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┃ 『ゴンドラ』 ┃
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1987(昭和62)年11月07日(土) 静岡県清水市 第一回清水映画祭参加上映
†1987(昭和62)年11月08日(日) 監督も招待をうけ、シンポジウム等に参加
‡1987(昭和62)年11月08日(日) ウィーン・シネアジア映画祭出品上映
1987(昭和62)年11月15日(日) ウィーン・シネアジア映画祭出品上映
amazon・・・映画史上燦然と輝くインディーズ映画の至宝がついに配信開始!学校家庭でも孤立した少女かがりは母とマンション暮らし。上京しゴンドラに乗りビルの窓を拭く青年、良。かがりが大事にしている文鳥がケガをしてしまう。茫然自失として立ち尽くすかがりを窓の外を降りてきた良が目撃する。
*************** http://gondola-movie.com
https://www.amazon.co.jp/dp/B086927Q9H
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴンドラ_(映画)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07WV2D4VW
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①┃ 『ヒトコワ -ほんとに怖いのは人間-』 ┃
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‡2012(平成24)年12月05日(水) DVD released 監督:児玉和土
「知ってはいけない友達の秘密」定石どおりの展開だけど、酔った友だちがうまい具合に油断させる。主人公の明るさにも騙された。友だちの彼氏を寝とったのは主人公なのか? だとしたら無防備というか、あつかましいというか。探偵の調査報告はでたらめか、ただタイミングが悪いだけのほうがよかったと思う。
「送り○チガイ」着信音が背後から聞こえるところが怖かった。ラストも定石どおりだけど、いい感じ。メールでうまく誘導すれば、さらに長く交流できたかもしれない。
「親の顔がみたい?」タイトルからオチが読めてしまうが、ことさら強調しないところが怖かった。ベランダから首を出して、最初は問題ないところが巧みだった。
「自分の名前を検索してみたら?」これも都市伝説っぽいエピソード。いささかストレートすぎる。
「あの世からの電話」これだけオカルトが絡んでおり、統一感を乱している。しかし人間の行為が怖いとするテーマは同じか。あの世から電話がかかってくるアイデアは秀逸。
備考・・・副題が示すように、超常現象ではなく人間がなすことの怖さを描いたオムニバスドラマ。エピソードの作りは単純で、オチも予測できるが、間のとり方がうまく、けっこう怖かった。オムニバスホラーが量産される中で、ひときわ出来がよかった。「ドラマ」として作っても売れないんだろうな。しかし結局、B級ホラーに埋もれてしまうのだから、切ない話だ。
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②┃ 『ヒトコワ2 -ほんとに怖いのは人間-』 ┃
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‡2013(平成25)年11月08日(金) DVD released
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③┃ 『ヒトコワ2 -ほんとに怖いのは人間-』 ┃
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2013(平成25)年12月06日(金) DVD released
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①https://www.amazon.co.jp/dp/B082P5T11Y
http://trynext.com/review/page/b009k8k1iy.php
https://ja.wikipedia.org/wiki/宇野愛海#映画
②https://www.amazon.co.jp/dp/B00EOALTNO
③https://www.amazon.co.jp/dp/B00EOALV32
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①┃ 『殺人の告白』 ┃
┃ 『Confession of Murder』 ┃
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‡2012(平成24)年11月08日(木) 韓国公開
2013(平成25)年06月01日(土) 日本公開
私が殺人犯です―時効成立後、突如として連続殺人犯が現れたとしたら… 。 Rating PG12 (C) 2012 DASEPO CLUB AND SHOWBOX/MEDIAPLEX ALL RIGHTS RESERVED.
