過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

2024(令和六)年壱月壱拾四日(日)曜日の初記事ですヨ(=^◇^=)


◆映像◆https://video.fc2.com/content/20220108pGQJq1TU
 スタジオ凍りつく、元厚生労働省医系技官 木村もりよ氏「バカげたコロナ対策」で騒動を起こしてる!
 2022(令和四)年01月5日(水)、テレビ番組『情報ライブ ミヤネ屋』
◆映像◆https://youtu.be/-a7omk77IlA
【右向け右】第400回 木村盛世・元厚労省医系技官×花田紀凱
 オミクロンは怖くない
‡2022(令和四)年1月14日(金)夜10時、第400回のゲストは元厚労省医系技官の木村盛世さんです。
オミクロン株による新型コロナウイルスの感染拡大で、沖縄、山口、広島各県は政府にまん延防止等重点措置の適用を要請、政府は
 2022(令和四)年01月09日(日)から
 2022(令和四)年01月31日(月)までの適用を7日に決めました。3県は、適用地域の飲食店に営業時間短縮や酒類の提供停止を求める方針だということです。木村さんは
 2022(令和四)年01月5日(水)、テレビ番組『情報ライブ ミヤネ屋』に出演し、第5波が急減したことについて「人流抑制がどの程度効果があったかは分からない」とし、オミクロン株について「南アフリカのようにワクチン接種がかなり低いところでも収束してきているわけですから、ワクチンも治療薬もできたなかでは、感染を無理に止めない。医療体制を万全に整えることが私たちがやらなければならないこと」と指摘しました(『デイリー』1月5日より抜粋)。また、ウイルス感染について次のように説明しています。
「無理に感染する必要はないけど、感染は山を描く。ということは一定程度の感染ができないと、下がってこないということ」「感染力が強くなるということは、変異したウイルスが私たち共存していく絶好の条件を得られたということ。コロナでも変異を繰り返しながら、感染の数は増えながら致死性は減っていて、通常の風邪に近づいていくことになる」(同前)
そして、効果がどれだけあるか分からない自粛やまん防を繰り返すのは止めた方がいいと指摘されました。オミクロン株、そして今後の新型コロナウイルスへの対応について、木村さんにお伺いします。
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 2021(令和三)年07月06日(火) 20:04:17.99ID:Z3SAsyJ4
 698 NO MUSIC NO NAME
>>676
 ロードアンドスカイ227号の最新号にちゃんと掲載されていましたね(=^◇^=)ゞ

【Road&Sky 227】号の引用 P.32 
 オリジナルとの変更点はほかに
♪八月の歌♪のタイトルを
♪八月の歌 1974♪に。
  これは、1974(昭和四十九)年、
 当時の首相の田中角栄がアジアを訪問した際に、
 インドネシアで反日の暴動が起きた事件を
 背景とした歌であるということを
 明確にするための変更です。
 ┏━━━━━━┓
 ┃ マラリ事件 ┃
 ┗━━━━━━┛
‡1974(昭和49)年01月14日(月)、田中角栄首相は東南アジア歴訪の最後の訪問国としてインドネシアを訪れるべく、ジャカルタのハリム空港に到着した。しかし、デモ隊によって空港から迎賓館への主要道路はすべて封鎖されており、迂回して迎賓館へ向かった。迎賓館での会議そのものは平穏無事に終わったが、迎賓館の外では暴動が過熱し[4]、3日間にわたる内乱の中で、11名が殺され、17名が重篤な傷をおい、120名が負傷、おおよそ770名が拘束された。また、1,000台以上の車両が破壊され、144棟の建屋が破壊されるか焼損するかした[4][5][6]。暴動の様子は日本国内でもテレビ中継され、インドネシア国民の激しい反日感情に日本国民は衝撃を受けた。スハルト大統領は田中との会談の最中、暴動に関して遺憾の意を表明した。デモの中心となった学生運動家たちは、日系企業がスハルト側近の将校たちや華人系財閥と癒着してビジネスを拡大しているとして暴動を起こしたとされている。結局、田中はインドネシア訪問の最中、迎賓館から出ることは一度もなく、インドネシアを発つ
 1974(昭和49)年01月17日(木)にはヘリコプターで空港まで向かう羽目になった[7]。インドネシア政府は事件から一週間後、「暴動は政権打倒と憲法改正を目指す謀略だった」との結論を発表した。当時の治安責任者だったスミトロ(インドネシア語版)は更迭されるが、後に権力の座に返り咲いた[2]。
 マラリ■https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 音源◆https://youtu.be/8w8rRr2AaEc

ということで
>>217 の書き込みは、解釈が歪んでおりますヨ(=^◇^=)
 ⑤■https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/musicjm/1624458824/


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 ┃      三島由紀夫とボディビル~      ┃
 ┃天才作家はどうして肉体改造にハマっていったのか?┃
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 2015(平成27)年05月11日(月) トレーニング
