浜田省吾 「THEME OF FATHER'S SON」 遥かなる我家
2012/7/10(火) 午前 9:03
日本古来のメロディで始まる曲ですが、実際は西洋のアメリカと東洋の大陸・中国に、日本を加えて出来あがった曲なんだそうです。
浜田さんのルーツは欧米からきたブルースやロックなんですが、「AMERICA」の曲で歌われてるのは 自分はアメリカに憧れてアメリカにいるんだけど、鏡に映った姿は日本人であって、本来自分は日本人であってって、それで作られたのが「AMERICA」
そしてこの曲は西洋と、じゃぁもう片方の東洋を入れて作ろうって事で出来あがったそうです。
最初 歌詞はなかったそうなんですが、入れた方がいいと言う声があって、英語の他にメロディーに一番ピッタリくる中国語の他に日本語を加えて完結したそうです。
省吾さんがお父さんを亡くされて二年後に作られた物で、「路地裏の少年」は家を出たくて書いた曲だけど、この曲は父と暮らした日々や家庭を振り返って作られた曲。
帰ってきたんですね。瀬戸内の波打ち際を歩いた記憶や家族で過ごした日々と、まだ貧しかったけれど穏やかだった頃の日本とのデジャヴが 「The Last Weekend」 でDVD化されて。
あのDVD、本当に貴重な映像が満載で素晴らしいですよね。構想は十年以上かけて作られて、最初にこの曲を持ってくるのも決めてたそうです。
なんか、自分がふと一段落した時に最初に選んだ曲が 「The Last Weekend」のDVDの最初の曲だった事に不思議な気持ちになりました。
穏やかで静かな時の流れを感じる一曲ですね。
思い出すよ あの砂浜
歩いた日々の 父と母の姿
聞こえてくる あのあばら家
暮らした日々の 家族の笑い声
Do what you wanna do.
?所想要做的事情
You've got a freedom.
Dance if you wanna dance.
Kiss if you wanna kiss.
The world is yours.
suo xiang yao zuo de, sui qing (?所想要做的事情)
君がやりたいと思った事をやればいいんだよ
君はもう自由なんだから
踊りたい時には踊って
キスしたい時にはキスすればいい
世界は君の物なんだよ
http://blogs.yahoo.co.jp/u_t_r_s_m/15770530.html
もうひとつの土曜日2002,1,11 (WE ARE STILL ON THE ROAD) https://youtu.be/ZXhDTCKH3qM
1986.9.4♪もうひとつの土曜日♪写真◆https://youtu.be/gq00MlN1sa8
1999.9.8&29♪もうひとつの土曜日♪写真◆https://youtu.be/iu1PKsiBNHU
2005♪家路♪映像◆http://youtu.be/UJYsCc6RZls
2005♪家路♪映像◆http://youtu.be/3LvlzAiNB2M
2005♪家路♪映像◆Bank Band with Great Artists & Mr.Children http://youtu.be/DXNrNQYZ2Kc
2005♪家路♪映像◆http://youtu.be/P5NlRzrLm00
『J.BOY』 1986(昭和61)年9月4日 1990(平成二)年6月21日再発盤
1999(平成11)年9月8日再々発初回盤 1999(平成11)年9月29日再々発通常盤
http://ja.wikipedia.org/wiki/J.BOY_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
1986年を覚えていますか? http://youtu.be/khcTAZb_KeI
芸能界から突如引退した小林麻美の覚悟 25年後に初めて明かした思いとは
2018(平成30)年09月08日(土) 16:00
「女が憧れる女」というモデルを作った小林麻美を「親友」と呼ぶ松任谷由実が、麻美の出産に際して贈ったものは。時代の先端を歩き続ける女たちが25年もの間、見えない絆でつながり続けた理由とは。TOKYO FM「村上RADIO」プロデューサーで、『愛国とノーサイド』著者の延江浩が書く。
※「スクープとなった復活劇… 「小林麻美」とは何者だったのか?」よりつづく
* * *
松任谷由実が日本語詞をつけた「雨音はショパンの調べ」のリリースは1984年。日本女性のイメージを覆すアンニュイな女性像を披露、大ヒットで鮮烈な印象を残した。
「たまたまロンドンでガゼボの“I Like Chopin”を耳にしたの。それで麻美ちゃんに歌わせたいと閃(ひらめ)いた」とユーミンは回想する。
当初、この曲は別タイトルだった。それは「ショパンを弾かないで」。
