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┃ 三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道 ┃
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2012(平成24)年04月03日(火) 制作
写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
─―先生は、いま目方どのくらい。
「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
─―どのくらいにふとりたいのですか。
「15貫は、ほしいですね」
─―バーベル・マンになられた動機は。
「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
─―学生時代に何かスポーツは。
「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
写真◆バーベル運動する三島
さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
<おまけ>
三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
https://tanken.com/misima.html
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┃ 三島事件 ┃
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†1970(昭和45)年11月25日(水)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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映像◆アナザーストーリーズ 松嶋菜々子「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] https://youtu.be/HOx5_GEx4YM
2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
1966(昭和41)年09月02日(金) 43:23『LIFE』
1966(昭和41)年09月02日(金) 43:29『LIFE』三島腕相撲BODY写真◆
1968(昭和43)年10月17日(木) 44:54 ノーベル文学賞発表
映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
‡昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
‡1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
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┃ 三島由紀夫 ┃
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1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
†1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
TransylvaniaBoogie
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html
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映像◆三島由紀夫③https://youtu.be/m3va9zEQEZY
1969(昭和44)年05月13日(火) 1:48 東大キャンパスで、1000人以上を前に2時間半の闘論
1970(昭和45)年11月18日(水) 3:56 美輪明宏と最後のお別れ
1970(昭和45)年11月24日(火) 4:31 安部譲二と最後のお電話
03:23 Q:あれ(盾の会)は戦後再軍備徴兵制のひとつのシンボル操作になりませんかね
A:僕は絶対に利用されません!
僕はそうやすやすと敵の手にのりません!
敵っていうのは政府であり、自民党であり、つまり、戦後体制全部です。
社会党も共産党も含まれてます。
偽善の象徴ですから。僕はこの連中の手には絶対にのりません!
今に見てて下さい・・・僕がどういう事をやるか
『FRIDAY 』創刊号 三島由紀夫“生首”画像
1984(昭和59)年12月14日(金)発行 150円
14年目に発見された衝撃写真 三島由紀夫「自決」の重みをいま ※表紙言葉
14回目の憂国忌を前に三島由紀夫「自決」の重みを問う
初めて発見された写真からはいまも「死を賭けた訴え」が聞こえてくる・・・
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t770089343
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┃ 『檄』楯の會隊長 三島由紀夫 ┃
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われわれ楯の會は、自衞隊によつて育てられ、いはば自衞隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行爲に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、學生は三年、隊内で準自衞官としての待遇を受け、一片の打算もない敎育を受け、又われわれも心から自衞隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「眞の日本」をここに夢み、ここでこそ終戰後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂國の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳驅した。このことには一點の疑ひもない。われわれにとつて自衞隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の氣を呼吸できる唯一の場所であつた。敎官、助敎諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの擧に出たのは何故であるか。たとへ強辯と云はれようとも、自衞隊を愛するが故であると私は斷言する。われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白?態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を?してゆくのを、齒?みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衞隊にのみ、眞の日本、眞の日本人、眞の武士の魂が殘されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衞隊は違憲であることは明白であり、國の根本問題である防衞が、御都合主義の法的解釋によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廢の根本原因をなして來てゐるのを見た。