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┃ 安保徹 ┃‡1947(昭和22)年10月09日(木) 生誕
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https://ja.wikipedia.org/wiki/安保徹
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【追悼】安保徹先生と現代医療
2018(平成30)年12月08日(土) 13:45:01
安保徹(あぼとおる)新潟大学名誉教授がお亡くなりになって2年が経つ。
2016(平成28)年12月06日(火)に逝去されましたが、安保先生が残して頂いた功績は非常に大きい。それは、先生が私達に『真実』を伝えてくれたからだ。上の写真は、『ガンは自分で治せる』という書籍です。現在、この本の表紙のネット画像は検索が出来ないようにブロックされております。「安保徹」でネット検索してもヒットしないのであります。とある特殊な検索方法で見つけることが出来るのですが、たとえその画像を発見したとしても、デスクトップ等に保存できない様に細工がされているのです。また、上の写真の『医療が病をつくる』という書籍も同じで、「安保徹」と入力して、ネット検索してもヒットはしないのであります。やはり、特殊な検索方法では見つかるのですが、同様に画像保存ができないように細工が施されているのです。また、2016年当時、安保先生が亡くなられた際の訃報は、マスコミでは一切シャットアウトされていたのです。これは、一体どういうことなのでしょうか?それは、真実が隠蔽されているということなのであります。日本では「二人に一人ががんに罹り、三人に一人がこれによって亡くなる」と言われております。しかし、世界中を見渡してみても、そのような国は他にどこにも存在しないのです。つまりは、我々日本人は、『医療洗脳された国家の住人』なのであります。『ガンは自分で治せる』、『医療が病をつくる』という本は、そのタイトルが示すように、抗がん剤治療を否定し、現代医療を否定しているのです。すなわち、病院へ行くから病気になる!薬を使用するから病気になる!というマッチポンプ的な仕組みを公に公開したのです。しかし、この真実が世間に知れ渡って、国民が覚醒して目覚めてしまうと、40兆円産業の医療業界は雪崩を打つように瓦解するのです。そうなると、医者や製薬会社は、おまんまの食い上げとなるのであります。逆を言えば、私達は医療に食い物にされており、財産と大切な命を奪われ続けているのです。これが、日本という国で生きている我々の現実の姿なのです。安保徹先生は天国にいますが、今でもネットや書籍でその思想は生きており、遠くから私達を見守っているのです。
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12424549569.html
「キレちゃいないよ」
‡1995(平成七)年10月09日(月)、UWFインターナショナルとの対抗戦における安生洋二戦後の囲み会見での発言。後のお笑い芸人・長州小力の持ちギャグ「キレてないっすよ。」の元ネタである
https://ja.wikiquote.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%8A%9B
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1967(昭和42)年10月09日(月) 革命家チェ・ゲバラがボリビア政府軍に射殺される ⇒ アルゼンチン生まれのキューバの革命家チェ・ゲバラ(写真)が、南米ボリビア山中のイゲラ村で、同国の政府軍により射殺された。当初、米国はゲバラを生かしたまま裁判にかけようとしていたが、当時のボリビア大統領の命令で、即時処刑が決まったという。写真は、1965(昭和40)年撮影【AFP時事】※2020(令和二)年説明追加
1983(昭和58)年10月09日(日) ミャンマーで北朝鮮の爆弾テロにより韓国要人ら計21人が死亡
