誰がビートルズの林檎をかじったのか
2010-05-12
ビートルズがいかに曲を巻き上げられたかという実に血管プチプチな話ばかりなのでゆめもきぼーもありません。読んでも楽しい気分にはなりません。
[注意:メンドーな話を大雑把にまとめたので正確性には欠けます。詳しい話は実物で]
ノーザン・ソングス 誰がビートルズの林檎をかじったのか
作者: ブライアン・サウソール,ルパート・ペリー,上西園誠
出版社/メーカー: シンコーミュージック
2010/03/29 発売日
EMIとの最初の契約はシングル(6シリング7.5ペニー)1枚につき1ペニー。最初の2曲の出版契約をアードモア&ビーチウッドと結ぶも、「ラブ・ミー・ドゥ」の売り上げは振るわず
60年代初め、音楽出版社には多くのことが期待されていた。出版、登録、楽譜製作に加え、ラジオで曲が流れるようにすること、アーティストがテレビ出演できるようにすることも出版社の業務だった。この点においてアードモア&ビーチウッドはエプスタインを満足させられなかった。
そこにジョージ・マーティンと親交のあったディック・ジェイムズが登場。人気テレビ主題歌「ロビンフッド」がヒットした元歌手、音楽出版に乗り出すも破産寸前だった。「プリーズ?」の成功でノーザン・ソングス設立となり、ディック・ジェイムズ・ミュージック(DJM)が株式50%、残りの50%をエプスタインのNEMSとレノン&マッカートニーで分けることに。
65年税金対策としてノーザン株公開。ジェイムズが社長、その会計士シルヴァーが会長。売りに出されなかった375万株を社長と会長が約93万株ずつ、レノン&マッカートニーが各75万株、NEMSが約37万株、ジョージとリンゴに各4万株。レノン&マッカートニーの株配当はひとり約9.4万ポンド、65年からの新税制でキャピタル・ゲイン税対象外になり非課税所得に。株式公開に合わせ二人は窓口&印税受け取り用会社マックレン(レノン&マッカートニーが80%、NEMSが20%)設立。
1966年4月、56曲を保有するレンマック・エンタープライゼズをノーザン・ソングスに最終的に「売却」したことで、レノン&マッカートニーは自分たちの作家取り分著作権印税と引き換えに、それぞれが14万6千ポンドずつ(7万3千ポンドがNEMSへ)を受け取った。(略)この「稼ぎ」はキャピタル・ゲインとして課税されるため、税率はたったの30%だったのである。[所得税としてなら累進付加税も足され、90%が税金で持って行かれる]
ノーザン・ソングスの株式公開が妥当だったか未だに疑問を抱いているのが、1973年にEMIに入社した弁護士ガイ・マリオットである。「株式公開というアイデアをどこから得たのかは知らないが、とにかくべらぼうな話だった。非現実的なコンセプトだし、所得税が心配なら他に選択肢はあった。海外移住する手もあっただろうし、リヴァプールからあまり離れたくないというなら、マン島に行ってしまえば税金からは逃れられたはずだ」
当時の著作権事情
[トム・ジョーンズが「俺が歌ってやるから著作権の分け前をよこせ」と出版社に要求したり]
ソングライター本人が、アーティスト、出版社、レコード会社に屈してしまうこともあった。著作権は特定の録音物をはるかに上回る利益をもたらす可能性があることを、相手がわかっているからだ。1955年にチャック・ベリーが自作曲「メイベリーン」をレコーディングしたとき、チェス・レコード社長レナード・チェスはそのレコードをDJのアラン・フリードに送ったが、彼の番組でかけてくれればベリーとの共作者扱いにするというおいしいおまけをつけていた。
[プレスリーに曲提供した作家はプレスリーの音楽出版社に強制帰属させられたり]
ハリソングス
65年ジョージはハリソングスを設立、ノーザンの契約条件はマックレンと同じだったが、印税率に関しては、マックレンが50:50だったの対し、ジョージはレコード売り上げ80%海外出版70%演奏放送約67%という好条件を獲得。しかし自分がノーザンの一契約作家にすぎず、大株主のレノン&マッカートニーが自分の曲で自分より利益を得ることに苛立ち“オンリー・ア・ノーザン・ソング”。
NEMS売却
69年、エプスタインの弟クライブはNEMS売却を決意。義理としてまずビートルズに声をかけるも、アップルで混乱中、クラインはビートルズの財政状態から買収すべきでないとした。結局、トライアンフ社に売却。
ノーザン売却
アップル破産の噂でノーザン株下落を恐れたディック・ジェイムズはビートルズに無断でATVに売却。
[ナイジェル・ハンター談]「ノーザン・ソングスが売りに出た場合にまず彼らに買うかどうかの選択権が与えられるという条項を契約に盛り込まなかった、エプスタインとビートルズの致命的なミスだ」
クラインがノーザン100万株を買い戻し過半数を握るという対抗策を提案。それには保持しているノーザン株を担保に200万ポンド調達する必要があり、ポール側のイーストマン親子が危険すぎると拒否。しかもポールがこっそり投資としてノーザン株を購入、ジョンより10万株多く保有していたことが発覚。ノーザンの所有権に関して対等でいようとの口約束を破ったとジョンが激怒。なんだかんだでATVのルー・グレードが株54%を手に入れ決着。
