過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1960(昭和35)年12月10日(土) ジョン、ハンブルグを去る ※8月16日(火)曜日にリヴァプールからハンブルグへ来てから今日まで滞在
②1961(昭和36)年12月10日(日) ライブ演奏1:ブルー・ガーディーニャ・クラブ/ロンドン
③1961(昭和36)年12月10日(日) ライヴ演奏2:ハンブルトン・ホール/リヴァプール
 1962(昭和37)年12月10日(月) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (昼)/リヴァプール
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①1960(昭和35)年12月10日(土) ジョン、ハンブルグを去る ⇒ ポール・マッカートニーとピート・ベストがドイツから追放された10日後、ジョン・レノンも列車と船を利用してイギリスに戻った。すでにジョージ・ハリスンは、ポールとピートが英国に強制送還される以前の11月21日に、ドイツを追放されリヴァプールに戻っていた。スチュアート・サトクリフは一時的にアストリッド・キルヒャー (Astrid Kirchherr) の所へ身を隠し、ハンブルグに留まった。 
 ビートルズの今回のドイツ滞在は法律上の問題を抱えていた。まず全員が労働許可を持っていなかった。それはしばらくは発覚しなかったが、18歳未満だったジョージの深夜労働を、雇い主のブルーノ・コシュミダー (Bruno Koschmider) が告発し、ジョージは国外退去を命じられる。次にポールとピートが放火未遂の容疑 (これもコシュミダーの告発による) で英国へ強制送還された。こうなれば労働許可を持たないジョンとスチュアートが、国外退去を命じられるのも時間の問題だった。 
 ジョン・レノン『アンソロジー』 ⇒ みんなドイツから追放されて、僕はひとり他のバンドと演奏しながらハンブルグに残った。あの若さでたったひとりで外国にいるのはかなり痛切な経験だった。僕らは稼いだ金で生活していくのがやっとだった。僕は何の蓄えも無かったから、特にクリスマスの頃は冗談でなく食料を買う金もない状態で、ハンブルグに閉じ込められていたんだ。故郷へ帰る時は惨めな気分だった。リヴァプールまで帰るのはけっこう腹を減らす重労働で、僕は本当に自分がかわいそうになった。僕はまだ支払いが終わっていないアンプを背負っていたが、盗まれはしないかとカチカチに緊張した。イギリスまでたどり着けやしないと確信したね。ようやく家に帰り着いた時、僕はうんざりして、数週間は他のメンバーと接触する気が起きなかった。18~19歳の頃の一月は長い。彼らが何をしているのか知らなかった。僕はただ引きこもって今後も続けるべきかを考えた「これは僕のやりたいことか?」僕はいつも詩人や画家になった気分で考えた「ナイトクラブ、みすぼらしい風景、国外追放、クラブの変人、これか?」今でこそ『デカダン (decadence)』とか言うけど、何のことはない、ただハンブルグのストリップ・クラブで演奏していたというだけのことだ。僕は必死に続けるべきかどうかを考えた。ジョージとポールに見つかった時、彼らは僕に怒っていた。なぜなら彼らは「今ごろ本当は仕事を続けていたはずなのに」と考えていたからだ。でも僕は退いたんだ。わかるだろ。僕の一面は修道士で、別の一面は演技するノミだった。何時やめるべきかは僕にとって死活問題だったんだ。とにかく、その後しばらくして、僕らはリヴァプールの音楽シーンで稼ぐべきだという結論に達した。そしたらいろんなことが開花してきて、ハンブルグでの毎日の長時間演奏から得た経験を、今ここで捨ててしまうのは惜しいと思った。
 ジョージ、ポール、ピートの3人は、4~5日間はジョンが戻っていることに気づかずにいた。ジョンが彼らにコンタクトをとったのは12月15日であった。スチュアートはハンブルグに居座ったが、これは事実上、ビートルズのメンバーとしてのスチュアート・サトクリフの終了を意味していた。彼は、1961(昭和36)年1月20日(金)に飛行機でイギリスに戻る。
②1961(昭和36)年12月10日(日) ライブ演奏1:ブルー・ガーディーニャ・クラブ/ロンドン
 12月10日の早朝 (深夜)、アルダーショット (Aldershot) のパレイ・ボールルーム (Palais Ballroom) での惨憺たるショーの後、ビートルズはロンドンに向かい、ソーホー区 (Soho) のクラブに入る。彼らはそこで即興的な演奏を披露した。アルダーショットでのショーの後、ビートルズはやけ酒を飲んで酔い、その会場で騒ぎを起こしてしまう。深夜の1:00amに外に出てみると、警察が彼らを待ち受けていた。彼らは町を去って戻らないように言い渡される。見知らぬ土地で泊まる場所のあても無い彼らは、車でロンドンに向かい、ブルー・ガーディーニャ・クラブ (Blue Gardenia Club) へたどり着く。そこはカス&ザ・カサノバス (Cass & The Cassanovas) の前のシンガー、ブライアン・カッサー (Brian Cassar) が経営するクラブだった。それはセント・アンズ・コート (St. Anne's Court) にあるほとんど知られていない小さなクラブであったが、そこにいた数人の深夜の酒飲みたちは、ビートルズの予定外の演奏というご馳走をふるまわれた。アルダーショットのショーは、リヴァプールのプロモーターのサム・リーチ (Sam Leach) が、ビートルズの名前を英国の南部にも知らしめるために企画された。そのショーにはリーチの運転手に雇われた友人のデイヴ・ジョンストン (Dave Johnstone) と、ビートルズを乗せてリヴァプールから9時間ヴァンを運転してきた、やはりリーチの友人であるテリー・マッキャン (Terry McCann) も参加していた。
 テリー・マッキャン ⇒ 僕は「そんなに遠くないからロンドンに行こう」と言った。それでカス&ザ・カサノバスのブライアン・カスがやっているブルー・ガーディーニャ・クラブに向かった。彼は僕の昔の仲間だ。僕らはその店を「オールナイター」と呼んでいた。演奏の仕事が終わるとみんなそこに行ってたからだ。彼らはそこに集まるとステージに上ってジャムってたもんだ。あの夜にはジョージー・フェーム (Georgie Fame) もいたと思うよ。 僕らはそこで楽しい時間を過ごした。ジョージ・ハリスンはその時いなかったと言う人もいるけど、僕はいたと思う。というのは誰かが僕に「お前、いいギタリスト見つけたじゃないか」と言ったのを覚えていて、それはジョージのことだったはずなんだ。とにかくビートルズは本当に演奏を楽しんで、3:00am頃までそこにいた。それからまっすぐヴァンに戻って、リヴァプールまでドライブさ。
