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┃ 『歌謡最前線』 ┃ TBS系列
┗━━━━━━━━━┛20:00~20:55
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|1974(昭和49)年10月22日(火)|AIDO御出演
|1974(昭和49)年12月17日(火)|AIDO御出演
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http://www5f.biglobe.ne.jp/~roadscraps/tv.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E6%9C%80%E5%89%8D%E7%B7%9A_(TBS%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93)
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┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃後半戦 日程
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 北海道ツアー Part.1
‡063 1988(昭和63)年10月22日(土) 函館市体育館
064 1988(昭和63)年10月24日(月) 北見市民会館
065 1988(昭和63)年10月25日(火) 帯広市民会館
066 1988(昭和63)年10月27日(木) 室蘭新日鉄ホール
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http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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┃ 浜田省吾 #33 「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」 ┃
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2017(平成29)年02月24日(金)
今回は、1988(昭和63)年03月17日(木)からスタートした浜田省吾さんのコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と食べ物の話など。
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北海道は美味いものの宝庫だった。
1988(昭和63)年12月10日(土) 札幌
1988(昭和63)年12月11日(日) 札幌では毎回何を食べようか悩んだ。札幌に行くと必ずと言っていいほど食べるラーメンは、バンドメンバーそれぞれお気に入りの店があってみんな違う店に行っていた。ぼくは「味の三平」が好きで毎回必ず行った。
‡1988(昭和63)年10月22日(土) 函館は「五島軒」のカレー、
1988(昭和63)年10月25日(火) 帯広は「炉ばたのあかり」、
1988(昭和63)年12月07日(水) 旭川
1988(昭和63)年12月08日(木) 旭川は「蜂屋」のラーメン、
1988(昭和63)年12月13日(火) 釧路は炉ばた焼き発祥の地と言われている、その名もずばり「炉ばた」等、本当に美味しい店だらけだった。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/02/33on-road-88-fathers-son.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
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┃ ♪イメージの詩♪ ┃
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‡1997(平成八)年10月22日(水) リリース
2005(平成17)年03月24日(木) リリース
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音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS840O6