もはやビートルズができるのは、ノーザン・ソングスヘ自分たちの株を売却し、できるだけいい値をつけてもらうことしかなかった。
ノーザン・ソングス買収が失敗したことに関して、レノンは素っ気なく答えた。「会社なんて持ってなかったよ。ノーザン・ソングス、NEMS、ディック・ジェイムズ。僕らには何があった? 銀行にあるわずかな金だけだ。ブライアンがしくじったのさ」。さらに続けて、出版とマネージメント契約について自分たちが無知だった初期の時代に、ジェイムズがエプスタインを丸め込んだとほのめかした。
[ポール]「僕らは帰国してすぐに『ディック、やめてくれよ』と言ったんだ。あいつは『やめないよ』と答えた。会社は売りに出され、商品になった。買ったのはルー・グレードだ。そうして僕とジョンは自分たちの多くの曲の権利を失ってしまった。ジョージもだ。何曲かね」
新しい契約ではディック・ジェイムズ・ミュージックがATV傘下のノーザン・ソングスを引き続き担当し、管理手数料として総収入の10%を受け取るという条件になっていた。つまりジェイムズがビートルズ、エプスタインと結んでいた取り決めがそのまま続くことになった。
見切り発車なので今日はここまで。明日につづく。
https://kingfish.hatenablog.com/entry/20100512
ノーザン・ソングス・その2
2010-05-13
前日のつづき。解散後の著作権
[ポールとリンダ共作「アナザー・デイ」がNo1ヒット]
マッカートニー夫人はノーザン・ソングスと契約していなかったため、彼女の作家としての印税は夫が契約しているノーザン・ソングスとは別の、外部の会社[マッカートニー・ミュージック・インク]へ支払わなければならなくなる。ATV会長グレードはこれをインチキだと考え、マッカートニーの新しいコラボレーターが純然たる共作者ではないとして訴訟を起こした。
レノンもすぐにあとに続き、ヨーコと曲作りを開始する。(略)「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」である。イギリスでの発売が一年遅れだったのは、オノのクレジットを巡るATVとの対立のためだ。(略)
[さらに『ジョンの魂』収録曲は、ノーザン・ソングスではなくマックレン・ミュージック管理曲としてクレジットするべきと主張。それに対し、ノーザン側は命令状を発行。73年2月までレノン&マッカートニーは]
既存の音楽出版契約に縛られていること、1965年の契約によってノーザン・ソングスが出版したいかなる「音楽作品」についての著作権を主張することを彼らに禁じるものであった。(略)
マッカートニーは[『ラム』収録の]自分の単独作五曲(「ラム・オン」の二ヴァージョンを含む)をノーザン・ソングスのクレジットとすることには同意したものの、妻との共作曲に関してはマッカートニー・ミュージックと表記すべきだと言って譲らなかった。(略)
ノーザン・ソングスはEMIが11曲すべてを自分たちに許諾申請しない限り、単独作品5曲の許諾も出すつもりはないという意思を明らかにした。
しかしEMIに補償を確約したことと自分たちの懐に印税が入ることもあって、五月の初めにはノーザン・ソングスは許諾を出し、それから一ヶ月もしないうちに『ラム』はUKアルバム・チャートで首位に立った。五ヶ月後にはレノンのソロ・アルバム『イマジン』もトップに輝く。このアルバムにはレノン作九曲、レノンとオノ共作一曲が収録されていたが、クレジットはすべてノーザン・ソングスである。
なぜATVと再契約したのか
[弁護士のマイケル・イートン談]「あのふたりがATVと再契約した理由は、ゆくゆくはノーザン・ソングスなりATVミュージックを買い戻すのに有利だから、という憶測があった。ただし妙だったのは、第一優先権なり追従オファーのオプションについての含みを書面に一切入れていなかったことだ」(略)
[ATVの]ヒースは慎重に付け加えた。「私はすべての話し合いに出たわけじゃないが、ふたりはある程度の権利を取り戻したはずだし配慮もしてもらったはずだ」。(略)当のオノの記憶は、「知り合いの悪魔のほうが、素性のしれない悪魔よりもまし」というものだった。
(略)
レノンとマッカートニーはそれぞれの新しい出版社経由で、レコードの売り上げからはこれまでの25%ではなく27.5%を受け取ることになり、共同出版者としてのレノン&マッカートニーはATVに対して55:45の分配率となった。この有利な条件をATV、ノーザン・ソングスから引き出すために、ふたりの元ビートルは代償を支払っている。(略)
1973年、マッカートニーはATVのテレビで『ジェイムズ・ポール・マッカートニー』というスペシャル番組に出演した他、『ズー・ギャング』という新シリーズのために主題歌を作った。それには負けられないとばかりにレノンも、1975年にニューヨークで開かれた『ルー・グレード卿に敬意を』というチャリティで、自身最後となるステージに立っている。
MPL
音楽出版の仕組みと旨味を身をもって実感したポールは、義父の指導を受けMPLを設立、音楽出版ビジネスに乗り出す。バディ・ホリー、『グリース』『コーラスライン』。1979年コロムビア・レコードと契約した際には、フランク・レッサーの曲を含む出版カタログをプレゼントされる。
