過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOraだヨ(=^◇^=)O♂


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ABC朝日制作
 ┃ 『驚き☆ももの木20世紀』 ┃テレビ朝日系列
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ 21:00~21:54
 1995(平成七)年01月20日(金)「力道山伝説」
  視聴率・・・関東14.8%以下
  視聴率・・・関西19.0%
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A9%9A%E3%81%8D%E3%82%82%E3%82%82%E3%81%AE%E6%9C%A820%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%94%BE%E9%80%81%E4%B8%80%E8%A6%A7
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 映像◆【貴重証言】戦後最大のヒーロー「力道山」と死の真相https://youtu.be/hNplMoafkJ0
 2021(令和三)年03月17日(水) YouTube公開
 2021(令和三)年04月04日(日) 42,276回視聴
 力道山の側近、レスラー、記者が見た力道山の姿、そして死の真相を追求します。証言者のほとんどは鬼籍に入っており、今となっては貴重な証言記録です。
◎アイビーム:刑務所を出た村田勝志は、当時の状況を正確に覚えていて、インタービュー雑誌によると、トイレへ向かうと酔った力道山が、ホステスを口説いているのか入り口を塞いでいた。横からくぐるように入ろうとしたが、その時、力道山に、おい、まて!ワシの足を踏んだろうと言われた、元々塞いでいたからこっちも腹が立つ、その時反抗したんだよ、そうしたらいきなり手で突かれた、こちらは吹っ飛んだ、面子が立たない 倒れた状況で右ポケットのジャックナイフを抜いた!そうしたら酔った力道山が倒れて来た、覆いかぶさって来たので右手の刃物で偶然刺した事になる。入院手術で快方に向かった力道山は具合が良いので、見舞いに来た弟子たちに、寿司と?み物を買いに行かせ食べたと当時物語り作家の証言もある。
◎坂巻明:この動画だけじゃなく いろんな動画を見て 力道山の奥さんの話なども聞いた上で 総合的に判断すると 力道山の最終的な死の原因は医療ミスだったんだと思います。ただ その時に力道山の治療に携わった人は医師も看護婦も含めて 今は皆 死んでしまってるので もう責任は問えません。力道山に関しては称賛もありますが 誹謗中傷もあり 色々ですが、少なくとも 彼は短い人生でしたが、人生を十分に堪能したと思います。恐らく 彼の生まれ持った性格上 今回医療ミスで死ななかったとしても 誰かに殺されて、長生きは出来なかったと思います。
◎有村恵介:今でこそプロレスはガチ決着が多くなったが、当時のプロレスは完全にアングルとブックの世界。試合結果は、分単位、秒単位で決まっていた。あくまで演出されたショーであったということ。しかし八百長ではない。プロレスとは、鍛え抜かれた超人たちが魅せるショーなのだ。演出の世界とはいえ、力道山が与えた勇気と希望はとてつもないものだったろう。80歳過ぎの私の父親は、今でも「力道山先生」と呼んでるからねw私はまだ生まれていなかったが、この時代を経験してみたかった。
 

 映像◆【アントニオ猪木】ゲスト出演①https://youtu.be/EZkf-fIpSUg
 付き人猪木が見た力道山の死
 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『力道山史 否!  1938-1963』 ┃2017(平成29)年11月25日(土)
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 価格(税込)18,000円
 在庫:15点 9:07 2018/02/06(mon)現在
 https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/3475
 https://www.toudoukan.com/shop/goods/$/id/2215577
 http://kumax15.hamazo.tv/e7744040.html

【調査】空手チョップ! 空手チョップ!! 前編
JUGEMテーマ:格闘技全般
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 「空手打ち」(Karate Chop)
 その名の通り空手で用いられる技術で、手の側面を縦に使って(これを手刀という)相手の頭部を烈しく打つ。 拳を用いて打つのに次ぎ、手刀を用いることは最も効果がある。 相撲の『素首落し』に良く似ている。 実技は遠藤五段と駿河海
(「スポーツニッポン」 2/15/1954)
 手刀打ち――空手チョップとは現在では広く知られた言葉であり、既に日本語として定着しています。 別段格闘技やプロレスに興味が無くとも説明無しでチョップという技がどういうものか何となく分かる人の方が多いのでは無いでしょうか。 ただし、本来の意味では理解されていない人も多いでしょう。
 ところで、「goo辞書」でこの"Chop"を引いてみると…。
 1 [III[名]([副])]…を(おの・なたなどで)たたき切る, ぶった切る((down, off));〈枝などを〉(木などから)切り落とす((off ...)). ⇒CUT[類語]
 大体これで間違いありませんが、付け加えるなら「上からの打ち下ろし」を指す動作として使われています。 
 そもそも手刀とは、西洋ではあまり見られない用法で、かの大山倍達総裁も「西洋の闘技では、ほとんどみかけない」と自著に書いています。
 今回は、この「空手チョップ」について発祥から色々と探ってみようと思います。
 それではどうぞ。
***
 相撲からプロレスラーへと転向した力道山が同じく柔道から転向した木村政彦と共にアメリカからプロレスラーを迎え撃ち、1954年2月19日、まだ誕生間もないテレビ放送で手刀打ちを乱打してアメリカ人レスラーを圧倒、「空手打ち」とも称される「空手チョップ」はこの瞬間、日本中を狂喜させた。
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 当の力道山にとっても、こんなに熱狂すると思っていなかったであろうが、アメリカ人レスラーをなぎ倒した技は、やがて力道山の代名詞となっていく。
 例えば当時の街頭テレビをドラマや漫画などで表現するなら、「力道、空手打ち!!」もしくは「力道山、空手チョップの猛攻!!」といった類の言葉が差し込まれるのでは無いだろうか。 「空手チョップ」とは、時代を表わすキーワードとなったのである。
 空手は戦後GHQの武道禁止令を尻目に各地の大学に大きく勢力を伸ばし、力道山の「空手打ち」の後押しを受け、1955年頃には「空手ブーム」が訪れる。 