 リヴァプールへの帰路の途中、ビートルズを乗せたヴァンはガス欠になった。マッキャンは彼の最後の5ポンドを費やしてなんとか給油した。彼はこの5ポンドのことをビートルズには秘密にしていたのである
 テリー・マッキャン ⇒ 彼らは僕が5ポンド持っていたことは知らなかった。そうでなければあの時点まで僕が持っていられたはずがない。彼らはタバコであれ2シリング銀貨であれ、最後まで大事に秘蔵しているのを何でも持っていくんだ
 マッキャンは12月10日のお昼頃に、メンバーをそれぞれの家まで送り届けた。ビートルズはその日の夜には、リヴァプールのハイトン (Huyton) にあるハンブルトン・ホール (Hambleton Hall) に出演することが予定されていた。
③1961(昭和36)年12月10日(日) ライヴ演奏2:ハンブルトン・ホール/リヴァプール
 これはビートルズのリヴァプール・ハイトン (Huyton, Liverpool) にあるハンブルトン・ホール (Hambleton Hall) への15回目の出演であった。このショーは、リヴァプールの東部にあるこのホールのプロモーター、ウォーリー・ヒル (Wally Hill) とヴィク・アントン (Vic Anton) が主催した。ハンブルトン・ホールは自治体が経営する薄汚れた建物で、後には保護観察所になっている。場所はハイトン地区 (Huyton) ページ・モス (Page Moss) のセント・デヴィッド通り (St. David's Road) にあった。ビートルズは前日の夜に初めてロンドンで演奏した後、車でリヴァプールに戻り、この日のお昼頃に到着している。いかなる理由かは不明だが、彼らはハンブルトン・ホールに遅れて現れ、たった15分しか演奏できなかった。それでもウォーリー・ヒルとヴィク・アントンはしぶしぶ15ポンドの出演料を支払った。この会場で彼らの到着を待っていたブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) は、契約履行に対する彼らの怠惰な態度に顔色をなくしながらも、ビートルズのマネージャーになることをこの日彼らに申し入れている。
 ビートルズはハンブルトン・ホールに、16回出演しているヨ(=^◇^=)
 1961(昭和36)年01月25日
 1961(昭和36)年02月01日 08日 15日 22日
 1961(昭和36)年03月08日 20日
 1961(昭和36)年08月20日
 1961(昭和36)年09月03日 17日
 1961(昭和36)年10月15日 29日
 1961(昭和36)年11月12日 26日
 1961(昭和36)年12月10日
 1962(昭和37)年01月13日
④1961(昭和36)年12月10日(日)の早朝である。そのクラブは、カス&ザ・カサノバス (Cass & The Cassanovas) の前のシンガー、ブライアン・カッサー (Brian Cassar) が経営していた
⑤ビートルズはドンカスターのゴーモン・シネマには3回出演しているヨ(=^◇^=)
 1963(昭和38)年02月05日
 1963(昭和38)年03月22日
‡1963(昭和38)年12月10日
⑥ビートルズはドンカスターでは都合5回のショーを行っている。この日の他は
 1962(昭和37)年08月08日(水)
 1963(昭和38)年02月05日(火)
 1963(昭和38)年02月20日(水)
 1963(昭和38)年03月22日(金)
‡1963(昭和38)年12月10日(火)
⑦エプスタインはその後の数週間、何度もキャバーンに足を運んで彼らのプレーを観察した。
 1961(昭和36)年12月10日(日)にエプスタインは、彼がビートルズのマネージャーになることを提案する。そして彼らは1962年1月24日に、期間5年のマネージメント契約にサインするのである。
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 ①http://gejirin.com/beatles/history/1960/19601210_john_leave_hamburg.html
 ②http://gejirin.com/beatles/history/1961/19611210_live_Blue_Gardenia.html
 ③http://gejirin.com/beatles/history/1961/19611210_live_hambleton.html
 ④http://gejirin.com/beatles/history/1961/19611209_live_Palais_Ballroom.html
 ⑤https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630205_live_Gaumont_Doncaster.html
 ⑥https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620808_live_Co-op.html
 ⑦https://gejirin.com/beatles/history/1961/19611019_live_litherland.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|December 10|344
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|12月10日|
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 1960(昭和35)年12月10日(土) ポール、ジョージ、ピートが国外退去となった後も、ジョンとスチュはハンブルグに残っていたが、警察はジョンたちに対して同様の動きを見せ始めたので、ジョンはリヴァプールに戻る決心をした。スチュはもうしばらくハンブルグに残ったが、ジョンは大切なアンプを盗まれないように背中にくくりつけて、列車とフェリーで戻った。
