生活保護申請が23区で4割増えるなか、窓口で渡されたサンマ缶ときんぴらごぼう缶。そして新宿区でのホテルから放り出された172人
2020(令和二)年06月11日(木) 09:39 ハフポスト日本版
久々に、頭が真っ白になるくらいの怒りが込み上げた。貧困問題にかかわって14年。生活保護の水際作戦や屈辱的な対応については散々見聞きしていた。しかし、今はコロナでみんなが大変な時期。厚労省から生活保護については迅速に対応するようにという通知も出ている。それなのに、「今に至ってもこんなことやってるの?」という現実に、ただただ言葉を失った。それは
2020(令和二)年06月03日(水)のこと。この日、私は千代田区役所にいた。つくろい東京ファンドの小林美穂子さんから連絡を受けたのだ。つくろい東京ファンドとは、住まいのない人などを支援する団体。つくろい東京ファンドには、4月から170件を超える相談が殺到している状態だ。所持金が尽きた、住む場所もないといった切実なSOSだ。小林さんは相談をくれた人のもとに駆けつけ、生活保護申請同行などの支援を続けている。その様子は「緊急事態宣言からの同行支援日記?ネットカフェ休業で『パンドラの箱』が開いた?」でも書かれている通りだ。そんな小林さんからの連絡は、「千代田区の福祉事務所に申請同行したが、申請はできたもののあまりにも対応がひどいので来てくれないか」というものだった。もし可能であれば、ということで、れいわ新選組党首・山本太郎氏の同行も希望されていた。コロナ経済危機が始まって以来、山本太郎氏もホットラインの相談員などをボランティアでし、街頭で見かけたホームレス状態の人に声をかけ、支援団体につなげるなど「ひとり福祉事務所」のような機能を果たしている。早速、太郎氏に事情を話すと「知恵はないけど圧は出す!」という力強い参加表明が届いたのだった。名言だな……。そうして
2020(令和二)年06月03日(水)午後1時、私たち3人と当事者のSさんは千代田区役所の福祉事務所にいた。まず驚いたのは、コロナ経済危機の中、生活保護を申請する人は激増し、東京23区では4割増になっていて、どこの区の福祉事務所にも人が殺到しているというのに、千代田区の福祉事務所はガラガラだったことだ。不審に思いつつ、この日の午後1時にSさんの担当者とアポイントをとっていることを伝える。と、山本太郎氏の登場に福祉事務所はざわつき始め、慌てた様子で係長と課長という人がやってくる。Sさんの担当となった人も含め、話し合いが始まった。ここで経緯を振り返ると、Sさんは
‡2020(令和二)年05月27日(水)、小林さんに同行してもらい、生活保護を申請。この時点で住まいはなく、所持金は200円ほど。申請の意思を示しているこのような場合、すぐに申請書が出てくるものだ。しかも現在は緊急時。しかし、申請書が出てくるまで、1時間5分もかかったという。この時点でありえない対応で、申請を諦めさせようとしていたと言われても仕方ない。しかも生活保護は申請からだいたい2週間以内で決定されるのだが、対応した職員は、千代田区では2週間で決定することはほぼない、一ヶ月かかると説明。また、申請時に所持金がない場合、決定まで待っていたら餓死してしまうので、他の区では仮払いがされるのだが(その日の夕食から困ってしまうため)、なんとこの日、Sさんに渡されたのは現金ではなく災害備蓄の缶詰などだったという。その内訳は、白粥13個、サンマ蒲焼缶15個、きんぴらごぼう缶15缶、500mlの水5本。これで生活保護決定まで過ごせということだろうか? 「なくなったら連絡を」ということだったそうが、Sさんが連絡しても折り返しはなかったという。ここで他の区はどうかということを紹介すると、申請時に所持金が尽きている場合、区によって違いはあるが1日2000円などが生活費として仮払いされる。私は今まで多くの生活保護申請に同行してきたが、所持金が尽きている人で、その日のうちに仮払い金が渡されなかったケースは皆無だ。場合によっては、その日から決定までのネットカフェの宿泊代も出る。そこからアパートに移るという流れだ。生活保護が決定すれば敷金などの初期費用も転宅費として出る。「そこまでしてくれるのか」と驚く人もいるだろう。しかし、こういった情報も支援団体が同行しないと教えてくれないこともある。そうしてアパート生活に移行すれば、生活は安定する。東京都内にはネットカフェ生活者が4000人いると言われているが、これほど多くの人がそのような生活をしている背景には、アパートに入るための初期費用が用意できないという現実があるのだ。Sさんの場合、住む場所はないものの現在宿泊している場所はあった。が、さすがに缶詰だけの支給というのは常軌を逸している。早く生活保護を抜けようと職探ししたくても、交通費もないのでは何もできない。「それでもありがたいと思え」と言う人は、所持金200円で1日3食、サンマ缶ときんぴらごぼう缶だけという生活をしてみるといい。いくらなんでもありえない、と抗議したのだが、私はこの「災害備蓄の食料支給」という事実によって、ある事件を思い出していた。それは、
2012(平成24)年に札幌市白石区で起きた姉妹餓死事件。42歳の姉と40歳の妹が1月、遺体で発見されたという痛ましい事件である。真冬の札幌で電気とガスは止められ、二人が住む部屋のガスストーブは使えない状態だった。冷蔵庫は空っぽで、遺体は衣服を何枚も重ね着している状態だったという。姉が先に亡くなり、知的障害のある妹は姉の遺体の横で半月ほど生きていたとみられる。携帯には、前年