 戦後の勢力拡大を背景に空手は、1953年5月の空手映画「残波岬の決闘」を皮切りに54年以降はメディアでも題材になる事が増えていた。
 例えば本格的な空手映画にと請われ、54年1月には当時空手六段の大山倍達主演で「猛牛と闘う空手」という記録映画が公開、力道山旋風後の55年2月には「銀座令嬢」で主演の月丘夢路が空手の名手を演じたり、「飛燕空手打ち」(55年5月)では表題にまで進出、翌年には高倉健のデビュー作として知られる「電光空手打ち」が上映されたりと、全国的に知名度を挙げた。
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 しかしこの「力道山の空手チョップ」に反発する空手家も少なからず居た様で、当時日本空手協会理事であった髙木正朝は商工会議所の演武会で会頭が祝辞に立ち、
 『今や力道山の空手チョツプによつて空手の威力は日本の隅々まで遺憾なく発揮された』
 と空手を賞讃したところ、これが心外であるとして、次の挨拶だった髙木が『空手とはそんなものではない』と批判する一幕もあったという。 しかし、一説には1956年頃に50万人を超える空手愛好家がいたというから力道山の功績は否定出来まい。
 ***
 さて、この「空手チョップ」はどの様にして誕生したのだろうか。 日本では1532年に日本史上、最初に成立した柔術だと言われる竹内流に既に手刀があるから、実際に技として誕生したのはそれ以前だろう。
 この柔術の手刀について、石戸観極著「拳法の研究」にはこう書かれている。
 拳法に於ては又盛んに手刀を用ふるが、手刀とは五指を揃えて伸し、その小指側を以て敵の急所を打つので、練熟する時は、恐るべき偉力を発揮することが出來る。 昔の武士が手刀にて、兇器を持てる敵の小手を打つ場面が芝居や講談に有るが、事実手刀の達人に打たれると、手足の骨の如きは打斬られてしまふのである。
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 尚、柔術の当身技は中国より渡来して来た、陳元贇より伝えられたという説があるが、陳が来日したのは1627年であり、竹内流成立より100年近く後の話だ。 現在では陳を柔術の祖とする説は否定されており、権威付けの為に陳を出していたのでは無いかと言われている。
 手刀打ちが確実に西洋に伝播したのは1800年代後半の事だ。 1853年、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊が日本に訪れ、翌年日米和親条約締結、日本は国際舞台へとその身を晒す。 その結果、幻の国ジパングが広く紹介され、にわかジャパンブームを当時の先進国で巻き起こした。
 一方の日本も明治維新を経て、多くの日本人が遊学の為、移民政策の為と欧州やアメリカに進出する。 ここでは基本的にアメリカでの話を中心とするので、ヨーロッパについては割愛するが、欧州ではイギリスやフランスを中心に、柔術は広く知られる様になる。
 1900年にジョン・オブライエンがアメリカで初めて柔術を公開し、セオドア・ルーズベルト大統領にも指導、現地における知名度を獲得した柔術は、日露戦争で大いに名を挙げた東洋の小国の神秘さと相まってか、各地でプロレスラーと対戦したり、指導を行ったりして公的機関にも浸透する。 この過程で手刀も伝播した。
  一方空手の方はどうか。 船越義珍が1922年に出版した本邦初の空手書「琉球拳法 唐手」には、面白い事に手刀は登場しない。 正確に言えば、船越が紹介している型には手刀の動作があるが、技や部位名称としては出ていない。 思えば首里手の代表的な手と言えば、正拳と貫手、そして一本拳である。
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 型を見ても手刀で受ける場面は多いが、攻撃手としては明らかに少ない。 また、1926年に本部朝基が書いた「沖縄拳法唐手術」にも手刀に関する説明や組手型(受手で手刀は使っている)が特に無い事から、手刀とは本土から導入された用語だったのでは無かろうか。 元々は開手で受けて「掛ける」(掬手、拂手、掛手)動作としての使用が中心で、攻撃手としての手刀は那覇手の源流とされる中国拳法、もしくは柔術に影響されたものかも知れない。 
 その空手だが、アメリカに伝播したのは1900年以降だと思われる。 この年、移民政策によって沖縄からハワイに集団移民が行われている。 その後剛柔流創始者、宮城長順が1934年にハワイ移民より招聘され指導や演武を行い、ハワイには空手が伝わったが、当時はまだ準州であり、正式に州となるのは59年だ。
 空手の米本土への本格的な進出は1952年の大山倍達渡米以降となるが、日本で空手を学んだ米軍人やカリフォルニア州には僅かながら指導していたと云う説もある。 
***
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 最初に空手チョップをプロレスで使ったのはだれか? という問題に対しては、いろいろの説がある。 一九二〇年代のアメリカのプロレスで名をはせたマティ松田、三宅太郎、樋上鳶雄ら日本人レスラーは柔道出身であり「チョップ」と称する加撃法を使ったことは樋上鳶雄の口からも直接聞いたが、(中略) 第二次世界大戦前にアメリカのリングに登場した沖識名、グレート東郷らも、チョップを使って白人レスラーのパンチと渡り合った。 さらにミスター・モト、トーア・ヤマトらの日系レスラーもチョップを用いた。 しかし、当時空手は今日ほどアメリカでは認識されていなかったし、柔道はポピュラーであり「柔道チョップ」の名称で呼ばれていた。
(「東京スポーツ」8/9/1967)
  日本では「空手チョップ」としてメジャーになった手刀打ちだが、実はアメリカでは現在でも「柔道チョップ」の方がプロレスのリングではポピュラーな名称である。 そして、力道山がその豪腕を振るう以前より、「チョップ」と呼ばれていた。
 そして前述の樋上鳶雄(ラバーメン樋上)によれば1920年代からプロレスのリング上で使われてた。 しかしこの頃の新聞記事を色々探してみたが、「チョップ」という技の名称も使っていた事を証明する記述は見付からなかった。
 では更に時代を遡ってみよう。 アメリカでは最初期の柔術本となるアーヴィン・ハンコックの1904年出版、"Jiu-Jitsu Combat Tricks"には手刀について、この様な記述がある。
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 A little experimenting will show the student a number of positions in which other edge-of-the-hand blows can be struck with a single movement of the arm -- one upward, downward, or sideways.  Never flex the arm whe time can be saved by striking out without bending the arm.