 昭和の日本を代表する作家の一人であった三島由紀夫。彼が文学とは対極にあるボディビルにハマっていた事は世間ではあまり知られてませんが、マニアには有名な話。三島由紀夫は生まれつき体が弱く、虚弱体質だったそうで身長は平均ながら、かなりやせ細った外見だったそうです。三島由紀夫とボディビル~天才作家はどうして肉体改造にハマっていったのか?それは世間がイメージする作家像そのままだと思うのですが本人は己の体にかなり強いコンプレックスがあったようです。偶々「誰でもこんな身体になれます」という雑誌広告を見て初めてボディビル競技の存在を知り、そのままジムへ入門ガッツポーズどっぷりと肉体改造の道にはハマり、鍛錬し続けたそうです。きっと生まれつき並外れた集中力を持っていたんでしょうね。三島由紀夫とボディビル~天才作家はどうして肉体改造にハマっていったのか?彼の本は読んだことが無いし、文学的才能はわかりませんがまだトレーニング設備やサプリメント類が整っていない時代にあれだけの肉体改造を果したんですから彼が流した汗の量や努力の度合いは理解することができます。
 https://protein.ti-da.net/e7542204.html
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 ┃ 三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道 ┃
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 2012(平成24)年04月03日(火) 制作
 写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
 1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
 最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
 1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
 ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
 1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
 1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
 リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
 1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
 写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
 それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
 三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
  問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
 三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
 1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
 写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
 1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
 1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
 この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
 ─―先生は、いま目方どのくらい。
 「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
 ─―どのくらいにふとりたいのですか。
 「15貫は、ほしいですね」
 ─―バーベル・マンになられた動機は。
 「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
 ─―学生時代に何かスポーツは。
 「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
 写真◆バーベル運動する三島
 さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
 1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
 1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
 写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
 自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
 私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
 写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
 1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
 写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
 <おまけ>
 三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