「麻美ちゃんが歌うんだったらもっと柔らかくしようってユーミンがさらっとタイトルを変えた。深夜、東京タワーの真下にあるスタジオでした。ユーミンは直感で歌詞も変えていく。それでどんどんリアルに情景が浮かぶようになっていくんです。♪Rainy days 気休めは 麻薬 Ah……♪の中の、“Ah……”のウィスパーのところには『ピアノの~、曲』という歌詞が付いていたんだけど」(麻美)
歌詞を消すことで余韻が生まれ、そこに主人公の情感が漂った。
「気休めは 麻薬」というフレーズが引っかかり、NHKではついぞオンエアされなかったが、「どちらにしても、歌番組には一切出ませんでした。『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』からオファーをいただきましたが、出演しないことが戦略だったようです。でも生歌だとボロが出るって事務所の社長が心配したのかな(笑)」(麻美)
じわじわとヒットチャートを上がり、オリコン週間チャート3週連続1位。
「1等賞は、人生で最初で最後(笑)」
歌番組には出なかった麻美だが、その後、この曲を人前で3度歌っている。
最初は苗場スキー場で開かれるユーミンのライブ「SURF&SNOW」で、ギタリストの高中正義と。「今夜はスペシャルゲストが来てくれています」とユーミンが紹介し、ステージに立った。次が、これもまた人生最初で最後だと麻美が言う日本武道館でのコンサートで、最後は「息子が学校を卒業した時の謝恩会で(笑)。お世話になった先生とママ友にせがまれて、カラオケで歌いました」。
●待つ女ではなく待てる女 惚れて惚れて一緒になった
87年、ユーミンは麻美のアルバム「GREY」をプロデュース。全曲を作詞・作曲している。
「親友のアルバムですから、それはもう一生懸命作りました。旅先からもせっせと楽譜を送ったりね」(ユーミン)
「GREY」とは、煙草の煙と空の色を指している、と麻美は言う。
「失恋の歌です。煙草の煙が灰色の空に溶けて雨になる。切なくて綺麗。私はユーミンが作る詩が本当に好きでした。何とかその世界観を私の拙(つたな)い歌で表現したいと、いつも必死でした。この『GREY』という歌は、特に難しかったけど、本当に美しい作品になりました」(麻美)
「麻美ちゃんの恋人が田邊さんだとは何となくわかっていました。麻美ちゃんと私、それと田邊さんの3人で会うこともあったから。でも、3人で会うって、今思えば、私は目眩(めくらま)しだったのかな」とユーミンは笑う。
(C) Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 「雨音はショパンの調べ」の松任谷由実直筆の楽譜と日本語詞。EP盤のジャケット画は幻想的な画風で知られる画家・合田佐和子による。B面はジェーン・バーキンの「ロリータ・ゴー・ホーム」のカバーで、日本語詞は小林麻美自身が手掛けている(撮影/写真部・片山菜緒子)
「麻美ちゃんは『待てる女』です。『待つ』のではなくて、『待てる』。当時は家電(いえでん)しかなかったから麻美ちゃんは絶対、家にいた。いつでも電話に出られるようにね。だから『待てる女』。ちなみに私は『待てない女』(笑)。男の子たちと一緒に飲みに行くでしょ。お開きになって、麻美ちゃんは家が同じ方向だからって男の子のクルマには決して乗らなかった。身綺麗っていうのかな。そこまで人を好きになれるんだって思った。惚れて惚れて、田邊さんと一緒になったんじゃないかな」
そんなユーミンの言葉を受けて、麻美は語る。
「確かにそうだった(笑)。彼が好きだったから選択肢はそれしかありませんでした。彼から褒められたことは、公私共に一度もありません。いつも叱られてばかり。でも叱ってもらってどこか嬉しかったのかもしれません。そういう強さに惹かれたんだと思います」
霞町の事務所で初めて社長の田邊昭知に会ったのは麻美が20歳の時だった。サンローランのピンクのトレンチコートを着て行った。持っていた全てのサンローランを日本服飾文化振興財団に寄贈した麻美が、たった一着、初めて会った時に着ていたピンクのトレンチコートだけは手元に残した。
「彼に父の影を追っていたのかもしれません。父は私たち家族と一緒に暮らしてはいなかった。姉もどこかで父を追っていた。彼女はずいぶん年上と結婚しました。25歳違いで、父と二つ違い、母より三つ上。父が機嫌悪くなってね。でも、パパ、あなたに怒る資格ないじゃない?って思っていた」
●孤独を是とする生き方 一人で育てる覚悟で産んだ
麻美の父は(当時の)国鉄の信号機を設計する技術者だった。自宅のある大森には第一京浜国道が走っていたが、この大動脈を大型バイクで飛ばすカミナリ族でもあった。
10代の麻美は神経性胃潰瘍、急性肝炎、骨髄炎と次々に大きな病気にかかり、1年間学校を休んでいる。