https://ja.wikipedia.org/wiki/イメージの詩#イメージの詩_(浜田省吾のシングル)
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浜田省吾 #36 ♪イメージの詩♪
2018(平成30)年01月04日(木)
今回は1997(平成九)年にリリースされた浜田省吾さんのCDシングル♪イメージの詩♪のことを。
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浜田省吾♪イメージの詩♪ 1996(平成八)年10月30日(水)Recorded at Sony Shinanomachi Studio。
浜田さんが吉田拓郎さんの50歳の誕生日を祝して、拓郎さんのデビュー曲である♪イメージの詩♪をカバーして、ロサンゼルスのトップミュージシャン達を起用してレコーディングするという企画が密かに進行していた。ぼくはもうすぐ40歳になろうかという頃だった。吉田拓郎さんが1996(平成八)年に行なった“Tour'96感度良好ナイト”というコンサートツアーのバックアップバンドにLAの凄腕ミュージシャン達が招集された。メンバーは、ドラムス:ラス・カンケル、ベース:リー・スクラー、ギター:ワディ・ワクテル、キーボード:クレイグ・ダーギー。この四人は拓郎さんが1995(平成七)年にバハマでレコーディングした「ロングタイム・ノー・シー」というアルバムに参加したことがきっかけで、拓郎さんの1996(平成八)年の全国ツアーにも参加することになった。そして拓郎さんのツアーのためLAからのミュージシャンが来日しているタイミングで、浜田さんサイドからLA組に♪イメージの詩♪へのレコーディング参加のオファーを打診したところOKの返事が貰えたため、浜田省吾さんがカバーする吉田拓郎さんの♪イメージの詩♪のレコーディングが実現することとなった。そんなある日、ぼくのところへ一本の電話がかかって来た。浜田省吾さんからだった。「やぁ、板さん元気?浜田です。今日は板さんがすごく喜んでくれる話があって電話したんだ。」「お久しぶりです。突然の電話でびっくりしました。ぼくが喜ぶ話って一体何ですか?」ちょっとドキドキしながらぼくは答えた。「今度、吉田拓郎さんの50歳のバースデーを祝って、拓郎さんの「イメージの詩」をレコーディングしようと思ってるんだ。バンドはザ・セクションのメンバー達とやりたいと思って、オファーをしたらOKの返事が来たんで一緒にやれることになったんだ。ザ・セクションのメンバーはみんな板さんの憧れのミュージシャン達だよね?そんな訳で板さんを誘ったら喜ぶと思って連絡したんだ。どう?一緒にやってくれる?」ぼくは一瞬浜田さんが何を言っているのかよく分からなくなっていた。ぼくの大好きなザ・セクションを中心としたLAのミュージシャン達と、これまた大好きな拓郎さんの曲を、しかも当の拓郎さんまでもが参加してのレコーディングが実現するなんて、俄には信じられない話だった。それから何日かして正式に浜田さんのマネジメントオフィスから、ぼくの所属するオフィスにオファーが届いた。日程は
1996(平成八)年10月30日(水)、場所は信濃町のソニースタジオ。レコーディングする曲は吉田拓郎さんのデビュー曲にして名曲の「イメージの詩」。ぼくは最初に浜田さんから「板さん、アコースティックピアノを弾く?」と聞かれたのだが、ぼくが一番尊敬しているキーボーディストであるクレイグ・ダーギーの前で、ピアノを弾く度胸はとてもじゃないが無かったので「ハモンド・オルガンを弾かせて貰います」と答えた。レコーディングが決まってからというもの、ぼくは何日も落ち着かない日々を過ごした。ぼくにとって憧れのメンバーとのレコーディングの話は、いつかそんな機会があったら素晴らしいとは思っていたが、まさか本当に実現することになるとは夢にも思っていなかった。そしていよいよレコーディングの日がやってきた。ぼくは緊張しつつも平静を装い、少し早めにスタジオ入りした。まだメンバーは誰も来ていなかった。少しして浜田さんがスタジオに現れた。ぼくは浜田さんとの久しぶりの再会を喜んだ。スタジオのロビーで浜田さんと談笑していると、続々とLA組のメンバー達がスタジオ入りして来た。ぼくがあんなにも憧れたLAのミュージシャン達が確かにそこにいた。間近で見るとみんな凄く大きい。ぼくは夢を見ているのではないかと思い、ほっぺたをつねってみた(本当)。当然ながら夢ではなかった。全員がスタジオ入りしたところで、コーディネーターの方がメンバーを紹介してくれた。ぼくは一人一人と握手を交わしながら、拙い英語で挨拶をした。ドラムのラス・カンケルが「は?い、イタサン!」と日本語でウインクを返してくれた。LA組の連中はみんなフレンドリーだったが、一人だけ違う雰囲気の方がいた。吉田拓郎さんだった。中学生の頃、初めて拓郎さんの曲に魅せられて、それから高校を卒業するぐらいまでの間、それこそ熱に浮かされたように拓郎さんの曲を聴きまくっていた時期があった。