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②┃ 『22年目の告白 -私が殺人犯です-』 ┃
┃ 『Memoirs of a Murderer』 ┃
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1995(平成七)年01月04日(水) 1番目の殺人 足立区飲食店店主殺害事件 東京連続絞殺事件発生
1995(平成七)年02月14日(火) 2番目の殺人 世田谷区会社員殺害事件
1995(平成七)年03月15日(水) 3番目の殺人 銀座ホステス殺害事件
1995(平成七)年03月31日(金) 4番目の殺人 練馬区病院長夫人殺害事件
1995(平成七)年04月27日(木) 5番目の殺人 大田区警察官殺害事件発生
2010(平成29)年04月27日(火) 午前0時 東京連続絞殺事件 時効
2010(平成29)年04月27日(火) 刑事訴訟法改正「人を死亡させた罪であって死刑に相当する罪(殺人罪など)」の時効が廃止に
2017(平成29)年04月13日(木) ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭
2017(平成29)年04月14日(金) 講談社ノベライズ版 浜口倫太郎 ISBN 978-4-06-293648-4
2017(平成29)年06月10日(土) 日本
2018(平成30)年01月17日(水) 大韓民国
2018(平成30)年06月08日(金)『金曜ロードSHOW!』日本テレビ 21:00~22:54 11.7%
時効後に名乗り出た、殺人の告白。かつて5人の命が奪われ、未解決のまま時効を迎えた連続殺人事件。その犯人が、事件から22年後、突然みずから名乗り出た。会見場に現れたのは、自身の告白本を手に、不敵な笑みを浮かべる曾根崎雅人という男だった。顔をさらし、肉声で殺人を告白する曾根崎の登場にネットは熱狂!賛否両論をまき散らしながら本はベストセラーに。それだけでは終わらない。マスコミを連れての被害者遺族への謝罪、刑事への挑発、そして、サイン会まで。そのすべてがあらゆるメディアを通じて発信され、SNSで拡散されていく。それは、日本中を巻き込んだ新たな事件(ゲーム)の始まりだった……。※本編終了後特典映像あり Rating G (C) 2017 映画「22年目の告白-私が殺人犯です-」製作委員会
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/殺人の告白
https://www.amazon.co.jp/dp/B00GL1TM42
②https://ja.wikipedia.org/wiki/22年目の告白_-私が殺人犯です-
https://www.amazon.co.jp/dp/B0759V3PBG
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┃ 『ぼくたちと駐在さんの700日戦争』 ┃
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2008(平成20)年04月05日(土) 全国公開
‡2011(平成23)年11月08日(火) 初版 ISBN 978-4-09-408661-4
小学館文庫11巻 短編集「スイートピーロード」ほか全13編
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https://www.amazon.co.jp/dp/B00G864BOQ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ぼくたちと駐在さんの700日戦争
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┃ 『野性の証明 “Never Give Up”』 ┃
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┌─――――――――――――┐主演:高倉健 共演:薬師丸ひろ子 舘ひろし
|1978(昭和53)年10月 7日(土)|東映配給
|1978(昭和53)年11月 8日(水)|東京スポーツ新聞社よりコミカライズ版が発行
|1979(昭和54)年12月14日(金)|フジテレビのゴールデン洋画劇場枠で地上波初放送されたが、
└─――――――――――――┘「完全ノーカット」との宣伝にも関わらず約20ヶ所の音声が削除された。削除されたのは「部落」という語だが、本作では単に「集落」の意味合いであり、「被差別部落」のことではない。近年の地上波放映(主に深夜放送)では、「部落」という台詞箇所はノーカットでオンエアされている。2012(平成24)年12月31日(月)NHK-BSプレミアムで放送されたが、首を切断したり、斧で頭をかち割る残酷なシーンが修正なしでオンエアされている。
映像◆https://youtu.be/opxNTfukWyg
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%80%A7%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E