 1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
 作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
 https://tanken.com/misima.html
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 ┃ 三島事件 ┃
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 1970(昭和45)年11月25日(水) 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 削除映像◆アナザーストーリーズ 松嶋菜々子「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] https://youtu.be/HOx5_GEx4YM
 2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:23『LIFE』
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:29『LIFE』三島腕相撲BODY写真◆
 1968(昭和43)年10月17日(木) 44:54 ノーベル文学賞発表

 削除映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
 昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
 削除映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
 1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
 1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
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 ┃ 三島由紀夫 ┃
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‡1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
 1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
 映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
 
 TransylvaniaBoogie 
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html

【今日は何の日?】1970/11/25 三島由紀夫、割腹自殺 ~天才作家・三島由紀夫の生涯~
 2019(令和元)年11月25日(月) 23:55:35 テーマ:ブログ 本日(11/25)は、今から49年前、作家・三島由紀夫が、衝撃的な割腹自殺を遂げた日である。
 1970(昭和45)年11月25日(水)、三島由紀夫は、自らが組織した「縦の会」の会員達と、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乗り込み、益田兼利総監を人質に取った。そして、三島は「憲法改正」を訴える演説をした後、それが自衛隊の隊員達に受け入れられない事を見て取ると、その後、割腹自殺をしてしまった。というわけで、今回は、この衝撃的な「三島事件」と、天才作家として活躍した、三島由紀夫の生涯について、ご紹介させて頂く事としたい。
<平岡公威(後の三島由紀夫)の生い立ち…19251月14日、代々の官僚の家系に生まれる>平岡公威(ひらおか・きみたけ)、後の三島由紀夫は、
‡1925(大正14)年01月14日(水)、東京都四谷区(現・新宿区)で、父・平岡梓(当時・30歳)、母・倭文重(しずえ・当時19歳)夫妻の長男として生まれた。公威は、幼少期には祖母・夏子に溺愛されて育てられたが、夏子は倭文重から公威少年を取り上げるようにして、専ら、自分の側に置いていたという(※上の写真は、幼少期の公威と、祖母・夏子)公威の祖父にあたる、平岡定太郎(1863~1942)は、東京帝国大学(東大)を経て、福島県知事、樺太町長官などを歴任した、エリート官僚であり、士族・永井岩之丞の娘・夏子(1876~1939)と結婚した。そして、1894(明治27)年には、長男・梓が誕生した。平岡梓(1894~1976)は、父・定太郎と同じく、東京帝国大学(東大)を経て、農商務省に勤務したという、エリート官僚の道を歩み、開成中学校校長・橋健三の娘・倭文重(1905~1987)と結婚した。そして、前述の通り、1925(大正14)年01月14日に、夫妻の間に長男・公威が誕生した。公威は、このようにエリート官僚の家系に生まれたのであった。
<「昭和の元号=三島由紀夫の年齢」~昭和の申し子・三島由紀夫>ところで、平岡公威(三島由紀夫)は、1925年1月14日生まれであるが、翌1926年、「大正」という元号が終わり、「昭和」が始まった事により、偶然にも、「昭和」という元号の年と、年齢が一致するという事となった。例えば、1926(昭和元)年には「1歳」、1930(昭和5)年には「5歳」というのが、彼の年齢である。そう考えると、三島由紀夫は、まさに「昭和の申し子」と言っても良いであろう。(なお、公威が生まれた3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が誕生している)