「父が家にいなかったり、他にも色々あった家族だったから、背負いきれずに病気ばかりしていたんだと思います。でもおかげでサガンに目覚めました」
黒と銀色にペイントされたカワサキの大型バイクに跨(またが)る父の背中にしがみつくと、革ジャン、煙草、エンジンオイルの匂いがいつもした。ザ・スパイダースのリーダーとしてヒッコリーのスティックでドラムを叩いた田邊の指からも、どこからか同じ匂いを感じた。その匂いなるものは、麻美にとって拠り所や励みにもなった。
「元々、心中とか男女の道行きとか近松(門左衛門)的なものに憧れを持っていました。父と彼に私は勝手にそのイメージを持ったんです。孤独であることを是とする生き方。子どもの私が大人の事情を受け入れざるを得なかった自分自身の孤独と重なったのです」
田邊と付き合い始めて17年経って、麻美は大きな決断をした。
出産である。
彼女は未婚のまま子どもを産んだ。
「彼も私も、もちろん独身でしたが、結婚という形はその時はとりませんでした。好きな人の子どもを産みたい。その思いだけで、一人で育てる覚悟でした」(麻美)
「男がいて、モテるという評判が立つとする。そうすると、女はそういう男に挑むものです」とユーミンは言う。
「女はその男に近づいていって、誰かが勝つ。勝利した以上、何があっても女はその男を愛し続ける。そうでないと男は観念しない。で、麻美ちゃんは姿を消した。ただの結婚ではなく、相当の覚悟でけじめをつけた。自分の有り様っていうのかな、それを貫いた。彼女は美意識の高い人。麻美ちゃんは麻美ちゃんで、確固たる雲としてしっかり空に浮かんでいました。女が女に憧れるという図式を作った」
麻美のアルバム「GREY」の中に「遠くからHAPPY BIRTHDAY」という楽曲がある。麻美の誕生日のためにユーミンが作ってくれた。
「そして、私が子どもを産んだ年に、この曲の歌詞を変えてユーミンが歌ってくれた。『お祝いよ。麻美ちゃんのために書き直したわ』って。嬉しかった!」
それが「Happy Birthday to you~ヴィーナスの誕生」。久保田利伸が♪Happy Birthday to you♪と間奏で歌うこの曲はアルバム「DAWN PURPLE」に収録されている。“PURPLE”は「人間が初めて見る色」を指す。胎児がこの世に生まれた時に見る「紫」と、夜明け(“DAWN”)前の空の「紫」を重ねている。
都会のディスコティックを舞台に、かつての恋人を忘れられない孤独な女を描いた曲が一転、晴れやかな祝祭曲になった。イントロは胎児の力強い鼓動を想起させるパーカッション。覚悟を決めて新しい命を生みだした麻美のためにユーミンが心を込めた。
Dear Friend/あなたの世界が新しくなる/淋しいときでも孤独じゃない
幾千年もくり返された/本当の愛を得るための苦しみが
あなたを待つのね おめでとう
(「Happy Birthday to you~ヴィーナスの誕生」)
『DAWN PURPLE』は1991(平成三)年12月02日(月)付のアルバムチャートでオリコン史上初の初動ミリオンを記録。たった一人で息子を産んだ麻美が100万人の祝福を受けたことになる。ユーミンの直感の見事な勝利だった。
「出産・結婚で仕事や周囲に迷惑をかけました。だから二度と戻らないと決めた。結婚を選んだからには何かを捨てなければならない。それが私なりの『禊(みそぎ)』でした」(麻美)
姿を消し、25年間見向きもせず育児に没頭したのは「自分の決断に対するけじめ」だったのだ。
●鮮やかな女の決別 想いを貫いた45年間
「麻美ちゃんの中で何かが解(と)けたのかなって思いました」とユーミンはいなくなった麻美を想う。
「きっぱり親交がなくなりました。でもそれでよかった。友達でい続けるのは、それはそれで大変だったと思う。神隠しみたいに姿を消してしまったけれど、気持ちは繋がっていると思う25年間でした」
2人は最後の電話を覚えている。
「私、これからも闘う」(ユーミン)
「私にはもうファイトがないの」(麻美)
ユーミンは、麻美の答えにこの人はショービズの世界に未練がないのだと受話器を握り締め、麻美は親友を失くすのかもしれないと覚悟した。
「尼寺に入るじゃないけれど、昔はそういうお別れがあったんです」(ユーミン)
ユーミンが言う通り、鮮やかな女の決別だった。
「20歳で彼と知り合い、紆余曲折、いろいろあった」と麻美は回想する。
「最近思うのは、この45年間、私が自分の想いを貫き通せる男(ひと)に出逢えたことは幸せだということ」
所属事務所の社長とタレントの関係から恋人になり、出産して結婚、仕事を辞め、お互いに父と母になり……。その間、自分の想いをずっと田邊に貫いた。
「その思いは今も変わりません。諦めたことや失くしたものもあったかもしれないけれど、悔いはありません。