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┃ 東京国際映画祭 (Tokyo International Film Festival) ┃TIFF
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|1998(平成十)年10月31日(土)|第11回 開幕
†|1998(平成十)年11月 8日(日)|第11回 閉幕
└─――――――――――――┘グランプリ受賞作品・・・『オープン・ユア・アイズ』アレハンドロ・アメナバル監督 スペイン
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC11%E5%9B%9E%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD
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①┃ 9大都市集計 興行収入第①位の映画作品 ┃西暦2003年第45週目
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┌─――――――――――――┐通算1週目
|2003(平成15)年11月 8日(土)|一日目『マトリックス レボリューションズ』
|2003(平成15)年11月 9日(日)|二日目『マトリックス レボリューションズ』
└─――――――――――――┘週末観客動員数・・・
週末興行収入・・・・・
備考・・・9大都市(東京 横浜 川崎 大阪 京都 神戸 名古屋 福岡 札幌)で集計の興行収入第①位の映画作品であるヨ(=^◇^=)
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②┃ 日本週末興行成績第①位の映画作品 ┃西暦2008年第45週目
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┌─――――――――――――┐通算2週目
|2008(平成20)年11月 8日(土)|一日目『レッドクリフ Part I』
|2008(平成20)年11月 9日(日)|二日目『レッドクリフ Part I』
└─――――――――――――┘週末観客動員数・・・
週末興行収入・・・・・
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③┃ 日本週末興行成績第①位の映画作品 ┃西暦2014年第45週目
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┌─――――――――――――┐通算週目
|2014(平成26)年11月 8日(土)|一日目『』
|2014(平成26)年11月 9日(日)|二日目『』
└─――――――――――――┘週末観客動員数・・・
週末興行収入・・・・・■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
****** http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=78345
①http://ja.wikipedia.org/wiki/2003%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%80%B1%E6%9C%AB%E8%88%88%E8%A1%8C%E6%88%90%E7%B8%BE1%E4%BD%8D%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
②http://ja.wikipedia.org/wiki/2008%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%80%B1%E6%9C%AB%E8%88%88%E8%A1%8C%E6%88%90%E7%B8%BE1%E4%BD%8D%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
③http://ja.wikipedia.org/wiki/2014%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%80%B1%E6%9C%AB%E8%88%88%E8%A1%8C%E6%88%90%E7%B8%BE1%E4%BD%8D%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
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①┃ 9大都市集計 興行収入第①位の映画作品 ┃西暦1998年第45週目
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┌─――――――――――――┐通算2週目
|1998(平成十)年11月 7日(土)|一日目『踊る大捜査線 THE MOVIE』