 1961(昭和36)年12月10日(日) 前日、ロンドンに滞在していたビートルズは、この日に予定されていたリヴァプールのハンブルトン・ホールのステージに大幅に遅刻してしまった。僅か15分しか演奏できず、15ポンド(当時のレートでおよそ\15,000)の出演料を用意していたプロモーターは大激怒。マネージャーになる決心をしていたブライアン・エプスタインもこの日のステージを見るために訪れていたが、このいい加減な態度を改めさせるのに相当苦労させられるだろうと気が重かったという
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17212
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/012/1210.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15583672.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 ┃ Death of John Lennon ジョン・レノンの殺害 ┃
 ┃ Murder of John Lennon ジョン・レノンの殺害 ┃
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 1980(昭和55)年12月08日(mon) 射殺 Shooting dead
†1980(昭和55)年12月10日(wed) 火葬 Cremation
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Death_of_John_Lennon
 https://beatlesdata.info/2/03_allmyloving.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/All_My_Loving
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 ┃ Lost Weekend 失われた週末は本当に失われていたのか・・・  ┃2012(平成24)年2月11日(sat)  
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛テーマ:ビートルズ
 1973(昭和48)年10~12月LAスにて『ロックン・ロール』のための録音を開始。プロデュースはフィル・スペクターに依頼。過去のフィルとの共同作業はアスコットやNYのスタジオというジョンのホームで行われましたが、今回はフィルのホームであるLAでの録音。NYと違うルーズさでジョンはいつも呑んだくれた状態でスタジオに入り、フィルもその奇人ぶりを遺憾無く発揮したためセッションは混乱を極め、手を焼いたジョンはアルバム制作を一時棚上げにしてしまいます。
この時のセッション・メンバーはジェシ・ディヴィス(EG)、ホセ・フェリシアーノ(AG)、リオン・ラッセル(Key)、ジム・ケルトナー(Dr)、ニノ・テンポ(Sax)、ゲストにスティーヴ・クロッパー(G)、ハル・ブレイン(Dr)、ジェフ・バリー、バリー・マン(Cho)というもので、きちんとやってくれていたらなぁと思うのは僕だけ?
 1973(昭和48)年12月LAのジョンとメイ・パンの元へ離れて暮らす息子ジュリアン・レノン(10歳)と前妻シンシアが訪れる。この時ジョンは4年近く息子とあっておらず最初は気まずさも感じる再会でしたが、この再会がきっかけとなりジュリアンはたびたびジョンの元に訪れ親子の関係は修復されていきます。
この時にジュリアンとジョンがお遊びでモーリス・レヴィの管理楽曲である「YaYa」を録音。「カム・トゥゲザー」での盗作判決の穴埋めとして『心の壁、愛の橋』に収録されることに。
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 http://ameblo.jp/sugarmountain/entry-11161734029.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_2011_%22The_Last_Weekend%22_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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 ジョンレノン暗殺事件の経緯と陰謀論についてhttp://history.monovtube.com/entry38.html


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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1965(昭和40)年12月12日(日)|「英国ツアーの終幕」
 |2010(平成22)年12月10日(金)|甲虫日記更新日 No.085
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1965(昭和40)年9月、3度目の米国訪問、2回目の本格的な米国ツアーを終えて帰国したビートルズは、ある決心をマネジャーのブライアン・エプスタインに告げることになる。国内巡演、2度目のロイヤル・バラエティーショー(御前演奏)、3回目のクリスマス・ショー。秋から冬にかけて予定した計画を説明するエプスタインに対し、4人はステージに立つことを強く拒否したのだ。結論を言えば、ビートルズはその年の12月3日から12日にかけ、10日間で英国8都市の9会場を巡演するツアーに出かける。しかし、これが「最後の英国ツアー」になるとは、だれも思っていなかった。リンゴは、人気絶頂時に彼らが襲われた悩みについて、ありのまま話した。「1965年が終わる頃、僕らはツアーをやることに疑問を持ち始めた。ツアー中にみんなで話し合ったのを覚えている。滞在先のホテルでマリフアナを吸って、退屈しのぎをしているだけじゃ、ミュージシャンとしての誇りがなくなるって」都市から都市へと飛び回るツアー。彼らはホテルに缶詰めにされる生活が続いた。そこが大挙して押し寄せるファンから逃れて平穏を保てる、唯一の場所だった。「名声と金が自由をもたらすって思われるけど、そんなことはない。自分で稼いだ金さえ使えないんだ。買う暇がないからだよ……隔離され、仕事して、寝て、食べて、また仕事するだけ」。ジョンはいらついていた。ステージに上がれば、観客の絶叫で演奏はかき消されてしまう。ジョージは、64年の初の全米ツアーのころからツアーに対する不満を鬱積させていた。
