過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

2024(令和六)年四月参日(水)曜日の初記事ですヨ(=^◇^=)

 

■猪木映像◆ビッグ・ファイト・シリーズ&格闘技世界一決定戦
‡1979(昭和54)年04月03日 福岡スポーツセンター 格闘技世界ヘビー級選手権試合
 アントニオ猪木 VS レフトフック・デイトン
 https://njpwworld.com/p/s_series_00025_1_1
■猪木映像◆格闘技世界ヘビー級選手権試合&ビッグ・ファイト・シリーズ
‡1980(昭和55)年04月03日 蔵前国技館 NWFヘビー級選手権試合
 王者:スタン・ハンセン VS 挑戦者:アントニオ猪木
 https://njpwworld.com/p/s_series_00030_2_2
■1983.04.03 長州力
「俺の人生にも一度ぐらい幸せな日があっていいだろう」
 蔵前国技館で藤波辰巳からWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取した長州力が、控え室で語った言葉とされる。
 ただし、翌日のスポーツ紙やこの試合をリポートしたプロレス誌にはこのコメントが載っていない。しばらく経ってからこの名言が有名になったのは、もしかしたら古舘アナの取材の記憶から生まれた実況中の「名言」なのかもしれない。
 https://kissatalk.web.fc2.com/meigen.html

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 ┃『仮面ライダー』1号、 ┃ NET系列
 ┗━━━━━━━━━━━┛19:30~20:00
‡1971(昭和46)年04月03日(土) 第01話「怪奇蜘蛛男」
        制作No.・・・・・No.01
       次回予告・・・「恐怖の蝙蝠男」 とナレーション
       重要備考・・・藤岡弘、は第01話の放送を病院のベッドの上でTV鑑賞
    本郷猛=藤岡弘、・・スーツアクター兼任、本人出演
       登場怪人・・・蜘蛛男 声:槐柳二
         脚本・・・伊上勝
         技斗・・・高橋一俊
         監督・・・竹本弘一
      OPテーマ・・・第01~13話 ♪レッツゴー!! ライダーキック♪ 藤岡弘
      EDテーマ・・・第01~71話 ♪仮面ライダーのうた♪ 藤浩一、メール・ハーモニー
 ビデオリサーチ視聴率・・・関西:20.5% 関東:8.1% ※関東最低視聴率
   ニールセン視聴率・・・関西:16.5% 関東:8.9%
    今夜のあらすじ・・・若き科学者で天才レーサーの本郷猛は、世界征服を企む悪の秘密結社・ショッカーに誘拐され改造手術を施されてしまう。だが、脳改造手術の直前、ショッカーに捕えられていた緑川博士の機転により脱出に成功するも、二人を追ってきた蜘蛛男の手によって博士を殺されてしまった。(C)石森プロ・東映[70年代]
        amazon・・・若き科学者で天才レーサーの本郷猛は、ショッカーによって改造人間にされてしまう。脳改造手術の直前、脱出に成功した本郷は、仮面ライダーとしてショッカーに立ち向かう。途中、ショッカーを追って日本を離れた本郷に代わり、一文字隼人が新たな仮面ライダーとして登場。ショッカーの大幹部たちと戦った。本郷猛の帰国後はダブルライダーがショッカーの猛攻に立ちはだかる。
     映像◆https://video.fc2.com/content/20130227BgFsrnWr
    アニメ◆カメンライダー01話(英字幕)
 ダイジェスト◆カメンライダー01話(英字幕)
    静止画◆カメンライダー01話(英字幕)
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 1971(昭和46)年03月30日(火) 事故?『仮面ライダー1971-1984 秘蔵写真と初公開資料で蘇る昭和ライダー10人』
 1971(昭和46)年04月01日(木) 事故?『仮面ライダー1号・2号編 仮面の男パーフェクトファイル』
 1971(昭和46)年04月02日(金) 事故?『宇宙船別冊 仮面ライダー怪人大画報2016』
†1971(昭和46)年04月03日(土) 事故?『仮面ライダー大研究』TARKUS編 ※第01話放映日
 1971(昭和46)年05月29日(土) 第09話「恐怖コブラ男」
        制作No.・・・・・No.09
       前回予告・・・「怪人コブラ男」 とナレーション
    本郷猛=藤岡弘、・・スーツアクター兼任、本人出演
    藤岡弘吹き替え・・・第09話~第13話の声:納谷六朗
       登場怪人・・・コブラ男 声:水島晋
         脚本・・・山崎久
         技斗・・・高橋一俊
         監督・・・山田稔
 ビデオリサーチ視聴率・・・関西:21.6% 関東:14.2%
   ニールセン視聴率・・・関西:20.5% 関東:14.1%
       あらすじ・・・金の保管庫を襲撃したコブラ男は、ガードマン・近藤の飼い犬に吼えられ、キバを落としてしまった。キバを求めるコブラ男は近藤を襲撃、近藤の息子・武彦も人質に取られてしまったことで、本郷もショッカーの手に落ちてしまう。本郷に再度の脳改造の危機が迫る。だがその時、本郷を追って立花藤兵衛が現れた。
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 1971(昭和46)年06月05日(土) 第10話「よみがえるコブラ男」
        制作No.・・・・・No.10
    本郷猛=藤岡弘、・・スーツアクター兼任、本人出演
    藤岡弘吹き替え・・・第09話~第13話の声:納谷六朗
       登場怪人・・・改造コブラ男 声:水島晋
         脚本・・・山崎久
         技斗・・・高橋一俊
         監督・・・山田稔
 ビデオリサーチ視聴率・・・関西:20.8% 関東:13.1%
   ニールセン視聴率・・・関西:20.5% 関東:12.2%
       あらすじ・・・ショッカーの協力者である綾小路生物研究所の綾小路律子は、「動物買います」という広告で動物の血を集め、さらには動物を持ち込む人々を捕らえていた。犬を失って悲しむ少年から事件を知った本郷は、綾小路研究所へ急行する。一方、コブラ男は、用済みとなった律子を始末し、研究所の金を狙って暗躍を始める。
        amazon・・・若き科学者で天才レーサーの本郷猛は、ショッカーによって改造人間にされてしまう。脳改造手術の直前、脱出に成功した本郷は、仮面ライダーとしてショッカーに立ち向かう。途中、ショッカーを追って日本を離れた本郷に代わり、一文字隼人が新たな仮面ライダーとして登場。ショッカーの大幹部たちと戦った。本郷猛の帰国後はダブルライダーがショッカーの猛攻に立ちはだかる。
  ①お化けマンション・・・▲『仮面ライダー』の制作時点で、プロデューサーの平山亨が使用した第9話・第10話の台本にお化けマンションを略した「オバマン」という書き込みが残されている[1]。▲ 当時の東映生田スタジオからも近いうえに使用料もかからなかったため、重宝された。無料で利用できたので「ただマン」とも呼ばれていた。▲プロデューサーの平山亨は、「撮影は許可を得て行っていたが、本来このマンションはコンクリートの劣化によって崩落の危険があるため、立ち入りを禁じられていた」と証言している[3]。撮影監督の川崎龍治は「いつ崩れるかヒヤヒヤしていた」と述べている[2]。
†藤岡弘の事故負傷wiki・・・本作品は放送開始前、のちに多大な影響を与えることになったアクシデントが発生していた。第9話・第10話の撮影中[注釈 12]に藤岡がオートバイで転倒して全治3 - 6か月の重傷を負い、撮影に参加できなくなったのである[注釈 13]。このため、未完成分については、本郷の登場シーンなどを前話までの映像から流用した藤岡の姿に声優・納谷六朗[注釈 14]によるアフレコを挿入する、仮面ライダーの登場シーンを増やす、ヒロイン・緑川ルリ子や新キャラクター・滝和也の活躍を繋ぎ合わせるなどの措置で完成させ、急場を凌いだ[35][40][31]。この間、方向性の再検討と新たな主役について討議された。本郷役の交替案や内容の一新など、様々な展開が検討されている[35][38]。関連書籍に再録された当時の議事録によれば、MBSの局長や脚本家の「仮面ライダー1号は殺してしまってもよいのではないか」「外遊よりも殺してしまったほうが書きやすいのだが」といった意見に対し、平山亨は「子供たちのオールマイティーの夢を潰すことになり、主人公を殺してしまうのはよくない」と強硬に反対した[41]。同時期に『宇宙猿人ゴリ』や『帰ってきたウルトラマン』などの巨大ヒーロー番組が多かったせいか、「仮面ライダーを巨大化させよう」という案も出た[42][43][注釈 15]
 https://www.amazon.co.jp/dp/B012DZ3HA4
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC
①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%8C%96%E3%81%91%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3#cite_note-2
†https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC#cite_note-51