<天才少年・平岡公威…幼い頃から、天才的な文才を発揮した三島由紀夫(学習院初等科時代)>公威は、学習院初等科に入ったが、流石は東大卒のエリート官僚の家系に生まれただけあって、幼い頃から、抜群に勉強が得意な、大変賢い少年であった。そして、この学習院初等科時代から、作文では大人顔負けの、物凄く上手い文章を書き、先生や級友を驚かせた。後の天才作家・三島由紀夫の片鱗は、早くもこの頃から見えていたという事であろう。例えば、公威が8歳の時に書いた詩『冬の夜』は、下記の通りである。
 火鉢のそばで猫が眠つてゐる。電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。おぢいさまが、「けふはどうも寒くてならんわ」とおつしやつた。冬至の空はすみのやうにくろい。今は七時だといふのにこんなにくらい。弟が、「こんなに暗らくつちやつまんないや」といつた。そして、これは公威が9歳の時に書いた、『大内先生を想ふ』という作文である。
 ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。いかがであろうか?これが、本当に8歳や9歳の少年が書く文章であろうか。全く、三島由紀夫とは子供の頃から、正真正銘の天才であった。
<1936(昭和11)年02月26日(水)…「二・二六事件」が勃発~後の三島由紀夫に大きな影響を与えた大事件>
 1936(昭和11)年02月26日(水)、陸軍青年将校らが蜂起し、東京を占拠するという、クーデター事件、所謂「二・二六事件」が勃発した。蜂起した部隊は、数日後に全て鎮圧されたが、「二・二六事件」は、当時11歳の公威に強烈なインパクトを与え、後の三島にも、思想的に大きな影響を与えた。
<平岡公威、13歳で初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表~作家・三島由紀夫の原点>1938(昭和13)年1月頃、学習院中等科1年の公威は、当時13歳にして、初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表した。以後、公威は、文学を志す仲間達と共に、精力的に文学活動を行ない、同人誌に作品を次々に発表して行った。というわけで、この作品こそ、作家・三島由紀夫の原点であると言って良い。
<1941(昭和16)年…学習院中等科の教師・清水文雄の勧めにより、筆名「三島由紀夫」を名乗り、『花ざかりの森』で作家デビュー!!~1944(昭和19)年、『花ざかりの森』を自費出版>1941(昭和16)年7月頃、公威は小説『花ざかりの森』を書き上げ、学習院中等科の国語教師・清水文雄に献上し、読んでもらったところ、清水文雄は、『花ざかりの森』の、あまりの素晴らしさに衝撃を受けた。そして、自らが参加する文芸雑誌「文藝文化」に、『文藝文化』を掲載したところ、『花ざかりの森』は、読者から大絶賛を受けた。しかし、公威の父・梓は、公威の作家活動には猛反対していた。そこで、清水先生は、公威が本名で作品を発表しては、色々と差し障りが有るという事を慮り、公威に「三島由紀夫」という筆名(ペンネーム)を名付けた。「三島由紀夫」とは、静岡・三島から見える富士山の頂に、雪が積もっている情景をイメージしたものであり、清水先生が、公威に対して、「日本一の作家を目指せ!!」という激励の意味を込めたものであった。以後、公威は終生、「三島由紀夫」という筆名を名乗り続けた。なお、『花ざかりの森』は、戦争が激化していた1944(昭和19)年、自費出版されたが、これは、戦争のために、いつ死ぬかわからないので、「遺書」のつもりで出版されたとも言われている。
<1944(昭和19)年、三島由紀夫、学習院高等科を首席で卒業し、東大進学~1945(昭和20)年、終戦と、妹・平岡美津子の死去>1944年、三島由紀夫は学習院高等科を首席で卒業し、東京帝国大学(東大)法学部に進学した。東大進学後、三島は徴兵検査に合格し、軍隊に入隊したが、幸いにも、三島は最前線に送られる事はなく、
 1945(昭和20)年08月15日(水)、日本は戦争に敗れ、終戦の時を迎えた。三島は、言いようの無い虚脱感に襲われたが、終戦直後、
 1945(昭和20)年10月23日(火)、三島の3歳年下の妹・平岡美津子は、17歳の若さで、腸チフスのために亡くなった。妹と大変仲が良かった三島は衝撃を受け、そして深い悲しみに沈んだ。妹・美津子の早すぎる死は、三島の生涯にとって、忘れようにも忘れられない、痛恨事であった。
<1946(昭和21)年…三島由紀夫、川端康成の知遇を得て、『煙草』を発表~三島由紀夫と川端康成の「師弟関係」の始まり>戦争が終わり、茫然自失としていた上、妹の死の悲しみも癒えない三島ではあったが、東大での学業の傍ら、再び精力的に文学活動を再開した。しかし、当時、三島は文壇では無名の存在であり、いくら作品を書いても、出版社に持ち込んではボツになるという繰り返しであった。そんな時、戦前、三島の『花ざかりの森』を読み、三島に注目し、三島に手紙を送っていた川端康成を、三島は訪ねた。三島は、藁にもすがる思いだったが、この時、三島が書いた『煙草』という短編を読んだ川端康成は、この作品を絶賛した。そして、文芸誌「人間」に、『煙草』を掲載させるよう、川端が強力に働きかけ、『煙草』が無事掲載されると、各方面から大絶賛され、三島は、漸く文壇での足掛かりを築く事が出来た。このように、三島由紀夫にとって、川端康成はまさに「恩人」であり、三島は生涯、川端の事を師として仰いでいた。もし、川端が居なかったら、果たして三島が世に出ていたかどうかはわからず、そういう意味でも、川端との出会いは、三島にとって、大きな分岐点だったと言って良い。