2012(平成24)年12月20日(木)に「111」という発信記録が残されていた。110番か119番にかけようとしたものの、番号を間違ったのではないか。姉妹の姉は、生前、生活が苦しいと白石区役所に3度も相談に訪れている。が、3度とも「若いから働ける」などと追い返され、3度目に追い返されてから半年後、遺体となって発見された。そんな姉が2度目に相談に訪れた時に支給されたのが、「パンの缶詰」だったのだ。この時の姉妹の状況は逼迫していた。全財産はわずか1000円。両親はすでになく、知的障害の妹を抱える姉は体調不良で失業していた。食料も残り少なく、ライフラインも滞納。一刻も早く生活保護が開始されなければ命に危険が及ぶことは誰だってわかる状況だが、白石区の福祉事務所がしたことは、「非常用のパンの缶詰14缶の支給」。災害備蓄用のもので、14缶の根拠は「7日×1食×二人」。姉妹に対して1週間、1日1食、しかもパンだけで生き延びろということである。この日の「面接受付票」には、「食料確保により生活可能であるとして、生活保護の相談に至らず退室」と書かれている。そうして福祉に見放された二人は、餓死・凍死した状態で発見されたのだ。この事件を受けて12年3月、「全国『餓死』『孤立死』問題調査団」が弁護士らで結成され、私も加入。5月には調査団で事件調査のため札幌に行き、白石区に聞き取りもしたが、二人の命が失われたことについて、白石区はあまりにも冷淡だった。私自身、札幌の餓死事件の取材をしてきたという経緯があるからこそ、千代田区が災害備蓄の缶詰を渡したことがショックだった。白石区の時もそうだが、食料を渡すということは、飢える可能性があるとわかっているということだ。千代田区の場合、生活保護申請はできていたが、コロナ禍という非常時において、このような対応がなされていることが衝撃だった。この日、千代田区との話し合いの結果、「一ヶ月かかる」と言われていた保護の決定は2週間で下りることとなり(できるんじゃん!)、また、現金の仮払いもされることになった。1日2400円として、1万5000円がSさんに支給されたのだ。が、ここに至るまで、1時間10分。他の区では、自分から何も言わなくても所持金がない場合は出てくるお金だ。それをいろいろと理由をつけ、さらには「協議が必要」と20分間、席を外して協議して、やっと出てきたのだ。しかし、これは歴史的な一歩でもある。長年、現金支給が行われてこなかった千代田区で、こうして仮払いが認められたのだ。Sさんが頑張ってくれたことによって、大きく道が開いたのだ。担当課長は、今回に限らず、所持金のない人には仮払いをすることを口頭だが約束してくれた。何もしなければ変わらなかった制度にこの日、小さいけれど、確実に穴が空いたのだ。快哉を叫びたい一方で、窓口を訪れて、心がえぐられる思いもしていた。コロナ禍で困窮者が増える中、全国各地の福祉事務所の職員たちが奮闘していることは知っている。当事者に寄り添った素晴らしい支援をしてくれている職員の存在も知っている。一方で、時々耳にするのは「ひどい」としか言いようのない職員だ。水際作戦で追い返す、態度がものすごく横暴で喧嘩腰、高圧的、ニヤニヤしてばかりいて困窮した人を馬鹿にしたような態度をとる、等々。そのような人が、福祉事務所の窓口で困窮者対応をするわけである。そうして生活保護を受ける資格があるのに、受けなければ死んでしまうのに、難癖をつけて本人を追い返している。この事実を思うと、腹わたが煮え繰り返りそうな怒りに包まれる。なぜなら、生活保護の窓口は、そこで追い返されたら死ぬ確率がもっとも高い窓口だからだ。他の施策の窓口とは明らかに違う。他に生きる手段がない人たちが来る最後の砦だというのに、なぜ、福祉の知識もろくになく(本当にそういう人がたまにいる)、当事者を傷つける言動を平気でしてしまう人が配置されているのか。はっきり言って、その席にはプロ中のプロしか座ってほしくないのだ。命にかかわる仕事なのだから。素晴らしい仕事ぶりの職員たちがいることを知っているだけに、それが残念でならない。さて、この日、千代田区役所から帰る時、Sさんたちと歩いていると道端にきんぴらごぼうの缶詰の空き缶が落ちているのを発見した。Sさんに支給されたのも、まさに同じ缶詰だという。おそらく千代田区の福祉事務所でもらった人が空腹に耐えきれず、すぐに食べたのだろう。そんな缶詰の賞味期限は、来月だった。廃棄処分が近いものから渡しているのだろう。理解できるが、なんだかとても悲しくなった。一方で、生活保護の現場がなぜこれほど殺伐としているかもよくわかる。コロナ不況を受け、生活保護を申請する人が激増しているのに、現場には人手も予算も圧倒的に足りないからだ。「給付なき自粛」をこれだけやってきたのだから失業者や困窮者が増えるのは当たり前なのだ。だからこそ国は、困窮者対策に予算と人手を投入してほしいと切に思う。最後のセーフティネットなのに、どの市区町村に住んでいるかで生死が分かれるようなやり方を、とにかく今すぐ是正してほしい。と、ここまでが
2020(令和二)年06月03日(水)のこと。それに先駆ける
2020(令和二)年06月01日(月)、新宿区がトンデモないことをやらかしていた。一言でいうと、「嘘をついてネットカフェ生活者をホテルから追い出していた」のだ。緊急事態宣言を受けて、東京都がネットカフェ生活者のためにビジネスホテルを確保したことは多くの人が知っていると思う。
2020(令和二)年05月06日(水)時点で800人以上が入っていたのだが、この人たちは現在、
2020(令和二)年06月14日(日)までホテルにいられることが決まっている。しかし、
2020(令和二)年05月29日(金)、新宿区は区内のホテル利用者に「ホテル利用は
