過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOraだヨ(=^◇^=)O♂

 


SUNDAY LIBRARY 
小林 照幸・評『力道山対木村政彦戦は…』石田順一・著
2015年12月8日
戦後屈指のヒーローを研究しつくした集大成 
◆『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』石田順一・著(北國新聞社/税抜き2000円) 
 1980年代初めより、プロレス誌に力道山の新知見を発表してきた本書の著者の石田氏は「力道山史研究家」としてプロレスファンに広く知られている。52年、石川県金沢市生まれ。81年に自費出版した『わがふるさとの金沢プロレス史』はプロレスと郷土史という視座を提示し、専門誌紙の記者、読者のみならず、当時現役のA(アントニオ)猪木や坂口征二らも評価し、県紙・北國新聞社は「プロレス史研究家」として注目した。 
力道山が日本でプロレス興行を開始したのは54年だ。石川県下初のプロレス興行は同年9月23日、金沢市… 
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http://mainichi.jp/articles/20151208/org/00m/040/044000c

 映像◆#21 タイガーマスクVSカネックhttps://youtu.be/laW3AEo6Xfs
‡1981(昭和56)年12月08日(火) 蔵前国技館 45分1本勝負
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃       『初代タイガーマスク大全集』       ┃
 ┃ ~奇跡の四次元プロレス1981-1983~ 完全保存盤DVD BOX ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
■1981年放送21回目
‡21 1981(昭和56)年12月08日(火) 東京・蔵前国技館 45分1本勝負
  タイガーマスクVSカネック
  タイガーマスクが“メキシコの帝王”のカネックと初対決。ヘビー級のパワーに押され、左足首骨折の重傷を負う。
 2008(平成20)年9月3日(水) DVD on SALE  PONY CANYON INC.
 ファン号泣!伝説の初代タイガーマスクの失われた31試合を発見!
 1981(昭和56)年~1983(昭和58)年までにTVでオンエアされた89試合の内、
 87試合を収録したコンプリートBOX発売!
 本編DISC4枚+特典DISC1枚の5枚組!
 PCBE.62256 / ¥19,200(本体)+税:631分
 発売元:ビデオパックニッポン
 2008テレビ朝日/新日本プロレス
  ◎活動期間・・・2年4か月 
 ◎シングル戦・・・155勝1敗9分
 インフォメーション・・・伝説の初代タイガーマスクが蘇る!!1981年~1983年までの約2年間、華麗なる空中技と変幻自在な四次元殺法、威力抜群の打撃技で、プロレス界のみならず、社会的に空前の“タイガーマスクブーム"を巻き起こした初代タイガーマスク=佐山サトル。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週20%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。タイガーマスクは今までに何度もビデオ、LD、DVD化され、大ヒットを飛ばしている。初代タイガーマスクは1981年~1983年までにテレビでオンエアされた89試合のうち56試合はソフト化されていたが残り33試合はテレビ朝日にも映像はなく、ファンにとっては失われた試合となっていた。今作はソフト化されていなかった試合31試合を含んだ87試合を収録!文字どうり完全保存盤になります。
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 http://visual.ponycanyon.co.jp/short/sakuhin/PCBE000062256/?REF=VISUAL
 https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRU7aYvpoAb_mn1WlB0F6pwF
 https://www.amazon.co.jp/dp/B0019M5GB6
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SUNDAY LIBRARY 
小林 照幸・評『力道山対木村政彦戦は…』石田順一・著
2015年12月8日
戦後屈指のヒーローを研究しつくした集大成 
◆『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』石田順一・著(北國新聞社/税抜き2000円) 
 1980年代初めより、プロレス誌に力道山の新知見を発表してきた本書の著者の石田氏は「力道山史研究家」としてプロレスファンに広く知られている。52年、石川県金沢市生まれ。81年に自費出版した『わがふるさとの金沢プロレス史』はプロレスと郷土史という視座を提示し、専門誌紙の記者、読者のみならず、当時現役のA(アントニオ)猪木や坂口征二らも評価し、県紙・北國新聞社は「プロレス史研究家」として注目した。 
力道山が日本でプロレス興行を開始したのは54年だ。石川県下初のプロレス興行は同年9月23日、金沢市… 
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昭和は輝いていた? 黄金の力道山に純金バナナ 横浜
2015年5月23日(sat) 09時29分
黄金に輝く等身大の力道山像=横浜高島屋
黄金色に輝く往年のプロレスラーの力道山像などを展示した「大黄金展」が横浜高島屋8階で開かれている。入場無料。25日まで。
日本が「貧しくても輝いた時代」として、昭和がテーマ。空手チョップで外国人レスラーを倒し、敗戦でうちひしがれた日本人を勇気づけた力道山をはじめ、当時は高価だったバナナなど、昭和に光り輝いていたものを含む約1千点を展示販売している。
金箔(きんぱく)をはりつけた力道山像は、高さ約180センチの等身大で、値段は1944万円。ほかに、純金製のバナナ(5400万円)など。同店1階の正面玄関前には、重さ約120キロで、約6億円の世界最大級の金塊が置かれ、手で直接触れることができる。
http://www.asahi.com/articles/ASH5Q4PTQH5QULOB00F.html?ref=yahoo