ぼくはそんな雲の上の人を目の前にして緊張しないわけが無かった。拓郎さんのマネージャーの方が拓郎さんにぼくを紹介してくれた。ぼくは失礼の無いように丁寧に挨拶をした。しかし具合でも悪いのか、拓郎さんはあまり喋らなかった。
後から聞いたところによると、元々拓郎さんは人見知りの上にこの日は体調が今ひとつだったとのことであった。レコーディングが始まる前まで、各々が自分の楽器の音をチェックしながら適当な音を出していた。ぼくはみんなの使っている楽器やアンプが気になって、それとなく見て回った。ラス・カンケルはヤマハのドラムセットを使っていた。ジャクソン・ブラウンのツアーの際はSonor製のドラムだったと思ったが、今回はヤマハ製のドラムだった。リー・スクラーのベースはカスタムメイドのもので、ネックのヘッドの部分にはフェンダーやギブソンのブランドロゴではなく、「Leland Sklar」と刻印されていた。ワディ・ワクテルのギターはギブソンのレスポールモデルだった。アンプはフェンダーのデラックス・リバーブを使用していた。そしてアンプの裏には「レオ・ミュージック」の刻印が。レオ・ミュージックとは東京の楽器レンタルの会社で、今回のレコーディングの楽器関連はレオ・ミュージックからレンタルしたものと思われた。
クレイグ・ダーギーの弾くグランドピアノはスタジオに常設のもの、ぼくの弾くハモンドB3オルガンとオルガンを鳴らすためのレスリー・スピーカーもレオ・ミュージックのものだった。ぼくと浜田さんはピアノのクレイグ・ダーギーのところに行って、ぼくがどれだけクレイグ・ダーギーに憧れていたかということを、浜田さんが流暢な英語でクレイグに説明してくれた。クレイグは謙遜しながら「これからはぼくのような年取ったものの時代じゃなくて、君のような若者の時代だよ。」と言った。ぼくも決して若くは無かったのだが、クレイグにはぼくがよっぽど若く見えたらしい(笑)。ぼくは思い切ってクレイグにリクエストをしてみた。「あの良かったら何かジャクソン・ブラウンの曲を弾いてもらえませんか?」するとクレイグはすぐに次々と自分がレコーディングに参加したジャクソンの曲を弾いてくれた。「プリテンダー」「ホールド・オン・ホールドアウト」「孤独なランナー」等々。ぼくは「ホールド・オン・ホールドアウト」でのクレイグのピアノがとても好きだったので、目の前で繰り広げられるクレイグのピアノ演奏を目をこらして見ていた。それにしても身体もでかいが手もでかい。ぼくがやっとのことで押さえるピアノのオクターブ間の鍵盤を、クレイグはいとも簡単に押さえていた。やがてクレイグがジャクソン・ブラウンの「「孤独なランナー」を弾き始めると、すぐに他のメンバーも反応した。クレイグのピアノに合わせてドラムのラス・カンケルとベースのリー・スクラーも「孤独なランナー」を演奏しだした。ジャクソン・ブラウンが1977(昭和52)年に発表したライブアルバム「孤独なランナー」は、ピアノがクレイグ・ダーギー、ドラムがラス・カンケル、ベースがリー・スクラーで、ギターはダニー・クーチとデビッド・リンドレーだった。今、スタジオで演奏されている音は正にその当の本人達による演奏だった。ぼくもハモンド・オルガンのところに行ってその演奏に参加した。みんな軽いタッチで演奏しているのだが、レコードが擦り切れるぐらい聴いた「あの音」が目の前で、そして装着しているヘッドホンから聴こえて来ている。ぼくは感動で鳥肌が立った。短い間ではあったが、そんな本物達と「孤独なランナー」を一緒に演奏出来たことは、ぼくにとって至上の喜びだった。クレイグ・ダーギー以外のメンバーの印象は、ドラムのラス・カンケルは陽気なアメリカン、ギターのワディ・ワクテルはその風貌に似つかわしくない物静かな紳士、ベースのリーランド・スクラーはちょっと神経質そうな感じではあるが、大学の教授のような雰囲気で、LA組の音楽的なリーダーシップをとっていたのはリー・スクラーだった。各楽器のサウンドチェンクが終わると、アレンジャーの星勝さんの号令でいよいよリズム録りが始まった。今回のアレンジは星勝さんだった。ぼくも星さんの書いた譜面をハモンドオルガンの前の譜面台に置いた。しかし譜面が長すぎて一台の譜面台では置ききれないため、もう一台譜面台を用意してもらった。