2020(令和二)年05月31日(日)(チェックアウト6月1日朝)まで」という文書を配布したのだ。新宿区でホテルを利用していたのは172人。うち74人が生活保護を申請したものの、少なくとも87人が行き場もなく、なんの制度へも繋がっていない状態で放り出されてしまったのだ。しかも、この通知が配布されたのは金曜の夕方。翌日と翌々日は土日で、月曜の朝チェックアウトとなっている。役所に相談しようにも時間はほぼない。そうして、本当に追い出されてしまった。このことに激怒して
2020(令和二)年06月08日(月)、私たち「新型コロナ災害緊急アクション」は新宿区に申し入れをした。申し入れをしたのは、つくろい東京ファンドの稲葉剛さん、小林美穂子さん、元自治体職員で生活保護を担当していた田川英信さん、医師の谷川智行さん、私など。新宿区からは福祉部長と課長が対応し、多くのマスコミも集まった。まずは稲葉氏が申し入れ書を読み上げたのだが、部長、課長はホテルから追い出したことについて、「そうしたほうが、必要な人が相談に来ると思った」などの苦しすぎる言い訳を展開。ホテルから出したほうが、困っている人が福祉事務所に生活の相談に来ると思った、ということである。それが現実離れしているということはすぐに明確になった。なぜなら、稲葉さんたちのもとには、行き場がなく追い出された87人のうち、数人から既にSOSが入っているからだ。ある人は、
2020(令和二)年05月29日(金)の文書を見て焦って新宿区に電話したという。2度にわたって電話して「ホテルに滞在したい」とお願いしたが埒があかず、その日のうちに直接窓口を訪れているのだ。しかし、福祉事務所の職員に、「新宿区としては
2020(令和二)年06月01日(月)までにチェックアウトいうことで決まっている」と追い返されたのだという。ちなみに、
2020(令和二)年05月22日(金)の時点で都の宿泊事業は
2020(令和二)年06月07日(日)まで延長され、
2020(令和二)年06月01日(月)には
2020(令和二)年06月14日(日)まで延長されている。他のすべての区では問題なくネットカフェ生活者らがホテル滞在を続けられるのに、なぜ新宿区だけが都の意向を押し切ってまで追い出したのか。数が多いから面倒だったのか、と勘ぐってしまうのは私だけではないだろう。結局、1日に追い出されてSOSをくれた人は、この週末は炊き出しに行ってなんとか食いつないでいたという。新宿区は、炊き出しに並ばないと食べるのにも事欠くような人々を放り出していたのだ。しかもこの日、課長、部長に質問して判明したのは、ホテルから追い出す際に所持金の確認もしていないこと。ホテルに入る時に所持金はいくらと書かせているらしいのだが、以降、ホテル滞在中も出る時も確認していないのだ。コロナで仕事がないのだから、所持金は減るばかりに決まっている。ちなみに他の区では、職員が一人ひとりの部屋を訪ねて生活保護制度はじめ、いろいろな説明をしているところもあるという。携帯電話が止まっている人も多いため、そのようなきめ細かな対応がとられている区もあるのだが、新宿区では、そういう対応はおろか、ホテルにいる間、電話すらしていなかったという。早い人では
2020(令和二)年04月11日(土)頃から入っているのに、だ。一ヶ月半以上、一体何をしていたのだろう。
2020(令和二)年06月01日(月)、ホテル追い出しが発覚してから、メディアでもこの問題が取り上げられるようになった。それを受けて慌てたのだろう。部長と課長は、追い出した87人のうち、電話番号がわかっている54人に今日から電話をかけ始めたと明かした。「一週間経ちましたので、どうしてますか? と電話をしています」と部長。いやいや、「どうしてますか」とか呑気なかけ声よりも、本来いられるはずのホテルから追い出してしまったことを謝罪し、必要であればすぐにホテルの再利用につなぐことが先ではないのだろうか。そしてそれは1週間経ってからでなく、彼ら彼女らが追い出された6月1日から始めるべきだったのだ。この一週間で携帯が止まった人もいるだろう。その上、そもそも携帯が止まっていたのだろう33人にはメールしたのだろうか。中にはメールアドレスすらない高齢の人などもいただろう。だから放り出してはダメなのだ。これでは面倒だから追い出したと言われても仕方ない。申し入れでは、区長の公式見解を明らかにすること、利用者に謝罪し、再発防止の検証をすること、また連絡先がわかる利用者に早急に連絡し、ホテル利用を希望される場合は責任をもって対応することなどを求めた。と、そんな8日前日の
2020(令和二)年06月07日(日)も怒涛だった。前回の原稿(「昨日から私も犬も食べてません」。ペットとともに住まいを失った女性。)で書いた犬が体調を崩し、休診日の夜間、動物病院に駆け込んだのだ。犬は3日頃から体調を崩しており、4日には私も一緒に動物病院に行っていた。しかし、注射をし、薬を飲んでもなかなか良くならない。その一方で、木曜夜からはうちの猫のぱぴちゃんも体調を崩し(頭がまったく上がらなくなり、動きも体つきもすべて変になる)、私も動物病院通いが始まった。ぱぴちゃんは脳に異常があるかもと言われて土曜日にMRIまで撮ったのだが、結局低カリウム血症とわかり、治療をするとみるみる良くなった。が、Aさんの犬の方はなかなか良くならない。ということで日曜夜、休診日だというのに獣医さんのご好意で診てもらい、さまざまな検査を経て、やっと病名が判明したのだ。これからも継続的な治療が必要となる。ということで、最近の私は、自分の職業がなんなのかよくわからない状態だ。もともとよくわからないが、最近はさらにわからなくなっている。が、私などまだまだ楽な方だ。今日も支援者たちは、「あと200円しかない」「もう食べものがない」というような待った無しのSOS対応に奔走している。まったくのボランティアでだ。だからこそ、役所の人たちには頑張ってもらいたいと思うのだ。「ボランティアでやれ」と言っているわけではないのだから。自分が手を放してしまったらこの人は命を失ってしまうのではないか。そんな想像力をすべての人が持てば、救われる人は大勢いる。ということで、最近、「このキャパ超え状態、いつまで続くんだろ」と考えるとふと怖くなる……。 ※ 新宿区に申し入れをした翌日、新宿区長は謝罪コメントを発表。それだけでなく、宿泊費相当の支給を行うことを発表した。申し入れをした甲斐があったというものである。どうか追い出された人たちにこの情報が届きますように。