 当時、手刀打ちは"Edge of the hand"と説明されるケースが多かった。 "Edge"とは刃や角を指す。 つまりは手刀の形を指す言葉だ。 ハンコックはどうやら凄まじいスピードで腕を曲げずに上下左右から繰り出される手刀打ちに驚嘆したらしい。 拳を作って叩くボクシングには無かった技術だからだ。
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 この時、チョップという言葉が使われていないのは、単純な打ち下ろし動作のみの技術では無かっただからであろう。 実際、当時出版されていた技術書において、手刀は横からの振り打ちが多かった。
 ところで、1911年の"BOYS' LIFE"誌には手刀を"the edge of the palm of his open hand"(掌の角)と説明した上で、Kitko Shukoなる日本人の柔術教師が指導した手刀打ちを"chop" blows"と書いているが、これも打ち下ろしの手刀を指すのでは無いかと思う。
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既に紹介した通り、手刀で打つという動作は1種類だけでは無い。
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 打ち下ろしの手刀打ちは極真空手では「手刀鎖骨打ち」(図a)として、攻撃箇所を定めた名称になっている。 「手刀鎖骨打ち込み」(図b)は円形を描かず、真っ直ぐに打ち込む技で、「手刀顔面打ち」(図c)は外側から振りコメカミ辺りから首までを狙い、「手刀内打ち」(図d)はプロレスでは「逆水平チョップ」と称されるが、掌を下に向け、内側から振る技だ。 他にも「手刀脾腹打ち」という脇腹(腎臓)を狙う技もある。 基本として指導される攻撃技はこの5つだ。
 この手刀打ちと手刀を使った急所攻撃は当時のアメリカでは斬新な発想だった様で、「致命的打撃」とか「殺人的打撃」といった様な説明が付いているケースが多い。 延髄を打てば気絶させられるし、手首を打てば痺れる。
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 大男を一回転させ、裸絞めで絞め落とす柔術家のイメージもあってだろうが、かなり神秘的に思われていたのは間違い無い。 柔術に関する無数の本が出版され、男性誌には度々紹介され、地方紙ですら柔術のテクニック講座のコラムが登場し、映画でも使われる様になり、アメリカ文化を席捲した柔術―黄過論や日本人排斥運動といった不運にも耐え、実用性を証明したこの技術は、やがて米軍でも採用される事になる。
 第二次世界大戦中となる1943年、米海兵隊では軍隊格闘術の祖、イギリス海軍のウィリアム・フェアバーン大佐より近接戦闘術(フェアバーン・システム)を学んだアンソニー・ドレクセル・ビドル大佐を中心に、柔術など接近戦の教官を務めており、以下の文章にある様に、握った拳で叩くな、手刀で叩け、と指導している。
 The first rules in never to strike with clenched fist.  Hold the hand stiff, fingers straight, and strike with the hard edge of the hand between little finger and wrist.  Use a chopping motion and aim for the enemy's Adam's Apple, side or back of the neck, the base of his spine, his kidney, biceps of forearm.  With a little practice you can break a bone with this blow.
 これは陸軍省で出版した徒手格闘の教本でも同じだった様で、拳で攻撃しているシーンは無く、手技の攻撃の大半は手刀、もしくは掌底であった。 理由はいくつかあるだろうが、硬い頭部を叩ける拳を作るには時間が掛かるし、怪我も多い。 掌や手の側面を使った打撃の方が短時間で兵を育成するのに便利だったのだろう。
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 余談だが、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンとして名高いジャック・デンプシーは1930年頃に柔術を日本人から学び、戦時中は上記の軍隊格闘術を指導し、技術書も出版している。
 戦時中、敵国である日本の武術を自軍に組み込んでいた米軍には素直に感心するが、1944年になるとフィリップ・クライン大尉が柔道の演武を行い、その中で新聞によれば最も興味を惹いた演武があった。 以下がその内容である。
 The most sensational demonstration was the breaking of several heaby boards by the edge of the hand alone, through development of the muscle in the hand and knowing how to strike the board.
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 柔道の演武会で試し割りを行い、手刀で複数の板を割ったという記事だが、現代から見れば空手の演武に見えるだろう。 しかし、柔術にも流派によるが試し割りがあり、前述した竹内流にも、道場内の柱に藁を巻き付けて、当身の鍛練をしたという。 比較的柔術、柔道の住み分けが出来ていたアメリカだったが、どうも戦時下で混ざってしまった感がある。
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 ここで1つ、オーストラリアが発祥だという ボクシングの反則技、「ラビット・パンチ」を見てみたい。
 元々ボクシングには「チョッピング・ブロー」という打ち下ろしのストレートパンチがあり、現在でも長身の選手が使っている。 「チョッピング・ライト」という、稀代の名ボクサー、トーマス・ハーンズが繰り出していた打ち下ろしの右ストレートがそれである。
 ところでボクシングにおいて、拳以外の箇所での打突は禁止となっている。 アマチュアボクシングを見ると分かるが、アマチュアグローブでは拳の辺りに太い白線がある。 この辺りをナックル・パートと呼び、ここで当てたパンチのみ有効打としてカウントする。 この白線は側面部分にまで及んでいるが、ここでの打撃は禁止だ。