主人には感謝しかありません。ずっと、大切なひとです。
こうして、私が、夫である田邊昭知のことを話すのは、45年にして初めてのことです」(麻美)
松任谷由実という親友にして最高のアーティストとの、ある種共犯関係が作り上げた「女が憧れる」というロールモデル。その象徴だった麻美は突然表舞台から姿を消し、謎の存在となった。
しかし四半世紀後、岩崎アキ子、淀川美代子というファッションと出版界で伝説とされる女性らとの合作によって、サンローランのタキシードを装い、雑誌「クウネル」の表紙で再登場した麻美は、頬に右手を当て慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。人生の旅を経て程よく熱が冷め、芳醇(ほうじゅん)な香りを密かに振り撒きながら、「第二幕」を迎えるのに相応しく、別次元の存在感を示したのだった。
(文中敬称略)
延江浩(のぶえ・ひろし)1958(昭和33)年東京都生まれ。ラジオプロデューサー・作家。慶應義塾大学卒業。国文学研究資料館・文化庁委託事業「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。ABU(アジア太平洋放送連合)ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞、ギャラクシー大賞など受賞。
*NexTone【許諾番号:ID000005489】
2018(平成30)年09月03日(月)号 AERA
https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/ar-BBN1Xn7
スクープとなった復活劇… 「小林麻美」とは何者だったのか?
2018(平成30)年09月08日(土) 16:00 AERA 延江浩
東京・渋谷の公園通りの渋谷パルコ(1979年) (c)朝日新聞社
「クウネル」(2016年9月号)でサンローランを着る。同誌で「小林麻美の試行錯誤」連載中(撮影/写真部・掛祥葉子)
1977年、資生堂「マイピュアレディ」ポスター。モデル=小林麻美、撮影=レナード・デ・フランチェスコ
【許諾番号:ID000005489】
松任谷由実が日本語詞をつけた「雨音はショパンの調べ」で鮮烈な印象を残し、1991年に突如引退した歌手・モデルの小林麻美。復活劇の舞台裏を、TOKYO FM「村上RADIO」プロデューサーで、『愛国とノーサイド』著者の延江浩が書く。
【「クウネル」の表紙にサンローランのタキシードで登場した小林麻美】
* * *
マガジンハウス「クウネル」編集長の淀川美代子は皇居前・半蔵門へ急いでいた。そこにはモデルエージェンシー社長、岩崎アキ子が待っていた。
ふと、ジーンズにジャケット姿の女性がコンビニに入るのを見かけ、長身ですらりとした後ろ姿に、もしやと思ったが、明確にはわからなかった。その女性からは予想していたオーラが感じられなかったからだ。
「やっぱり25年間のブランクがあるのかなって。でも、本番に向けて何回か打ち合わせを重ねていくうちに、どんどん綺麗に、どんどん生き生きとしていった。ごく内輪で進めたプロジェクトだったんですけど、私は小林さん、すごいな、さすがだってずっと思っていました」(淀川)
それから半年後。小林麻美は、1991年の引退以来の撮影本番にサンローランのタキシードで臨んだ──。
●アイドルらしからぬ聖少女 違和感がたまらなかった
72年、東芝レコードから「初恋のメロディー」でデビューした麻美を、クリエーティブディレクターの杉山恒太郎は「深窓の令嬢が、突然、ブラウン管に登場した、という印象だった」と言う。「そこ(テレビ)に出てはいけない人が出てきたっていうのかな。生活感が皆無で、透明感が際立ち、そこに惹かれながらも違和感がたまらなかった。まるでサガンや倉橋由美子の小説に出てきても不思議じゃない聖少女のよう。単なる金持ち、とかではない、上流階級の女の子。ずっと見ていたい、けれどその場所にはいて欲しくはない(笑)というアンビバレントなイメージでした」
麻美は神田カルチエラタンの文化学院出身。与謝野晶子、鉄幹らが大正期に創設し、菊池寛、北原白秋、芥川龍之介と錚々たる面々が教壇に立った。「自由」「知性」「芸術」を旗印に、作家では金原ひとみ、作詞家では安井かずみ、俳優では高峰秀子、中嶋朋子、ファッションでは菊池武夫、稲葉賀恵と多くのクリエーターが輩出している。
「文化は自分で選んで入ったんです。暁星やら慶応、青学とか、そんな私学で何かやらかしてしまった子どもが集まっていた。クレージーというか、全員びっくりするような恰好でやってくる、ヒッピーみたいな学校でした」(麻美)
のページ育ちの良い野蛮人…
https://dot.asahi.com/aera/2018090600084.html?page=1