チャンス到来
一方グレードの関心は映画に向かい、ピンクパンサーがヒット、ソフィーの選択も高評価、調子に乗った『レイズ・ザ・タイタニック』がコケて大損失。ノーザン・ソングスを2000万ポンドでどうかとポールに打診。自分が無から産み出したものに大枚はたくことにポールは躊躇。ヨーコに共同購入を持ちかけるも、ヨーコは500万ポンドまでという回答。その渦中、豪の実業家ロバート・ホームズ・ア・コートがACC(ATVの親会社)の筆頭株主に。ポールはチャンスを逃し、グレードは追放。
[ポールは]初の主演映画『ヤァー・ブロード・ストリート』(略)で「イエスタデイ」を使いたかった。(略)もはや彼は曲の所有者ではなかった。(略)世界でもっとも有名な曲を書いた本人が、自分の映画にその曲を使うための許諾をATVミュージックに申請しなくてはならなかった……しかもシンクロナイゼーション料までかかる。
マイケル・ジャクソン
共作した際にポールが音楽出版ビジネスをレクチャー。
マッカートニーは「枯葉」「ラック・ビー・ア・レディ」「アンチェインド・メロディ」といった曲の著作権を持つことの御利益についても、自分が保有している曲が録音されたりラジオでかかったりライヴで演奏されるたびに使用料が手元に入ることについても、確実に説明したはずだ。(略)この時点でのマッカートニーの自作以外の管理楽曲からの収入は、年間四千万ドルという規模だった。
『スリラー』マネー運用として、まずスライ・ストーンの「スタンド!」「エヴリデイ・ピープル」をゲット、さらにディオン、レン・バリー、ソウル・サヴァイヴァーetc、プレスリー、アレサ・フランクリンの曲も。
和解
1984年、100万ドルと印税率アップと引き換えに、レノン&マッカートニー側はノーザンへのあらゆる訴訟を取り下げることに。ノーザン契約下での解散後ソロ作品権利は返還された。逆にATVはノーザンを障害なく売却できることになった。そしてマイケルが登場。ホームズ・ア・コートは合意に達しそうになるたびに売値を吊り上げ最初の価格から1000万ドルアップの4750万ドルで、85年、ATV全カタログを売却。
[その際、むかつくホームズ・ア・コートのあほうは、娘の好きな“ペニー・レーン”プレゼントしてくれなきゃ売らないとゴネ、マイケル側が激怒し契約が御破算になりかけている。さらに豪パースでのチャリティ・イベントにマイケルを呼びつけるという傲慢ぶり]
のちにマッカートニーは、自分はATVカタログを買えたはずだったが「ヨーコとのいざこざで買えなかった」と釈明している。その一方でジャクソンが楽曲を所有していることについては、「僕よりマイケル・ジャクソンのほうが“イエスタデイ”の権利割合が多いというのは腹立たしい。困ったもんだ」と語っている。(略)
ジャクソンから買収の件を聞いたことは絶対にないと譲らないマッカートニーは、買収契約の締結以降にジャクソンとはほとんど口をきいていないことを認めている。
[マイケルは全曲は入手できなかった]
エプスタインがディック・ジェイムズに渡した「プリーズ・プリーズ・ミー」「アスク・ミー・ホワイ」の二曲は、DJMの他の音楽出版ビジネスと合わせて1986年にポリグラムヘ売却されている。一方ビートルズのデビュー・シングルだった「ラグ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラグ・ユー」は、最終的にポール・マッカートニーのものになった。
[80年半ば、キャピトル復帰条件のひとつとして手に入れた]
注意点
所有権はマイケルにあるが、レノン&マッカートニーは全世界で50?55%(米では33%)の作家取り分の著作権印税を得ている。
ソニーATV
買収から十年後、そして「アース・ソング」が大ヒットするほんの一ヶ月前、ジャクソンはATVミュージックとソニー・ミュージックの合併を発表し、音楽業界をあっと言わせた。この提携で彼は一億一千万ドルを受け取り、新たな巨大会社の株式の50%を保有することになった。(略)
[ノーザン・ソングスは1986年に有名無実化、1995年に正式に解体]
ジャクソンヘの蔑視なのか、あるいはソニーATVミュージックという名前をアルバムに入れないための単なる手段なのか、『ザ・ビートルズ1』の中でソニーATVが所有している25曲の出版社クレジットは、ノーザン・ソングスとだけされている。実際には五年前に消滅した会社なのにである。
二年後、マッカートニーはレノンと共作したビートルズ時代の20曲が含まれているライヴ・アルバム『バック・イン・ザ・USライヴ2002』を発売し、クレジットを巡ってのオノとの対立をわざわざ再燃させた。「ジョンが僕の曲だと言ってくれたものについては、僕の名前を最初にするのがフェアだと思う」と理由を説明し、コンポーザーのクレジットを「ポール・マッカートニー&ジョン・レノン」としている。出版社クレジットはまたしてもノーザン・ソングスである。
https://kingfish.hatenablog.com/entry/20100513