2020(令和二)年06月10日(水)「雨宮処凛がゆく!」掲載記事『第524回:千代田区の缶詰、新宿区の嘘、そしてワンコの病気――「弱者」を見捨てさせないために。の巻』より転載。)
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/生活保護申請が23区で4割増えるなか、窓口で渡されたサンマ缶ときんぴらごぼう缶。そして新宿区でのホテルから放り出された172人/ar-BB15jBfa?ocid=spartandhp
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┃ Chrysler Building ┃
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1928(昭和三)年09月18日(tue) 起工 Groundbreaking
1928(昭和三)年09月19日(wed) 着工 Start of construction
‡1930(昭和五)年05月27日(tue) 完成 Completed
************* https://www.uta-net.com/song/185025
https://ja.wikipedia.org/wiki/クライスラー・ビルディング
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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2016(平成28)年05月27日(金) オバマ米大統領が現職の大統領として初めて被爆地の広島を訪問 ⇒ 米国のバラク・オバマ大統領が現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪問。平和記念公園で被爆者らを前に「歴史を直視し、このような苦痛を再び起こさないために何をしなければならないのかをただす責務がある」と演説した。オバマ氏は被爆者を抱き寄せ、言葉を交わした【時事通信社】
1987(昭和62)年05月27日(水) 小錦関が外国人力士で初めて大関に
1992(平成四)年05月27日(水) 漫画家の長谷川町子さん死去
https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=井田新輔
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‡2015(平成27)年05月27日(水) DeNA・山崎康晃が新人最多月間10セーブ
‡2017(平成29)年05月27日(土) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は5月27日だ。
写真◆2015年5月28日、10セーブ目を挙げた山崎
2017年5月20日、新外国人・パットンに抑えの座を渡し、中継ぎに回っていたDeNAの山崎康晃が久しぶりのセーブを挙げた。「ハマの小さな大魔神」の異名を取り、前年まで、ずっと抑えの座を守ってきただけに悔しさもあったはずだ。それでもくさることなく、15試合連続無失点を続け、その座を実力でもぎ取った。
15年、山崎は亜大からドラフト1位で入団。その新人イヤーの開幕1週間前に急きょ、中畑清監督(当時)から抑えに指名されたという。
「最初は先発でと言われたんですが、キャンプで結果が出ず、抑えの話や1年間はファームで先発という話もあった。それが開幕1週間前、セ・リーグ6球団の監督とドラフト1位入団の選手が集まったファンミーティングの席で、『どうだ、抑えをやるか』と聞かれたんです。その場のノリもあって『やります!』って答えたんですけど、そうしたら本当に(笑)」
中畑監督の期待に応え、素晴らしい活躍を続け、5月28日のオリックス戦(横浜)で新人最多月間10セーブ目をマークした。なお、5月は15試合に投げ、防御率0.64。首位を走っていたDeNAを支えた。最終的には歴代新人最多の37セーブで新人王にも輝いている。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2003(平成15)年05月27日(火) ダイエー・和田毅が開幕2カ月で5球団から勝ち星
‡2018(平成30)年05月27日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は5月27日だ。
写真◆奪三振も189回に対し195と多かった
早大のエースとして、東京六大学リーグの奪三振記録を塗り替えた松坂世代の左腕・和田毅。2003年自由獲得枠でダイエーホークスに入団すると、開幕から先発ローテーションに入り、順調なスタートを切った。
5月27日の近鉄戦(大阪ドーム)は03年、9試合目の登板だが、すでに4球団から勝ち星を挙げ、あとは近鉄だけとなっていた。ここまで5勝2敗、その2敗が近鉄だった。
それでもこの日は、「3度目の正直と低めでゴロを打たせることを心がけました」(和田)と、強打の“いてまえ打線”を起こさぬよう、慎重に、慎重に投げた。
