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┃ 『HELP! ヘルプ! 4人はアイドル』 ┃|1965(昭和40)年 7月29日(木)|
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛|1965(昭和40)年11月13日(土)|
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映像◆Help.avi. http://video.fc2.com/content/20090131krbc3Fb4/
映像◆激レア!【HELP! 四人はアイドル】日本語吹き替え版http://video.fc2.com/content/20151106SSmUrqSk
‡1978(昭和53)年2月25日(土) 14:30-16:00 映画「4人はアイドル」日本語吹き替え版 TBS ジョンの広川太一郎さんとナレーターの土居まさるさんがなんとも絶妙!
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Vocal/6398/tvdata.htm
●日本語吹き替え版 「ヘルプ:4人はアイドル」 紹介
何しろ、30年以上も前のことなのでだいぶ忘れてしまいました。また記憶違いのところもかなりあります。知っている情報がありましたら、ご連絡下さい
○日本での放映について
1972年頃、TBS系列にて土曜日午後1:00から放映(推定)
1978・2・25(土曜日)14:30から16:00 TBS系列から放映
○吹き替えについて(声優)について
ジョン ・・・・・広川太一郎
ポール ・・・・・井上真樹夫
ジョージ ・・・・・堀勝之祐
リンゴ ・・・・・鈴木やすし
クラング ・・・・・滝口順平
ナレーター(案内役)・・・・土居まさる
ポールの声は「ヤァヤァヤァ」では高橋元太郎さん(うっかり八部衛)が担当していました。ジョンとリンゴは「四人はアイドル」と同じ(広川さんと鈴木さん)です。広川太一郎さんとビートルズの関係はその後も「武道館公演1966」の再放送(NTV)でのナレーターなどでも見ることができます。またはジョージが関係したモンティパイソン(日本語放映版)の吹き替えも担当していたりと縁が深いようです。
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Vocal/6398/japanese.htm
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┃ 『LET IT BE』 ┃ALBUM of THE BEATLES
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1970(昭和45)年05月08日(fri) UK released
1970(昭和45)年05月18日(mon) US released
1970(昭和45)年06月05日(fri) JP released
1970(昭和45)年11月06日(fri) UK released 2nd Press
‡1971(昭和46)年02月25日(thu) JP released 2nd Press AP-80189変更 (第43回)アカデミー賞受賞レコード
1987(昭和62)年07月XX日(???) US released MFSL 1-109 モービル・フィディリティ盤
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https://en.wikipedia.org/wiki/Let_It_Be
http://parlophone.fc2web.com/LIB.html
英http://www.geocities.jp/mr_tako_seijin/page_lp/let_it_be.html
米http://www.geocities.jp/mr_tako_seijin/page_lp/US_LP/LET_IT_BE_US.html
英http://yokono.co.uk/collection/beatles/uk/lp/uk_lp_stereo_a.html##13-1
米http://yokono.co.uk/collection/beatles/usa/lp/usa_lp_capitol_st4.html##18-1
日http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/lp/lp_us_edition.html##9-1
Ohttps://music.amazon.co.jp/albums/B019GHDHV6
⑨https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT25JM9
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Vol.12 再発盤の「ジャケット直し」
‡Feb-25,2001記
Beatlesに限った話ではないのですが、日本盤の場合はレーベルの変更や販売価格の改定などがあった場合、レコード番号や記号を変えて「再発」することが良くあります。
東芝音工→東芝EMIの場合、1968~1969年のOdeon→Appleレーベルへの移行の時と、1976~1977年の来日10周年・結成15周年記念キャンペーンの際に、Beatlesの大半のアルバム・シングルの記号・番号を変えて「再発」しています。
この2度の再発の際、ジャケットにも手直しが加えられているのですが、その手法は大きく異なっていたようです。
今回はひとまずアルバムを例にとり、説明することとしましょう。
PART1 Odeon→Appleレーベルへの移行時
この時には、写真やイラストの原盤を活かし、文字部分を再度写植(?)に取って貼り直したようです。
写真部分に文字が掛っている“BEATLES FOR SALE”“RUBBER SOUL”“PLEASE PLEASE ME(ステレオ!これがビートルズVol.1)”等の例を見ても、文字はきれいに貼り変えられており、“Odeon”等の文字の痕跡は見当たりません。
イラストに字が乗っていた“REVOLVER”や“A COLLECTION OF BEATLES’OLDIES”の場合も、やはり痕跡は見当たりません。ただ、“A COLLECTION OF BEATLES’OLDIES”の表面右下をよく見るとParlophoneレーベルのマークを消した跡が判るのですが、これは日本盤ジャケットの制作に使用したUK盤ジャケットの原版がマーク入りのまま送付されて来て、日本で修正したからではないか?…と考えられます。
Appleレーベルでの発売開始後、各アルバムは再プレスによる出荷時に順次、レーベルの変更を実施していったようです。したがってこの時には比較的、ジャケットの製版等をやり直す時間的余裕があり、結果的にきちんと修正が行われたのではないでしょうか。
PART2 来日10周年記念キャンペーンの再発時
この時には、文字が乗ったままの既存のジャケットから修正部分だけを削り、新しい文字を貼り直したジャケットがあります。
僕が見たところ、この手法を採ったと考えられるのは“REVOLVER”“A COLLECTION OF BEATLES’OLDIES”“HEY JUDE”の3枚。いずれも再発盤のレコード番号の部分をよく見ると、旧ナンバー(AP-○○○○)と“←STEREO→”のマークを削り取った痕跡がはっきり残っていて、その上から新ナンバー(STEREO EAS-○○○○○)が貼られています。
理由は恐らく、写真やイラストのみの原板が処分されていたか、あるいは変更部分が軽微だったため煩雑な製版作業を省略したか…のいずれかではないかと思われます。また、キャンペーンに併せて各タイトルの再発盤の発売日が設定されていたため、時間的余裕もなかったのかも知れません。
ただ、そんな訳でEASナンバーの再発盤はあまりジャケットの見栄えが良いとは言い難く、僕も“REVOLVER”と“A COLLECTION OF BEATLES’OLDIES”についてはAPナンバーのアルバムを所有しています(単に購入当時は金がなく、中古盤で探していた…という一面もありますが…^^;)。
シングル盤の場合はさらに複雑怪奇(?!)な経過があるようです。現段階ではちょっと勉強不足ですので、また改めて紹介することとしましょう。
参考文献…「ザ・ビートルズ 日本盤ディスコグラフィ」(三井 徹監修 ピーター・インガム著 1986・シンコーミュージック)
http://moving.la.coocan.jp/yabunirami12.htm
■1964(昭和39)年04月04日(土)、前人未到の記録が生まれました~ビルボードのチャートを独占!