第四話 プロレスの殿堂・リキパレス 
 (1)渋谷の丘の殿堂 
 (2)力士からプロレスラーへ 
 (3)ヒーロー誕生 
 (4)観客との奮闘 
 (5)波乱のこけら落とし 
 (6)天皇の次に有名な男 
 (7)成功の影で 
 (8)分断された祖国 
 (9)力道山の死とその後のリキパレス 
http://www.interq.or.jp/cancer/kuramasa/index01.html

第四話 プロレスの殿堂・リキパレス(7)~成功の影で~
<力道山に勝った男>
http://www.interq.or.jp/cancer/kuramasa/rikidouzan07.html

大ヒットホラー映画は実話だった【やりすぎ都市伝説 2009年SP】http://youtu.be/zH3nu6heZJI
ー語り手:品川祐
 ・スティーヴン・キング作品「ミザリー」は実話だった
 ・ジョン・レノンを殺害した犯人に遭遇していたスティーヴン・キング
ー関連して ・テリー伊藤が遭遇したミザリー

Great Antonio vs. Antonio Inoki http://youtu.be/9lXAGZtMxU8
まだ太平洋戦争と呼びますか? 「大東亜戦争」 http://youtu.be/ne9GbFIgAxM
時事ドットコム:終戦特集~太平洋戦争の歴史~http://www.jiji.com/jc/v2?id=20110803end_of_pacifi_war