|1998(平成十)年11月 8日(日)|二日目『踊る大捜査線 THE MOVIE』
└─――――――――――――┘週末観客動員数・・・
週末興行収入・・・・・
備考・・・9大都市(東京 横浜 川崎 大阪 京都 神戸 名古屋 福岡 札幌)で集計の興行収入第①位の映画作品であるヨ(=^◇^=)
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②┃ 日本週末興行成績第①位の映画作品 ┃西暦2009年第45週目
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┌─――――――――――――┐通算2週目
|2009(平成21)年11月 7日(土)|一日目『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』
|2009(平成21)年11月 8日(日)|二日目『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』
└─――――――――――――┘週末観客動員数・・・
週末興行収入・・・・・
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③┃ 日本週末興行成績第①位の映画作品 ┃西暦2015年第●週目
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┌─――――――――――――┐通算週目
|2015(平成27)年11月 7日(土)|一日目『』
|2015(平成27)年11月 8日(日)|二日目『』
└─――――――――――――┘週末観客動員数・・・
週末興行収入・・・・・■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
************************ http://www.uta-net.com/song/78345/
①http://ja.wikipedia.org/wiki/1998%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%80%B1%E6%9C%AB%E8%88%88%E8%A1%8C%E6%88%90%E7%B8%BE1%E4%BD%8D%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
②http://ja.wikipedia.org/wiki/2009%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%80%B1%E6%9C%AB%E8%88%88%E8%A1%8C%E6%88%90%E7%B8%BE1%E4%BD%8D%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
③http://ja.wikipedia.org/wiki/2015%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%80%B1%E6%9C%AB%E8%88%88%E8%A1%8C%E6%88%90%E7%B8%BE1%E4%BD%8D%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
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┃ 『松田優作特集生誕60年・没後20年 』 ┃
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┌─――――――――――――┐
|2009(平成21)年10月22日(木)|松田優作過去ニュース『日刊スポーツ』更新
①|1989(平成元)年11月 8日(水)|松田優作さん、がんを知っていた
└─――――――――――――┘個性派俳優・松田優作さん(享年39=本名同じ)のぼうこうがんによる急死から一夜明けた7日、その壮絶なまでの生きざまが浮き彫りとなってきた。松田さんは昨年9月にがんの告知を受けながらも、美由紀夫人(28)に隠し続け、夫人も病名に気付きながらも明るく振る舞ってきた。遺作となった映画「ブラック・レイン」の完成にすべてをかけた結果だった。東京・三鷹の霊泉斎場で営まれた通夜には800人を超す関係者が参列した。葬儀・告別式はきょう●8日正午から、同所で行われる。
勝新太郎、吉永小百合ら日本の俳優を代表する顔ぶれがズラリと、通夜にそろった。800人を超す参列者。どの顔もあまりに突然の松田さんの死にこわばり、口を突くコメントも憤りにも似た悲しみの言葉ばかりだった。池上季実子は「バイオリンの弦のようにいつも張りつめ、美しい音を出す人でした。あんなにすばらしい人が39歳で亡くなるなんて、残酷すぎます」と唇をかみしめた。ひきもきらぬ弔問客が続く中、美由紀夫人の時折笑顔さえ見せる気丈さが際立っていた。焼香の時には3人兄弟の一番下の女の子(2)を左手で抱き上げ、二人の男の子(6歳、4歳)を連れ立ち上がり、父の死を理解しないで笑顔で遺影を見つめる子供たちの頭を、一人ひとり手で押し下げていた。泣き崩れる弔問客には微笑みかける落ち着いた対応さえ見せた。むろん、張りつめた気持ちで無理に無理を重ねた姿勢である。松田さんは最期まで美由紀さんにがんの事実を伝えようとはしなかった。「気苦労をかけたくないし、勝負作”ブラック・レイン”の演技にすべてを注ぎたい」。夫のそんな気持ちを察し、本当の病名を知りながらも、気付かないふりをしてきた夫人の”悲しい演技”の延長でもあった。