1964(昭和39)年04月04日(土) 半世紀前、"Billboard Hot 100"に措いてビートルズは、前人未踏の1位から5位を独占という快挙を成し遂げました。この快挙は、当時のビートルズ人気の凄まじさを語る時に必ず話される有名な出来事です。この5曲以外にも7曲が100位以内にチャートインしています・・・
1964(昭和39)年04月04日(土)付 Billboard Hot 100
01.♪Can't Buy Me Love♪
02.♪Twist & Shout♪
03.♪She Loves You♪
04.♪I Want To Hold Your Hand♪
05.♪Please Please Me♪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
31.♪I Saw Her Standing There♪
41.♪From Me To You♪
46.♪Do You Want To Know A Secret♪
58.♪All My Loving♪
65.♪You Can't Do That♪
68.♪Roll Over Beethoven♪
79.♪Thank You Girl♪ しかし、いくらビートルズ人気が爆発という状況だったとはいえ、このチャートは異常です!何故、このような奇跡的なことが起き得たのでしょうか? この奇跡が起きた理由は?ビートルズはアメリカ進出を試みるも、大手レコード会社(Capitol)から相手にされず、初めの内は小さなレーベル(Vee Jay など)からやむ得ずリリース。弱小レーベルの為、全く宣伝もされず、英国でヒットした曲たちは話題にもなりませんでした。それは、リリースされたという実績だけを積み重ね、“埋没されるという状況”を生みつつありました。そんな中、「抱きしめたい」の突然のブレイクで、以前にリリースされていた曲が一挙に引きずられようにヒット・チャートを駆け上ったわけです。しかも、『チャンス到来!』とばかりに、可能な限り、シングル盤をリリースした結果が、このような奇跡を生み出しんですね!
‡1963(昭和38)年02月25日(mon) Vee Jay♪Please Please Me♪ / ♪Ask Me Why♪
1963(昭和38)年05月27日(mon) Vee Jay♪From Me To You♪ / ♪Thank You Girl♪
1963(昭和38)年09月16日(mon) Swan♪She Loves You♪ / ♪I'll Get You♪
1963(昭和38)年12月09日(mon) Capitol♪Roll Over Beethoven♪ / ♪Please Mr. Postman♪
1963(昭和38)年12月26日(thu) Capitol♪I Want To Hold Your Hand♪ / ♪I Saw Her Standing There♪
1964(昭和39)年01月30日(thu) Vee Jay♪Please Please Me♪ / ♪From Me To You♪
1964(昭和39)年01月30日(thu) Vee Jay♪Ask Me Why♪ / ♪Anna♪
1964(昭和39)年02月04日(tue) Swan♪Komm, gib mir deine Hand♪(ドイツ語) / ♪Sie liebt dich♪(ドイツ語)
1964(昭和39)年02月17日(mon) Capitol♪All My Loving♪ / ♪This Boy♪
1964(昭和39)年03月02日(mon) Tollie♪Twist & Shout♪ / ♪There's A Place♪
1964(昭和39)年03月16日(mon) Capitol♪Can't Buy Me Love♪ / ♪You Can't Do That♪
1964(昭和39)年03月23日(mon) Vee Jay♪Do You Want To Know A Secret♪ / ♪Thank You Girl♪
こういった快挙はもう生まれない!現在のようなネット社会では、他国で流行ってる音楽などリアルタイムで耳にする事が出来ます。このようにヒット曲が知られることなく“溜め置かれる”ことなど考えにくい為、二度とこのような状況は生まれないでしょう!