4回裏には中村紀洋に2ランを浴びたが、「いつも紙一重のところに投げているから」と平常心でその後も投げ切り、7回を2失点。味方打線が6点を援護し、和田は6勝目。これで5球団からの勝利となった。
同年は14勝5敗で新人王。阪神との日本シリーズでは第7戦に完投勝利をし、胴上げ投手にもなっている。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2006(平成18)年05月27日(土) 清原和博が「プロ21年間で一番うれしい本塁打」
‡2019(令和元)年05月27日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2006年5月27日だ。
写真◆劇的な一発にお立ち台で派手にガッツポーズ
この日の横浜戦(スカイマーク)、3対6とオリックス3点ビハインドで迎えた9回裏一死満塁で打席に入ったのは清原和博だった。カウント1ボール1ストライクからの3球目。クルーンが投じた152キロのストレートをフルスイング。打球は右翼席へ消える逆転サヨナラ満塁弾となった。
「エーッ、152キロ? まぐれで奇跡や」とおどけた清原。中村勝広監督に思いきり抱き着き、「プロ21年間で一番うれしいホームラン。もう1年分、仕事をした気分」と喜びを露わにした。
サヨナラ満塁弾はプロ野球史上69本目、パ・リーグでは32本目。清原は巨人時代の01年7月14日の広島戦でもサヨナラ満塁弾を放っており、自身2本目。サヨナラ満塁弾を一人で2本打ったのは青田昇(阪急、洋松=1947、54年)、広野功(中日、巨人=66、71年)、立浪和義(中日=02、06年)に続き4人目になる。
清原のサヨナラ安打はこれが19本目、サヨナラ本塁打は11本目で、両方とも野村克也(南海ほか)のプロ野球記録に肩を並べた。また、3点差を一気にひっくり返した逆転サヨナラ満塁本塁打は史上13本目だった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170527-01
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180527-13
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190527-10
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.059 ┃ 30円
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‡1959(昭和34)年05月27日(水)号 特集 長嶋と森の闘魂
2017(平成29)年12月25日(月) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『選手の秘密』で話題になっていた広島の真っ赤なジャンパー制作秘話
写真◆表紙は右が阪神・村山実。左が巨人・王貞治
今回は『1959年5月27日号』。創刊59号で定価30円だ。カラーグラビアは『鉄腕稲尾の余裕』。スタンドの学生服の子どもたちと談笑する西鉄の稲尾和久だ。
後ろグラビアでは5月3日、中日球場、駒沢球場でのファン乱入の写真。中日球場の中日─巨人戦はジャッジをめぐり紛糾し、試合は日没コールドに。中日ファンがグラウンドに次々物を投げ込み、乱入する騒ぎとなった。
駒沢球場の東映─近鉄戦では、東映の岩本義行監督が審判に抗議している際、サングラスの客が乱入。ふだんは乱闘の主役となることが多い東映の山本八郎が後ろから羽交い絞めにし、押さえつけた。山本は連載『体当り野球人生論』にも登場。三塁転向の苦労話などを語っている。
本文巻頭は『特集 長嶋と森の闘魂~球界のライバル決定版』。プロ2年目で四番を打つ人気者2人、巨人・長嶋茂雄、中日・森徹の比較論。独身だった森は夜、母親と電話で話すのが日課だった。豪快な母親で、森の不振時には、長嶋の活躍を報じた新聞を森の枕元に置いて鼓舞したり、森が風邪で欠場した際、訪問客がたまたま長嶋の活躍について話すと「徹だって体さえよければ打てます!」と言い放ったりした。女手一つで森を育て、戦中は料亭を経営し、力道山の面倒を見たという話もある。
『選手の秘密』では、このシーズン、話題になっていた広島の真っ赤なジャンパー制作秘話があった。実は白石監督が春季キャンプで赤と青と白のサンプルを見せ、選手から「緋鯉(赤い鯉)だから赤がいい」という意見が多く出て選んだという。
広島ネタでは『12球団週間報告』に、おそらく球界における『ゴジラ』『ゴジ』の異名の元祖・藤井弘の記事があった。好調を維持していたようだが、その要因がどうやら賞品にあるらしいという話。それがパンティ・デザイナー、鴨居羊子さんの「七色のパンティ」だった。この春、両親のために家を新築した家族思いの藤井は、どうせならパンティ7色すべてをそろえ、妹さんにプレゼントしようと思ってた、と美談っぽく書いていたが、それはどうなのか……。
『野球殿堂に飾られる人々』では第1回の野球殿堂入り9人が紹介されている。野球体育記念博物館も完成間近らしい。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.269 ┃ 40円
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‡1963(昭和38)年5月27日(月)号 重大問題化した阪神・村山の右手
2018(平成30)年7月27日(金) 10:20 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎国鉄が新球場建設?
