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┃ ON THE ROAD'86 I'm a J.BOY ┃
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2016(平成28)年11月09日(水) 03:50
https://m.youtube.com/watch?v=cLISYw58vUs 11月9日スペシャルアルバム発売記念。…この曲を聴いて、ふと30年前のあの当時を思い出し…'ON THE ROAD ’86 I’m a J.BOY”ツアー『東京国立代々木体育館』上京して間もない1986年当時、浜田省吾のライブに行こうと…しかしチケットは売り切れ。当時地方でも中々取れなくなっていたけど東京でも?とそう思った。仕方無い、とりあえず会場へ行こう。 原宿から代々木体育館へ。当時は『国立代々木オリンピックプール』チケットもそう書いてあった。運良くダフ屋さんから買うことが出来た。代々木体育館は入り口が1箇所のためか入ってアリーナ、2.3階席、ステージが丸見え、また会場の作りがミラクルであり広さに圧倒された。さすが『丹下健三』作。 みたいな印象。入り口側、ステージ反対側には、当時飛び込み台があった。そこから一万人超える人たちがアリーナ、2、3階席を埋めてる眺めはデカイ!!凄い!!圧巻!!はじまる前から興奮度MAXに達した。また…浜田省吾はついにここまで来たか…そんな想いとうらはらにあまりにも遠くなってしまったと思う気持ちで複雑だった様な。今思えば、今でこそアリーナ会場は全国的にあるが当時は武道館ぐらいだった。浜田省吾のイベントでも、数万人規模のコンサートは野外『福岡海の中道』ぐらいで、普通は会館レベルだったので、広いアリーナ席、高い2.3階席の景色は上京仕立ての田舎者にとって、見るもが全て驚きだったのは当たり前である。ステージ正面に垂れた 'ON THE ROAD ’86 I’m a J.BOY”は今でも目に焼き付いてる。オープニングから矢継ぎ早に盛り上がり中盤そしてアンコールへと。当時は休憩も無く、また座ってと語ること無いから、ほぼ3時間立ちっぱなし、皆が若かったし、そんなのは関係無いくらい盛り上がったのも事実。 このコンサート以来またハマってしまい、結局代々木4日間のうち2日間行った。また追加の新宿厚生年金会館まで行くことが出来た。次のツアー88年までが長かった。まる2年待ちでした。もしかしたら、あの日に行かなかったら、今は無かったかもと思ってます。そんなコンサートでした。あれから30年が過ぎ、今年2016年ツアー参加…今でもコンサートを生で観れてる奇跡に感謝です。600人のステージ初見から36年目。長いことNO1であり続けること…このアルバムの深さやもしかしたらこのステージが通過点であったのでは?と思ってしまう。アリーナツアーでもやっぱり『代々木』は何か違う感じがします。『代々木体育館』を眺めては、あの頃の想いからか特別な思いがあります。懐かしい場所、思い出の場所、大切な場所 なのでしょう。長くなりあしからず、ついつい、ゴメンなさい。
https://open.mixi.jp/user/61498351/diary/1956667522
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┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃後半戦 日程
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‡058 1988(昭和63)年10月04日(火) 福島県文化センター
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http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
1981.10.4 長崎市公会堂
1981.10.4 長崎平和公園のDJ
音源◆浜田省吾 ラジオ番組 君が人生の時 81 1 https://youtu.be/64wX3CjC-ak?list=PLmQIzKRWaBRXvAjoIwvtD17ZvXeImazSN
♪4年目の秋♪http://d.hatena.ne.jp/tk1968/20110920/1316521147
♪MONEY (FIRST VERSION) 浜田省吾
アニメ◆

ダイジェスト◆

♪MAINSTREET(メインストリート) <FIRST VERSION)> 浜田省吾
アニメ◆

ダイジェスト◆

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■『DOWN BY THE MAINSTREET』1984.6.21 リリース予定が4か月後の10月21日にリリース
削除音源◆「POP STATION KISS 木曜スペシャル」 http://youtu.be/9lvZpASz0RI
1984.10.4(tue) 23:00~25:00
ラジオ大阪「POP STATION KISS 木曜スペシャル」
ゲスト:浜田省吾
ON THE ROAD '86 ⇒ このツアーは10/4(土)代々木第一体育館のチケットを取ったにもかかわらず行かなかった。やんごとなき事情があっていけなかったので、TちゃんとK子にパンフレットだけ買ってきてもらった。 今思えば無理にでも行くべきだった。あ~~~~~っ!!!省吾ファンになって最大の失態だ。 on the road '86