 これは私の不勉強だったのだが、このナックル・パート以外の箇所で打ち下ろすパンチを古くから"chops"もしくは"chop blow"と呼んでいた様である。 ボクシングの特性から鑑みるに、これは所謂鉄槌での打ち下ろしでは無かろうか。
 さておき、オーストラリアではイギリスの紳士が導入したという兎狩りが流行っており、兎を殺す手段として棒で耳の後ろを叩く、という技術があった。 この要領で数名のボクサーが頭を下げたボクサーに対して握った拳の側面―所謂鉄槌―で叩き、朦朧とした所で顎にパンチを叩き込んで倒すというテクニックを生み出した。 以降、アメリカやイギリスにも導入されたのだが、これは反則攻撃であり、「チョッピング」と称する事もあった。 後にアメリカンフットボールでも使われるこのラビット・パンチは、プロレスにも導入される事になる。
 オーストラリアの方では、1907年に開催された柔術選手権(プロレスの興行の一種だと思われる)にてアメリカ・ニューヨーク州で東勝熊から柔術を学んだと自称するProfessor P.W. Stevensonという人物がオーストラリアの柔術王者(イギリスの柔術選手権も兼ねるらしい)を名乗っている。
 このプロフェッサー・スティーブンソンは12月の興行で手刀打ちを繰り出している事から、アメリカで柔術を学んだ後、ラビット・パンチと柔術の手刀を融合させたのであろうか。
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Professor P.W. Stevenson
 ちなみにこのスティーブンソンという人物は、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開催されたという白人の柔術世界選手権の金メダル王者とも自称しており、その来歴は極めて怪しい。 オーストラリアでもサーカスでデモンストレーションを繰り返し、素人相手に賞金マッチをしていたというから、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンやかなりダーティなテクニックを学んだカーニバル・レスラー上がりの柔術家である可能性もあり、「オール・イン」と呼ばれるボクシングとレスリングが対戦出来る形式の試合に頻繁に登場している。
 少しばかりオーストラリアの柔術史を解説すると、オーストラリアにおける柔術の開拓者はイギリス生まれのセシル・エリオットとされており、エリオットは1891年頃、16歳の時にイギリス水兵として横浜に着任、1904年に柔術の初段を允許され、配置転換に伴いオーストラリアのシドニーに移り、当地で演武会などを開催していた。 そして1906年、エリオットの師で、横浜の寿警察署(現・南警察署)にて柔術師範だったオクラ・ジュンキチとフクシマ(シマ)・リュウゴロウを招聘、柔術の指導に勤しむ。 ここで当地に柔術が根付いたという。
 閑話休題。 前述したプロレスにおけるラビット・パンチは、現在も使用されているのを見掛ける。 「スレッジハンマー」という技だ。 現在は背中に叩き込む事が多いが、当初は後頭部を叩いていたという。
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 このラビット・パンチの発祥がオーストラリアだと言及する記事は1932年の物であり、既にボクシングでは禁止となっている事から考えると、1900年代初頭には開発されたのでは無かろうか。 そして、同時期に西洋に伝播した柔術の手刀とスレッジハンマーが日系レスラーの代名詞である柔道チョップに繋がるのでは無いかと思われる。
 一説には日本人がプロレスにもたらした技は組み技以外に、ヘッドバット、チョップ、クローがあるとされているが、戦後は悪役レスラーによく使われた技だと言うのは面白い。 さておき、広いアメリカにおいても1920年代以降は手刀打ちもかなりアメリカのメディアで紹介されており、知っている人間が多い。 戦前のプロレスにおいて「誰が」最初に使い始めたのか、ここまで探るのは不可能に近いが、個人的には不遷流の柔術家でありプロレスラーとしても活動していた三宅太郎が最初にアメリカマット界で手刀を使ったという説を押したい。
 ※追記:その後、三宅がプロレスで手刀を使ったという記事の情報を頂きました。
1922年の記事となります。 詳細はコチラ
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 さて、これまで手刀がどれだけ米国内に浸透していたかは説明して来た。 しかしこの手刀が「柔道チョップ」という技名になったのはいつだろうか。
 手元にある資料でプロレスの技名として「柔道チョップ」が登場するのは戦後の事である。 1947年の"ジュードー・ジャック"テリーの記事がそれだ。
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 Terry won the first fall with a judo chop in 10 minutes and the final pin in 6 minutes with a Jap sleeper.
 テリーは"Judo Chop"を使い、"Jap sleeper"を使っている。 ニックネームにある通り、柔道を売りにしたレスラーで、手刀打ちを繰り出し裸絞めを使ったという記事だ。
 当時のプロレスはローカル放送が大半で、現在の様にケーブルでWWEの試合を全米で見られた訳では無い。 チョップ=手刀という共通認識を持つには、何か別の媒体が影響していたのでは無いだろうか。 いくつかの可能性が考えられる。
1) 映画や人気ドラマ、ショーなど全米配信のヒットコンテンツで最初に使用された。
2) 大戦中に米軍で指導された時に使われた手刀を表わすスラング。
 個人的にはこの全てが含まれていると思うが、戦時中に柔道の演武で手刀打ちを披露しているのを見ると(別の柔道の演武会の記事でもやはり手刀打ちを披露していた)、 戦時下に軍で発生したスラングでは無いかと思う。 元々アメリカ英語ではその場で即興的に言葉を繋げて作り出す文化がある。
 つまり誰かが"Judo chop"とその場で付けた名称が米軍で広まったとしても別段不思議では無い。 上の方の教官が命名すれば、それは自然に各部隊へと広まって行くからだ。
 動作の大きな判り易いモーションに判り易い由来、全てを備えた「柔道チョップ」は、戦後のテレビ中継を、専門誌を通じて広まって行く。
 そして1952年2月3日、力道山がハワイの地を踏んだ。
 という事で、念願の空手チョップネタ、ようやく開幕ですw
 今年の7月くらいからですかね、始めようと思って色々調べたの。 途中仕事とか諸々忙しくて纏めて書ける時間が無くってw
 今回も新説珍説?を入れてみました。 今回もtentaQ4氏のサイトが非常に参考になりました。 こういうレトロネタを自分で調査して公表する人って日本だと少ないですからねぇ。