2006(平成18)年10月09日(月) 北朝鮮が初の核実験を実施 ⇒ 北朝鮮が初の核実験を実施した。プルトニウム型原爆で、爆発規模は1キロトン未満とみられる。北朝鮮は金融制裁解除を求め、2005年11月以降、6カ国協議への出席を拒否。06年7月にはミサイル7発を発射するなど強硬姿勢を強めていた。写真はソウルでの抗議集会で燃やされる金正日総書記の顔写真入り垂れ幕【AFP時事】※2021(令和三)年記事削除
2012(平成24)年10月09日(火) パキスタンでマララ・ユスフザイさんがタリバンから銃撃 ※2021(令和三)年記事追加
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1996(平成八)年10月9日(水) 荒木大輔、現役最後は古田への1球
‡2017(平成29)年10月9日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月9日だ。
写真◆試合後、ファンに手を振る荒木
通算39勝49敗2S。言い方は悪いが、この程度の選手はいくらでもいる。しかし、この男の引退に多くの人が寂しさを感じ、また、その健闘を心から祝した。
‡1996(平成八)年10月9日(水)、早実のエースとして一世を風靡した荒木大輔が引退試合を行った。
高校時代、1980(昭和55)年の1年夏から5季連続甲子園出場。甘いマスクもあって“ダイスケフィーバー”を巻き起こした。現ソフトバンク・松坂大輔をはじめ、当時誕生した男の子たちに「大輔」という名前が多かったことからも、そのインパクトの大きさが分かるだろう。
1983(昭和58)年ドラフト1位でヤクルト入団。巨人も競合し、その外れ1位が90年代最強のエース、斎藤雅樹だった。
荒木はリトルリーグからのトップ選手。快速球や魔球があるわけではなく、総合力で勝負するタイプで、残念ながらプロで突き抜ける力はなかった。当初はなかなか結果を出せず、同じく早実出身で、現在日本ハムの斎藤佑樹ではないが、人気優先の選手と言われ、悔しい思いもした時期もある。
それでも荒木はくさることなく、自分のスタイルを磨いた。多少打たれても試合をきっちり作る安定感が評価され、次第に先発ローテに定着。1987(昭和62)年には10勝と先発ローテの一角を担った。
ただ、翌1988(昭和63)年途中から地獄を見る。
右ヒジを痛める。治ったと思ったら再発し、手術を繰り返し、椎間板ヘルニアに苦しめられた時期もある。一軍登板もなく、「あの人はいま」状態となった。89年からの斎藤の大ブレークもあって、ドラフトの失敗例に挙げられることもあった。
このときも荒木はくさらなかった。この長い苦しみを乗り越え、92年終盤に復帰すると、同年2勝、そして翌1993(平成五)年8勝で連覇に貢献した。93年の日本シリーズでは第1戦に先発し、西武相手に強気の内角攻めを見せ、敵将・森祇晶が「あの気迫は素晴らしい」と称賛。「早実・荒木大輔」ではなく、「プロ・荒木大輔」としてようやく輝いた時期と言えるかもしれない。
1996(平成八)年、横浜に移籍したが、シーズン5試合目、10月9日が引退試合となった。古巣・神宮でのヤクルト戦。先発した荒木と、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ五番打者の古田敦也との対決は、2回裏に実現する。2ストライク1ボールからの4球目、荒木は139キロのストレートを投じ、古田は空振り三振。この1球で、14年間のプロ生活にピリオドを打った。
高校時代、プロ入り後、ずっとマスコミの前では、あまり笑わず、冗談も言わない印象があったが、この日は違った。
「高校時代から(東京大会で)ここでやってきましたから。最後の神宮、何か縁を感じますね。ライトスタンドのヤクルトファンの方たちにもあいさつしたかったんですが、このユニフォームですからね」
最後は、「もう練習しなくていいんですね。これからはダイエットしますよ」。そう言って、朗らかに笑った。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171009-10
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.184 ┃ 40円
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‡1961(昭和36)年10月09日(月)増大号 ポイントは金玉の上?