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
827 : 2016/10/04(火) 18:03:56.52 ID:Zobt15nN
浜田省吾最新作 HELLO ROCK&ROLL KITTY
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1474709031/
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┃♪はぐれそうな天使♪┃
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1985(昭和60)年09月10日(火) 来生たかお リリース
1986(昭和61)年03月20日(木) 岡村 孝子 リリース
1986(昭和61)年12月20日(土)『Noel』PV収録
2006(平成18)年12月13日(水)『Noel』DVD化
1986(昭和61)年05月24日(土)&25日(日) ホンダプリモデー
‡1986(昭和61)年10月04日(土)&05日(日) ホンダF-1 ワールド・グランプリフェア
1986(昭和61)年11月08日(土)&09日(日) ホンダプリモフェア
1986(昭和61)年12月06日(土)&07日(日) ホンダプリモ 大商談会
1987(昭和62)年02月14日(土)&15日(日) オールホンダ 春の大商談会
1987(昭和62)年03月14日(土)&15日(日) 春のホンダプリモデー
映像◆44秒から映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm14656473
映像◆1986(昭和61)年CM ホンダ トゥデイ 青山育ちのハンサムです。今井美樹 https://youtu.be/wQ4E0X8MvkU
映像◆来生たかお 編 今井美樹 HONDA TODAY CM https://youtu.be/pI0F2_NT5-0
懐かし車CM集1985 映像◆https://youtu.be/na14GE0Ztj4
映像◆はぐれそうな天使(HONDA today CM 今井美樹)岡村孝子https://youtu.be/gSFZDMiv4jc
1985~1986映像◆https://youtu.be/_HexZv7EdXE
1985年音源◆ホンダトゥディ ラジオCM 1985年 https://youtu.be/GsmJEOdHeLM
1986削除映像◆https://youtu.be/g6vtEkwIFlI キミとなら仲良くできる。
1986(昭和61)年05月24日(土)&25日(日) ホンダプリモデー
削除映像◆1987 ホンダ トゥデイ(JW1)HONDA today https://youtu.be/r9qHx5hSPBM
'86 グッドデザイン選定商品
1987(昭和62)年前半 ホンダ トゥデイ「21世紀のハンサムです。」
1987(昭和62)年後半 ホンダ トゥデイ「ポシェット誕生」
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%90%E3%82%8C%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%AA%E5%A4%A9%E4%BD%BF
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┃ 1993年の出来事 ┃
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‡2017(平成29)年10月04日(水) 今回は1993年のことを。
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1993(平成五)年から94(平成六)年にかけては、ツアーとレコーディングの日々が続いた。ぼくがツアーサポートで参加したアーティストはinfix、久宝留理子さん、町支寛二さん。山本英美さん。93年の前半はinfixのレコーディングで多忙だった。ぼくは前作に引き続き、彼等の三枚目のアルバムのプロデュースも担当した。レコーディングは前作同様二子玉川のスタジオ・サウンドダリで行った。エンジニアも前作と同じ森元浩二くん。参加ミュージシャンはinfixの四人+キーボードでぼく+サックスの倉富義隆くん他。サウンド的には前作からの流れで、アメリカンロックっぽい部分をさらに押し進めた作品になった。infixの楽器にも新たな顔ぶれが加わって、ベースの野間口くんはヴィンテージのフェンダージャズベースを、ギターの晃くんもヘッドアンプやエフェクター群を一新してレコーディングに臨んだ。ぼくもこの時期、シンセサイザーやサンプリングキーボード等、機材を大量に導入してサウンド作りに勤しんだ。今回のアルバムでは新たな試みにもトライした。メンバーによるアカペラの曲や歌のないインストゥルメンタルの曲など、今までとは違う新たなことにチャレンジした。彼等はメンバー全員がボーカルをとれたので、コーラスはお手のものだった。そこで今回は今まで彼等がやったことのない、ドゥーワップ調のコーラスにもトライしてもらった。インストゥルメンタルの曲は、ぼくとギターの佐藤晃くんの二人で書いた。