写真◆表紙は国鉄・金田正一
今回は『1963年5月27日号』。定価は40円だ。
入院中の阪神・村山実が無期休養を発表。さらに名前を「実」から「昌史」に改名した。いわゆるゲン担ぎだが、家族全員改名したというからすごい。
右手指が冷たくなる血行障害に加え、内臓も痛めていたようだが、入院で内臓は完全治癒。ただ、指が冷たくなる血行障害のほうはまったく症状が改善しなかったらしい。
5月3日には国鉄スワローズが新球場を建設するとの発表があった。これは神宮第二球場を大増築するというもの。
分かりづらいかもしれないが、当時、国鉄は後楽園を本拠地にし、神宮は東映が使用していた(本拠地まではいかない)。
国鉄の事実上のオーナー、サンケイ社長・水野成夫の発言だった。300勝を達成した金田正一投手にために「デラックスな球場にしたい」と鼻息は荒い。
西本幸雄監督率いる阪急は打線の不振もあって開幕から最下位にどっしり。そしてついに5月12日の東映戦で奇手に出る。
左腕エース、梶本隆夫の「二刀流」での起用だ。
梶本は打撃もよく前年は打率.261をマークしていた。
ダブルヘッダーだったが、まず第1戦は「三番投手」で完投負けのノーヒット。そのまま第2戦では「三番一塁手」となった。
根がまじめな梶本は「それだけ監督が買ってくださるわけだから一生懸命やるだけです」と語っている。
ただ、2戦目にはタイムリーヒットもあったが、エラーもあり、一塁手起用はこの1試合だけだったようだ。
前日は猛暑のため休載しました。みなさんもお体にお気を付けください。
では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.524 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1968(昭和43)年05月27日(月)号 怒りん坊藤本定義監督と江夏豊
2019(令和元)年08月09日(金) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎白仁天の風呂事件
写真◆表紙は巨人・堀内恒夫
今回は『1968年5月27日号』。定価は60円。
阪神・藤本定義監督は、かなり偏屈で、しかもすぐ怒る人だったらしい。
試合後、知らない記者が質問しても満足に答えず、東京の記者をシャットアウトし、関西の阪神担当記者だけで囲み取材をしようとしたこともある。
要は、「知らん人間は、なにを書きよるか分からん。白を黒と書かれたらたまらんからな。知っている記者にだけしゃべるのが一番いい」という理屈だ。
その毒舌は他球団の監督にもおよび、かつては大洋監督時代の三原脩を「教え子」と言って怒らせたこともある(実際、巨人で監督、選手だった時期はあるが)。
三原監督は言う。
「私は、あのじいさんから何も教わっていませんよ。一度私の野球を“大正時代に流行した”と言っていましたが、一体に何を考えているんですかね。野球のルールは昔も今も同じなんです」
解説者にも「あいつらロクに練習も見ず、勝手なことばかり書きよる」と敵視。コーチに対しても試合中、気の毒になるくらい怒りまくった。
ただ、選手対しては、ほとんど怒ることはなく、むしろ大甘だったという。
特にかわいがっていたのが、5月9日時点で5勝を挙げていた2年目の左腕・江夏豊。その快速球で「セのナンバー1投手」と評判だった。
この年、キャンプでは投げ過ぎでヒジ痛になったが、それをコーチも言わず、時にはヒジに痛み止めで打ってもらったハリをつけたまま投球練習をしたという。
あとでばれて首脳陣から怒られたが、同時に「なんと根性のある男なんだ」と林コーチも感心していた。
とにかく強気。4月20日、後楽園で巨人相手に完封勝ちをした試合では、走者を置いて王貞治を迎え、4打席を凡退、うち3三振。試合後、「敬遠は考えなかったのか」と聞かれ、
「どんな場面で王さんを迎えても絶対に敬遠などする気持ちはありません。第一、お金を払って見に来てくれているお客さんに悪いですよ。真っ向勝負を見に来てくれているんですから」
中日戦で一度だけ敬遠があったが、このときも最初は「拒否」。試合後には「ベンチの指示だから仕方がない。恥ずかしいです」と悔しがった。
巨人・堀内恒夫をライバルという声もあったが、本人は対抗心はなかったようだ。むしろ、
「僕は球界を代表するONと対決できるチャンスを与えられている。投手としてこれ以上幸福なことはないですよ。その点、堀内さんはONと対戦しようにもできませんからね」
と同情(?)していた。
怒りん坊の藤本監督も江夏の話になると目を細める。
「ワシは監督をやりはじめて30年になる。その間、もっとも神経を使ったのが昨年の江夏だった。なんとか一本立ちさせようと、どれほど気を使ったことか。おかげでワシのリュウマチも悪くなったわい。ところが今年はどうだ。気を遣うどころか安心しきってマウンドを任しておくことができる」
ふたたび三原近鉄の新人・永淵洋三の記事があった。左腕のリリーフ投手として防御率0.90、外野手、代打でも活躍し、打撃成績は16打数5安打、うち代打成績は7打数3安打だ。
この人は本も出ているので知っている方も多いと思うが、なかなかユニークな人物だ。
東芝では厚生課に勤務し、午前中が仕事、午後が野球。九州男児の永淵は日々の疲れを酒で癒した。しかし高卒の入社7年目で手取り2万5000円の給料とあって、飲み屋のつけがたまる一方。「サラリーマンとしては、ちょっとどうしようもできないほど借金たまってしまいました」