<1946(昭和21)年12月…太宰治VS三島由紀夫のバトルが勃発!!~太宰と三島、生涯ただ一度の出会いで、三島は太宰に「僕は貴方の文学は嫌いです」と言い放つ>1946年、当時、大人気作家だった太宰治と、文壇デビューして間もない三島由紀夫は、当時の編集者の計らいにより、出会いを果たした。当時、太宰は取り巻き達と毎晩のように大酒を飲んでいたのだが、その酒席を三島が訪ねたのである。ところが、三島は太宰に向かって、面と向かって、「僕は、貴方の文学が嫌いなんです」と、言い放った。あまりの物言いに、その場は凍り付き、太宰も「そんなに嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と、憮然として言った。実は、三島は「自らの弱さを売りにするような」太宰の文学が、前々から嫌いであり、一言、言ってやりたいと、ずっと思っていたのであった。なお、太宰と三島の「喧嘩」は、現在公開中の映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』でも描かれているが、この2年後(1948年)、太宰は愛人と心中してしまったため、太宰と三島の「出会い」は、この一度きりで終わってしまった。しかし、文学史上の巨人同士が出会っていたという事は、非常に興味深い。※なお、太宰は芥川賞の選考委員だった川端により、芥川賞に選んでもらえず、川端を恨んでいたというのも、三島・川端の関係とは非常に対照的で、これまた面白い
<1947(昭和22)年…三島由紀夫、東大を卒業~高等文官試験に合格し、大蔵省に入省~三島、官僚と作家の「二足の草鞋」を履く>1947年、東大を優秀な成績で卒業した三島由紀夫は、高等文官試験に合格し、同年、大蔵省に入省し、祖父と父に続いて、東大卒業⇒官僚という、エリート官僚の道を歩み始めた。しかし、三島は官僚になったとはいえ、文学の道を諦めたわけではなかった。三島は、大蔵省に務める傍ら、執筆活動を続けた。つまり、官僚と作家という「二足の草鞋」を履いた生活を続けたわけだが、父・梓は、相変わらず三島の作家活動には反対であった。しかし、三島は作家活動を辞めず、睡眠時間を削ってまで、作品を書き続けた。そんな中、1948(昭和23)年夏、三島は駅のホームで睡魔に襲われ、線路に転落するという目に遭った。幸い、電車は来ず、大事には至らなかったが、この事件により、父・梓も漸く三島の作家活動を認め、「わかった、作家になる事を許してやる。そのかわり、日本一の作家になれ」と、言い渡した。そして、三島は大蔵省を辞め、遂に作家専業で生きて行く事を決意した。
<1949(昭和24)年…三島由紀夫、『仮面の告白』を発表、大ベストセラーとなり、文壇の寵児となる!!>1949年、作家一本でやって行く事を決意しら三島由紀夫は、背水の陣のつもりで、長編小説を書き上げた。それが『仮面の告白』であるが『仮面の告白』は、大ベストセラーとなり、文壇でも絶賛され、三島由紀夫は、遂に不動の人気作家としての地位を確立したのであった。
<三島由紀夫『潮騒』1954年『金閣寺』1956年など、ベストセラーを続々発表!!~押しも押されもせぬ大作家に>その後、三島由紀夫は『潮騒』1954年『金閣寺』1956年など、話題作、大ヒット作を次々に発表し、三島は押しも押されもせぬ大作家となって行った。三島の、明晰な文体と、華麗な文章は、まさに余人を以て代え難いものであり、まさに、三島由紀夫は文壇でも唯一無二の作家であり、常に話題の人であり続けた。
<三島由紀夫は同性愛者?~1951年、三島由紀夫と丸山明宏(美輪明宏)の出会い>ところで、三島由紀夫は同性愛者であるとされ、実際、同性愛をテーマにした作品も発表しているが、1951年、三島由紀夫は、美少年・丸山明宏(1935~、後の美輪明宏)と出会った。三島と丸山明宏はすぐに意気投合し、生涯、親しく付き合ったが、二人の間にどのような感情が有ったのかは、よくわからない。なお、三島は、江戸川乱歩が原作の『黒蜥蜴』を、丸山明宏のために、戯曲として仕立て上げ、丸山明宏に提供しているが、『黒蜥蜴』は、美輪明宏のライフワークとなっているのは、ご存知の通りである。
<1956(昭和31)年…三島由紀夫と石原慎太郎の出会い>1956年、『太陽の季節』でデビューしたばかりの石原慎太郎と、三島由紀夫が対談を行なった。最初は和やかだったものの、段々と話が合わなくなり、その内、三島は居合で石原を威嚇(?)しようとしたが、三島が持って来て、エイヤっと振り上げた刀が、鴨居に当たってしまい、刃が欠けてしまったという。石原慎太郎曰く、「あの人は、運動神経が無いからね」との事であった。
<1958(昭和33)年…三島由紀夫、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子と結婚~三島由紀夫は「両性愛者」だった?>1958年、三島由紀夫は、お見合いで知り合った、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子(1937~1995)と結婚した。三島と遥子の間には、長女・紀子、長男・威一郎が誕生し、三島夫妻は仲睦まじく暮らしたが、三島はどうやら「両性愛者」だったと思われる。
<三島由紀夫とボディビル…三島、安部譲二との出会い(1955年頃)により「肉体改造」~後に、安部譲二をモデルに『複雑な彼』1966年を発表>1955年頃、三島は行き着けのゲイバーで、用心棒をしていた安部譲二(1937~2019)と出会った。安部譲二は、用心棒として、タチの悪い酔客を取り鎮めたりしていたが、三島は、安部の腕前を見込んで、安部の紹介によりボクシングジムに通うようになった。そして、ヒョロヒョロだった三島は、この出会いを機に、ボディビルで身体を鍛え、「肉体改造」を行なうようになった。なお、三島は、1966年に、安部譲二をモデルとした小説『複雑な彼』を発表したが、安部譲二は、後に『塀の中の懲りない面々』で作家デビュー、ベストセラー作家となった。そして、三島の「肉体改造」は、見事に成功した。三島は筋肉ムキムキになり、好んで、自らの肉体美をグラビア写真で発表したりしていたが、何事も、とことんやり通す、三島らしいエピソードであると言えよう。しかし、三島の「肉体改造」は、周囲の人を戸惑わせたという。