2018(平成30)年04月29日(日) 17:16 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『カケ屋につぶされた? 近鉄』
写真◆表紙は中日・権藤博、巨人・長嶋茂雄
今回は『1961年10月9日増大号』。定価は10円上がって40円だ。セは巨人、パでは東映が優勝にひた走っている。巨人ラストスパートの投手の原動力は、何度も登場しているが、途中入団の村瀬広基。3連続完投勝利中だ。
一方、打では9月に入り調子を落としていた長嶋茂雄が上がってきた。
『ホームランは30本、打点は90…』という記事では、不振時のフォームについて、記者と以下のようなやり取りをしている。
「多少はくずれますね。左脚が外へ流れそうになるのです」
「それはアウトステップ気味になるということですか」
「いやそうじゃない。大体スタンスのとき、もっとも理想的なのはヒザがX字のラインを描くようになるのです。それがいまはO字のラインのようにヒザが外に流れているのです」
「そうなるとどのようになるのですか」
「X字のラインで打つと、ポイントが金玉の上にくるのです。これが理想ですね。それがO字だと前にポイントが出る。前に出ると苦しいから、どうしても顔が上がる。
4年間もやると、こうした悪い結果もよく知っているのですが、なかなか直そうとしても直らない。相手もあることだし、直らないところに、野球の持つ面白さがあるのです」
パの東映の大川博オーナーは、水原茂監督を全面的に信頼し「金は出すが口を出さない」という言葉が有名になっていた。
「どうもあまりに有名になってしまったが、自分の信頼して連れてきた人には一切まかせんといかん。もちろん、まかせられる人でないといかんが、なんでもそうだが、責任を持たせることが大切で、それにかれこれいうと、どこに責任があるのか分からなくなる。チームの運営で難しい面だね。監督は技術者だし、僕が経営者だからね」
『カケ屋につぶされた? 近鉄』という物騒な記事もあった。前提として関西でプロ野球、高校野球のカケが行われていたのは、公然の事実だった。近鉄絡みのカケで大勝した人が経営する飲み屋の常連に、近鉄の選手がいたことから立ったウワサらしいが、結論は悲しい。
「近鉄に果たして八百長ができるかということだ。八百長というのは強いほう、すなわち試合前に勝利を予想されるほうが負けてこそ成り立つものだ。近鉄のチーム力からみて、まず勝ちと予測されるゲームなんてないのではないか」
同年の近鉄は、36勝103敗で最下位。首位とは51.5ゲーム差だった。
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』が好評発売中です。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.489 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1967(昭和42)年10月09日(月)号 阪神の放棄試合はなぜ起こったか?
2019(令和元)年06月25日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎“前夜祭”となった円城寺事件
写真◆表紙は巨人・川上哲治監督
今回は『1967年10月9日号』。定価は60円。
ジャッジをめぐる事件記事を2つ紹介しよう。事実関係を書いただけでも、少し長くなるが、ご勘弁を。
1967年9月23日、甲子園の阪神─大洋戦は、すでに優勝とも関係なく、スタンドには3000人前後がパラパラといたに過ぎなかった。
そんな中で大洋は初回に3点を先取。なおも二死満塁と好機が続いた。
打者は投手の森中千香良。2ストライクの後、阪神・バッキーが投じたボール球を空振り。しかし、ショートバウンドした球を捕手の和田徹が捕れなかった。
ベンチに戻りかけた森中だったが、一塁コーチの指示であわてて一塁へ。だが、和田はマウンドにボールを転がし、阪神ナインもベンチに引き揚げた。
森中は無人の一塁へ行き、走者はそれぞれ進塁。三走はホームにかえった。
当然、追加点となったが、ここから阪神が猛抗議する。和田は「審判が、三振アウトと言ったので、引き揚げたんだ」と主張。球審は「私は3ストライクとは言ったが、アウトとは言っていない」と突っぱねた。