◆映像◆https://youtu.be/s3wNuru4U0I
USA For Africa - We Are The World (HQ official Video)
◆映像◆https://youtu.be/9AjkUyX0rVw
U.S.A. For Africa - We Are the World
◆映像◆https://youtu.be/pdGcqaY73M0
We Are The World メイキング 日本放送バージョン
小林克也ナレーション&字幕版(一部のみ)
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┃♪We Are the World♪┃
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1985(昭和60)年03月07日(木) released ※wiki English
‡1985(昭和60)年03月28日(木) released ※wiki Japanese
1985(昭和60)年04月12日(金) 日本発売 CBS・SONY 7インチ、07SP 880 12インチ、12AP 3021
1985(昭和60)年05月03日(金) 日本発売 CBS・SONY LP、28AP 3020 CD、28KP 1220
1985(昭和60)年07月25日(木) 日本発売 ポリグラム CD、P33M 29001
1985(昭和60)年01月28日(月) recording
1985(昭和60)年01月28日(月)夜、アメリカン・ミュージック・アワードの直後、アメリカのみならず当時の世界のポップス界を代表する45人が、ハリウッドのA&Mスタジオに集結してレコーディングされたヨ(=^◇^=)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィ・アー・ザ・ワールド
◆映像◆https://youtu.be/wXTcV0F4Dm0
We are the world アーティスト名&歌詞付 日本語訳付
誰が誰なのかわからない人のために作成しました。日本語によるアーティスト名を表示してあります。プラス歌詞も表示してありますのでとてもわかりやすい!We are the world は最高ですね。ビッグな人達の華麗な歌声をご堪能ください。
※歌詞の日本語訳ものせておきます。
- We are the world - USA for AFRICA
今こそあの声に耳を傾けるんだ
今こそ世界が一丸となる時だ
人々が死んでゆく
いのちのために手を貸す時がきたんだ
それはあらゆるものの中で最大の贈り物
これ以上知らん振りを続けるわけにはいかない
誰かが、どこかで変化を起こさなければ
僕らはすべて神のもと、大きな家族の一員なんだ
本当さ
すべての人に必要なのは愛なんだ
CHORUS:
僕らは仲間、僕らは神の子供たち
明るい明日を作るのは僕らの仕事
さあ今こそ始めよう
選ぶのは君だ
それは自らのいのちを救うことなんだ
本当さ、住みよい世界を作るのさ
君と僕で・・・
心が届けば支えになってあげられる
そうすれば彼らも力強さと自由を手に入れるだろう
神が石をパンに変えて示してくれたように
僕らもみんなで救いの手をさしのべるべきなんだ
REPEAT CHORUS:
見放されてしまったら、何の希望もなくなるものさ
負けたりしないと信ずることが大切なんだ
変化は必ず起こると確信しよう
僕らがひとつになって立ちあがればいいんだ
REPEAT CHORUS
◎参加アーティスト一覧:アル・ジャロウ ウィリー・ネルソン ウェイロン・ジェニングス キム・カーンズ クインシー・ジョーンズ(プロデューサー及び指揮)ケニー・ロギンス ケニー・ロジャース ジェフリー・オズボーン ジェームス・イングラム ジャッキー・ジャクソン シンディ・ローパー シーラ・E スティーヴィー・ワンダー スティーブ・ペリー スモーキー・ロビンソン ダイアナ・ロス ダリル・ホール&ジョン・オーツ ダン・エイクロイド ディオンヌ・ワーウィック ティト・ジャクソン ティナ・ターナー ハリー・ベラフォンテ ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース
ビリー・ジョエル ブルース・スプリングスティーン ベット・ミドラー ポインター・シスターズ ボブ・ゲルドフ ボブ・ディラン ポール・サイモン マイケル・ジャクソン マーロン・ジャクソン ライオネル・リッチー ラトーヤ・ジャクソン ランディ・ジャクソン リンジー・バッキンガム レイ・チャールズ
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┃『ザ・ビートルズ写真集 マッド・デイ・アウト』┃
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ザ・ビートルズ(The Beatles)、幻の写真集が日本版3,000部限定で発売
‡2018(平成30)年03月28日(水) 13:40
ビートルズ、幻の写真集が日本版3,000部限定で発売。市販化は世界初!