松田さんがぼうこうがんの摘出手術に成功。一度はがんを克服したかにみえたのは2年前のこと。ところが公開中の「ブラック・レイン」を撮影中だった昨年の9月27日、尿に血が混じり痛みを感じて都内の病院で検査を受けた。そこでがん再発が明らかになった。診察した医師は「その場でがんを告知しました。松田さんは一度ぼう然としましたが、すぐに女房には絶対言わないでくれ、心配をかけたくない、と落ち着いた口調で言いました」と当時を語る。同医師によれば、「この一年間はかなり激しい痛みの連続だったはずだ」という。それでも松田さんは、そんなことを妻の前ではひた隠しにし続けた。所属事務所社長の黒沢満氏は言う。「昨年来、優作は家族の前でも僕らの前でも、”前向き”という言葉をよく使いました。今から思えば、心配をかけまいと必死だったんですね」。一方、夫の明るさの中にも異常を感じ取った美由紀さんは、今年9月28日、意を決して病院を訪れた。そこで医師からぼうこうがんの再発を聞いた。しかし、夫に対してはそのことをおくびにも出さずに、臨終の際まで二人の愛情あふれた”うその交換”は続いた。松田さんは、死の瞬間を冷静なまでに待ち受けていた。昨年12月、映画関係者を集め自宅でパーティーを開いた。いつも通り明るく振る舞う夫妻だったが、松田さんのある発言に奇異な感じを受けた出席者もいた。「お経を毎日2時間読んでいるんだ。禅寺にも時々行っているよ」。悟りを開こうとするかのような行動を知っても、それががんと闘う手段でもあり、死を待つ心境を平静に保つものであることは、だれも気付かなかった。美由紀さんはこの日の取材にはこたえなかったが、医師は「優作さんは最後まで”世のためになることをしたいなあ”と、家族の前では前向きの姿勢を崩しませんでした」と証言する。がんの告知後も、米ニューヨークの撮影現場に復帰した松田さんは、押しとどめようとする担当医に対し、国際電話で「今やっている映画は僕の生涯をかけた作品なんです。最後までやらせて下さい。それよりもずっと血尿が止まらないんです」と訴えかけていたという。その時点で手術をするか、撮影に入って命を縮めるか、選択を迫られていた。文字通り、命と引き換えに撮影した松田さんにとっては、最初で最後のハリウッド映画となった。 祭壇に飾られた松田さんの遺影は右ほお側から写したもので、その顔はにっこりとほほ笑んでいる。約1年前に雑誌のインタビューで撮影された写真で、生前、松田さんのお気に入りのポートレートだった。戒名は天真院釋優道(てんしんいんしゃくゆうどう)と付けられた。松田さんに別れを告げることを惜しむように、小雨の降る中、参列者は午後10時まで絶えることがなかった。
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|2009(平成21)年10月22日(木)|松田優作過去ニュース『日刊スポーツ』更新
②|1989(平成元)年11月 8日(水)|国際派目前で…
└─――――――――――――┘松田さんは、国際俳優への第一歩を踏み出した矢先の急死だった。来年には40歳を迎え、伸び盛りの時期だっただけに、その死は、かつてのジェームス・ディーンの事故死にも匹敵する深刻な衝撃を日本の映画界に与えた。東京・三鷹市の霊泉斎場で行われた通夜の場は、文字通り日本の映画界を代表する一線級の俳優・スタッフが大集合する形となった。これは松田さんの俳優としての大きさだけでなく、まさにハリウッド界へ第一歩を踏み出したその矢先という、あまりにも惜しまれる死だったからだ。米国に次いで先月14日から日本公開となった『ブラック・レイン』(リドリー・スコット監督)では、オスカー俳優のマイケル・ダグラス、日本を代表する高倉健と互角以上の共演ぶり。松田さんが演じた日本の冷血でハ虫類を思わせるようなヤクザのキャラクターは、ニューヨークタイムズをはじめ米国マスコミの絶賛をうけた。所属事務所の黒沢満社長によれば「ハリウッドのプロデューサーから次回作の話が持ち込まれたが、体調不良を理由にペンディングにしていたんです」という。松田さんが『狼の紋章』(松本正志監督)でデビューした昭和48年は、邦画界が斜陽のどん底にあった時期。制作費削減などの制約を受け、文字通り”妥協”映画作りが進行する中、数少ない一徹なまでの映画作りに打ち込んだのが松田さんだった。アクション映画の名コンビといわれた村川透監督とも、舞台裏ではあわや取っ組み合いとなりそうな激しい討論の連続。そんな中で最後は自分の意思を通し、アクの強いアクションスタートしての地位を確立した。だが、昭和50年代後半ごろからアクション映画の人気にかげりが見えてくると、58年には2歳年下の森田芳光監督による「家族ゲーム」で見事な演技派として再生した。自己主張はとことん通すが、それが時流に合わないと見るや、路線変更をする柔軟さも備えていた。その後は同じ森田芳光監督の「それから」、吉田喜重監督の「嵐が丘」と文学作品が続き、演技派としての地位を確立。そして「ブラック・レイン」で3回目の飛躍を遂げようとした矢先の死だった。ジェームス・ディーンがハリウッド映画の隆盛期の中でのびのびと演技をし、亡くなっていったのに対し、松田さんはそれまでの悪条件の中で個性を磨いた対照的な生きざま・死にざまといえそうだ。