<1960(昭和35)年…三島由紀夫、映画『からっ風野郎』に主演!!~三島、若尾文子と共演し、ヤクザ役を熱演>1960年、三島由紀夫は大映映画『からっ風野郎』に主演し、若尾文子との共演で、ヤクザ役を熱演した。当時、三島は大人気作家であったが、三島はもはや作家の枠を超え、時代を代表する大スターとなっていた。
<1968(昭和43)年…川端康成、ノーベル文学賞を受賞!!~三島も、師・川端の受賞を喜んだが…>1968年、川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。師・川端康成の受賞を、勿論、三島も大いに喜んだが、三島も、ノーベル文学賞候補として、度々話題になっており、もしかしたら、三島としては、ちょっと複雑な心境だったかもしれない。
<1968(昭和43)年…三島由紀夫、私設軍隊「楯の会」を結成~しかし、世間の失笑を買う>1968年、憂国の念を深くした三島由紀夫は、私設軍隊である「楯の会」を結成した。三島なりに、日本という国を憂い、日本という国を愛するが故の行動であったが、「楯の会」結成当時、世間の反応は冷ややかであり、「三島さん、一体どうしちゃったんだ」と、世間の失笑を買ってしまった。しかし、この「楯の会」が、後に大事件を引き起こす事となった。
<1969(昭和44)年…三島由紀夫VS東大全共闘>1969年といえば、学生運動の全盛期だったが、同年、三島は母校の東大を訪れ、東大全共闘との討論会に臨んだ。三島と、東大全共闘との考え方の隔たりは大きかったが、三島は彼らに対し「君達の思想は認めないが、その行動力は絶対に認めます」と言っている。何も行動しない知識人よりも、行動する君達はずっと偉いと、三島は述べたのであった。
<1970(昭和45)年11月25日(水)…三島由紀夫と「楯の会」、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、総監を人質に取り、三島は割腹自殺> そして、その2年後の
 1970(昭和45)年11月25日(水)、冒頭で書いた通り、三島は「楯の会」のメンバー達と、市ヶ谷駐屯地に乗り込み、総監を人質に取り、三島は「改憲」を訴える演説を行なった後、三島は割腹自殺し、メンバーに介錯され、壮絶な死を遂げた。三島由紀夫、享年45歳。まさに、時代を駆け抜けた大作家の、あまりにも鮮烈な生涯は、数多くの作品と共に、今もなお、強烈な光を放っている。
 #三島由紀夫#東京大学#川端康成#太宰治#石原慎太郎#安部譲二#若尾文子#美輪明宏#江戸川乱歩#自衛隊
 https://ameblo.jp/hoseiyakyuubukenkyuu/entry-12548851268.html

 名古屋VS福岡VS広島 来年のG7サミット誘致合戦が号砲
‡2022(令和四)年01月14日(金) 17:00『朝日新聞デジタル』
 写真◆G7サミットを誘致する3都市の比較c 朝日新聞社 G7サミットを誘致する3都市の比較
 2023(令和五)年に日本で開かれる主要7カ国首脳会議(G7サミット)の開催地に名古屋、広島、福岡の3都市が名乗りをあげた。政府は今年6月にドイツで開かれるサミットの前には開催地を決める方針で、3都市のアピール合戦は早くも過熱している。近年の開催地は政治判断で決まっており、岸田政権の判断が注目される。
■名古屋 一番に名乗りも、本音は「閣僚会合かも」■G7サミット開催地に最初に名乗りを上げたのは名古屋市だ。20年12月に市議会で意向を表明した。愛知県などと官民一体で誘致をめざす推進協議会が昨年
 2021(令和三)年12月09日(木)に設立され、河村たかし市長が会長に就いた。河村氏は昨年11月の記者会見で「国際的知名度や都市ブランドが上がるための大きなチャンス。コロナ禍で落ち込んだ地域経済を復興させる起爆剤になる」と誘致のねらいを説明した。市が昨年末に外務省に提出した誘致計画案では、首脳会議の会場は熱田区の名古屋国際会議場、国内外の記者が集まる国際メディアセンターは港区の市国際展示場を想定している。関係閣僚会合では、会場を中区の名古屋観光ホテル、国際メディアセンターは同区のヒルトン名古屋を候補とした。名古屋市は16年のG7サミット開催地にも応募したが、決まったのは三重県・伊勢志摩だった。19年の主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)では愛知県が立候補したが、大阪市に敗れた。名古屋市はリベンジをかけ、地元の産業や技術力、「名古屋めし」などの観光資源といった魅力の発信につなげたい考えだ。ただ、市内部では早くも「首脳会議は無理だろう。本命は関係閣僚会合の誘致だ」との声も聞かれる。前回の16年が隣県・三重だったためだ。幹部は「同じ東海地方は選ばれにくいのでは」。近年のサミットは伊勢志摩や19年の仏ビアリッツ、21年の英コーンウォールなど地方のリゾート地が選ばれることが多い。幹部は「名古屋にふさわしい場所はない」。岸田文雄首相の地元・広島が有力なライバルになるとみる。名古屋市のもう一つの課題は県との連携だ。愛知県の大村秀章知事は推進協の顧問に就いたものの、設立総会には出席しなかった。昨年、大村氏への解職請求(リコール)の署名活動を河村氏が支援するなどし、両氏の関係は完全に冷え切っている。「県と市の職員の関係まで険悪になりがちだ」(市幹部)として、県と市トップの確執が足並みの乱れにつながることを危惧する声もあがる。それでも名古屋市が率先して手を挙げた理由について、別の幹部は「市が主導して大きな国際会議を誘致したのは10年の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が恐らく最後で、以降は県主導の誘致活動に協力する形となっていた」と指摘。そのうえで「市は政令指定都市としてきちんと力をつけ、地域の先頭に立つ意志を示す必要がある。誘致活動を通じて市職員が力をつけることがねらいだ」と話す。県との関係については「トップ同士がうまくいかなくても、職員は落としどころを見つけて一緒に仕事している。県と市がけんかしていては他の地域との競争に勝てない」。協議会の事務局を務める市によると、サミット誘致については市と県の担当者間で連絡を密に取り、協調しているという。(関謙次)