「マッド・デイ・アウト」とは1968年、英国で行われたビートルズの撮影会のこと。
著者・撮影者のトム・マレーは当時25歳。
1968(昭和43)年07月28日(日) 早朝、写真家仲間の友人から「カメラを持ってこい。いいショットが撮れるぞ」と誘われた。誰を撮るのかは知らされていなかった。
「リハーサル室のドアに向かって歩いている時に、誰かがピアノで、「Lady Madonna」を演奏しているのが聴こえた。なんと、スタジオでピアノを弾いていたのはポールで、ジョンとヨーコ、ジョージ、リンゴがいたんだ。」撮影後、ビートルズは「Hey Jude」をレコーディング。トムは2ロールのカラーフィルムを焼いて、23点の写真をセレクトしたが、信じられないことに、その後30年間も未公開のまま保管されていた。1998年にトムが開催した写真展で、その23点の写真は初公開され、その後数十年経ってから、2016年に限定版写真集として刊行するも市販はされず。撮影から50年の時を経て、日本版3,000部限定として発売!ビートルズ研究家・藤本国彦によるブックレット「1968年のビートルズ」により、当時の背景やメンバーの置かれた状況など、より多角的に写真集を楽しめる。
【豪華8大特典付き】
(1)日本版限定3000部 シリアルナンバー入り
(2)日本版限定豪華収納ケース付き
(3)Mad Day Outロゴ入りトートバッグ
(4)オールカラー解説ブックレット(32ページ)
(5)特製生写真
(6)特製ポストカード
(7)オリジナル缶バッチ
(8)特製コラージュポスター
https://tower.jp/article/feature_item/2018/03/28/3001
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ザ・ビートルズ写真集「Mad Day Out」日本語版が2018年に発売
2018(平成30)年02月22日(木)
‡2018(平成30)年03月28日(水)に、ビートルズの写真集「Mad Day Out」日本語版が新たに発売されることになりました。この写真集は、1968年にイギリスでtom murrayによって撮影された写真をまとめたもので、
2016(平成28)年に1000部限定で製本、イギリスで発売されましたが、今回日本でヤマハミュージックメディアより3000部限定で刊行されるものです。価格は税込み16,200円(税別15,000円)で、120ページ、以下の特典が付いています。
日本版限定3000部 シリアルナンバー入り
日本版限定豪華収納ケース付き
Mad Day Outロゴ入りトートバッグ
オールカラー解説ブックレット(32ページ)
特製生写真
特製ポストカード
オリジナル缶バッチ
特製コラージュポスター
写真の内容も特典もとても興味がそそられますが、なかなかの金額ですね。ただ、限定品で2018年2月22日からは予約の受付も開始しているので、あまり迷っていると品切れ・・・ということもあり得るかもしれません。
詳しくはヤマハミュージックメディアの特設ウェブサイトを参照して下さい。
関連リンク:【予約商品-3月中旬以降発送予定】ザ・ビートルズ写真集 マッド・デイ・アウト
https://www.thebeatles.jp/2018/02/mad-day-out2018.html
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動画◆https://youtu.be/7cAwJhaQ9P8
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動画◆The Beatles, Mad Day Out session in Thomson House, 1968 /photos https://youtu.be/VE-6zaUQDCQ
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映像◆『ザ・ビートルズ写真集 マッド・デイ・アウト』https://youtu.be/Gj82Id8gs_I
世界で限定1000部しか発刊されなかった幻のザ・ビートルズ写真集が日本版で発売!
ファン必携! 限定3000部の発刊!
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動画◆ザ・ビートルズ写真集 マッド・デイ・アウト(30sec.)https://youtu.be/nV1HeEPFGlk
2018/03/20 YouTube公開
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┃ 『Mad Day Out』 ┃
┃『ザ・ビートルズ写真集 マッド・デイ・アウト』┃
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ザ・ビートルズ写真集 マッド・デイ・アウト
ザ・ビートルズ 幻の写真集『Mad Day Out』日本語版発売!
豪華特典入りBOX 限定3,000部 シリアルナンバー入り
著:トム・マレー/日本版監修:藤本国彦/翻訳:刈茅由美
判型:A3判変型/120頁(解説ブックレット32頁)
ISBN:978-4-636-95139-4
定価:15,000円(本体価格)+税=16,200円
この機会にしか手に入らない完全生産限定BOXセット!
1968(昭和43)年07月28日(日)に行われたビートルズのフォトセッション「Mad Day Out」の 様子を収めた、イギリスで限定1000部のみ製本された貴重な写真集がついに日本上陸! 一部の関係者しか入手できなかった、ファンの間では幻と言われている逸品。 数年前まで未公開だった秘蔵写真を含む全120頁の写真集に、 写真集をより楽しむための解説ブックレット、ロゴ入りトートバッグや 特製コラージュポスターなどがついた、限定豪華特典付きBOXセットです。
※豪華特典付き!
限定3,000部シリアルナンバー入り!