┌─――――――――――――┐
|2009(平成21)年10月30日(金)|『松田優作特集生誕60年・没後20年 』松田優作関連ニュース 更新
③|2009(平成21)年10月30日(金)| 般若心経を唱え悟りの境地に至ったのか
└─――――――――――――┘写真◇「無」と刻み込まれた松田優作の墓「無」と刻み込まれた松田優作の墓
アクションスターとして世界に羽ばたこうとした、その矢先に人生を閉じた松田優作。荒々しいそのイメージとは懸け離れた素顔がある。ひたすら般若心経を唱えながら、彼は何を考え、どう生きようとしたのか。西多摩の霊園にその墓を訪ねる。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 般若心経の最後に、こんな呪文(じゅもん)がある。マントラと呼ぶ。「ぎゃーてー、ぎゃーてー…」で始まるそれの、およその意味は「行きて、行きて、悟りの彼岸に行きて、悟りの極みに行きて、悟りよ幸あれ、ここに、知恵の完成に至る者の心を終える」と、解釈するようである。
1984(昭和59)年1月16日(月)、松田優作の母かね子が亡くなった。般若心経を唱え始めたのはこの時からである。未婚の母として、女手ひとつで育ててくれた母親の死。葬儀に立ち会ったある女性宗教家の何げないひと言に心を打たれたからだという。
「般若心経の写経と座禅を始めてから、いろんなものが見えてくるようになった。先月、寺で座禅を組んだんだが、悟りの境地まで、あと一歩のところまでいった」と言った。前妻松田美智子との会話である。「俳優の仕事は、悟りに至るまでの道程だと思っている」と聞かされたとき、美智子はこの男が一体、どこへ行こうとしているのか、広漠とした思いに駆られた。「悟り」という、その言葉の真意をつかみかねたからである。亡くなる前年、88年12月25日のことだった。
3カ月前の1984(昭和59)年9月24日(月)、松田は家族とともに、山梨・赤石温泉に出かけた。その帰り道、車の中で「トイレがつらい」と訴え、血尿をみた。荻窪の病院に着くなりストレッチャーに乗せられ、応急処置を受け、そのまま入院した。
ぼうこうの中ををのぞくと3カ所から出血が認められ、ぼうこう外側上部にできる壁がんと認められた。さらに調べると骨盤に向かってがん細胞が増殖する上皮肉がんと判明した。CTスキャンで見ると、すでにぼうこうの4分の1が侵されていた。兆候は86年ころからあった。しかし「少々の傷はツバでもつけときゃ治る」と育ってきた松田にとって手術を受け入れるはずはなかった。定期通院と副作用の少ない抗がん剤、制がん剤の併用で撮影に向かった。死は確定していた。初のハリウッド進出作品、自らの死によって見ることのなかった映画「ブラック・レイン」のクランクインが迫っていた。
散歩の途中、神社を見つけると般若心経を唱えた。「お経は神社じゃなくてお寺でしょう」と近くの者がいさめると「信じて唱えるぶんには、お寺も神社も関係ない。おれには般若心経しかないからな。お前も覚えろ」と勧めた。「心が落ち着くから」というのがその理由だった。
1989(平成元)年、松田が「兄貴」と慕った俳優原田芳雄の母親が急死した。病院から遺体を引き取り、葬儀の段取りをしているときに電話があった。「今、(桃井)かおりと飲んでいるんです。よかったら3人で飲みませんか」という問い掛けに「今それどころじゃないんだ。おふくろが死んだばかりだ」と告げると下北沢から東北沢の、原田の自宅にすっ飛んできた。「あいつはここぞとばかりに般若心経をあげてくれたのです。ありがたかった」と述懐する。原田の家族と、松田と桃井だけの葬式だった。
何事にも妥協を許さなかった松田は、人との付き合い方が極端だった。撮影現場での、監督、スタッフとの対立は枚挙のいとまがない。映画「誘拐報道」の出演依頼に「子供を誘拐するような役はやりたくない」と断り、伊丹十三の「お葬式」では「(伊丹は)あいつは知識人ではあるけど、それだけだ。知性がないんだよ」と切り捨てた。キャリアの割に、作品の少ない俳優だった。
そのいら立ちは作品だけでなく、自分の、俳優としての生き方を問い直すことになった。アクションスターとして売り出したにもかかわらず「大の男が、おもちゃのピストル持って、昼の日中から一体何をやっているんだと。いったん、しらけてしまうと、こんなばかげたことはないぜ。へたなウソにはもう付き合いたくない」。本物のアクション映画がやりたかった。いつの間にか芝居の出来る俳優として期待され〝芸術〟を求められると、さらにストレスは高まった。未消化の自分にいら立った。