「コンサートとビートルマニア現象には新鮮味が薄れ、うんざりしてきた。ステージでの騒音、演奏が聞こえないこと、相変わらず同じ曲ばかり演奏すること。もうどこにもいきたくなかった」欲求不満が募ると、4人はロード・マネジャーのニール・アスピノールやマル・エバンスに八つ当たりして、憂さを晴らした。ジョンはステージでいらついたとき、観客に向かってわいせつな言葉でなじるようなこともした。音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンは、4人に押し寄せる地獄のようなストレスを目の当たりにして、「あれは休演日のない大型サーカスのようなものだ」と例えた。4人は、自分たちの自由が制限されるうえ、演奏の質も進歩も望めないツアーを続ける意味が、見いだせない状況に陥った。楽天家のポールでさえ、「絵を描くことを許されない絵描きみたいものだった」と自嘲気味に語っている。いっそのことツアーをやめて、築き上げた名声を捨て去るべきか。ポップ・ミュージック界の頂点に立つ4人にとってのツアーは、葛藤(かっとう)する日々を過ごすという重たい意味を持つようになっていた。「ツアー拒否」を通告されたエプスタインは、4人の説得に努めた。特に契約が決まっている国内ツアーの履行については、一歩たりとも譲らなかった。妥協が生まれた。御前演奏とクリスマス・ショーはビートルズの意向をくんで計画から外した。その代わり、ビートルズは12月に短期間、国内を巡るツアーに同意した。ただし、ビートルズが二度とツアーをやる気がないことは秘密とされた。エプスタインと興行師らとの契約もあって、だれも言い出せなかった。
 ◎約2500席の公演に対し4万人の申し込み… 次のページへ
1965(昭和40)年12月の英国ツアーの日程が発表され、ビートルズは新作アルバム『RUBBER SOUL』の制作に取りかかった。するとビートルズは、自分たちの音楽の質を向上させることと、演奏活動を続けることのジレンマに悩み出した。彼らは、スタジオで自分たちがつくり出す新しいサウンドをステージで再現できないことに気づき始めるのだ。最後の英国ツアーは『RUBBER SOUL』の発売日である12月3日にあわせ、スコットランド最大の都市グラスゴーから始まった。だが、演奏曲は11曲といつもより少ないうえ、新作アルバムからは「If I Needed Someone」と「Nowhere Man(ひとりぼっちのあいつ)」の2曲しか選ばれなかった。アルバムと同時発売されたシングル曲、「We Can Work It Out(恋を抱きしめよう)」と「Day Tripper」が演奏曲に加えられたのが救いになった。マスコミは、いつものように会場でのファンの熱狂ぶりや4人のパフォーマンスの詳細を報じた。ツアー当初、ジョージの高級ギターが粉々になる災難が話題になった。ロンドンからグラスゴーに車で移動する際、300ポンドするジョージのギターが誤って道路に落ちてしまい、「少なくとも14台のトラックに踏みつけられた(ジョージ)」というのだ。
1965(昭和40)年12月5日(日)のリバプール公演は、3年前にリトル・リチャードと初共演を果たした思い出のエンパイア・シアターだった。客席が2550しかないのに、1日2回の公演に4万人がチケットを申し込んだ。当日、開演を待つ列の客に2人の女の子がチラシを配っていた。チラシの内容は、デビュー前からビートルズが出演したキャバーン・クラブが取り壊しの危機にあることを伝え、窮地から救う募金を呼びかけるものだった。その日、市役所はクラブ経営者に対し、3千ポンドをかけて新しい下水道設備を整備しない限り建物を取り壊すという命令を通告したのだった。偶然、ビートルズの控室に招かれた2人の女の子は、4人とキャバーンの存続問題について10分ほどおしゃべりすることができた。「クラブを『観光スポット』にすれば、世界中から観光客が集まるのでは」。ポールが前向きな提案をした。「ビートルズと会うことができるなんて信じられなかった。今までにも増して彼らは偉大だわ」。幸運な女の子の1人、スーザン・ホールはインタビューに答えた。
1965(昭和40)年12月12日(日) 巡演の最終日はカーディフにあるキャピトル・シネマ。2回分のチケットは完売。会場の周りには、チケットがないファン約7千人が取り囲んだことを翌日の新聞が伝えていた。熱狂の渦中、ビートルズの英国ツアーは永遠に幕を下ろした。
 ◎『この日のビートルズ』の次回は1月4日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒ 印象的なギター・リフで始まる「Day Tripper」。「Try to see it my way」と楽天的なポールの歌詞で始まり、「Life is very short」と斜に構えるジョンの歌詞を挟み込んだ「We Can Work It Out」。英国では初の両A面シングルとして発売された。
  Day Tripper / We Can Work It Out(恋を抱きしめよう)●英国発表当時ジャケット●
 「The Beatles 1962~1966(赤盤)」などに収録 
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/101210.html
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 ┃    『THE BEATLES Interviews Database』    ┃
 ┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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‡1969(昭和44)年12月10日(水)
‡No.142(12) 1969-12-10(wed) Starr / BBC-TV, Late Night Line Up (1 photo) Tony Bilbow interviews Ringo in a rowboat, and makes the Beatle row. 