太平洋戦争開戦ラジオ放送 http://youtu.be/r4xKhHfLB0s

有名人衝撃死の真相「力道山」“最古参プロレス記者が語る力道山の死”
Posted on 2015年8月9日(日) 9:56 AM 
戦後最大の英雄だった力道山は
1963(昭和38)年12月15日(日) ヤクザに刺された傷がもとで、39年の生涯を終える。現役最古参のプロレス記者・門馬忠雄氏が、当時の緊迫した様子を再現告白する。当時、「東京スポーツ」のボクシング担当だった私は社で原稿を書いていると、「力道山、急死」のニュースに原稿を放り投げて現場に向かった。プロレス担当になるのは1年後だったが、これだけ大きな事件だから担当も何もない。すでに赤坂の山王病院から自宅のリキアパートに遺体が運び込まれ、周辺を取り囲んだ日本プロレスの所属レスラーたちは、一様にピリピリした空気を出していた。先輩記者に聞いた話では、力道山の病室では、刺した組員への「仕返し」を考えているレスラーもいたというから。力道山は
1963(昭和38)年12月 7日(土) 静岡・浜松で試合をし、夜行列車で帰京。翌
1963(昭和38)年12月 8日(日) 赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で飲んでいたところ、口論となった若い組員に腹部を刺される。そして
1963(昭和38)年12月15日(日) 腸閉塞から容体が悪化し、午後9時20分に亡くなった──これが当時の私の取材メモです。日本にプロレスを根づかせ、熱狂を生んだカリスマだけに、翌日のスポーツ紙には「プロレスの灯が消えた」と書いているところがあった。力道山の死はイコール、プロレスの死だと報じられたのです。そして
1963(昭和38)年12月20日(金) 池上本門寺で行われた葬儀は、これほどの人がどこから集まってくるのかと思うくらい、とぐろを巻くほどの列だった。葬儀を終えた日本プロレスは、未亡人の名を借りた4人の合議制(豊登、遠藤幸吉、芳の里、吉村道明)に移行。そこから豊登が次の社長になったが、競輪や競馬に会社の金をつぎ込むなど経営者の器ではなかった。そんな混乱を救ったのが、アメリカから凱旋帰国したジャイアント馬場だ。馬場はアメリカでもスーパースター級の活躍をしていたが、日本に帰ってきたことで一躍、救世主となった。これにアントニオ猪木も続いた。力道山の死がプロレス界にもたらしたのは、インパクトを与えながらの「世代交代」という概念。日本の戦後と同じで、何もないところから復興を果たすという歴史の繰り返しだ。とりわけ、馬場と猪木の2大スターを育てたことが、力道山の最大の功績だったと思うね。
http://www.asagei.com/excerpt/40693
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1954(昭和29)年8月15日(日) 第1刷印刷発行
 ┃ 『プロ・レスラー 力道山物語』 ┃1954(昭和29)年9月 1日(水) 第2刷印刷発行
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1954(昭和29)年9月10日(金) 第3刷印刷発行
  三橋一夫:著 室町書房 定価 \150
 ┏━━━━━━━━━━━┓1964(昭和39)年3月 1日(日) 初版
 ┃ 『力道山 花の生涯』 ┃1964(昭和39)年4月15日(水) 11版発行
 ┗━━━━━━━━━━━┛三百円
   発行所:スポーツニッポン新聞社 編集:スポーツニッポン新聞東京本社
  2013/11/29(金) 午前 0:00  http://blogs.yahoo.co.jp/jaws112492/32944617.html
 ┏━━━━━┓1924(大正13)年11月14日(金) 生誕
 ┃ 力道山 ┃1963(昭和38)年12月 8日(日) 力道山、暴力団に刺される
 ┗━━━━━┛1963(昭和38)年12月15日(日) 39歳 暴力団員に刺された傷がもとで死去
「人間窮すれば通ずるものだ。手が使えなければ足を使う。足が使えなければ、かみついてでも試合はできる」書籍『ビジネスに活かす一流選手の言葉』より。
 http://showa-g.org/men/view/50 http://showa-g.org/wremarks/view/492
 衝撃トレ!力道山の宝刀・空手チョップの秘密