だから、般若心経だったのか―。「兄貴」原田はその心中を推し量る。「般若心経を唱えるのは、肉体的な重労働のようなもので、畑を耕したり、道を掘ったり、青空の下で大汗をかく、それと同じでしょう。何かを得ようということではなく、それをすることで自分の臓物をすっからかんにする。天があって地があるとするならば、天上から地まで突き通すように空気を流したい。内臓から何から全部取っ払って、外も内も気持ち良く風を通したいということでしょう。(中略)般若心経を唱えることが宗教的な感情であることは確かだとしても、宗教そのものではなかった」。
●1989(平成元)年11月8日(水)、東京・三鷹の霊泉斎場で松田の告別式が執り行われた。原田が弔辞を読んだ。
「優作。おれは今までお前が死ぬとこを何度も見てきた。そしてその度にお前は生き返ってきたじゃないか。役者なら生き返ってみろ! 生き返ってこい!」。
短い、しかし絶叫に近かった。(敬称略)【石井秀一】
☆参考資料「松田優作クロニクル」(キネマ旬報社)、「永遠の挑発 松田優作との21年」(松田麻妙)、「越境者 松田優作」(松田美智子)ほか。
☆松田優作の墓 西多摩霊園(東京都あきる野市菅生716、電話042・558・7731)に眠る。JR青梅線福生駅下車。西口から無料送迎バスが出ている(平日1時間に1本、土日、祝日は2本)。15分ほどで霊園に着く。正門近くに霊園内バスがあり、5番停留所で下車、32区の標識近くの坂を上ると、樹木に覆われた西洋風平板状の墓が見つかる。墓石にはただ1文字「無」。般若心経の経文に頻繁に登場する「無」「不」の文字のうち、ひとつを採用したと思われる。
墓石の裏側が墓誌と思われ「天真院釈優道居士」が確認できる。
松田を一躍人気者にしたのはやはり日本テレビでの「太陽にほえろ!」でのジーパン刑事役だろう。ラストシーンは自分が助けた青年に拳銃で腹部を撃たれる。「なんじゃ、こりゃあ」と叫んで死んでゆく。このセリフは当初から予定されていたものではなく、松田の創作だった。
そしてもうひとつ、現実の死。松田が亡くなった1989(平成元)年11月6日(月)、元妻の松田美智子は友人と会うために銀座へ出かけた。その出がけ、なぜか愛用の腕時計が動かなくなり、立て続けにストッキングが2足伝線した。息を引き取った午後6時45分、修理を頼んだ時計屋へ出向いたが、腕時計は何の修理もしないのに動きだしていた。後に美智子は作家として独立を決意した。「ものを書いて生きてゆくつもりなら、まず、俺のことから始めろよ」と言われた。洗いざらい描き出す可能性を示唆すると「怖いね。けどいいさ。おまえに書かれるのなら本望だよ」―。
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|2009(平成21)年11月12日(木)|松田優作関連ニュース『日刊スポーツ』更新
④|1989(平成元)年11月10日(金)|美由紀さん「私が力づけられた」
└─――――――――――――┘故松田優作さん(享年39)の告別式から一夜明けた9日(木)、夫人の美由紀さん(28)が東京・杉並区善福寺の自宅で取材に応じ、勇気を持ってがんと闘った生前の松田さんについて語った。美由紀さんは、松田さんのがんについて「こんなにひどいと分かったのは最近でした」と言う。松田さん自身は最後の最後までしっかりしており「私がすぐメソメソし、本当にさみしくてつい甘えるものですから、“くだらないことは考えるな”と逆に怒られ、力づけられました」。やつれきった表情で一言一言をかみしめるように語った美由紀さんだが、最後は「主人は私がこういう場に出るのは好きじゃなかったのですが、ファンの方々にありがとう、と伝えたかった。優作はたくさんの映画を残し、これからも長く生きております」と自分で再度確認するかのような言葉でしめくくった。また、8日TBSで放送された代表作『家族ゲーム』(森田芳光監督)は22.5%(ビデオ・リサーチ調べ)の高視聴率を記録。遺作となった映画「ブラック・レイン」も客足が伸びている。東京・新宿スカラ座では、一日300人だった入りが、9日は1300人に。同館では、今週末にも「松田さんのあまりにも若い死を悼み、哀悼の意を表します」の内容の看板を新たに出す。死を悼む声はいまだやまず、最後の仕事、日本テレビ「華麗なる追跡」で共演したフロレンス・G・ジョイナーから美由紀さんあてに弔電が届いた。文学座の同期にあたる阿川泰子は12日に追悼再放送する『オシャレ30◆30』(8月20日放送分)再編集部分で「優作はがんのことを知っていて、お別れに来てくれたのね」と涙ながらに語った。
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|2009(平成21)年11月12日(木)|松田優作関連ニュース『日刊スポーツ』更新
⑤|1989(平成元)年11月 9日(木)|優作さん置いて行かないで美由紀さん号泣