 Starr Interview, Late Night Line-up 12/10/1969
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 http://www.beatlesinterviews.org/db1969.1210.beatles.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━┓ BBC's radio
①┃ 『DATELINE LONDON』  ┃‡1963/12/10(tue)   rec.
 ┗━━━━━━━━━━━━┛ 1964 early trans. broadcast
                Interview with Dibbs Mather 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃    『THE BEATLES Interviews Database』    ┃
②┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1963(昭和38)年12月10日(火)
‡No.016(15) 1963-12-10(tue) Beatles / Doncaster, South Yorkshire (1 photo) Dibbs Mather interviews the Beatles backstage at the Gaumont Theatre. 
 Beatles Interview: Doncaster, England 12/10/1963
  Note・・・『THE BEATLES Interviews Database』Last article in 1963
******** https://en.wikipedia.org/wiki/Dig_It_(Beatles_song)
 ①http://beatleslist.web.fc2.com/bbc.html ①http://www.webers-records.com/134_1420.html
 ②http://www.beatlesinterviews.org/db1963.1210.beatles.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES TV Appearance Photos Quick-Reference Guide 1962-1970 ┃
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‡(tue)10 December 1968『Rock And Roll Circus』(rehearsal)
 (wed)11 December 1968『Rock And Roll Circus』(rehearsal)
 (wed)11 December 1968『Rock And Roll Circus』♪Yer Blues♪
 (wed)11 December 1968『Rock And Roll Circus』♪Whole Lotta Yoko♪
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 http://www.beatlesource.com/TV/index.html
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‡1961(昭和36)年12月10日(日) エプスタインはビートルズのマネージャーになりたいと彼らに申し出る
 1961(昭和36)年12月17日(日) ビートルズ初のフォト・セッション
 1962(昭和37)年 1月 4日(木)『Mersey Beat』front page: "Beatles Top Poll!". Issue almost completely dedicated to the Beatles.
 1962(昭和37)年 1月24日(水) 契約書 (期間5年) に双方がサインする
 http://gejirin.com/beatles/history/1961/19611217_first_photo_session.html

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 ┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡(sun)10 December 1961 Liverpool Hambleton Hall 
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 ┃ Autumn 1963 UK Tour“THE BEATLES SHOW” ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.34 (tue)10 December 1963 Doncaster, England, Gaumont 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES' 1965 UK tour  ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.13 (fri)10 December 1965,   London City, Hammersmith Odeon  (Afternoon)
‡No.14 (fri)10 December 1965,   London City, Hammersmith Odeon (Evening)
   01.♪I Feel Fine♪
   02.♪She's a Woman♪
   03.♪If I Needed Someone♪
   04.♪Act Naturally♪
   05.♪Nowhere Man♪
   06.♪Baby's in Black♪
   07.♪Help!" (Lennon)
   08.♪We Can Work It Out♪
   09.♪Yesterday♪
   10.♪Day Tripper♪
   11.♪I'm Down♪
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 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles%27_1965_UK_tour
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 ┃   『THE BEEB'S LOST BEATLES TAPES』   ┃
‡┃  Episode 11: Green with Black Shutters ┃29:52 (sat)10 December, 1988
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 01.♪Rock And Roll Music♪『SATURDAY CLUB』(sat)26 December 1964
 02.♪Every bodys Trying to Be My Baby♪『SATURDAY CLUB』(sat)26 December 1964
 03.♪Kansas City♪『SATURDAY CLUB』(sat)26 December 1964
 04.♪Ticket to Ride♪『THE BEATLES INVITE YOU TO TAKE A TICKET TO RIDE』(mon)7 June 1965
 05. Keith Bateson Interview
 06. MBE Interview June 1965
 07.♪Dizzy Miss Lizzie♪『THE BEATLES INVITE YOU TO TAKE A TICKET TO RIDE』(mon)7 June 1965
 08.『POP PROFILE』Interview, (mon)2nd May 1966 ※(rec.)