 無論、ラビット・パンチ→スレッジハンマー→柔道チョップという流れはあくまでも私の妄想ですw 定説ではありませんからねー。
 後、当初入れる予定の無かったオーストラリアの柔術史ですが、"The Martial Chronicles: Jiu-Jitsu Conquers Australia"の研究が面白かったので、ついつい入れてしまいました。 もっと日本の研究者も国際的な柔術の伝播について書籍等で発表して欲しい所。 今は海外に行かなくてもある程度調査出来ますしね。 史学と言っても良い分野だと思うんだけどなぁ…。 ついでに日本の開国後に世界へ与えた影響を知る上でも面白いと思うんですが。
 特に明治時代以降に海外に雄飛した日本人として、他の偉人と並べてもおかしくない影響力を残した武道家もいる訳ですしね。 
 んで…、この怪しい経歴のプロフェッサー・スティーブンソン、「オール・イン」で当時の黒人ボクサーで強豪として知られる、サム・マクベイと対戦してるんですよね。 結果は負けですが。
 というか、こんな所で東勝熊が出て来るなんて思いもしなかったっすw
 今回の調査をするにあたって、Twitterで色々とお付き合い頂いた各氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。 提示して頂いた数々の資料は、話を組み立てる上で大変お世話になりました。
 それからプロレス史家の那嵯涼介氏にも、突発的にネタを振って御迷惑をお掛けしました。 資料を戴いたイギリス方面の手刀打ちは、収集が付かなくなりそうだったので個人的に楽しんだだけで、今回は写真しか使っていませんw それでは、後編で終わる予定ですので、引き続きどうぞw
http://blogs.masoyama.net/?eid=420

【調査】空手チョップ! 空手チョップ!! 後編
 私の相撲の得意は上突っ張り、上手投げ、上突っ張りというよりむしろ張手を切り札にしていた。 千代の山を一発で土俵上に張り倒したこともある。 現在の空手チョップは上突っ張りと張手からヒントを得て、私が自分で考え出したものだ。
 もっとも私は力士時代から空手に興味をもっていたし、ボクシングをはじめあらゆるスポーツにも関心をもっていた。
(「力道山 空手チョップ世界を行く」)
 という事で…今回は空手チョップの続きですね。 前回は手刀打ちが柔道チョップになるまで、をウダウダと書いてみましたが、今回はそのチョップが日本に入って来るお話と、空手チョップにまつわるエトセトラ、これを書いてみましょう。 それではどうぞ。 前述した様に、力道山は常に自分が空手チョップを編み出したと豪語していた。 しかしチョップ自体は渡米前より既にアメリカの日系レスラーを中心に使われており、そう言った意味ではオリジナルとは言い難い。力道山が空手チョップの元とした突っ張りも張手も、一般的な手刀の動きとは異なるが、開手で叩いている動作だけ見れば、外国人には区別も付かない。 原康史の「激録 力道山」によれば、空手チョップとは何となく誕生した名前だった様だ。
 プロレス談義に花が咲き、デービスは「あのチョップには参った。 いままであんなパンチはくったことがない」と力道山の"張り手"を絶賛し「あれはカラテ(空手)の技か」と聞いた。
 「ノー相撲の技だ」と力道山は答えたが、カラシックは「あれは神秘的な技だ。 これからカラテチョップを売り物にした方がいい…」と言い、沖識名は「リキ、わかったか」と酔いが回って赤くなった顔でしきりに「カラテチョップ、カラテチョップ」と呟いていた。 この夜(3月10日)"カラテチョップ"の名称が何となく誕生してしまった。原がこの日付を何で得たのかは不明だが、詳細はともかく、力道山が語っていた話と較べても大意は間違っていない。 空手チョップとはハワイのプロモーター、アル・カラシックが名付けたのだ。 デービスとはキラー・カール・デービスの事で、その後力道山とタッグを組んでいる。 この頃のハワイには既に空手が知られていたのは力道山にとって、実に幸運だった。 これが米本土の話であれば柔道チョップとなってしまい、あれほどの輝きを放たなかったかも知れない。
 力道山は上から打ち下ろすチョップを、恐らくは沖識名に学んだと思われるが、沖はこう回想する。
…カラテチョップなんかも、最初は相撲の張り手だったが、毎日ジムでサンドバッグやメディスンボール(砂を詰めたボール)を叩いてね、いろんな打ち方を考えて練習していた。 試合をやるたびにチョップのタイミングのとりかたがうまくなり、相手に与えるダメージも大きくなった。 あれはワシが教えたんじゃなく、リキさんのオリジナルだ――。
 実はこの時期、米本土では新しい「チョップ」が既に日系人の手で導入されていた。 テキサス州ダラスに遠征していた日系二世のプロレスラー、デューク・ケオムカはハワイで空手を学んだ経験から、上から振り下ろすだけのチョップに対して新たな技を提示した。 水平打ち(現在は逆水平チョップと呼ぶ)である。
ケオムカはこの新必殺技をテキサスで披露し、売りにしていた。 52年1月にはKRLD-TVのアナウンサー、チャールズ・ボーランドがテレビのインタビューでこの喉を叩く水平打ちに対して、本当に効くのかと疑義を申し立てた所、「試して見るか?」とボーランドを叩いてKOし、地元警官に逮捕され、100ドルの罰金を支払っている。 この時の記事にはこうあった。 "a chop blow across the throat" 極真空手でいう、手刀内打ちである。このケオムカがハワイに戻って水平打ちを披露したのは、5月7日の事だ。 この日、力道山自分の試合を終え、ケオムカの試合を見ていたという。 新たなチョップを知った力道山は、ケオムカにも指導を頼めず、1人サンドバッグを叩いて習得に努めた。
 1952年6月10日、力道山は米本土へと転戦する事になった。 以降、プロレスを学び、ビジネスを学び、自己アピールを学んだ力道山は翌年の3月6日に凱旋帰国を果たす。
 作家の村上早人によれば、1954年頃にサンフランシスコで力道山と出会い、空手チョップの練習に付き合ったという。 年表と重ねるなら、53年12月にシャープ兄弟を日本へ招聘する為の渡米の頃か。 力道山は毎日椰子の木に空手チョップを1万回叩き込み、技に磨きを掛けた。
 こうしたトレーニングの成果が見事に結実したのがプロレスブームだったのだ。 
 実は、戦時中の話だが、力道山が空手を学びたいと言って来たという話がある。 松濤館で空手を学んだ事もある作家の戸川幸夫はこの日、 東京芝の桜川小学校で空手を披露したところ、十両時代の若い力士、つまりは力道山が空手を習いたいと戸川の元にやって来た。 後日再会する約束をしたそうだが、結局力道山は現れなかったという。
 これは力道山に「指導しなかった」、という話だが、世の中には力道山に空手チョップを教えた、とする人物が少なからず存在する。