■福岡 弱点の高級ホテル不足「克服」、リベンジに熱気■福岡市、福岡県は昨年10月にG7サミットの誘致を表明した。「G20サミットを大阪に取られた悔しい思いが残っている。リベンジしたい」。福岡市内で開かれた記者会見で、高島宗一郎市長は、服部誠太郎知事や九州経済連合会の倉富純男会長(西日本鉄道会長)と並んで声を上げた。
‡2022(令和四)年01月14日(金)にはそろって首相官邸を訪れ、「アジアと世界をつなぐ日本の役割を国際社会に強くアピールできる」などと岸田文雄首相に「誘致」を直談判した。アクセスの良さも売り物だ。大阪、愛知と争った19年のG20サミットは当初、福岡市が最有力と目されたが、土壇場で大阪に苦杯を喫し、財務相・中央銀行総裁会議の開催にとどまった。海外の要人が宿泊できる高級ホテルの不足がネックになったとされる。弱点解消に向けて福岡市が期待を寄せるのが、市中心部の再開発「天神ビッグバン」だ。高さや容積率の緩和で高層ビルの建設ラッシュが起きており、23年春には外資系高級ホテルのザ・リッツ・カールトンが開業を予定する。市は、ほかの高級ホテルと合わせて計3万2千室の確保を見込み、G7開催の要件は満たせるとみる。福岡空港から中心部まで車で約10分というアクセスの良さも要人警護の観点から強みだとアピールしている。
 2022(令和四)年01月07日(金)の記者会見で、高島市長は「前回はスイートルームの数で指摘を受けたが、こうした部分はアップデートできている。交通アクセスはトップレベルの評価を受けている」と自信をのぞかせた。G20誘致時は福岡市単独での手挙げだったが、今回は福岡県と九州経済連合会も合同で誘致活動を進める。各国首脳の配偶者らによる社交行事「配偶者プログラム」などで、県内各地の名所や施設の活用も見込んでいる。市の担当者は「条件はそろっている。事務的には他の2都市に劣る要素はない」。市と県は昨年末に誘致計画を外務省に提出した。詳細な内容は非公表だが、関係者によると、首脳会議の会場は、G20財務相・中央銀行総裁会議でも主会場だったホテル「ヒルトン福岡シーホーク」(中央区)、取材拠点のメディアセンターは隣接する「福岡ペイペイドーム」を想定する。過去の国際会議や国際スポーツ大会の開催実績、アジア各国とのつながりも含めて「福岡が最適な場」と一歩も引かない構えだ。福岡が最も警戒する相手もやはり広島だ。福岡市の高島市長は昨年12月7日の記者会見で「岸田首相のおひざもと。一番のライバル」と明言した。そのうえで「決定する首相の思いも心の中にあるだろうが、広島に決める大義をどこに持って行くのか」と牽制(けんせい)した。今年
 2022(令和四)年01月07日(金)の会見でも「年も明けたので、あとは表に裏に色々な形での駆け引きがこれから始まるのかなと思っている」と語り、最終的には政治判断になるとの認識を示した。(松沢拓樹)
■広島 政権おひざ元で「本命視」、被爆地ならではの弱みも■広島市が広島県とサミット誘致を正式表明したのは昨年11月。3都市で最も遅かったが、地元では早くも「本命」との見方が広がる。決定権をもつのが地元選出の岸田首相だからだ。当の首相も12月の参院予算委員会で「世界の政治指導者に原爆の実相に触れてもらうことは大変重要だ」と語り、広島開催への意欲をにじませた。
「来年6月までに適切に判断したい」とも述べてほかの都市への配慮もみせたが、長らく地元で首相を支えてきた中本隆志・広島県議会議長は心境をこう読み解く。「話が出た瞬間から広島に誘致したいとの思いは強くもっておられる」広島は00年、16年のサミット開催にも名乗りを上げたが、00年は沖縄、16年は伊勢志摩に敗れた。被爆地を選挙区にもつ岸田氏は「核兵器のない世界」をライフワークに掲げる。外相時代には16年のG7外相会合や米オバマ大統領の広島訪問を実現させたこともあり、別のベテラン広島県議は「岸田政権のレガシー(遺産)になる。さすがに今回のレースは負けんじゃろ」と余裕の表情だ。年明けからは広島の財界人らと協力しながら政府への要望活動を展開する方針で、地元から30年ぶりに誕生した首相の存在を「切り札」として、過去2回の誘致レースで敗れた雪辱を果たす狙いだ。ただ、広島には被爆地ゆえの懸念材料もある。核保有国の米英仏がG7メンバーで、特に広島へ原爆を投下した米国は、オバマ大統領が広島を訪れた際も、国内世論に「謝罪」ととられないよう細心の注意を払った。地元選出の国会議員は「広島開催に難色を示す国も出るかも。事前の水面下での外交交渉がかぎをにぎるだろう」とみる。名古屋、福岡と比べた都市規模の小ささも弱点だ。広島市は16年のG7外相会合が開かれたグランドプリンスホテル広島(南区)を主会場に、原爆ドームに近い広島国際会議場(中区)をメディアセンターにする方針だが、市内にほかに高級ホテルは少ない。日本政府観光局の調査でも、コロナ禍直前の19年に開かれた国際会議数は福岡4位、名古屋6位だったのに対し、広島は12位で大きく離されている。広島では22年に外資系高級ホテルのヒルトンホテルの開業が見込まれる。
 2021(令和三)年11月30日(火) 松井一実・広島市長は昨年11月の記者会見で、要人を受け入れる態勢について「客観的に見ていただけるはずだ」と胸を張ったものの、敗れた過去2回からの具体的な改善点を問われるとあいまいな答えに終始した。(大久保貴裕)