http://magicaldoor2009.blog63.fc2.com/blog-entry-650.html
The Beatles Story 1963 前半 02/11~
《 ビートルズイギリス公式盤ファースト・。オリジナル・アルバム『Please Please Me』リリース 》
<アルバム『Please Please Me』のレコーディング>ビートルズイギリス公式盤オリジナル・デビューアルバム『Please Please Me』は、3枚目シングル「From Me To You / Thank You Girl」が発売される3週間前の
1963(昭和38)年03月22日(金)にリリースされます。このアルバムのレコーディングは、
1963(昭和38)年02月11日(月)に行われ、音楽録音史上、これほど実りの多い「585分」は他には無く、ビートルズはファーストLP用の新曲10曲をたったこれだけの時間内に録音したのです。ジョージ・マーティンは語ります
「シングル盤“Please Please Me”が成功したからには、商業的見地から、なるべく早くLPを出さなければならなかった。すぐにレコーディング出来る曲がどのくらいあるか、彼らに訪ねたんだ。答えはステージ用のレパートリーだったよ。」
(レコーディング・シート - E.M.I. Studio 2, 10.00 am - 1.00 pm)
< There's A Place - take 1~10 I Saw Her Standing There - take 1~9 > ジョージ・マーティンが彼らから受け取った言葉
「今の僕たちのレパートリーはステージ用の曲だけだ。」・・・。1963年2月の時点で、ビートルズのステージ用の演奏は非常に磨き抜かれたもので、それは今では考えられないようなライヴ・ギアを1960年半ばから休みなく毎日こなしてきたからで、彼らの自信の裏付けともとれる答えと云えます。とは云え、ビートルズに与えられたこの日のレコーディング時間は、10時~13時までと14時30分~17時30分の2回のみで、記録に残っている3回目の19時30分~22時30分のセッションは後で付けたされてものに過ぎません。ジョージ・マーティンは語ります
「彼らの声が出なくなるのを恐れ、10時間以内に10曲を取り終えようと考えた。」。これは危険な綱渡りで、観測史上もっとも寒い部類に入る冬の間中、国内のあちらこちらで巡業してきたグループである「ビートルズ」は、当日レコーディングが始まる前からすでに肉体的にコンディションも悪く、ジョンに至ってはひどい風邪をひいている始末で、現存するセッション・テープでもテイクの合間の雑談でジョンがそのことに触れていることが確認できます。ノーマン・スミスは語ります
「菓子屋にあるような大きなガラス瓶に詰めたザブスと云うのど飴がピアノの上に置いてあったよ。そのくせ、その隣にはピーター・スタイヴサントと云う煙草の大きなカートがあって、風邪をひいているジョンも含め彼らはそれを引っ切り無しに吸っていたんだ。」。
1963(昭和38)年02月11日(月)、E.M.I.第2スタジオで10時~13時のセッションで録音されたのは”There’s A Place”と”Seventeen”の2曲、どちらもLennon=McCartneyの作品で、”Seventeen”はLPのトップを飾るノリのいいナンバーである”I Saw Standing There”の仮タイトルです。正規盤で聴くことのできる”I Saw Standing There”は、第1テイクの冒頭に、第9テイクのカウント部分を編集したものですが、95年発表の”Free As Bird”ではその第9テイクのサイズを聴くことができます。「Seventeen」のレコーディングは第9テイクまで一旦録音され、その9テイクの内、完全に演奏されたのは3テイクで、午後からのセッションで、ベストだと判断された第1テイクにハンドクラップのオーバーダビングを施しそれを最終テイクとして採用し、そして第9テイクの冒頭に収められたポールのカウント(ワン、ツー、スリー、フォー!)を編集でつなぎ合わせ、この曲は完成に至ります。そして、「There’s As Place」のレコーディングは、午前中にベーシックトラックをまず10テイク録音し、午後のセッションで10テイク目にハーモニカをオーバーダビングし、この曲は完成に至ります。使用楽器は、双方ともジョンのRickenbacker 325、ジョージのGretch DUO JET、ポールのHofner Bass 、リンゴのPremier Drum set と云う構成で、後者にはハーモニカも入ります。その後、ランチタイムが巡ってきますが、ビートルズは昼食など摂らず、録音を続けようとします。E.M.I.エンジニアのリチャード・ランガムは語ります、
「休憩してくれと言ったら、彼らはこのままリハーサルを続けたいと言うんだ、それでジョージとノーマンと僕は、近所のヒーローズ・オヴ・アルマと云うパブに行って、パイとビールの昼食を摂ったんだけど、彼らはスタジオに残ってミルクを飲んでいた。僕らがスタジオに戻った時も、まだ練習していたよ。昼飯抜きで働くグループなんて見たことなかったよ。」。
<写真センター:Engineer:Richard Langham (リチャード・ランガム)>後にジョンは語っています、
「ファースト・アルバムのレコーディングは、12時間ぶっ通しのセッションだった。本当のレコーディングはこう云うモノなんだと感じた。12時間で仕上げねばならなかったのは、僕たちにそれ以上のお金をかけて貰えなかったからなんだ。このレコードで良かったことの一つは、エコーなしで録音したことだ。エコーが出始めた頃で、僕らはそんなものを使える余裕がなかった。余裕ができた頃にはもうそんなもの好きじゃなかった。だから、ステージでは一度も使ったことがない。使わなくて良かったよ。使っていたら、きっと他のグループと似たり寄ったりのサウンドになっていただろう。あのレコードでは、生の雰囲気を出そうとしたんだ。ハンブルグやリヴァプールではあれに近い音だったんじゃないかな。それでも、オーディエンスがビートを合わせて足を踏み鳴らす、あのライヴの雰囲気は出ない。だけど、『お利巧さん』のビートルズになる前のサウンドには、これがいちばん近いだろうね。(書籍『Anthology』抜粋参照)抜粋参照」。午前中からぶっ続けで進められるセッションは、午後に突入します。まずは、ポールが歌う「Taste Of Haney」から始まります。この曲は1960年に上演された同名の芝居の挿入歌で、ビートルズは合計7テイク録音し、その5テイク目にポールとジョンのコーラスをオーバーダブし第7テイクがベストと判断し採用とします。このアルバム中唯一のダブルトラッキング処理(あるテイクをわずかずらして別のテイクにコピーすること)を施した曲で、この手法は、より分厚いサウンドを生み出すためのもので、ビートルズのヴォーカル録音ではこの手法が多用されていくようになります。