 一番有名なのは極真会館創始者、大山倍達であろう。 例えば大山は自著「極真カラテ 21世紀への道」で、この様に語っている。 …力道山の得意技として使っていた手刀による「水平打ち」や「垂直打ち」は彼独特のものであり、専門的に見ていわゆる「空手」とはまったく異質なものである。 その意味で、力道山に空手を教えたのは、「この私だ」と言うつもりは毛頭ない。 大山はハワイで指導したとされているが、この辺りは不明である。 私個人としては可能性があるとするなら、1953年、力道山が帰国前にハワイに滞在した2月~3月だと思う。 この頃の大山はアメリカに再渡米していた可能性があるからだ。この件についてはまたいずれ書くだろうが、大山倍達空手チョップ指導説で興味深いのは、この説を最も広めたであろう劇画「空手バカ一代」においても、既に力道山が空手チョップを使用している事だ。 前述した大山の発言にも「本格的な空手のトレーニング法」を教えてくれ、と自己流の空手チョップを使っていた力道山が何を求めたかが窺い知れる。 この話が事実だとすれば、その道の専門家に色々と聞きたかったのだろう。
 これまで何度も書いて来た通り、チョップの発祥はアメリカ―少なくとも英語圏である。 しかし、力道山に空手チョップを教えたと称する人物は、往々にして自分が「空手チョップ」と名付けたと主張する。
 次に挙げる空手家たちを見てみたい。
 1人目は「幻の空手家」として突如メディアに登場した拳道会創始者、中村日出夫だ。
 この中村指導説は評伝「拳道伝説 拳聖 中村日出夫の足跡」にて初めて披露された。
 中村と力道山が出会ったのは、力道山が相撲を廃業した頃だという。 そして進駐軍の慰問に来ていたというプロレスを見た中村が、力道山にプロレスを勧めたそうだ。
 それから数年後にプロレスラーになったというから、1951年の在日トリイ・オアシス・シュライナースクラブの慰問プロレスを指すのだろうが、この興行は力道山も見ているし、出場すらしている。 中村に言われるまでも無く、だ。
そして空手チョップについて、現在では絶版になった本書にはこう書かれている。
 その空手チョップについての一つのエピソードがある。
 プロレスラーとしての一歩を踏み出したばかりのある日、力道山が山梨に訪ねてきた。
 「先生、私の得意技である手刀にひとつ名前をつけてくれませんか?」
 ぜひ生みの親に名前をつけて欲しいと言うのであった。 事実中村は、プロレス修行に入った力道山に数ヵ月間にわたり空手の手ほどきをしている。 初めて会った数日後、竹中社長のはなれの一室で二人の練習姿が見られた。
(中略)
 そうしてできあがった自らの技に名前をつけてくれというのである。
 「たしかに、君の言うようにただの手刀じゃ素人受けする名前じゃないですね。 ましてプロレスはこれからどんどん国際化していくでしょうし、あっちの人たちにも受けるものじゃないといけない」
 「そこなんですよ、先生。 何か良い名前をひとつお願いします」
 しばらく考え込んだ後、中村は、
 「空手チョップじゃどうですか?」
 チョップ――"切る"という意味である。
 「手刀より良いでしょう」
 瞬間、力道山の顔がぱっと明るくなった。 なんとも無邪気な顔である。
 「先生、それは良いですよ。 良い名前です」 
 空手チョップ、空手チョップと力道山はなん度も口の中で繰り返した。
 尚、この中村の評伝には実際に力道山に指導している写真が載っていた為、中村こそが空手チョップ生みの親だと、一気にこの新説が流布した。 有名なライターでも得意気に「力道山に空手を教えたのは中村日出夫なんですよ」と語ったものである。
 この説に最初に異を唱えたのは、10年近く前まで自身が所有する資料を基に色々なよもやま話をコラムにして公開していたサイト「Karate Kosho」である。
 サイト管理者は、空手チョップ指導写真の来歴や版元の福昌堂に問い合わせた様子などを公開し、結論から言えば、写真は後述する人物の物であり、中村本人では無いとし、本書は絶版となったそうだ。 
 さておき、チョップを英語を第一言語としない国の人間が名付けるとは考え難い。 事実、戦前は"Edeg of the hand"と書くケースが多かったし、その動作の一部を"Chop"としていた。 そして戦後、多くの空手書が海外で出版されたが、大半は"Knife hand strike"と、直訳に近い訳になっている。
 余談ではあるが…、大山倍達の英文技術書では廻し蹴りの事を"roundhouse kick"とあるが、これはアメリカ人であるリチャード・ゲイジが翻訳した物だ。 大抵の日本人はラウンドハウス・キックと呼ばれても語源は分からないが、アメリカ人には理解し易かった様で、主流の呼び名となっている。 ちなみに"Roundhouse"とは、かつて機関車を格納するのに使っていた扇形庫の事で、扇状に広がる蹴りという意味で名付けたのだと思われる。 逆に日本人がこの蹴りを訳せばどうなるか、恐らくは扇蹴りと、よく分からない蹴りになるだろう。
 一方アジア人が名付けた廻し蹴りは"Turning kick"と呼ぶ。 読んで字の如く、回しながら蹴るという意味だ。 現在でもジークンドーやテコンドーではこの呼び名を使っているケースが見受けられるが、一見して直訳した名称だと知れる。
 掲げたのは一例だが、英語を外国語とする人間は、基本直訳するのだ。 意訳とはその国の言葉に精通していなければ出来る物では無いという事だ。 そして空手家であれば空手家であるほど、本来の意味の"Chop"だけで手刀が語れるとは思わないだろう。 打ち下ろしの手刀など用法で言えば一部分でしか無いからだ。
 中村が力道山を指導したのが事実だとしても、アドバイスを受けた程度であり、中村が技名の生みの親、とは言い難いのでは無かろうか。
 そして、もう1人、力道山に空手チョップを指導したという人物がいる。 当時内外タイムスの社長で、空手家としても知られていた台湾出身の蔡長庚である。 前述した中村日出夫が力道山に指導したとされる写真の主は、この蔡であり1966年に出版された自著「練功秘法 唐手道の真髄」に同写真が掲載されている。
 力道山に空手を指導したのは1954年頃の様で、力道山の野球チームの試合がありそれを主催していたのが内外タイムス社で、対戦チームの灰田勝彦(芸能人)を通じて蔡に空手の指導を頼んだのだという。
後日、力道山の道場に行ったという事と、自身の野球チームを持っていた事を考えると、2月の日本プロレス旗揚げ以降の話だろう、蔡は力道山に空手(蔡は唐手と書く)の手刀を中心に2時間ほど指導した。 以下、中村の評伝のエピソードにも似ているが空手チョップと命名する下りを引用する。
 翌日同時刻に、私は力道山の道場に行った。 力道山が「先生この手刀打ちのことを何かよい呼び名をつけて下さい」というので、私は暫く考えてから「力さん、空手チョップという名前でいこうか」と言ったら、力道山も大いに喜んで「"空手チョップ""空手チョップ"これは素晴しい名だ」と感激していた。
