディングの「今夜はごきげん」アンコールの「さよならの前」は、レコードになったアレンジとは、かなり違う感じのアレンジで演奏していた。 浜田さんもぼく達バンドも、いつもとはちょっと違う雰囲気に最初は緊張したが、終わってみればいつものように盛り上がったコンサートになった。コンサート終了後、地元の方々も交えての打ち上げが行われた。中には村上水軍の末裔の方もいらしていて、とても興味深い話を聞くことが出来た。海の幸を堪能したぼく達は、すっかりいい気分になって、満天の夜空を眺めながら歩いて旅館まで帰った。
写真◆1979(昭和54)年頃。ヒゲを生やしていた。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/7.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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削除大男EP写真◆https://youtu.be/zsLbBzJdDQ4
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1985(昭和60)年11月15日(金)、レベッカ『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』がオリコン・アルバム・チャート1位を獲得
2018(平成30)年11月15日(木) 執筆者:馬飼野元宏
1985(昭和60)年11月15日(金)、レベッカの通算4作目のアルバム『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』がオリコン・アルバム・チャートの1位を獲得した。レベッカにとっては初のアルバム1位であり、ここで大ブレイクを果たした彼らは、80年代後半の音楽シーンを代表するロック・バンドとして活躍していく。
レベッカはその後レッド・ウォー リアーズで活躍する木暮武彦が結成したバンドで、ヴォーカルのNOKKOが82年2月に加入する前は男性ヴォーカルであった。NOKKOの加入は82年の2月。同年夏には木暮とNOKKOが全米デビューを目指しいきなり渡米したり、ソロ・デビューの打診があったNOKKOがバンドにこだわりこれを断るなど、幾多のメンバー・チェンジも含め様々な紆余曲折があった。結果、84年4月21日、「ウェラム・ボートクラブ 」でCBSソニーのFITZBEATレーベルからデビューを果たす。FITZBEATは83年に後藤次利が創設したレーベルで、ソニーの数あるレーベルの中でも、ロック色が強く、レベッカのほかには聖飢魔II、グラスバレー、宮原学らが所属していた(その後合併してキューン・ソニーとなる)。EPICソニーと並んで、ソニーが若い世代向けのロックを生み出していくのに欠かせないレーベルである。
レベッカのバンドスタイルが新しかったのは、ヴォーカルが女性(NOKKO)で、そのほかの演奏メンバーが男性というメンバー構成にある。まだこの時代、日本のロックシーンでこういったバンド編成は珍しく、成功した前例としてはサディスティック・ミカ・バンドぐらいであった。その後レベッカのブレイクによって、このスタイルのバンドが数多く世に現れる ようになったのである。
デビュー後も新宿ルイードなど全国のライブハウスを周るが、当初観客の反応は悪く、京都のライブハウスでは観客がたった4人という(バンドメンバーより少ない)経験もしている。各地のライブハウス出演や学園祭、フェスなどを回るうちに動員は増え始め、84年11月発売のセカンド・アルバム『NOTHING TO LOSE』を発売する頃には、東京のライブハウスではキャパの倍以上の観客を集めるようになった。85年1月の渋谷エッグマン公演では、同会場の動員記録を作るが、この月、木暮武彦は音楽の方向性の違いからレベッカを脱退、同時にドラムの小沼達也もバンドを抜ける。これを転機として、NOKKOのキュートなヴォーカルの魅力を前面に押し出し、曲調もハードなものからポップに変化していく。イメージ的には当時、人気絶頂だったマドンナのイメージを下敷きに、ちょうどマドンナのファッションやメイク、ヘアを真似た「ワナビーズ」と呼ばれるティーン少女たちの日本版といった雰囲気を持っていた。3枚目のシングル「ラブ・イズCASH」がマドンナの「マテリアル・ガール」をお手本にしていることでも、狙いは明確だ。