ピアノとアコースティックギターだけの曲で、「Innocent Age」と名付けられた。結果この曲はアルバムタイトルにもなった。アルバムタイトルはぼくが考えて、彼等やスタッフと協議した結果「Innocent age」に決まった。アルバムに先駆けて4月にシングル「WINNERS FOREVER?勝利者よ?」がリリースされた。これはテレビアニメ「機動戦士Vガンダム」のエンディング・テーマに採用されて、スマッシュヒットを記録した。この曲はシングル・バージョンとアルバム・バージョンではアレンジが異なる。シングルのほうはホーンセクションが入って、より派手な仕上がりになった。1993年の6月にinfixの三枚目のアルバム「Innocent Age」はリリースされた。infixのレコーディングが終了すると、すぐに久宝留理子さんのツアーが始まった。93年になって久宝留理子さんのバンドは何人かメンバーが代わった。ギターが高村周作くんから富塚和彦くんと長田進くんに、サックスが古村敏比古くんからスマイリー松本くんにスイッチした。長田くんとは佐野元春さんのレコーディング以来の再会だった。あの時はレコーディングスタジオでの一度限りのセッションだったが、今回は一緒にライブをやることが出来るので、音を出すのがとても楽しみだった。久宝留理子さんの93年ツアーは以下の通り。
1993(平成五)年05月22日(土) 銀座 SOMIDO ホール
1993(平成五)年05月23日(日) ヒューマンアカデミー大阪北校
1993(平成五)年05月30日(日) 新宿 日清パワーステーション
1993(平成五)年06月08日(火) 大阪 バナナホール
1993(平成五)年06月10日(木) 新宿 日清パワーステーション
1993(平成五)年08月07日(土) 神鍋高原特設ステージ
1993(平成五)年08月08日(日) 名古屋港ガーデン埠頭
1993(平成五)年09月23日(木) 新宿 日清パワーステーション
1993(平成五)年08月07日(土)の神鍋高原特設ステージでのライブは、前日の夕方に東京からバスをチャーターして鈴木雅之さん御一行と一緒に移動した。バスは深夜大阪に到着した。ぼく達は一旦大阪で宿泊して、次の日の朝早く神鍋高原入りした。神鍋高原は兵庫県の豊岡市にある広大なリゾート地で、コンサートは野外の広場のようなところに特設ステージを組んで行われた。真夏だったので高原と言ってもとにかく暑かった。ぼくは自分の楽器や機材が、暑さでどうにかなってしまわないかそればかり気にしていた。ぼくは
1993(平成五)年09月23日(木)の日清パワーステーションでのライブを最後に久宝さんのバンドを離れた。ぼくにとって久宝さんとのラストライブはとても素晴らしいものになった。久宝さんのツアーと併行して、7月から始まった町支寛二さんのツアーは前年と同じメンバーで行われた。スケジュールは以下の通り。
町支寛二「ebb tideツアー」
1993(平成五)年7月09日(金) 愛知勤労会館
1993(平成五)年7月15日(木) 大阪厚生年金
1993(平成五)年7月20日(火) 渋谷公会堂
1993(平成五)年7月22日(木) 中野サンプラザ 町支さんのセカンドソロアルバム『ebb tide』のレコ発ツアーだった。他にも山本英美くんのライブサポートや、「夏の日の1993」が大ヒットしていたClassのテレビ出演等のセッションワークもたくさん行った。93年の後半は横浜銀蝿のボーカル、翔さんのソロアルバムのアレンジを担当した。レコーディングの打ち合わせのため、ぼくは渋谷からほど近い三宿のとあるバーで初めて翔さんとお会いした。ぼくの目の前に現れた翔さんはイメージの通り強面で、ぼくはお会いする前からかなり緊張というかビビっていた(笑)でも音楽の話をしていくうちに段々と緊張もほぐれて来て、翔さんといい感じでレコーディングに入れそうな気がした。今回、ぼくはアレンジャーとして全体を俯瞰していたかったので、あえて演奏には参加せずスタジオのコントロールルームの中で指揮を執る、プロデューサー的スタンスでレコーディングに臨んだ。翔さんのレコーディングに参加してくれたミュージシャンは以下の通り。
ドラムス:大久保敦夫
ベース:美久月千春
ギター:高村周作
キーボード:友成好弘 ぼくはミュージシャンの人選も任されていたので、信頼する凄腕のメンバーに参加してもらった。ドラムの大久保くんは直前の久宝さんのツアーでも一緒だった関係で、久宝さんのツアーが終わるとすぐに直でお願いした。ベースのミックとはそれまでも何度かスタジオで一緒にレコーディングをしたことがあって、今回のレコーディングでもお願いをした。ギターの周ちゃんとも千春さんと久宝さんのツアーで一緒だった。今回のレコーディングでも、素晴らしいプレイを披露してくれるに違いなかった。キーボードの友成くんとは、浜田省吾さんの
1984(昭和59)年04月29日(日)の横浜スタジアムでのコンサートで一緒にプレイをした仲だったので、今回久しぶりに声をかけて参加してもらった。レコーディングはそんな旧知のミュージシャン達と、主に新宿のスタジオ・テイクワンで行われた。ぼくは自分のアレンジした譜面を写譜屋さんと呼ばれる、譜面を清書してくれる方から受け取ってスタジオ入りした。初めての方とのレコーディングの初日はやはり緊張するもので、翔さんも少しナーバスになっているのが伺えた。スタジオには翔さんと、翔さんのお兄さんである横浜銀蝿のドラム担当の嵐さんも同席していた。レコーディングのリズム録りは、全員名うてのミュージシャン達なのでスムーズに終わった。後日ストリングスやその他の楽器のダビングを行って、