もつとも名譽を重んずべき軍が、もつとも惡質の欺瞞の下に放置されて來たのである。自衞隊は敗戰後の國家の不名譽な十字架を負ひつづけて來た。自衞隊は國軍たりえず、建軍の本義を與へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか與へられず、その忠誠の對象も明確にされなかつた。われわれは戰後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衞隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衞隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衞隊が建軍の本義に立ち、眞の國軍となる日のために、國民として微力の限りを盡すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。四年前、私はひとり志を抱いて自衞隊に入り、その翌年には楯の會を結成した。楯の會の根本理念は、ひとへに自衞隊が目ざめる時、自衞隊を國軍、名譽ある國軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衞となつて命を捨て、國軍の礎石たらんとした。國體を守るのは軍隊であり、政體を守るのは警察である。政體を警察力を以て守りきれない段階に來て、はじめて軍隊の出動によつて國體が明らかになり、軍は建軍の本義を囘復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る」ことにしか存在しないのである。國のねじ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少數乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。しかるに昨
昭和四十四年十月二十一日(火)に何が起つたか。總理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、壓倒的な警察力の下に不發に終つた。その?況を新宿で見て、私は、「これで憲法は變らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒嚴令にも等しい警察の規制に對する一般民衆の反應を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を收拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政體維持のためには、何ら憲法と牴觸しない警察力だけで乘り切る自信を得、國の根本問題に對して?つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて實をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利點を得たのである。名を捨てて、實をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衞隊にとつては、致命傷であることに、政治家は氣づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる僞善と隱蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。銘記せよ! 實はこの
昭和四十五年十月二十一日(火)といふ日は、自衞隊にとつては悲劇の日だつた。創立以來二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衞隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民黨と共産黨が、非議會主義的方法の可能性を晴れ晴れと拂拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生兒であつた自衞隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。われわれはこの日以後の自衞隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衞隊に武士の魂が殘つてゐるならば、どうしてこの事態を默視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衞隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に對する、男子の聲はきこえては來なかつた。かくなる上は、自らの力を自覺して、國の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衞隊は聲を奪はれたカナリヤのやうに默つたままだつた。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を與へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に與へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは來ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に關する財政上のコントロールである。日本のやうに人事權まで奪はれて去勢され、變節常なき政治家に操られ、黨利黨略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせに乘り、より深い自己欺瞞と自己冒?の道を歩まうとする自衞隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。纎維交渉に當つては自民黨を賣國奴呼ばはりした纖維業者もあつたのに、國家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衞隊からは出なかつた。沖繩返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を囘復せねば、左派のいふ如く、自衞隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒?する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。
(注)
1 上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として『多摩湖畔日誌』というサイトに掲載してある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、
1976(昭和51)年02月25日(水)発行)所収の本文を参照して記述しました。→ 三島由紀夫「檄」(「檄文」のコピーの写真)
2 文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、旧字体に直して表記しました。(全集の漢字はすべて旧字体になっています)なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつた」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが「ねぢ曲つた」となっています。