 2014(平成26)年7月20日(日) 16時00分  力道山はおそろしく原始的な方法で手刀を鍛錬【お宝写真館】撮影年月日は不明。写真は力道山が自宅で日曜大工にいそしむほほ笑ましい光景…などではない。なんと伝家の宝刀・空手チョップに不可欠である手の甲、指を木製のハンマーで叩きつけて鍛えている恐怖場面なのだ。空手家は拳で巻きワラなどを突くことで拳と拳を支える手首を鍛える。キックボクサーは足のスネをビール瓶で叩きスネの骨を硬くする。また、ぶちかましが得意な力士や頭突きを得意とするプロレスラーが硬い壁などに頭突きを繰り返すことで、頭の骨とそれを支える首を鍛える。一見、非科学的で野蛮そのものな鍛錬だが、痛みに慣れる(ある種のマヒ)ことで、それらのパーツで攻撃することにちゅうちょがなくなる上、それらの骨を覆う皮膚を酷使することで、ちょうど「タコができる」状態で皮が厚くなり、強度が増すという利点がある。だが力道山ときたら、大昔の拷問やSMに使用する三角木馬の小型版のような鋭角的な木材に手を置き、その手をワラ打ち用の器具(これは丸形)を四角形にした木製ハンマーで打ちつけて手刀を鍛えていたのである。撮影用のサービスショットであっても不思議ではないが、力道山の次男・百田光雄は父が自宅でこの器具を使い、手刀を鍛えている場面を目撃したことがあると証言。「手の全体を木製のハンマーみたいなので打ちつけているんだけど、だんだんと肉が割れて血が噴き出し、木製の器具が赤く染まってくるんだ。子供心にも怖かったね」写真からも力道山の尋常ではない指の太さ、手の甲の分厚さが分かる。大相撲時代に得意とした突っ張りを原型とする空手チョップだが、力道山は指や手の甲自体を硬くするという恐ろしい方法で手刀鍛錬を怠らなかったのである。空手チョップのフォーム自体は子供でもまねすることは容易。現在も見よう見まねで空手チョップを使用する選手は数多いが、この力道山の恐怖写真を目にしたら、安易に空手チョップを使用することなどできない。付け人だったアントニオ猪木をして「あの空手チョップ一撃に、あらゆる怒り、怨念が込められていた。すごい迫力だった」と語る力道山の空手チョップには、こんな鍛錬が隠されていたのだ。
 http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/288630/
「テレビでプロレスを見た。力道山の空手チョップを見て、自尊を満たした。僕ら文化人が何をすべきかというのが大事」
 http://matome.naver.jp/odai/2143728463268180201/2143728541269160403
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓1959(昭和34)年12月14日(月) 開店
 ┃ ニューラテンクォーター New Latin Quarter  ┃1963(昭和38)年12月 8日(日) 力道山刺殺事件発生
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛1989(平成元)年 5月27日(土) 閉店
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
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力道山・刺殺事件
-経緯- ⇒ 昭和38年12月8日午後11時頃、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、国民的英雄のプロレスラー・力道山(本名:百田光浩、当時39歳)が住吉連合系暴力団の大日本興行組員・村田勝志(当時24歳)に登山ナイフで刺され病院に搬送された。
力道山と村田は以前にも些細なトラブルを起こしていたが、事件当日もクラブのトイレで足を踏んだ、踏まないということから口論となり、激昂した村田は持っていた登山ナイフで力道山の脇腹を刺した。この背景には、対立関係にあった住吉連合と力道山のバックであった東声会との因縁が根底にあったとされている。
刺された力道山は脇腹を押さえながら席に戻ると、付き添いの連中の心配をよそに平然と酒を飲んでいたという。だが、それも時間の問題で、次第に出血がひどくなり車で赤坂山王病院に運ばれた。
【この日、相撲協会の高砂親方が相撲関係者を伴って力道山に面会した。相撲協会から脱会(後述)した力道山にとって、これは嬉しい出来事だった。相撲協会の幹部が自分に頭を下げて「大相撲ロサンゼルス興行」の相談に来たのだ。力道山は上機嫌で料亭に親方達を招待し痛飲したという。その後、TBSのラジオ番組は酔っ払って収録ができなかった。TBSをあとにした力道山は赤坂のニュー・ラテン・クォーターに向かったというから泥酔に近い状態だったと思われる】。