と言う。さらに、
「借金がなければ、プロへ入らなかったかもしれないですね」
少し長くなるが、東映・大下弘監督の話も少し触れておく。
5月1日の東京戦。9回裏一死、3対2と東映がリードしていたところで、東京のアルトマンのセンターフライを萩原千秋がポロリで一死二塁となった。
ここで大下監督をエラーした萩原を白仁天に代えようとタイムをかけたが、その白がどこにもいない。探すと、もう自分の出番はないと思ったようで、風呂に入っていた。
ここで投手も完投目前だった森安敏明を交代させたが、森安はロッカーでボロボロ泣きながら大暴れ。記者たちにも「投げたかった。なんで代えたんだ」と訴えた。
首脳陣批判でもあり、記者たちは大下監督にも質問したが、
「なんとか取り繕ってくれ。俺はよう言わんから」
と記事にしないよう頼んだという。
さらに白の処分を聞かれ、
「うちはノーサイン、ノー罰金、ノー門限だから何もしないよ」
お先真っ暗か。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.155 ┃ ONLINE
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ワンバウンドでもかまわず打った初代三冠王の中島治康
‡2018(平成30)年5月27日(日) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
「打てるところがストライク」
巨人・中島治康
初代三冠王に輝く、戦前を代表する打者、巨人・中島治康。1938年秋(40試合)が三冠王シーズンで、3部門の数字は打率.361、10本塁打、38打点。本塁打は、5本で2位のハリス(イーグルス)らの倍である。
実は、10月11日から11月5日までの11試合で、ほぼ決まったと言っていい。この間、打率.585、8本塁打、20打点とすさまじい勢いで打ちまくっている。
中島のバッティングは「打てるところがストライク」と言われたように、悪球打ちで知られた。ワンバウンドの球をヒットにしたり(ホームランという伝説もあるが、それは本人が否定していた)、内角の顔くらいの高さの球をホームランにしたりと、パワーに加え、バットコントロールの器用さも光った。
実はライト守備の名手でもあり、一塁で刺すライトゴロもよくあった。これは肩の強さというより、打者のクセ、投球の配球を読みながら、1球1球、ポジショニングを変えていたからである。
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②┃ プロ野球仰天伝説 No.086 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
【助っ人トンデモ話 No.37】
ハンマーを使って不振から脱出したメジャー2000安打の超A級打者【助っ人トンデモ話】
2018(平成30)年3月19日(月) 11:05?長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
トニー・フェルナンデス[2000西武/内野手]
西武・フェルナンデス
周囲の目には“奇行”と見えても、トニー・フェルナンデスには、それがメジャー時代から続く当たり前の姿だった。
2000(平成12)年、西武に入団。メジャー16年で2082試合、2240安打(打率.288)、92本塁打をたたき出した超A級助っ人は来日直後の2月の高知キャンプでは腰に巻いたゴムチューブの端を通訳に持たせてランニング。さらにはトンネルの練習まで繰り広げて東尾修監督、ナインを驚かせたが、その独特の調整法はシーズンに入っても変わらない。
5月、安打製造機のバットからピタリと快音が消え、33打席無安打のスランプに陥ったが、こんな“不振脱出法”があったのかと周囲を驚かせた。復活への武器にしたのが1本のハンマーだった。
‡5月27日(土)のロッテ戦。試合前に秋田・八橋球場で作業用のハンマーで素振りを繰り返すと、これが大当たり。2ランを含む2安打、4打点。関係者に頼み込み、譲り受けた“フェルハンマー”は、F砲の打棒を支えた。
試合前の練習中には、必ずベンチ裏の暗い部屋で瞑想。ほかの選手たちがベンチ裏を通るときは、フェルナンデスに気を使って、そっと静かに通り抜けて行った。
8月の福岡ドーム(現ヤフオクドーム)でウエート室常備のマウンテンバイクを拝借して乗り回し、「ドーム内の通路は運転禁止なんですけどね(笑)」と球場職員をあ然とさせたこともあった。
敬虔なプロテスタントで、来日も「神様の導きがあったからだ」。愛読書は聖書。もちろん禁酒、禁煙。
「アメリカも日本も気持ちは同じ。いつも神様が見守っていてくれる。神を信じることだ。全力で取り組まないと神を裏切ることになるじゃないか」
結局、00年は103試合に出場し、121安打、11本塁打、74打点、打率.327。メジャーの実力も本物だった。
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③┃ プロ野球仰天伝説 No.073 ┃ ONLINE
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【助っ人トンデモ話 No.24】