日本版限定豪華収納ケース付き
ロゴ入り10ozトートバッグ(345×355×100mm)
特製コラージュポスター(574×400mm)
オールカラー解説ブックレット(32ページ)
特製生写真(2L)
オリジナル缶バッチ(直径40mm)
特製ポストカード(4枚セット)
■“マッド・デイ・アウト”フォトセッションについて
●作品概要●本書は、イギリスのロイヤルフォトグラファーであるトム・マレーが1968年夏に撮影したビートルズの写真を1冊にまとめたもの。当時25歳のトムは、
1968(昭和43)年07月28日(日)早朝、写真家仲間の友人から
「カメラを持ってこい。いいショットが撮れるぞ」と誘われた。誰を撮るのかは知らされていなかった。
「リハーサル室のドアに向かって歩いている時に、誰かがピアノで、「レディ・マドンナ」を演奏しているのが聴こえた。なんと、スタジオでピアノを弾いていたのはポールで、ジョンとヨーコ、ジョージ、リンゴがいたのだ。撮影後、ビートルズは「ヘイ・ジュード」をレコーディングした。トムは2ロールのカラーフィルムを焼き、写真をセレクトしたが、信じられないことに、その後30年間も未公開のまま保管されていた。1998年にトムが開催した写真展で、それらの写真は初公開され、その後数十年経ってから、限定版写真集として刊行された(市販はされていない)。
●本書のポイント●
◇30年間未公開のまま保管されていたフィルムに収められた貴重な写真が満載。
◇原書となる写真集は、発売元イギリスでは1000部限定で一部の関係者しか入手できなかったもの。このたび世界で初めてとなる一般販売が実現。
◇ ここでしか手に入らない貴重な特典も満載!ビートルズ研究家・藤本国彦氏の責任編集による付属ブックレット(オールカラー、32頁)では、「1968年のビートルズ」を詳細解説。撮影の足跡、背景、当時のビートルズが置かれた状況などをレコーディング・リストを含めて記し、より多角的に写真集を楽しめる。
●豪華特典●
◇貴重な写真がプリントされた生写真やオリジナル缶バッチ、A2サイズ特製コラージュポスターなど、ほかでは絶対に手に入らない貴重な一品。
◇ ”Mad Day Out”のロゴ入り10ozトートバッグは使いやすいサイズ(345×355×100mm)で、コレクターズアイテムとしてはもちろん、実用性も満点!
◇特典内容:写真集/日本版限定豪華収納ケース/ロゴ入りトートバッグ/特製コラージュポスター/オールカラー解説ブックレット/特製生写真/オリジナル缶バッチ/特製ポストカード
■マッド・デイ・アウトとは、
1968(昭和43)年07月28日(日)にロンドンで行われたフォトセッションのこと。当時、ビートルズの4人は、激動の最中にいた。
4月 ビートルズが自身の新会社アップル・コアを設立し、映画、出版、レコード、小売など多角的な活動を開始する窶披?
5月 ジョン・レノンとオノ・ヨーコの中が深まり、
1968(昭和43)年05月30日(木)に行われたアルバム『ザ・ビートルズ』のセッション初日にヨーコをスタジオに呼んだほか、二人で数々の活動を開始する窶披?
6月~7月 メンバーの溝が深まり、各メンバーがバラバラにレコーディングするようになる窶披?
このような時期に行った”マッド・デイ・アウト”フォトセッションだったが、著者トム・マレーによれば、「メンバーは冗談を言い合うとても良い関係だった」という。本書では、激動の変革期に合ったビートルズ各メンバーの関係性や垣間見せる素顔などが赤裸々に映し出されている。
https://www.ymm.co.jp/feature2/thebeatles/maddayout.html
JOHN LENNON with PAUL McCARTNEY / 1974 L.A. JAM SESSIONS 【2CD】
= TMOQ GAZETTE VOL.27 =
FROM THE ORIGINAL MASTER TAPES HMC
- HIS MASTER CHOICE - HMC039
ビートルズ解散後ジョンとポールがセッションした唯一の記録音源として知られる
‡1974(昭和49)年3月28日の”L.A.セッション”がマスター音源からの最新アップグレード音源で初登場!さらに同年
1974(昭和49)年5月23日ポール・サイモンとのセッション含む初登場の”ロックン・ロール・セッション”長尺版も収録。コレクター注目のHMCオリジナル最新作独占入荷!
https://www.navyblue-sound.jp/product/341
ポール・マッカートニー、2018年からようやくビートルズの楽曲の管理権を所有できるか
‡2016.03.28 12:21
ポール・マッカートニーはザ・ビートルズ時代の楽曲の版権を取り戻そうと動いているという。実はポールはビートルズ時代の楽曲の版権を所有したことがなく、ビートルズ時代に書いたレノン=マッカートニーとしての楽曲やジョージ・ハリスンやリンゴ・スターの楽曲の管理権もすべてノーザン・ソングスというポールとジョン・レノンも出資者となった著作権管理会社に所有されていた。実際にこの会社はディック・ジェイムスという楽曲著作権管理事務所の経営者とビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインが実質的に切り回している団体だった。その後、ブライアンが1967年に他界した後、ポールとジョンは版権を自分たちの手元に取り返そうとノーザン・ソングスの買収に動き出すが、ジェイムスは会社をイギリスの民放テレビ局ATVに売却し、その後、ポールとジョンは何度かATVから楽曲の版権の買戻しを試みたがいずれも実現しなかった。さらに80年代に入ってからポールがマイケル・ジャクソンとのコラボレーションを重ねるようになると、ポールはマイケルから楽曲の所有権のノウハウなどについて訊かれ、版権を所有することの重要性を彼に説いたというが、その後、マイケルからビートルズの曲を買ってみせると宣言され、マイケルは現実にATVそのものを買収してしまうことに成功した。