続いて「Do You Want To Know A Secret(Lennon=McCartney)」の録音が開始され、7テイク録音、そしてベストと判断された第6テイクにハーモニーとドラムスティック同士を打ち合わせた音を重ねた物を第8テイクし、第1テイクに手拍子をオーバーダブしたものをベストとし、ビートルズは次の曲「Misery(Lennon=McCartney)」のレコーディングに入ります。この曲はジョンとポールがヘレンシャピロに書いた曲で、彼女が歌わなかったためビートルズの曲としてジョンとポールがともにリード・ボーカルをとることとなります。通常のテープスピードが15ipsのところを、これは30ipsで録音されます。これは、後日にピアノをオーバーダビングする事があらかじめ決められていたからで、こうしておくとピアノのレコーディングの際に1/2の速度で録音できると云うことになります。このピアノはジョージ・マーティンにより、
1963(昭和38)年02月20日(水)、ビートルズメンバー不在の中オーバーダビングが行われることになります。ジョージは語ります、
「僕らはずっとビリビリしてたよ。レコーディングするにも、その前に全曲を通すんだ。僕らがちょっと演奏すると、ジョージ・マーティンが言うのさ、『よし!他に何かある?』って。『ドゥ・ユー・ウォント・ノウ・ア・シークレット』は、このアルバムの中の“僕の曲”だったんだよ。この曲の自分のボーカルが気に入らなかった。"Listen, do da do, Do you want to know a secret? do,da do,Do you promise not to tell, whoa oh, oh"『ねえ、秘密を知りたい?喋らないって約束できる』ってさ。このセッションを振り返ると、ひょっとしたら“ゴフィン&キング”の『キープ・ユア・ハンズ・マイ・ベイビー』をやったように思う。この曲は“リトル・エヴァ”が『ロコ・モーション』の後に出した曲なんだ。時々、曲を覚えたりするのも1~2回やってやめちゃうことがあったんだよ。こんな曲も僕らのレパートリーだったからね。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。ビートルズは、午前中からぶっ続けでレコーディングし、午後に突入、そして夜になり、さらに進めていきます。ポールは自作の「Hold Me Tight」でリード・ボーカルをとりますが、録音された13テイクの内、完全ヴァージョンは2テイクのみで、ボツになったテイクが5つ、未完成のテイクが1つ、それにテープ編集用のテイクとなり、結局マスター・ヴァージョンは、第9テイク及び第13テイクを編集して行われることになります。しかし、この曲の編集作業は実際には行われず、この時点ではリリースされずに終わります。このテープはもはや存在していませんが、ビートルズはこの後にこの曲をリメイクし、セカンドLPに収録させます。このあと、彼らは5曲のカバー・ヴァージョンを猛然と吹き込みます。まずは、ジョンのリード・ボーカルによる「Anna」、これはアーサー・アレクサンダーの曲で、3テイクで完成、続いてリンゴが初めてボーカルをとる「Boys」、これはシレルズの曲で、1テイクで録音を終えますが、エンディングのフェードアウトにする作業が
‡1963(昭和38)年02月25日(月)のリミックス段階で行われます。次にジョン、ポール、ジョージの3人が歌う「Chains」、これは当時のクッキーズのマイナー・ヒットで、かつてジョン・レノンとポール・マッカートニーのソングライティング(Lennon=McCartney)に多大な影響を与えたブリル・ディング・チーム「ジェリー・ゴフキン&キャロル・キング」の共作です。この曲は4テイクを録り、ベストは第1テイクで、やはりリミックス段階でエンディングをフェードアウトしています。引き続きジョンがボーカルをとるシレルズの「Baby It's You」を3テイク録音します。そして、レコーディングは午後10時に差し掛かります。リンゴは語ります、
「僕の場合、あのアルバムはやるまでの時期とかセッションとか、全てがぼやけちゃっててね。それにアルバムそのものも、はっきり覚えてないんだよ。ファースト・アルバムのリハーサルはしなかった。僕の記憶では「ライヴ」で録ったんだ。まず全曲を通してやって、それぞれの曲のサウンドをある程度つかんで、その後はひたすら曲をこなしていた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。アルバム『Please Please Me』のレコーディングは、既に午後10時を回ろうとしており、それはスタジオを閉める時間でもあります。しかし、後1曲足らず、全員がE.M.I.スタジオの簡易食堂に行き、コーヒーを飲みにビスケットをつまみながら、その最後の1曲をどの曲にするのかを話し合います。何曲か候補があがり、友好的な議論がなされます。その結果についてノーマン・スミスは語ります、
「ジョンのリード・ボーカルで“Twist and Shout”をやろうって誰かが言いだしたんだ。でもその時はもう、みんな声を使い過ぎて喉をだいぶ痛めてたんだ。セッションを始めて12時間も経ったんだからね。特にジョンは声を完全に潰す一歩手前だった。だから本当に一発録りで決めるしかなかった。それでビートルズはスタジオに、僕たちはコントロール・ルームに戻った。ジョンはまたのど飴をいくつか口の掘り込み、ミルクでうがいをして、いざ本番に入ったんだ」この第1テイクでジョンが歌ったものを、私たちは今日でもレコードで耳にしているわけですが、これほど迫力のあるロックンン・ロール・ボーカルとインストゥルメンタル・パーフォーマンスは、他にはちょっとないでしょう。ジョンが声を振り絞って歌うこの2分半の曲は、大きな安堵のため息を持って終わります。午後10時を回り、ビートルズはファースト・アルバムを完成させます。ジョージ・マーティンはあの晩のことを振り返ります
「私は彼らが何をやれるかは把握するためにキャバーンに行った。彼らのレパートリーを知り、演奏できる曲目を知っていた私は彼らにこう提案した、『君たちが持っている曲を全部やろう。スタジオに下りて来なさい。何とか一日で演奏してみよう』。午後11時頃に始めて、夜の11時頃までーーその時間内で、アルバムまるまる一枚録音したんだよ。ビートルズは最初、レコーディングに関してあまり意見を言わなかった。彼らがスタジオ・テクニックに興味を持ち始めたのは、1年目が過ぎてからだよ。しかし、彼らの凄さは、この時から常にきちんとしたものを作りたいと思っていたことだよ。だから、作業は1テイクでは終わらなかった。最初のテイクを聴き、それから2~3テイクやって、納得できるものを仕上げた。時間をたくさん掛けて何テイクも録り直しをゆるされるようになるのは、もっと後になってからだ。「ツイスト・アンド・シャウト」が凄く咽喉に負担をかけることは分かっていた。私はジョンにこう言ったんだ、『この曲をやるとしたら、最後にしよう。これを先にレコーディングしたら、その後声が出なくなってしまうかもしれない』って。話し合いの結果もあるが、この曲はそう云う理由であの晩の最後の曲に回したんだ。2テイクやると、ジョンは全く声が出なくなった。だが、あのレコードはあれで良かったんだよ。ああ云う、“布を引き裂くような声”が必要だったんだよ....。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。ジョンは語ります