 音源◆https://youtu.be/kcwHXw4SYwY
 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beeb%27s_Lost_Beatles_Tapes
 https://www.youtube.com/playlist?list=PL073eZJnP1VSVL0DHZ-N_GATBFD-ou2eG
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 ┃ 『A Collection of Beatles Oldies』 ┃December 10, 1966
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛Parlophone PMC 7016; PCS 7016
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 http://www.beatlesagain.com/btlps.html
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 映像◆クラッシック・アルバムズ【ジョンの魂】http://video.fc2.com/content/20151111SMRkUrbR
 動画:クラッシック・アルバムズ 【ジョンの魂】
 動画:クラッシック・アルバムズ 【ジョンの魂】
 動画:クラッシック・アルバムズ 【ジョンの魂】


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 ┛THE BEATLES 1966 Stereo mixing ┛Abbey Road, Room 53
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 ┃ ♪SHE LOVES YOU♪  ┃remixes 1, 2, from single's master tape
 ┗━━━━━━━━━━━┛
  Having been destroyed the original 2-track tapes, 
  Geoff Emerick makes a "mock" stereo version from the single master
  Producer: not assigned
  Engineer: Geoff Emerick
  2nd Engineer: not assigned.
  1966(昭和41)年11月8日(tue)
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 https://beatlesdata.info/15/04_shelovesyou.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/She_Loves_You
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 ┛THE BEATLES 1966 Stereo mixing ┛Studio 1 (control room only)
 ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛2:30-5:30pm
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ ♪I Want To Hold Your Hand (抱きしめたい)♪  ┃remix 1, from take 17
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛『REVOLVER』の発売後。この曲はジョージ・マーティンにより再度ステレオリミックスされた。ビートルズ初のベストアルバム「オールディーズ(未CD化)」のためである。ミックス自体は65年の物とほぼ変わらない。
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ ♪This Boy (こいつ)♪  ┃■BEATLELinksにはない情報■
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛『REVOLVER』の発売後。この曲はジョージ・マーティンにより再度ステレオリミックスされた。このリミックスはビートルズ初のベストアルバム「オールディーズ(未CD化)」のためなのだが、スタッフが「バッド・ボーイ」と「ジス・ボーイ」を取り違えてしまい、アルバム「オールディーズ」に収録されるのはこの「ジス・ボーイ」と勘違いして、ステレオ・リミックスしてしまったのである。オーストラリア盤のシングル「抱きしめたい」のB面に収められていたステレオバージョンはこれなのかも?
  Producer: George Martin
  Engineer: Geoff Emerick
  2nd Engineer: Mike Stone
 ‡1966(昭和41)年11月7日(mon)
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 https://beatlesdata.info/15/06_iwanttoholdyourhand.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/I_Want_to_Hold_Your_Hand
 https://beatlesdata.info/15/07_thisboy.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/This_Boy
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ビートルズのギター、約③億円で落札 米
2015(平成27)年11月8日(日)15時46分『AFP=時事』配信 
香港のバーに設置された、「ドロップT」と呼ばれるビートルズのロゴがあしらわれたドラムセット
2006(平成18)年4月29日(土)撮影、資料写真)。【翻訳編集】 AFPBB News 
【AFP=時事】(一部更新)ビートルズ(The Beatles)の故ジョン・レノン(John Lennon)がヒット曲「シー・ラブズ・ユー(She loves you)」や「オール・マイ・ラビング(All my loving)」を作るときに愛用したギターが7日、米ロサンゼルス(Los Angeles)でオークションに出品され、241万ドル(約2億9700万円)で落札された。米競売会社ジュリアンズ・オークションズ(Julien's Auctions)が明らかにした。ロック関係のオークションでは、過去最高額だという。