診察の結果、緊急手術が必要と判断した病院側は、聖路加病院の外科部長に執刀を要請し手術が行われた。手術は無事成功し命に別条は無いものと思われたが、12月15日の回診で腸閉塞を起こしていることが判明し直ちに手術を開始した。だが、午後9時頃から危篤状態に陥り同10時35分に死亡した。死因はショック死とされているが真相は謎のまま(遺族の希望で遺体は慶応病院で解剖された。その結果、担当医は「傷口の洗浄不備と麻酔の過剰投与が原因」と言っていた事が後年判明する)。
英雄・力道山の死は国民に驚きと深い悲しみを与えた。圧倒的な強さを誇った力道山が、錆びついた登山ナイフの一突きで死ぬなんて誰も信じることができなかった。最後の言葉は「おれは死にたくない」だったと言う。
 -力道山の生い立ちと時代背景- ⇒ 力道山は本名を金信格(キム・シンキョ)といい大正13年11月に朝鮮の咸鏡南道で出生した。昭和14年の「創氏改名」で、名前を金村光浩にかえて昭和15年に二所ノ関部屋に入門し敗戦の年の昭和20年に十両に昇進した。
昭和25年、関脇に昇進した力道山は突然力士を廃業した。真相は定かではないが、朝鮮人であるため大関になれない不満、番付面での不満からだと言われている。
その後、プロレス界入りした力道山は昭和29年に柔道7段の木村政彦と組み、米国の強豪レスラー・シャープ兄弟とタッグマッチを行う。敗戦から9年を経て、ようやく日本の経済復興の兆しが見えてきたものの、今だ米国コンプレックスが根底にある日本人の目には、力道山が対等、いやそれ以上の強さで米国人レスラーに空手チョップをくりだす姿に興奮した。
おりしも、この年にNHKと日テレがテレビ放送を開始。駅前の街頭テレビに映し出されるプロレス実況は、国民を完全に虜にしてしまった。一躍国民の大スターとなった力道山は同年12月、木村との「世紀の遺恨試合」を経て覆面王・デストロイヤーや噛みつき魔・ブラッシーなどの強豪レスラーと対戦し連戦連勝を誇った。
一方、力道山は本業のプロレス以外に総合レジャー施設やクラブ、マンションなどの多角経営に乗り出し「リキ・コンツェルン」を築く。さらに、昭和38年6月には、日航の国際線スチュワーデスの田中敬子さん(当時21歳)とホテル・オークラで盛大な結婚式を挙げて、この世で欲しいものは全て手中にした。その結婚式から僅か半年後に力道山は他界したのだった。
 -事件の結末- ⇒ 犯人が住吉連合系であり、被害側のバックが東声会という図式は大規模な報復合戦があるのではと危惧されたが、双方のトップと仲を取り持った山口組の田岡組長との3者協議で和解が成立。最悪の事態は避けられた。
犯人の村田は懲役7年の刑を言い渡されて刑期満了で出所。その後、住吉連合系の組織で村田組の組長になった。 
http://jikenshi.web.fc2.com/newpage385.htm
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ベースボールマガジン社 分冊百科 全60巻
 ┃ データファイル 『日本プロレス激闘60年史』 ┃記憶に残る960の激闘をファイルせよ!
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛PRO-WRESTLING DATA FILE 定価:680円(税込)
 ┌─――――――――――――┐   全60巻ラインナップ!
 |2012(平成24)年 5月23日(水)|発売 第05号 
 └─――――――――――――┘   長州、藤波に反逆!"下剋上事件"勃発
  日本プロレス激闘史 ⇒ 
 ‡1977(昭和52)年12月 8日(木) アントニオ猪木 VS グレート・アントニオ 東京・蔵前国技館
*********** http://www.sportsclick.jp/pro60/index.html
 http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/05/index.html
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 映像◆1984.12.8 長州、全日本に乱入する  https://youtu.be/-INuYxKNNvQ
 1984.12.8最強タッグ公式戦ファンクス対ハンセン・ブロディの終了後、天龍が長州をマイクで挑発。長州らジャパンプロレス勢が全日本マットに軽く?乱入。着ているシャツを投げつける浜口、それを凄まじい形相で切り裂く天龍。その天龍をなだめる馬場。プロレスが本当に熱い時代だった・・・。それにしても今は・・・
 
1971(昭和46)年12月 8日(水)東京に戻った猪木は緊急入院、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10115251055

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