「最後の曲で死にそうになった。しばらく声が戻らなかった。何か飲むたびに、ヤスリをかけられているみたいでさ。ずっとあれが恥ずかしくてたならなかった。『もっとうまく歌えるのに』って思ってね。だけどもう気にならない。必死になって頑張ったのが伝わってくるだろう。ほとんど休みなしに12時間歌い続けた。“僕ら”は風邪をひいててね。それがどうなるか気になってた。一日が終わると、とにかく何パイントもミルクを飲みたいってことしか頭になかったね。あのLPのプレイバックを持っている間と云うのは、ほんと不安で仕方なかった。僕らは完全主義なんだよ。少しでの古臭く聴こえたら全部最初からやり直したくなるだろう。でも実際聴いてみたら凄く満足できた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」そして、『Please Please Me』は、
1963(昭和38)年3月22日(金)にビートルズ・イギリス公式盤オリジナル・デビュー・アルバムとしてリリースされます。ジョージは語ります
「アルバムのジャケット写真は、マンチェスター・スクエアのE.M.I.ビルのバルコニーから僕らが顔を覗かせてるのを撮ったのものだ。撮影者は"アンガス・マクビーン”で、僕はあの時着たスーツを今でも持っているよ。1990年に、あれを着てパーティーに行った。50年代の衣装を着て行くことになってたんだけど、ごまかして60年代のアレを着て行ったんだ。サイズがピッタリに見えただろうけど、実はズボンのウエストが締まらなかった。1969年にまたあそこに行って、“赤盤”と“青盤“のアルバムのために同じ写真を撮った。本当は『Let It Be』のジャケットにするつもりだったんだけどね。サイケデリックの時代まで、いやサイケデリックの時代になっても、E.M.I.はお役所みたいだった。エンジニアが全員しっかり訓練を受けてたのは確かだけどね。テープ・コピーから始まって、次にテープ・オペレーター、その次にデモ・セッションのアシスタントになる。様々な部署をすべて経験した後、ようやくでも・セッションのアシスタントにしてもらえる可能性が出てくるってこと。或いは、空いているエンジニアが居なくなった場合に、見習いが大抜擢されるかもしれない。ほんと、訓練は行き届いていたよ。だけど、1967になっても『職場ではスーツにネクタイ着用』なんて、ちょっと馬鹿げてるよね。とにかく、E.M.I.はエンジニアをきちんと訓練してた。だけどやっぱり・・・1967年になっても、まだスーツにネクタイで作業に入るのは、ちょっと間抜けだったよ。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1963%E5%89%8D%E5%8D%8A-02-11/
《 Single"Love me Do"から"Please Please Me"へ 》
1962(昭和37)年10月02日(火)に発表された「Love me Do」は、ブライアン・エプスタインにとって、そしてビートルズにとっては絶対にヒットさせなければならない曲で、彼はその為にあらゆることを考え、熱心に曲を紹介ます。彼の謙虚なところは「ビートルズはあくまでも自然な勢いで世間に知られて欲しい。この曲も同様で売り込むつもりは無い!」と明言し、「激しい売り込み」を否定する発言です。「Love Me Do」は大企業のロンドンのEMI社から発売されたと云うだけあり、全国に注目を浴びることとなります。「Love Me Do」と云う曲は、世間のイメージでは「かなり風変わりな曲」と言われることが多い中、発売当初のイギリスのヒットチャートでの記録は最高17位まで達しますが、大ヒットと云う訳には行きません。
1962(昭和37)年10月24日(水)の全国チャートでは48位となり少しずつ人々に浸透して行きます。ビルボード(Billboard)誌では、
1964(昭和39)年05月30日(土)に週間ランキング第1位を獲得、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第14位、「キャッシュボックス」誌でも最高位第1位を獲得し、1964年度年間ランキングでは13位、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録します。イギリスでは、デビュー20周年を記念して1982年に再発された時は最高位第4位となり最終的にはトータルで30万枚以上のセールスを記録することになります。このシングルはオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤の方はいずれも希少価値の高いレコードで、特に黒ラベルは入手困難であり、ビートルズコレクターの間では人気アイテムとなります。しかし、ブライアンの回りは彼への心配が募り、忠告される日々を迎えます。「あんな若者たちと関わり続けると大変なことになる!」「音楽業界の連中など信じるな!」彼の両親に至っては「ビートルズがエルヴィス・プレスリーよりもビッグになるなんて信じられない!」と告げ、彼の将来を案じます。これらは、至極当たり前の接し方には違いありません。ジョージ・マーティンにもまた別の「やらなければならないこと」が存在し、それは、「マーティン自らが評価し、契約したリバプールの若者達が、間違いなく素晴らしかったと云うことの証明」です。それは言いかえれば、デビュー曲「Love Me Do」で注目を浴びたからには、次は彼らに大ヒット曲を与えなければならないと云う使命です。ビートルズにとって、「ジョージ・マーティンとの出会い」は必然ではあるものの「幸運」と云う言葉が適切でしょう。何も考えずに行動している者同士では、「普通」こうは行かないはずです。そして、ジョージ・マーティンは、ファースト・スングル「Love me Do」に続き、セカンド・シングルの候補を挙げます。マーティンは、一度封印した「How Do You Do It」を提案しますが、ビートルズはマーティンが用意したこの曲にまたも難色を示し、対抗曲として「Please Please Me」と云うオリジナル曲を提案します。今ならば多くの人が「なるほどあの曲ならば、ヒット間違いなしだ!」と納得されるでしょうが、ジョンが作ったこの曲はこの時まったくと云って使い物にならない作品で、マーティンはこの曲に違和感を覚えます。ジョージ・マーティンは語ります、「ビング・クロスビーの「Please」と云う古い曲からタイトルを引用した云う『Please Please me』を初めて聴いた時、ジョンはロイ・オービソン風のファルセット唱法で歌った。スローで、もても悲しげで、全く売れそうもなかったと感じた」。しかし、ジョージ・マーティン・マジックここから始ります。マーティンは「このままの曲調では使えないが、リズムをアレンジし、テンポを上げればヒットする可能性はある」と提案し、彼らも受け入れます。「Please Please me」はこうした経緯により、今私たちの前に現れることになります。