「ビートルズ」デビュー時の契約書、6600万円で落札 英
落札されたのは、ギブソン(Gibson)社製のアコースティックギター「J-160E」。ビートルズが1962年9月に英リバプール(Liverpool)で、161ポンドで購入したものだという。ギターは、ビートルズが1963年に英ロンドン(London)で行った「フィンズバリー・パーク・クリスマスショー(Finsbury Park Christmas Show)」の最中になくなって以降、50年以上行方がわからなかった。
ジュリアンズ・オークションズは、ギターがどこでどのように発見されたのか、詳細を明らかにしていない。この日のオークションには、米テレビ番組「エド・サリバン・ショー(The Ed Sullivan Show)」での演奏に使用された、ビートルズの「ドロップT」と呼ばれるロゴがあしらわれたドラムヘッドなども出品された。ビートルズのアルバムのジャケットに使用された唯一のドラムヘッドでもあるこの品の落札価格は、212万5000ドル(約2億6000万円)だった。また同じオークションに出品された、伝説的ロックスター、エルビス・プレスリー(Elvis Presley)が所有していた「黄金のピアノ」は60万ドル(約7400万円)で落札された。さらに米ロックバンド「ニルヴァーナ(Nirvana)」のフロントマンだったカート・コバーン(Kurt Cobain)のカーディガンが13万7500ドル(約1700万円)で落札された。【翻訳編集】 AFPBB News

レノンのギター、③億円で落札=ロック分野で史上最高値-米
2015(平成27)年11月8日(日)14:43
ギターは米ギブソン社製の「J-160E」。ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」の収録などでレノンが使用した。1963年のロンドン公演の際に紛失。その後、米国のアマチュアギタリストが中古店で約200ドル(約2万5000円)で購入し、最近になって専門家の鑑定で本物と認定された。
また、ビートルズが64年の米国初公演で使用したドラムヘッド(打面)も出品され、212万5000ドル(約2億6000万円)の高値が付いた。一方、エルビス・プレスリーが金箔(きんぱく)を施して所有していた「黄金のピアノ」は60万ドル(約7400万円)で落札され、ピアノの競売としては過去最高値で取引された。(2015/11/08-14:43)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201511/2015110800055

ジョン・レノンのイラストや原稿、③億円で落札 NY競売
2014(平成26)年06月05日(木) 12:03 発信地:ニューヨーク/米国
【6月5日 AFP】元ビートルズ(The Beatles)の故ジョン・レノン(John Lennon)さんのイラストや手書きの原稿が4日、ニューヨーク(New York)の競売大手サザビーズ(Sotheby's)で競売に掛けられ、一部作品は推定価値の4~5倍で落札された。競売に出品された89点はわずか2時間ですべて落札された。
出品されたのは、レノンさんが1964年と65年に出版した著作「絵本ジョン・レノンセンス(In His Own Write)」と「らりるれレノン(A Spaniard in the Works)」のオリジナル素材で、インクで描かれたスケッチや手書きの原稿など。
ミュージシャンになる以前から、レノンさんは絵を描くことが好きだったとされ、学生時代は優等生としてではなく、おもしろおかしいコミックを描く人として有名だった。
サザビーズによると、今回出品されたコレクションは「ジョン・レノン氏によるオリジナルのイラスト、手書き原稿、訂正入りタイプライター原稿のオークションとしては過去最大規模のもの」で、事前に推定された落札総額は85万~120万ドル(約8700万~1億2000万円)だったが、最終的には290万ドル(約3億円)に達した。
最も高値で落札されたのは9ページの手書き原稿「The Singular Experience of Miss Anne Duffield」で、20万9000ドル(約2100万円)で落札された。推定価値は5万~7万ドル(約510万~710万円)だった。
また出品されたイラストの大半は3万ドル(約300万円)以上の値を付けた。(c)AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3016842


アメリカで初めてビートルズの曲をラジオで放送した局はどこだ?(その163) 
2018-03-30  
アメリカで初めてビートルズの曲を放送したラジオ局はどこだったのか?今回は、このテーマと関連して大阪南港ATCで開催中の「ビートルズ展」をご紹介します。楽器はあまりありませんでしたが、当時の記録やグッズ類が色々と展示してありましたね。珍しく「写真撮影OK」だったので写真を撮りまくってきました(^_^;)
1 当時の様子を再現するモニター
これが入口です。「Ladies and Gentlmen」という言葉は、ビートルズの曲「I Want To Hold Your Hand」が初めてアメリカのラジオで放送されたときに使われました。これがビートルズのアメリカにおけるブレイクのきっかけになりました。 主にビートルマニア現象を起こしていた1966年位までの歴史を中心に、それにまつわる数々の物品が展示してありました。これはモニターで、ヘッドフォンを耳に当てて自分の聞きたい画面を指でタッチすると、当時のラジオ、テレビなどの音声が流れてきます。展示室の何箇所かに設けられていますが、英語がわからなくても、ちゃんと日本語に翻訳した印刷物が横に置かれています。特にアメリカでのビートルズファンの熱狂ぶりに焦点が当てられていました。
2 アメリカでビートルズがブレイクしたきっかけ
1963年12月10日にCBSイヴニングニュースで、ビートルズがイギリスで大人気を博していることが放送されました。収録はかなり前に済ませていたのですが、放送しようとした矢先に「ケネディ大統領の暗殺」という大事件が起きたため、テレビ局も放送を見送っていたのです。そして、ビートルズの歴史学者ブルース・スパイダーは、次のような出来事を語っています「そのニュースを見ていたファンの一人がメリーランド州に住む15歳のマーシャ・アルバートでした。彼女は、自分が聴いているラジオ局に手紙を書いたんです。私は、ビートルズをCBSイヴニングニュースで見ました。何故アメリカにはこういう音楽がないんでしょうか?」「自分もそのニュースを見ていた WWDC のディスクジョッキー、キャロル・デイヴィスは、ブリティッシュ・エアウェイズのスチュワーデスの友達に頼んでレコードを取り寄せました。そして