2011(平成23)年08月23日確認)
* 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には「ねぢ曲つた」となっている点だけです。
3『全集』の巻末にある「校訂」には、「銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われるが、原文のままとした>とあります。
4 この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決に際して遺されたものである」とあります。
5 著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断して、掲載させていただきました。
6 三島由紀夫は、昭和45年(1970)11月25日、楯の会隊長として隊員4名とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本庁)に東部方面総監を訪ね、その部屋で懇談中、突然日本刀を持って総監を監禁、部屋の前のバルコニーで演説してクーデターを促しましたが、自衛隊員は決起せず、約1時間後に割腹自殺を遂げました。享年45。(フリー百科事典『ウィキペディア』による。)
7 三島由紀夫(みしま・ゆきお)=小説家・劇作家。本名、平岡公威(きみたけ)。東京生れ。東大卒。20世紀西欧文学の文体と方法に学んで、秩序と神話を志向、純粋日本原理を模索して自裁。作「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」など。(1925-1970) (『広辞苑』第6版による)
三島由紀夫(みしま・ゆきお)=(1925-1970)小説家・劇作家。東京生まれ。本名、平岡公威(きみたけ)。東大卒。絶対者の希求、美的死生観、様式美への憧憬を昇華させて唯美的世界を構築。その傾向はしだいにナショナリズム的色彩を強めた。割腹自殺。著「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鹿鳴館」「豊饒の海」など。 (『広辞林』第2版による)
8 三島由紀夫の死をどうとらえるか。それを肯定的にとらえるにせよ、否定的にとらえるにせよ、いずれにしても、自分なりに検証しておく必要があるだろうと思い、資料の一つとして掲載しました。
9 山中湖畔にある『三島由紀夫文学館』のホームページがあります。
10 フリー百科事典『ウィキペディア』に「三島由紀夫」の項があり、三島由紀夫についての詳しい解説が出ています。
11 三島由紀夫に、「私が組織した「楯の會」は、會員が百名にも滿たない、そして武器も持たない、世界で一等小さな軍隊である。毎年補充しながら、百名でとどめておくつもりであるから、私はまづ百人隊長以上に出世することはあるまい」という書き出しの、「楯の會」結成一周年記念パンフレット(昭和44年11月)に掲載された「「楯の會」のこと」という文章があります。これを「檄」を読むときの参考に、資料の一つに入れたいと思いましたが、考えてみると、著作権がまだ切れていないということがあり、結局、資料に加えることを断念しました。関心のある方は、『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、
1976(昭和51)年02月25日(水)発行)などでご覧ください。なお、三島由紀夫が楯の会会員にあてた遺書「楯の会会員たりし諸君へ」という文章がネット上に出ていて、これを読むことができます。
12『四国の山なみ』というサイトに、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で行った演説
「三島由紀夫演説文」が掲載されています。
13 読売新聞文化欄、
2011(平成23)年06月06日(月)の「今に問う言葉」で、文芸評論家の富岡幸一郎氏は、三島由紀夫の『太陽と鉄』(1968年)から「『武』とは花と散ることであり、『文』とは不朽の花を育てることだ」という言葉を引いて、次のように書いておられます。
†1970(昭和45)年11月25日(水)、三島由紀夫は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部(当時)で千人の隊員たちを前に演説後、割腹自殺した。自衛隊がアメリカの傭兵(ようへい)である現状から脱却し、名誉ある国軍となるために憲法改正に立ちあがれ、との主張であった。(中略) 死の数年前に著した『太陽と鉄』は、作家の思想を凝縮した文学的遺書であり、戦後のあらゆる価値の転倒した時代にこそ、「文武両道」という古い徳目が復活すべきだと説いている。「武」と「文」という相反する緊張感のなかに、日本人の伝統感覚を追求しようとした三島。「武」が欠落すれば「文」は弛緩(しかん)し腐敗する。その衝撃的な死からすでに40年。日本は何も変わってはいない。
http://sybrma.sakura.ne.jp/348mishima.gekibun.html
藤原副社長、マツダが売れなくなったって本当ですか?
‡2019(令和元)年11月25日(月) 07:05 池田直渡
写真◆ITmedia ビジネスオンライン マツダの藤原清志副社長
ここ最近のマツダには、聞いてみたいことがたくさんある。あれだけ出来の良いクルマを作りながら販売台数がなんで落ちるのか? MAZDA3とCX-30を批判している人は、まず乗ってみたのか聞きたい。あれに乗って、それでも高すぎると本当に思うのだろうか?
いやもちろん手元不如意(ふにょい)で買えないという意味なら、例え新車のフェラーリやアストン・マーティンが500万円だとしても、「俺には買えないじゃないか! バカヤロー!」なのは筆者も同じ。しかしそれはコストパフォーマンスの話じゃない。とはいえ「マツダは身の丈をわきまえない値上げで失敗した」という意見は根強い。それについての反論を聞きたい。
さらに、第2四半期の決算で、FRのラージプラットフォームのリリースを1年後ろ倒しにする発表があった。マツダの北米戦略にとっても、そして国内の第7世代ラインアップの完成という意味でも手痛い延期である。なんでそんなことが起きるのか、そしてどう対応するつもりなのか?
いろいろと聞きたいと思っていたら、千載一遇のチャンスがやってきた。全てを知り、なおかつ一番本当のことをズバリしゃべってくれそうな藤原清志副社長がインタビューに応じてくれることになったのである。
すでにインタビューは終えているが、それはもう超高密度のものすごいインタビューだった。2時間に及ぶ丁々発止の真剣勝負で、エネルギーを使い果たし、満足したと同時に燃え殻になりかけた筆者だが、書かないと終わらない。
あのインタビューを最大限伝える読み物に仕立てようとすると、まずは上述の2つのテーマで筆者が解説原稿を書くべきだと思う。「第7世代は売れてないのか?」、そして「ラージプラットフォーム延期の真相」。間を空けるのも何なので、それを月火と連続で掲載し、その後、水木金で藤原副社長のインタビューをフルで(といってもたぶん、多少はカットしないと入らないし、オフレコの話もある)お届けしようという計画である。
●マツダは身の程知らずに値上げした?
さて、「マツダは身の程知らずにクルマの値段を高くして、ユーザーに総スカンを食らった結果、クルマが売れなくてもう終わり」と、ネット界隈ではアンチ発言が渦巻いている。本当なのか?