改めて今回のレコーディングメンバーを。
ボーカル&ハーモニカ:浜田省吾
ドラムス:ラス・カンケル
ベース:リー・スクラー
ギター:ワディ・ワクテル
ピアノ:クレイグ・ダーギー
ハモンド・オルガン:板倉雅一
アコースティック・ギター:吉田拓郎
ラス・カンケルがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、ボブ・ディラン、カーリー・サイモン、、リンダ・ロンシュタット等々。
リー・スクラーがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、キャロル・キング、デヴィッド・フォスター、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、ドン・ヘンリー 等々。
ワディ・ワクテルがレコーディングに参加したアーティストは、ウォーレン・ジヴォン、リンダ・ロンシュタット、スティーヴィー・ニックス、ロッド・スチュワート、ローリング・ストーンズ、リンゴ・スター等々。
クレイグ・ダーギーがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、CS&N、、リンダ・ロンシュタット、ネッド・ドヒニー、ドノバン、ベット・ミドラー等々。それぞれがそれこそ星の数程のレコーディングやライブを経験している、正にアメリカを代表するトップミュージシャン達だった。とりあえず一回演奏してみようということで、1テイク目の録音が始まった。ラス・カンケルのカウントでワディ・ワクテルのギターから始まるイントロ部分が演奏されると、ぼくはそのサウンドの迫力に度肝を抜かれた。ヘッドホンを通して聴こえてくる演奏の音圧感が凄いのだ。特にラス・カンケルのドラムはヘッドホンを装着していても生音が聴こえてくるほど音が大きかった。そしてラス・カンケルの叩くスネアのタイミングとクリック音(レコーディングの時にヘッドホンから聴こえてくるガイド音。曲のテンポが一定になるようにミュージシャンはクリックに合わせて演奏する)のタイミングが合いすぎていて、全くクリック音が聴こえないのには驚いた。♪イメージの詩♪は同じヴァースが延々と続く長い曲で、譜面には繰り返し記号がたくさん書かれていた。なので集中して譜面を見ていないと、すぐにどこを演奏しているのか分からなくなってしまう。ぼくは神経を尖らせて演奏に集中した。試しに最初に演奏したテイクを、コントロールルームでみんなで聴いてみた。1テイク目の演奏なのに驚いたことにもの凄く良い。浜田さんはもうこのテイクでバッチリだと言っている。もしや1テイクでレコーディング終了?するとラス・カンケルがもう一回だけ演奏させて欲しいと言って来た。勿論誰も異論を挟むものはいなかった。2テイク目の演奏も素晴らしかった。ぼくも何とかみんなについて行くことが出来た。結局2テイク目の演奏が採用されることになり、レコーディングはすぐに終了してしまった。その後、プロモーションヴィデオ用に何回か当て振りのシーンを撮影して「イメージの詩」のレコーディングは終了した。この後、みんなでの食事会が予定されていたのだが、残念ながらぼくは後があって参加することが出来なかった。ぼくにとって本当に夢のような一日が終わった。長年焦れていた夢が叶った瞬間だった。そしてこのレコーディングにぼくを誘ってくれた浜田さんには、いくら感謝してもしきれない気持ちでいっぱいだった。余談:ぼくは密かにレコーディングスタジオに、ジャクソン・ブラウンやクレイグ・ダーギー、ザ・セクションのCD&アルバムを持参していった。あわよくばメンバーのサインを貰おうという魂胆だった。しかし実際スタジオに入ると、レコーディングスタッフ、ビデオの撮影クルー、スチールカメラマン、コーディネーター、マネージャー等、たくさんの人がスタジオの中にいて、とてもピリピリと張りつめた空気が漂っていた。とてもじゃないがその場でサインを貰えるような雰囲気ではなかった。そんな訳でぼくのサイン頂戴作戦は見事に玉砕した(笑)。
写真◆スタジオで談笑するピアノのクレイグ・ダーギーとぼく。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2018/01/36.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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これこそはと信じれるものが