 これは時期的に考えられない話である。 チョップという名称を思い付くかどうかというのは先に否定したが、全くあり得ない話では無い。 だが、日本プロレス旗揚げ興行以前に既に「空手チョップ」と名付けられていたのだから、蔡が出る幕は無い。
 前回冒頭に引用した「空手チョップ」の記事は日本プロレスの旗揚げ直前―つまり、蔡が指導する前の記事だし、この興行のパンフレットにあるプロレス技の説明にも同じ写真が使われ、"Karate chop"とある。 蔡が名付けたとされる時期以前の話だ。 よって、蔡が指導したというのは、アドバイス程度の事だったと思われるが、力道山没後、話を膨らませたのでは無いか。
 他にも合気道の手刀を学んだという写真があるが、これも髪型や体型から見るに日本にプロレスを持ち込んだ後だろう。
 個人的には誰が力道山に手刀の使い方を指導しても構わないし、前述した3人の空手家が皆指導した経験があっても良いと思う。 しかし、我こそは…と「空手チョップ」の命名にまで口を出すのは如何な物か。
 そして一時期、力道山のパートナーとして活躍していた遠藤幸吉も力道山にアドバイスしたと主張している。 ただ、こちらはプロレス的な使い方をアドバイスしたとある。 以下、遠藤の主張を引用する。
 せっかくの手刀チョップも、相手がそれを使わせてくれなければプロレスにならない。
 「どうしたら音が出るだろう?」
 力道山が私に相談してきた。
 「リキさん、昔の柔術チョップは、肩胛骨のところを狙ったもんだよ。 そのへんを狙ってみたら?」
 私のアドバイスは効を奏した。
 水平打ちの掌をやや丸めて胸板を打つと、バッシーンといういい音がした。
 「遠チャン、これだこれだ! これならプロモーターも喜んでくれるぜ」
 プロモーターも、今までよりも危険がないと喜んでくれた。
 遠藤がこんなアドバイスをいつ出来たのか、プロモーターが喜んでくれたというのだからプロレス修業中の52年の話なのだろうが、渡米時の記録を見るに接点がありそうなのは52年4月のハワイで数時間、そして7月のカリフォルニア州における2週間ほどの期間だが、少々無理がありそうだ。 
 面白いのは、遠藤が語る力道山の空手チョップの来歴だ。 遠藤によれば、力道山の相撲時代の得意技では決め技に欠けると思い悩んだそうだ。 そこで思い付いたのが、相撲で懸賞金を貰う際に行う手刀(てがたな)だった。 遠藤によれば稽古の手慰みにこの手刀を練習するのだという。 これは感謝の儀礼なので、攻撃技とは一切関係無い珍説に該当するが、柔道出身の遠藤は「柔道チョップ」という言葉に忌避感があるのか、「柔術チョップ」と呼んでいるのも興味深い。 そして最初に力道山が命名したのは「手刀(てがたな)チョップ」だとしている。
 当初「テガタナ・チョップ」と呼んでいたが、周りが「カラテ・チョップ」と呼ぶので、やがて訂正しなくなって定着したそうだ。 
 無論、検証するまでも無かろう。
***
 ここまで力道山の「空手チョップ」について書いて来たが、最後に力道山に再戦する為、1955年頃、木村政彦が編み出したという「猫手チョップ」について触れようと思う。 当時の一部媒体では「柔道チョップ」とも書かれているが、執筆者はアメリカに柔道チョップがある事を知らなかったのであろう。
チョップ15.jpg
木村政彦
 それでは、木村のチョップはどの様な物であったか、3種類の解説を見てみよう。
1) 木村の言葉によると"猫手"という空手の手なのだそうだ。 丁度"招き猫"の手と同じ恰好。 握りこぶしの掌(てのひら側)で叩く。
2) …力道山の「空手チヨツプ」は手を開いたまま側面で打つのに対して、木村は猫の手のように指先を曲げて、先ず親指の側面で打ち、さらに其の返えす手で小指の側面で加撃するその爆発力は力道山の空手チヨツプに劣らないものといわれている。
3) これは指の先を曲げて猫の手のようなかっこうで、まず親指側の左側面で相手のケイ動脈に一撃し、返す刀……ぢゃない、手で、ボクシングでは禁じられているバックハンド・ブローを加えるもの。
  所謂手刀打ちとは異なるが、チョップの意味からすれば間違いは無い。 猫手というよりも空手で言う熊手では無かろうか。
 ちなみにこの猫手チョップ、大山倍達より学んだと木村が吹聴していた様で、"牛殺し大山七段"より学んだという話が、例えばこの様な感じで出ている。
 "牛殺し"といわれる空手の大山七段から伝授をして貰った手とか。 この言葉は空手道では用いられていないので大山氏の独創かも知れない。
 しかし大山が認識している猫手とは、違った物であり、劇画「空手バカ一代」でも同じ認識である。
チョップ29.jpg
 大山 (中略) 
 しかし、力道山の空手チヨツプは指を揃えて伸ばしているでしよう。 実際は掌を少しつぼめた方が強力なんです。
 (中略)
 木村政彦の「猫手打ち」というのはおそらくこれじやないかと思います。
 1956年の大山のインタビューにある言葉だ。 自分とは無関係の様に語っている。
 邪推するならば、牛の角を折り、当時力道山に勝てる唯一の相手、との噂があり、木村が力道山との試合後に「殴り合いなら私の後輩で大山という空手七段がいる。 彼は対戦を希望している」と、仇討ちを託したほどの実力者である。 そんな大山倍達の名を出す事で、自身の猫手チョップに箔を付けたかったのでは無かろうか。
 実際に猫手チョップを最初に披露したのは、恐らく1955年12月3日に開催された大阪での興行、「木村七段再起試合」と銘打った大会である。 相手は「ネブラスカの野牛」を称するゴージャス・マックである。 この日木村はマックを相手にチョップを決め、体固めでフォール勝ち、翌月3日の試合でも「空手チョップ」の猛攻でマックを倒す等、多用している。 尤も、専門誌では
 …力道にやられた恨みの空手チョップをマックに食らわしてうさを晴らしたわけでもあるまいが、これでケリとは力道の空手打ちを批判した木村さん、ちとまずかったですねえ。
 と皮肉られている。
 余談であるが、このゴージャス・マック、木村と対戦して間もない1月16日に帝国ホテルで宝石強盗を働き、逮捕されている。 オマケにプロレスラーでは無く、元軍属でただの不良外人であったという事まで暴露された。 
 ***
 チョップは、現在のプロレスでも多く見掛ける事が出来る。 継承者はジャイアント馬場を始め、旧全日本プロレス系の選手にその使い手が多いが、力道山が逆輸入した手刀打ちは、完全に日本に定着した。
 その一方でその名を使われた空手の手刀打ちは、各派で導入されているルールに合わない為か、競技シーンではあまり見る事が無く、少なくとも競技という実戦の場ではあまり見なくなってしまった。
 今後、手刀打ちが現代の格闘競技シーンに甦る事はあるのだろうか?