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)で「Please Please Me / Ask Me Why」を録音をすることになるのですが、その前にこの曲の注目すべき点を少し書かせて頂きます。この曲をモニターヘッドホンなどで聴いて頂くとよく分かるとは思いますが、ベースとヴォーカルそしてコーラスが結構複雑な構成で仕上げられています。演奏全体の印象としてジョンの素晴らしいハーモニカが目立ち、ギターの音が聴き取りにくい感じに仕上がっています。ここで注目べきはポールのベースとジョージのギターで、「Come on」のコードA ⇒ F#m ⇒ C#m ⇒ A のところでは、ジョージが意図的に「Come on」に合わせ BとC#を弾き、ポールのベースが3回目のC#mのところでは、主音と5度の音をひっくり返し G# ⇒ C# と弾いていることです。これはビートルズの音創りが当たり前でない証拠で、簡単ではありますが、工夫を凝らしています。エンディングの E ⇒ G ⇒ C ⇒ B ⇒ E と云うコードも曲の終わりを意識させる音創りの奥深さが感じられます。そしてボーカルでは、曲の冒頭の「Last night I said these words to my girl」と云う個所のメロをポールはEの音だけで歌い、ジョンはそのEの音から D# ⇒ C# ⇒ B と移って行き、ポールの少し揺れながらの声とジョンの安定した声がマッチし、素晴らしいハーモニーを作り出しています。また、3部にコーラスになる部分でもジョンとポールの高低音パートが入れ替わり、その下をジョージがコーラスをつけています。このように3人同時に歌う個所では互いが意識してトーンを近づけている感が強く、完全に一つの固まりでスピーカー(ヘッドホン)から飛び出てきます。デュエットになるエンディング「Please please me, who, yeah, like I please you…」の部分も「please」と「you」の高低音がジョンとポールで入れ替わります。この複雑な入れ替わりハーモニーと3部コーラスは、ビートルズの大きな特徴で、後に発表される「From me To You」や「I Wont Horld Your Hand」などでも多用されることとなります。サビのところのジョンのボーカルの合間に「In my heart」とバックが入りますが、これもこの曲で重要な雰囲気作りの個所で、マーティンのアイデアかもしれません。(ビートルズ大研究から引用)
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはロンドンのセント・ジョンズ・ウッド・アビー・ロード3番にあるEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)での3時間のレコーディング・セッションを行い、セカンド・シングル「Please Please Me / Ask Me Why」の録音を開始します。1時間のリハーサルが用意されていたため、ビートルズは午後6時にスタジオに姿を現します。そして、午後7時、「Please Please Me」のレコーディングが開始されます。まずは、あの印象的なハーモニカ抜きで録音されます。それは、この曲は歌いながらハーモニカを吹くことができる構成ではないからで、そのパートはその日オ-バーダブされます。ハーモニカの編集用を含め『Pleas Pleas me』は18テイク録音されます。レコーディングが終了すると、ジョージ・マーティンはトーク・バックを使いこう叫びます、「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」。「Please Please Me」収録後、ビートルズはB面「Ask Me Why」のレコーディングに開始します。この曲は、6テイクを録り、これにてこの2曲は完成に至ります。マーティンは放った「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」と云う言葉の奥には、マーティンの想いと予感が多分にあったのでしょう。
1962(昭和37)年10月30日(火)、「Please Please me / Ask Me Why」のリミックス作業は行われます。この日はまず「Please Please Me」がミックス・ダウンされ、そのモノラルミックスはシングル盤とアルバム「Please Please Me」の両方に収録、その後「Ask Me Why」の第6テイクがモノラルにミックス・ダウンされます。この作業の開始・終了時間は記録に無く、またビートルズは、昼はキャバーン・クラブのランチタイムショーに出演し、夜はニュートン=ル=ウィローズのタウン・ホールに出演していたため、この場にはおらず、リミックス作業に参加するようになるのは、ずっと後の話になります。このシングルは
1963(昭和38)年01月11日(金)に英国で発売されますが、メロディ・メーカー紙、NME紙、ディスク紙では確かに発売6週間でNo.1を獲得します。しかし、、ニュー・レコード・ミラー紙 (New Record Mirror) が指標としていたレコード小売店チャートでは2位どまりとなり、正真正銘のNo.1をビートルズが獲得するのは「From Me To You」以降となります。ジョージ・マーティンは語ります、
「自分が高く評価したビートルズは、E.M.I.では評価されなかった。ビートルズとEMIの契約に関しては、トップも批判的で、保守的な考え方の持ち主である宣伝部長も『マーティンは「今まで見たことのない可能性を秘めているグループ」だと言うが、ビートルズには何の将来性も見い出せない!』と言う始末だった。」。ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」は、E.M.I.としてヒットさせようという努力がなされず、放置とも云える状態になります。いつの世も、グループやレコードをヒットさせるためには、当然、大変な企業努力が必要であり、全国的に宣伝するには、かなりの出費を覚悟せねばなりません。当時の宣伝部長はあまりにも保守的過ぎて、その決断ができなかったと云うことです。「Love Me Do」がごく限定されたラジオでのオン・エアしかされなかったのは、このような背景があったせいだと推測されます。ブライアン・エプスタインは、ほとんど宣伝しようともしないE.M.I.に失望し、マーティンに相談します、