これに対し、藤本定義監督は「うちの選手でわしに嘘をつくやつはおらん。こんな審判相手に野球ができるか」と怒り、ついにはナインをロッカーに引き揚げさせた。
審判は「やらねば放棄試合になります」と言ったが、エキサイトした藤本監督は「偉そうに言うな。こんなことにしたのはお前らじゃないか」と言い返した。記事にはなかったが、この間、審判の誰かを押したか、小突いたようだ。
それでも阪神の岩間常務が「ゲームだけはやってくれ」と説得。たぶん、払い戻しの損害を考えたのだろう。
藤本監督は「わかったが、わしはやれん。後藤(次男コーチ)、お前がやれ」と言って監督室に引っ込んだ。
ここで解決となるはずだったが、審判がスタンドに「プレーをかけます。しかし藤本監督は暴行のかどで退場にします」とアナウンスしたことに、阪神の後藤、山田伝コーチがカチンときた。
「うちの監督は退場やない。自分で引き下がったんや。退場なら暴行を働いたときにやれ」と抗議し、再び態度を硬化させた。
審判は開き直ったのか、阪神ナインのいないグラウンドでプレーをかけ、時計で1分が過ぎたのを見極めるとゲームセットの宣言をした。
阪神の放棄試合となったわけだ。
藤本監督は、放棄試合と聞いてあっけにとられた表情を浮かべ語った。
「放棄試合はうちの責任じゃない。入場料の払い戻しは審判がやれ。それにわしは退場にはなっとらん。職場放棄した処分なら潔く受けるが、連盟から退場の罰金が来ても絶対に払わん」
実は、20日、中日球場でも判定をめぐるトラブルであわや放棄試合になりかけた。
中日─巨人戦の7回表、巨人の攻撃だった。投手の金田正一が一塁走者で打者・柴田勲が二塁打性の当たり。俊足を飛ばし、一塁を大きく回ったが、金田が「左足首の捻挫再発を恐れたため」二塁に止まってしまった。
あわてて柴田が一塁に戻り、クロスプレーながら一塁手・江藤慎一のタッチより先に柴田の足がベースに届いたように見えた。
しかし、ここで円城寺塁審がアウトのジャッジ。すぐ激高した柴田が円城寺塁審を突く。その後、巨人のコーチも円城寺塁審を囲むようにし、抗議。1分もしないうちに判定がアウトからセーフになった。
今度は納得できない中日が猛抗議。客席が殺気立ち、乱入しようとする者が相次ぎ、そのたび警官隊に阻止された。その後、中日ベンチの要求で円城寺塁審がマイクを持ち、
「私のミスでした。フォースプレー(タッチなしでもアウト)と勘違いしていました」と説明。
中日側は「それ以前にアピールで判定を変えることは野球規則にない」と抗議。円城寺塁審が「そのことは私が責任をもって」というと、コーチから「責任をとるというのはルールブックを書き換えるということなのか」と迫られると、「私が辞めて責任を取ります」。
これに中日・西沢道夫監督が「何、辞める? それ本当だな。絶対辞めろよ。その言葉を忘れるな」と言葉を荒げる。
さらに中日の球団社長が西沢監督からベンチで説明を受けている際、スタンドから「円城寺やめちまえ」と騒ぐファンがいたが、社長はそのファンに向かって大声で「おい、騒ぐな。円城寺はもうクビなんだから」と声をかけると、この騒動を見ていた金田が「なんてことを言うのや。バカヤロー。それが球団幹部の言うことか」と怒鳴った。
これに対し、社長の脇にいた重役が、
「バカヤローとはなんだ。金田君。その言葉を取り消したまえ」とやり返す。
もうメチャクチャだが、雰囲気は分かる。
反論はあるかもしれないが、金田の抗議は正しい。
中日の選手は、ジャッジが変わらなければ、試合放棄を主張。しばらくベンチから出てこず、その間にファンがフェンスを壊し始め、すでに出動していた200人の警官隊がそれを止めた。
最終的には1時間以上の中断の後、9時46分に試合再開となった。
ご存じと思うが、円城寺審判は、1961年の日本シリーズでジャッジをめぐり、南海の選手に袋叩きにあった。
優柔不断だったのか、優しすぎたのか。昭和の「審判はつらいよ」だ。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180429-17
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190624-01
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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