マイケルはさらにATVとソニーを合併させ、版権管理会社ソニー/ATVとなったが、先頃、マイケルの遺産管理団体がマイケルの所有していた株式をすべてソニー/ATV側に売却することが明らかになって、ポールがビートルズの楽曲をまた取り戻す日はいつかくるのだろうかという関心がにわかに注目されることになった。さすがにソニー/ATVの買収やビートルズ楽曲の版権の買戻しは資金的にも難しい一方で、ポールが着実に版権の回復のために動いていることが明らかになったとビルボード誌が伝えている。というのは、アメリカの著作権法の規定で、1978年以前に書かれた楽曲については著作権が成立した日から56年目に原作者は楽曲の権利を取り戻せることになっているからで、1962年にレコード・デビューしているビートルズの場合、2018年からがそのタイミングとなるのだ。ただし、版権を取り戻すには56年目から数えて2年から10年前までに米国著作権局に申請を行わなければならず、その後、当該楽曲の著作権がいったん抹消され、原作者にすべての権利が返却されるという。そしてポールは昨年末にこの申請を行っていたことが明らかになったという。なお、ビートルズの楽曲はすべてレノン=マッカートニー名義になっているため、ポールはその半分だけを取り戻すことになるが、ジョンの持ち分については著作権そのものが無効となる(ジョンの死から70年後)までソニー/ATVが版権を保持し続けるという取り決めがソニー/ATVとオノ・ヨーコとの間で行われたという。ただし、この措置はアメリカについてのみの話で、ポールはアメリカでは2018年以降、楽曲の版権を取り戻すことになるが、そのほかの世界各国では依然としてソニー/ATVが権利を所有したままになる。
https://rockinon.com/news/detail/140947
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ポールとジョンがビートルズ楽曲の版権を失うことになった知られざる経緯とは
2016年01月06日 06時00分 By Ian Burt
1962年にデビューし、一気に世界で最も有名なバンドとしての地位を獲得したザ・ビートルズは、2000年代に入ってもその影響力を保っています。アーティストには著作権に基づくさまざまな収入があるため、ビートルズの楽曲を残したジョン・レノンとポール・マッカートニーのコンビ「レノン・マッカートニー」にはさぞかし多くの収入があるんだろうな……と思う人も多いはずですが、実はビートルズ楽曲のほとんどは彼らの手には入らなかったことは、ビートルズファンの間でもあまり知られていません。
How Paul McCartney and John Lennon Lost Ownership Of The Beatles Catalogue | Celebrity Net Worth
http://www.celebritynetworth.com/articles/entertainment-articles/how-michael-jackson-bought-the-beatles-catalogue-then-turned-it-into-a-billion-music-empire/
◆若くして結んでしまった「最悪の契約」 ⇒ 1963年2月、ちょうどビートルズがアメリカのテレビ番組「エド・サリバンショー」に出演する1年前、当時バンドのマネージャーをつとめていたブライアン・エプスタインは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの両者に対して版権を管理する会社を立ち上げることを提案しました。これは、当時はまだ現在ほど知名度のなかったビートルズの楽曲をイギリスのラジオで流してもらうためには、大手の出版社と手を組んでラジオ局のマネージャーに売り込むことが不可欠だと判断したエプスタインの提案でした。やがて、エプスタインとジョン、ポールは1963年1月に発表されたシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を、元ミュージシャンで音楽出版社「Dick James Music(DJM)」を運営するベテランパブリッシャーのディック・ジェイムスのもとに持ち込み、楽曲を登録。ラジオ局とのパイプを築いたことで「プリーズ・プリーズ・ミー」は全英で2位という成功を収めます。同年2月、ジェイムスはエプスタインを含む3人に対し、版権管理会社「ノーザン・ソングス」を設立することを進言。このときジョンは23歳、ポールはまだ21歳という若者で、まだまだミュージックビジネスについては知識も経験もない段階だったわけですが、ここで彼らは後に大きなミスといえる契約を結んでしまうこととなります。設立された「ノーザン・ソングス」の株式のうち、なんと50%はジェイムスと彼のパートナーであるチャールズ・シルバーによって押さえられており、残りの50%をエプスタインが10%、ジョンとポールがそれぞれ20%で保有する形で契約が行われ、このパワーバランスが長年にわたってジョンとポールに重くのしかかることとなるのです。後にポールはこの契約について、若くて無垢だったためにとんでもない契約を結んでしまった、と回顧しています。事実、ジョンとポールは契約書の内容に目すら通しておらず、どちらもジェイムスのパートナーであるシルバーに会ったことすらないと明かしています。こうしてノーザン・ソングスと契約を結んだ「レノン・マッカートニー」のコンビは、同社に対して1973年まで年間6曲の楽曲を作曲する義務を負うこととなります。また、同社はすでに作曲されたビートルズの楽曲53曲を保有することになりました。矢継ぎ早に事は進み、同年3月にはビートルズのファーストアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスでリリースされます。その2か月後、同アルバムはUKチャートでナンバー1を獲得し、その後30週にわたってトップを独占することとなりました。なお、同アルバムを蹴落としてチャートナンバー1を獲得したのは、ビートルズ2枚目のアルバムである「ウィズ・ザ・ビートルズ」でした。ビートルズの人気は世界を席巻し、大成功を収める時代が到来します。ビートルズの4人には大金が転がり込むようになり、同じようにエプスタイン、さらにはディック・ジェイムスと彼のパートナーのもとにも巨額の大金が流れ込むようになるのでした。1965年、株式を公開することで税金を減額できることを知ったジェイムスとシルバーは、ノーザン・ソングスの株式500万株をロンドン証券取引所に公開。これにより、ジョンとポールの持ち株比率は15%(32万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約2億7500万円)へと低下。ジェイムスらの比率も37.5%(80万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約7億1300万円)へと変化しています。
◆売却へ ⇒ 1967年8月、ビートルズを献身的に支えたマネージャーのエプスタインが、アスピリンの過剰摂取によりこの世を去ります。ジョンとポールはエプスタインの死後、ジェイムスらから楽曲の管理権を獲得しようとしましたが、失敗に終わります。ジェイムスとシルバーは保有していたノーザン・ソングスの株式全てを250万ドル(現在の価値で1700万ドル・約20億円)で放送メディアのATV(Associated Television)に売却するという策に出ます。この売却についてジョンとポールには事前に知らされておらず、両名はそれぞれのハネムーン旅行の最中に、新聞のトップを飾った記事でその事実を知ったというエピソードが残っています。こうしてATVはビートルズの楽曲88曲の権利を保有することとなります。このとき、ジョンとポールにはATVが版権料として1ドルを得るたびに25セントが支払われるという、にわかには信じがたい状況となっていました。打開策として、ATVは二人が所有している残りの株式を1475万ドル(現在の価値で1億ドル・約120億円)で買い取るオファーを打診しますが、ビートルズ側はこれを拒否。その後もビートルズ側は対抗策を講じるも、いずれも失敗に終わります。こんな状況でも、契約の上ではビートルズはATVに対して年間6曲を提供する義務が存在します。業を煮やしたビートルズ側は1969年、ついに残されていた楽曲提供の義務条項は全て解消する条件をつけてATVに残りの株式を売却。このときの額はATVがジェイムスらに支払った2倍の金額となる573万8000ドル(現在の価値で3600万ドル・約43億円)で決着をつけましたが、これでビートルズの楽曲の版権(正確には「版権を管理するノーザン・ソングス」)は、完全にビートルズのもとを離れることとなりました。
◆買い戻しのチャンス、そしてマイケル・ジャクソンの存在 ⇒ その後、1981年まで版権をめぐる状況に大きな変化は生じませんでした。状況が変わったのはジョン・レノンが凶弾に倒れた1年後の1981年、ATVがオーストラリアの大富豪、ロバート・ホームズ・ア・コート氏に買収された時で、その際にポールのもとにはATVが管理していたビートルズの版権を4000万ドル(当時のレートで約88億円)で買い戻すというチャンスが到来します。ポールはジョン亡き後のオノ・ヨーコに接触し、費用の折半を提案しますが、ヨーコは買い戻し額は全部で2000万ドルが相当であると主張したことから、話し合いは不調に終わります。ポールによると、全ての資金を一人で負担することは可能でしたが、仮にジョン亡き後に単独で版権を買い戻すことで生じる「強欲」や「ジョンへの敬意が感じられない」という悪評を懸念したことから、このときは版権の買い戻しを断念したとのこと。手元にATVが持っているビートルズの版権が残ったホームズ氏でしたが、そもそもミュージックビジネスに関わることに関心はなかったとみられ、ATVの従業員をほぼ全員解雇し、1984年には同社のミュージック部門そのものを売りに出しました。この際にもポールのもとに話しは舞い込んだわけですが、「高すぎる」ことを理由にこれを拒否。ここで名乗りを上げたのが、当時は版権ビジネスを手広く行っていたマイケル・ジャクソンその人でした。マイケルのマネージャーを長年にわたって務めていたジョン・ブランカ氏のもとにATV売却の話しが舞い込んだ時、マイケルはブランカ氏に「いくらかかってもいいからビートルズの版権を手に入れること」と指示。こうしてビートルズの版権はマイケルのもとに移ることとなりました。なお、この話の背景には皮肉なエピソードが隠されています。ポールとマイケルはそれまでに「ガール・イズ・マイン」と「セイ・セイ・セイ」という2曲をデュエットで発表していたこともあり、良好な関係を築いていました。1982年のある日、ロンドン郊外にあるポールの自宅を訪れ、ポールの妻リンダ(故人)とディナーを共にしていたマイケルは、ポールから「大金を手にできるのは版権を所有することだけだ」という手ほどきを受けたと言います。巡り巡ってその2年後、そのマイケルがビートルズの版権を所有することになるとは、当の本人すら予想できなかったことなのかもしれません。この一件をきっかけに、ポールとマイケルの関係は険悪なものになったといわれています。その後、マイケルは2009年にこの世を去り、さまざまな権利関係の動きや、「1978年以前に製作されたコンテンツの著作権は56年後に作曲家の元に戻る」というアメリカの著作権法の定めにしたがい、ポールはビートルズの楽曲の版権を取り戻している段階にあるとのこと。このまま順調に事が進めば、2026年には全てのレノン・マッカートニー楽曲の権利は再びポールの手に戻ることになると見られています。
https://gigazine.net/news/20160106-lennon-mccartney-copyright/