「ビートルズの次の曲は出版社に話を持ちかけて、そこで宣伝してもらうようにしたい」。E.M.I.の宣伝部門が殆ど動いていなことの知ってたマーティンは、冷静かつ積極的にアドバイスします、「ブライアン、僕はアメリカの会社よりもイギリスの会社の方がいいと思うよ。出来れば、とてもハングリーな人間がベストだ。ビートルズや君のために一生懸命やってくれる会社を探すんだよ。」。エプスタインはマーティンに告げます、
「僕はエルヴス・プレスリーの曲を出版している“ヒル&レンジ社”との契約を考えいる。あなたはどう思いますか?」、それを聞いたマーティンは、「ヒル&レンジは、君達がいなくても全然困らない。彼らにはエルヴィス・プレスリーがいるから、君達はきっと重要視されないと思うよ」とブライアンに再びアドバイスします。エプスタインは、ヒル&レンジ社の他にこれと云う会社に心当たりが無く、ここでもジョージ・マーティン相談するとことになります。エプスタインは語ります、
「これまで事あるごとに僕たちに幸運をもたらしてくれたジョージ・マーティンに話しを聞いてもらうしかなかった。彼はアメリカの出版社の人間とイギリスの出版社二人、計三人を紹介してくれた。」。そして、マーティンの紹介で、イギリス資本の出版社を経営する“ディック・ジェイム”に話を持ちかけることとなります。ディック・ジェイムズは、マーティンととても親しい間柄で、ビートルズのデビューにふさわしい曲をマーティンが探している時、「How Do You Do It」を提供してくれた人物であり、マーティンのプロデュースの下、歌手活動の経験も積んだ人物で、テレビドラマの主題歌をヒットさせことも多々あり、二人は強い信頼関係で結ばれていたのです。ディック・ジェイムズは語ります、
「ジョージ・マーティン氏がその依頼で僕に電話してきた。尊敬する彼が選んだグループなので、素晴らしいことは間違いないはず、使用できたよ。」。この時、エプスタインも独自で動いており、EMI傘下の子会社の出版社の幹部と会う約束を取り付けますが、約束の時間にその会社を訪れた彼を、担当者は30分近く待たせます。エプスタインは語ります、
「約束を守れない人間ではダメだと判断し、その会社の秘書にその旨を伝え、その足でディック・ジェイムズの会社に向かった」。
★マーティンとブライアンの間に居るのが「ディック・ジェイムズ」です。ディック・ジェイムズの会社に向かったブライアンは、彼のオフィスに、約束の時間より随分早く着いてしまいます。ブライアンは受付の女性に、
「ここで待たせて頂けますか」と告げると、彼女はジェイムズに連絡し、ジェイムズは待っていましたとばかりにオフィスから現われ、ブライアンを笑顔で迎えます。ディック・ジェイムズは、マーティンの云うところの「まさにハングリーな心情で、ブライアン、そしてビートルズのために全力を注いでくれる存在」だったようで、歌手としてそれなりのヒット曲も出した過去もあり、曲を作り上げる仕事にも係わりそこでもヒット曲を生み出し、約1年前に現役を引退し、出版社として独立したばかりの44歳の彼へのオファーはチャンスとも云える出来事だったのです。ディック・ジェームズは語ります、
「あの時、すぐに、出来たばかりのシングルレコード『Please Pleas me』を聴かせてくれとブラインに告げたんだよ、聴き終えた僕は感動したね。これは行けると思ったよ。」。彼もまた、ヒット曲を見い出す才能に長けた男だったと云うことです。この時、ジェイムズは思いがけない行動をとります。エプスタインが長期契約の話を持ちかけた時、「please please Me」が間違いなくナンバーワンになると信じたジェイムズはその場で歌手だった頃の友人関係や各方面に電話をかけ始めます。エプスタインはじっと見守ります。ジェイムズはフィリップ・ジョーンズと云うテレビ番組のプロデューサーに電話し、頼みごとをします、「リバプール出身の素晴らしいグループがいる。彼らを土曜のショーに出演させてくれないか」。しかし、一流のプロデューサーであるジョーンズはこう返答します、
「如何に友人と云えど、自分で彼らの実力を確認するまでは、予定を変更してまで特別に出演させるわけにはいかない」。しかし、それで引き下がるジェイムズではありません。彼は、「Please Please Me」を電話を通して聴かせると云う行動に出ます。これは、如何に彼が「Please Please Me」に感激したかを物語ります。曲を聴き終えた友人ジョーンズは即答します、
「とても素晴らしいサウンドだ。合格だよ!今週の土曜のショーに出演させよう!」電話を終えたジェイムズはブライアンに伝えます、
「彼らの土曜の予定はどうなっている?空いているか確認して欲しい。テレビに出られるんだ!」そしてビートルズにジョーンズが担当する全国ネット人気番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の
1963(昭和38)年01月13日(日)の出演予約が入ることとなります。そして、周りの人を巻き込む奇跡がとうとう起こり始めます。
1963(昭和38)年01月13日(日)の人気TV音楽番組『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』への出演は、ビートルズにとってこれまででもっとも重要なことだと云えるしょう。『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』とは、ABCテレビがTVネットワークのために制作し、ミッドランドと北イングランドのエリアで放送され、撮影収録にはABCとATVの共同所有のバーミンガム・アストンにある「アルファ・スタジオを使い、ミッドランドでは平日に、ロンドンでは週末に放映される番組です。この日ビートルズはその「アルファ・テレビジョン・スタジオ」で演奏、収録します。当時の『サンク・ユア・ラッキー・スターズでは、通常出演者はスタジオの観衆を前にレコードに合わせてリップシンク (くちパク)するのが恒例で、1961年4月から出演している多くのミュージシャン同様、7組の出演者リストの最後の出演リストに書かれたビートルズも「Please Please Me」をリップシンクし、この時の収録は6日後の