1963年12月17日、マーシャをラジオ局に招待し曲を紹介するように促しました」これがデイヴィスです。彼もビートルズのサウンドに理解を示した数少ない「大人」の一人でした。「では、マーシャにこのとっておきの場で、新曲を紹介してもらいましょう。マーシャ、どうぞ」「レディース&ジェントルメン。これがアメリカで初めて放送されるビートルズの曲です。ビートルズで『I Want Hold Your Hand』」
3 これまでの通説に対する異論
(1)これまでの通説は正しいのか? ⇒ この展示では上記のように説明されていましたし、おそらくそれが通説だと思います。ところが、それに異論を唱える説があるのです。つまり、この時よりも前にアメリカでビートルズの曲が放送されていたと主張する説です。ここからは、展示内容とズレますのでご注意下さい。「I Want Hold Your Hand」よりも先に「Please Please Me」がアメリカのいくつかの主要都市で放送されていたという確かな証拠があるとするいくつかの新しい情報が2013年に入って公表されました
(2)Please Please Meが最初だった? ⇒ 歴史家のJ・A・バートレットは、自身のブログで次のように主張しています「数年前に私が研究した結果、ビートルズの曲は、1963年初めにアメリカのラジオで放送されていた。私は、1955年から1996年にかけて行われたラジオ局(現存するのは35,487局)で放送された音楽に関する資料(Airheads Radio Survey Archive)を調査した。それによれば、アメリカのラジオで最初に放送されたのは『Please Please Me』であった。さらに、5つのラジオ局が1963年12月以前に『Please Please Me』を放送したことが明らかとなった。」
「シカゴのWLSでは、
1963年3月8日から
3月15日までにかけて、『Please Please Me』がチャートインし、最高35位に達した。ケント・コタルが徹底的に研究した結果、WLSが
1963年2月の終わり、つまり、海を越えてアメリカでビートルマニア現象が生じたほぼ1年前に、彼らの曲を放送した最初の放送局であるとしている」
その時のチャートがこれです。左側の緑色のチャートを見てください。
3月15日のものでちょっと見づらいですが、確かに35位に「Please Please Me」がチャートインしています。
そしてビートルズのスペルは、ヴィージェイレコードと同じようにTが二つ重なったミススペルになっています
「カリフォルニア州サンベルナルディノのKFXMでは、
4月6日の週間チャートでこの曲がチャートインし、
4月27日、
5月4日、
5月11日でもチャートインした。
4月15日と
22日の週は不明だが、
4月27日の週間チャートの最初で『Please Please Me』と表示されているので、おそらくランクインしなかったと推測される。」
「マイアミのWQAMでは、
4月の最後の2週間、ヒューストンのKNUZでは
5月3日の週、サンフランシスコのKEWBでは、
5月4日にそれぞれチャートインした
コタルの研究の中で最も目を引くのは、イリノイ州ウェスト・フランクフォートにあるWFRXが
1963年6月に『Please Please Me』を放送したと主張していることだ。セントルイス・ポスト・ディスパッチの1997年の記事によると、ジョージ・ハリスンの母親がレコードのコピーをイリノイ州ベントンに住んでいた彼の姉の自宅(ジョージは、ここで
1963年9月に休暇で3週間を過ごした)に送り、彼女は、それを自宅近くのWFRXのDJに渡したとしている」これは、兄のピーターと一緒にルイーズの自宅で休暇を取っていたジョージです。
(3)通説を覆す数々の証拠「さらに、ニューヨークのDJ、マーレー・ザ・K(後にビートルズのアメリカツアーに同行した)は、
1963年9月末にビートルズの曲を放送したと主張している」
「これらの初期の調査結果によると、『Please Please Me』が放送されたと記録されているが、その殆どでバンド名が『The beattles』と誤ったスペルで表記されていた。この誤ったスペルで表記したレコードは、シカゴのヴィージェイレーベルのものである。シカゴの放送局は、地元のレーベルのリリースには特別な注意を払っていた可能性が高いため、WLSの最初の主張の信憑性が高い」
「1963年当時WLS、現在はWLS-FMに籍を置くディック・ビオニディは、自分がビートルズをアメリカで放送した最初のDJだったと長い間主張してきており、彼の主張を覆す証拠は存在しない。」
(4)それでもブレイクしたのはWWDCの放送がきっかけ ⇒ 何だか話がややこしくなってきましたが(^_^;)、これまで通説とされてきた
「1963年12月10日のWWDCが、アメリカで最初にビートルズの曲を放送した」というのは、どうやら事実ではないようです。特に、ラジオ局の多くがバンド名のスペルを「THE BEATTLES」と間違えていたのは、まさしくヴィージェイレコードがプレスした時のミススペルであり、それに気がつかないまま放送したとすれば説明が付きます。それがこのレコードです。ただ、これまでの通説が覆されたとしても、WWDCの放送がアメリカでビートルズがブレイクしたきっかけとなったという事実は揺るぎません。というのも、確かに、それまでにいくつかの放送局でビートルズの曲が実際に放送され、チャートインしていても、それだけでは、本当にブレイクしたとはいえないからです。ケネディ大統領が暗殺されたのは、
1963年11月22日でした。アメリカ国民は、失意のドン底へ叩き落とされたのです。さらに、当時のアメリカは、ヴェトナム戦争の激化、核戦争の恐怖、公民権運動に伴う全米での暴動など暗いニュースばかりでした。そこへビートルズの明るい、それまでにはなかった斬新な曲が登場したから、若者たちが一斉に飛びついたとも分析できます。WWDCの放送直後から、曲にはものすごい反響が寄せられ、レコードは、他の都市のラジオ局にも送られて、同じような大きな反響を巻き起こしました。ここからアメリカでもビートルマニア現象が爆発的に拡大したのです。 
 http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2018/03/30/220000

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