└─――――――――――――┘ぼうこうガンで急死した松田優作さん(享年39)の告別式が●8日(水)、東京・三鷹市の霊泉斎場で行われた。夫の闘病を笑顔で励まし、死後2日間、気丈に参列者に応対してきた美由紀夫人(28)も出棺の際には号泣。2000人に及ぶ参列者の涙を誘った。葬儀社のスタッフもハンカチを目に当て、取材陣の多くが思わず涙した。出棺直前の“お別れ”の時、「私を置いて行かないで」と夫人は遺体にすがりついた。それまで父親の死を理解できなかった長男の龍平くん(6)と次男の翔太くん(4)も母親の涙に誘われるように「置いて行かないで」とつぶやきながら大粒の涙をこぼした。長女・夕姫(ゆうき)ちゃん(1)も笑顔を消し、ぼんやりとした顔になった。がんと闘う夫を笑顔で支え、その“演技”の延長のように7日(火)の通夜の席では涙を見せなかった夫人が、こらえ切れなくなって初めて見せた心のうちだった。続く遺族代表のあいさつで、夫人は「みなさん、いつまでも心の中で優作のことを忘れないでください」と絞り出すような声で訴えかけた。葬儀後、取材に応じた夫人は「夫は私に3人の子どもという最大の宝を残してくれました。本当に素晴らしい人でした」と、淡々と語った。棺の中には、「遊戯シリーズ」「家族ゲーム」など出演作の中で本人が気に入っていた10本のビデオ、愛用のサングラスに、作ったばかりのオフホワイトのスーツが入れられた。身長185センチの松田さんの遺体は近くの多摩葬祭場で、通常よりも35分長い1時間15分で骨になった。アクション作品の多かった松田さんが多額の生命保険に入ったことは間違いないが、3人の子どもを抱えた夫人の女優復帰も関係者の間で取りざたされている。前妻の美智子さんとその娘(10)の姿はこの日も見掛けられなかったが、未明に取材陣を避けるように遺体と対面した高倉健をはじめ、桃井かおり、原田芳雄、水谷豊・伊藤蘭夫妻ら関係者700人を含む2000人が葬儀に参列した。友人代表としてあいさつに立った原田は「“なんだ、これは”(「太陽にほえろ!」で松田さんが死ぬときのセリフ)とか、何度も死ぬ役やっているじゃないか。生き返ってみろ。オレは壮絶な死なんか納得しない。すべてし終わって安らかに死ぬのが当たり前じゃないか…」。最後は言葉にならなかった。実は、松田さんの代表作である「遊戯シリーズ」の10周年を記念して来年、仲間が集まって彼の主演映画を製作する話が進行していたほどで、「突然の早世」のやりきれなさは、死後2日を経てももちろんぬぐえるものではなかった。墓地も未定だが、関係者の話によれば、高校を中退して飛び出した故郷・山口県下関市に二十数年ぶりに戻ることになりそうだ。
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|『ブラック・レイン』米で絶賛|
└─―――――――――――――┘松田さんの告別式には、ハリウッドのオスカー俳優、マイケルダグラスから弔辞が寄せられた。彼の遺作となった米パラマウント映画「ブラック・レイン」の共演者である。「優作氏との共演は、私の最も思い出深い出来事の一つでした。並外れた才能、常に私にインスピレーションを感じさせてくれる人でした。ご家族の方に哀悼の意を表します」。自筆でサインされたこの文面は、「ウォール街」で知られるこのトップ俳優の“社交辞令”ではない。この映画が、現在でも「バットマン」よりも3ランク上の興行成績11位に位置(米バラエティー誌)する大ヒットをしたからばかりではない。多くの米マスコミが、冷酷な殺人者にふんした松田さんの演技を「文楽の人形を思わせるさめた素晴らしさ」と絶賛している。来年2月に行われるアカデミー賞のノミネートでは間違いなく助演男優賞に名前が挙がると見られている。日本でも12月まで公開予定のこの映画の公開延長が検討されている。
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|ワイドショーは2~3%増|
└─―――――――――――┘松田優作さんの急逝のニュースと、6日深夜自宅を訪れた弔問客の様子などを報じた7日(火)の民放局ワイドショーの視聴率は、通常よりも2~3%高かった。●8日(水)、ビデオ・リサーチ社が発表した数字によると、フジテレビ「おはよう!ナイスデイ」(朝8時半)が10・0%以上と2ケタを記録したほか、午後2時、3時のワイドショーも軒並み8%以上という高視聴率だった。人気個性派俳優の衝撃的な急死であったことや、壮絶ながんとの闘病ぶりがお茶の間の悲しみを誘ったようだ。各局とも追悼番組を用意したが、テレビ朝日は1980(昭和55)年4月29日(火)に、松田さんが出演した際の「徹子の部屋」を1989(平成元)年11月27日(月)、再放送することを決めた。
http://www.johta.com/yusaku/index2.html
①http://www.nikkansports.com/entertainment/yusaku/2009/news/past_news-yusaku05.html
②http://www.nikkansports.com/entertainment/yusaku/2009/news/past_news-yusaku04.html
③http://www.nikkansports.com/entertainment/yusaku/2009/news/news-yusaku17.html
④http://www.nikkansports.com/entertainment/yusaku/2009/news/news-yusaku31.html
⑤http://www.nikkansports.com/entertainment/yusaku/2009/news/news-yusaku32.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%84%AA%E4%BD%9C