この世にあるだろうか
信じるものがあったとしても
信じないそぶり
悲しい涙を流している人は
きれいなものでしょうネ
涙をこらえて笑っている人は
きれいなものでしょうネ
男はどうして女を求めて
さまよっているんだろう
女はどうして男を求めて
着飾っているんだろう
いいかげんな奴らと口をあわせて
おれは歩いていたい
いいかげんな奴らも口をあわせて
おれと歩くだろう
たたかい続ける人の心を
誰もがわかってるなら
たたかい続ける人の心は
あんなには 燃えないだろう
傷つけあうのがこわかった昔は
遠い過去のこと
人には人を傷つける力があったんだろう
吹きぬける風のような
おれの住む世界へ
一度はおいでョ
荒れ果てた大地にチッポケな花を一つ
咲かせておこう
おれもきっと君のいる太陽のあるところへ
行ってみるよ そしてきっと言うだろう
来てみて良かった 君がいるから
長い長い坂を登って
後ろを見てごらん 誰もいないだろう
長い長い坂をおりて
後を見てごらん
皆が上で 手を振るサ
きどったしぐさがしたかったアンタ
鏡を見てごらん
きどったアンタが映ってるじゃないか
アンタは立派な人サ
激しい激しい恋をしているおれは
いったい誰のもの
自分じゃ 言いたいのサ
君だけのおれだと 君だけのものだと
裏切りの恋の中で
おれは一人もがいている
はじめから だますつもりでいたのかい
僕の恋人よ
古い船には新しい水夫が
乗り込んで行くだろう
古い船をいま 動かせるのは
古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も 新しい船のように
新しい海へ出る
古い水夫は知っているのサ
新しい海のこわさを
いったい
おれ達の魂のふるさとってのは
どこにあるんだろうか
自然に帰れっていうことは
どういうことなんだろうか
誰かが言ってたぜ
おれは人間として 自然に生きてるんだと
自然に生きてるって
わかるなんて
何て不自然なんだろう
孤独をいつの間にか
淋しがり屋と かんちがいして
キザなセリフをならべたてる
そんな自分を見た
悲しい男と 悲しい女の
いつものひとりごと
それでも いつかは
いつものように 慰めあっている
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓スクリブナーズ社から5,090部の初版刊行
┃ 『日はまた昇る The Sun Also Rises』 ┃1926(大正15)年10月22日(金) 1冊2.00ドル
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛http://www.uta-net.com/song/44472/
削除映像◆世界ふしぎ発見! ヘミングウェイ https://youtu.be/h8_5Zn9vK3A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%9F%E6%98%87%E3%82%8B
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┃ 1992年 下半期の出来事 ┃
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2017(平成29)年08月11日(金)
今回は1992(平成四)年下半期の出来事です。
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久宝さんのコンサートのスケジュールが一段落した頃、町支さんのツアーのリハーサルが始まった。一緒にツアーを回る町支寛二バンドのメンバーは、
ドラムス:高橋伸之、
ベース:関雅夫、
ギター:水谷公生、
キーボード:板倉雅一、
キーボード:福田裕彦、
サックス:古村敏比古 この6人に町支寛二を加えた計7人。新旧入り交じった浜田省吾バンドのメンバーが集まった。ぼくはベースの関さんと一緒にやるのは初めてだったが、昔から面識はあったので不安は無かった。キーボードの福ちゃんは、浜田さんのレコーディングで一緒だったので以前からよく知っていた。他は長年一緒にツアーを回ったメンバー達だった。サックスの古村くんとは久宝さんのツアーでも一緒だったので、町支さんのバンドでも再び一緒にやることとなって嬉しかった。町支さんのツアーの曲目は、初のソロアルバムからの曲を中心に構成されていたが、他にも何曲かの洋楽のカバーもあった。約二週間程のリハーサル期間を経て、いよいよ町支さんのソロツアーが始まった。