まずは価格の話からだ。車両価格は確かに上がっている。だがそれは「利幅を増やして大儲け」という話ではない。藤原副社長はそこをこう説明する。「今、CASEの対応で、絶対みんな(車両価格が)上がる時代なんですよ。コネクティビティとか先進安全技術とか、電動化とか、そういうことを考えると必ずベースは上がります。どの会社もこれから出てくる新車は、それ(CASE)を入れてしまったら(価格は)上がるんです。そこをどう見るか? 商品の価値を見ずに高い高いといっているのはあるかと思うんです」
それはつまり、CASE周辺にはとてつもないお金が掛かる割に、ユーザーとしては価値を実感し難いということでもある。
「(CASE対応をやれば)20万円くらいは最低でも価格が上がるんですが、そこだけで価値として分かってもらえないので、そこにわれわれが何をするかなんです。値上がりの原因はほとんどがCASEなんですけど、(第7世代では)静粛性の向上やオーディオ音質の向上、インテリアの質感、この3点は、(分かりにくい)CASEじゃない領域で(高くなった分)良くなっているでしょ? と納得を得るためにやってきたんです。それで『いいよね。このくらいするよね』と思っていただけるようにしたかった。だから、高額にしたとか、価格が高いといわれると、『その比較対象は、いったい何年のどのクルマなんですか?』と思うのが正直なところです」
否が応でもやってきたCASEの時代のコストについて、むしろマツダは、ユーザーの納得感のために、可能な限りその他の部分の価値を上げることで頑張ったのだというのが、藤原副社長の主張である。Cセグメントとして高すぎるという人たちには、「赤いファミリア100万円」時代の記憶が消しがたく残っているのだろう。しかし赤いファミリアからは40年。それだけの年月を挟んだ製品の価格を比べても仕方ない。だからこそ「何年のどこのクルマなんですか?」という発言になるのだろう。
●マツダの戦略は失敗なのかを検証する
さて、高い安いという感覚の話はおいて、利益がどうなっているかを見てみよう。
マツダの2020年3月期第2四半期決算を見ると、かなり厳しい数字が並んでいる。売上高、営業利益、経常利益、税引き前利益、当期純利益、売上高営業利益率の全てがダウン。特に売上高利益率1.5%は正直瀕死の重傷に見える。
いったい何でこんな事になったのかは別の表を見ると見えてくる。営業利益変動要因だ。筆者はこのページを見て驚いた。ベースの数字は前年の利益298億円にプラス312億円。つまり商品そのもの利益は2倍に増えている。販売台数がダウンしているにもかかわらず利益が2倍というのは内容が劇的に向上しているということだ。
自動車メーカーの利益を左右する主要因は、おおむね5つある。台数(販売台数)、構成(単価)、販管費(値引き)、品質関連費用(リコールなど)、為替だ。多くの決算書では台数・構成・販管費をひとまとめにした上で、利益変動要因を説明する。マツダの場合それが図表の左側2つ。前年度の利益と本年度のベースとなる利益だ。グローバル販売台数が8%ダウンしているという結果を見れば、これが倍増する理由は消去法で見れば「構成」と「販管費」のどちらか、または両方にあることになる。
その部分の解説コメントには「販売費用の抑制と単価改善の効果」と書かれており、多くの場合、影響が大きい順に書かれる。つまり商品の販売に関わる諸費用(販管費)が減っている。マツダの宿痾(しゅくあ)ともいえた値引きが激減しているということだ。なのになぜ財務指標では営業利益が減っているかといえば、375億円という凄まじい為替差損である。
というのはどういうことか? ちょっと解説しよう。19年3月期の本決算発表において、マツダの丸本明社長は、インセンティブの増加で利益率を落としたことについて再三にわたって反省の弁を述べた。昨年のマツダは、北米でセダン販売の減速をカバーするために禁じ手の値引きを発動してしまったのだ。
13年から始まった構造改革プランでも、17年から始まった構造改革ステージ2でも、マツダが必死に取り組んできたのはブランド価値の改善である。簡単にいえば値引きを抑制し、中古車価格を高く保つということだ。それだけ長いこと中核課題として取り組んできながら、19年の本決算で「また値引きをしてしまいました」と言うので、だとしたら一体一連の構造改革とは何だったのか? と筆者は思わざるを得なかったのである。販売奨励金、つまり値引きは麻薬である。「ダメ絶対!」と思ってもなかなか止められない。