だが、マドンナのエピゴーネンを離れ、独自の世界を切り開き始めたのが、シングル4作目にあたる「フレンズ」だった。『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』にも収録されているこの名曲は、日本人好みのマイナーのメロディーをもち、NOKKOも従来のハネた歌唱法から伸びのある歌い方に変え、ロックのビート感はそのままに、誰もが口ずさめる作品に仕上がっている。そして切ないメロディー・ラインと符号するように、ノスタルジックで誰もが共感できる歌詞が載せられ、ドラマ『ハーフポテトな俺たち』の主題歌に選ばれたこともあり、ふだんロックを聴かない層にも強く浸透し、オリコン・チャート3位の大ヒットを飛ばした。この曲によってレベッカは、初期の本格ロック志向や、和製マドンナ的イメージから脱却し、独自のガール・ポップ路線を敷くことになったのである。
「フレンズ」がヒットチャートを駆け抜けている同年11月1日に、アルバム4作目『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』がリリースされる。作詞は基本的にNOKKOと、その後沢田知可子「会いたい」の大ヒットを飛ばす沢ちひろ。作曲はリーダーの土橋安騎夫がほぼ全曲を手がけている。アルバム各曲におけるディレイの長さ、シンセサイザーをベースにしたサウンドづくりは、さすがに80年代的なものを感じさせるものがあるが、ベースとドラムのリズム・セクションの強さ、さらにその上に乗るキーボードの音色とエモーショナルなギターの響き、そしてNOKKOの誰にも真似の出来ないヴォーカル・スタイルと、パーフェクトなアンサンブルが聴ける。マドンナやシンディ・ローパーの登場でにわかに活気づいたガール・ポップという世界的潮流を、日本において開拓したのがレベッカであり、この『REBECCAⅣ~Maybe Tomorrow』であったのだ。
歌詞の内容も、OLの生活感を描いた「ボトムライン」や、都会で暮らす女性のふとした孤独を歌う「Cotton Time」、ハッチャケた女の子を快活に表現した「76th Star」「ガールズ ブラボー!」など緩急自在のサウンドに対応する、普通の女の子の日常が描写されている。そして最後を飾る表題曲「Maybe Tomorrow」は、その後のライブでもトリで歌われることが多い、バンド屈指の名バラード。オリコン・チャート1位のみならず翌87年の年間チャートでも4位に食い込む大ヒット作となる。このアルバムのもつ、ロックのビート感覚とガーリーな世界の融合は、日本の音楽シーンを変えてしまうほどの衝撃があった。
過去3作のアルバムもチャート・インし、アルバム・リリース直後に始まったコンサートツアーには全国で多くのファンが殺到、大盛況をみせた。なかでも同年12月25日に渋谷公会堂で行われたステージは伝説的な内容と言われ、その後DVD発売されたほか、2018年3月にZepp Diver Cityと大阪Zepp Nambaでフィルム上映が行われた。また、85年1月のエッグマンで動員記録を作り、同年4月には渋谷ライブ・インで「酸欠ライブ」と呼ばれるほどの熱狂をみせ、その後渋谷公会堂、そして日本武道館、スタジアムツアーへとライブ動員を増やしていく。こういった「バンド出世双六」が誕生したのも、レベッカの成功が契機なのだ。
レベッカは91年2月に解散するが、その後幾度かのリユニオンを経て、2015年には大々的な再結成ライブが行われ、同年のNHK『紅白歌合戦』にも出場。往年のファンのみならず、関係各方面からも熱いエールが送られた。80年代後半にティーンだった少年少女たちの思いを支えたレベッカは、大人になった彼らファンとともに、再びシーンの中心に返り咲いたのである。
レベッカ『REBECCA IV~Maybe Tomorrow~』「ラブ・イズCASH」「フレンズ」 写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
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≪著者略歴≫馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。近著に『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(シンコーミュージック)、構成を担当した『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』(リットー・ミュージック)がある
http://music-calendar.jp/2018111501