■サミット開催地どう決まる 注目は「政治判断」■先進国の首脳が集うサミットは、石油危機などを契機に1975年にフランスのランブイエで初めて開かれた。ロシアを加えたG8の枠組みで開かれた時期もあったが、ウクライナ情勢の悪化などにより14年からは7カ国で続けられている。20年は米国で開催予定だったが、コロナ禍のため対面での首脳会議は開かれなかった。サミットの開催は各国の回り持ちだ。日本は過去6回のうち3回が東京開催だったが、2000年以降はいずれも地方で、沖縄、洞爺湖(北海道)、伊勢志摩(三重)で開かれた。開催地選定では、外務省が事前に、国際会議場や賓客を受け入れる高級ホテルの充実度、警備態勢、交通アクセスなどをチェックする。最終的には時の首相の意向が大きく反映される。08年の洞爺湖サミットの際、政府は決定当時の首相だった安倍晋三氏の著書名に通じる「『美しい国日本』のイメージに合致」などを挙げ、「首相が総合的に判断した」との答弁書を閣議決定している。安倍氏は16年の「伊勢志摩」も選んだ。当時、「日本の精神性に触れていただくには大変よい場所」と語っていた。00年の沖縄開催を決めた小渕恵三首相は出身派閥が歴史的に沖縄を重視してきた経緯があった。小渕氏は00年5月に死去し、サミットには出席できなかった。サミットを誘致する地域では国際的な知名度向上や経済効果への期待が強い。三重県によると、16年の伊勢志摩サミットでは直接的な経済効果が1070億円、国内外のメディアに取り上げられたことによるパブリシティー効果が3098億円あったという。一方、北海道経済連合会の試算では、08年の洞爺湖サミットの直接的な経済効果は約350億円、開催後5年間の経済効果は約280億円だった。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/79395bb81f0e2d451b8333e3339622fcfaaec095
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 G7誘致「核廃絶契機に」広島県・市が正式表明
 2021(令和三)年11月30日(火) 19:42 産経WEST できごと ライフ くらし 地方 中国・四国 広島 政治 地方自治
 写真◆記者会見する湯崎英彦・広島県知事(左)と松井一実・広島市長=30日午後、広島市
 広島県の湯崎英彦知事と広島市の松井一実市長らが30日、広島市内で共同記者会見し、令和5年に日本で開催予定の先進7カ国首脳会議(G7サミット)の誘致を目指すと正式に表明した。松井氏は「核兵器廃絶に向け、核抑止力に依存しない安全保障政策に転換する契機となる」と意気込みを語った。原爆慰霊碑への献花や原爆資料館視察の提案も検討する。広島では平成28年にG7外相会合が開催されており、松井氏は「警備体制や施設がある」と実績をアピール。湯崎氏は「核廃絶に向け新たな一歩が踏み出せる。官民一体で誘致活動を進めたい」と述べた。県や市は今後、12月中旬までに国に誘致希望の書類を提出する。松野博一官房長官は同日の記者会見で「開催時期は未定だが、来年のドイツサミットまでに政府として判断したい」と述べた。
 https://www.sankei.com/article/20211130-L3YFYQGRHNMIHOJZD2CBCXY2CU/

‡2013-01-14 16:21●シリーズ:知らないと生き残れない<3>
‡2013-01-14 14:19●食の世界の人間牧場(家畜を食べる家畜の生産)?!
 https://martin310.exblog.jp/19588211/


■1999.01.04 小川直也
「新日本プロレスのみなさま、目を覚ましてくださーい」
 東京ドームで対戦した橋本真也に対してセメントマッチをしかけた小川直也が、橋本をKOしたあと、リング上でマイクを持って観客に向かって発した言葉。
 当時小川が所属していたUFOとの対抗戦、セメントマッチの真相など、うやむやのまま抗争は立ち消えになった。
■1999.01.04 長州 力
「これがオマエのやり方か?」“暗黙のルール破りはあってはならない”---これが長州の持論であり、いつでもシュートマッチ辞さずの構えだった猪木との違い。リングサイドに着くとそのままの勢いでカメラマンを思い切り蹴り飛ばしてリングに上がった長州。コーナーポストに座った小川ににじり寄り、「これがオマエのやり方か?」(あるいは、「これがオマエのやりたいことか?」)と声をかける長州は何度も「下りろ、下りろ」と繰り返した。
‡1999年1月14日号 週刊ファイト
■1999.01.04 橋本真也
「許さないぞ、アントニオ猪木」
 東京ドームで小川直也から一方的なセメント試合を仕掛けられ、無様な姿を晒してしまった橋本真也。橋本はあくまでプロレスを観客に見せたかった。その試合直後の怒りの会見。
「なにがアントニオ猪木だ、コノヤロー、ホントに。けしかけて、けしかけて。もう小川の目、飛んでるやん。完全に飛んでるやん。絶対許さないよ」
「オラ、後ろで焚きつけているやつ、誰か知らないけど、俺、許さないよ。遂に別れの時が来たよ、ホントに。許さないぞ、アントニオ猪木」
「誰か知らないけど」と一度は言葉を濁してみたものの怒りがおさまらず、「許さないぞ、アントニオ猪木」ときっぱり。「闘魂伝承から一転、遂にアントニオ猪木と決別することになった。アントニオ猪木も新日本プロレスの闘いにこの怒りを求めていた。
 https://kissatalk.web.fc2.com/meigen.html

 映像◆BOφWY https://youtu.be/VyzKSA1ykzU
‡1986・1・14 中野サンプラザ REPORT
 ▼他のウェブサイトでの再生は、動画の所有者によって無効にされていますヨ(=^◇^=)

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