ところがそれからたった半年で、そこを改善して利益のポテンシャルを2倍まで躍進させてきたのである。もちろん北米で一度毀損させたブランド価値はそう簡単に回復しないので、先行してブランド戦略が成功している日本の利益が、北米をカバーしたと考えるのが妥当だろうが、それでもトータルで大きなプラスを稼ぎ出しているという意味では、筆者から見ると内容的に花丸級である。
しかしながらマツダは運が悪い。せっかく胸を張れる結果を出した時に、向かい風の突風が吹いて為替差損でプラスが全部消し飛んだのみならず、後退を余儀なくされた。為替というのは天災のようなもので、これをうまく避ける方法はなかなかない。
では藤原副社長はこれをどう受け止めているのだろうか? 筆者の「構造改革としては大成功と認識して良いのではないか?」という問いに対する答えはこうだった。
「(構造改革がうまくいったという認識は)ありますけど、全然満足していませんし、道半ばだと思ってます。台数が減っているんですよ。販売に掛かる費用を抑えてミックス(構成)を少し良くしていって、というところは良いんですけど、台数が落ちているところがやっぱりダメだと思っているので、この売り方をしながら、台数を伸ばせるかどうか、そこができたら大成功だと思うんです」
しかしトータルとしては、通期の見通しは155万5000台なので、前期の156万1000台と比べても微減ではないかという筆者は思う。
「いやいや、北米は期初の公表台数(目標値)から見たら2万5000台のマイナスです。つまり昔の売り方(値引き販売)でしか、台数を売れない人たちがまだまだ存在するんです」。
なるほど、実際米国でのMAZDA3の販売構成を見ると、低価格帯、つまりベーシックグレードで苦戦している。
「ここ(Cセグメントのベーシックグレード)は、(北米では)日本でいったら軽自動車みたいなところですから、このセグメントの顧客は、特に低価格志向が強い人たちがたくさんいます。そこはどちらかというと販売店がインセンティブ(奨励金)を打ちながらこれまで販売してたところです。今は価値訴求販売だといっても、米国では約50年ぐらい一緒にビジネスをやらしてもらっているので。変えようとして努力はしたんですけど、少し不足していたと思います」
さて、第7世代は高いか安いか、そしてマツダの戦略は大失敗なのかについて、筆者なりの考えをまとめておこう。
いまやCセグメントの価格は300万円が普通になりつつある。だからこそ、今や売れ筋は200万円で買えるBセグに移りつつある。「クルマに払うのは200万円くらい」という人にとっては高くなった実感は確かにあるだろう。
しかし世界はクルマの安全性や環境性能により高い水準を求めつつあり、それらの機能がタダで追加できない以上、車両価格は上がる。むしろマツダの場合、ブランド価値にうぬぼれられない自覚があるから、そういう見えにくい機能の向上についてただお金を取れるとは考えなかった。だからその分、静粛性の向上、オーディオ音質の向上、インテリアの質感向上の3つで埋め合わせる努力をした。そこを全部無視して金額だけで高いというなら、中身とのバランスはどうでもいい絶対価格だけの話になるのではないか?
そして、戦略の成否だが、これは非常に難しかった部分についてうまくいきつつある。ただし、限られた範囲とはいえ、商品の価値に対しての値段ではなく、絶対価格勝負のマーケットがあり、その影響で台数を減らしている。そのための出口は、再度値引きを始めることではないだろう。価値を評価してくれる人に対してしっかり訴求していくこと、つまりマツダの価値を認める層を増やし、そこで買ってもらうことだと思う。
→インタビュー第2弾 藤原副社長、ラージプラットフォーム投入が遅れる理由を教えてください
https://www.msn.com/ja-jp/news/money/藤原副社長、マツダが売れなくなったって本当ですか%ef%bc%9f/ar-BBXh94F?ocid=spartanntp