1993(平成五)年11月21日(日)に先行シングル♪色つきの恋がセピアに変わる♪が、そして
1994(平成六)年の01月21日(金)に翔さんのソロアルバム『KINGDOM』がリリースされた。ライブやレコーディングで1993年も慌ただしく過ぎて行った。ぼくはそれまでフリーの立場で活動してきたのだが、ミュージシャンとしての活動に専念したかったのと、自分でマネジメントを行うことに限界を感じてもいたので、この年の後半からマネージメントオフィスに所属することになった。また来年から新たな一歩を踏み出すべく、ぼくは気持ちを引き締めて直していた。
1993(平成五)年08月07日(土)神鍋高原特設ステージ。足元のペダルの数が凄い(笑)
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/10/1993.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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1972年10月04日、はっぴいえんど、羽田空港からLAへ旅立つ。ラスト・アルバム『HAPPY END』レコーディング秘話
2016年10月04日 執筆者:山本隆士
「はっぴいえんどのラスト・アルバムをアメリカでレコーディングしたいんだけど」。
当時、キング・レコードに在籍していた三浦光紀氏から私に相談があった。制作費はキング・レコードが持ち、アルバムに入るすべての楽曲著作権をシンコー・ミュージックと契約するというのが条件だった。草野センムに話すと、当時もシンコーは海外との著作権業務等で特にアメリカとの取引が多く、LAには事務所もあったことからか、OKが出た。
新大久保あたりだったと思うが料理屋の2階でメンバーと風都市の関係者、三浦氏とミーティングをし、LAレコーディングは本格的に決まった。
プロデューサーを誰かに頼もうということになり、ジム・メッシーナの名前が挙がったので、私がキャシー・カイザーへの連絡を取ったのだが、メッシーナはメキシコに行っていてLAに居ないということで断念した。
その後、私とキャシーとの間でいろいろなことを決めていくことになる。
とにかく、スタジオと宿泊所さえ押さえておけば何とかなるだろうと、サンセット・サウンズ・レコーダーズと、宿泊はハリウッドBlvd,に近いハワード・アパートメント(一室・週45ドル)、そしてエンジニアはウェイン・デイリーを指定した。後は行ってしまえば何とかなるとキャシーと私の安易な判断であった。…といっても私は日本でやらなければならないことが多分にあった。
日銀へ、アメリカ大使館への申請、私のパスポートには持ち出す金額(もちろん現金ではない)が記されている。キング・レコードのバジェットは300万円(当時1ドル300円)。そのすべてをシンコーが立替え(シンコーはアメリカの銀行にアカウントがあった)、とにかくLAへ行ったのだった。1972年10月4日、もう44年も経ったんだ。
ホリデイ・インで全員でミーティングした後、キャシーから、今サンセット・サウンズでリトル・フィートがレコーディングしているから見に行かないかと提案があり、みんなで行くことにした。
それが彼らが初めて耳にしたLAの音だった。アパートに戻ってからメンバーの誰かから、リトル・フィートのメンバーに手伝ってもらえないかと相談があったので、キャシーに伝えると、レコーディングが最後の段階だから終わったらいいよ、と言っているということで頼むことになった。
私はギャラの交渉。アメリカの場合、基本が1セッション(3時間)、最低でシングル・スケール(110ドル)。もちろんユニオンのランクによって異なる。その時はダブル・スケール(220ドル)で成立することができた。もともと彼らはギャラ云々ではなく、日本から来たバンドはっぴいえんどとセッションすることに興味を持ってくれたのだった。
私といえば、そのギャラやその他の支払のため、アパートとスタジオ、ダウンタウンの銀行を毎日通い詰めていた。ユニオンを通しての支払いはプラス健康保険料のチェックも必要で、東京銀行(ファースト・ナショナル・トウキョウ・バンク)の小林シゲコさんには一方ならないお世話になったことを思い出す。先日、三浦さんにお会いした時もその話になった。彼女とキャシーがいなかったらあのレコ―ディングは成り立たなかったかもしれない。
最も私が大変な思いをしたのは、予算がオーバーし、毎日のように日本へ電話して送金を頼んだことだった。細野さんのベースが盗まれたり、いろいろなトラブルもあったが。
ヴァーンダイク・パークスによるミックス・ダウン「さよならアメリカさよならニッポン」を聴きながら私は思っていた。
はっぴいえんどのメンバーにしてみれば、それまでのアメリカの音楽に憧れてきた部分と自分たちはっぴいえんどのニッポンに、アメリカの地で一緒に卒業して、そこからそれぞれの新しい旅の始まりだったんだと思う。
そして、私が1968年に初渡米して受けたカルチャーショックから見えた日本があり、帰国後、その影響で「ヤング・ギター」を創刊したのだった。
1973年2月25日、はっぴいえんどのラスト・アルバム『HAPPY END』がリリース。このアルバムを通して、その時代に生きた誰もが新しい日本の風景を見たことだろう。
http://music-calendar.jp/2016100401