「僕を呼ぶ声」というタイトルの付いたツアーは、
‡1992(平成四)年10月22日(木)名古屋 愛知勤労会館を皮切りに、
1992(平成四)年11月11日の東京渋谷公会堂までの計7カ所での公演だった。日程は以下の通り。
町支寛二「僕を呼ぶ声」ツアー
‡1992(平成四)年10月22日(木) 名古屋 愛知勤労会館
1992(平成四)年10月24日(土) 宮城県民会館
1992(平成四)年10月29日(水) 札幌サンプラザホール
1992(平成四)年11月02日(月) 広島アステールプラザ
1992(平成四)年11月03日(火) 大阪厚生年金会館
1992(平成四)年11月05日(木) 福岡電気ホール
1992(平成四)年11月11日(水) 渋谷公会堂 初日の愛知勤労会館のコンサートに浜田省吾さんが来ていた。ぼくは楽屋で約一年半ぶりに浜田さんと再会をした。昨年
1991(平成三)年の2月12日(火)、ぼくは千葉で行われた浜田さんのコンサートを観た。The Fuseを脱退してから初めて観た浜田さんのコンサートだった。自分がステージにいない浜田省吾のコンサート観るのは、
1979(昭和54)年07月01日(日)の新宿ロフト以来だった。ぼくは客席のほぼ真ん中の席で観戦した。浜田さんのコンサートは素晴らしかった。しかしぼくはコンサートを観戦しながら、何とも言えない感情がこみ上げて来た。当たり前のことだが、自分がいた場所に違う人がいて演奏している。自分がいない浜田さんのステージを客観的に観られるようになるまでには、ぼくにまだ時間が必要だった。町支さんのコンサートは中盤にアコースティックコーナーが設けられていて、たしか二曲程洋楽のカバーをやった。一曲はビートルズの「I've Just Seen A Face(邦題:夢の人)」と、もう一曲はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の「Find The Cost Of Freedom(邦題:自由の値)」だった。 この二曲の時(ひょっとしたら一曲だけだったかもしれない)、ぼくは自分のキーボードの位置からステージ中央に出て行き、町支さんを真ん中にぼくと水谷さんの三人が高さのあるスツールに座って、横一列に並ぶ編成で演奏した。演奏というかこの二曲に関してはぼくはボーカルだけだった。町支さんと水谷さんがアコースティックギターを弾き、ぼくは楽器を持たず手ぶらで歌った。長いミュージシャン活動の中で楽器を持たないで歌ったのは、この時と後は数える程しか無かった。町支さん、水谷さん、ぼくの三人でのハーモニーは、自分でいうのも何だがなかなか格好良かった。ぼくは歌いながら「CSN&YというよりもまるでGAROみたいだな。」と思っていた。特に「Find The Cost Of Freedom」は、コーラスのみのほぼアカペラで、コーラスワークはとても難しかった。今回の町支さんのコンサートでは、ぼくは浜田さんのコンサートの時よりもコーラスの比重が大きかった。コンサートの後半はフルバンドでの演奏に戻り、アップテンポの曲が中心になって畳み掛けるような構成になっていた。町支さんのボーカルとギターは、浜田さんの時とはまた違った感じでとても素晴らしかった。今回のソロツアーでぼくは改めて、町支さんのボーカリスト&ギタリストとしての素晴らしさを再認識した。
1992(平成四)年11月05日(木)の福岡公演に再び浜田さんが遊びに来た。この日は元チューリップのメンバーで、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた姫野達也さんも来ていた。楽屋はとても賑やかになった。92年のコンサートの締めくくりは、
1992(平成四)年12月18日(金)に日本青年感で行われた久宝留理子さんのクリスマスライブと、
1992(平成四)年12月24日(木)のクリスマスイブに新宿で行われた山本英美くんのコンサートだった。二つともとても楽しくて素敵なコンサートだった。目の回るような忙しさだった1992年もようやく終わろうとしていた。
写真◆町支寛二1992年のツアーパンフより。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/08/1992.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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