ヘッドギアをつけながら打ちまくった“赤鬼”【助っ人トンデモ話】
2018(平成30)年3月6日(火) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
マニエル[1976-78ヤクルト→79-80近鉄→81ヤクルト/外野手]
近鉄・チャーリー・マニエル
もはや止めようがなかった。
1979(昭和54)年6月08日(金)時点、まだ51試合しか出場していない段階ながら(130試合制)24本塁打、60打点。長打だけではない。打率は.371、直前の
1979(昭和54)年6月07日(木)まで24試合連続安打。
†1979(昭和54)年5月23日(水)から27日(日)、
1979(昭和54)年6月03日(日)から07日(木)と
2度の5試合連続本塁打もあった。まさに、バッティングに関する、すべての日本記録を塗り替えんばかりの勢いで打ちまくっていた。
勢いが止まったのが、
1979(昭和54)年6月09日(土)だった。日生球場でのロッテ戦で、投手・八木沢荘六の球がまともに右アゴに激突。マニエルはアゴから血をしたたらせながらマウンドに向かおうとしたが、西本幸雄監督らが必死に抑えた。すぐ入院。アゴの骨はグチャグチャに砕け、「シーズン絶望か」と言われた。
それまで「近鉄特急」と言われ、首位を快走していたチームは、この死球を境に一気に勢いを失い「鈍行」に。それでも「マニエルおじさんの遺産を食いつぶしながら」(西本監督)なんとか前期優勝。プレーオフでは後期優勝の阪急を破り、歓喜の球団初Vを飾った。
マニエルも1979(昭和54)年8月4日(土)にはアゴをガードするヘッドギアをつけ、復帰。ふたたび打ちまくって最終的には97試合の出場ながら37本塁打でホームラン王、打点94、打率も.324をマークし、MVPとなっている。
メジャー出場はあるが、ほぼ控えだったマニエルは、大きな期待をされることもなく、76年ヤクルトに入団。2年目に42本塁打、97打点、打率.316、3年目、78年のVイヤーにも38本塁打、103打点をマークしたが、広岡達朗監督は「走れない、守れない選手はいらない」と近鉄に放出した。西本、広岡両監督が電話で決めてしまったというが、パにはDHがあるから守る必要もなく、打撃のみに集中できるのは大きなプラスだった。
さらにマニエルにとって幸運だったのが西本監督との出会いだ。リラックスしたマニエルの構えとタイミングの取り方は西本監督の打撃理論とピタリと合った。性格的にも、いつも気難しい顔をしているが、意外と冗談好きな西本監督と気が合い、向こうは日本語、マニエルは英語なのだが、通訳も介さず、30分でも1時間でも話し続け、互いに腹を抱えてゲラゲラ笑っている姿がよく見られた。
マニエルは翌年も48本塁打、129打点で打撃2冠、打率も.325を残したが、契約でもめ退団。1年だけ古巣ヤクルトでプレーし、同年限りでアメリカに戻った。
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④┃ プロ野球仰天伝説 No.055 ┃ ONLINE
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【助っ人トンデモ話 No.06】
毎日焼き鳥を食べ野菜は食べず不摂生で死去した孤独な助っ人【助っ人トンデモ話】
2018(平成30)年2月16日(金) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ジャクソン[1966―68サンケイ/外野手]
サンケイ・L.ジャクソン
日本の球団に在籍中に死去した唯一の助っ人だ。
1966(昭和41)年、サンケイに入団したジャクソンは、2年目の
1967(昭和42)年には打率.296、28本塁打を残しているが、ふだんがだらしなかった。大の酒好きで、特にビール、食べ物は焼き鳥が大好物。まあ、それは別に問題ないのだが、要は極端な偏食で、ほとんど肉しか食べない。野菜が大嫌いで、パンもごはんも嫌い。焼き肉やステーキばかり食べていた。
また、遊び好きのプレーボーイで女性関係も派手。地方に行くと、いつもストリップ劇場に入り浸っていたらしい。これは、夫人とうまくいっていなかったストレスもあったのではないかという。
1969(昭和44)年に胃痛を訴え、入院。末期のすい臓がんだった。
†1969(昭和44)年5月27日(火)死去。
1969(昭和44)年5月28日(水)には球団葬が行われたが、夫人の姿はなかった。
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②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180319-11
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180306-10
④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180216-11
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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