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 ┃ 三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道 ┃
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‡2012(平成24)年04月03日(火) 制作
 写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
 1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
 最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
 1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
 ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
 1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
 1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
 リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
 1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
 写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
 それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
 三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
  問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
 三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
 1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
 写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
 1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
 1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
 この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
 ─―先生は、いま目方どのくらい。
 「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
 ─―どのくらいにふとりたいのですか。
 「15貫は、ほしいですね」
 ─―バーベル・マンになられた動機は。
 「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
 ─―学生時代に何かスポーツは。
 「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
 写真◆バーベル運動する三島
 さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
 1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
 1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
 写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
 自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
 私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
 写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
 1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
 写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
 <おまけ>
 三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
 1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
 作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
 https://tanken.com/misima.html
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 ┃ 三島事件 ┃
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 1970(昭和45)年11月25日(水) 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 映像◆https://youtu.be/LiRMStJwOu4
『アナザーストーリーズ』松嶋菜々子
「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] 
 2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:23『LIFE』
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:29『LIFE』三島腕相撲BODY写真◆
 1968(昭和43)年10月17日(木) 44:54 ノーベル文学賞発表
 1967(昭和42)年06月11日(木) 30:05『サンデー毎日』6月11日号
  特別手記「自衛隊を体験する」 三島由紀夫 46日間のひそかな“入隊”

 映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
 昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
 
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
 映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
 1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
 1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
 
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 ┃ 三島由紀夫 ┃
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 1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
 1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
 映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
 
 TransylvaniaBoogie 
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html

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