1963(昭和38)年01月19日(土)にオンエアされます。番組での彼らの登場部分は前半最後で、CMの直前と云う記録が残っています。当時『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』は非常に人気の高い番組で、前述通りビートルズが出演できたことは、大事件とも云え、また、彼らの出演を演出したディック・ジェームスは、ビートルズの曲を管理するようになってから巨万の富を蓄積することとなり、彼にとっても一大事件だと云うでしょう。そして、このTV出演が起爆剤となりビートルズの快進撃は始まります。下記写真は、
1962(昭和37)年09月下旬の水曜日、
1962(昭和37)年09月19日(水)、
1962(昭和37)年09月26日(水)、リヴァプール埠頭周辺の倉庫にて、写真家レス・チャドウィックによって撮影されたものです。そしてついに、
1963(昭和38)年02月07日(木)、ビートルズは待望のセカンド・シングル「Please Please Me / Ask me Why」をリリースします。この曲の販売権のオファーを受けていたE.M.I.のアメリカ・レーベルである「Capitpl Record」は突然その権利を辞退することをE.M.I.に申し出ます。その後販売権は、国外のマスターをアメリカのレコード・レーベルに移すことを業務にしているE.M.I.系列子会社「Transglobal」に委託され、「Transglobal」は、「Atlantic」にオファーをするも受けてもらえず、最終的に「Vee-Jay」がアメリカでの販売を引き受けることになります。これが、アメリカでのデビュー・シングルとなり、イギリスでは
‡1963(昭和38)年02月25日(月)、日本では
1963(昭和38)年03月04日(月)のリリースとなります。面白いことに、最初のプレスでは「The Beattles」と記載されます。このシングルはイギリスのレコード・リテイラー、ミュージック・ウィークでは最高2位、メロディー・メイカーで2週連続1位、ニュー・ミュージカル・エクスプレスで3週第2位、イギリスでは35万枚のセールス記録、アメリカのビルボード(Billborad)誌では、
1964(昭和39)年03月14日(木)に、週間ランキング最高位の第3位を獲得し、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第36位、『キャッシュボックス』誌でも最高3位を記録し、年間ランキング37位を獲得します。尚、B面には、イギリスでは3枚目のシングルとなった「フロム・ミー・トゥ・ユー」が収録され、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録ます。イギリス本国でのシングル盤はオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤はいずれも希少価値の高く、特に赤ラベルのほうが入手困難であり、ビートルズ・コレクターの間では人気アイテムとなります。作曲クレジットは前作のLennon-McCartneyからMcCartney-Lennonに変更された。この表記はアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を挟み次作シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」まで使用されることとなります。
<ポールが語る" Lennon=McCartney"の曲作りについて>ビートルズのオリジナル曲の8割は作曲者が「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」とクレジット(Credit)されています。ジョンとポールが作曲を始めたのはまだ学生だった10代の頃で、二人は良く学校をさぼりポールに家に行き、曲のアイデアを次々とノートに書き留めて行きます。
「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」と題されたそのノートは、現在ポールが所有しています。アメリカのソングライターチーム、「ゴフィン=キング(Goffin=King)(ジェリー・ゴフィン=キャロル・キング)」に憧れた二人は、純粋に二人で共作した曲も、片方がメインでもう片方が手伝った曲も、どちらか一方が書いた曲も、全て「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」で発表しようと約束します。この取り決めは1970年のビートルズ解散まで貫かれ、1969年のジョンのソロ「平和を我等に(Give Peace a Chance)」にまで適用されます。興味深いことに、デビュー直前の一時期に限って「マッカートニー=レノン(McCartney=Lennon)」と云うクレジットが使われており、確かな理由や経緯は明らかにされていませんが、1963年7月のシングル「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」以降は順序が決められ、ジョンの名前が先に来るようになります。ポールは語ります、
「僕とジョンは学校をさぼって、良く僕の家でギターを掻き鳴らしていた。父は働きに出ていたからここが一番いい場所なんだ。パイプに紅茶を詰め込んで吸ったこともある。味は良くなかったけど、大人の気分を味わっていたんだ。二人でアコースティック・ギターを持って、向かい合って吸った。曲を作ろうと自分の心を見つめる代わりに、目の前でプレイするジョンを見ている。まるで自分自身を映す鏡を見てるかのような、最高の時間だった。僕らは一緒に曲を作った。僕がノートに書きつけたタイトルはいつも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル(ANOTHER LENNON = MCCARTNEY ORIGINAL)』だった。次のページも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル』なんだ。ノートには歌詞とコード・ネームをメモしてるだけだ。カセットテープなんかまだなかったし、グランディグ社のテープレコーダーなんか買う金もなかった。だからメロディは頭に入れておかなければならない。バック・コーラスのところには"oh-"と云う印を付けた。他に書き方を知らなかったんだ。テープレコーダーを持っている友達がいたけど、僕らは録音することはほとんどなかった。まだ僕らが自分たちの曲に入れ込んでなかったせいもあるけど、ジョンと僕の間に、自分たちが覚えられないような曲を他の人が聴いて覚えられるわけがないと云う暗黙の了解があったからなんだ。」。(書籍『Beatles Gear』抜粋参照)
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-%E5%BE%8C%E5%8D%8A-08-16-11-26/