 という事で終わりました。 最後の最後でメッチャ悩んだ挙げ句、こんな一言で締めましたw
 いや、別に面白そうだから調べただけで、何か深い意図があった訳じゃないんで、ラストに困った訳です。
 そもそもこの調査の切っ掛けというのは、「ワシが空手チョップを教えた」という人の中に、「ワシが空手チョップと名付けた」みたいな話があったからです。 それに対して、いや力道山が渡米する前からプロレスにチョップがあったよ、というのから遡って…w 結局手を付けてから4ヵ月くらい掛かっちゃいましたね。 いやまぁ、仕事があって手を付けられない週末が何度かあったのも原因なんですが。
 私は何度か書いてますが、空手の中でも転掌系の掛け技が好きでして、手刀掛けから手刀顔面打ちとか、あぁいう手の動きが好きです。 なので、接近戦での手刀脾腹打ちをフルコンの試合で是非見たいなぁと思ってますw
チョップ24.jpg
 前に広島の選手だったかな、鉄槌を試合で出して、鎖骨を狙ったら顔面に当たって反則を取られた、というのがありましたが、何かそういうのが発展したら面白い、と少々無責任に言ってみる。
 それにしても、今回は参考文献の量が凄い事にw 目を通しただけの新聞資料とか、結局使わなかったのを含めると、この何倍かは行く筈。 
 んで、本文中にも書きましたが、別に誰々が力道山に空手チョップを教えたとか教えてないだとか、んなこたぁ、どうでもいいんです。 名付け親を自称するのはどうかって話でね。
 まぁ、蔡長庚先生みたいに写真が残ってて、1日ちょっと指導しただけで目一杯自慢するのはアリでしょうけど、写真を剽窃した中村日出夫先生、これはいかんでしょ。 しかも一緒に慰問プロレスを見に行こうと誘うならともかく、経緯なんて、ちょっと検証すれば誰でも分かると思うんだけどなぁ…。 
 そして某著名ライターさんもそうですが、何故Bが教えたという新証言が出て来たからAが教えたというのはウソだっていう事になるのかなぁ。 AもBも教えた、じゃ気にくわないのだろうかw ちょっと世の中ね、デジタル思考が多すぎるんじゃなかろうか。 今回は状況証拠から否定しましたけど、教えた事自体は別に否定するつもりはありませんw ただ、「拳道伝説」に載った内容に対して否定しているだけでw
 その中で、むしろ微妙にリアリティがあるのが大山倍達総裁の話w 「既に空手チョップを使っていた」というのが肝ですね。
 実は、大山倍達の足取りの中で一番不明なのは、1953~56年なんです。 第1回アメリカ遠征は出立と帰国に関して確定していますが、2度目の遠征は実際に行ったのか、行ったとしてそれは53年なのか54年なのかもちょっと不明。 しかし本文中に書いた通り、53年の2~3月頃にハワイに行っていれば、実は力道山と合流出来るというw
 あ、もうちょっとチョップネタ。 実は今回採用しなかったネタに、大山総裁の師である曺寧柱先生による、木村政彦が力道山に空手チョップを教えた、という説がありますw
 他に本文中否定しましたが、梶原一騎先生は大山総裁以外にも自分が知っているネタを「空手バカ一代」に盛り込んでいる様で、猫手チョップの話も知ってたんじゃ無いかなぁ。 それで猫手打ちのエピソードを入れたんじゃ無いかと思ってます。
 前編でも書きましたが、今回はTwitterでのちょっとしたつぶやきから、専門知識を持った方々を引き寄せてしまい、非常に勉強になりました。 こういう知識が集結するのって中々無いですからね、機会があったらまた皆さんを巻き込みたいですねw
 そう言えばプロレスラーのユセフ・トルコ氏が亡くなられたそうです。 極真側からすれば妙に大山総裁に噛み付く変なおっさんで、アントニオ猪木憎さのあまり、自著にウソを書いたりと(後に自分で暴露)、歴史の生き証人でありながら、その発言に信が置けないという、全く困った人でしたね。 自分を正義の側に置こうとするタイプの人特有というかw
 しかしそれでも語れる人がいなくなるというのは、実に寂しいものです。 合掌。
 それでは、また。
追記:デューク・ケオムカを「ケムオカ」と書いていましたので、修正致しました。
http://blogs.masoyama.net/?eid=421

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